デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
1節 儒教
2款 陽明学会
■綱文

第26巻 p.27-31(DK260005k) ページ画像

明治42年3月21日(1909年)

是日、神田錦輝館ニ於テ当会主催学術大演説会開カル。栄一、評議員トシテ出席演説ス。


■資料

陽明学 第六号・第四四頁 明治四二年四月 陽明学会大演説会(DK260005k-0001)
第26巻 p.27 ページ画像

陽明学  第六号・第四四頁 明治四二年四月
○陽明学会大演説会 三月二十一日神田錦輝館に於て開会、大隈伯(演題審かならず、但是が演題)渋沢男(学問と事業)井上(哲)博士(陽明学に就きて所感を述ぶ)三宅(雄)博士(大塩平八郎に就きて)新渡戸博士(陽明学の素人観)の演説あり、非常なる盛会にして、来聴者約千二百名に達し午後五時散会せり、同館開館以来学術演説会として此の如きは未だ曾て有らざる所と云ふ


陽明学 第一六号・第三―六頁 明治四三年二月 学問と事業(演説筆記)(男爵渋沢栄一)(DK260005k-0002)
第26巻 p.27-30 ページ画像

陽明学  第一六号・第三―六頁 明治四三年二月
 - 第26巻 p.28 -ページ画像 
    学問と事業(演説筆記)(男爵 渋沢栄一)
今日 ○明治四二年三月二一日の陽明学会の大会に斯く多数の御来会を得ましたのは、私は評議員の一人として甚だ悦ばしく感謝致すのでございます、殊に主幹の御尽力で大隈伯を始め井上君・新渡戸君・三宅君の如き大雄弁家・大学者の尊臨を得ましたのは、此学会に大なる光彩を添へたる訳で頗る悦ばしきことに存じます、其中に学問の経歴も何もない私が評議員の一人ではありますれども、此演壇に登るのは殆んど今を盛りと咲き匂ふ春の花と、花なき朽葉の色競べをするやうなもので少し権衡を失ひますけれども、私が此に登るに付ては多少理由がございます、勿論多年陽明学を研究したものではありませぬから、陽明学会に別段所見を御披露することは出来ませぬが、自分の聊か経験して居るところのものを一言述べて大方諸君の御批判を請ひ、会集御一同の御参考に供したいと思ひます、前日来風邪で声が嗄れて居りますから遠方まで私の微意が透徹致さぬかも知れませぬが、其辺はどうか御諒承を願ひます。
王陽明と云ふ人は明の学者であつて事業家である、篤く孔孟の教へを奉じ、一方には種々なる事業をなした人であると云ふことは、実は最初から知らなかつたのでありますけれども、近頃此学会が起りましたに付て王陽明の伝記其他の事蹟を取調べられて学会の報告に出ましたので、僅かに知ることを得たのであります、私は漢学を幼少の時に学びまして、朱子学に依りて四書即ち大学・中庸・論語・孟子を聊か研究して居ります、殊に論語は最も好んで読み居るところのもので、之を儒教の本尊様と立てゝありますが、私もやはり之を自分の本尊様として居るのであります、併し私は其方の学者ではありませぬ、そこで王陽明と云ふ人は儒教を以て世に立ちながら、此儒教と事業と全く一貫せしめたと云ふことに付ては、頗る観察すべき点があると私は予て思ふて居りましたのであります、而して此儒教の経歴に付て段々取調べて見ますと、孔孟の学問と云ふものは漢唐より漸々変化致しまして宋朝の理学の盛んなるに従つて、遂に学問と事業とは全く隔離して了ひ、学者は事業をなす者でなく、事業家は学問のあるものでないと云ふやうに推移した様に思はれます、殊に宋朝あたりは、其有様が頗る激しくなつて居ると思ふ、私は嘗て孔子祭典会に於て、実業家より見たる孔夫子と云ふ演題に依り、孔子の教へと云ふものは吾々商売の事を経営するに付て直接に用ひらるゝ教法であり、用ひらるゝ主義である、然るに支那学者、就中宋朝の儒者、日本に於ても宋朝儒者の学説を奉じた学者と称へる種類の人は頻りに学問と事業とに別け隔てをつけて、孔孟の教と商工業者との間に大なる城壁を築きたるために、吾吾日常行ふところのことが孔孟の教旨と大なる相違のある如き有様をなさしめたのは、蓋し孔子が悪いのでなければ商工業者が悪いのでもない、其中間に入り居る腐儒者が悪かつたと云ふことを考へたのであります、此疑ひに付て私は王陽明と云ふ人が全く城壁を築かず、否城壁を築かぬばかりでない、学問と事業を十分に調和して併行せしめた人と思ひました、私は陽明の学に深き講習をなして居りませぬし、陽明の履歴に就ても精しく取調べたこともなし、其一方の学者でもない
 - 第26巻 p.29 -ページ画像 
学問すべき余力もない、然るに此陽明学会に加入して陽明の学理を攻究することを求めたのは左様な趣意でございます、言を換へて申上ますると、今日経営致して居る実業上のことが、例へば王陽明が国に乱賊があれば之を討伐するとか、四方を能く治め国家の基礎を鞏固にすると云ふやうな手柄と学問と共に為し得る如くに、実業者も亦孔孟の儒教を其儘講習しつゝ、事業を立派に経営することが出来るものであらうと思ふては居りましたものゝ、聊か懸念して居りましたところが果して然り、王陽明はまさか銀行はやらなかつたやうである、又会社を経営するやうな私共のやつて居ることゝは少し違ふやうではありますけれども、学問と事業とを全く混同活用した人であると云ふことが其歴史上明かであるなれば、吾々商売人が孔孟の教旨を以て王陽明がやつたと同じやうになし得ることが必ず出来るものであらうと斯様に信ずるのであります、そこで私は此陽明学会と云ふものに深き趣味を生ずるやうになりまして、どうか王陽明の学説を十分に攻究して、果して私が常に思ふて居る如き所まで往けるものであるか、と云ふことを、今後猶ほ識者に質して、其教へを請はんとして居る次第であります、私が今日更に玆に申述べて其事を確めたいと思ひますのは、先づ第一に学問と事業、第二に道徳と富、此二種の関係に付て充分論究しなければならぬかと思ふのであります、元来欧羅巴の学問は皆な所謂る経世実用の学でありますから、学問即ち事業であり、事業は即ち学問に支配されるものである、と先づ大体に於てはなつて居る、併し其欧羅巴より取りたる実用の学問に於てすら、猶ほ学理と実際には大衝突を惹起することが毎々あります、或は英吉利であれ仏蘭西であれ、アノ通り学理と実際を密着せしめて居る国柄と雖も猶ほ其弊がないとは申されぬ、況んや旧き漢学、即ち儒教の学問と事業と云ふものは大に懸け離れて殆んど事業家は学問を知らず、学者は事業をなし得られぬものと云ふやうに思ふて居つた、我邦に於ては蓋し免れぬことゝ言はなければならぬ、玆に於て古来学者と云ふ方の側と事業家と云ふ方の側とは殆んど趣きを異にして、学者は事業が出来ず、事業家は学理を知らずと云ふ有様に経過して居りました、それと同時に前に申した道徳と富と云ふものが、始終併行しかねて居るのであります、既に孟子の言葉にも富をなせば仁ならずと云ふやうなこともあつたと思ひますが、是は頗る経庭あるが如き感があります、元来此道徳と云ふものが、左様に貧乏たらしいものであると考へるのは大なる間違であつて若し道徳が唯だ「飯疏食飲水。曲肱而枕之」と云ふだけであるならば道徳ほど詰らぬものは世の中に無い訳であります、試みに道徳の功能を挙げて見ると、論語に多分子貢の問であつたと思ひますが、如し博く民に施して能く衆を済ふ有らば如何ん、仁と謂ふ可き乎と云ふ問に孔子が対へて曰く、何事於仁。必也聖乎。尭舜其猶病諸。と言はれました、博く民に施して能く衆を済ふ者あらば何如、斯様なことが真正なる道徳である、而して博く民に施し、衆を済ふと云ふやうなことは唯だ疏食を飯ひ水を飲み肱を曲げて枕とすると云ふやうな訳では出来るものではありませぬ、今挙げた言葉は不義にして富且貴きは於我如浮雲と云ふことを申したいために、飯疏食飲水。曲肱而枕之。楽亦在
 - 第26巻 p.30 -ページ画像 
其中矣。と言ひ、不義にして富貴なるは蓋しそれより劣ると云ふ反対語である、真正の道徳と云ふものは決して左様な見窶らしきものではないと云ふことを、孔子如き人が知らぬ筈はないのであります、故に道徳と富とは決して左様に離るべきものでないけれども、不義でも構はぬと云ふ論になるから「亦有仁義而已矣」と孟子も言はれたのであらうと思ひます、前にも申す如く、事業と学問と動もすれば懸隔たる如くに、道徳と富と云ふものに於ても兎角間違ひを生じ易く疎隔したるものとなることは、古今東西を問はず免れぬことゝ思ひます、此貨殖とか理財とか云ふ事柄に付ては、どうしても己れの利を計ると云ふことが主義となる為めに、常に仁義道徳を失はぬやうにすることが仕難いやうになり、我利是れ努むと云ふことになると従つて此物質的の知識が進み、種々なる利用厚生の事業が増して往くと同時に道徳心が衰へて来ると云ふことを今日世を挙げて痛歎するのは、是は今私が申上るやうな弊害で、いつの世にも免れぬものであると考へなければならぬ。蓋しそれは一方も真正なる富でなし、又一方も真正なる道徳でないから起るので、若し是れが完全なる学問に依り、完全なる事業をなすことなれば、学問と事業が一致すると同時に、道徳と富も必ず併び行くことの出来るものであると云ふことは私の申上るに躊躇せぬのであります、玆に於て私は此陽明学を世の中に大に鼓吹し、私自身も亦学理を充分に攻究して見たいと思ふのであります、一方には世の中の学問が漸々拡張して、商業に工芸に種々なる物質が進んで参ると共に自然其間に於て道徳とか仁義とか云ふものに遠くなると云ふことは吾人共に憂ふる所であります、併し是は其事に処する人の心掛が悪いと申さなければならぬので、真正なる富は道徳を離れて行はるべきものでない、又前に申す如く学問と事業と懸隔するものでなく、学問は学問として独り立ちするものでないといふのは、決して私の無理な推断ではなからうと思ひます、斯様な見解を以て陽明学を攻究して参りましたならば、世の中に於て多数の人の憂ふる弊害をも防ぐことが出来て道徳と富と併び行はれ、事業と学問と隔離せぬやうになり得るであらうと信じますために、此陽明学会に加入致して尚ほ其道理を攻究致したいと思ふのであります、満場の諸君の多くは事業家であらうと推察致します、果して左様なればどうぞ陽明学の攻究に依りて、道徳と富と学問と事業との益々一致して参るやうに御尽力を請ひたいと思ひまして一言希望を述べ、諸君の御参考に供します。(拍手)


青淵先生公私履歴台帳(DK260005k-0003)
第26巻 p.30 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴(明治二十五年以後)
一陽明学会評議員
  以上明治四十二年六月七日迄ノ分調



〔参考〕(東敬治) 書翰 渋沢栄一宛 (明治未詳年)一一月一七日(DK260005k-0004)
第26巻 p.30-31 ページ画像

(東敬治) 書翰  渋沢栄一宛 (明治未詳年)一一月一七日
                     (渋沢子爵家所蔵)
昨日ハ尊顔を拝し、陪御健勝之御様子ニ御察申上悦入候、其際陽明学会賛助金貴家御持口之事一応取調可申御答申置たる様存調候ヘハ、貴
 - 第26巻 p.31 -ページ画像 
家ハ五口一口月ニ十円つゝとして年額六百円ニ相違無御座候間、此段御報知申上候猶其他講義場処及岩崎男爵方意向御聞被下候事、共ニ御遺忘無之様奉願候 不乙
  十一月十七日
                        敬治
                            拝
    渋沢青淵閣下
            賜覧



〔参考〕陽明学 第一八号 明治四三年四月 第二回篤志出金者(DK260005k-0005)
第26巻 p.31 ページ画像

陽明学  第一八号 明治四三年四月
    第二回篤志出金者
一金六百円    男爵 渋沢栄一君
  但、内三百円は明治四十三年十二月までに分納、余三百円は明治四十四年・同四十五年の二箇年間に分納
○下略



〔参考〕陽明学 第五七号 大正二年七月 陽明学会篤志出金者(DK260005k-0006)
第26巻 p.31 ページ画像

陽明学  第五七号 大正二年七月
    陽明学会篤志出金者
一金六百円    男爵 渋沢栄一君 ○陽明学第六号明治四二年四月一日誌上ニ始テ現ル
○中略
  但右二氏共に完納済
○中略
    第二回篤志出金者
一金六百円    男爵 渋沢栄一君 ○陽明学第十八号明治四三年四月一日誌上ニ初見
○中略
  右共完納済
○下略