デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.345-365(DK260062k) ページ画像

明治38年5月21日(1905年)

是日栄一、当社第三十四回春季総集会ニ出席シ、「武士道ノ解釈」ト題シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三八年(DK260062k-0001)
第26巻 p.345 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
五月二十一日 曇 風ナシ
○上略 七時朝飧ヲ畢リ庭園内ヲ散歩シ、今日ノ竜門社総会ニ関スル設備ノ如何ヲ一覧ス、午前九時頃ヨリ追々来人アリ、十時大隈伯来ル、相伴フテ庭園内ヲ散策シ、十一時ヨリ演説会アリ、社長披露ノ演説アリテ後、大隈伯ノ演説アリ、終ニ至テ余ハ武士道ノ解釈ト云フ演題ヲ以テ一場ノ演説ヲ為ス、午後一時園遊会ヲ開ク、午飧後数番ノ余興アリ夕五時頃ヨリ散会ス、此日曇天ナレトモ雨降ラス、会員一同充分ノ歓ヲ尽シテ散会ス


竜門雑誌 第二〇四号・第四〇―四二頁 明治三八年五月 【本社第卅四回春季総集…】(DK260062k-0002)
第26巻 p.345-346 ページ画像

竜門雑誌  第二〇四号・第四〇―四二頁 明治三八年五月
○本社第卅四回春季総集会 は本月十一日午前九時より、飛鳥山なる青淵先生の別墅曖依村荘に於て開かれたり、当日は前夜来の雨天にて例年の総会に比すれは来会者少なかりしも、猶三百名に垂んたる社員の出席あり非常の盛会なりき、出席者の重なるは来賓大隈伯を始め青淵先生・同令夫人・渋沢社長・同令夫人・穂積博士・同令夫人・阪谷博士・同令夫人等にして、午前十時渋沢社長壇に進みて開会の辞を陳へ、続て大隈伯起つて壮快なる弁舌を以て、渋沢男と予との交際は四十年来の久しきに亘り、交情一日の如しと説き起して、更に明治の初年共に大蔵省にあられたる当時の事より説き起され、一転して日露戦後の我国民は、大覚悟を以て満韓の野に大発展を為さゞるべからずと説き、更らに又青淵先生の往時に遡り、今日の先生こそ沈着老巧、実にオトナシけれども、昔は勇気充溢、活溌々たる好男子なりしと説き今日の少壮者は実に往時の先生に学び、大発展後の局面に活動せらるべからずと結へり、続て青淵先生の大隈伯の演説に対する懐旧的談話あり、夫れより武士道なる演題の下に、武士道は決して武門武士特有のものにあらず、商人・実業家の間にも之れなかるべからず、殊に新局面の発展せる今後の少壮商人は、大に此武士道の奥義を窮めざるべからずと述べられたり、右にて演説を終りて園遊会を開きたるが、幸に朝来の雨漸くやみ散策の自由を得るに至りしかは、各員思ひ思ひに
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寿司・ビール・団子・おでん・咖啡其他の飲食物に腹を作り、又は新緑滴るか如き樹下の広場に於て午餐を終りたり、庭園の結構風致、既に十分来会者をして歓を尽さしむるに足る上、陸軍々楽隊の奏楽、並に余興として大広間に常設しある舞台に於て伊井蓉峰社中の史劇「上杉謙信」中「春日山城内奥庭の場」一幕の催あり、更らに泉祐三郎一座の今様狂言三組ありて十二分の快を添へ、午後五時散会せり
 大隈伯爵  青淵先生  同令夫人
 渋沢社長  同令夫人  穂積博士
 同令夫人  阪谷博士  同令夫人
 社員 ○下略
   ○栄一、総集会費トシテ例ニヨリ金三百円寄附ス。


竜門雑誌 第二〇五号・第一一―二七頁 明治三八年六月 ○本社第三十四回春季総集会に於ける大隈伯の演説(DK260062k-0003)
第26巻 p.346-357 ページ画像

竜門雑誌  第二〇五号・第一一―二七頁 明治三八年六月
    ○本社第三十四回春季総集会に於ける大隈伯の演説
諸君。今日は竜門会の春季総会に御案内を受け、皆様に御目に懸ることは、私の歓びに堪へぬところでありまする。然るに今日は丁度私の宅に大勢客を招いて居りまして、時間が許しませぬために御断りを申しましたところが、私の客は午後でありまするから、是非午前に暫時でも宜いから出るやうにといふ、特に男爵の御子息が態々御出で下すつて、御案内を受けましたので、差繰つて参りました。ところが実は時が許さぬために十分に意見を皆様に述べることの出来ぬのは甚だ遺憾でありまするが極く簡単に意見の大体を皆様に述べたいと思ひます一体此竜門会の起つて居ることは、従来承つて居りましたが、つひ機会を得ないがために今日始めて出席を致しました、御承知の通り男爵は私の極く旧い友人でありまして、殆んど三十七年間の交りであります。曾て私が官吏である時に、御一所に仕事をし、共に力を尽したこともありますが、公私に拘はらず常に今日迄交りを継続して居る私の最も親愛する友であります。凡そ人の交りは境遇に依つて時々変化するものである、所が私の境遇は皆様の御承知の通りに余程波瀾の多い変化の多い境遇でありましたなれど此三十七年間、如何に境遇の変化あるに拘はらず、今日迄総て公私の交りを継続致して居る、私の最も親愛する良友の一人であるのです。又大抵年齢も同じやうでもありまするが、私は少しく年が上で、一日の長たるの故を以て私の地位が常に男爵よりは上であつた。其時代に於ては君は熱心に忠実に政府に力を尽さるゝにより私などの及ばざる所を助けられたことが頗ぶる多いのであつた。殊に男爵は維新前後に既に外国に旅行されまして、丁度外国から帰らるゝや否や直ちに大蔵省に出仕された。それで実は日本の財政の根本がまだ動揺して定まらぬといふ時に於て財政の上に、或は財政の諸規則の上に、殊に日本の貨幣の鋳造の上に力を尽されたのである。又其当時の大蔵省は今日の農商務省、逓信省、司法省の或一部分――民事訴訟の或一部分を持つて居つたといふ時代であります。それから当時の地方行政即ち内務省の仕事も持つて居るといふ有様で其頗る繁劇なること殆んど一国の政治の十の七八は大蔵省で持つて居るといふ時代であつた。其時に渋沢君は驚くべき才智、殊に非常なる
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勉強と忍耐とを以て其当時の我国の地方行政、若くは財政、或は殖産興業、有らゆる方面に対つて力を致された、そは実に大なるものである。然るに其頃は万事尚困難な時代で随分渋沢男爵などに反対な旧幕臣も多くあつたのである。有力なる旧幕臣の団体の中で熱心に反対をしたる者もあり、或は大蔵省の官吏中にも非常な反対があつたのである。其の当時はまだ封建が存在して居るに依つて、大藩には殆んと其藩の代表者の如き考を持つて居る官吏も居つた、そうして所謂幕臣といふものは殆んど皆な其当時の社会に擯斥されたものである。今日は年を取つて御居でなさるが、其頃の渋沢君は漸く三十歳になるかならぬか、まだ二十歳時代でありましたらう、さうして見れば先づ一書生一介の書生――失礼ながら其当時は今日程の富は持つて御居でにはならなかつた、所謂貧乏書生――幕臣にして貧乏書生、一見壮士のやうであつた(笑)。今日は温和な愛嬌のある御方になつて居らるゝが、なかなか其当時は英気勃々、一つ間違たら一本参らうといふ勢で両刀を帯びて、家に居る時も尚ほ一刀を腰に帯びて居られた、多分維新前後などには今日の所謂壮士的の運動もやられたかも知れぬ(笑)。ところがなかなか反対が酷いのである。併ながら其当時の官吏は、旧藩の官吏にしても随分皆な国家に対する忠実の念は等しく持つて居つたのであるから、渋沢君の職務に忠実なる、有らゆる職務に非常な精悍なる働きをさるゝに感じて、殆ど六箇月の中には反対の人々が皆な閉口してしまつたのである。初めさういふ反対をした人達が、私の所などに殆んど同盟罷工といふ勢で議論にやつて来て、あの壮士みたやうな幕臣を吾々の上に抜擢するとは何事だと言つて、非常にやかましく談判に来た。然るに其人達が、六箇月の後には私の所へ謝りに来たのである。「実に無礼をした、相済まぬ、とても渋沢君は吾々の及ぶところでない、今日人才の少い場合に斯の如き人才を得たのは甚だ喜ばしい」と云つて、非常に謝つた。其の謝つたやうな人が後には渋沢君の友達になられたやうであるが、初めは非常に反対を唱へたのである。デ一方にさういふ謝つた人もあつたが併しまだ幕府の或一部の団体はなかなか謝らなかつた、一緒に事をしない、是は多分誤解があつたのであらうが、幕府に種々な党派があつて、渋沢君などを用ゐたに付て反対を唱へた人々は多分御維新の時に幕臣の中でも勢力を有つて居つた人人である。さういふ人達が亦やはり渋沢君を懌ばないといふので余程むつかしかつたのである。甚しきに至つては、其当時政府で最も勢力のある木戸とか、大久保とか、或は岩倉公といふやうな人の所に対つて、「一体、大隈は怪しからぬ、幕臣を用ゐる、是は甚だ間違つて居る」、と斯ういふ議論を幕府の人迄が言ふので、私がナニ幕府の人を用ゐても宜いぢやないかと言ふと、「イヤ、幕府の人を用ゐるならば幕府にはまだ幾らも人才がある、あんな者を用ゐなくてもモツト良い者を用ゐたら宜からう」、斯ういふ議論をして渋沢君を攻撃すると同時に、吾輩も亦非常の攻撃に遭つたのである。さういふ時代に渋沢君の力を尽された事に付ては今に記憶して忘れぬのである
其時代は殆ど三十七年以前で、まだ廃藩前であるから一つも拠るべき文書がないのである、一つも行政組織が成立つて居らぬのである。所
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謂る事に触れて直ちに即決するといふ時代で、事起れば種々な行政組織を片端から組立て往くといふ有様であつた。其間に成立つたものが余程夥いのである。余程変つては居るが基を開いた事が沢山あるのである。今日は此銀行であるとか、或は諸会社であるとかいふものが実に盛んなるもので、殆んど銀行諸会社の資本を合すれば十億円以上に達して居る。銀行はどういふ有様であるかと云へば実際払込んだ額が三億七千万円、準備積立が一億万円、合して凡そ五億と云ふ、実に驚くべきものになつて居る。之に預金の八億円を合すれば今の銀行は十三億万円といふ力を有つて、其手形の交換高は昨年に於て四十一億万円に上つて居るのである。斯の如きものは偶然に出来るであらうか、鉄道であれ、紡績であれ、鉱山であれ、其他の有らゆる資本を集合して、大なる生産業が発達しつゝある其今日の基は、何れにあるか、決して偶然に物が生ずるのではない、みな其歴史を有つて居るのである其基が何れにあるかと云へば、やはり渋沢君が三十六七年以前に直ちに力を尽されたか、或は関係せられた事が其基を為して居るといふことを忘るゝことが出来まいと思ふ
併ながら、此時に拵へたものは遺憾ながら失敗をしたのである。私も其失敗者の一人であるが、多分渋沢男爵は此の失敗を噯にも見せられぬだらうと思ふ(笑)。其時の考はどういふ考であつたかと云へば、これから国を盛んにするには大なる仕事が必要である、大なる資本が必要である、種々なる大事業を為さんとするには到底一人一個の力では出来ないのである、如何なる資本家と雖も自分一人の資本では出来ないのである。多数の資本を集合すれば如何なる大なる事業も為し得ぬことはないのであるといふ、極く粗ツぽい単純な考で、外国の盛んなるのは皆な会社組織でやつて居るからである、此会社といふものが到頭今日の如く欧羅巴を盛んにした、然らば日本も資本を集合すれば欧羅巴の如く盛んになれるといふ、極く単純なる思想を以て、兎も角もそれを事実の上に行はうといふので、一夜造りで多少命令的のやうな工合に作つたのが、即ち為替方及商社といふものである。商売は国を富ます、国を富ますには金が必要であるから銀行を作る、銀行といふ名前は近来やかましく云ふやうになりましたが、其当時日本にはまだ銀行といふ名前はなかつたので、皆な為替方と云ふて居つて、是が即ち銀行の仕事をやつたのである。昔は三井も為替方、鴻池も為替方で大阪辺の銀主と称へて、大名に金を貸して居つた者を皆な為替方と称へたのである。それで為替会社といふ。さうして金持を命令的に集めて其処から手形を発行させたのである。又商社といふものを拵へて、何んでも貿易を盛んにする、商売を盛んにするといふので頻にやつたが、皆なやり損つてしまつた、所謂士族の商法で皆やり損つてしまつた(笑)。併しながら蒔かぬ種子は生えない、是が今日の基を為したのである、其基は誰が開いたかと云へば、先づ粗ツぽい議論――吾輩は時々一種の創意と云つて宜しいか、聞き噛りと云つて宜いか、種々な事を企てゝやつて見たが、実際に臨むとどうも腕が動かぬ、そこで渋沢君の如き十分な働きを持つて居らるゝ先生が種々な規則を夜通し掛つて拵へられた、其時分はまだ年が若いから、なかなか一週間位夜通
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しをやつても少しも労れぬ。其時に外国人を傭ふと彼には十分に出来る技倆がある、外国人其者には技倆はあるが、外国人を使ふ人に技倆がない、今支那に外国人が往つてやつて居る、亦朝鮮にも外国人が往つてやつて居るが、之を使ふ人に技倆がないからいかぬ。当時の日本も丁度其通りで、当時渋沢君と一緒に大阪へ往つたことが何遍あるか知れぬ位であるが、造幣用の諸機械を外国から買入れるに付ても、機械其者を買つたばかりでなく人も一緒に買つて、さうして計算をする物まで持つて来たのである。そこで仮に造幣局長といふものを拵へたところが其造幣局長が何が何んだか一切分らぬで居るから、其下に使はれて居る外国人などが、其人の言ふことを聞かない、飛出してしまふといふやうな訳で、喧嘩が起る、そこで渋沢君が出張する、時としては吾輩も一緒に出張して、さうして一方には外国人を取押へ、一方には日本人を教育しなくてはならぬといふ、斯ういふ次第であつた。それから横須賀の造船所、是は幕府の時でも既に出来て居つたので諸君も御承知でありませうが、支那の福建の馬尾といふ所に造船所がある、あれもやはり仏蘭西人がやつて居つた、政府から外国の政府に懸合つて其政府から人を出したものであるから、皆な軍人が現職を持つた儘来て居るので、既に馬尾の先例がある。それ故仏蘭西人が横須賀を仏蘭西のセツトルメントと心得て居るといふやうな次第で、なかなか言ふことを聞かない。肥田浜五郎といふ物識りをやつたけれども、肥田よりも上の物識りが居るから、どうしても言ふことを聞かない。今日は政府もえらくなり、国民もえらくなつたから宜いが、其当時は甚だ国民が弱かつた、亦政府も腰が弱かつたから、何んでも外国と云へば皆な恐れて居つた時代で、なかなか事が面倒だ。さういふ困難な事が沢山あつた。それから、近来は新聞などで生糸の運送の事などを大層やかましく云ふが、此処には羽二重などを商売にして御居でなさる御方もあるでせう、是が又渋沢君の御郷里が養蚕地であるだけ、養蚕が御巧者で其時代に伊太利の蚕が病気が多くていかぬから、此伊太利の蚕の種を滅ぼしてしまつて、日本から持つて往くやうにしやうといふので、大層種紙が売れる、此種紙が国家の経済上実に必要なものであるといふ斯ういふ考から、渋沢男爵が種々な規則を拵へたのである。今日で云へば法律もあり、命令もあつたのでせうが、其時分は法律も命令も区別がない時代で、事に触れ必要に応じて直ちに法律が出来る、命令が出来るといふ訳で、殆んど今日の露西亜以上で(笑)、勝手な働きをやつたのである。其時代に拵へたものは、男爵は極く綿密な御方であるから、多分其時代の日記か何か書いたものが遺てあるだらうと思ひますか、実にその沢山出来たこと驚くばかり夥く出来た。それから、一方には生糸を改良する必要があるから、伊太利人を傭入れて、今でも遺つて居るが、原富太郎君の持ちになつて居つた富岡の製糸場、あの製糸などは二十幾年かやつて其間一年か二年は儲かつたが其前後は皆な損であつた。併しさういふ事業の途が、皆な渋沢男爵の手に依つて基が開かれたのである
そこで総て今日斯く進んだ物の種子がどういふ時代に下したかといふと、なかなか日本の畑は良い畑であつたと見えて、渋沢君などは、其
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種子を蒔いた、最も指導者であつた。併しながら権兵衛の種子蒔と同じやうに随分害を受けたゝめに、片端から壊されてしまつた。随分不評判で、其時代の大蔵省の不評判といふものは実に驚くべきものであつた。此に御居での諸君は、皆な御若い方だから御存じないか知らぬが、殆んど四面楚歌の声で、非常な敵であつた。そこで大蔵省の権力を殺ぐといふために内務省が出来た。此権力を殺がれたのは大蔵省に取つては余程困難であつた。併し一度取られたのを復び占領して、今度は内務省に兼任して、伊藤と私と二人で、内務省と大蔵省を持つたのである。ところで、今度は外務省が邪魔になつて、為様がないから外務省も占領してしまつた。そこで日本政府に剰する所が何んであるかといへば、司法省と文部省と陸海軍、之を除くの外、総ての行政組織は皆な吾々の手に取つてしまつたのである。即ち外務省・内務省・大蔵省、それから農商務省・逓信省之を一緒に取つてしまつたけれども尚ほ慊らぬ、地方官に任して居つても旨く往かぬ所が沢山ある。そこで、横浜に大蔵省の出張所があつて、渋沢君などは、月の中に何度となく往かれて直接に税関の事なり、其他種々の商売の事なり、外国人のやつて居る商社などの事をやつて居られた。さういふ次第であつたから実に敵が多かつたのである。ところが其当時の所謂る早稲田、イヤ早稲田ではない築地であつた、其築地の吾々の根拠地が到頭打壊されてしまつたのである
それからどういふ工合になつたかと云ふと、渋沢君も伊藤も吾輩なども、皆な仲間であつたが、斯ういふ我儘な者を割拠させて置いてはいかぬといふので内閣組織にして、内閣の捕虜にしてしまつたのである(笑)。さうして総て分裂して内務省・大蔵省・工部省といふものが出来て、大抵の仕事は此処でやるといふことになった。斯ういふことになつたゝめに到頭私は内閣に這入つてしまつたのである。私が内閣に這入ると井上伯と渋沢男は内閣の仲間に這入らず、後とに残つて居られた。元と仲間であるのだから喧嘩などの起る道理はないのだが、到頭喧嘩が起つて、そこで実は明治六年に渋沢男などは官吏といふものを見捨てゝしまはれたのである。併しながら元と元と一つ釜の飯を食つた仲間だから、喧嘩をしたけれども決して本統の喧嘩ではない、間もなく仲直りが出来たが、渋沢君が社会に出て自分の理想を事実の上に現はすといふので、官吏を見捨てられた、其結果として明治六年に即ち第一銀行といふものが出来たのである。此第一銀行の条例を立てられた其根本の種子は、亜米利加の「ナシヨナル、バンク」の「アクト」を翻訳して――翻訳といふのは悪いか知らぬが、之を折衷してさうして始めて事実の上に行ふといふことになつたのである。是が即ち今日の種子を蒔いたのである。それから丁度其当時、今何んでも英国で相当の地位を有つて居る、サンドルといふ人、此人が銀行業に就ては渋沢君などの御師匠さんで、即ち我々の御師匠さんであつたのである。ところがなかなか説が合はない、そんな小さい銀行を作つてもいかぬ、大きい銀行を作らなければいかぬと云つて、渋沢君と余程争ひをしたのである。銀行条例の改正などに就て相談をすると、いつも英国流で流儀が違ふ。其中に組織も出来て段々発達して来たのであるが
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さういふやうな訳で、明治政府の困難なる時代に、渋沢君などの助けを受けたことは実に夥い、単に私が助けを受けたばかりでなく、日本政府の為に力を尽されたことといふものは、余程大なるものである、今日種々なる事業が発達して来た其原因は皆な其時代に種子を下したものである、夫よりして渋沢君は民間に於て諸種の事業を経営し、創立し、保護せられた、吾輩の知る所丈を申ても、紙、織物の製造より開墾・牧畜・造船・運漕の事業、製鉄・礦山・帽子・縄に至る迄、凡そ三十余の事業に関係せられた。其上朝鮮には夙に着眼せられて尋常営利事業としては未だ収支の相償はざるに拘はらず、早くより支店を開かれた。又其間々に養育院・感化事業・出獄者の保護並に教育の事等に前後信切なる保助を与へられ、女子教育奨励会・女子大学校・海外教育会等は皆な渋沢君の忠実なる保護を受たものである。中にも今の高等商業学校は創立の時より特に渋沢君の尽力を受たものであるから、今日堂々たる官立学校と為りたるに拘はらず、相談役と云へる特種の名義を存して渋沢君を優遇する所以である。総べて此くの如く初め官吏たり公吏たりしときの精神を以て実業界に臨み、其の発達進歩の誘導に尽力せられたる故、君一個人として其得らるべき利益をも十分に得ず、常に半ば実業界の教導者たる生涯を送られたるにより、其富は比較的巨大の額に達せなかつたのである。若し渋沢君にして単に富を積むと云ふお考であつたならば、必ずや今日の富に何倍したであろうかと思ふのである
それを思うて見れば渋沢男が今日まで健康を保つて、相渝らず実業の上に力を尽さるゝといふことに付ては、私は実に歓びに堪へぬのであります。ところが不幸にして此二三年前大患に罹られたけれども、幸に健康に復されて、今日は却て以前に増したる健康となられたといふことは此会の為めのみならず、実業社会の為めに最も慶ぶべきことであると考へる。尚ほこれから後も盛んなる勢力を以て将来に対つて力を尽さるゝであらうと思ふ
然るに日本は今日どういふ境遇になつたかと云へば、日本の境遇、将来の日本は大に変化すべき――世界に対つて大発展を為すべき地位を得たのである。殆ど開国五十年、明治維新後三十八年にして此日本といふものは島国的国家が、世界的国家に一変するといふ時機に出遭つた。此時機は恰かも吾々が明治の初年に総ての商工業、国の経済の一般の上に大発展を為さうといふ考を持つて、無論失敗も大きいに拘はらず、兎に角其基を開いたところのものが、恰も此処で復び繰返さるるといふ時機に臨んだと思ふのである。其時機に男爵の健康に復されたといふことは実に国家の為めに最も慶ぶのである、それで此以後どうなるであらうかといふ事に就て私の意見を簡単に述べて今日の話を終らうと思ひます
此処に阪谷といふ財政家も御出になつて居るから定めて十分なる御考を持つて御居でだらうと思ひますが、丁度明治初年の吾々の極く粗ツぽい考、併し其粗ツぽい考が今日の道開きをしたので凡そ物に変化といふことがなければ其者の進歩発達といふものは望まれぬのである。所謂る彼の陣勝呉広といふ者が起らなければ漢の高祖も起らぬやうな
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訳で、詰り明治初年の吾々の粗ツぽい考が、変化すべき此道開きをしたので、此処に御集りの多数の竜門会の若い諸君が、宛も維新の時に渋沢君などが今日の基を開くために働をした如く、これから活動する奮闘するといふ道開きをするだけのことはまだ老ひたりと雖も吾々が後輩に対つて多少意見を述べる責任が残つて居ると思ふのである
さて、日本の武力は疑ひもなく世界に認められたのである、最早世界如何なる国と雖も日本の武力に疑ひを措かぬのである、如何なる強国も日本の武力触るれば直ちに粉砕さるゝといふことは認めて居るのである。然らば日本は世界に対つて十分なる尊敬を受け、十分に畏敬さるゝところの地位に達したに相違ない、否な今や将に達せんとする地位にあるといふことは、是は殆んど疑ひを容れぬのである。併しながら斯の如き力を現はすためには国の経済の上にどういふ困難が起つたかといふことは最も研究する必要があると思ふ。価を払はずに斯ういふ地位を得た訳ではない、非常な犠牲が是に伴ふて居るのである、生命・財産といふ大なる犠牲を今供しつゝあるのである。仮りに当年中で戦が済むと見れば約そ十三億五千万内外の負債が十五億円或は十五億円以上にも上るであらうと考へて居るのである。而して此戦の後の始末に於て無論まだ数億万の金の必要が起るのである。そこで此十三億五千万乃至十五億円といふ大なる犠牲を供し此富を破壊されたのである、此戦に生命と共にこれだけの金を失つたのである。而して其の中には負債が残つて居る、今日戦と共に苦んで税を払つたものならばそれは一時で済むが負債を後とから償却しなければならぬといふ此大責任が残るのである。是が負債の利息だけでも、約そ毎年五千万乃至六千万と云ふなかなか大なるものである。況んや外債、此外債は現金を以て払はなければならぬ。此現金は何んで払ふかと云へば品物で払ふ、即ち国民が生産した其品物で払ふ。若し品物で払ふことが出来ぬければどうするかと云へば、負債の利息を払ふために更に負債を起すといふことになるのである。此処には銀行者が多数御出席になるだらうが若し利払ひが出来ずして、元金へ利息が加はつて往くといふが如き者には必ず信用は措かぬのである。殊に短期の公債は借換をしなければならぬ、借換は更に又割引をしなければならぬ。此非常に困難が残つて居るのである。此困難は誰が責任を持つて往くかといふと、政府と、斯う云ふだらうが、其実は政府ではない国民である。所謂国家でなくてはならぬ。さうすると無論諸君の頭上に是が臨んで居るのである。而して此戦後の経営に於て更に海陸軍を拡張する費用、尚ほ其他に於て非常に大なる金が玆に要るのである。其の金の一部分はどうしても外債を入れなければならぬ必要が起るのである。今日、外債は公私合せて外国の資本を用ゐて居る高が八億内外であらうと思ふが、尚ほこれから先き、少くとも二億位は増すに相違ない。さうすれば十億円といふ金高になるのである。此十億円に対する利息が五千万円である。生糸ならば十万梱以上売らなければ、其の利息は払へぬのである。さうすると、日本は食物不足の国になる、食物を買ふために余程沢山の品物を売らなければならぬ、生糸が沢山売れるといふが、生糸を売つて綿を買ひ、其他種々なものを買ふといふやうな訳で、結局一
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物も残らぬのである、斯ういふ計算になる。そこでこれからどうなるかと云ふと、此負債に対する元利を国民がどうして払ふか、又戦捷に伴つて此国力の発展をばどうするかといふ、此大責任が皆な諸君の頭上に臨んで居るのである
それで、明治初年の財政の有様はどうであつたかと云ふと、政府の歳入が百万石であつた。此百万石を以て全国の政治をしなければならぬのである。然るに其の当時は、年々不作のために外国米が這入つて来て貿易の権衡上著しく差が附て来るといふ次第であるから、なかなか此外国の輸入が国家の目的通り平均を得せしめない、始終輸入が多くなる。そこでどうしたかと云ふと、一番先きに智恵を出したのが例の商社・為替方、斯ういふやうなものを拵へてやつたのである。丁度それと同様に此戦後少くとも利払だけで五千万以上余計に生産をしなければならぬのである、余計に生産をすることが出来なければ生活の程度を低くめて先きへ繰延ばして、さうして品物を沢山拵へて出さなければならぬといふ、斯ういふ計算になる。然らざれば借金を以て利息を払はなければならぬ。さういふことになれば借金の数か倍に増すといふことになる、是が直ちに起る問題である。然るに日本の武力が海陸に加はつたために日本の世界に於ける地位は如何なる地位に進んだかと云へば、凡そ東洋に於て日本の勢力に反抗して政略を為さうといふことは如何なる覇心のある国にも出来ないといふ有様になつたのである。然らば世界の最も注目して居るところの支那――殆ど世界三分の一の人口を有つて居るところの此絶東の大なる場市に於て、少くとも日本が国旗の光輝に伴つて経済上発展を為せば、如何なる事業と雖も十分なる働きをなす余地があると考へるのである
然るに今日種々の論者がある、満韓経営などと云つて種々の特権を取り、土人を苦めて目前の利益を得やうなどといふ、間違つた議論もタマには聞くやうである。又思慮のない唯だ大言を放つといふが如き者は政府のやり方が鈍い、もう少し手酷く朝鮮などは叩き潰して取つてしまへなどといふ議論もある。さういふ風の粗ツぽい議論は到底成功しない。人を苦めて自分のみ利益を得やうなどといふことは間違つた考で御承知の通り、世界の殖民史を見れば其失敗の蹟が歴々として分るのである。概ね今の普通論者の言ふが如き議論を以て殖民をした国は皆な失敗をして居るのである。上古の殖民は暫く措いて、中古以来の殖民に於ては、西班牙・葡萄牙・和蘭・仏蘭西等の国々は皆な失敗をしてしまつたのである。其失敗の原因たるや、短気に目前の利益を得やうとして土人を苦めて皆な利益を取つてしまつて、さうして中央政府の権力を其処に及ぼして往かうとした結果である。さういふ政策は一時大層利益もあつたが、是は長持が出来ないで到頭失敗に帰したのである。和蘭の如き盛んなる国が今日非常に困つて居るのは、畢竟其の時の負債のために今日の有様に陥つたのである。何故に負債を起したかと云へば、殖民政略を誤つたからである
斯の如き殖民の仕方では必ず反抗が起る。仏蘭西の如きも随分古くから殖民をやつて居るが仏蘭西の殖民も失敗である。今日独逸の殖民も或は仏蘭西の失敗を繰返しはしないかと疑はれるのである。斯の如く
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歴史が吾々に教訓を与へて居るに拘はらず、其失敗の歴史を繰返すとは何事である。もう少し大人振つて短気なことをしないで、自己の利益を計るといふことは止めて相互の利益を計らなくてはいけない。支那と云ひ朝鮮と云ひ、決して政府を見るに及ばぬ、又王様を見るに及ばぬ、役人を見るに及ばぬ、併しながら其の土地及其処に居る民族を度外視してはならぬといふことを忘れてはいけない。朝鮮人を殆ど野蛮人の如く罵るが決してさうでない。布哇に往つて居る朝鮮人、或は亜米利加に往つて居る朝鮮人はどういふ生活をして居るか又どういふ働きをして居るかといふことを考へれば、十分に分るであらう。朝鮮人は日本人と同民族である、朝鮮人から云へば日本は朝鮮の殖民地であると斯う云ふ、又日本人は古代の歴史上朝鮮は日本の殖民地であると斯う云ふ。まあ夫等の事は暫く措いて、兎に角千五百年前、朝鮮の文化が日本に這入つて来て日本の人文の発達を促したのである、さうして皆な同族である、皆な同根である。然るに彼は政治が悪いために今日堕落して居るのであるが、今日亜米利加や布哇に往つて居る朝鮮人はどうであるかと云へは、少しも日本人と違はない、勉強心・忍耐力・結合力・貯蓄心皆な同一である、否な或点から云へば同一以上である。布哇に於てどういふ有様であるかと云ふと、彼等は一つの団体を持つて居る、倶楽部を持つて居る、又一つの協会を拵へて居る、之等の事は皆な自分等が働いて貯蓄した金を以て、独立してやつて居るのである。なかなか働くことも物に耐ふることも、而して得たところの報酬を浪費せずして貯蓄することも、決して日本人に譲らぬのである。或点から見ると却て日本人よりも宜いといふ亜米利加人の評判である。是は少し日本人に対して嫉妬を起して故らに日本人を悪く云ふのかといへば決してさうでない。諸君も新聞で御承知の「ドクトル」ハリスといふ人、此人は即ち朝鮮・日本の教会の監督権を持つて、亜米利加の教会から送られた有力の人で、而も非常に日本贔負の人である、日本政府から二度勲章を貰つて今度来てまた勲三等を貰つた人である。此ハリスと云ふ人がさういふ事を言ふて居る。それで私が朝鮮人を度外視してはいかぬ、支那人を度外視してはいかぬといふのである。どうしても朝鮮人・支那人を手先に使ひ、仲間になつて、共同してやる、若くは少し働きのある人は店の番頭・手代・売子に彼等を用ゐて商売をするといふことにしなければいかぬと思ふ。巧に之を使ひさうして人心を収攬する者が即ち世界三分の一の人口を持つて居るところの大なる経済市場の主人となることが出来るのである。一時の利益に迷つて彼等を苦めるといふやり方では必ず失敗するに相違ないと吾輩は断言して憚からぬ
それからモウ一つ御話をして置きたいと思ふのは、丁度維新の初めに昔の西洋人の紀行などを読んで見ると、日本は黄金国で金が沢山あるといふ事が書いてある。西班牙・葡萄牙人などの紀行を読んで見ると皆なさういふ事が書いてある。そこで私も渋沢君なども山を掘つたら金が沢山出るだらうから、金貨制をやらうといふので頻に外国の金貨制や「バンク」制度などを調べてやつて見たのである。英人などは何処から金を持つて来る考であるかと聞けば、ナニ日本は掘さへすれば
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金は何処にも沢山ある、又方々に貯蓄された金が沢山ある、先祖から二百五十年以来蓄積した驚くべきものがある、少しも心配は要らぬといふので外国人を傭つて山を掘りに掛つたところが、皆な失敗で、金が少しも出て来ない。偶々取つた金も皆な他の方に取られてしまうといふやうな訳で、こゝで我国の銀行条例の改正といふことになつて、第一銀行も大に心細くなつた。ところが是が自業自得で、自分が拵へた条例ではない、仲間で拵へた条例であるが、実際やつて見ると段々取付けられて治まりが着かなくなつてしまつた
そこで為方がないから金の支払を止めて、政府の紙幣を出したのである。是は少し無理な話だ。さういふ工合に変つてしまつたのである。ところが是は少し智恵が足らなかつた。なかなか神といふものは、智恵のない者に鍵を渡さぬ、のみならず智恵のない者は折角持つて居つた鍵を取上げられてしまう。ところが近来は地質学或は冶金学其他種種の科学が驚くべき程度を以て進歩して来た。又運輸交通の発達或は銀行の発達などに伴つて鉱山事業も著しく発達して、終に有利の事業となつたのである。又富の生産に一番必要なものは鉱山事業である。此鉱山を沢山持つて居る国が盛んになるので、御承知の通り英国が今日の如く盛んになつたのは種々の原因もありませうが、先づ鉱山で富を得たのである。即ち石炭鉄である。又亜米利加の盛んになつたのも種々原因はあらうが、やはり鉱山で、即ち金銀銅鉄石炭、是が原因を為して居るのである。鉄などは殆んと御話にならぬ。又日本は石炭国と云ふて居るが、少し出だすと直き無くなつてしまう、今亜米利加や英吉利に於ては漸く三十分の一掘つて居るのであるが、日本の九州辺は、さういふ風に掘られては永く続かぬと名高い地質学者が云ふて居る位である。小さな鉱区だから直き無くなつてしまう、三井などは殆んど無限の富を有つて居るが如く三池などでやつて居るが、あれも永く続くまいと思ふ。そこで之を何処に求めるかと云へば朝鮮・満洲である。朝鮮・満洲には殆ど無限に蓄積されたところの富があると信ずる。御承知の通り、斉の管仲は支那の名高い経済家で、且つ政治家である。彼の管仲の政策は何んであるかと云へば、塩鉄政策であつて、遼東からズーツと朝鮮の大同江に掛けて此塩と鉄を取つたのである。さうして管仲は攘夷論者で夷狄を斥けて斉の勢力を山東省にズーツと及ぼして、さうしてあの辺の海岸へ手を着けて塩鉄政策を盛んに行ない、終に天下の覇業を玆に開いたのである。で日本も此管仲流に倣つて朝鮮辺から鉄も石炭も持つて来るやうにしなければいかぬ。それで一つ鉱山の事業が起るとそれに伴なつて殖民といふことが必要になつて来るから、自然に其土地が開けて来る、商売も盛んになるといふ、斯ういふ訳になつて来るのである。それで今日鉄は大冶から持つて来て居る、長江の上流から持つて来て居るが、其量がまだ極く少くない内地にも鉄はあるけれども甚だ小さなもので、今日では遺憾ながら良い鉄が十分発見されて居らぬのである。然らば之をどうするか、今筑前の製鉄所のやうなものが十分なる働きを為しても、六万噸乃至七万噸より多く製することが出来ぬ。然るに今日日本の鉄の需要といふものは非常なもので、器械汽鑵になつた鉄を加ふれば凡そ百万噸以上に
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上つて居る、尚ほ需要が日々増して来るといふ有様になつて居るのである。吾輩が思ふに、一千万噸位の鉄を使ふ時機が遠からざる中に来るであらうと思ふ。さうして見れば筑前の製鉄所のやうなものがこれから百も二百も起らなければ、此多くの需要に応ずることが出来ぬのである。今日は小さな二万噸か三万噸の鉄を大冶から持つて来るといふ有様ではないか。何故日本は彼の管仲流の政略をやらぬのであるかそこで此処に御集りの若い諸君の中には渋沢君の薫陶を受けて、何んでも資本が出来たら、鉱山であれ何んであれ、思ひ切つた冒険な事業をこれからやらうといふ、英気勃々たる豪傑が沢山居るに相違ない。況んや今日は維新の頃と違ひ、科学の進歩により一々確かなる見込をつけて着手することが出来る、鉱山事業は決してヤマ仕事ではないのである。それで或る一部の論者の如く朝鮮人を苛めてケチな仕事をやつて特権を得るとか、或は地面を買つて小作を取るとか、或は金を貸して高利を取るとかいふ、そんなケチな考丈けに止まらず、更に奮発して満洲・朝鮮辺には驚くべき富が地中に潜んで居るのであるから、此宝を掘りに往くが宜からうと思ふ。必ず金山もあり、銅山もあり、或は鉄山もあり、殆ど無限の大鉱脈があるに相違ない、それを諸君がやる時分には日本の石炭は足らなくなるといふことが起るであらうと思ふ。夫故満韓に対して国家の為すべき事業は個人の力の及ばぬ所に力を尽すにあるので其他は個人が大奮発心を起しあらゆる方面に冒険有為の気象を実地に行ふべきである、それで私が思ふに戦争後十年間は非常に困る、困るから始めて思ひ切つた冒険な考も起るのである。余り気楽に生活が出来ると人間が油断をする、何んでも苦むことが必要である。今日大阪は全国の商工業の中心となつて居る、あの富は何から出来たかと云へば、前には大阪は誠につまらぬ所であつた。彼処は港でもなければ立派な町でもなかつた、総て商業の港として堺の方が盛んであつたのである。然るに豊公が彼所に城を築いたゝめに天下の富豪が集つて来て非常に繁昌となつた。併し豊公の寿命が短かゝつたゝめに、此繁昌を永く続けることが出来なくなつて、大阪といふ所が非常に困難な場合に陥つてしまつた。それから大阪の人が大に奮発心を起して倹約して働いた、其の結果終に商業の大都府を組立たので其遺業が今日の大阪をして盛んならしめたのである。今日の勢ひでは到底江戸ツ児は勝てさうもない、さういふやうな訳で人間は苦むのが最も必要である、ところが、日本は此戦争のために大分苦んで居る、併しながら此の国旗の光輝には必ず利益といふものが伴ふのであるから、此の苦い中に内にグヅグヅして居ずに、何んでも大陸の広ツ場に往つて、鉱山でもドシドシ掘るが宜からうと思ふのである。併しながら是は吾輩の粗ツぽい議論で前に御話した日本に金貨制を採用してやつて見たところが金が無いために失敗したと同じやうに、諸君も或は見込が外れて失敗するかも知れない。併し失敗の事などを考へて居ては日本人が向かへ往つて大なる利益を収むることが出来ないと思ふのである。又門戸開放といふことを標榜して掛つた以上は、此門戸を閉鎖することが出来ないから、独逸人も仏蘭西人も英吉利人も亜米利加人も、公然彼の門戸に来つて大なる仕事をやるに相違ない、日本人は
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是と競争しなければならぬ、金を持たずに競争するといふのは不思議のやうであるが、彼等の資本家と組合つてやれば宜いのである。又如何なる資本家も日本人を手先に使はなければ、満韓で仕事をやることがむつかしい。実際上海などで欧羅巴人の為した仕事は皆な失敗である。ところが近来日本人を仲間に入れてから、彼等は成功して居るので、現に渋沢男爵は多分御存じてあらう、私は会つたことがあるかどうか能く覚えぬが、大川といふ人が、イヤこゝにおゐでだ、大川君などは上海で製紙業をやつて大分成功したといふことを先日聞いた。夫は欧洲人と支那人と組合て欠損を為た事業であつたものを、大川君と組合てから六分・七分の利益を得る様になつた。紡績業も其通りで三井物産の山本と云ふ人と組合てから、もと利益の無つた支那人の事業に配当を生ずるに至つた。コノ類の例証は沢山あつて、今では支那人はもとより英米人迄が、日本人と組合ことの利益を知つて来たのである。一体、戦争に勝つ国民は其の技倆を惣ての方面に用ゐて同じく勝利を獲ることが出来る。日本人は独り戦争ばかりでない、算盤を執つて組織的に人を使ふ技倆をも有つて居るといふことが、ソロソロ解つて来た。さうすれば、日本人の勢力、日本人の智恵といふものは朝鮮人・支那人を使ふことが、欧羅巴人より遥に巧であるのだから、此技倆を利用して、欧羅巴人の資本を如何にも己が使つてやらうといふ意気込を以て、仲間になつてやるやうにしなければいかぬのである。それでどうか此竜門会の諸君は、渋沢男爵の今日年を御取りになつたおとなしい顔色を見て、初から斯ういふ人にならうといふ理想があつたら大間違だ。三十年四十年前の壮士的行動、種々の理想を直ちに実現しやうといふ突飛なる冒険的の気象、其時代の事を思ひ起して、先づ是に倣はれんことを私は好むのである。それ故に私は渋沢君の御維新時代に働かれた事を冒頭に述べて、諸君にどうぞ此戦後の大活動をやつて貰ひたいと思ふ次第である。実はまだ御話したい事は沢山ありますが、時間が許さぬために今日はこれで御免を被ることとし、又機会があつたら其時に十分御話することに致しませう(拍手喝采)


竜門雑誌 第二〇五号・第一―一一頁 明治三八年六月 ○本社第三十四回春季総集会に於ける青淵先生の演説(DK260062k-0004)
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竜門雑誌  第二〇五号・第一―一一頁 明治三八年六月
    ○本社第三十四回春季総集会に於ける青淵先生の演説
今日の竜門社の春期総会は雨の為めに大に妨げらるゝかと考へましたが、幸に余り大なる降りも御座いませぬで、来会諸君の多少御愉快を為し得られることと喜ばしく存じまする、唯今社長から昨年に比較すると大に喜ばしいことがある、其一は老生が昨年春期の総会には病床に呻吟して居つたが、今日は此所に出席して一言の意見をも申述べるやうになつたと言はれましたが、此会は老生を中心として組立てられて居る詰り平日自分に干係の多い諸君の御集りである、其中心とも申すべき老生が健康に復して諸君と共に事務の御相談に預り、諸集会にも参加し得られるのは此会の弥増し盛になるのみならず、今日は殊更に喜ばしいことであるといふて下さるのは、至極老生に於ても亦其喜びを同じうする次第で御座います、前席に大隈伯は、最も情合の深い最も愉快なる、而も又経済界に就て将来を大に警戒する処の有益な演
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説が御座いました、相変らず伯の博識雄弁、且種々の事態を能く綜合せられ、其接続の宜しきを得たる所甚だ感服の外ございませぬ、諸君も左様に御聴取があつたらうと思ふので御座います、伯の演説の冒頭に、伯と老生との交際に就て縷々御申述がありました、或は其中には老生の官途に処する経営などに就ては多少讚め過ぎたと申さなければならぬ言葉もあるやうです、併し其時の真情実話で、決して特に設けられた事でないことは、老生自身にも能く記臆して居ります、其中の一・二を御話しますると、老生が明治二年十一月三日に政府から呼出されて職に就きました、即ち大蔵省の租税司といふものを命ぜられた其頃老生が欧羅巴から帰つて来ての考案は、どうか此日本の実力を盛にしたい、それには商工業の途を拓く外ないといふ意見があつたのですから、勿論官途に望み抔はなくて駿河で営業をしやうといふ考であつた、何ぜ駿河で営業をするといふ考が起きたかといふに、唯今大六天《(第)》に老後を悠々と送つてござる徳川公爵、此御方が老生には所謂切つても切れぬ程に厚く崇拝して居る御方であつて、此御方の為めには一身をも犠牲にしなけれはならぬといふ位に考へて居る人である、其御方が丁度其時分に、静岡の宝台院といふ寺に蟄居謹慎といふ場合であつた、此場合に世の中へ出るなどゝいふことは、仮令如何に勧められても厭やだ、のみならず其時分に朝廷に媚びて職を求めるなどゝ云ふことは身として出来ぬことと、斯う考へて駿河へ行つて、仮令微々たりとも実業に従事しやうといふことを考定したのである、幸に其事が稍緒に就て幾らか発達しやうといふ場合に、今の政府の命を得て官吏にならねばならぬといふ場合になつたのです、それから東京に出て参つて、大蔵省に出て見渡すと、誰一人知つた人もなく、殆んど全省中に顔を見た人は一人もなかつたのである、西も東も解らぬといふことは能く云ふ話だが、大勢居る中に一人も知つた人のないといふのは、芝居見物などであつたら目的が別だから宜いけれども、其省に勤める身としては随分妙なものです、殊に根が百姓で、五・六年今の長鋏帰らん乎といふ慷慨悲歌の士で、少しばかり一ツ橋の飯を食つて、それから欧羅巴へ行つて世界が転倒つた時に帰つて来た、さて役人になつたら千人も居る役所の中で誰一人知つた人はないといふ次第であつた今大隈伯の御話中に、老生を中々きかぬ気の男で、其時分に動もすると直ぐ一本参らうといふ様子であつたと言はれたが、決してそんな料見はなかつたけれども、併し少しでも怯る質であつたら迚も勤まらぬといふ事情であつた、併し自分はさういふ観念から職を辞したいとは思はなかつたが、兎に角今のやうな有様て何事が出来るか解らない、此解らぬことに従事するより仮令微々たるも解ることに務めた方がよろしい、僅かに一年でも駿河に於て幾らかの端緒を開いた仕事を勤めたい、就てはどうぞ命ぜられた官職を辞して駿河へ帰りたい、併し唯表面病気であるとか務めに堪へ難いといふよりは、寧ろ其意思を局に当る人に打明けて、成る程尤だといふことにして帰りたいと斯う考へて、十一月十八日と記臆して居りますが、其時分大隈伯は早稲田と言はしつたが築地であつた、築地の梁山泊といつて、大隈伯と伊藤侯との屋敷が隣り合つて居つて、此処に種々なる人々が集まつて色々の評
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議をしたものですから、築地の梁山泊といふ名が官員中の通り言葉となつて居つた、此梁山泊の巣窟に大隈伯を御尋して、始めて老生は伯に親しく面と向ふて談話をして見たのです、さうして老生が辞したいといふ理由は、斯ふ斯ふであると云ふことを委しく申し述べた、所が大隈伯の弁駁が今も尚記臆して居る、今日でさへあの通りの雄弁である、況して其時分は壮年の時であつたから一層論鋒が鋭かつた、其時の談話は大変長くなつて、トウトウ老生は其説を枉げて大隈伯に服従して、不肖ながら献身的に政府に力を尽して見るが宜からうと考を翻した、斯く申すと自慢らしいが、老生は一旦考へたことは翻さぬ性質だ、然るに大隈伯に説破されて遂に其説を翻へしたのだから、伯の弁舌も亦多とするに足ると思ふ、其時に伯の云ふた言葉は色々あるが、最も老生が余り突飛な余り自尊な言語ではあるが、其見識の卓越して居ると云ふことを今尚記臆して居るのは、君はあの高天原に八百万の神が神とゞまり云々といふ祓があるが、アノ祓の文句を知つて居るかと言はれたから、老生は神主ではないから知らぬといふと、それを知らぬぢやあ困る、今日は八百万の神が国を建造する時代ぢやあないか君も神になるのだ、僕も神になるのだ、到底此明治の政府といふものは力あるものが寄集まつて、さうして玆に新しい国を造り出す外はない、七・八百年殆んど屏息して居つた国を一つ造り直すのだ、政治計りではない、殆んど総てのものを改造しなければならぬ時代であるから、モハヤ静岡の藩だの、イヤ佐賀の藩だの、薩摩だの長州だのと、そんなことをいつて居る時節ではない、国を新しく造り直す、即ち吾吾が神である、吾々が国を造り直す神であるから、私は此省中に知つた人があるのないのと、そんな局量の狭いことは言はれた次第ではない、斯ふいふ場合に当つて有為の人が国を造り直す役人になる、働人になるといふことは、殆んと其人の持つたが病だ、本分と言つても宜いぢやあないか、失礼ながら自分もそれをもつて任じて居ると、徹頭徹尾其主義を以て説破された、玆に始めて老生も小を捨てゝ大を取らなければならぬといふことを考へ直した訳であるが、是は実に三十七年昔のことで、多分老生が一身上の御話をした雨夜譚の中にあつたやうにも覚へて居りますが、今も記臆に存して忘れんとしても忘るゝことの出来ざる次第である、先刻伯の演説中、老生との干係を頻りに述べられました、其中の第一節として、殊に諸君に向つて伯の演説の虚ならざることを証拠立てる訳でございます
今一つ伯の演説に、明治六年に其梁山泊仲間が、丁度自分が内閣に這入つた為めに、左まで意見は違はぬでも表面上相争ふやうになつた云云といふことを云ふて、トウトウ井上なり渋沢なりは政府を見捨てたと斯う云はれました、是も表面の事実は其通りの有様であつた、其通りの有様であつたか、是は伯が少しく老生の当時の精神を能く看破せぬのと、もう一つには其前の経過をアノ記臆の良い御方ではあるが、多少忘れさしつた事がある為めの言語であって極く其真相を貫いたとは申し兼ねる、明治六年五月三日、老生が井上伯と共に袖を連ねて大蔵省を辞したのは、機会が其処に投じて来たので、老生の官を辞したいといふ起源は明治四年六月廿日頃で、日は確かに覚へませぬが、大
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隈伯の演説中にあつた通り、造幣局の始末に就て大隈・伊藤・吉田・老生も共に大阪へ行かなければならぬといふ、官命によつて罷り越した、船で往返をしたが、航海中も頻りに実業の未来の発達に関し議論があつた、丁度其頃商社とか為替方とか廻漕会社とか云ふものがあつたが、其設立は老生も共に失敗の一人だと大隈伯は言はれたが、其設立は老生の官に就く前で明治初年であつた、老生は明治二年に官に就て見るとさう云ふものが拵へてあつたが、是は到底成効せぬと見たのです、其時分大蔵省の官吏として為替会社・廻漕会社などの重なる世話をしたのは、忘れもしませぬ今の日本銀行の総裁なる松尾臣善君が其時分に通商大佑といふ職分で事務を執つて居つた、けれども老生はアノ方法でアノ人々では迚も成効せぬ、如何となれは其組織が甚た宜しきを得ぬのみならず、人物が無能である、斯ふ観察をして居つたので、それのみならず此有様で真成の組織を得ずに合本法を講じて此国の富を図らうといふのは、殆んと木に縁つて魚を求むるといふよりもそつと間違つた話で、事実に於ては何の効果も見られぬから、若し遣るなら本当に其人を得てやらなくてはいけないと、斯ういふ観察を深く持つて居つた、而して其人を得るといふても、誰が人物であるか殆んと誰にも解らぬ、商売人にどれ程の才識があるものか自分にも解らぬ、が併し自分がやつたら何か一つは出来るだらうといふだけの突飛の観念は持つて居つた、それで自分は学識といひ才能といひ、迚も政治界に於て大なる働を為すことは出来ない、敢て政治を厭つた訳でもなけれども、寧ろ人間は成るべく国に利益ある方面にて我材能に適ふた働を為すが宜からうと考へる以上は、どうしても実業界に力を尽すが宜からうといふことは、其頃から始終心に感じて居つたものですから、前に言ふ通商司の有様などを見て、自分は是非共官を辞したいと斯う考へた、そこで丁度忘れもせぬ明治四年九月、大蔵省の職制が改革されて故大久保利通侯が大蔵卿になられて、さうして井上伯が大蔵大輔として事務を執るやうになつた、其頃老生は大蔵大丞といふ職に居つたが、官を辞するの念慮は勃々と萌して居り、井上伯とは其前から親密であつたから頻りに其話をして居つた、丁度其頃であつた、前に述べた大阪の造幣局の処置を着けるに就て旅行した帰途に、横浜に弘明会社といふものがあつて、其弘明会社の二階で船から上陸して休息をした、其時に老生は大隈・伊藤其他の人々に向つて言出した、貨幣条例を作りて貨幣を直すといふのも、商売の繁昌を図るため、国の利益を図るためだ、然るに其国の富を作るといふ商工業者に就ては殆んと其人物は絶無である、故に今日の有様は譬へは躄に飛脚を命ずるやうな姿である、今日の商工業者を見渡して、此連中丈けで商売を発達せしむるといふことは、前途遼遠と云はなければならぬから、望むらくは諸公自ら商売人になつて貰ひたいと思ふ、併し大隈・伊藤両君抔は事実に於て出来ますまい、然るに自分は何時でも出来るから、明日辞表を出して職務を罷めて貰ひたいと斯う言出したことがある、其時の老生の考は野心でも何でもない、全くそう感じたのである、所が大隈・伊藤両君もそれは至極好い気附だけれども、今そんなことを言つては、大蔵省が困るからといふやうなことで、其話は止んでしまつ
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た、それから其年の九月大蔵省の制度の変つた頃、又其事を井上伯に言出したなれとも、其時も丁度廃藩置県といふ際て大蔵省は頗る多忙であつたから、今そんなことを言はれては困る、共に働いた人が居なくなつてドウするものか、到底同意することは出来ない、今暫くの間だから待てと、斯う云はれて留められた、それから明治六年になつて大蔵省の説が行はれず井上伯が辞すといふ場合になつたから、若し井上伯が辞して老生が留まるといふことになれば、それこそ老生はもう一生役人奉公をせねばならぬと極まつてしまう、成程両人して一時に辞職をするのは余り突飛な挙動である、兎に角大事な位置に居つて一年有半、井上伯が大臣、老生が次官の位置を取つて、多少物議もあつたけれども先づ一省内を経営して来たものが、突然両人袖を連ねて辞するといふのは穏当でないと思つたけれども、若し此の儘居れば所謂捕まつてしまうといふことになる、すると老生の希望は全く水泡に属してしまふから、是は拠所ない、どうしても従来の宿志を無にすることは出来ぬからと斯う決心して、其時に井上伯が退出してしまつた其後で、陸奥宗光・岡本健三郎・渡辺清、其他当時の局長たる人々に本省に来て貰つて、其事を叮嚀に話して、斯ういふ訳で自分も共に辞職するといふたのである、故に老生の其時の辞退といふものは、決して政府との衝突でもなければ大隈伯との喧嘩でもないので、全く実業界に身を委ねるのが一身に利益だ、宿志を遂ける機会が投して来たといふ次第であつたので、是だけが大隈伯の演説が少し違つて居ります、右等の弁解は余り効能のある話ではございませぬが、前席に大隈伯が老生の身上に就て縷々の話がありましたから、序でを以て古めかしいことではありますが、一言述べたのであります
老生が今日玆に御話をしたいと思ふことは、武士道といふ文字の解釈に就て一言述べて見たいと思ふのです、武士道といふ言葉は余程古くからあつたらうと思ふ、尤も武士といふ名前が七百年以後のものであるとすれば、其前に武士道といふ文字はなかつたか知らぬが、此武士道といふ言葉の広く行はれたは何時頃でありましたか、老生もまだそれらに就て調査したこともなし、学者の説を聴いたこともないから、充分なる判断は出来ない、又それらの詮議はさまで必要でもないと思ふが、想ふに徳川氏の治世になつて旗下の人々に大層義侠の風の流行した頃ほひに、最も武士道といふ言葉が世の中に広く伝播したものではなからうかと思ふのです、彼の近藤登之助とか阿部四郎五郎とか、例の伊賀越の仇討時分、徳川三代・四代頃の旗下の勇気勃々たる人達が、所謂武士を磨くといふ一種の侠気があつた、是等が最も武士道といふものを八釜しく言囃したので、遂に武士道といふものが徳川氏の武士の中に強く鼓吹されたものかと想像する、けれども武士といふ文字はドウ云ふ所から起つて来たかといへば、彼の頼山陽の外史に拠つて昔は全国皆兵であつた、事あれば天子が自ら之を征す、然らざれば皇太子が出掛る、未だ曾て武門武士なるものあらざるなり、それから後源平といふものに戦争攻伐の請負をさせて、始めて武門武士といふものが出来たと、山陽は日本の政事上に就ての其意見を記載されてある、其説の当否は暫く措て、蓋し日本の武士といふものは、それが事
 - 第26巻 p.362 -ページ画像 
実に相違ないけれども、其頃から武士道といふことが、左様に広く伝つて居つたかドウか、是は一の疑問であらうと思ひます、何に致せ武士道といふ名称は、大に注目すべき又攻究すべき一の問題と思ふ、既に此程中から或る新聞紙に、武士道百話とか続武士道百話とかいふて段々書いて居るのを見ましたが、多くは元亀・天正若くは徳川氏時代にあつての名臣良将の種々なる言論行為に就て評されて居る、決してあれらが武士道でないとは言はぬけれども、老生はアノ新聞に書き列べたものが果して武士道の真髄であるかといふことには、少し疑があらうと思ふ、前に述べた武士道といふ行為の流行したときの武士道といふものは如何なるものであるかといふたら、自分は多く任侠性質のものである、義烈・勇敢といふやうなことを武士道といふたのではないかと斯う考へるのである、其義烈・勇敢といふ中には必ず忠実とか至誠とかいふやうな、最も尊ぶべく重んずべきものを包含して居るでありませうが、此武士道といふものにのみさういふ事柄が専有すべきものであるかと云ふことは大に攻究せねばならぬ、成程生命を睹するとか、一身を芥の如く軽する所謂生命を鴻毛より軽んずるといふやうな事柄は、多くは此斬ツつはツつの戦闘に従事するものゝ間にあるべきことであるから、単にそれのみに武士道が存するならば武士道といふ言葉は武人の専有物とせねばならぬかも知れぬが、今老生の申したやうに武士道を解釈したならば、難事にもめげず或る場合には大に勇気を鼓して困難の衝に当る、総て為し難い所に己れの身体若くは財産をも犠牲に供して、公共の利益を図るといふ如きことが武士道であると斯く解釈をすると、此武士道といふ言葉を軍人の専有物たらしむることは、甚だ不満足千万と考へねばならぬ、先づ日本の古来の歴史に就て武士道に適うた行為を数へたならば、それは実に枚挙に遑ないでありませう、ズツト昔王朝の神武天皇がドウ云ふ行為を為すつたか、其前の神世とも申すべき天子の御先祖がドウいふことをなすつたか、神道家に聴いたならば色々なる武士道があるに相違ないが、吾々の知つて居る所でも、例へば神功皇后が、婦人の御身なるにも拘はせられず、勇気を出されて三韓の征伐に行かれたことは是は婦人の武士道である、其時分に武士も何もないが、是を武士道でないといふことは出来ぬでせう、又日本武尊が皇子の御身でありながら、未だ関東が極く野蛮であるのにそれこそ一振の剣を以て関東を征伐して大なる困難をなされた、是等も実に武士道と申上げて宜からうと思ふ、さういふやうな大なる事柄でなくても、例へば和気の清麿が道鏡の専横極まつて居る時に、宇佐八幡に奉幣して道鏡何者ぞ、敢て神器を覬覦すると斯ういふ八幡の託宣がありましたと立派に答へたのは、是は実に立派な武士道と謂つて宜しい、生命を鴻毛より軽んずるといふことは戦争ばかりではなく幾らもさういふ場合がある、一身若くは財産総てのものを犠牲に供して己れが道理の為には殉ずる、斯う云ふ覚悟が武士道といふならば、今申す和気の清麿は立派な武士道を尽したものであると申して宜からうと考へる、其他或る新聞に段々元亀・天正頃から徳川時代に至るまでの種々なる武士道を掲げてある、其中或は正鵠を得ぬのもありませうけれども、大に武士道に適うた行為といふのもあらう
 - 第26巻 p.363 -ページ画像 
是等を尽く挙げたならばそれこそ枚挙に遑あらぬが、日本に於ては左様であるとして他の国に於てはドウである、老生は御案内の通り西洋の書物には甚だ暗くて知ることは極く少ないけれども、例へば小学読本にあるワシントンが一生嘘を吐かなかつた、小供の時に父の愛する桜の木を傷けて父に咎められた時に、私が過つて致したに相違ございませぬと立派に答へた、是等も矢張武士道で、その真摯忠実なる言葉を武士道といふて宜しい、其場合一旦は父の機嫌を損するに相違ない併しながら隠さずに奇麗に云ふてしまつた、斯ういふのが即ち武士道に適ふた行為といふて宜からう、又ウヱルリントンが百二十八万円の賄賂を贈られんとした時に、賄賂は人の受くべきものでないといふて唯一言に之を排斥したといふことは、何でも西洋立志編にあつたと覚えて居る、間違つて居るか知らぬ……是は立派な武士道といつて宜しい、「ゼネラル」ネーが、オートルローの戦争にナポレオンが敗れて引返した時に、敵国からもうナポレオンの兵は敗れてお前の陣地は迚も防禦は立つまいから、帰るが宜からうといふ通知を受けた、其時にネーが答へて、私は主将から保塁を守れといふ命令だけしか受けて居らぬ、敵に勧められて陣を退くといふことは私の知り得た所ではないと答へた、後に其事実が判つて仏蘭西へ帰つて来た其時のネーの言葉に「ツータツフエー、ペルジユー、エキセプテー、ロノール」「名誉を除くの外総て失敗した」此言葉は仏蘭西でも今に大層尊重して居るやうだが、是等は立派な武士道といふて宜からうと考へる、斯ることを西洋に拾ふて数へて見たならば、それこそ枚挙に遑あらずであらうと思ひます、若し之を支那に尋ねたらどうであるか、支那にも亦ナカナカ武士道の数が多い、それは唐虞三代から殷周文武或は秦漢、この経歴をズツト通つて見たならば、武士道に適うた行為をした人はそれこそ何万を以て数へるであらうか、先づアノ文天祥の正気の歌に就て、最も武士道なるものが言ひ表はしてあると思ふ、文天祥は南宋の宰相で元に捕はれて降参を勧められ、元の始祖が天下を一統するには、どうしても名望を繋ぎて居る人を服従させると人民が甚だ治め易いといふ考から、頻りに此文天祥を降服させやうとしたが何としても降参しなかつた、其獄中に作つた正気の歌は随分書生時分に歓ばれ、書生の口に鱠炙されたものである、其歌にドウあるか、天地有正気、雑然賦流形、下則為河岳、上則為日星、於人曰浩然、それからズツト行つて、時窮節則見、一々乗丹青、それから歴史が出て居る、在斉太史簡、在晋董孤筆、在韓張良椎、在漢蘇武節、これは皆国々の武士道を立通した人を拾ひ挙げたので、斉の太史といふ人は田氏が斉を奪つたといふことを立派に書いて、何度止めても書いて死ぬまで書いた、在晋董孤筆は、趙盾其君を弑すと書いたのを直すと、復た趙盾其君を弑すと書く、何度直しても書いた、在韓張良椎は、例の鉄椎を秦の始皇に抛り付たことである、在漢蘇武節は、蘇武の夷に捕られて白髪になるまで節を曲げなかつた人を賞したのだ、為巌将軍頭、為嵆侍中血、魏の天子が蒙塵した時に、嵆侍中が自分の身を以て天子を庇ひ、血をスツカリ浴びて死んでしまつた、後に其血を洗はうとしたら、天子が嵆侍中が血を洗ふ勿れといつて血を洗はせなかつたといふのが、即ち嵆侍中
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である、為張睢陽歯、為顔常山舌、顔常山は例の顔真卿、唐の安禄山の乱に常山の太守として安禄山の軍を防ぎて、敵に捕へられて頻りに罵つたから其舌を抜かうとしたら、舌を抜いても心で言ふといつて死んだ、張睢陽も其通り、或為遼東帽、清操厲氷雪、或為出師表、鬼神泣壮烈、或為渡江楫、慷慨呑胡羯、或為撃賊笏、逆児頭破裂と、種々なる形容はありますが、是等は皆武士道に適ふた行為である、支那人は今日の世の中には余り人に持囃されぬが、併し是等の行為は総て武士道に適ふたといふて宜からうと思ふ、斯く数へて見ると此武士道は兎角君父に尽すといふことが武士道であるやうになるが、私はモウ少し範囲を広くして、唯君父に尽すとか或は生命を捨てるとか云ふ場合ならでは武士道はないやうに之を解釈せぬでも宜からうと思ひます、即ち如何に解釈するかといへば、既に至誠を基として道理に適ふ事でなければ一歩も動かぬといふ決心が、取も直さず真の武士道と称して宜くはないか、イツもながら兎角経書に依つて説を為すことが老生の癖でありますけれども論語に何と書いてある、見義不為無勇也、或は曾子は何と云ふたか、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人与、君子人也、是等の行為が十分に為し遂げられたならば、即ち武士道に適ふた人と云ふて宜からうと思ふ、然らば今日一身のことのみならず、世の中の事業上に就ても必ず武士道はありはしないか、例へば朱子は何と言ふてある、君子正其誼、不計其利、明其道不計其功、此意味は其行ふべき事柄の道理に於て適ふか適はぬか、道理に適ひ本分に欠くる所がないならば断行するが宜しい、其事理が明瞭であるか不明瞭であるか、果して明瞭であるならば其効果の有無は第二にして、遣るが宜いではないかと斯う言はれたので、或は迂遠かはしらぬが、銭さへ貰へば己れは働くといふことが決して武士道でなかつたならば、其反対に朱子の詞が武士道だといふことは言語の比例上からも生ずるだらうと思ふ、前に例を引ひたウヱルリントンが百二十万円の賄賂を退けたといふことは矢張武士道といひたいと思ふ、例へば商売上道理に外れて利益を得やうと思ふたら、斯る利益が得られる、此道理を踏めば其反対に多少損が行くといふ場合に、武士道を立て通す人であつたなら、其損は甘んずるであらうと思ふ、其道理に外れた利益は得ぬといふことは、即ち商売上の武士道といふて宜いではないか、或は玆に一会社が道理正しく成立て来たが不幸にも利益がない、困難だ、さういふ所は逃げてしまつて、儲かりさうな所には蟻の甘きに就くやうにするといふたら、決して是は武士道と誰も讚める者は無いだらうと思ふ、然らば道理に適ふたことならば、損を忍んでも辛抱してチヤンと取纏めをしなければならぬ、斯う覚悟をするのが大なる武士道である、能く御用商人などといふ言葉には、悪くすると其間に甚だ好ましからざる意味が生じて来る、左様な道理に外れたことは如何に利益があつても関係せぬといふことが、即ち武士道ならずして何ぞや、斯う解釈して見ると、此竜門社の総会は多く実業家の御集りと見て差支ないが、吾々の行為に武士道といふものは日常絶えず附いて居る、何ぞ唯生死の間にのみ、或は武士にばかり武士道を専有されて、吾々は武士道以外に屏息するに及ばんやと、斯う老生は思ふ
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のでございます、老生は充分に武士道を解釈したい、否斯く解釈して武士道の趣意は決して誤つたものではないと、自分は信ずるのであります、今日の時局に於て軍人は十分なる功を奏した、実に武士道の赫赫たることは御同様に慶ばねばならぬ、さて此軍事に武士道の赫々たることを慶ぶと同時に、何れ平和は克復する、其平和克復の後は如何になるか、大隈伯の言はれた通り十三億も金が掛つた、十億以上の負債を持つた日本が、将来如何に経営するかといふことは実に困難である、其困難に応ずるには吾々実業家の武士道を大に振興せねば、其困難を切抜けることが出来ない、斯う御互に覚悟したいものであると思ふ、故に私は玆に武士道といふ近頃流行文字を、軍人専有のものゝ如く解するものは抑も間違だ、文字は武士といふも、それは一種の習慣上の固有名詞で、何ぞ武士道といふものが軍人・武士のみに跼限されるものでありませうか、吾々の間に甚だ大なる武士道があるといふことを、どうぞ御互に理解したいと思ふ、老生は両三日以来風を引いて咽喉も悪うございますし、今日此場所へ出席することも余程困難であつた、困難であつたが是も即ち武士道であると心得て、玆に勇気を鼓して出席致した訳でございます、是で御免を蒙ります(拍手喝采)