デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.365-372(DK260063k) ページ画像

明治38年11月5日(1905年)

是日栄一、当社第三十五回秋季総集会ニ出席シ、「戦後経営及成功談」ト題シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第二一〇号・第三四―三七頁 明治三八年一一月 【本社第三十五回秋季総…】(DK260063k-0001)
第26巻 p.365-368 ページ画像

竜門雑誌  第二一〇号・第三四―三七頁 明治三八年一一月
○本社第三十五回秋季総集会 は予記の如く十一月五日隅田河畔札幌麦酒会社庭園に於て開かれたるが、当日は前日来の降雨全く止み快晴の好天気となりしかば、定刻より社員の来会するもの頗る多く三百余名に達したり、当日は青淵先生・渋沢社長・同令夫人・穂積博士・同令夫人・阪谷博士・同令夫人及来賓海軍中佐森山慶三郎氏も来臨せられたり、午前十時半一同着席、社長渋沢篤二氏開会の辞を述べ、次で来賓森山中佐は起つて旅順及日本海の海戦に付き最も詳細なる演説を為し、我艦隊乗組員が奮戦健闘したるの状を眼前髣髴として見るか如く説明し、最後に我海軍か斯の如き大捷を博したる所以のものは、我将校下士卒の力のみに依るにあらず、海軍の後ろにありて常に援助を与へられたる諸君の力亦多きを感ず、此点は深く感謝せざるべからずとの趣意を述べ、次て青淵先生起つて一場の演説を為し ○中略 更に園遊会に移り、午餐の饗応あり、予て庭内各所に設けたるビール・日本酒すし・てんぷら・煮込・甘酒・しるこ等の露店に就き各々欲する所を求め、余興には三遊亭円遊一座の手品・茶番狂言・落語等あり、来会者一同十二分の歓を尽し黄昏に至り漸く散会したり
当日の来賓及社員の出席者の芳名を録すれば左の如し
 青淵先生    渋沢社長    同令夫人
 穂積博士    同令夫人    阪谷博士
 同令夫人    森山中佐
 社員(出席順)
 - 第26巻 p.366 -ページ画像 
 松平隼太郎   上田彦次郎   若月良三
 鈴木旭     増田亀四郎   八木仙吉
 田口忠次    松平勇     井田善之助
 相場利吉    青木昇     渋沢長康
 石川竹次    田島昌次    長滝武司
 宮下清彦    岡原重蔵    堀江善助
 木村俊助    八十島親徳   椙山貞一
 笹山意平    斎藤亀之丞   河崎覚太郎
 秋田桂太郎   斎藤良八    天野勝彦
 塩川誠一郎   武田仁恕    成瀬隆蔵
 青山友三    長野貞三郎   松本武一郎
 八木荘九郎   戸田宇八    萩原久徴
 佐々木和亮   山際杢助    阿部吾市
 伊藤新策    北脇友吉    恩地伊太郎
 武笠政右衛門  大須賀八郎   梅浦精一
 高橋金四郎   高田利吉    斎藤孝一
 小林武之助   松園忠雄    磯野孝吉郎
 原直      遠藤正朝    渡辺謙一郎
 武者錬三    小泉国次郎   村井義寛
 伊藤登喜造   鈴木重臣    鳥羽幸太郎
 仁瓶茂     坂本鉄之助   阪谷俊作
 桜井武夫    栗生寿一郎   田子与作
 山県近吉    村松秀太郎   田村叙郷
 寺井栄次郎   伊藤半次郎   林興子
 吉岡新五郎   飯島甲太郎   続木庄之助
 山中善平    桜井幸三    穂積重遠
 松島金之助   中沢龭太郎   鈴木源次
 八十島樹次郎  堀越善重郎   大塚武夫
 伊藤信郎    中山輔次郎   木村亀作
 松村五三郎   柳熊吉     武沢与四郎
 古野勝吉    安達憲忠    和田巳之吉
 杉浦道弘    土山武質    井上公二
 佐本鎰蔵    田岡健六    長谷川傑
 石川道正    山村米次郎   高橋毅
 土橋垣司    元山松蔵    山口荘吉
 藤崎金太郎   佐藤清次郎   長谷川方義
 御崎教一    近藤鉱之助   岡部真五
 脇田勇     豊田春雄    木村弘蔵
 青田敏     赤木淳一郎   小林徳太郎
 山本千之助   和田勝太郎   中沢彦太郎
 久保田録太郎  島田延太郎   山中譲三
 沼崎彦太郎   田中七五郎   金子四郎
 服部巳吉    大塚磐五郎   浅見悦三
 板谷譲二    藤木男梢    小沢泰明
 - 第26巻 p.367 -ページ画像 
 唐崎泰介    川口一     町田乙彦
 山崎栄之助   高橋波太郎   吉岡仁助
 戸塚武三    弘岡幸作    明楽辰吉
 鈴木富次郎   小畔亀太郎   金田新太郎
 斎藤章達    大洞紋次郎   田中繁定
 村田繁雄    鈴木金平    目賀田右仲
 関屋祐之助   仲田勝之助   新居良助
 山代秀雄    川西庸也    生方裕之
 鈴木清蔵    本田春吉    織田雄次
 友田政五郎   織田玉子    細谷和助
 相田懋     鶴岡伊作    成田喜次
 沢盛重     河瀬清忠    田中一馬
 萩原源太郎   木本倉二    三浦小太郎
 大平宗蔵    中村光吉    中村習之
 樋口恭次    萩原英一    横田清衛
 金沢弘     穂積律之助   河村桃三
 斎藤政治    仲田慶三郎   松本操
 太田資順    土子金四郎   安倍勉
 平岡五郎    林保吉     福島甲子三
 村山革太郎   鎌田馨     堀口貞
 尾川友輔    青木直治    水野克譲
 市原盛宏    桃井可雄    山田春雄
 多賀義三郎   書上安吉    岩崎寅作
 斎藤峰三郎   川村桃吾    山内明忠
 内藤種太郎   利倉久吉    小熊又雄
 山崎鎮次    脇谷寛     佐々木慎思郎
 岩田幸次郎   肥田英一    山内篤
 箕輪剛     上野政雄    渋沢正雄
 同秀雄     土橋襄     西谷常太郎
 村田五郎    田中太郎    久保幾次郎
 小山平造    金谷藤次郎   同丈之助
 小暮房雄    玉江素義    豊泉為吉
 鳥居川武一郎  岡本亀太郎   安藤鍫
 中村謙雄    早乙女昱太郎  木村新之助
 石井健策    木戸有直    神谷岩次郎
 柴田順蔵    阿部久三郎   古作勝之助
 土肥脩策    早速鎮蔵    高橋信重
 石田豊太郎   浦田治平    佐々木積
 田中栄八郎   野口半之助   中村新太郎
 槙安市     鈴木正寿    関口義助
 横田半七    古田鎮三    尾高定四郎
 中田正雄    渋沢武之助   真保総一
 横山徳次郎   堀内歌次郎   川村徳行
 木村喜三郎   後久泰次郎   大木為次郎
 - 第26巻 p.368 -ページ画像 
 松原知房    芝崎確次郎   高島経三郎
 字賀神啓    佐々木勇之助  曾和嘉一郎
 鈴木恒吉    藤村義苗    中川原精一郎
 河井芳太郎   野口夬     加藤清三
 中沢億三郎   片岡隆起    松川喜代美
 松井万緑    石井健吾    渋沢治太郎
 郷隆三郎    松波仁一郎   長谷川粂蔵
 内山吉五郎   村木善太郎   西田音吉
   ○栄一、総集会費トシテ例ニヨリ金三百円寄附ス。


(八十島親徳) 日録 明治三八年(DK260063k-0002)
第26巻 p.368 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三八年   (八十島親義氏所蔵)
十一月五日 晴 日よう
盛ナル哉晴天トナレリ、九時向島札幌ビール庭園ニ着ス、竜門社三十五回秋季惣集会ハ無滞了レリ、来会者三百数十名、社長ノ辞、海軍中佐瓜生戦隊参謀森山慶三郎氏(財部大佐ノ推薦)ノ海戦談(旅順攻撃中ノ戦略―閉塞隊ノ決心―日本海々戦ノ戦略及実況)約一時間ニ亘リ大ニ面白シ、青淵先生ノ戦后財政経済ノ均衡ノ必要論及成功ノ解釈論不相変裨益多シ、一時園遊会ニ移ル ○中略 余興ハ円遊一座ノ種々雑多ノ御茶濁シ、四時閉会、先々成功ナリ ○下略


竜門雑誌 第二一二号・第一―六頁 明治三九年一月 ○青淵先生の戦後経営及成功談(DK260063k-0003)
第26巻 p.368-372 ページ画像

竜門雑誌  第二一二号・第一―六頁 明治三九年一月
    ○青淵先生の戦後経営及成功談
 本編は昨三十八年十一月五日本社秋期総集会に於ける青淵先生の演説筆記なり
昨日来の雨天が如何と思ひましたら幸に好天気を得て、此の秋期の総会を賑かに開かれましたのは、御一同と共に喜ばしき次第でございます、唯今森山君からして旅順及び日本海の海戦を詳密に御話を戴きまして、御同様平日至て内輪の働きを致して居ります者が今日は俄かに勇壮な活溌な観念を惹起す様になりました、同君の御話は而も実地に身其事を踏みましてのでございますから、吾々新聞の号外に見ましたとは違ひ、殊に感情を強う致しまして、誠に感謝に堪へぬのでございます、実に殆んど二年に近い此の大戦争が海陸の諸将校及び下士卒に至るまで勇武絶倫なる力を以て着々勝を占めました為めに、満足なる平和の克復を見ましたのは、国家の幸慶此の上もございませぬ、畢竟斯る結果を得ましたのも、即ち海に陸に強い力を以て、謂ゆる世界の舞台に古今未曾有の大勝利を博した故であると考へますると、吾々国民は此の諸将校及び総ての軍人に対して厚く感謝を致さねばならぬことと思います、宜なり、頃日来の満都挙つて海軍の凱旋に対する歓迎さもあるべきことと存じます次第でございます、斯の如く御目出度い平和を見ました暁に此処に御集りの竜門社の諸君は、是れから謂ゆる平和の戦争に従事すべき職分であるから、斯様に平和は克復したが此の後の実業界の進歩は左までゞないと申されたならば、殆んど始めあつて終ないやうなことになりはせぬかと考へますると、海陸の武勲の大なるに対して吾々の責任が更に重くなつたやうな観念が起ります、
 - 第26巻 p.369 -ページ画像 
偖戦後の経営が肝要だといふことは誰も申しますが、之れを如何にして宜しいかと云ふことは甚だ論断はし難いと思ひます、元来此の戦後の経営といふ言葉に就て論じて見ると、何も戦後だから特に此の経営を如何にしたら宜からうといふ疑はない筈で、平時でも戦争中でもいつでも世の中の進歩実業の発達には同じ道行を以て努めなければならぬが、殊に戦後の経営を如何にしたら宜からうかと云ふ問題の生ずるは、宜しく是は謂れあることと考へねばならぬのであります、なぜ戦後の経営に左様な考をせねばならぬのであるか、もし戦後の経営は如何にしたら宜からうかといふならば、同しく平時の経営は如何にしたら宜からうか、又戦争中の経営は如何にしたら宜からうか、皆な斉しく研究を要すべきであるのに、特に戦後の経営のみ如何にしたら宜からうかという考の生ずることは如何なる理由であるか、是は一つ考究する必要がありはしまいかと思ふのです、勿論世の進歩を謀り実業の発達を努むるといふことは、いつでも同じことである、平日でも戦争中でも決して其間に昼寝をして居つてはいかぬ、ボンヤリして居つてはならぬといふことは論を待たぬのであるが、兎に角に戦後の経営を如何にしたら宜からうといふは、是は特に考究する必要があると私は思ふのです、私の按ずる所によると、取も直さず人の身体に二十五歳が厄年であるとか、四十二歳が厄年であるとか云ふことがあるが、丁度さういふ場合に適当したものと考へて宜しい、仮に明治二十七八年の戦争の有様を考へて見ましても、日本といふ一の健全なる体格が而も順当に発達して大に面目を改むへき場合であつた、即ち人の二十四五歳の成人になりかゝて来た時といふて宜しい、斯る場合には必ず身体に変更を来して、是までよりは大に食量も進んで来るとか、或は気力も壮んになるとか、さういふやうな次第で種々の変化を生する故に是から先の身体は如何に経営したら宜からうか、養生なり摂生なり種種なる点に一層の注意をせねばならぬ、戦後経営といふのは即ちさういふ時代である、平日は先づ同じ有様に経過して行くものですから、特に其経営を別段に工夫せねばならぬといふことはなく、唯相当に勉強さへして行けば宜いけれども、前に申すやうに変化の時に際しては公私の位置ともに相違を生じて来る、世の中に対する面目も変つて来る、即ち吾々の気位も異なつて来るやうになる、此に於て戦後経営甚だ必要であるといふことが生ずるのである、殊に吾々商工業者は政治界のことには関係せぬで宜しいと自分は平素主張して居るものであるが、戦後経営に対してはドウしても財政と経済を共に考究して、其宜しきを得るといふやうにならなければ、将来の国家に甚だ恐るべきことがありはせぬかと自分は思ふのであります、平時其権衡を保つて居る間に於ては唯その事に勤めて居れば宜しいけれども、変化を来す場合は特に注意を要するのである、即ち取も直さず二十七年の日清戦役以後は国家の財政はドウなつたか、九千万の歳出入が俄に二億万以上に相成つたといふ程の大変革を来した、然らば三十七八年戦後も矢張之に類する程の歳出入を進める場合になるのであらう、此に於て政府の財政と一般の経済が能く権衡を得ませぬと、即ち戦後の養生に大層良い食料は得たが為めに食傷をしたとか、又は摂生を誤つて大に身体
 - 第26巻 p.370 -ページ画像 
に欠点を惹起したといふやうなことがないとは申されぬと、深く恐れますのでございます、強大なる武力を以て、国家をして斯の如き優勢の位置に進めた海陸軍の威力は誠に喜ばしい次第ではあるが、丁度今森山君の最後に述べられた如くに、畢竟左様に軍人が外へ出て働き得られたのも、軍人ばかりが戦争に勝つたのではないぞよ、内に居つて鍬柄を握つて居つた者も能く戦争の性質を弁へて後援を与へたから戦争に勝つたのであるぞよと言れましたが、誠に至当の御言葉にて自分等も常に其事を企望して居ります、吾々たとひ内に居つて算盤を弾いて居つても矢張砲弾の中に居つて働くものと考へ、鍬柄を握つて居つても共に戦争をする者と思ふて下さるといふやうに、謂ゆる相待て国が進んで行きたいものと思ふのでございます、故に此の平和克復後の経営に対して吾々共の希望する所は、国家の財政に偏重偏軽のないやうに致したいと思ふ、即ち此軍事又は総ての政治に対して力を張ると同様に、国家の血液を増す所の実力の発達に対して大に闕如して居るものを補ふといふことがございませぬと、或は恐る此の戦後の経営に就て車を片廻りさせるやうになつて、表は大層立派になつたが内の力は大に衰へたといふやうなことが出来はせぬか、是は尤も懸念する所でございます、自己の力の足らぬ故に唯商工業へ余分の力を与へて欲しいといふ嘆声を発することばかり御聴なしなされぬ様に望みます、如何にも軍人の働きは顕はれたが、実業家の力は伸びぬ、若し一歩進めて言つたならば政府界と雖も軍人に対しては後へに瞠若たらざるを得ぬかも知れませぬ、実に我国の陸に海に軍事の発達といふものゝ甚だ盛大なるのは此の上もない喜ばしいことではあるが、さて其の喜びが唯軍事の発達する為めに軍事に力を集め、軍人の勢ひが強い為めに軍備にのみ全を見るといふ様になつたならば、之を人体に譬ふれば益益頭部が強壮になつて手足は愈々衰頽し、甚だしきは此の日本をして福助のやうな体格にせしむるといふ虞がありはせぬかと、私は杞憂に堪えぬのでございます、故に此の戦後の経営に対しては、前にも申す通り人ならば其身体の変更を来す時、即ち日本といふ国体に大に変更を来す時である、其昔し開港の頃には半開国とも言はれたらう、数年前までも未だ決して一等国といふ位置を許されなかつたのが、殆んど其の場合に至るといふ今日でございますれば、切に此の将来の財政経済に就て十分の注意を以て、国力の配合が彼れに厚くして此に薄いといふことのないやうに只管希望して止まぬのでございます、果して其の正鵠を得ましたならば、実に此の軍事の大成功が引続いて吾々実業界にも将来に成功を見るやうに至らしむることであらうと思ふのでございます
続いて此の成功といふことに就て一言を試みます、近頃能く新聞雑誌其他に、成功した成功せぬといふ事が見えますが、此の成功といふ文字は如何なる意味を寓するか、又此の成功といふものは如何なる事柄を指すか、即ち何を成功といひ何を不成功といふか、一の断案を下して見たいと思ふのでございます、詰り如何なる是れ之を成功といふべきかと云ふ問題です、成功といふ文字は吾々が日々に用ゆる解釈に依ると、殆んど事が成就して利益が多ければ、成功だといふやうに聞え
 - 第26巻 p.371 -ページ画像 
る、而して其文字は色々のことに使用される、例へば今日の竜門社の会でも天気が好くて、幸に森山君も御出になり、風も吹かない、皆さんも大勢来た、アヽ成功だと斯う言へば、成功といふ字が極く易くなる、併し又或る場合には成功に恐ろしい難儀のことがある、例へば赤穂義士の四十七人が讐を取つて腹を切つてしまつた、あれは決して失敗とは言へぬでせう、成功と言はなければなりますまい、如何となれば二百年後まで人口に膾炙して、実に忠臣であつた孝子であつたと言はれるのである故に、大石内蔵之助は成功者である、併し其の人は如何であるか、此の位難儀の事はない、誰もちよつと指を傷めてさへ痛苦に思ふのを腹を切るのですから、而も父子兄弟屍を並べて死んでしまつた、けれども是は成功だ、得たことのない成功である、失敗の成功……失敗の成功といふ言葉はおかしいが……もう一つ近い例をいふと楠正成が湊川で討死したのは失敗であるか、足利尊氏が十三代の覇権を握つたのが成功であるか、是も一の問題であらうと思ふ、蓋し成功といふ文字の解釈に依つては足利尊氏も成功と言へるだらうが、或る点から言ふたら楠正成が寧ろ成功だと言へるだらう、如何となれば爾来四五百年の間の天下の人心挙つて楠正成に向つて尊氏に背くといふことから論じたならば、楠は成功して尊氏は失敗したといふても宜いやうになる、吾々の此の実業界に於ても、さういふ場合が大にあると考へねばならぬのです、例へば道理に依つて破れることは、破れても失敗ではないのだ、道理に依らずに富んだのは、富んでも成功ではないのだと私は先づ考へねばなるまいと思ふ、若し之をして唯成功といふものが富を成したに就てのみあるものだとなつたならば、遂には盗賊熊坂長範も尚ほ成功と之を強弁せねばならぬやうになる、斯く申すと或は不幸に終つた人の申訳の言葉に都合が好くなるやうになるが平常怠つたり又は挙措を誤つて不幸の境遇に陥つて己れは成功したと皆さんに自慢せいといふ訳ではないから、其の誤解は皆さんに御注意を願いたい、故に此の成功といふ文字は甚だ解釈に苦しむ、詰り之を断案して申すならば、道理に依つて行へば即ち其の行つたことが仮令破れても成功だ、もし戦争ならば敗れても亦成功だ、楠正成が湊川に於て今日の場合己れが死なねば南朝の天子を保護することは出来ぬ、尊王の気風を維持することは出来ぬと覚悟して、謂ゆる見切つて其節に死んだのであらうと思ふのです、若し兵力が強かつたなら必ず勝つたでありませうけれども、如何せん兵力が少い、併し其場合に節に死なゝんだならば益々後醍醐帝をして安んじ奉らしむることが出来ないと覚悟したから、遂に一身を犠牲にしたのである、其の事の成る成らぬをば第二に置いて、臣たるの職を尽したのである、其の至誠を尽して謂ゆる仁を求めて仁を得たのである、恰も孔子が伯夷叔斉の問に対して曰「古之賢人也、曰怨乎、曰求仁而得仁、又何怨」といふやうな境遇に終つたのであらうと思ふ、果して然らば其も成功といふて宜しいと思います。故に此の成功といふ文字に対しては余程解釈を詳しく致さぬといふと大なる誤解を生ずる様になる、甚しきは唯一時の利益を得たいばかりを成功とするのは、即ち成功を解釈することの不成功になりはせぬかと私は恐るゝのでございます、而して此成功に於て何
 - 第26巻 p.372 -ページ画像 
処から見ても議論のない、誰が論じて非難のなかつた成功といふものが今日一つある、それは何かといふと、今般の海軍の戦争の結果です実に戦へば必ず勝ち攻むれば必ず取り、而して其精神が如何にも誠実で、其注意が如何にも周到で、其の行為が如何にも巧妙で、楠正成の成功は不幸なる成功であるが、大幸福なる成功は今度の海軍海戦と申して宜からうと私は思ふのでございます、成功の字義の考究は向後尚ほ諸君と共に致して置きたいと思ひますから、諸君も此の字義に就ての考究をなすつて、私の此の企望を成功せしむるやうにありたいと思ふのでございます(拍手喝采)