デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.243-248(DK260048k) ページ画像

明治32年11月5日(1899年)

是日栄一、当社第二十三回秋季総集会ニ出席シ、「商業者ノ徳操ニ関シテ竜門社後進生ニ告グ」ト

題スル演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK260048k-0001)
第26巻 p.243-244 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年    (渋沢子爵家所蔵)
十一月五日 晴
○上略 午後二時上野精養軒ニ於テ竜門社第二十三回秋季総会ニ出席ス、
 - 第26巻 p.244 -ページ画像 
此日阪谷芳郎、社長ニ代リ各般ノ報告ヲ為シ、且経済ニ関スル一場ノ演説ヲ為ス、次ニ諸井六郎氏清国蘇州ノ風土商業等ニ関スル演説ヲ為シ、次ニ堀越善重郎氏我国商業ノ不振ヲ歎スル演説アリ、次ニ林忠正氏ハ堀越氏ノ歎息ヲ慰シ、我邦ノ商業ハ大ニ進歩ノ望アリトノ意ヲ陳弁ス、最後ニ商業者ノ徳操ニ関シテ竜門社後進生ニ告クト云フ演題ヲ以テ、一場ノ演説ヲ為ス、先年独乙人ト談話セシ道徳談、及一昨夜記載セシ鳩巣試筆ノ詞等ヲ加ヘテ終局ス
○下略


竜門雑誌 第一三八号・第六二頁 明治三二年一一月 ○竜門社第二十三回総集会記事(DK260048k-0002)
第26巻 p.244 ページ画像

竜門雑誌  第一三八号・第六二頁 明治三二年一一月
    ○竜門社第二十三回総集会記事
天高く馬肥ゆるの時、我竜門社秋季の総集会は上野公園木葉陳謝に向ふて満園の樹々半ば黄色を呈せるの辺、十一月五日を以て開かる
社員諸氏は同日午后一時頃よりして陸続来り会す、同二時半を以て一同楼上に集会し、阪谷博士中央に進み、渋沢社長の滞欧中自身は社長の代理となりたれは、今回同社長に代り玆に竜門社第二十三回秋季総集会を開会する旨を告け、引続き一場の演説(別項演説欄記載)を為され、当今我実業社会か大に腐敗したるは一に是れ徳義心の滅失したるにある旨を弁せられ、次に堀越善重郎氏演壇に進み、我外国貿易の不振を嘆じ其前途に論及し、到底移民を奨励するの外良策なかるべしと結論せり、次に巴里博覧会事務官長たる林忠正氏登壇し、簡単なる一場の演説あり、最后に青淵先生は阪谷博士と同じく当今の実業社会に就ての所感を述べられ、終に臨み室鳩巣翁の言を引用し、自身か之に対する所感の一言を、其后に附したる由を述へられ(別項雑録欄に記載)拍手の裡に当日の演説を終りたるは午后五時にてありき
夫れより社長は園遊会に移る旨を告げ、一同は室外に出づれば、余興として円遊一坐の茶番其他手品等あり、次て立食の饗応あり三々五々談笑の后、各自散会せり
因に記す、当日尾高先生は、氏が苦心経営今回漸く其の一篇を公刷されたる泰東格物学を提供し、汎く衆員の閲覧に供せられたり
当日出席せられたる諸士の姓名は左の如し
 (名誉社員)
 青淵先生 ○下略
  ○尾高惇忠ノ「泰東格物学」第一巻乾ハ是年十月一日発刊サル。ソノ凡例ノ一部ヲ示セバ左ノ如シ。
   一 惇忠成童ヨリ大学ノ格物ニ於テ其解釈ニ疑ヲ起シ、沈潜反覆研磨討究スル事五十年ニシテ、格物トハ文字ヲ正ス事ニシテ、学問即チ格物ナルヲ悟リ、二千余年紛雑統紀ナキ泰東ノ文字ヲ審明スルニ泰西ノ学術窮理分析化製等ノ手段ヲ以テシ、加フルニ支那歴代ノ字書文籍ニ参照シ、又皇国ノ古語方言ニ徴シ併セテ現在ノ庶物ニ察シ、之ヲ断ズルニ文字制作ノ原義ニ帰ス。故ニ字書ニ注解無ク或ハ注解其当ヲ得ザル者ハ、鄙見ヲ以テ断定ス。云々


竜門雑誌 第一四〇号・第一―五頁 明治三三年一月 ○商業者の徳操(青淵先生)(DK260048k-0003)
第26巻 p.244-247 ページ画像

竜門雑誌  第一四〇号・第一―五頁 明治三三年一月
    ○商業者の徳操 (青淵先生)
 - 第26巻 p.245 -ページ画像 
 左の一篇は明治三十二年十一月五日上野精養軒に開きたる竜門社第二十三回秋季総会に於ける先生の演説なり
此会に出席しますと、何ぞ一言申さぬでは義務を果し了らぬやうな気がしますから、聊か卑見を呈すやうに致します、併し時間がありませぬから極て簡単に御話致します、今日は林君・堀越君・諸井君抔の御演説があると云ふことを聞きましたから、定めて仏蘭西なり亜米利加なり支那なり、外国の旨い御馳走がたんとあるだらう、此御馳走の後に「ペフシネ」か胃散でも上けやうと思ふて聊か其用意で来た所が、案外阪谷君からいきなり油屋の番頭善六の例が出、又堀越君が頻りに悲劇を演せられた、其後で又此談を為すは頗る演劇の段取りが悪るくなつて、聴衆諸君に御迷惑を掛るやうなものなれとも、俄に仕組んだ芸を換へる訳には行かないから、腹切の跡で子別れとも言ふへきものを一段御聴に入れます
私が今日御話をしたいと思ふのは、決して客員や大方の諸君、阪谷君の所謂「ゼントルメン」に向つての御話ではない、竜門社の後進生に御注意を申したいと云ふに過きぬのです、即ち商業者の徳操と申す演題に就て、平素の希望を述へやうと思ふのである、経済社会が三十年許りの間に大に発達し、其品格も進んで来たと云ふことは、私も諸君も共に知て居ることで大に喜ばしい、其昔しは三間も隔つて御辞儀をせねばならぬ御老中様に向つても、膝組で話をして貴君の御考は違ひませうと云ふことも言ひ得るし、日本と云ふ区域ならでは商売の場所がなかつたのが、欧羅巴或は亜米利加にまでも商売の領分が拡まつた現に林君でも堀越君でも、皆な左様な土地でずんずん銭を儲けて国を肥してござる、而して是はどうだと云ふと、もう一歩進んで国と云ふものを我々背中に負ふて居る、故に政事家も軍人も我々の後押をせよと云ふことを言ひ得るやうになつたのは、誠に商売社会に取つて極く嬉しい話しで、先つ意外の進歩と言つても宜い、是等の点から云へば堀越君の説の如くに泣言を言はぬでも宜い、又悉く世を挙けて商売人は油屋の善六だと云ふ阪谷君の例も少しく場所柄不似合と言ひたい、けれども左様に喜ぶべきことがあるかと思ふと、私も矢張油屋の善六や若くは白木屋の丈八には実に困りて居る一人である、即ち商売人の徳操に就て申上けたいと云ふのは、此善六・丈八になつて貰ひたくないと云ふことです、段々此商売社会の進む有様に伴ふて、今日に起て来る弊害は何かと云ふと、どうも徳義を重んじ信用を厚くすると云ふ実体の進みは殆んと皆無にして、唯た資格・地位と云ふやうな形容の働きのみが進んで来る、例へば政事家に対して対等の交際をせねばならぬと云ふかと思ふと、一歩進んで対等どころではない相結托して共謀する、是は対等とは大変違ふ、斯う云ふ有様になつて行くと云ふと終に今評される如く「ゼントルメン」と云ふ商人は一つもなくて、皆善六・丈八に成行きはせぬかと云ふことを虞れるのでございます、御互商業者、別けて竜門社員はどうぞ其辺に注意がありたいと思ふことは、真実に此に切望致して止まぬのである、私が平生希望して居る廉廉に就て申述へたならば、夜が明けてもまだ足らぬ程御話したいこともありますが、さう長い話をして御妨をしてもなりませぬから極く短
 - 第26巻 p.246 -ページ画像 
く申しませう、嘗て明治十五年頃でしたが、大川平三郎氏が亜米利加から帰つて来られたときに、独逸人が一緒に日本へ参られた、此の独逸人と私が問答をした話しがある、此事はまだ判断されたことではない、想像にあることであるけれども、以て思半に過るであらうかと思ひますから一言申述べて置きます、此独逸人が私に問ふて曰く、日本の人文の開明若くは物質的の進歩は、短い時間に於て長足の進みを為したやうに見へる、而已ならず長い太平の続いた後、維新の間に国乱が芽したが、其国乱が須臾にして鎮定したのは欧羅巴人の甚だ解し兼ねる所である、是は大に賀すべきことであるが、何等の教育に依つたらうか、其理由を聴きたいと云ふ尋ねであつた、少し哲学上の談話見たようで私共には迷惑なる質問だから答に窮したが、私は斯う答へた善哉問ふこと、一体日本人の性質と云ふものは随分血の熱い人間で、物に感じて激しいものであるが、併し此万系一統の天子を尊ぶと云ふ人情が甚だ強い、維新の際禍乱の早く定つたと云ふのは、天子自ら事を為すと云ふことのあつた為めである、丁度一般の人情が尊王と云ふ念慮が強かつたから、天子の為めには何人も忍耐すると云ふ考から、此禍乱は短い間に治つたので、而して維新と同時に開国の主義を確定して幕政の革命をすると云ふ位な力のある連中が、海外の文物を入れると云ふことに勉めたから、長足とは云へまいが、幾分か進歩したのであると答へた、すると此独逸人が、それは私の問ふ要点ではない、私の問ふたのは社交上のことである、歴史的の話ではない、政治的の話ではない、凡そ物は地位の進むに従つて禍災が増して来る、欧羅巴の歴史も皆なさうなつて居る、段々人間の智恵の進む程悪るいことが増長して来る、日本に於て十四五年間人文の進歩を勉め、工業なり殖産なり商売なり、其他百般の事物の進むに随て同時に罪悪が進んで来ないと云ふのは、何か原因があるであらうと思ふ、それに就て貴君がどう考へて居るかと云ふことを聴きたい、斯う云ふ問であつたから、私は是に答へて、如何にも御尤な御問であるが、日本の上流社会の気風は何で維持されて居るかと云ふと、一と口に言ふと武士道と唱へて支那道徳で維持されて居る、又下流の人心はどう云ふ風に維持されて居るかと云ふと、多く仏教で維持されて居る、此仏教と云ふものは誠に卑近な有様であるけれども、広く渡つて居る、一寸演劇・浄瑠璃・講釈等多くは仏教の意味を加へて、勧善懲悪・因果応報、其間に面白味を付け、慰みを加へて教育をして居ると云ふ有様である、善事を為せは栄へ、悪事を為せは其悪報が来ると云ふ教旨が、自然と其骨髄に染み込で居る、又中以上は支那道徳に依て所謂仁義忠孝・五倫五常、総て論語とか孟子と云ふやうな経書を楯に取つて教へられて居る、此教育は随分上下に広く渡つて居る、それ等は即ち日本の人心を維持して居るのであらうと思ふ、社交上罪悪の進まぬと云ふのは、是等が与つて力あるであらうと思ふ、斯う答へた、さうすると独逸人は又一歩を進めて、御説明に依て今までの有様は了解しましたが、甚た失礼な申分であるけれども、玆に御尋申したいのは今の仏教である、今仏教が日本の宗教として力強く盛んに、尚ほ進んで行く者であるか否、又其孔孟の教が今日年長の人は習慣上守つて居るであらうが、是からの
 - 第26巻 p.247 -ページ画像 
若い人は、其通り其教育を維持して行くや否、若しさう云ふもののなくなつた後に巧利功名丈け進んで行つたら其末の日本はどうなりませう、是に至て私も少し窮した、立派に答へる辞を持たなんだ、私が是に答へて言ふに、誠に末の末までを心配した御尋であるが、決して私はさう恐れるものではなからうと思ふ、成程今儒仏の宗教と云ふものも、向後世に押拡められる程の力は持たぬかも知れぬ、併し中等以上の人々は大抵仁義忠孝・五倫五常と云ふことは、代々に伝つて教へて行かれるものである、畢竟今日の処は百事創卒の間であるから、真の宗教道徳と云ふものを、日本の仏教に依て繋くと云ふことは六ケしからうけれども、仏教其他のものの中で、或一宗が成立つて人心を維持することが出来ぬと云ふこともあるまいと思ふ、今貴君の問に対して未来は斯くなると云ふ答は出来ぬけれども左様に心配することはなからうと云ふことを答へて、一場の談話をしたことがあります、爾来丁度十六七年許り経た今日になつて見ると、少し仁義忠孝が薄らいで来た、仏教の教が段々磨滅して来た故に此末はどうなるかと云ふことがどうやら年一年に怖《コワ》みを増しはせぬかと思はれる、どうぞ是に至つて此商業社会に於ては仁義忠孝なり、若くは仏法の勧善懲悪なり、充分に保持して、此社会をして、暗黒世界に成行かしめぬと云ふことを希望に堪へぬのであります、今阪谷君が、欧羅巴から穂積や悴の書状の往復に就て一二の御話がありました、私も久しく文通を怠つて居りまして漸く一昨日の休日に始めて書面を書いてやつた、其序でに聊か思付いたことのあるのは、日用文鑑と云ふ書物に、室鳩巣と云ふ人の感慨の文がある、此感慨の文は全く儒教一遍のものであるから極く消極にして、進み行く世の中には甚だ面白からぬものであるが、老人の繰言としては感心なものだ、斯く言ふ私も年を取たから、詰まり老人の繰言と聴かれるでありませうが、室鳩巣の文に大に感じましたので、それを附加へて欧羅巴へ送つてやりましたから、それを読んで御聴に達するやうにします
   (室鳩巣の句及青淵先生が其後に記したる一文は、載せて本誌第百三十八号雑録欄内「二十二頁」にあり)
是は私が室鳩巣の文を読で、感慨の余り今日を思ふて短い文章を加へたのであります、詰まり此商売社会をして世の中に今一層信用を受けるやうに、即ち善六・丈八たらざるやうにしやうと思ふには、私の斯く希望する如く、諸君も御力めを願ひたいと思ふ、此席に張り出してある泰東格物学に藍香先生が、儒と云ふ字は人扁に需《マツ》と云ふ字で、即ち品物を揃へて人の需を待つやうなものであると言はれた、如何にもさうであらう、孔子は其門人に、為君子儒、無為小人儒と云ふことを言つた、私は竜門社の諸君に為君子商、無為小人商、斯う申上げたいと思ひます


竜門雑誌 第一三八号・第二二―二三頁 明治三二年一一月 ○室鳩巣壬子試筆の詞に就て(青淵先生)(DK260048k-0004)
第26巻 p.247-248 ページ画像

竜門雑誌  第一三八号・第二二―二三頁 明治三二年一一月
    ○室鳩巣壬子試筆の詞に就て (青淵先生)
  鳩巣名は直清、字は師礼、一の字は汝玉、通称新助、鳩巣・駿台滄浪等の号あり、幕府に仕へて儒員たり、享保十九寅年歿す、享
 - 第26巻 p.248 -ページ画像 
年七十七
  ○此文、典故の引用等頗る多く、且其文体もやゝ高尚に過ぎたる処あれども、学者に在りては、此類の文例をも知りおくかた要用ならんとて、採収することゝはなしぬ
日月迭に移りて白駒の隙過ぎやすく、衰病日に侵して黄金の術成りがたし、されば犬馬の齢、是まであるべしとも思はざりしが、いつしかも老の波より来て、ことしは七十あまり五つの春にもなりぬ、剰へちかきころより身に痿疾を得て、手足もあがらず、起居もなやめるままに、昔の董生を学ぶとにはあらねども、此三とせ春の園を窺ふこともかなはねば、閨中ながら梢につたふ鶯の音に残の夢をさまし、枕にかをる梅が香に、過ぎし昔をしのぶばかりになんありける、しかはあれど、幸に若かりし時より学びの窓に年を経る甲斐ありて、程朱の道にしたがひて、鄒魯の風をたづね、韓欧が文をこのみて、邯鄲の歩を学ぶにぞ、老の寐覚も慰みぬべき、さても多くの年月を経て、世のうつりかはる有様を考ふるに、盛衰栄枯互に行きかふをば、夢とやいはん現とやいはん、誠に富貴は浮べる雲の如く、禍福は糾へる纆のごとしといへるに、何かたがふ事あるべき、中に唯吾が聖人の建て給へる三綱五常の道のみ、天地と並び伝へ、古今の隔てなく、是ばかりはかはる事あるべからず、人として仰ぎ崇ぶべきは此道ぞかし、然れども儒教世に行はれざりしより、人々義理に疎く、利欲にさとくなる程に、五常の道すたれて、風俗日に下りゆくこそなげかはしけれ、もとよりいやしき身にて一代の風教を維持せんとすとも、わが力及ぶへきにあらねば、ひとへに蚍蜉の樹を撼かし、精衛が海を塡むるに似たるべしさはいへど世を憂ひ民を新にするも、吾儒分内の事なれば是を度外におくべきにもあらす、世に老師宿儒と称する人の、好みて異説を肆にし、又は他道を雑へて仁義五常の沙汰をばよそにするこそうけられねたゞ務めて新奇を競ひて、俗耳を悦ばしめ、時好に投ずるなるべし、いと口惜しき事なり、古人のいはゆる阿世曲学とは、是等をいふなるべし、よし人はさもあらばあれ、縦ひ風俗は昔にあらずなりぬとも、わが身ひとつはもとの如く、仁義の道を守りつゝ、前修の模範を失はじと思ふこそ、責て儒となりししるしともいふべけれ
                    (下略、駿台雑話)
 二百年の昔に於る鳩巣翁の感慨は、儒教の上にありてさもこそといふへけれ、開けゆく今の世は、名教・風俗ともに憾なきはつなるをさはなくて、此年頃の世の中は言ふもいまわしく、思ふもつらきことのみそ多かるは、抑も亦いかなる理由にやあらん、想ふに文明てふ文字は世道人心を腐敗せしむるものにはあらさるへけれは、必すや世の人々の誤り解するためなるへし、そは兎まれかくもあれ、吾経済社界のみは、人たるの道を守りつゝ、国に尽すの力を失はしと思ふも、責て商業者となりし本分ともいふへけれ
   明治三十二年天長節の夜しるす