公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第26巻 p.63-64(DK260018k) ページ画像
明治40年4月(1907年)
是月栄一、東叡山寛永寺ノ檀家総代ニ推サル。
青淵先生職任年表〔(未定稿) 昭和六年十二月調〕 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一三頁 昭和六年一二月刊(DK260018k-0001)
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青淵先生職任年表 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一三頁 昭和六年一二月刊
明治年代
年 月
四〇 四 ―寛永寺檀家総代―昭和六、一一。
○大倉喜八郎トトモニ直接寛永寺ヨリ懇請セラレテ檀家総代タルコトヲ承諾セラル。任期六ケ年ト定メラレタルモ別ニ改選等ハ行ハレズ、終身総代トシテ陰ニ陽ニ尽サレタリト執事ノ談話アリ。(昭和一八年二月)
渋沢栄一 日記 明治三二年(DK260018k-0002)
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渋沢栄一 日記 明治三二年 (渋沢子爵家所蔵)
二月二十六日 晴
○上略 寛永寺僧来リテ寄附金ノ事ヲ依頼ス ○下略
雨夜譚会談話筆記 上・第一七頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK260018k-0003)
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雨夜譚会談話筆記 上・第一七頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
(渋沢子爵家所蔵)
第一回 大正十五年十月十五日午後五時より 於飛鳥山邸
○上略
増田「血洗島の方は真言で御座いますか」
先生「国は真言宗である。天台宗に変つたのは別に理由はない。たゞ慶喜公との関係で、寛永寺の檀家になつたので、上野に墓地があつたからでもある」
○下略
○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢敬三・増田明六・白石喜太郎・高田利吉・岡田純夫。
雨夜譚会談話筆記 下・第八七九―八八〇頁 昭和二年一一月―五年七月(DK260018k-0004)
第26巻 p.63-64 ページ画像
雨夜譚会談話筆記 下・第八七九―八八〇頁 昭和二年一一月―五年七月
(渋沢子爵家所蔵)
第三十一回 昭和五年七月八日 於渋沢事務所
○上略
五、上野寛永寺との御関係に就て
先生「別に深い関係はありません。檀家になつたに就ても、元来私の家の檀那寺は東京になかつた。横瀬の華蔵寺《ケゾー》と云ふのが檀那寺であつた。それで寛永寺は徳川家の檀那寺ではあるしするから、寛永寺を撰んだ迄である。」
篤二「最初は天王寺が檀那寺であつたのを、宝光院様が御骨折になつて、寛永寺に変つたやうに思ひますが、もし宝光院様がおいでになつたらよくわかる事と思ひまます」
○下略
○宝光院ハ千代子夫人(尾高氏)。
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○此回ノ出席者ハ栄一、渋沢篤二・同敬三・渡辺得男・小畑久五郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。
〔参考〕実験論語処世談 渋沢栄一著 第一二九―一三〇頁 大正一一年一二月刊(DK260018k-0005)
第26巻 p.64 ページ画像
実験論語処世談 渋沢栄一著 第一二九―一三〇頁 大正一一年一二月刊
形式の整備よりも精神が根本なり
○寛永寺を菩提所とす
祭如在。(祭るには在すが如くにす。)
これも孔夫子が、形式よりも大切なるものは精神であるといふ意味を教へられた語で、祖先を祀るにしても、眼前に其人あるが如き精神を以てせざれば、如何に祭式を調へても、それは藻抜けの殻同然のものだといふ教である。
私は及ばずながら此の精神を以て我が祖先に対し、我が亡き父母に対することに心懸けて居る。従つて墓地を立派に飾るとかいふことを致さず、たゞ世間並にして置くばかりである。元来私の家は代々古義真言を宗旨とする寺の檀家であつたのだが、私が東京に居住するやうになつて以来、私が徳川家と関係のある都合上より、只今では私も上野寛永寺を私の家の菩提所に定め、同寺の境内には既に先妻の墳墓もある。私も死ねば矢張り其処に参ることになつて墓地が取つてある。さればこそ別にその墓地を立派にして置くといふわけでも無い。たゞ私が渋沢家代々の為に微かな招魂碑を建て、位牌堂を寛永寺の境内に設けた丈けである。要するに祖先より亡父母に至るまでの霊を、在すが如くにして祀らんとする微意に外ならぬ。