デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.252-261(DK260050k) ページ画像

明治33年6月17日(1900年)

是日、向島ノ八百松ニ於テ、栄一ノ還暦・授爵祝賀ト社長渋沢篤二・名誉社員穂積陳重ノ帰朝歓迎トヲ兼ネテ当社第二十四回春季総集会開カレ、栄一之ニ出席シ、社員ヨリ寿言ヲ受ケ、之ニ対シテ答辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三三年(DK260050k-0001)
第26巻 p.252-253 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年    (渋沢子爵家所蔵)
六月十七日 曇
○上略 十一時 ○午前枕橋八百松楼ニ抵リ、竜門社員二十四回総会ニ列ス、
 - 第26巻 p.253 -ページ画像 
此日ハ余ノ授爵ト還暦トヲ祝スル為ニ、社員ニ於テ寿言ト名クル祝辞ヲ作リ、幹事之ヲ朗読ス、依テ其答詞トシテ一場ノ演説ヲ為ス、午後一時ヨリ札幌麦酒会社ノ分工場ニ宛タル庭園ニ於テ園遊会ヲ開ク、余興数番アリテ頗ル盛会ナリ此日会スル者四百五十人余ナリト云フ ○下略


竜門雑誌 第一四五号・第四二―四八頁 明治三三年六月 ○竜門社第廿四回総会(DK260050k-0002)
第26巻 p.253-256 ページ画像

竜門雑誌  第一四五号・第四二―四八頁 明治三三年六月
    ○竜門社第廿四回総会
      青淵先生還暦及授爵祝賀、並に渋沢社長及穂積博士帰朝歓迎会
本社に於ては去る六月十七日午前九時、青淵先生の還暦及授爵の祝賀並に渋沢社長及穂積博士の帰朝歓迎会を兼ねて、第廿四回総会を向島枕橋々畔なる八百松楼上に於て開く、当日は天気快晴なりしかば来会者三百四十名の多数に及び、非常なる盛会にてありき、開会第一着に青淵先生の祝賀式を挙行し、賀表及六十年史を捧呈する筈なりしも、先生には已を得ざる用向の為め来臨遅延せられしかば、順序を変更して社長及穂積博士の帰朝歓迎式に移り、八十島幹事社員一同を代表して右両氏歓迎の為め、左の祝文を朗読す
   ○祝詞略ス。
右終るや社長渋沢篤二君、答辞を兼ねて欧米遊歴の実況談を為し、英国人の美風殊に公徳を重ずることより伊太利人の進歩せざること、我国民の稍や伊太利人に近きことを述べられ、次に穂積博士も亦答辞を兼ねて漫遊中の雑感を述べて、我国と欧米の発達上異なる点は、彼は外部に対すること即ち例へば外観の装飾にしても、或は徳義上にしても、或は又音楽・美術上にしても社会一般に対する事柄に於て最も発達せるあるも、我国は之に反して家内の徳義・家内の装飾を始め、父子・夫婦・君臣・兄弟・朋友等の関係は発達せるも、社会若くは公衆一般に対する徳義其他の事柄に於て甚だ劣れりと痛論せられたり
右にて社長及穂積博士歓迎の式を終り、愈々青淵先生の還暦及授爵の祝賀式に移り、斎藤幹事は社員一同を代表して頌徳祝賀の文を朗読す即ち左の如し
      青淵先生還暦及賜爵祝辞
 孟軻氏曰、天下に達尊三つあり、爵一、歯一、徳一と、謂ふに此三達尊は、人々の同く心に欲する所にして、而も其得ることを必すべからざる者なり
 然らば即ち天下果して之を兼ぬる者なきか、曰く在り、誰ぞや、曰く我青淵渋沢先生是也、先生天資明敏、其才経済に通暁し、其学理財に練達す、先生の未だ顕はれざるや、榛沢の孤村、名を編氓に藉して、身を農商に委ぬ、業の職と、或は之を卑しむも、何為ぞ志操の高尚を妨げむや、将相種あるに非らず、小池豈蛟竜なからむ、農商必しも愚ならざる也、士大夫必しも賢ならざる也、俗吏の倨傲を憤りて、涙を下民の卑屈に灑き、外舶の東来を憂ひて、腕を幕政の衰頽に扼す、乃ち耒耜を抛ちて、交遊を志士に結び、旗を掲げて夷を攘ふ、事成ならずと雖も、壮志屈せず、橋公の賢明、忽ち値遇を辱ふし、身を託するに人あり、志を伸ふるに地あり、先生の事業於
 - 第26巻 p.254 -ページ画像 
是乎一変す
 始て仕藉に上りて、職を職務に奉ずるや、国産を興して用途を補ひ農丁を募りて干城に充つ、策新たにして用切なり、橋府の前途人望みを属するに至る、其進て幕臣となるや、公子を奉して泰西に航し五洲を歴観して、文物を視察す、主家の否運、大政の復古、大志未だ達せざるも、学已に素あり、興業理財の術、謂つべし百尺竿頭一歩を進むと、其静岡に帰住するや、深く泰西に鑑みて、我邦商業の不振を慨し、仕を致して民間に入り、主として共同事業の有益を説く、至誠の発する所、徳豈孤ならむや、合資協力賛可隣あり、旧夢一覚して、商社特起す、本邦の合資商会ある、実に此に始まる、先生の事業於是乎再変す
 夫れ奇璞光明を韞むも、世豈下和なからむや、徴辟一たひ下りて、天の恩命復た辞すへからす、金紫身に加はりて、朝班名を留む、言を立道を行ふ、唯理の在る所、賢を挙け能を薦む、孰か其職に称はさらむ、大蔵の事務、乍ち通達を呈し、少輔の斡旋、夙に敏活と称す、其王事に蹇々たる、敢て匪躬の誠を忘れすと雖とも、説を抂けて自ら屈し、言を憚りて苟も合ふは、君子の取らさる所、万言の建議一紙の辞表、寔に止むを得さるに出る也、先生の事業於是乎三変す
 方此時や、先生年方に壮にして気益鋭し、況や才の徳と並ひ進み学の識と共に明かなるに於ておや、宜なる哉、驥足乍ち展ひて、鵬志始て達し、第一の銀行、其基を肇め、資本の流通、世人其便を呼ふ之に継て以往、商に工に将た農業に、苟も国に利ありて、民に便なるの事業は、自ら進みて労を厭はす、与かりて力を尽さゝるはなし其数蓋し枚挙に遑あらさる也、先生の事業於是乎一定して亦変せす抑も変する所の者は其形にして、変せさる所の者は其志なり、其変するや変せさる可らさるに変するなり、其定まるや定らさる可らさるに定まる也、夫れ霰雪集りて而凋まさる者は、松柏の春を待つ所以なり、風雨晦くして而熄まさる者は膏火の晨を待つ所以なり、若夫厄会に遭罹し険岨に出入し、数は危に瀕して毎に機先に変通し、卒に能く其初志を今日に貫徹し得たる者は、固より先生操持の堅貞に因ると雖も、亦焉んぞ天斯人を生して彼の剥復消長の際に於て特に之を重困し、又之を曲全し躓かす顛せす、以て七日の来復を待たしめたるに非さること莫きを知らむや
 果せる哉徳望の隆き、名声中外に馳せて、功業民間に被る、吁、亦盛なる哉、今や、先生歯六十又一、精明強固、嘗て壮年に減することなし、賢子令孫膝を遶り、和気瑞靄堂に溢る、杖郷の寿其天に得るの厚き、其亦此の如し、加之、今者又栄爵の錫ものあり、此亦朝廷の殊遇にして、益先生の功勲を明かにし、而も斯業の発達を証するに足る、何そ光栄の大且美なるや
 嘗て聞くことあり、寿も亦天人の別ありと、夫の稲を食ひ、夫の水を飲み、善必しも積ます、悪必しも為さす、蠢々然として一事の為すあるを見す、然れとも黄髪鶴背、其歳耋期に及ひて、身に疾病なし、此所謂天寿にして、而も自ら求て強ふへからさる者なり、徳隆
 - 第26巻 p.255 -ページ画像 
く行修り、功業天下に耀き、恵沢民生に洽く、千歳の後、万里の外樵夫牧童の徒も、亦皆其名を紀して、其人と為りを慕ふ、此所謂人寿にして、而も自ら勉めて為し得へき者なり、苟も天寿の強ふへからさることを知らすして、呼吸を考へ導引を事とし、或は芝朮を服し、或は練丹を甜りて、以て其長生を僥倖するあらは、誰か之を天を誣る者と謂はさらむや、又苟も人の当さに為すへきことを為さす人の当さに勉むへきことを勉めすして、徒らに皮相を飾り、其言辞を夸大にし、其行為を豪華にし、或は之を石に鐫み、或は之を金に勒して、以て名声を後世に求るあらは、誰か之を人を欺く者と謂はさらんや、嗚呼誣と欺とは固り妄なり、居るへからさるなり、天寿も亦敢て尚ふに足らさるなり、然らは則ち其人寿を得んと欲して、誣と欺とに陥らさるもの、豈亦難からすや、況や天寿を兼て之を有する者をや、或は曰く、臣の君に於る、弟の師に於る、頌賛毎ねに其実に溢ると、其或は然らむ、独我先生の如きに至りては、徳業の富赫々乎として人の耳目に在り、豈蕪辞の能く溢るゝ所ならむや、蓋し尽す能はさるなり、於戯、所謂爵と徳とを兼ね、天寿・人寿を併せ、之を一身に有する者は、則ち先生其人にあらすや
 今玆庚子六月十七日の吉辰を卜し、先生の為めに賀觴を奉し、恭く華甲の寿、賜爵の栄を祝せんと欲す、乃ち寿言に添ふるに、曾て編する所の六十年史を以てし、謹みて之を函丈に呈す、今夫一部の小史、何そ先生の豊功盛徳を悉すに足らむや、聊感徳の誠を表し、以て無彊の寿庚を賀する所なり
                  受業  竜門社員 敬白
朗読を終て斎藤幹事右の賀表と与に、予て先生の徳を頌し併て還暦を祝せんが為めに編纂せられたる青淵先生六十年史を恭しく捧呈す、於是右編纂委員長たりし阪谷博士起て編纂の顛末を報告し、引続て青淵先生には起て其答辞として、先生が明治六年官途を辞して民間に下り実業上に尽したる始末及び実業家の地位を上進する為めに尽したる所以より、計らずも今回授爵の 恩命に接したる次第を述べ、次に余は既に諸君より還暦の祝賀を受くる高齢に達したるが、玆に将来に於ける余が一身の進退に就て聊か陳述するあらんとて、左の如き意味を述べられたり
 日本古来の風習より考ふれば、最早還暦に達したる老人は世の煩を避け、悠々風月を賞し以て閑日月を楽むべきことなれは、余も亦斯かる感を起さゞるにあらず、然れとも退ひて熟々我国現時の情勢に顧れば、未だ以て心を安じ退隠を許すべきの時にあらず、我商工業は動もすれば政治のために蹂躙せらるゝの形跡あり、商業上の道徳は日を逐ふて衰退せんとす、特に我隣邦の形勢は日に益急にして、延て商工業に及ぼす影響測り知るべからさるものあり、斯る多事多難の時に当りては、徒らに一身の逸楽を希ひ国家の責務を免る能はさるべきを信す、唯余は今や六十有余の老人なれば、或は老耄老衰の譏を免るべからずと雖も、元と老耄と云ひ老衰と云ひ、畢竟するに新智識の欠乏を意味するに外ならず、若し日常新智識の注入に意を用ひ、更に多年の経験に依り、斃れて後已むの決心を以て進まん
 - 第26巻 p.256 -ページ画像 
には亦聊か微力を尽すこと難きにあらさるべし、今後余は斯心を以て世に処せんと欲することなれば、諸君も亦此意を諒せられんことを希望す
云々と、壮者も亦及ばさる抱負を開陳せられたり、右終つて祝賀の式を閉ぢ、予ねて用意しある旧佐竹邸の庭園に引移りて園遊会の催しあり、午餉並に各種の饗応ありて、又余興には陸軍々楽隊の奏楽あり、三遊亭一坐の茶番狂言あり、来会者は各自の好む所に従て三々五々談話の小集を開き、一同十分の歓を尽して散会せしは午後五時過きにてありき
青淵先生・渋沢篤二君及穂積博士の演説筆記、今回の総集会に臨み金品を寄附せられし氏名来月発行の分に掲載すべし、尚ほ当日出席せられたる名誉社員以下準社員までの出席者の氏名を示さんに左の如し、尤も多数来会者のありし為め、或は混雑の際氏名漏の御方もあらんかと察し、玆に予め断り置き候
○下略


竜門雑誌 第一四七号・第一六―一七頁 明治三三年八月 ○竜門社第二十四回総会に於ける阪谷博士の演説(DK260050k-0003)
第26巻 p.256-257 ページ画像

竜門雑誌  第一四七号・第一六―一七頁 明治三三年八月
    ○竜門社第二十四回総会に於ける阪谷博士の演説
私は唯今竜門社長からして先生に捧呈致しました六十年史編纂の顛末を御報道致します、これは既に雑誌にも出て居りますことでございますが、三十年十一月に竜門社の幹事会に於きまして、青淵先生の還暦を祝するに如何致した者であらうかといふ相談の起りました節に、何か華美に渉らぬやうに、世の中に利益の遺るやうな方法を以て祝したい者である、それには竜門社員各々先生の薫陶を受け、種々教を戴いて、其教が結果となつて種々の事業となつた其事業の顛末を一つ書集めて、之を御還暦の祝として捧呈するといふことが一番宜しからう、斯ういふ決議になりましたので、即ち明治三十年十一月に着手致して本年二月十三日御還暦の当日までに出来致しましたのでございます、其編纂の委員長として私が御推選に預りましたのでございまして、何分多忙な身でございまするのと、又先生御関係の事業といふものは至て多いのでございますのと、それから竜門社に於て考出されたのは三十年十一月でありましたけれども、此大部の書物を編纂致しまするには時日も短いといふ憾みのありました為めに、御推選を戴きました責任を十分に果たす丈けのことが出来ませなかつたのでございます、誠に忙しい間に筆を執りましたり、或は筆を執る暇がございませんから私の口で申しまするのを傍に書生を置いて書取らせましたり、或は諸君から御寄贈になりましたのを私が一応見まして筆を入れましたり、さういふやうな種々の方法を執りました為めに、文章も一定致して居りませず、書取りの際に字を誤つたこともございましたり、又此の印刷に際しましては、印刷会社で以て充分御尽力下さいましたにも拘はらず、校正の行届かざる所があつたり、甚だそれ等の点といふものは折角御推選に預りましたに対しまして、恐縮千万な次第でございまして、此事は顛末を御報告しますと同時に、諸君に御断りを申上けて置きます、併ながら青淵先生に対して一言申上けて置かなければならぬ
 - 第26巻 p.257 -ページ画像 
のは、此出来上りました所の書籍は編纂委員長が其責を免れぬ為めに甚た不完全ではございますが、此材料をお寄せ下さいました所の諸君の御熱心といふものは、御推察下さらなければならない、即ち此六十年史二千余頁は、一頁々々毎に此材料を寄せやうといふ諸君の御親切といふものが籠つて居ります、即ち此二千余頁は二千余頁の親切を以て成立つて居る、即ち此贈物は、甚だ編纂の仕方に於ては欠点がございましたといふことは申訳がございませんが、贈物と致しましては、充分心を籠めた贈物であるといふことを何卒御記憶を願ひたいのでございます
私は玆に編纂委員長の責任解除を諸君に求めますると同時に、此竜門社に於きまして最も愉快なる日に遭遇して愉快なる役目を引受けて、さうして玆に目出たく先生の高寿を祝することを得るの栄を有したといふことを、偏に喜びますのでございます


竜門雑誌 第一四六号・第一―六頁 明治三三年七月 ○竜門社第二十四回総会に於ける青淵先生の演説(DK260050k-0004)
第26巻 p.257-261 ページ画像

竜門雑誌  第一四六号・第一―六頁 明治三三年七月
    ○竜門社第二十四回総会に於ける青淵先生の演説
 本編は、六月十七日八百松楼上に於て開きたる先生の還暦及授爵の祝賀を兼ねたる竜門社第二十四回総会の席上に於て述べられたる演説の速記なり
皆様に御礼を申上げます、此竜門社の二十四回総会に当つて、老生が還暦の祝の為めに、社員一同の御尽力で、特に御心入りの、老生が関係せし事業の歴史を御編纂下すつて、今日それを頂戴致すといふことは、此上もなく難有且喜んで拝受致すのでございます、加ふるに図らずも此度授爵の 恩命を拝しましたので、其事も竜門社員が共にお喜ひ下すつて、併せて之を慶賀するといふことで、唯今幹事より朗読になりました寿言と申すものは、謹んで之を拝聴致しました
竜門社の成立は、其初は誠に微々たる唯た渋沢一家の塾生が偶然相会して学理を論じ交誼を厚うするといふ小集会でございましたが、一滴の水が追々に相合して、遂に大河をなすといふ有様に至つて、或は学問の研究、若くは平生の社交に就ても斯く多人数になつて、而して社員の従事する事業も殆と此世の中の文明を裨補する事柄にして、ありとあらゆる事物が皆な竜門社員の執務の中にあるといふことは、老生も此上もなく喜ばしう思ひまするし、社員御一同も共に相歓喜する所であらうと考へるのでございます、而して歳月は段々経過し来りて、終に諸君から還暦を祝ふといふまでに至りましたのは、実に心に銘して忘るべからざるものでございます
授爵のことに就きましては、過般来老生の主として営業をして居る銀行の同業者連中、若くは商業会議所の人々、或は全国の商業会議所会員、或は当市内にある所の商工業会社の多人数からして、種々なるお企てを以て祝詞を頂戴しまして、其時々に御答辞を申上げましたけれども、詰まり今日申すも其趣意に過きませんのであります
老生宿志の意念と申すものは、今阪谷氏が演説された、老生の六十年史編纂に付て段々書類を集めて調査したといふ其書類の中に包含して居りますが、一身上の経過は種々に変化致して今日に至りましたけれ
 - 第26巻 p.258 -ページ画像 
ども、明治六年に官を辞しまして、日本の商工業の進歩を己れ一身に引受けて、是非とも相当なる位置に高めたいといふ観念を嗚呼かましくも心に思ひ定めたのです、素より資力も学問も足らぬからして、果してドの程度に進むかは分らぬけれども、当時の商売の景況では、国の富み国の強さを他国に対比することは出来ない、詰まる所政治といふものは実業から生れて来なければ可かぬものである、政治は実業を助ける機関である、実業は主にして政治は客である、政治の為めに実業で金を儲けて、其金で政治を拡張するといふか如き、自他相反して居る精神では、此国も迚も発達はしないといふことは、余程強く覚悟致しました、故に政治界に関する経歴は全く打捨てまして、此商工業といふものに一意心を用ひたいといふことは、今日も憚らずに申上けますのでございます、其頃老生の期念するところは、既に政治といふものに思を絶つ以上は、向後唯一ト向に商工業に従事して、決して政海に拘はることは総て物も云はず、身体も其間に交へぬといふことに致しました、左様に覚悟を堅く定めました為めに、政治に対する名誉といふものは私の身体には来るものでもなし、又た受くべきものでもないと観念したのであります、故に爾来三十年の間、商工業以外の関係は、若し来らんとしても力めて之れを避け、又厳に之を防くといふことに致しましたからして、日本の今日の有様では、勲章とか爵位とかいふものは、総て政治に関する名誉であつて、商売に関する名誉ではないと了解して居つたのです、夫れ故に今般の授爵は実に予期せぬ事柄であつたから、之を拝受するにも余程躊躇したのです、何等の御趣意で斯る恩命が出たかといふことを理会し得なんだ、此間も商工業会社諸君の御開きなされた祝宴にて申上げました通り 聖旨を忖度するはいとも恐多いことではあるが、老生には何分之を解釈することが出来なんだ、爾来商業会議所・銀行集会所・商工業諸会社の人達が、此授爵の恩命は、商工業に力を尽し実業の発達に勉焉した為めに、其の事が 天閽に達したのであるといふ解釈をなされてから、始めて聊か心に安じたといふ次第でございます、これはモウ業に既に屡々申述べましたからして、竜門社員に対しても前言を重複して申述べたるに過ぎぬのであります、若し一歩進めて云ふならば、商売といふものを欧米諸国の如くに、真に貴重するといふものであつたならば、老生の一身は兎も角も、将来には大に進んで文勲武功と相均しく、賞揚のなされ方があるであらうと思ふのでございます、授爵に対しての意見は今申述べました通りで、商工業に対して微力ながら老生が力を効したといふ事が、既に 天閽に達したとすれば、実に老生の喜びのみならず、商工業に従事する諸君は、皆な御喜びであらうと思ふ、此事に就ては共に倶に 天恩を拝して感謝の意を表するの外はありませぬ
偖てこれから老生が六十年の星霜を経まして還暦を祝ふて戴いたに付ては、今日までの経過と未来の紀念とを一言申上けて置かなければなるまいと考へるのでございます、老生が商工業に力を尽さなければならぬといふ志を立てましたのは、今も申上けます通り御一新の首めでございます、六十年史に於ては、百事に心を用ひて種々其事業が成功した如くにお褒めなされましたけれども、併し自分で考へる所では実
 - 第26巻 p.259 -ページ画像 
にまだ何事も行届かぬ、前褒めに預るほどの功労が少ない、殊に老生の紀念は財を積むといふよりも、寧ろ事業を起すといふ観念でやつたといふことは、諸君に御記臆を願ひたいと思ふ、又一つには政治といふことの観念を打捨てましたから、それと同時に政府関係のことは私は甚だ好みません、好まぬといふて、種別を立てた如くに彼を嫌ふといふことではありませんけれども、成るべき丈け自力で成立することがして欲しい、斯ういふ意念を持ちました、故に其為したる事業の迹に付て御覧下さると、実に微々たるものである、大きな仕事は老生に出来ないからして、甚た見るに足るものは少ない、併し念慮は此一国の商工業といふものが共に倶に進歩発達して、商工業者の位置が世の中に重んぜられ、其力の強盛になるといふこと丈けには、微力浅学と雖も、充分なる心を以て尽したといふことは、諸君宜しく御諒察を請ひたいと思ふのであります、三十年の間孜々経営致しましたが、力の微なると学問の浅いので、其為した迹を見ますると、今申上けます通りであつて、而して業に既に去年と暮れ今年と明けて、夢中に六十年を経過して了つた、古人の所謂、事多歳月促といふ感慨は、常に身辺を離れませぬ、此老境に至つた後は如何致したら宜いか、一考慮を要するものと思ふのてあります、日本古来の有様から考へますると、最早六十一歳といふものは相当なる年輩である、身体が杖突く程には至らずとも、一身の経営が足るならば、先つ老人といはれて、花を見、月を賞して、優游世の中を看過するも亦一つの思案であります、況や其功労は薄くても、三十年の間実業に従事して、昔しに較べて見ますると大に進んだといふことも言ひ得る上からは、先つ此辺で己れは社会を御免を蒙るも亦可なりといふ念慮も生ずる、併し再ひ之を思考して見ますると、今日を以て安じては居られぬ、成程三十年の昔しに較べると商売の程度も進んだ、商売人の力も増した、己れ一身も大なる過失なしに今日まて経過した、此銀行で俸給を受け、彼会社で賞与配当を貰はずとも、一身を維持する丈けのことは出来るであらう、故に文書を楽むとか、或は閑日月に安ずるとかいふことも、亦可なりと言ひ得るかは知られぬが、併し今の世の中を顧みますると実に憂慮に堪へぬものがある、今日日本の事態はドウであるか、海外の列強国と相対比するといふことか出来得るか、畢竟国運を進めたい、国家を強めたいといふことは、一歩一間の進みを以て小成に安んしては居られぬ比較的に他の国々と相拮抗するといふ所まで行かねばならぬといふことは、諸君もお望であらうと思ふ、殊に目下の我商工業は如何であるか、動もすれば政治に蹂躙せられて商売の道徳も殆と地に墜んとする有様である、加之東洋の風雲は甚た惨澹として、隣邦の事態は実に容易ならぬといふ場合に至つて居る、之に関する政治・軍備は姑く別物として、商工業に於て彼等に打勝つて行くといふことは、我日本ではまだ為し得られないではないか、斯う考へて見ますと、既に進むを欲し既に強きを求めた一身は、老ひたりと雖も、風月を楽むといふ時期とは申されぬといふ観念を惹起しますでございます、故に或は人から老朽とか若くは老耄といはれるかも知れませんが、自身は尚ほ進んで今幾年であるかは分らぬが、所謂斃れて止むまで此商売に従事しなけ
 - 第26巻 p.260 -ページ画像 
ればならぬと覚悟をして居るのでございます、偖て玆に此年齢です、如何に左様思ふても真に老朽若くは老耄であつたならば、世間が之を厭ふのみならず、竜門社員も亦之を嫌らうであらう、果して老耄・老朽であるか、寧ろ老成・老実であるか、こゝが一つの判断である、老といふ字に対してよく論ずると悪るく誹るとで何方にでも評論し得る此席上には漢学の先生もお出のやうですから、字義の講釈は老生は致しますまいけれども、老成・老実は皆な老ひたるに付いて大に褒めた辞である、又老朽・老耄は年を取つたに付ての誹りの辞である、要するに年を取れば必す挙動坐作には幾分か鈍い所が生ずるに違ひない、筋骨がそれ丈け衰へて来る、けれども若し人間たる動物が、智慧といふものなしに此世の中を経過するのであつたならば、筋骨坐作の悪るくなつた丈けそれ丈け弱いといふに違ひない、これは野蛮世界の人間に於て見るところである、曾て穂積博士が隠居の論を著して、段々隠居といふものゝ種類を調べて見ると、文明に進んで来る程隠居といふものが減して来る、真の文明の域に至れは終に隠居といふものは殆となくなつて来る、此事はドウいふことから起つて来るかといふと、即ち智慧といふものが進むから、段々年を取つたものゝ効能が余計になると解釈してよからうかと思ふのでございます、果して然らは今老生一身に付て考て見ても、老朽にもなりませう、又老実にもなり得るであらう、其老ひて貴いといふのは、学問と智慧といふものゝ働きが年を取るに従て進んで参つたならば、年齢の長する程経歴の増すといふことは、争ふへからざる事実であらうと考へる、蓋し学問といふ者の寿命か何時迄で尽きるか、幾歳まで学問の時代だといふことは、甚た確定し得られぬのである、支那の説でも判然としない、欧羅巴の事は老生は知らぬから、チヤント指定めた解釈を聞かぬのである、成程秩序的の学校の学問といふものは、日本にも西洋にも其順序が立つて居るでせう、小学・中学・大学、而して此大学といふものが済んだならモウ学問はそれで終つたといふものではなからう、即ち学問の寿命といふものは、其人の生命と共に何時までも存続すへきものと解釈して宜いと思ふ、例へば支那の教でも孔子は、十有五而志于学、三十而立四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩といふてある、学に志すのは十五であるが、七十までの間、文字の中には学ふといふことはないが、平生学んで居るといふ意味は此中に含蓄して居る、論語の開巻第一に、学而時習之、不亦説乎とある
又子路の言に
 有民人焉有社稷焉、何必読書然後為学といふは、読書のみを以て学問とはせぬ、事物に処するのが学問の本体であるといふことを説明されたのである、即ち学問といふものは其人の生命ほど続いて行くものであるといふ立派な証拠であると思ひます、二千年昔しの支那の学問に於てすら尚ほ左様である、況や今日の文明的の世の中では、学ぶといふことは、決して大学が済んだから学事は止んだといふ様に考ふべきではないと思ふ、然らば老生は今年六十一であるが、これから大に学んで、文明的の老人として、老耄・老朽といふ名を被らぬといふことが出来得ると思ふのであります、故に竜門社員諸君の忠実なる厚意
 - 第26巻 p.261 -ページ画像 
より、老生が今日までの事業に対して、還暦といふ年を機会として之を祝し、然も老生の、世の為めに斯くありたいと努力した事柄を大に調査して、之を褒めて下すつた此六十年史の贈物を、満身の名誉として忝く頂戴する御答礼として、老生も向後老耄・老朽の人にならさることを力め益々此の学問を進めて、今一般の世の中の進歩を見て、何卒文明の老人に終りたいといふ考でございます、一言の謝辞と共に、自分の老後の紀念を申上げて置きます
   ○栄一、第二十四回総会費トシテ例ニヨリ金三百円寄附ス。


(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK260050k-0005)
第26巻 p.261 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三三年    (八十島親義氏所蔵)
六月十七日 曇 寒シ
○上略 午前八時宅ヲ出テヽ車ニテ枕橋八百松ニ至ル、本日ハ青淵先生叙爵並ニ還暦ノ祝賀ト、渋沢社長・穂積博士帰朝歓迎トヲ兼ネタル竜門社第廿四回総集会ナリ、九時ヨリ祝賀式ニカヽル筈ナリシモ、青淵先生無拠事アリタリトテ遅刻出席ノ為、十一時先ツ歓迎式ヨリ始ムル事トシ、予ハ社員ニ代ハリテ歓迎ノ辞ヲ朗読シ、次ニ社長、次ニ穂積博士洋行視察所感ヲ述ヘラル、次ニ斎藤峰三郎氏ハ、社員一同ニ代ハリ青淵先生ニ向テ還暦及叙爵ノ寿言ヲ朗読シ、次ニ社長ヨリ青淵先生ニ六十年史ヲ奉呈シ、夫ヨリ阪谷氏六十年史編纂ノ来歴ヲ述ヘラレ、終テ青淵先生ヨリ答辞アリ、叙爵ノ事ニ付テハ官爵敢テ期ス所ナラサリシ、図ラス皇上ノ恩命ヲ拝シ、其趣旨ヲ知ルニ苦ムモ、世ノ謂フ如ク若シモ商工業上ノ勲労ヲ認メラレタルモノトセハ、商業界諸君ト相共ニ忝ク聖旨ヲ体セサルヘカラズ、但諸君ノ中ニハ益進ンテヨリ多クノ待遇ヲ受ケ得ルヨウセサルヘカラスト述ヘ、又六十年ノ祝賀ニ対シテハ、六十年史ノ贈物ハ実ニ入念ノ腆ニシテ感謝不過之、併シ予ガ老ヒタリト雖トモ、精神・経験等ニ付テハ身体ノ老朽老衰ニ反シテ老成老熟ノ覚悟ヲ以テ、決シテ風月ヲ友トスル等ノ事ナク、将来倒ルヽ迄斯業ノ為ニ尽スヘシト述ヘラル 午後一時済ミ、夫ヨリ旧佐竹庭園(札幌ビール株式会社建築用地)ニ於テ園遊会ニ移ル、庭園ノ結構美ニシテ最モ適ス、団子・煮込・ラムネ・ビール・すし・甘酒処々ニ散在シ又余興ハ戸山学校ノ楽隊、其他ハ円遊一座二十余名思ヒ思ヒノ芸当也又午餉トシテ和料理弁当(一本五十銭)ヲ各来会者ニ供セリ、各主客歓ヲ尽シ三時解散ス、来会者凡ソ四百人ト号ス
○下略
   ○尚、栄一ノ還暦祝賀会ニツイテハ本資料第二編第三部所収身辺中「還暦」ノ条参照。