デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.145-151(DK260032k) ページ画像

明治25年7月27日(1892年)

是日栄一、当社第九回総集会ニ出席シ「古今商業ノ区別」ト題スル演説ヲナシ、又、十月ノ月次会ニ出席ス。


■資料

竜門雑誌 第五一号・第四六―五〇頁 明治二五年八月 ○第九回竜門社総集会(DK260032k-0001)
第26巻 p.145-146 ページ画像

竜門雑誌  第五一号・第四六―五〇頁 明治二五年八月
○第九回竜門社総集会 七月廿七日水曜日午後五時より、日本橋区浜町一丁目日本橋倶楽部に於て第九回竜門社総集会を開く、先是各員に招待状を発したり
 拝啓、本社長渋沢篤二君今般暑中休暇にて帰京せられ、且本社委員尾高次郎君近々秋田へ赴任せられ候に付、歓迎・送別の会を兼ね来る二十七日午後五時より日本橋区浜町一丁目日本橋倶楽部に於て本社第九回総集会を開き、有益なる演説会と清爽なる納涼会とを相催ほし候間、御差繰の上、御知人御同伴御光臨被下度、此段御案内申上候          草々敬具
  廿五年七月二十日
                  深川区福住町四番地
                        竜門社
当日は幸に天気都合好かりしかは、凡ての準備極めて整理し、門前にハ第九回竜門社総集会と大書したる建札をなし、入口には来会者名簿を具へ、庭中池辺に氷店・水菓子店・茶店等を設け、大川に臨みたる処に納涼台あり、緑陰風清き処に大弓場あり、以て遊楽の料となすへし、総集会の順序は左に掲くる事目に拠る
  午後五時
    池辺の納涼
 - 第26巻 p.146 -ページ画像 
  午後七時
    晩餐
  午後八時
    演説
      渋沢社長
      青淵先生
      菊池武夫君
      来賓会員 諸君
  余興
    落語   三遊亭 円朝
    講談   放牛舎 桃林
      其他数番
定時より来会の人々は、青淵先生・渋沢社長・坂谷芳郎君《(阪谷芳郎君)》・尾高惇忠君・浅野総一郎君・佐々木勇之助君・熊谷辰太郎君・谷敬三君・星野錫君・田中栄八郎君・同令夫人・尾高次郎君・同令夫人・朝山令夫人福岡健良君・和田格太郎君・村尾智実君・山中譲三君・村井清君・原林之助君・清水工学士・渡辺工学士・諏訪・水野・白石の三法学士・石津芳三郎君・岩田豊朔君・斎藤峰三郎君、其他百数十名にして、客員には大倉喜八郎君・平田譲衛君・木村清四郎君・蘆田順三郎君、其他数十名(菊池武夫君・山田喜之助君は、当日に至り差支を生したりとて来会せす)の来会あり、皆庭中に逍遥して各自其好に随ひ納涼して稍暑熱を忘れたり、午後七時より支那料理の行厨とビール・ラムネの徳利を携へ適意の処に至りて晩餐を了し、午後八時より楼上なる演説場に会同す
  社長代理文学士 坂谷芳郎君
  渋沢社長
  尾高次郎君
  法学士 平田譲衛君
  青淵先生
と順次演説あり、次に
  人情話   三遊亭 円朝
  義士伝   放牛舎 桃林
  小話    三遊亭 円朝
右終りて散会を告けたるは午後十一時四十分頃なりき
 因に記す、同会へ寄附せられたるは
  一金五十円             青淵先生
  一金五円              佐々木勇之助君
  一金五円              熊谷辰太郎君
  一金三円              穂積陳重君
  一金三円              坂谷芳郎君
  一金三円              渋沢篤二君
  一金三円              穂積八束君
  一金壱円              村井清君

 - 第26巻 p.147 -ページ画像 

竜門雑誌 第五二号・第一―六頁 明治二五年九月 ○第九回竜門社総集会に於て(青淵先生演説)(DK260032k-0002)
第26巻 p.147-149 ページ画像

竜門雑誌  第五二号・第一―六頁 明治二五年九月
    ○第九回竜門社総集会に於て (青淵先生 演説)
諸君、今夕は当竜門社の社長たる渋沢篤二が熊本よりの帰省と、尾高次郎氏が秋田へ赴任するに付て、其送迎の為めに臨時の総会を開かれたことで、私にも一場の演説をなせと云ふ社長代理からの依頼で御坐いますから、聊か平生の意見を申し述へまする考で御坐います、只今阪谷氏を初めとして段々有益の演説かありまして、殊に平田君抔には実業社会に対する政治の関係、及ひ其趨勢と実蹟の如何とを細々と御申述になりまして、我々実業者の位地に居る者には、所謂麻姑の手を以て痒きを掻くやうに快く伺はれました、私が今爰に申し上げやうと云ふのも、殆んと今平田君の御述べになつたのと同じやうな事柄で御坐いますが、今夕此事を申さうと考へ居りましたから、少しく御汁粉を食べた後に牡丹餅を食ふやうな嫌ひがありませうが、暫らく諸君の清聴を煩します
私が今爰に申し述べる演題は、古今商業の区別と云ふのです、大層渺漠たる題でありますから、チト御話を長くすると随分十二時迄も夜の明ける迄も永引ことも出来ます、併し私よりモツと面白い真打も次に居りますから、私の面白くない話は手短に申しませう、詰り申すと御一新前の商売の有様と、御一新後の商売の有様と、又御一新前の商人の心得と、御一新後の商人の心得と云ふ者は斯様に区別されやうぞと云ふ意見であります、古と云ふ字があると今と云ふ字に対するから、チト昔の古いことを申さなければならんが、悲しい哉商売上の歴史と云ふ者が是迄ない、あつたか知らんが私の見聞の浅い為めに知らぬがズツと昔神代の時にはどうであつたか漠として分らぬ、又王朝の古を見ても商売と云ふ者はあつたに違ひないが、歴史上に徴して商業が世の盛衰或ハ国の貧富等に関係したことが少しも見へません、併し日本と云ふ国も是丈の面積があり、是れ程の人類がある、其時分には是れ程の人類はなかつたか知らんが、何れにしろ此国に人類が居つたには違ひない、人が居れば必す物を造り出すに違ひない、物を造り出せば互に有無を通すると云ふことは自ら初まつてくるのでありますから、少しは商売の歴史がありさうなものだがとんとない、なせないかと再三深く考へると、ない筈です、第一此租税と云ふ者が支那の制度を襲ふたので、総て物品で税を取り、又其臣僚百官に分つにも多く其物品で配付した故に、商売と云ふ念慮が誠に少なかつたことゝ見へる、譬へて言はゝ一ケ村の内で成る可く丈己れが入用の品を作り出して間に合せ、極く困る部分を人の家に往つて買うとか、或は持て往て売るとか云ふ有様であつたので、外国の国を為すやうに、一方には麦を造り一方には葡萄酒を作り、葡萄酒を作る者は之れを多く拵へて麦に代へる、又麦を作る者は多く作つて葡萄酒に代へると云ふやうに、麦も酒も砂糖も衣服も蝋燭も各其便宜に任せて物を生産してこれを交易するといふ方法ではなくして、恰も孟子にある処の彼の墨子の政が行はれて居たゆゑに、商業と云ふものが甚だ発達せなんだと見へます、翻て政治教育等の有様を見ると、或は吉備真備、又は伝教大師とか、弘法
 - 第26巻 p.148 -ページ画像 
大師とか云ふ人達は、支那へ渡つて種々なる事を研究して来た、勿論支那と云ふお師匠さんも政治教育等の事は、日本より早く開けて居つた故に、彼の有名なる大宝律令とか、光仁式格とか、延喜式とか、種種なる制度・法律の出来たも、大抵唐制に摸倣して拵へたやうで御坐います、右等の人々が支那へ往て僅に一二年の間に、或は法制文物とか、或は宗教の薀奥とかを修むる知識があるからは、もしも其以前より商売の道が開けて商業が盛であつたならば、バンクの事や運送の事や、又は貿易の事抔充分に伝習して来たであらうが、元来支那人にも商売と云ふ考がなくてさう云ふことは研究せぬ国風であるから、前にもいふ政治教育等の事は学問をして来たらうが、商売上の事には少しも頓着せさりしものと見へます、先つ第一に商売上の事は王朝の時分には甚た賤しめられたと云ふ証拠は、紀貫之の古今集の序に書いてあるのを見ても分る、何とあるかと云ふと、文屋康秀の歌を評した言葉に、賈人の鮮衣を着たる如しと云ふことがある、殆んと人力挽が𧘕𧘔を着たやうだと云ふ俚言と同じことで、当時の商人が世間に軽蔑されし有様を知るに足りませう、下つて武家の政権を執るやうになつてから、平家が衰へて源氏が盛になると云ふ時代に金売吉次と云ふ者がある、此金売吉次が牛若御曹司を連れて奥州へ往つた、奥州は金銀の出る所であるから、坑夫を雇ふて金銀を掘出してそれを担いで京都へ来た、其時分には何で運送して来たか分らぬが、それを京都で売つて、衣類とか或は翫弄品とか云ふやうな物品を買つて、奥州に帰る商人に違ひない、此商人が鬼一法眼の所に往つたか、鞍馬山に往つたか其処迄は知らぬが、牛若御曹司を奥州に連れて帰つたと云ふのは、此牛若ハ賢こい子供であるから家へ連れて帰つて丁稚にしやうと云ふ為めであつたか、又は源氏の将種であるから之を自分の家にて成育させて、他日出世したなら其御蔭を受けよふと云ふ一の野心であつたか分らぬが、夫れは先づ措いて正史に書いてある所では、此金売吉次が牛若を連れて往つたと云ふことが僅に知り得る位なことで、どうも商売上に付ての著るしい事柄は、書物の見方の浅いせいかとんと見へませぬ、幕府の初めに彼の山田長政と云ふ人が暹羅に乗り出して商売を初めたれとも、其始には商売上大層盛であツたが、竟には殆んと政治の働きを以て功名を博せしと云ふやうに見へる、又浜田弥兵衛の台湾に名を成せし抔は最も商売上の働きとハ見へませぬ、是等の人々は英雄とか豪傑とか、又は政治家と云ふよりは寧ろ商業者とか探験者とか評し得らるへきやうなれとも、哀しい哉世の中の有様が唯一に武功を尚ぶ時勢であつたから、智恵のある人も商売では名を成すことが出来ぬ、故に自然と商売を止めて政治と云ふ方に傾いたのであると見へる、其後に誰も知て居る加賀の銭屋五兵衛か外国と貿易を仕初めた事、若くは紀伊国屋文左衛門が紀州から密拑《(蜜柑)》を持て来て金貯けをした事、淀屋辰五郎がどう云ふ事で身代を起したとか、鴻池がどう云ふことで大家になつたとか、三井が元禄時代に東京に大きな呉服店を出して身代を立派にしたと云ふことがありますが、是等も皆一身一家の経営に止りて真に国家的の観念を備へて商売又は事業をなした人は、歴史の上でも事実の上でも見当らん、続いて御一新迄は前にいふ成り行きで、商売
 - 第26巻 p.149 -ページ画像 
人と云ふ者は人民中の底の底の一番の最下等に落されて仕まつて、誠に微々として居たといふ有様である          (未完)


竜門雑誌 第五三号・第一―七頁 明治二五年一〇月 ○第九回竜門社総集会に於て(承前)(青淵先生演説)(DK260032k-0003)
第26巻 p.149-151 ページ画像

竜門雑誌  第五三号・第一―七頁 明治二五年一〇月
    ○第九回竜門社総集会に於て(承前)
                    (青淵先生 演説)
偖て古来の商業の有様は概略に述へ尽したれば、是れから御一新後の商業を申述て見ませう、成程御一新後は庶政の変革と共に商売上も其面目を改め、表面にては商人は独り其国の有無を通するのみならず、万国に航海して通商貿易か出来る様になつたれども、其実は日本人の頭の中から違つて商売が盛になつて来たかと云ふにさうではない、之も他の制度文物と同しく一種の輸入物ともいふへきものにて、維新以後追々と他の国々の有様を見て自然と推移せしもの、所謂外面の形容より成立つものと言はねはならぬ、先つ維新後に政府の官吏又ハ学者か外国へ渡航して何処の国に往つて見ても、どうも租税を物で取る所はない、物で取るのは甚だ愚な話であるから租税は金にしやうと云ふ政治上の結果から、米穀其他の物貨の売買が商売人の手に落ちて来た又何処へ往つても大きな汽船を持て居るに、千石船で自国のみで威張つて居てはならぬと云ふので蒸汽船を拵へた、之も政治の結果から起つて、其結果は商売の領分を広くした、其他鉄道が出来たのも、郵便電信の出来たのも、又は銀行・会社の起因も、皆其実は政治を基本とせしものだから、段々と世の進みと共に自然と土台を動かして往き、勢ひ商売人が其御相伴を蒙つて其領分を広くし其位地を高くしたる姿と申して宜しいのです、試みに昔の有様と比較せは恰も小間物屋・糶呉服と云ふのが、今日は真の有無を通する問屋とか卸売とか云ふものに進んだと申し得られるのです、偖資格は今申す通り殆んと欧羅巴の商人と同じ位地に上りて外装は整つたが、前にもいふことく日本人全体の了簡が、実に商業は必要だ、どうしても之でなければ国が成立つ者でないと云ふ精神から成立つたのでなくて、他の関係より及ぼされたのであるから爾来百般の事物に就て其進歩は頗る遅緩である、既に明治も二十五年になりますが、其今日に至つても表面の有様と実際の進歩とを顧みると、甚た失望に堪へぬことが多いのである、丁度今平田君がお述べの通り、却て政治上の思想は弥増上進して、政党に政社に政談に演説に、悪るく言つたら猫も杓子も其方に走り居る、其極終には国家の重きに任する政府と云ふ者が、殆んど其受け答に日も亦足らずと云ふ迄に至つて居る、又其政府の人々も表面には商売は大切である、工業は進めなければならん、農業は甚だ要用であると口には言ふて居るも、真実之を盛にする迄には往届いて居らぬ、往届いて居らぬのみならずまだ夫れだけに進んだと云ふことは言ひ得ることが出来ない、又或る部分にて政治にたづさはるものが、農業とか商業に大層厚いやうに見へる事もあるが、夫れは只一党派の関係より生するものであつて其実は他の一方に対する攻撃を防ぐ為めとか、又は一方の歓心を買うと云ふ為めとかにして、矢張誠心誠意に商工業の発達を以て国家の重要事務とは見ざる所の形跡が、なきにしもあらずと申して宜
 - 第26巻 p.150 -ページ画像 
しい、さうすると政府も政党も真実に商工業を大切にせぬと申さねはならぬによりて、今日の有様でハ我々商業家の任は、自分て自分を保護して且進歩を謀らねはならぬ故に大変重くなつたれとも、翻つて商売社会の真想はどうであるかといふに、恐らく自分の重い本分を本分として居るものが甚だ少ないと答へるより外仕方がないと思ふ、今平田君の御説の如く口を開けば政治と云ふやうに人心が其処に傾き、今の所謂政治家と云ふものハまかり間違つたら大臣にならうと云ふ考で頻に演説に新聞に説を為すが、さう云ふことは矢張り商売社会も同し有様にて、或は岩崎弥太郎氏が沢山の身代を拵へたのを見て急に自分も沢山の身代を起さうと考へて、而してどう云ふ事業をして夫れたけの地位をなし身代を太くしたかと云ふ事には一向目を着けずに、只世の中の目に触れた、耳に聞いたことに付て僥倖を期すると云ふことが現はれて居る、実に此悪弊は政治にも商業にも同一轍と申さなけれはならぬ、想ふに此国家と云ふ者は治める者と治めらるゝ者とで保つて居るが、扨治める者は只外粧のみを造つて居て実際上の念慮は甚だ薄い、又治めらるゝ者は自分の本分を知らんで、只僥倖を是れ恃むと云ふ世の中であるならば、其負担することは大変に重いと云ふ商工業ハ今後実にどうならうか、なんと杞憂に堪へぬ訳ではありませぬか、既に此間《(マヽ)》チカゴの博覧会に付て万国会議と云ふものを企てるに付、種々なる問題を出して各国の学者とか実業家と云ふ者が会員に列つて、会頭も副会頭も撰挙せられて、日本へも通知されし趣にて、農商務省より東京商業会議所へ照会かありました、其問題中の重なるものハ銀行業・一般の商業又は運輸業・労働者の処置と云ふやうな目を挙げて其要領が書いてある、其他尚ほ大体の問題は例へば万国の貨幣を同一にしやうとか、又は商業上一般の言語を作ふとか、又ハ為換手形商売上の信用と云ふものを万国共通して利益を謀る方法はないか、と云ふことがありまして、其内の一ツに斯う云ふ問題があつた、商業は文明の開路者即ち路を開く者であると云ふことである、実に米国抔にて商業の其重せらるゝは此一問題にても明々白々にて、果して商業は文明の開路者先導者であつたならば、殖産興業は国家富饒の母だと云ふことも慥に言ひ得るでありませう、然らば則ち今日国利民福と云ふ言語を政治家の専有物のやうに言ひ為すは、実は我々商業者に於ては片腹痛ひよふに思われます、我が竜門社の諸君は大概皆此商と云ふ文字で網羅した中に一身を委ねたお方が此処に集つたので、其中には銀行に居る者もありませう、会社に得る者もありませう、或ハセメントを拵へるとか、或は煉瓦を作るとか、西洋紙を漉くとか、其他印刷業・建築業・硝子製造等種々なる業務に従事されて居るが皆今私の申す商業と云ふ中に包含されて居る者であるから、どうぞお互ひはまだ幼稚の身柄で、今日此商業の実力を以て、政治社会を圧倒すると云ふことは出来ぬでも、せめて此政治社会に、蹂躪されぬと云ふことは覚悟したいと考へる、且其前途遼遠と云ふことを記臆して、其遠い所に達することを努めなければならぬ、要するに我か今日の商業は所謂表面の発達にして政治上の必要に迫られ其趨勢によりて外飾の進歩を計るといふに過きぬから、米国人の卓見の如く、商業は文明の開路者たりといふ
 - 第26巻 p.151 -ページ画像 
真実の価値と知りて、国家的観念を以てこれに従事するものは絶てなしと申して過言でないと信します、かゝる嘆はしき有様なれは、我々商業に身を委ぬる人々は殊更奮励して此の有様を一変し、富国の本は商業に在りといふ観念を養成する様に致したいと考へます、即ち竜門社諸君の将来の希望は左様ありたいと思ひますから、平生の所見を述へて一場の演説を致した訳であります(喝采)     (完了)


竜門雑誌 第五三号・第四三―四四頁 明治二五年一〇月 ○十月の月次会(DK260032k-0004)
第26巻 p.151 ページ画像

竜門雑誌  第五三号・第四三―四四頁 明治二五年一〇月
○十月の月次会 ハ其八日に坂本町銀行集会所に開く、午後六時会する者青淵先生・穂積陳重君・坂谷芳郎君《(阪谷芳郎君)》・尾高惇忠君・佐々木勇之助君・熊谷辰太郎君・穂積重頴君・佐々木慎思郎君・谷敬三君・星野錫君・山中譲三君・萩原源太郎君・原林之助君・山口荘吉君・土岐僙君水野錬太郎君・白石元次郎君・村井清君等百余名にして、客員には大倉喜八郎君・野崎広太君其他十数名なり、七時楼上に会し坂谷文学士は社長代理として開会の旨を告け、次に八十島親徳君(日本古代の売買及貸借の方法)・白石法学士(竜門社員諸君に告く)・水野法学士(歴史を読て感あり)・坂谷文学士(本邦銀行の将来如何)・山口法学士(金儲の秘伝)・土岐僙君(忠孝)と順序に演了して閉会し楼下に設けたる茶菓を喫し、更に余興として三遊亭円遊丈か得意なる水中の玉及花見小僧等の滑稽新話あり、一同歓を尽して散会したるは午後十一時過る頃なりき、本会は朝鮮より土岐君、大坂より山口君の上京出席せると水野・白石両子の初舞台とにて特に光彩を添へ、極めて盛会なりき