デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.114-124(DK260027k) ページ画像

明治22年4月7日(1889年)

是日栄一、当社春季総会ニ出席シ「商人ノ本務ヲ示ス」ト題シテ演説ヲナス。尚、九月・十一月ノ月次会ニモ出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第一二号・第四八―五六頁 明治二二年四月 ○本社春季総集会紀事(DK260027k-0001)
第26巻 p.114-117 ページ画像

竜門雑誌  第一二号・第四八―五六頁 明治二二年四月
○本社春季総集会紀事 本月七日(第一日曜日)府下北豊島郡王子村曖依村荘(渋沢氏別墅)に於て本社の春季総集会を開きたり、会するもの青淵先生及同令夫人を始め、渋沢社長・穂積博士・同令夫人・阪谷学士・穂積学士・浅野総一郎・谷敬三・佐々木慎思郎・佐々木勇之助・長谷川一彦(以上東京)・本山七郎兵衛(横浜)・増田充績(福島)・藤井晋作(東京)・田中元三郎(神戸)・三木安三郎(西京)・沢木安次郎(朝鮮)・中川知一(秋田)・湯浅徳次郎(新潟)・山口学士(大阪)・大浦学士(横浜)・飯田幸三郎(仙台)・伊藤与七(名古屋)・尾高幸五郎・渋沢市郎・笹瀬元明・田中栄八郎・尾高次郎・土岐僙・平沢正八郎・斎藤峰三郎の諸氏、其他在京社員百拾余名と、西園寺公成・梅浦精一・
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赤峰伍作・伴直之助・木村清四郎・大井保次郎等の諸氏、其他十数名にして、午後一時より演説会を開き、社長の報告を終りて、苦楽の説(松平隼太郎君)・しんぼうは金なり(伊藤登喜造君)・僥倖を恃まずんハ進取の気象起りがたし(野口半之助君)・商業の方針(桃井健吾君)・利己心の説(韮塚次郎君)・利分の消長(松村五三郎君)・内地雑居の吾人銀行者に及ほす影響(清水百太郎君)・忠義説(渋沢篤二君)・社員に告く(尾高次郎君)・本社々員の務(斎藤峰三郎君)・結合体の利益(平沢正八郎君)・雄弁論(土岐僙君)・学理と実際との関係(大浦佐助君)経済学と実業との関係(山口荘吉君)・事業論(伴直之助君)・交通と金融(阪谷芳郎君)・法律志想は実業家の利器(穂積陳重君)・商人の本務を示す(青淵先生)等の演説終りて、青淵先生の催されたる園遊会となり、桜花も笑を含み居る庭中そこかしこに菓子・蜜柑・煮込・甘酒等の小亭ありて放飲縦食せしめ、最後に立食の饗応あり、午後六時よりは巧妙を以て名高き社員田中栄八郎氏の演劇ありて、その番組ハ左の如し
  碁太平記白石噺 逆井明神の場・新吉原大黒屋の場
  奥州安達原   環館・袖萩祭文の場
      役名
    一由井正雪
            諸井時三郎 一こし元松か枝       伊東高明
    一八幡太郎義家
                  一志賀大蔵
    一新造宮柴   桂文治                 尾上尾登次
                  一仕丁
                  一禿しげり
    一奥方浜ゆふ  中村志かく               尾上梅太郎
                  一娘おきみ
    一鎌杖直方
    一志賀団七   榊原忠明  一新造宮里         片岡市左衛門
    一本屋の文吉
    一仕丁           一宮城野
            嵐鬼次郎  一南兵衛          坂東三津之助
    一奴関平          一実は安倍宗任
    一こし元梅か枝 馬場幸吉  一金井谷五郎
                  一おのぶ
                  一袖はぎ
    一大黒や惣六  嵐璃久三郎               田中栄八郎
                  一桂中納言教氏実は安部貞任
  竹本和佐太夫
            長唄噺子連中
  鶴沢紋左衛門
右演劇の幕間にハ鶴亀の舞・元禄の舞・其他数番の舞曲あり、其盛況会員をして帰るを忘れしむる程にて、全く散会せしハ翌午前一時過る頃なりき、因にいふ、当日の演説は此号より別に演説欄を設け続々掲載し、其評言ハ次号にしるすことゝせり
○総集会余興の評言 社員土岐僙君ハ兼て見巧者にて名高き人なり、前項の余興を評して寄せられたれハ、左に掲く
    歌伎廼粗記                桜圃生
 余観劇ノ癖アリ、所謂下手ノ横好キナル者ナリ、一ヒ演劇ノ場ニ入レバ精神恍惚トシテ殆ント人事ヲ弁セズ、徒ニ観過シテ夢中ノ如シ其芸ノ巧拙・其狂言ノ良否等ハ毫モ之ヲ判別スル事能ハズ、今度竜門社春季総会ニ於テ余興トシテ演劇ノ催フシアルヤ、余最モ喜ビ最モ楽シム、然ルニ我々社員ノ常ニ師父視スル某先生、強テ余ニ評言ヲ書セシム、余勿論之ヲ能セズ、然レトモ之ヲ評セシムル者ハ我社ノ師父ノ一人ナリ、之ヲ評スル者モ社員ナリ、評セラルヽ者モ社員ナリ、此ノ評ヲ閲読スル者モ亦社員ナリ、寧ロ手始メニメチヤメチヤノ僻見ヲ一、二言並ベ立テント決心シタリ、諸君乞フ大恕セラレヨ
  但社員外ノ人ノ芸評ハ略シヌ
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余ハ此ノ如キ余興アリシヲ大ニ喜ブ者ナリ、然ルニ其幕間ニ倦厭ヲ生セザル様ニト、余興中ニ又余興ヲ添ヘラレシハ、非常ノ御注意ニテ一層ノ精采ヲ加ヘ、一同大ニウレシガリマシタゾヤ
各位ノ御腕前ハ余程ヱライ者ヤトハ予テ承リ居リマシタガ、今度初テ拝見致シマシタル所、イヤハヤ実ニ聞シニ勝ル御腕前、ドウシテモ御素人衆トハ受取レマセン位ニ思ヒマシタ、其レ故皆様ヲ島原ノ俳優衆ト仮定シテ駄評ヲ申シ上マス
「白石噺」此ノ二幕ハ、タシカ明治十三年二月新富座デシタ事ガアルカト存シマス、其後宮城野座敷ノ場ダケハ、処々ニテ幾度モ出マシタガ、だんまりノ場ハ出タコトヲ聞キマセンデシタ。アノ時ハ団十郎ノ常悦・菊五郎ノ谷五郎デ、門蔵ガ団七弟運八ニテ、其間ヘハサマリマシタ今度ハ運八デナク団七ニテ、三人並ンデノだんまりデ五座リマシタガ、此ノ方ガ場中賑ヤカデヨウ五座リマセウテ、だんまりノ場ハお三人共中々御立派デシタ、特ニ諸井氏ノ正雪ハ後ノ義家ニ比ベテハ遥ニ善カツタ様デシタ、鉄扇ヲ構ヘテノ見得ノ所ニテ、成田屋トカ何トカ声ヲ懸タイ様デシタ、田中氏ノ谷五郎奴ノ首ヲ刎ネ、大樹ノ根方ニ之ヲ埋メ、刀ヲ納メ、熊笹ニテ手ヲ拭フ迄落着キタル工合ヨシ、ソレヨリ樹ノ幹ヲケヅリ腰ノ矢立ヲ取出シ筆ニ墨ヲツケル時、舞台前ノ灯火ニテ透カシ見ラルヽ様ニ思ハレマシタハ如何カ、是等ハ小生ノヒガ目悪口カモ知レマセンテ
「宮城野座敷ノ場」榊原氏ノ本屋ハ、同氏一等ノ出来ニテ敬服致シマシタ、名ニシ負フ咄シ家ノ大将分桂文治ヲ相手ニシテ、オメズ憶セズシヤベリ立テラルヽ所軽ルイ事軽ルイ事、ソレヨリ箒木ト手水盥ニテ目下流行ノヨカヨカ踊リニナル所、大受ケ大受ケ、始終言語動作、本屋ノ文吉ニナリキツテ五座ツタ所不思議デシタ、田中氏ノおのぶハ一等ノ出来ト思ヒマシタ、衣粧ノ着コナシ・かつらノ好ミスベテヨク、素足素手ニテ白粉気ヲ用ヒズ在郷娘ノ風ヲ正写ニシ、殊ニセリフ廻ハシモヨク、一点ノ申分モアリマセンデシタ、併強テ一二ノ特ニ善カツタト感シタ所ト、悪ル口トヲ申セバ全体ニ少しそらつとぼけた工合カラ色気ノナイ田舎娘ノ情ヲヨク写サレテヨカツタヨカツタ、ヤヽトモスルト此ノ役ハ場当リ沢山ニナル者デスガ、ソンナ所モ誠ニ少ク新造衆ガ「扨ツテモがをれ其訳ヲお前どうしてしつていなんすへ」ト尋ネラレテカラ「知つたも無理か、うきふしハ日ごと夜ごとに変る枕、心つくしの客ハおろか」云々ト、宮城野ノ一寸思入ノアル時ニモ只何ニモセズぼんやりシテ之ヲ見ツメテ五座ツタハ受ケマシタ、ソレヨリ姉妹ノ名乗申分ナク、見物ハ皆ほろりトシマシタ、特ニ「何の奉公どころかい、口惜いと悔いで」ト云フ所なぞハ誠に面白イ事デシタ、それより敵ノ人相ヲ語リ「目まなこの大きい、鼻のひらたい男サ」ト云ツテ急ニ気ガツキ、人聞キヲ憚リテアハテヽ立チ上リ下ヲのぞいテ櫛ヲ落サレタガ是等ハアル形カモ知レマセンガ如何アロウカ、又ダレシモあゝナサル様デスガ、曾我物語ノ本ヲ見ルニ腹ンばいニナツテ両足ヲ揚ゲル所、及ビ深ク歎ク時ニコロコロト横ニ寝ころんだりナサルハ善クナカロウカト存シマスガ、皆サンドウデスナドウデスナ、今一ツ「しよろツぽねがぬけたようだ」トガツカリスル所、及ビかみそりヲ以テ惣六ニツメ寄ル
 - 第26巻 p.117 -ページ画像 
所ナゾハ、今一ト息ト存マシタ、夫ヨリ異見ガ済ンデ宮城野カ貌ヲ直ス間ノだめ埋メニ姉ノしかけニ目ヲツケ撫テヽ見テ五座タハ善カツタ併かんざしヲ頭ニサシテ振テ見タリ、しかけノ裾ヲ背ニ掛ケテ見タリスルハ如何カ、幕切レ前ニしかけノはしヲ袖ニ充テ、見テ五座ツタガアレハヨキ思ヒ付キニテ、精々彼ノ位ニシテオイテホシイト考ヘマスガ、是ハ小生ノ僻過きる所カネ。イヤ彼是ハ申ス者ノ、実ニ結構ナルおのぶニテ面白イ事デ五座リマシタゾ。イヨコチノ座頭様――
安達原、袖萩祭文ノ場、存外評ガ長クナリ、貴重ナル雑誌ヲコンナ汰評デ埋メルハ余リ恐レ多イ故、極ザツト是ハ評シマセウ
諸井氏ノ義家ハ暫クノ間ニ二度迄衣粧ヲ変ヘルトハもうけ役デシタ、伊藤氏ノコシ元五愛敬五愛敬、榊原氏ノ鎌杖《(謙)》しにくい役ヲ骨折テつゝしんでナサレタナレド、引立チマセンデシタガ。ト言フテ毫モ申分ナクやツてのけられしは御手柄御手柄、田中氏ノ桂中納言ハ貫目品格ニ乏クやんやトユキマセナンダハ残念残念、貞任ニナツテカラハ大ニ見直シマシタゾ、袖萩ハ中々善ク五座リマシタ、殊ニはな道ノ出ハ確ニ女ト見ヘマシタ、御三味線ノ御たしなみモ感服感服、惣テ本場ノ女形デモ別ノ技芸をやる時ニハ兎角持チ前ガ出テ女ノ情ヲ失フ者ナルニ、始終女性ノ態度ヲ存セラレ、特ニ「二人が中の。コレ此お君とて」ト云フ所ナドハ悪クイホドヨカツタゾ、余リ糸カ御上手故、籔カゲニテ本職ガ居テ調子ヲ合シタノダロウナドヽ悪ル口ヲ言フ者サヘアリマシタ、せりふまわしモ初メハよほどよう五座リマシタガ「もうよいよい」ト云フ辺カラ、チトせりふ廻シガ悪ルクナツタカト思ヒマシタ、又ふりヤ思入ノ内ニ、チヨイチヨイト目くらト云フ情カナクナルデハナイカト思フ様ナ所ガ見ヘマシタハ、小生ノ見ソコナイデセウ、併是等ハ例ノゑように餅ノ皮デセウテ、諸君失敬々々
   ○栄一ノ演説筆記ヲ欠クモ、後掲資料参照。


竜門雑誌 第一三号・第四二頁 明治二二年五月 ○社員に告ぐ(尾高次郎)(DK260027k-0002)
第26巻 p.117-119 ページ画像

竜門雑誌  第一三号・第四二頁 明治二二年五月
    ○社員に告ぐ (尾高次郎)
私ハ刀江と号し、雑誌の上にてハ毎号必ず諸君に面会致せど、遠方の社員中には未だ御見知なく、刀江は如何なる居士か何者ぞと思召す方もありて、常に遺憾に存じましたが、幸に本日は各地より遥々上京せられし社員も多く、殊にハ朝鮮の如き海外より態々上京せし方もありて、之れまで御見知なき社員も落なく拝眉を得しは真に喜悦に耐ません、斯く多くの社員が集会せられしは実に未曾有の事にて、殆んど百五十人余に達し加之ず親愛なる貴婦人・令嬢の方々も臨席あり、本会に一層の光彩を添へられたことと存じます
満堂諸君の多数ハ、我が青淵先生の薫陶により或ハ既に実業に就かれたるあり、未だ学問を研究中の者あり、或は西国に赴き或は東国に赴き、夫々一方の事業に尽力する者ありて、其業務と云ひ任地と云ひ、種々様々離れ々々になり居るも、其精神に至りてハ毫も変りなく、決して彼の氷炭相容れざるが如き者ではない、尤も中にハ私如き未熟者が居りますから玉石混交なりといわるゝかも知れませんが、兎に角青淵先生の流を汲む者なれば、其の筆法に於てハ素より同一であります
 - 第26巻 p.118 -ページ画像 
如何となれば諸君ハ孰れも同じ門下に養はれ、同じ方向に進み、同じ主義を守りて同じく殖産工業、富国の策を立てんと欲して、孜々吸々と職務に勉強せらるゝではなゐか、而して同日同時を期し同一場所に会合し各自胸襟を開き談笑する楽しさハ、何等の愉快と雖ども是れに勝る事はあるまいと存じまます
 此の愉快なる席に於て一言報導致しますハ、竜門雑誌の沿革と社員将来の務との二件であります、抑も此竜門雑誌ハ余々の気管にして、諸君の所感も之れに拠りて論ずるを得、諸君の交誼も之れに拠りて温むるを得る最も大切なる器であります、而して今や益ます雑誌の価値を高め、益ます光輝を増す様に相成りしハ、実に祝すべき次第にて、私ハ此の如く雑誌の日に月に旺んなるを祝すると共に、雑誌の今日まで経歴し来りたる略史を追想するときハ、恰も夢のやうな心持が致します、又夢の覚めたやうな心持が致しますが、果して此夢ハ正夢なりしか逆夢なりしか、是より述ぶる処を以て判断あらんことを願ひます竜門雑誌第七号の雑報にある通り、今より四年以前即ち明治十九年春当時塾生なる渋沢信吉君・松村桑光君及び斯く申す私、外二・三の人人初めて一の雑誌を発兌し竜門雑誌と号しました、是れ竜門雑誌の此世に生れ出でたる時にて、僅かに同志者三・四十名でありました、此時分ハ当局の人々も幼穉であつて、立派な記者もなければ論説もなく先刻社長の述べられた通り、印刷なども蒟蒻版にて摺り立てた位なれバ、体裁も至て見苦しいものでありました、而已ならず爾後種々様々な事情に制せられて、殆ど雑誌の命脈も絶ゆるかと心配する程でありました、然るに幸に客員穂積法学博士・社長渋沢篤二君の尽力にて追追恢復し、中頃斎藤峰三郎君も加盟せられ種々改良を加へ、着々歩を進めて遂に今日に至りました、先づ之れにて稍々素志を達したやうな訳であります
私は不文ながら竜門雑誌の生れた時より今日に至る迄主筆の席を穢しますが、第一号発兌の時に竜門雑誌発兌の趣旨を書きました、而して其文の結論に斯ふ云ふことを述べました、則ち「今日ハ誠に児戯に等しきものなれど他日時至れば普通新聞雑誌に劣らざる好雑誌たらん」と書いて置きましたが、其の時の考にしてハ余程誇つた積りでした、去れば人によりては生意気の子僧だと評する者さいありし程《(へ)》なりしが誇言誇ならず、三日会ハずんば活目して見る可しと言ふ程ならねど、僅か四年の今日に至りては遂に此盛大なる雑誌となり小供も成人して大人となりました、私は小供の成人せし度合が案外急進なりしを不思議に心得、却て己の年の老ゆるに気の付かない位であります、併し真の老人となるは二十世紀に入りてからの事にて、今が盛りの花か莟みで、実を結ぶまでには尚ほ幾万倍の仕事を致す覚悟であります、兎に角に雑誌の命脈も絶へなんとして続き、消へなんとして保ち、遂に立派に発達したるを見れば、曩に到底維持思付《(覚束)》かなしと心配して見た夢ハ正夢に非ず逆夢でありました
我青淵先生ハ日本商人の棟梁にして、天下有為の士ハ争ふて先生の門に輻り以て名を揚げ家を興さんと欲する有様は、丁度古へ関東の武士が源義家の名を慕ふて争ふて家人たらんと欲するに同してあります、
 - 第26巻 p.119 -ページ画像 
先生固より士を愛せらるゝと雖ども、一も二も之れを採用ハ致しません、必ず将来望みある人物でなければ用ひません、然るに余々社員ハ幸にも千百人中より抜擢せられて、恰も渋沢氏の花苑に木か草の実となりて蒔かれた様なものです、其の後は絶ず充分の培養を与へられ、又草の種類によつて適当の肥料を施され、芽を吹き幹も延び、今ハ段段春風に誘ハれて葉を生じ莟が出ました、而して此莟の中には既に充分に花を開きたるものもありまするが、此の草花が立派に実を結ぶは何時頃なるか、決して遠きことではありますまい、余輩竜門社員ハ実に此の草花の開きかけたる者であります、サテ葉已に生じ蕾已に発しましたから、最早花を見やうとの望みは足りた訳ですが、一の欲望去る時は又他の欲望来るものにて、他の欲望とハ別でもなく則ち此後共諸君益々精励なされて、猶幾層の立身せらる事であります
斯く申すものゝ、諸君の中には已に先進の者もあり、亦後進の者もあるが、均しく後来益ます有為の諸君でなければならず、一騎当千の諸君でなければなりません、果して勇将の下に弱卒なければ、豪商の下にも亦無能の者はなき訳です、仮りに今日も兵乱の世と做せバ(縁義宜しからねど)諸君の胸中に貯ひらるゝ種々の学識ハ孫呉の兵法なりしならん、種々卓逸なる技倆ハ剣術・槍術の奥義なりしならん、活溌有為の気象ハ千軍万馬を屑とせざる勇気なりしならん、信実徳義の精神ハ忠胆義肝たりしならん、而して諸君は賤岳の七槍・朝鮮征伐の先鋒より一層優りし功名手柄を見ハすは必定でありませうが、諸君ハ勇将の下の勇士ならずして、豪商の下の能者であります、且つ今日文明世界には干戈の戦は跡を絶ちましてTime is money.所謂拝金宗の世界と相成りまして御座る、去れば諸君は文明の戦は血を見るに非ずして利を見るにある事を忘れ玉ふな、血を見るの戦ハ奇兵を必要と致せど、利を見るの戦は正兵でなければ勝てません
終りに及んで申度ハ、諸君は我が国商業の泰斗たる渋沢先生の薫陶を受けらるゝ以上ハ、先生の常に言ハるゝ商業の秘訣ハ論語に在りとの格言を守り、加ふるに勉強と忍耐とを以て事を執らねばなりません、果して然せしことならば、諸君ハ遂に渋沢氏商業の奥義を極めて商業実務博士となり、他日日本商業を左右する者は竜門社員の中より出で日本富国の大権は竜門社員の手中に握るやうになりましやう、現に今日の有様を見ますに諸君が各地に在りて事業を執る模様は、最早其第一着歩に進み居るなり、左れバ全権を握るも、遠きにあらずと存します、此時に於ては則ち彼の美麗なる草花も遂に立派に実を結び、所謂好結果を得るの秋と申して宜しき事なり
   ○次掲「竜門雑誌」第五六八号・第四―六頁(昭和一一年一月)所載「本社最初の総会に於ける青淵先生の演説」前書キニ、同誌編者ガ「明治二十二年の本社最初の総集会に於ける演説……」ト謂ヘルハ文中「私の商人になつたのは、今を距る十七年前、丁度明治六年でありました」トアルニ由ルナルベシ。


竜門雑誌 第五六八号・第四―六頁 昭和一一年一月 本社最初の総会に於ける青淵先生の演説(DK260027k-0003)
第26巻 p.119-121 ページ画像

竜門雑誌  第五六八号・第四―六頁 昭和一一年一月
  本社最初の総会に於ける
 - 第26巻 p.120 -ページ画像 
    青淵先生の演説
 編者曰く、本篇は頃日渋沢子爵家に於て発見せられたる青淵先生の手稿にして、蓋し明治二十二年の本社最初の総集会に於ける演説の稿本なり。断篇なれども非常の珍書なれば、文字は勿論、句点の如きも原本の儘に、乞うて玆に之を登載し、且つ其一葉を写真版に附して巻首に掲ぐることゝせり。
今日は竜門社の春季総会で、幸に地方の会員も多く出京し、在京の諸君は勿論、皆一同に此の場所へ集会されたるにより、私にも演説をせよといふ一同からの請求でありますから、聊か一言を述べて其責を塞ぎたいと思ひます。併し演説と申すものは、事に触れ情に感じた処を述べるので、始めて人が聴いて、成程尤もであるといふ賞賛を受けるものでありますが、平生演説に熟せざる我々が、殊更此様の席に出て即座に何か趣向を考へて演べるといふのは、誠に苦しいことであります。諸君も知らるゝ如く、私は学者でもありませぬから、学術上に就て諸君に有益なる談話も出来ぬによつて、従来我身で経験した感触の強い事を述べて、社員一同の注意を促し、併せて竜門社の隆昌を将来に保ちたいと思ひます。
竜門社の今日に至つたことに就ては、先刻から其沿革を述べられた人もありましたが、当初は私などは其創設さへも知らぬ位で、云はゞ児戯同様のものであつたと思ひます。故に今日の如く盛大になつたのも全く偶然の進歩でありませう。併し此偶然の進歩中に、其間大に勉強し、大に補助されし諸君もありませう。誠に喜ぶべきことゝ思ひます斯く云ふと嗚呼がましく聞へますが、孟子に(原注。本文ヲ其儘)とありて、不肖ながら其棟梁の地位に居る私にしては、自身の其器に堪へぬ処は頗る赤面ながらも、斯かる盛況を見るは、亦限りなき愉快を覚へます。
偖て此社の斯く隆昌に赴くを見ると、別して将来の企望も強くなるもので、即ち其企望を社員諸君に告げ知らする為、自身に経歴したる来由と、平生期念する所とを申述べよふと思ひます。
私の商人になつたのは、今を距る十七年前、丁度明治六年でありました。前席の弁士中にも、段々私の身に就て演説された事がありましたが、或は虚賞溢美と思ふ処も見えましたが、併し私が商人になる時に自分と心に顧みて、商人になつてから、私はどう云ふ仕事を為し得よふか、私は商業上の学問があるか、また商業上何様の経験があるかと思ふて見ると、何もありません。生立は田舎の百姓で、二十二三歳までは、鍬鎌を持つて田畑を耕し、余力に藍玉の小売を為せし身が、突然浪人突合ひを始めて田舎を駈出し、京都に登りて一橋家に仕官し、維新の前年に民部大輔と云ふ人に随従して仏国へ行きましたが、是れとても勘定方と云ふ小役人の勤向を持つて居りましたから、中々学問などはする間合もありません。明治元年の冬、日本に帰つて見ると、御一新の騒ぎで、世間は一般に大混雑でありました。併し私は所謂亡国の臣と云ふ身分ゆへに、静岡へ引込み、慶喜公の御側で、昔の農業者となりて此世を経過する考でありました処が、二年の冬、図らずも明治政府の役人に召出され、足掛け五年間大蔵省に奉職致しました。
 - 第26巻 p.121 -ページ画像 
人目には、役人は只小印をつけば其日の用は済むと云ふよふに見へますが、仮令微力ながらも其職を尽さうとするには、随分心痛も多く、且つ繁忙なものでありますから、物を学ぶと云ふことは出来ません。偖て左様に商業上の学問には縁遠く此世を経過しましたが、殊更に官を辞して商人になるといふには、自身の心中には大に感触したる事があつた訳で、其謂はれは、当時世間の有様は、一般に政事熱に浮かされたよふに見へて、都鄙至る処政事談に耳を傾け、苟も才能ある人は皆都会に出て官途を望むといふ勢となり、学問に従事する生徒にても政治とか文学とか法律とかの科目は、いつも入学生が多く、之に反し商工業・理化の学科は入学生も少いといふ姿でありました。故に当時の有様を以て、仮りに人の身体に比喩すると、精神に属する事柄にのみ傾いて、形体に属する働きは甚だ鈍くなりました。言を換へて申さうならば、或は政事、或は法律と云ふよふな、主治者の位地を望む人が多くして、商業とか農工業とかいふ被治者の位地には、絶て属望する人がないといふ、(以下欠)


竜門雑誌 第一四号・第四九頁 明治二二年六月 ○竜門社の徳育(DK260027k-0004)
第26巻 p.121 ページ画像

竜門雑誌  第一四号・第四九頁 明治二二年六月
○竜門社の徳育 去月廿八日の夜、吾か青淵先生ハ深川なる本社へ立寄られ、本社寄宿の少年を集めて懇々談話せられたり、其大要に曰く諸君ハ夫々学校に通学して修業致し居る故に、学問の方は怠らず勉強致し居らるゝならんと思ハへ、智育に就てハ今更いふ迄もなけけれと当世の風潮にて動もすれハ智育のみを重んじ、徳育ハ何とも思ぬ少年多きハ実に歎すへき事にして、徳義を重せさる人は何事もなし得らるへきものにあらさるなり、殊に誠忠といふ事は常に脳裏に存在せしめて苛も詐欺りハいはぬ、詐偽はせぬと心掛る事は肝要なり、孔子も論語に君子之道忠恕已と説き、書経に惟誠惟一以貫之と説き教へられたり、古来大業をなしたる人ハ必すこの誠忠といふ事を常に心掛居たる人なり云々とて、和漢洋の例を引証し教誨せられたり、右に依り向後本社に於て毎月両三回少年の為に経書之講義(漢学者風の講義にあらす、新式の講義なり)を開くことゝ定まり、本月八日夜ハ第一回の講演にて、阪谷文学士の最も有益に最も面白き論語の講義ありたり


竜門雑誌 第一七号・第四九頁 明治二二年九月 ○九月々次演説会(DK260027k-0005)
第26巻 p.121 ページ画像

竜門雑誌  第一七号・第四九頁 明治二二年九月
○九月々次演説会 本月六日午後六時より第一国立銀行楼上に於て月次演説会を開く、会するもの青淵先生及渋沢篤二君、及穂積陳重君・同令夫人・坂谷芳郎君《(阪谷芳郎君)》・同令夫人・佐々木勇之助君・穂積八束君・伴直之助君・佐々木慎思郎君・笹瀬元明君・和田格太郎君、其他各銀行各会社員等無慮八十名計にして、桃井君・野口君・渋沢君・諸井君・尾高君・一瀬君・有山君・松村君・土岐君・伴君・坂谷君《(阪谷君)》、最後に青淵先生等順序に演説し、拍手喝采之内に場を閉ぢたるは午後十一時頃なりき、因にいふ、同夜は渋沢邸と第一国立銀行とより茶菓行厨の寄
附ありたり
   ○栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。

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竜門雑誌 第一八号・第四二―四五頁 明治二二年一〇月 ○竜門社第三回秋季総集会記事(DK260027k-0006)
第26巻 p.122 ページ画像

竜門雑誌  第一八号・第四二―四五頁 明治二二年一〇月
○竜門社第三回秋季総集会記事 兼て前号の雑誌に報告したる如く、去る十三日府下日本橋区坂本町銀行集会所楼上に於て本社秋季総集会を開きたり、当日本社在留の社員ハ午前より同所に詰合ひ会場其他の準備に奔走し、殆整理したるは正午頃なりき、しばらくして社員諸君は続々来会して、午後一時三十分頃に至り已に百名に余りたり、やかて社長は演壇に上り開会の趣旨を述へ、それより(情慾の説)渋沢元治君・(覚悟)松平隼太郎君・(会員諸君に望む)大沢佳郎君・(工業の進歩は理論と実際との親和による)野口半之助君・(社員諸君に告く)桃井健吾君・(商家の責任)宮田仁吉君・(東洋商業の新世界)有山新兵衛君・(節倹の説)韮塚次郎君・(会社衛生方)清水百太郎君・(過信の弊害)三田麻太郎君・(実業社会の行路難)井狩常太郎君・(実業家の前途)布施藤平君と順序に演したる頃ハ已に三時過にして、会員外に来賓もありて無慮百七十名余となり、次に名乗り出たる弁士は三遊亭遊三にして、素人鰻てふ艶舌をなし一時顎を解かしめたり、此の間は各員自由に飲食することを得たり、峡中の葡萄・風月の菓子・大森の梨子其他柿等、今まて室傍に堆を為せしもの忽ちにして殆と尽きしは実に勇し、夫より(実業家たらんとする青年の心懸け)渋沢篤二君・(信用論)松本小吉君・(都鄙経済社会の権衡を質す)一瀬文二郎君・(竜門社の前途如何)斎藤峰三郎君・(知を嗜む説)尾高次郎君・(農工銀行の必要)平沢正八郎君・(自主説)土岐僙君・(取引法を簡略にする一方案)笹瀬元明君・(法律の点より徳義の進歩を説く)朝倉外茂鉄君・(経済的に条約改正を論す)阪谷芳郎君・(商法の性質)穂積陳重君等、相尋て演壇に上り雄弁卓説四筵を驚かしめたり、此時最早七時に近かりけれは名誉員・特別員は楼上に於て、通常員は楼下に於て兼て配置したる偕楽園の支那料理にて麦酒を傾け、右終りたると同時に余興として三遊亭円遊の野晒、遊三の「たらちめ」、円遊・遊三の素天手子、円遊の擬宝珠・握金等滑稽談ありて、全く開散せしハ午後十一時過なりき、当日の重なる来会者は渋沢篤二君・穂積陳重君・同令夫人・阪谷芳郎君・同令夫人・渋沢市郎君令夫人・尾高文子君・朝山豊子君・佐佐木勇之助君・浅野総一郎君・谷敬三君・佐々木慎思郎君・笹瀬元明君・伴直之助君・朝倉外茂鉄君・尾高幸五郎君・山中譲三君・土岐僙君・尾高次郎君・平沢正八郎君・井狩常太郎君等を始め、東京・横浜の会員にして甚た盛会なりき、只惜らくは青淵先生・穂積八束君の差支にて出席なかりしか為に、其演説を聞くを得さりしは殊に遺憾なりき、因にいふ、本会に於て斎藤峰三郎君の建議説ありて本社の規則を改正し、評議員・幹事・通信員等を撰抜する事に決せり、尚改正之規則及ひ役員の氏名ハ次号に掲載すへけれは、看者諸君は次号をおたのしみにせられよ
   ○規則改正ニ関スル記事次号ニ掲載セラレズ。


竜門雑誌 第一九号・第四一頁 明治二二年一一月 ○竜門社月次演説会(DK260027k-0007)
第26巻 p.122-123 ページ画像

竜門雑誌  第一九号・第四一頁 明治二二年一一月
○竜門社月次演説会 本月廿二日午後六時より兜町渋沢邸にて本社月次
 - 第26巻 p.123 -ページ画像 
演説会を開く、会するもの青淵先生・同令夫人及ひ渋沢社長・穂積八束・伴直之助・福岡健良・其他各銀行員・各会社員・帝国大学・高等商業学校等の学生諸子にして六十名計りなり、七時頃より渋沢元治君(モネー)・吉田喜三郎君(惑溺の弊)・桃井健吾君(成就に必用なるものは何ぞ)・野口半之助君(心の保養)・石川伊勢松君(素直の説)・渋沢篤二君(朋党論)・尾高次郎君(広告の商売に必要なる説)・伴直之助君(人力車自滅論)・吉岡新五郎君(着実の説)・穂積八束君(主義に就て)と順序に演説あり、最後に会員一同の懇請に依りて、青淵先生は交際の秘訣を説き聞かせられ、会員一同愉快に感じたり、右終りて楼下の食堂に於て一同へ茶菓の饗応を供し、十時過る頃開散したり
   ○栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。



〔参考〕竜門雑誌 第二四号・第四四―四八頁 明治二三年五月 ○第四回春季総集会景況(DK260027k-0008)
第26巻 p.123-124 ページ画像

竜門雑誌  第二四号・第四四―四八頁 明治二三年五月
    ○第四回春季総集会景況
本社ハ例により去月廿日春季総集会を王子飛鳥山の曖依村荘に開きたり、当日ハ演説会と運動会の催あるにつき同荘の客間を演説会場に充て庭上及ひ競馬場を運動会場に充てたり、客間に接したる舞台(昨年演劇のありたる所なり)に演壇を設け紅白の幔幕其他の装飾をなして堂々たる会堂となし、庭上及競馬場にハ球灯及各国の国旗を翻へし其傍には桟敷を構ふるなど準備全く整ふたるは正に午前九時なりき、続続来会せる会員無慮百数十人にして十時頃より演説会場を開き、渋沢篤二君(気風論)・阪谷芳郎君(金融論)・穂積陳重君(山田氏の紹介)山田喜之助君(金融ニ就て)・尾高惇忠君(備荒貯蓄に就て)等の演説あり、伴直之助君(海陸軍聯合大演習実見の話及所感)は来会の時遅れたるか為め演説はなかりし、それより牡丹園の傍にて今や盛りの牡丹を見つゝ支那料理の昼飯を喫す、ビール・ラムネさへありて一同能く飲み能く食ひ其勇を示す、屈強の青年ハ運動の英気思ひやられたり、それより運動会を催す、其番組及ひ勝者姓名並に賞品ハ左の如し


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 順次 種別     距離    勝者姓名           賞品 1 旗奪競走     百ヤード  須永登三郎 伊藤登喜造   沓下一束                 野口半之助 池田政俊 2 瞑冒探旗     同     和田盛次  桃井健吾    同断                 松平隼太郎 3 片脚競走     同     野口半之助 吉田喜三郎   同断                 上野利三郎 和田盛次 4 幼年徒競走    同     一着 穂積重遠       手帳・鉛筆・人形                 二着 同律之助                 松平隼太郎 和田盛次 5 角力             須永登三郎 吉岡左一    サルマタ                 山崎繁太郎                 1加福力太郎         1地理書 6 巾飛             2横田嘉兵衛         2煙草入                 3内山弥三郎         3筆立                 1加福力太郎         1帽子 7 高飛             2内山弥三郎         2アラビアン・ナイト                 3横田嘉兵衛         3詩選                 1井上源三郎         1英和字彙 8 棒飛             2須永登三郎         2西洋小説二冊                 3宮岡福太郎         3香水                 1渋沢篤二 桃井健吾     シヤツ 9 撃剣             3三田麻太郎                 2最勝者 吉田喜三郎     白銅計一個 休憩十五分 10障害物競走    弐百ヤード 井上源三郎 宮岡福太郎   タヲル一枚                 上野利三郎 松平隼太郎 11戴嚢競走     百ヤード  松平隼太郎 桃井健吾    沓下一足                 近藤猪造  加福登  以下p.124 ページ画像  12徒競走      弐百ヤード 金子四郎  須永登三郎   沓下                 池田政俊  大塚某 13一脚競走     百ヤード  金子四郎  加福力太郎   タオル                 大沢佳郎                 1橋本直三郎         1襟留 14来賓競走     弐百ヤード 2小田某           2手帳タヲル                 3松井竹次郎         3ノート・ペーパー 15二人三脚競走   百ヤード  (川島良太郎 伊藤金喜造) 襟飾二個                 (桃井健吾 野口半之助)                 1近藤猪造          1襟飾半ダース 16徒競走      四百ヤード 2池田政俊          2錫コツプ                 3金子四郎          3シヤシンブツク                 松平隼太郎         1腕ハメ 17拾菓競走     百ヤード  野口半之助         2帛沙                 須永登三郎         3ノート・ペーパー                 1松平隼太郎         1毛布 18徒競走      六百ヤード 2須永登三郎         2絹ハンカチ                 3上野利三郎         3金鈕一組                 4内山弥三郎         4襟飾二個 


右の中最も面白かりしハ瞑冒探旗及ひ幼年競走・障害物競走にして、先つ得て帰路を失ふあり、先つ達して得意を表はすあり、倒れて遅れ遺して達し勝を他に制せらるゝものあり、観者をして或ハ笑ひ或ハ怒り、或ハ驚き或ハ惜しましむるありていと興多かりき、此間茶菓の餐あり、賞品は渋沢・穂積・大川の三令夫人より授与せられ、散会せしハ午後七時頃なりき
   ○此ノ日ハ栄一出席セズ。