デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
4節 キリスト教団体
2款 救世軍
■綱文

第26巻 p.80-86(DK260022k) ページ画像

明治40年4月20日(1907年)

是日栄一、救世軍大将ウイリアム・ブースヲ案内シテ、東京市養老院ヲ縦覧セシメ、畢リテ之ヲ飛鳥山邸ニ招ジ、慈善研究会ノ名ニ於テ歓迎会ヲ開ク。栄一総代トシテ歓迎ノ辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第二二七号・第四〇頁 明治四〇年四月 ○ブース大将歓迎(DK260022k-0001)
第26巻 p.80 ページ画像

竜門雑誌  第二二七号・第四〇頁 明治四〇年四月
    ○ブース大将歓迎
○上略 慈善研究会にては青淵先生並同令夫人、清浦男爵並同令夫人を総代とし、各種慈善事業当事者、報徳会評議員、豊明会員、躬行会・基督教青年会・婦人矯風会・禁酒会等の幹事、司獄官、慈善事業に関係ある官吏・宗教家等を招待し、本月二十日午後二時より曖依村荘に於てブース大将歓迎会を開けり、当日大将は養育院参観の帰途馬車を駆りて来会せられ、午後三時三十分先づ邸園にて撮影し、次で広間に集会し、先生は井深梶之助氏の通訳に依りて歓迎の辞を述べ、大将は救世軍の社会事業に就て剴切なる演説を為し、列席者をして少からざる感に打たれしめたり、当日は生憎の雨天なりしが、大将の演説終る頃雨止みたれば、主客打連れて邸内を逍遥し、茶菓の饗応を受け、午後六時過洋々たる奏楽の中に散会せり


東京市養育院月報 第七五号・第七―九頁 明治四〇年五月 勧話(ウヰリヤム・ブース)(DK260022k-0002)
第26巻 p.80-82 ページ画像

東京市養育院月報  第七五号・第七―九頁 明治四〇年五月
    ○勧話 (ウヰリヤム・ブース)
 左篇は客月二十日来院ありたる救世軍のブース大将が、同日本院職員及び収容者一同に対して試みられたる演説の大意なり。
皆さん、私は此処へ参りましたことを実に幸と思ひます、私は長い間世の中の不幸の人を気の毒に思つて居ます、私の父はカナリ金持ちでありまして、私の家は幸でありました、其後商売がうまくゆかず、夫れから貧乏しました、故に私は貧乏な家の状態を能く知つて居ます、私は神の信仰がよいことであると云ふことを覚悟しました、夫れより後今日まで神の御蔭で、ひもじい人に食を与へ、衣類のなき人には着物を与へ、家の中に住むことの出来ぬ人には住家を与へてまいりました、今私の前に居る皆様には矢張り同情を致します、此処に働いて居らるゝ方々も同じく同情を持て居らるゝでせう、慈善事業の為めに働く方々は、自分の為めでなく皆人の為めと思はるゝが、然しいつとな
 - 第26巻 p.81 -ページ画像 
く自分に大なる喜びが出て来ます、自分が此処に立つて居ましても、貴君方の為に神に祈ります、又此処を去つた後も同じく祈ります、私は子供に何か話しませうか、子供にもわかる話しがある、それは子供でも幸な日を送るものと悲しい日を送るものと二ツある、子供でも大きくなつて嬉しい人になりたいと思ふ人もあるだらう、されど子供の時も喜び、大きくなりても喜ばしい身となるには、心懸けなければならぬことがある、それは能く覚えて置いて貰たい、出来るならば心の中へきざみ込んで置て貰ひたい、私も子供の時母がありまして、其母が教えてくれました、それは幸なる人にならんとせば、よいことをせなければならぬと、母が亡くなりましてからでも、神が常によい人になる様になる様にと仰しやる、人間は死ぬ時にも幸に死ぬには、よい事をしなければならぬ、後の世にも幸を得んとする人は今からよい事をせなければいけません、私も子供の時やりましたから皆さんもなさい、皆さんがよい人になるには三つ大事なことがある、先づ第一が正直、ほんとうの事を話す、悪魔が来て偽りを云はせても之れを云つてはならぬ、互ひに話すにも先生に話すにも何時でもほんとうに話せ、其の次に大事のことは何でも真直にすること、子供の時に人をだましたりわるいことをすると、大人になつて牢屋に這入る人になります、さうすれば幸どころか、悲しい人になります、大変悲しいではありませんか、故に何でも真直になさい、勉強をしなければなりません、何でもどんどんする又先生に教へて頂いたことをやる、勉強すれば人が可愛がる、又御飯も食べられ茶も飲める、御友達も出来てよい家にも住める、故に子供は勉強するがよい、今一つは天の神様を拝むこと、それは心に何でもよい人になりたいと思はなければならん、天の神様何をするがよいと云はれるか、よい人になれ、悪いことを考へぬ様に何時でも正しく役に立つ人になる様にと云はれる、何処でもあの人でなければならんと云はれる様に、此処に居ては渋沢男爵や安達幹事に可愛がられる様にならねばならぬ。
大人に一言申ことがある、後方に居る大きい人達よ、今此処に御出でなさるが人間は心懸け一つで何んにでもなれる、此処に御出にならなければまだ心配で居られたかも知れぬ、病気になられたかも知れぬ、間違に依つて牢屋に入れられたか知れぬ、死んでしまつたかも知れぬ皆さんは正しいことをなさい、正しいことを行へば、また此世によい事が出来る、貧乏よりわるいことがある、貧乏な人に限らず悪い事をする人がある、皆さんは頭を挙げて心懸けて見て居れば、案外によい事が廻つて来ることのあるものである、難義して居つたとて、神に自分の胸の中に来て貰ふことが出来ぬ事はない、安心して世渡りが出来る、さうすれば神は可愛がつて下さる、私は神が可愛がつて下さることを信ずる、私一人信ずるのみではない、皆さんも可愛がつて下さる愛てうものは実にきれいなもので、父や母又は兄弟の愛皆結構であるが、神の愛程よいものはない、それは罪の内から救ひ上げて下さる、前にわるい事があつても、皆折れてよい人間の仲間入が出来、神様の仲間入が出来る、それに就て話しが一つある、或る女の人が死かゝつて居た時、其女は何となく嬉しい顔色をした、傍に居た僧侶は其の女
 - 第26巻 p.82 -ページ画像 
に何が嬉しいと尋ねると、女が言ふには左様で御座います、天国へ行きて何んな幸な身になるだらう、又神と一所に住んだらどんなであらうと思ひますと答へました、アヽ我々はモウ少し生きて居たら、私の様な年寄でもそー思ふ、それは世の中に善いことをして廻はる事は大変に嬉しい、皆さんも長く生きていて下さい、外から来た人にも此処の人にも云ふのです、神様へ御奉公をすると思ふて何でも働く様になさい、今此世に暇を告ぐる共、満足して死ねる様になさい、私は天国に行て、いつ迄も神と住むと云ふ事に就ては神に感謝します、院長閣下並に此処に居られる皆様に幸福のある様に私は祈ります。


東京市養育院月報 第七四号・第一二頁 明治四〇年四月 ブース大将の来院(DK260022k-0003)
第26巻 p.82 ページ画像

東京市養育院月報  第七四号・第一二頁 明治四〇年四月
○ブース大将の来院 救世軍のブース大将は、四月二十日本市の慈善事業参観の為め本院に莅まれたり、当日は尾崎市長を初め山崎庶務課長・渋沢院長も参会あり、午後二時十五分来院院内一覧の後、附属学校第一教室に於て収容者及院の職員一同に対し懇切熱心なる一場の勧話を試みられ、夫れより三時三十分当日渋沢男爵別邸に開かれし歓迎会に赴かれたり。


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK260022k-0004)
第26巻 p.82 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四〇年   (八十島親義氏所蔵)
四月二十日 曇
今日ハ吾男爵ニハ清浦男ト申合ハサレ、慈善協会員十余名ノ人々ト共ニ飛鳥山邸ニテブース大将歓迎会ヲ開カレ、且直接慈善事業ニ関係アル官民百余名ヲ案内セラルヽニツキ、予ハ朝ヨリ飛鳥山邸ニ至ル、カカル清ラカナル人々ノ会合ナレバ、園遊会トハイヘ至テ清楚ナル趣向取リトナシ、庭ニハ番茶及楽隊ヲ備ヘオキ、来客ヲハ落花新緑ノ園ノ散歩ニ随意ナラシメ、軈テブース大将ノ養育院参観ヲ終ヘテ玆ニ来ルヲ待受ケシメシガ、折柄アヤシキ空ハ益々アヤシクナリテ、小雨降リ来リシニハ閉口セシモ、幸ニ差シタル降リトモナラズ、ドーヤラ持チ答《(堪)》ヘシハ仕合ナリキ、軈テ四時前大将来着、少憩ノ後表坐敷ヲ会場トシ、絨氈ヲ布キタル上ヘ一同クツニテ昇ラシメ、大将ハ舞台ニ立チテ約一時間ノ演説アリ、不相変八十歳ノ老翁其元気ハ驚ク計リニシテ、言語ノ内如何ナル放蕩者ニテモ罪人ニシテモ、改心セシメ得ベキ筈ノモノナリトノ経験談、又刑罰ハ其期ヲ極短カクシ其刑ハ極メテ鋭カラシムベシトノ説ノ如キ、大ニ耳ヲ傾ケシメタリ、大将ノ前ニ男爵ノ挨拶ハ例ニヨリテ立派ナ出来、之ハ井深梶之助氏通訳シ、ブースノハ山室軍之助和訳《(山室軍平)》アリ、演説後ブースハ直ニ退帰シ、来客一同ハ大山下ニテ設ケノ茶菓ヲ喫シ、五時半一同解散セリ、予ハ八時帰ル


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK260022k-0005)
第26巻 p.82-83 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年      (渋沢子爵家所蔵)
五月二十二日 曇 暑           起床七時 就蓐十二時
○上略
山室軍平氏来訪ス、病中フース氏来書ノ事ヲ談ス
   ○中略。
五月二十四日 晴 暑           起床七時 就蓐十一時
 - 第26巻 p.83 -ページ画像 
○上略 午前十時半帝国ホテルニ抵リブース氏ヲ送別ス、更ニ転シテ停車場ニ於テブース氏 ○中略 ヲ送別ス ○下略


日本に於るブース大将 山室軍平編 前篇・第七五―八三頁 明治四〇年一二月刊(DK260022k-0006)
第26巻 p.83-84 ページ画像

日本に於るブース大将 山室軍平編  前篇・第七五―八三頁 明治四〇年一二月刊
 ○偉人の足跡
    (一一) 多忙なる一日
 「今朝は 陛下に拝謁の栄を得、午後は養育院に鰥寡孤独を見舞ひ引続き、上流の淑女紳士に、渋沢男爵邸にて会見し、而して今は又、諸君と此処にて相見ることゝなつた」とは、四月二十日(土曜日)の夜、ブ―ス大将が、神田の青年会館に於ける、「軍人及び軍友大会」にて、挨拶の一節である。さても多忙にして、変化多き一日なる哉。
 此日午後二時三十分、大将は馬車を飛して、小石川区大塚町の養育院を訪はるることゝなり。表二階にて暫く休息の後、渋沢男に案内せられて、大教場に赴き。そこにて其院児の為に、一場の講話を試みらるゝことゝなつた。尾崎市長、及び夫人も亦、席に列なられたのである。院児は先づ、同院唖生の教師にて、同じく唖者なる、岩田某の作にかゝる、歓迎の歌を合唱し、大将に敬意を表することゝなつた。
  仰げば高きいさをしを  此世の中にたてまして
  いよいよ栄ゆる君をしも 今日此院に迎ふなる
  我等が心の嬉しさよ   我等が心の楽しさよ
 渋沢男の、簡単なる紹介の辞に次で、大将は最も平易、通俗に、左の如き主意の講話をせられたのである。
   ○講話略ス。
 無心なる児童も、此慈眼愛腸の聖者より、懇切にして、而も解し易き、此の如き教訓を受けては、感動する所なきを得なかつたのである幾度か打うなづきつつ、一語一句に心をこめて、聞洩さじと勉むる有様は、わきで見る目にも、いぢらしく覚えられた。「神よ此頼り少なき数百の児童を祝《めぐ》み給へ」とは、大将と、之に附随る参謀等の心からの祈願であつた。
 大将は養育院より、直ちに王子飛鳥山の渋沢男爵邸に赴かるゝこととなつた。此は兼て渋沢・清浦両男爵の発起にかゝる、警察・監獄・慈善等に関係ある人々の、歓迎会に出席する為めであつた。折柄天かき曇り、軈て微雨を降し初めたが、それにも拘らず、一同は庭園にて撮影し、それより室内に入りて、愈々集会に取かゝることゝなつたのである。渋沢男の歓迎の辞は、井深梶之助氏が之を英語に訳して大将に通じられた。其中に「余は実業界に身を置く者なれ共、徒らに富を作ることを以て目的とせず。一方には、其富を用ゐて、世の不幸なる困窮民を救恤せんことを、心がくる者である。」又「今日、此処に集れる人々は、其執る所の務は異れ共、皆平生慈善博愛のことに志しある人々にて、小ブースともいはるべき人々である」と、いふ如き語があつた。それより大将は、立て、諄々として、一時間余、各方面に亘る救世軍の社会事業のことを説明し、又其窮民救助に関する意見を述べられたのであるが、聴衆の中には多く感極つて泣を飲む者もあつた。清浦男爵の、大将及び渋沢男に対する感謝の演説あり。五時頃会を終
 - 第26巻 p.84 -ページ画像 
へたのである。それより園遊会の用意もあつたが、大将は夜分に今一つ、出席すべき集会があるので、急ぎ暇を告げて帰らるゝことゝなつた。此会の出席者は、土方伯・岡部子・福岡子・後藤男・花房男、吉原・柳沢の両次官、床次・斯波・白仁・小河の四局長、川崎癈兵院長尾崎市長・佐藤進・大倉喜八郎・早川千吉郎・島田三郎・手島精一・村上専精・安藤太郎・根本正の諸氏、鳩山・棚橋・尾崎・三輪田・山脇の各女史等約壱百余名であつた ○中略
又数日後の報知新聞には、次の如き記事を見たのである。
◎渋沢男が大将を導きて、庭園を見せしむるに、大将は花あれども花を見ず、珍卉異草には目も呉れず、唯何物か、覚る処あるが如き顔色にて、庭内を歩み出で、渋沢男に向ひ、「貴君の庭も日があれば、美しく見える。人の心も光があれば、立派です」。
◎廿日 天顔に咫尺したブース大将は、同日養育院を訪ひ、其の足で渋沢男別墅の園遊会に臨み。約一時間半演説するや、茶一杯も喫せずして、主人の男を驚かし、直ちに、青年会館の救世軍々人軍友会に出席して、熱烈なる勧奨演説を為し、其の勇気当るべからざる慨があつた。 ○下略



〔参考〕竜門雑誌 第二三七号・第一八―二一頁 明治四一年二月 救世軍の友としての渋沢男爵(DK260022k-0007)
第26巻 p.84-86 ページ画像

竜門雑誌  第二三七号・第一八―二一頁 明治四一年二月
    救世軍の友としての渋沢男爵
  左篇は一九〇七年九月発行の救世軍機関雑誌「全世界」に掲げられたる記事の反訳文にして、ブース大将と共に日本に来りし一士官の筆に成るものなり
渋沢男爵とは如何なる人であるか、氏は日本経済界の大黒柱の一人である、丹誠にして寛容なる慈善家である、熱心なる勤王家である、而して又ブース大将及び救世軍に対して深き嘆美の情を有せらるゝ人である、特に其社会的事業に対して然りである。
日本に於て渋沢男爵の名は、廉潔てふ語と同意義に認められて居る、財界の如何なる計画にても男爵が之れを主唱せらるゝか、或は裏書き即ち保証せらるれば、其れは推薦状以上の力があつて、誰れでも其計画を確実なりと合点せぬ者はない。 ○中略
男爵は又た注意監督の甚だ綿密なる人である、之れ実業家としての男爵の地位が自から然らしむるのであるが、事柄に依れば左迄での用心はと、眤近の人々が思ふ程であると云ふことだ、然かし之れが渋沢男爵の主義である、而して此綿密周到と云ふことが男爵をして其地位の主人公たらしむる所以である。
男爵は又た、憐むべき貧民に対して深き惻隠の情を有せらるゝ人である、東京に於ける一の広大なる救済所は実に男爵の堅忍なる慈愛心の賜物である、明治維新の数年後、男爵は東京市中に漂泊する幾多の窮民を見て深く其胸を打たれ、之れが救助の手段の確立せらるゝに至るまでは一日も其心を安んぜず、救済事業の急を天下に唱へ、且つ自から率先して多額の寄附をなされたのである、前述の一大救済所は、今や東京市の公設物となつて、泰西の救済的原則及び方法の下に其事業が行はれて居るが、之れ実に渋沢男爵の尽力の結果である。
 - 第26巻 p.85 -ページ画像 
余はブース大将に随伴して此救済所を視察したが、実に清潔な場所であつた、否な其れのみではなく職員は皆な有為熟練なる人々で、然かも経営の方法は自治自営の主義であるのに感服した、少年達には手工を学ばせて居るが、其製作品は市場へも売出されて居る、而して此救済所が今日の発達をなすに至たのは実に男爵の力に由るもので、惟ふに男爵自身も必ずや心私かに自ら慰め喜ばれつゝあることと考へる。偖て渋沢男爵の如き同情心ある紳士が、救世軍に対して同情を持たれると云ふことは、蓋し不思議のないことである、尤も初めは其宗教的基礎に対して余り心を傾けられない様子であつた、社会的事業の背後に宗教的感情が伴ふのは危険であると思はれたのであらう、故に男爵は救世軍に対して所謂超然的態度を採られ、彼の白面奴隷(娼妓のことならん)救済運動の行はれし迄は、未だ救世軍を理解して居られなかつた、然かし此運動は何等の野心なき公平無私の人道的運動で、日本人の心に婦人の高尚なる要求と云ふものを知らしむるの便りとなつたものである、玆に始めて男爵は我等の事業に満足と同情とを持たれることとなつた、而して救世軍の此活動が其目的を達したことも陰れなき事実である。
ブース大将が日本を見舞ふと云ふことが発表せらるゝや、渋沢男爵は在東京のブラード大佐と交渉して、大将が渡来の上は養育院を参観の上、其私邸に来たりて小憩し、且つ当日同邸に参集の人士に対して其広間に於て一場の談話を試みられんことを約束された。
日本のロスシルドと、救世軍の大将とは斯の如くにして面を合はせ、其交誼を固めたのである。
両者の心は一の共通路を辿つて居るものであると云つて差支ない、即ち実際的と称する共通路である、此共通路に於て両者の心は合致して居るのである、大将が日本に於て常に深く考へたことは「如何にせば余は此国民の為めに尽くすことが出来やうか」と云ふ問題で、渋沢男爵の思案は「ブースと云ふ人の活力の秘密は何であるか、且つ如何にせば自己及び自己の事業並に日本の使命を完うせしむるために、ブース君の生涯から参考となるべき知識を蒐集することが出来やうか」と云ふ問題であつた。
大将が男爵邸を訪はれて、其処に留まられたのは極く短時間であつたが、其れにも拘はらず男爵は非常の歓待を尽くされ、且つ巧妙なる楽隊を聘して和洋の奏曲をなさしめ、以て特に大将の訪問を栄えあるものとせられた、当日大将の演説後、渋沢男爵は愛人愛国の士として、其答辞中に左の如き言を述べられた。
 余は余の生命も財産も 天皇陛下の御為め及び日本国の為めに捧げ用ゐんと欲するの外、何等の名誉心も持ちませぬ、我邦の道徳上の危険に就ては、大将の所見と一致するものである、而して此道徳上の危険と云ふものは、物質上の危険よりも一層恐るべきものと考へる、余はブース大将の御演説を有益に承はり、且つ之れを実行したいと思ふものである、大将は戦勝の将軍であられる、理論家ではない、其勝を制せらるゝや、単に帷幄の裡に謀を運らすのみでない、身自から陣頭に立たれて勇敢に戦ひ、而して勝利を得らるゝのであ
 - 第26巻 p.86 -ページ画像 
る、余は大将が其幕僚と共に拙邸に臨まれたるの好意を感謝致します。
此答辞を聴きたるブース大将は、深き感動を禁ずることが出来なかつた、会散じて後、両偉人は美はしき庭園に共に逍遥したのである。
大将が東京を去るに臨み、停車場で握手をした最後の友は渋沢男爵であつた、而して救世軍が企画せる貧民施療・看護事業に就て、大将が最初に手紙を以て賛助を求められた友人も亦た渋沢男爵であつた、渋沢男爵は実に救世軍の最も珍重すべき同情者の一人である、現在然かり、将来も亦然かりである、何んとなれば男爵は少なくとも我救世軍と同一の人道的精神を以て、庶民の幸福を図かることを努めらるゝからである、さあれ宗教上の根拠に於ては我等と一致しないことは疑ふべくもない、男爵は救世軍の内に宿どる霊力を認知せらるゝも、其思想は我等の思想と同一でない、然かしながら自己の信ずる所に偏して他を排斥するやうな偏狭な人ではない、而して偏狭の避くべきことを深く知り抜いて居らるゝ点は、確かに日本人中の日本人と称して差支ない、日本の所謂一流的人士なる者は偏頗心のない人々であるが、渋沢男爵は更に又た其中の一流の人である、男爵は実に救世軍が絶東に於て有する最も温情に富める真実なる友人の一人である。