デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.327-339(DK260060k) ページ画像

明治37年5月1日(1904年)

是日、日本橋倶楽部ニ於テ、当社第三十二回春季総集会ヲ開ク。栄一病気ノタメ出席セズ。


■資料

竜門雑誌 第一九二号・第四六―四八頁 明治三七年五月 【本社第三十二回春季総…】(DK260060k-0001)
第26巻 p.327-329 ページ画像

竜門雑誌  第一九二号・第四六―四八頁 明治三七年五月
○本社第三十二回春季総集会 は予定の如く五月一日午前九時より日本橋倶楽部に於て開会せられたり、当日は不幸にも青淵先生病気の為め出席せられざるは勿論、御一家中の人々にても其為め出席せられざる方多く、加之非常なる雨天にて一般来会者も例年に比すれば大に少なかりしも、尚ほ二百有余名に上り意外の盛況なりき、前記の如く社長出席(午後より出席せられたり)せられざりしを以て、阪谷博士社長を代理して一場の挨拶あり、併せて昨年十一月来に於ける青淵先生病気の経過並に現状を詳細に報告せられ、次て堀越善重郎氏の演説ありたり、右阪谷博士の演説終るや商業会議所の萩原源太郎氏の発議にて、社員一同より青淵先生に何か御見舞品を呈して御病躯を慰問せんとの議を提出せし所、満場異議なく之れを可決し、直に各員より応分の金員を拠出し、忽ちにして拾数円に上りたれば、之にて適当の品を買調へ、本社常務幹事を社員一同の総代として御見舞を申上けることとなれり、又当日は時節柄苟も華美・虚飾に流るゝことは一切廃止することとなし、各員僅に茶の代りとしてビールに喉を湿ほし、折詰弁当を喫して飢を治むるのみに留め、余興として土屋勇造の黄海海戦談円遊の落語のみにして頗る荘厳静粛の裡に会を閉ち午後三時頃各自退散せり、当日の出席者は、名誉社員にて午前より出席せられしは阪谷博士のみにして、社長には種々なる用務を繰合はされ、午後に到りて漸く出席せられたり、当日出席社員の芳名を録すれば左の如し
    名誉社員
 渋沢社長    阪谷博士
    社員(出席順)
 松平隼太郎   仲田正雄   本多竜二
 若月良三    増田亀四郎  中野次郎
 八十島親徳   井田善之助  木村清和
 - 第26巻 p.328 -ページ画像 
 青木昇     渋沢長康   仲田勝之助
 萩原久徴    伊藤半次郎  野口半之助
 柳田国雄    原簡亮    浅見悦二
 上田彦次郎   佐々木哲亮  星田善作
 内山吉五郎   斎藤孝一   阿部吾市
 村松秀太郎   青山利恭   山崎鎮次
 高橋波太郎   阪本鉄之助  野本庄太郎
 三俣盛一    山本朝太郎  安藤鍫
 石井録三郎   堀田金四郎  渋沢作太郎
 桃井可雄    大庭景陽   堀越善重郎
 小林武彦    小林徳太郎  鈴木重臣
 佐々木和亮   山際杢助   岡田半次郎
 八十島樹次郎  粟生寿一郎  須原徳義
 板野吉太郎   斎藤又一   沼崎彦太郎
 小林市太郎   鈴木清蔵   林新右衛門
 杉浦道弘    豊泉為吉   鈴木源次
 大須賀八郎   林保吉    熊沢秀太郎
 尾川友輔    村井義寛   鳥羽幸太郎
 細谷和助    斎藤峰三郎  田中太郎
 前田保雄    二瓶茂    安達憲忠
 北脇友吉    永井定治   岸田恭譲
 東郷一気    赤木淳一郎  浅見録三
 小熊又雄    鈴木富次郎  木村弘蔵
 中村習之    豊田春雄   田口竹蔵
 目賀田右仲   小山平造   伊藤登喜造
 萩原源太郎   高橋俊太郎  岡本亀太郎
 和田巳之助   吉岡新五郎  中沢彦次郎
 田畑新之助   土山武質   金沢弘
 小林義雄    弘岡幸作   石井健吾
 成田喜次    大塚正保   小沢泰明
 上原豊吉    池田嘉吉   青木直治
 新居良助    柴田順蔵   村田五郎
 長田貞吉    塩川誠一郎  飯島甲太郎
 堀内歌次郎   高橋信重   小林銓之助
 久保幾次郎   利倉久吉   松村五三郎
 森茂哉     柳田観已   諸井時三郎
 長尾甲子馬   植村澄三郎  八木荘九郎
 横田清兵衛   友田政五郎  佐々木積
 一森彦楠    寺井栄次郎  関屋祐之助
 松倉長三郎   小川雄一   高橋栄次郎
 石川道正    曾和嘉一郎  大熊篤太郎
 御崎教一    生方裕之   土橋恒司
 井上公二    脇田勇    松村修一郎
 酒井正吉    和田勝太郎  田中七五郎
 - 第26巻 p.329 -ページ画像 
 小林武之助   高松豊吉   長谷川潔
 田中繁定    荒井謙    遠藤正朝
 村木善太郎   西田敬止   岩田幸次郎
 平井伝吉    服部巳吉   高畠義人
 山本音吉    山中善平   石井与四郎
 藤井栄     横田半七   宇賀神啓
 浦田治平    玉江素義   藤木男梢
 鈴木金平    豊田伝次郎  水野克譲
 金谷藤次郎   金谷丈之助  山村米二郎
 福島甲子三   山中譲三   真保総一
 石田豊太郎   横田晴一   石井健策
 松永米次郎   大西順三   堀井卯之助
 山崎一     藤村義苗   斎藤章達
 大塚磐五郎   金子四郎   深沢儀作
 土肥脩策    角田真平   松本武一郎
因に記す、前記決議に基き、常務幹事に於ては直に有名なる植木家薔薇新に命じて珍らしき盆栽・草花等を調撰せしめ、之を病蓐中にある青淵先生の許に差上げたる所、先生には非常に社員一同の好意を悦はれ、早く快癒して親しく謝礼を述べたき旨を幹事まで伝達せられたり


(八十島親徳) 日録 明治三七年(DK260060k-0002)
第26巻 p.329 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三七年   (八十島親義氏所蔵)
五月一日 雨 日曜
午前九時ヨリ日本橋クラブニテ竜門社総会ヲ開ク、雨天故来会者ハ予定ノ約半分、即二百三・四十人也、社長・ホズミ諸氏・夫人連、皆青淵先生ノ病気ノ為不参、阪谷氏社長代トシテ、開会ノ辞ニ引続キ、男ノ病状ヲ被述、次テ堀越善重郎氏世界ノ商業上ノ大勢、即列国領土拡張ノ気運ヨリ対戦ノ希望ヲ陳ヘ、次テ常磐屋ノ弁当ヲ出ス、尤戦役中故万事質素ヲ旨トシ、露店等置カズ、只麦酒ト甘酒ノミトナス、余興ハ円遊ノ落語ト土屋勇造ノ海軍実戦講談(旅順第一回閉塞)トニテ、午後三時閉会、予ハ帰宅後更ニ王子ニ至リ、今夜同邸ニ当直ヲナス、青淵先生肺炎ハ右肺ノ背部ノ一部ニシテ、別ニ蔓延セズ、経過ハヨキ方ナルモ、熱ハ九度位ニ留マル、即不規則ノモノニ付、分離モ規則正シク行クマジトノ事 ○下略


竜門雑誌 第一九二号・第一―一四頁〔第一―七頁〕 明治三七年五月 ○阪谷法学博士の演説(本年五月一日本社春季総集会に於ける)(DK260060k-0003)
第26巻 p.329-334 ページ画像

竜門雑誌  第一九二号・第一―四頁 明治三七年五月
    ○阪谷法学博士の演説
        (本年五月一日本社春季総集会に於ける)
諸君、社長渋沢篤二氏が差支に依りまして、社員の席末たる私が、第三十二回春季総集会の社長代理を致し升、今日は生憎雨天でございまして、道路の泥濘深く、定めし御出に御困りであつたらうと考へますが、相変らず多数御集会になりましたことは、事務員一同に代りまして深く感謝致します、尤も今日は好天気でありましても、時節が時節でございますから、例年の通り華美なる催しは無い筈であつたので、矢張室内の余興に止まつた次第でござい升から、竜門社の方に於ては
 - 第26巻 p.330 -ページ画像 
此雨天の為めに、余興其他の準備の上には格別迷惑を蒙りませぬ次第でございます
偖て今日社長の差支へました理由を申上けまするのは、本社の本尊である所の、渋沢青淵翁が少し病気が宜くございませぬ、社員諸君に向て、甚だ不幸なる報告を致さねばならぬ次第でございます、其為めに今日社長は王子へ参りました、又今日御演説下さる筈の高木兼寛氏も青淵翁の診察の為めに同所へ参られ、ベルツ博士も参られ、又穂積博士其他竜門社員の重なる人の多くは同所へ参られましたので、私は其御断りに出席致しました次第でございます、今日は別に演説の趣向とてもございませぬに依りまして、渋沢翁の病気の経過を御話致したいと考へます、渋沢翁は、先年欧米漫遊後至て身体が健全でありまして深く喜んで居つた次第でございますが、昨年の九月頃インフルエンザに冒されまして、一時発熱せられました、其以来多忙なる人でありまするが故に、始終十分なる療治が届いて居りませなかつた、詰まり病後の保養を十分にする暇が無く、国家の為めに尽瘁せられてあつた次第であります、其故に其後も度々発熱したり風邪を引かれたりして、引籠られることがありましたので、我々も深く心配致しまして、十分なる療治をせられんことを忠告したこともあつた、然るに昨年十一月廿二日は、渋沢翁の御本家、即ち埼玉県大里郡血洗島―今は八基村と申します、字血洗島の御本家に法事がございました、其の翌日同じ郡の備前堀と云ふ所の石碑、其石碑の文章は、渋沢翁が撰文せられ、其書も揮毫せられたのであります、法事に其石碑の落成式を兼ねて参られる筈であつたが、両三日来風邪の気味にて少々発熱せられまして、遂に法事にも又落成式にも参られなかつた、所で其熱が甚た宜くない熱であつて、即ち耳の奥の所謂中耳の部分に炎を起したのであります是は甚た危険なる病気である、それに就きまして、耳の方の専門家では賀古博士が主任となりまして、それに堀井・土屋と云ふ両医師が補助せられ、又佐藤三吉博士・ベルツ博士も加はつて、始終手当を尽されましたが、幸にして、此中耳炎の方は或は切解しなければならぬかと云ふ一時憂もあつたのでありますが、それは切解をせすに癒りまして、昨今では、耳の底に少し唯だ鳴りが残つて居る、ゴーと云ふ音が幾分か残つて居ると云ふ位になりまして、其他身体に異状が無く、段段経過が宜くなつたので、此の塩梅で見ると、春にもなつたらば、無論又再たひ国家の為めに尽瘁せらるゝところの渋沢翁の顔を、我々が見るの喜こびを得るであらうと信して居つたのでありますが、其後腸胃に異状を生しまして、之れが為めに一ケ月許り悩んで居られましたが、是れも左程重いことでなかつた、腸胃の方が癒りましてから、段段暖くなるし、一つ何地へか転地せられた方が宜いであらうと云ふ医師の説で、意を決して今年三月六日国府津へ行かれましたことは、諸君の御承知の通りであります
国府津へ行れましてから時々熱が出る、甚だ是は心配な事でありますから、高木博士に診断を受たが宜らうと云ふので、高木博士を東京から聘して診察を受られました、所が今別に異状を認めぬ、併なから何分昨年のインフルエンザの後を十分療治してないから、皮膚と云ひ、
 - 第26巻 p.331 -ページ画像 
腸と云ひ、其他喘息と云ひ、種々の部分が未た十分に癒つて居ない、是は打棄てゝ置くのは宜くない、それと今一つ肺の方に少し濁音の聞ゆる所が一部ある、自分は長く渋沢さんの身体を診察しないから、老年になられた為めに或は肺部に変化を生したかも知れないが、どうも自分が今より四・五年前に診察した時とは少し異様の音が聞ゆる、是は注意すへき点である、即ち高木博士の心配は、或は肺炎でも潜伏して居ないかと云ふ所から、土屋・堀井の両医師に注意せられて、国府津に居られることは、気候も暖かになつたから、最早其必要もあるまい、一応東京へ帰られて、是迄不完全に修覆してあつた身体を、十分に修覆した方が宜い、自分も目下の時局であるから、国府津へ屡々御見舞申すことが出来ない、東京ならば都合が宜いから、帰られたら宜からうと言はれるので、今から一週間程前即ち四月廿四日に翁は東京へ帰られた、帰られてから二日許り宜かつたが、又熱が出た、其熱が下らなくつて、一昨夜からの熱が甚た面白くない状を呈して、三十八度九分許りに上つて、下熱剤を用ひても下らない、而して高木博士が心配せられた濁音が十分現れて、所謂伏在して居つた肺炎が現れて来た、斯ふ云ふ徴候になつて来ました、そこで今朝高木博士とベルツ博士が立会はれまして、十分手当を施すことになりました、就きましては、翁の此春季総集会へ出られませぬのは勿論であるのみならず、其他の人々も出られぬと云ふ次第になつたのであります、併ながら幸に今現れました所の肺炎は、右の肺の後ろの方にあるさうでして、其部分は極めて小さい、而して起し方が極く不規則に起して来て居るからして、或は是から先、激しい蔓延が無しに済みはせぬかと云ふ望を医師は懐いて居る、急激に参りますと、或は四十一度以上にも熱が上つて、肺の両方共冒されて、或は心臓麻痺を起すやうな事にも至ります次第でありますが、唯今翁の冒されて居るのは、今申上げる通り、極く不規則に現れて来て部分か小さい、是は熱も上らず蔓延もせぬ手当を施して、それが功を奏するならは、何等心配する事はあるまいと云ふ見込でありますが、是迄のは、インフルエンザと云ふものてあつたやうてありますが、今度一つ段の付いた病気が現れて来て、殊に年輩も年輩であり、親戚の人の心配するのは、随分無理のない事でございます、けれども予て体格も丈夫であり、食慾もあり、今朝は熱が低いと云ふ話でありますから、敢て心配すると云ふ事にはまだ及はぬと考へます、併ながら尋常の風邪でないと云ふ事だけは、御報告申して置いて宜からうと考へます
偖てそれに就きまして尚ほ申上げたいと思ひますのは「歳寒而知松柏之後凋」と云ふ語がありますが、昨年の十一月以来、我帝国の時局は実に容易ならざる有様に陥つたのでございます、昨年の暮に露国の回答の参りますまでは、まだ平和の望を懐いて居つたのでございますが昨年の暮になつて露国の回答が甚だ満足でない、遂に十二月廿八日緊急勅令を以て財政上の非常処分をせられると、愈よ日本政府の決心が堅くなつて来たと云ふ場合から、最早平和の望は薄弱になつて参つたのでありますか、併しながら日本国の 皇帝陛下は勿論、露国皇帝陛下に於かせられても、熱心に人類の社会の為めに平和を御希望あらせ
 - 第26巻 p.332 -ページ画像 
られたと云ふ事は、我も人も堅く信じて疑はぬ次第でありましたから両国の局に当る所の方々が、相当なる協議を尽されたならは、必すや血を流し、又世界の商業を傷け、実に人間社会の不幸なる状態を、二十世紀の今日に於て、現出すること無しに済むであらうと信じて居つたのが、不幸にして此二月上旬に於て、平和は愈よ破裂となつて、砲煙弾雨の間に相見ゆるに至つたのであります、是に就きましては、昨年以来我帝国の商工業社会に於て幾分の警戒心を懐いて居つたが故に総て商工業は不活溌を呈して居つたのでございますが、既に談判破裂と相成つた以来は、益々此不活溌の度か強くなつて参りました次第であります、而して一方財政の方に於きましては、此大戦争を継続して行くが為めに、非常なる準備を要すると云ふ時代でありまして、所謂財政経済の上に歳の寒い時代に遭つて来たので、そこで松柏の凋むに後れたるを知ると云ふ人が無くてはならない、即ち今日の時局に当りて、渋沢翁の脳力と腕前を利用することの出来ぬと云ふのは、政府も不幸、民間も商工社会も不幸、実に是は一大不幸であると云ふ事を断言するに憚らぬのであります、是は私一個の言ではない、皆様も御同様の事であらう、而已ならず、沢山耳にする所の言であります、ちよいとした事が起りましても、渋沢さんが居られたならと云ふ言を常に聞くのであります、是は甚だ残念に考へます、御当人の残念は勿論の事、又我々青淵翁の薫陶を受けた者として残念なるのみならず、国家の為めに甚だ残念に思ふのでございます、併なから渋沢翁の歴史を繰返して見ますると、何時でも戦争には極く縁の遠い人でございます、抑も渋沢翁が志を懐いて此日本の政治社会に現れたのは、恰も御一新前後の兵馬倥傯にならんとする少し前のことで、鳥羽伏見の戦争の時には既に仏蘭西に居つた、それから青淵翁が横浜へ帰つて来た時には戦争は函館に移つて居る、朝廷と幕府の間の勝敗は明かに決定せられて、唯た函館の一隅に、戦争の残りの分が継続せられてあつたに過きないのである、故に御一新の戦争には翁は関係しなかつた、若し翁が居つたならは必す一方の旗頭でなくてはならぬ人である、即ち慶応元治の騒動は、必す京都に於て端を啓くに相違ないと云ふ翁の活眼からして、態々民兵を編制して京都て其準備をして居られた、私の家と渋沢の家の懇意になつたのは民兵組織の為めで、民兵組織の為めに私の郷里備中へ翁が見えて、其時初めて私の父と渋沢翁とが懇意になつたのであります、そこで相当なる兵隊を募集して、翁は京都へ上つて為すあるの日を待つて居つたのですから、日本に居られたならば、無論戦争に加はつて、死んで居るか生きて居るか、必ず一方の旗頭になつて働いて居る人が、丁度戦争に加はることが出来なかつた、それから明治十年の西南戦争、此時には丁度上海へ行つて居られた、急に日本から呼戻して帰られたから、戦争中の事柄には尽力せられたに相違ない、けれとも戦争の始まつた途端には日本に居られなかつた、それから二十七八年の戦役の時には癌を患ひて居られて、病中差図はして居られたけれとも、自分は殆と加はられなかつた、此度の日露戦争に就きましても、翁は又戦争の事には加ることが出来ない、併なから必すや戦後の経営に就きましては、翁の脳力、翁の敏腕に国家が期待する
 - 第26巻 p.333 -ページ画像 
事の多いと云ふことを私は疑はぬのであります、殊に朝鮮半島の如きは、翁の手腕に依て、今日我商工業の発達を来して居るのでございます、朝鮮半島に於て何が為されたか、今日まで日本人が何をして居るか、僅に京仁鉄道・京釜鉄道・第一銀行・金山等の事業てありますが其事業の殆と九分九厘は、皆な翁の指揮監督の下に成り、又成りつゝあるのであります、是よりして満洲或は支那全国に対して押及ぼさんとする所の日本の商工業の経営発達は、矢張此人の力を以てすると云ふ事が最も必要なることは、其人の経験・其人の信用と云ひ、最も必要なることと信し、又必ず左様あらうと信じまする、そこで渋沢翁は今日病気であります、どうか此竜門社に関係の諸君に於きましては、此翁の平生の薫陶・指導を十分に服膺せられて居ることでありますから、大に国家の為めに、今日並に今後尽されることを希望するのであります
此度の戦争は、国民の負担は容易でない、決して容易でない、又此戦争は決して短日月の間に結了するとは考へられない、又不名誉なる平和は希望しない、既に事の開けた以上は、名誉ある平和でなくては我我希望せぬのである、併ながら、人類社会の為めに平和を希望すると云ふことは勿論である、勿論であるが、其平和たるや、必ず名誉ある性質のものでなくてはならぬと云ふことは、我々の決心して居る所である、我決心を遂行するに就ては、実に非常なる費用を要し、又非常に商工業の上に困難を来すと云ふことは、どうしても覚悟せねはならぬ、三百年以前の我々の祖先が朝鮮征伐を企てた時には、十万の兵を十有余年の間海外に曝して、其不完全なる船舶、不完全なる武器を以て、明軍と戦ひ、朝鮮と戦つたのである、不幸にして我帝国の内に内乱の萌があつて、此雄大なる計画を貫徹することが出来なかつた、即ち豊臣大閤亡ひて徳川家康之に尋て起つて、国内の不和の為めに、国内の平和の攪乱を防くが為めに、止むを得す外征の計画を中止してしまつたのでありますが、今日に於ては其当時に比較すれは、船舶も完全になり、武器も完全になり、国内は叡聖文武なる 皇帝陛下御統治の下に於て、挙国一致、十年は愚か二十年の戦と雖も堪ゆることが出来るのである、唯た其堪ゆるに就ての困難をよく凌かぬと、商売も不景気になりませうし、租税も重くならうし、公債も増して来るであらう、併なから勝ちさへすれは、此結果は必す大に酬ひられる、又此度の戦争は、清国の保全・朝鮮の独立を保持するの目的に出てたものであつて、詰まり朝鮮・支那・満洲、是等の地方に於ける商工業を、平等なる有様の下に置きたいと云ふ精神に外ならぬのである、我日本人が、独り之を恣まゝにすると云ふ意思は毫も無い、固より露国人をして、之を占有せしむると云ふ事は毫末も許さぬ、又何国の人と雖も、朝鮮・支那・満洲に於て、或特殊の権利を有つ所の、所謂門戸解放に反対した事は決して許さぬ、然し我日本人は或利益を壟断する考は決して無い、世界の平和の為め、世界の商業の為めに為して居る戦争でありますから、それは毫も無い、併ながら戦争を開いた日本人は、どこまでも朝鮮の開発、満洲の開発、支那の開発を以て任しなければならぬと云ふ事は明白である、即ち此戦争の困難に堪へ、十年、二十年
 - 第26巻 p.334 -ページ画像 
或は三十年掛つても、到底名誉ある平和を以て結了して、帝国の国威を大に宣揚することを希望しなけれはならぬ次第であります
斯く申しますると、渋沢翁の今日病気であると云ふ事を甚た残念に思ひ、随て亦諸君の奮発を大に望まなけれはならぬと云ふ事に帰着する次第であります、私の今日の役目は、渋沢社長の代理として、開会の辞を述へれはそれで責は了るのでありましたが、渋沢翁の病気の事からして、種々なる感想が胸中に浮ひまして、不知不識申す事が甚だ冗長に渉りました次第で、諸君の御清聴を忝うして深く感謝致しまする

竜門雑誌 〔第一九二号・第七―一四頁 明治三七年五月〕 ○堀越善重郎氏の演説(本年五月一日本社春季総集会に於ける)(DK260060k-0004)
第26巻 p.334-339 ページ画像

    ○堀越善重郎氏の演説
        (本年五月一日本社春季総集会に於ける)
私は皆様に御挨拶申上げまする前に、一言阪谷博士に御礼を申上けたいと思ひまする、私は――又諸君も御同様でございませうが、此会の御本尊たる所の渋沢男爵の御病状を知りたく思ひました所、よくも明細に其経過を御報告下さいまして誠に難有い次第に存します
私は生来訥弁でございまして、訥弁の私に突然何か御話をするやうにと云ふ八十島君からの御申付で、何を申上げて宜いか、自分も甚た困まつて居る所でございます、併し折角御命しになつたことでありますから、何か御話をせねはなりませす、此所に立つまでに、どう云ふ事を御話致して宜いか、まだ問題も定まらない位でございます、且つ訥弁を以て申上けるのてございますから、堀越は途方もない事を申したと云つて定めし御叱りもあらうと思ひますか、是は私の罪でなくして私に命せられた所の八十島君の罪であると左様御承知を願ひます
そこで私の申上けたいと思ひますものは、此世界の形勢が、今日はどう云ふ工合に傾いて居るか、将た日本は、どう云ふやうな方針を以て今後国の方針として進んだならは宜からうかと云ふ事に就て、一寸御話申上けたいと思ひます、そこで此世界の大勢が、今日どう云ふ工合に赴いて居るかと云ふ事は、私が申上げませぬでも、諸君能く御存じの事でございますが、今日のウオールド・ポリチツク即世界の政治の方針はコロニヤル・ポリシー(殖民政略)と云ふ事に傾いて居るやうでございます、即ち成るべく自分の領地を拡め、成るべく自分の臣民を汎く蒔付ける、それで商売は成るたけ自分同士でやると云ふ、方針に傾いて居るやうでこいます、近頃亜米利加の学者でウイスコンシン大学の教授であるラインシと云ふ人がコロニヤル・ガバメントと云ふ書を著して居りますが、其等を見ますると、如何にも此世界と云ふものは甚しい強慾なる所の方針に傾いて居るやうに思はれます、即ち私共は、之を徹頭徹尾信する所の一人でごいます、何故であるかと申しますると、今日の此世界と云ふものは、互に汎く通商貿易を為すと云ふ事に就て、成るたけ妨害をする、即ち自分の国の商品は成るたけ外国に向て之を売りたい、若し肯かされは剣を以てゞも、無理に押付けると云ふ傾になつて居るやうでございます、それならは人から買ふのはどうであるかと云ふに、人から買ふ方は、成るたけ邪魔をして税を高め、或は力に訴へてゞも他国から這入つて来る物は之を抑制して、成るたけ入れないやうにしやうと云ふ方針に傾いて居るやうでございます、昨今の事ではありませす、八・九年前の事で私か初めて英吉利へ
 - 第26巻 p.335 -ページ画像 
行つた年でございますが、其時にラブーシエルと云ふ政事家がございまして、其人の主筆になれるトルースに道化画が描いてありました、それは亜非利加の土人に品物を売る所の画で、どう云ふ方法にしてあるかと云ふと、最初先つ宣教師か行つて聖書を読ませる、其次に商売人が行く、商売人が行つてホイスキーを売る、ホイスキーを売つて之を買はなけれは、汝を斬るぞと云ふやうな工合で後ろに剣を抜いて控へて居る、今日の有様は蓋しさう云ふやうな事ではないかと思はれます、最も甚だしくさう云ふ傾になつて居るやうに私は思ひます、さう云ふ工合でありますから、今日の此形勢から判断して見ますと、又古の野蛮時代に戻りはせぬか、野蛮時代と云ふ事は或は語弊があるかも知れませぬけれとも、鎖国同様で、自分の国の商売工業を自分たけでやる、人のことは構はない、国と国とが親密に交際をしないと云ふやうな工合に方針が傾いて居るやうでございます
諸君も御承知の通り、十七世紀から十八世紀に至るまではさう云ふ時代がございましたが、十八世紀の学問の開けたる結果から、十九世紀に至りては皆な互に自由に通商貿易をすると云ふ事になつたのでございますが、今日は又昔に帰つて関税の争を為して居る、亜米利加と露西亜の争、或は独逸と英吉利の争、或は独逸と亜米利加の争、是等の外交問題は総て皆此の関税問題に始終政事家が頭を悩まして居るのでございます、そこでどうしたならば、国が安全に商売工業が出来るかと云ふと、どうしても十分面積を拡め、食物を自分たけで生産し、商売工業は自分同士でやつて、外国からの供給を仰がなくても少しも差支がなく一国の維持が出来るやうにならなけれはならぬと云ふ所からそこで殖民政略と云ふものに変更して来たやうに見えます、今日も私か外国から来た新聞を一寸見ましたが、亜米利加合衆国では、南亜米利加の方の商権を握らねはならぬと考へた所から、鉄道を南亜米利加へ全通すると云ふ事を決議したやうでございます、鉄道委員の一人の報告する所に依りますと、紐育から南亜米利加のアルゼンチン国のピユエノス・アイルと云ふ都府まで鉄道を敷くには、今後尚ほ四千八百哩鉄道を敷かなけれはならぬ、さうして此費用は、一億五千万弗と云ふやうな工合に予算してございました、亜米利加合衆国は、諸君も御承知の通り彼通り広い国でございますが、尚ほ且鉄道を敷いて南亜米利加の商売までも占領せねばならぬと云ふやうな事を企てゝ居る、又亜米利加は至て公平な国である、決して人の国を侵略するやうなものでないと申しながら、玖馬の戦争は如何でございませう、ボルトリコを取り、或は布哇を取つてしまひ序に非律賓までも取つてしまうと云ふやうな事になつて居る、英吉利はどんな事をして居るかと申しますると、此国は商工業の国であると申しまするが、奈破烈翁の戦争以来英吉利のヒストリーは、殆ど戦争の止んだことは無い、或は一年や半年は戦争の無いことがあつたかも知れませぬけれども、英国の歴史は奈破烈翁戦争以来必す何処かで戦争をして居る、印度としなけれは亜非利加とする、亜非利加としなければ南亜米利加とすると云ふ工合に始終戦争をして居る、殊に亜非利加に於ては、戦争の絶間が無いやうに思はれます、即ち一国の権力を維持し、商売工業を盛んにし、且つ
 - 第26巻 p.336 -ページ画像 
之を維持して行くには、汎く面積を求めねはならぬと云ふ事を、徹頭徹尾アングロサクソンは考へたものらしい、併し英国は必ずしも此アグレツシヨン、即ち侵略的の政略のみを執ては居らぬやうでございます、時の内閣に依て、時々変更があるやうでございます、例へはグラツドストーンの如きは、至て侵略主義を嫌つた人でございますが、何しろ英人は、人の国を取らねは可けないと云ふ所から、始終土地を奪ふことに骨を折つたらしく見えます、又独逸の如きは、最早欧羅巴に於ては土地を取ることが出来ぬ所から、成るたけ土地を外国に求めねはならぬと云ふので、それが為めに独逸の皇帝は非常に造船術を奨励されて、直接間接に保護を加へて船を造らして居る、それは今後独逸の領分を拡めるには、南亜米利加なり亜非利加なり、兎に角海の外に領地を拡めねはならぬ、其時に一人でも多く兵を送ることの出来る国が勝を制すると云ふ所から、斯様に船を造つて居るのであります、又露西亜はどうであるかと云ふと、諸君も御承知の通り、我国が露西亜のアグレツシヨンに向て戦ひつゝあると云ふ有様である、露西亜は不幸にして日本と云ふものがあつて、今日のやうな妨を受けて居りますけれども、他の国も同様であつて、独り露西亜のみが強慾を恣まゝにすると云ふのでなくして、世界列強は皆な露西亜のやうな事をして居るのであつて、蓋し露西亜は遅蒔であつたかも知れない、早くさう云ふ政略を執つた国は、格別戦争もしないで、唯た欺し取若くは好い加減な手段を以て取たのであり升、そこで日本は然らはどうするかと云ふと、矢張世界の大勢に従て、出来得るならはどうしても土地を取らねばならぬ、別して欧米の国と比較して、日本が土地を取つて、其面積を拡めねはならぬ必要があると思ひまするのは、日本の今日の形勢では、商工業を発達して外国貿易を盛んにし、外国貿易の為めに富を急激に増すと云ふ事は、どうも覚束ないやうに思はれます、尤も年々歳々輸出入の額が増しますから、日本の富が年々歳々増殖して行くと云ふことは蔽はれない事実でありますけれども、併し今日日本の為しつゝある事、又将来為さねはならぬ所の計画に向て、十分の富即ち資本を得んがため商売工業を急に盛んにしやうと云つても、それは覚束ないであらうと思はれます、日本の商売工業を盛んにして、外国貿易の助を為すと云ふ事に就て不利益の点のあるのは、日本の衣食住と欧米の衣食住とが、非常に異つて居るのでございます、諸君も能く御承知でございませうが、欧米文明国の貿易を見ますると、其商品の重もなる物は衣食住に必要な物が一番金高が多い、日本の内地の商売でも同様でありませう、贅沢品よりは、毎日三度の食物或は着物若くは住居に就て必要な物が商売の高が一番多い、そこで欧羅巴と亜米利加、若くは欧羅巴相互の商売貿易が盛んに出来ると云ふのは、此衣食住の習慣が同しであるからであります、試みに仏蘭西で靴が余計出来過きたと云へは、之を独逸へ送ることも出来れば、英吉利へ送ることも出来る、英吉利で羅紗が出来過きたとすれば、仏蘭西へでも何所へでも持て行かれる、又亜来利加で例へは綿布であるとか、或は何か生活上に就て必要な物が余計出来たとすれば、之を欧羅巴へ送るのは自由である、併ながら日本人の生活に必要なる物、例へば我々の着る着物が
 - 第26巻 p.337 -ページ画像 
余計出来ても、之を欧羅巴へ出す訳には行かない、又下駄が出来過きたからと云つて下駄を欧羅巴へ輸出することも出来ない、それでどうしても日本の輸出品は西洋人に無くても宜い物しか輸出して居ない、西洋人に必要な輸出品は甚だ少ないのであります
斯う云ふ有様でございますから、今日露戦争に当て大分国費が要る、此国費を支へるには商売貿易を盛んにせぬばならぬと云ふので、経済の発展だとか何とか言つて、大分皆様が御心配になりますけれども、之を急に盛んにすると云ふ訳には行くまいかと私共憂ふるのであります、併ながら若し日本が今後領地を拡める、即ち唯今阪谷博士の仰せになつた通り、朝鮮を取るとか満洲を取るとか云ふ事は出来ますまいけれども、自由に殖民をすることが出来るであらう、又戦争の結果どうなるか分りませぬが、朝鮮・満洲を属国に致しませぬでも、西伯利亜の一部を日本の属地にして、農業を盛んにするとか、牧畜を起すとか、礦山を開発するとか云ふ事は出来るであらうと思ひます、若し幸にして今日の連勝が続いて、十分の事が先方へ要求が出来るならば、私は甚だ穏かならぬ事を申上けるやうでございますけれども、西伯利亜の一部は是非取りたい、黒竜江一帯の地は、是非日本の領地にせねばならぬ、さうして若し出来るならば、バイカル湖までも取つて戴きたいと思ふのでございます、食物が自国の領内で出来、商売工業が自国の領内で出来て、他国の力を仰かないやうにしたいと云ふには、今日のやうな狭い面積では可けない、どうしても面積を拡めねばならぬと私は思ひます、そこで或は私の説に反対の御方は申すでございませう、お前は左様な議論をしても日本人は殖民は駄目である、別して西伯利亜のやうな北の方の寒い所を取つてどうするか、と御心配になる御方もあらうと思ひます
例へば北海道はどうしてある、北海道を取てあるけれども日本人は一向北海道に手を付けて居らぬではないかと云ふ御話もあらうと思ひます、併ながら私は申上げたい、領地を取つたからと云つて、必ず直くに之を開発するとか、必ず直くに農業を盛んにしなければならぬとか必ず直くに礦山を開発しなければならぬと云ふ事でもなからうと思ます、試みに世界の殖民地の摸様を見ますと、英国の取つて居る所の濠洲は如何でございませう、蓋し其開発して居る所の部分を見れば九牛の一毛とでも申さなければなりませぬ、又亜弗利加も彼通り欧羅巴各国で分捕して居りますけれども、どの国がどれだけの事業を起してをるか、是も亦九牛の一毛であらうと思ひます、然るに何故にさう云ふ工合に欧洲諸国が領地を取らねはならぬかと云ふと、人口の増加には限りは無いけれども土地には限りありて人間が造ることの出来ないものである、併し人力で之を奪取ることが出来る、故に先づ第一に之を取込んで置かなけれはならぬから矢鱈に取るのであります、そこで国の強弱を論するに当りて、其国の形勢、事情を審かにすると云ふ事は極く少数の学者であるとか或は経済家より外に無いのであつて、多くは皆な漠然と国の面積の広狭を以て、直ちに其国力を判断すると云ふやうな傾がある、例へば露西亜の如きである、彼様な貧乏な国……彼様なと云つても私は行つたことはありませぬが、商業も盛んにならず
 - 第26巻 p.338 -ページ画像 
工業も起らない、さうして露西亜が金を借りたいと云ふと、いくらでも金を貸すと云ふ傾がある、殊に仏蘭西の如きは、全財産を挙けて之に応すると云ふ位に之を信用して居る、又白耳義の如き独逸の如きは露西亜が金を借りやうと云へば喜んで之に応ずる、今後は喜ふかどうか知れませぬけれども今日までは確に応して居る、是は露西亜人が商業に機敏であるとか、或は工業に就て非常な能力を有つて居ると云ふ為めではなく、唯た面積が広いから此位の国債は自由であると云ふので、唯だ面積を勘定して国債に応すると云ふ今日の有様である、それで日本に於ては、露西亜よりは商売工業は余程進歩して居ると私共は思ひますが、それにも拘らず、露西亜のやうに多くの国債を起すことは、外国では出来ぬであらうと思はれます、尤も此度の戦争に要する位の金は無論借りられませうけれとも、露西亜のやうに例へは三十億円とか云ふやうな金を外国から借りると云ふ事は、到底日本では出来なからうと思ふ、又出来た所で之を返す金は今日の経済の力では無からうかと思ひます、併しなから若し西伯利亜を取つて面積を広くして置いたならは、此西伯利亜からどれだけの富が出るかも分らない、諸君或は御思ひなさるでございませう、西伯利亜のやうな寒い所を取つてどうなる、是は私が最も諸君に御注意申上けたいと思ふ所でございます、併し斯う私が主張したからと云つて、実際見たことはございませぬが、西伯利亜と加奈陀とは同し緯度であります、そこで私は西伯利亜へは行きませぬが、加奈陀は二三十回通つて居りますからよく加奈陀の形勢、事情は分つて居りますが、極く最後に参たのは昨年でございます、私は昨年の五月十八日に紐育を出て二十日から廿四日まで加奈陀を横切つて居りましたが、此時に非常な事でございました、五月の二十日からして晩香坡へ出るまでの間は非常な雪で、寒いことは話にならない程寒かつた、さう云うやうに五月頃に雪に蔽はれて居る加奈陀はどう云ふ所であるかと云ふと、小麦が大層出る、而して其小麦の品質たるや世界第一等であつて加奈陀小麦と申しますと、世界で一番直段が高くて一番多く出るのであります、それで此地方で小麦の耕作をするには五月の末に雪が融けると始めて土を返す、土を返して種子を蒔く、種子を蒔くと六月芽が出る、さうして八月収穫を了る、恰も日本の養蚕の事業と同し様なものであります、所が日本ではどうであるかと云ふと、私は旧と百姓をして小麦を作りましたから覚へて居りますが十月か十一月種子を蒔く、さうして其間肥料を与へたり其他種々の事をして、翌年の七月でなければ収穫することが出来ない、然るに此寒い地方で農業を致しますると、僅に五、六、七、八の四ケ月で出来る、至つて単純なものであつて、而して其出来る所の小麦は最も良好な物である
又西伯利亜の礦山は、甚た望多いやうに見ゆる、ウイツテが露西亜の紙幣を金貨本位に改めた時には、成程最初は外国債を募集して金を吸収致しましたが、其後に及んでは、西伯利亜の礦山を的に金貨本位に改めたのでございます、而して其金の多くは烏拉留山でなくして、黒竜江地方、若くはバイカル湖の東西に多く金が出ると云ふので、それを的に金貨本位にした位のものであつて、非常に有利なるものゝやう
 - 第26巻 p.339 -ページ画像 
に見えます、是は私が物知顔に申しては済みませぬが、本年一月巴里で発行になりました「経済上の露西亜並にウイツテの財政政策」と云ふものがありまして、それに精しく書いてありますが、其等を読んで見ますると、金・銀・銅の如き物が、余程西伯利亜から出る見込があるやうに書いてあります、さう云ふ土地でございますから、今度の戦争の報酬として、此西伯利亜の幾分は、是非頂戴せねはならぬと考へます
又日本がどうしても版図を拡めねはならぬと云ふ事は、独り我々国民が考へるのみならす世界の人も左様思ふて居る、此頃仏蘭西から来た新聞に、日も忘れませぬが、三月三日の国会で、或議員が演説をしたのである、其演説に曰く
 今日露の関係は、交戦国両国にのみ限られて居つて甚た幸である、併ながら諸君如何でございませう、此日本と露西亜との戦争の為めに、決して他の国に災が及ばないと云ふ事を断言し得る者がありませうか、私は是は断言は出来ぬ、如何となれば、日本の経済の有様から観察して、日本なるものは独り露西亜のみならず、他の国にも災を及ほすやうな事を仕出来すかも知れぬ、それは何故であるかと云ふと、日本国民は今日食物が足らない、食物が足らない為めに米の供給を我領土の安南に仰き、其港の西貢より採つて居る、日本は食物に不足して甚た困つて居るから、或は我安南を攻撃するやうな事が起らぬとも限らぬ
斯様に仏蘭西人が心配して居るのであります、それで日本が今後経済を発達させやうとするには、どうしても領地を汎く求めねはならぬ、唯た商工業のみで、年々歳々増す所の人口を養つて行くことは迚も出来さうに思はれない、依て私は諸君の前で甚た穏でない御話を申上けるやうで恐縮でございますが、是非此際土地を取つて戴つかなけれはならない、夫は黒竜江一帯は是非取らなけれはならず、出来得へくんはバイカル湖までも取らなければならぬと考へます、所謂帝国主義と云ふやうな乱暴な議論でございますけれとも、日本の将来を慮つて領土拡張の必要が、平生脳裡を去りませぬので、一言玆に申上けた次第でございます