デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.398-407(DK260068k) ページ画像

明治40年10月27日(1907年)

是ヨリ先九月二十一日、当社名誉社員阪谷芳郎ハ男爵ヲ授ケラル。是日、大日本麦酒株式会社庭園
 - 第26巻 p.399 -ページ画像 
ニ於テ右祝賀ヲ兼ネテ当社第三十九回秋季総集会開カル。栄一之ニ出席シ「竜門社ノ精神及将来ノ経営ニ関スル希望」ト題シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK260068k-0001)
第26巻 p.399 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
十月二十七日 晴 冷            起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午前十時半東橋麦酒会社分工場ニ抵リ、竜門社秋期総会ニ出席ス一場ノ演説ヲ為シ、後午飧ヲ食シ、園遊会ニ於テ余興ヲ一覧ス ○下略


竜門雑誌 第二三四号・第三一―三六頁 明治四〇年一一月 ○本社第三十九回秋季総集会(DK260068k-0002)
第26巻 p.399-403 ページ画像

竜門雑誌  第二三四号・第三一―三六頁 明治四〇年一一月
○本社第三十九回秋季総集会 本社第三十九回秋季総集会は、監督阪谷博士の授爵祝賀式を兼ね、去月二十七日向島大日本麦酒会社庭園内に開かれたり、折柄郊外散策の好時期にもあり、特に当日は秋晴拭ふが如くなりしかば、開場前より会員は陸続参集し、青淵先生・穂積博士・阪谷博士並其家族を始とし、来賓石川理学博士・本多林学博士、其他下に記する如く三百余名の来会ありたり
午前十時半奏楽と共に一同式場に参集、渋沢社長先づ開会の辞を述べて、阪谷博士授爵祝賀式を挙行する旨を報ずるや、社員総代佐々木勇之助氏壇上に進みて左の祝辞を朗読せられたり
 阪谷男爵閣下、玆に竜門社秋季総集会に当り、会員一同満腔の誠意を以て閣下授爵の光栄を祝賀せんと欲す
 恭しく惟るに、閣下超群の才を抱き、経世の学を修め、始めて大蔵省に出仕せられたるより忽ち官海に一頭角を露はし、主計官と為り主計局長に進み、次官に任じ、遂に一躍して大臣の重職に登られ、此に二十有四年財政の衝に当りて其収支を調理し、殊に三十七・八年空前の大戦役に於ける軍事費の如き、古来未だ曾て見ざる所の巨額にして、其財政の与かる所人民の休戚、国家の安危繋つて焉に存す、此時に当り、閣下該博の学識と、深遠の閲歴とを以て、其計画皆宜しきを得、巨額の国債を内外に募集し、能く海陸軍をして内顧の憂なからしめたるもの、其功実に偉大なりと謂はざるべからず、宜なる哉
 至尊前に閣下を勲一等に叙し、旭日大綬章及年金を賜ひ、玆に又其功勲を録せられて特に男爵を授け給ふ、是れ閣下一門の光栄なるのみならず、生等竜門社員として常に閣下の賢明を欽仰し及其誘掖を蒙むる者、均しく歓喜して措く能はざる所なり、閣下の功績已に此の如く、其光栄又非常なりと雖も、今や国家は大戦役の後を承け、各般の経営一時に起り、歳計の膨脹復た前日の比にあらず、閣下の任随て大なり、冀くは深く自愛せられ、国家の為に経綸せられんことを
 窃に思ふに、閣下の奏功と名誉とは固より一朝にして成りしものにあらず、蓋当初大に抱負する所を以て二十有余年一日の如く其職に尽くされたるにあらずんば、安んぞ能く此の如くなるを得んや、是れ生等竜門社員が平素欽仰して已まず、今日の光栄を歓喜して措く能はざる所なり、生等竜門社員たるもの宜しく閣下が終始一貫の美
 - 第26巻 p.400 -ページ画像 
蹟を模範とし、事の軽重、物の大小に論なく、忠実純正を以て各其職に尽さゞる可らず、敢て衷情を吐露して、敬しく祝賀の意を表す
  明治四十年十月二十七日    竜門社員総代
                      佐々木勇之助
右終て阪谷男爵の答辞あり、博士は懇に社員に対する謝辞を述べらるると同時に、戦後我国家の責務大を加へたることを述べ、本社員の今後愈勤勉事に従ひ以て発展せる国運に応ぜんことを希図せられ、右にて式を終れり
夫より来賓林学博士本多静六氏の欧洲に於ける市街及公園に関する演説、同理学博士石川千代松氏の動物の遺伝に関する講話あり、最後に青淵先生は竜門社の精神及将来の経営に対する希望を演説せられたり(是等の演説筆記は順次本誌上に登載すべし)
斯くて午餐の饗あり、午後は園内各所に設けたる露店を開き、余興には海老一一座の曲芸あり、各員一日の清遊を尽して思ひ思ひに帰途に就き、全く散会したるは午後四時頃なりき
又当日参会々員諸君の芳名を録すれば左の如し
 青淵先生
  名誉社員
 渋沢篤二君   同令夫人
 穂積陳重君   同令夫人
 阪谷芳郎君   同令夫人
  特別社員
 一森彦楠    石井健吾    石井録三郎
 伊藤登喜造   伊藤半次郎   岩崎寅作
 犬丸鉄太郎   犬塚武夫    服部金太郎
 橋本悌三郎   橋本明六    原簡亮
 原林之助    萩原久徴    早速鎮蔵
 丹羽清次郎   西脇長太郎   西内青藍
 西田音吉    堀井宗一    堀井卯之助
 堀越善重郎   本多春吉    星野錫
 細谷和助    土岐僙     戸田宇八
 土肥修策    利倉久吉    沼崎彦太郎
 沼間敏朗    尾高幸五郎   尾川友輔
 大橋新太郎   大沢省三    大塚磐五郎
 長田貞吉    岡部真五    岡本銺太郎
 織田雄次    小木辰之助   脇田勇
 書上順四郎   神田鐳蔵    川村徳行
 柏原与次郎   金谷藤次郎   柿沼谷蔵
 横田清兵衛   吉岡新五郎   高根義人
 高松録太郎   高橋波太郎   田中楳吉
 竹村利三郎   多賀義三郎   曾和嘉一郎
 早乙女昱太郎  中村鎌雄    仲田慶三郎
 仲田正雄    中沢彦太郎   成瀬仁蔵
 成瀬隆蔵    長尾甲子馬   村井義寛
 - 第26巻 p.401 -ページ画像 
 村木善太郎   上原豊吉    内山吉五郎
 野崎広太    野口半之助   日下部三九郎
 倉沢粂田    八十島親徳   山下亀三郎
 山中譲三    山中善平    山田昌邦
 山田敏行    山口荘吉    山本徳尚
 松井万緑    松平隼太郎   小林義雄
 小林武次郎   小橋宗之助   郷隆三郎
 寺井栄次郎   浅野総一郎   浅野彦兵衛
 阿部吾市    佐々木勇之助  佐々木慎思郎
 佐々木和亮   斎藤峰三郎   斎藤章達
 木村新之助   湯浅徳次郎   皆川四郎
 南貞助     三浦小太郎   渋沢元治
 渋沢作太郎   渋沢義一    芝崎確次郎
 清水一雄    真保惣一    平沢道次
 桃井可雄    諸井恒平    諸井時三郎
 諸井四郎    諸井六郎    本山七郎兵衛
 関屋祐之助   鈴木金平    鈴木清蔵
 鈴木紋次郎
  通常社員
 伊藤祐彀    井田善之助   石井健策
 石川竹次    石川道正    石井与四郎
 石田豊太郎   磯野孝太郎   猪飼正雄
 飯島甲太郎   入江銀吉    市川廉
 板野吉太郎   長谷川粂蔵   長谷川謙三
 長谷川潔    早川素彦    坂野新次郎
 伴五百彦    畑次郎     林興子
 林保吉     新原敏三    西山喜久平
 堀内良吉    堀英太郎    堀内歌次郎
 本多竜二    鳥羽幸太郎   千葉重太郎
 大塚正保    大沢強     大平宗蔵
 大須賀八郎   大島正雄    小原富佐吉
 小沢清     岡本亀太郎   岡原重蔵
 奥川蔵太郎   若月良三    脇谷寛
 和田勝太郎   河村桃三    川口一
 川上賢三    笠原厚吉    書上安吉
 唐崎泰介    金子四郎    金田新太郎
 金沢求也    加藤秀次郎   吉田節太郎
 吉田久弥    横田晴一    吉岡鉱太郎
 吉田仁助    横田半七    田島昌次
 田子与作    田中繁定    田中七五郎
 田中太郎    高村万之助   高田利吉
 高林璦吉    高橋金四郎   高橋和足
 高橋森蔵    高橋信重    高島経三郎
 塘茂太郎    根岸綱吉    中山輔次郎
 - 第26巻 p.402 -ページ画像 
 中村習之    中村新太郎   中北庸四郎
 内藤種太郎   滑川庄次郎   成田喜次
 村上豊作    村山革太郎   村田繁雄
 村松秀太郎   宇野武     上田彦次郎
 野村揚     野々村岩吉   久保幾次郎
 山代秀雄    山崎巌     山本中次
 山崎一     山崎鎮次    安井千吉
 安田久之助   八木仙吉    八木荘九郎
 柳熊吉     松村五三郎   松村修一郎
 松永米次郎   松園忠雄    町田乙彦
 槙安市     増田亀四郎   藤森忠一郎
 藤木男梢    藤野岩松    古野勝吉
 福島三郎四郎  福田盛作    小曾根錦之丞
 小林徳太郎   小泉国次郎   古作勝之助
 河野通吉    後久泰次郎   江口百太郎
 相田嘉一郎   明楽辰吉    綾部喜作
 赤元淳一郎   秋元孝次    浅見悦三
 天野勝彦    阪谷俊作    斎藤平次郎
 斎藤又吉    斎藤孝一    斎藤政治
 佐藤伝吾    沢盛重     佐々木哲亮
 木村久雄    木村銀平    北脇友吉
 宮下恒     宮谷直方    水野克譲
 三上初太郎   峰岸盛太郎   御崎教一
 渋沢武之助   渋沢長康    清水松之助
 塩川誠一郎   樋口恭二    広瀬市太郎
 平岡五郎    森島新蔵    鈴木富次郎
 鈴木正寿    鈴木旭
  準社員
 家城広助    堀田金四郎   富田善作
 恩地伴太郎   太田資順    大庭景陽
 和田巳之吉   加藤万四郎   玉江素義
 武笠政右衛門  田岡健六    永田常十郎
 村田五郎    松倉長三郎   古田元清
 青田敏     粟生寿一郎   阿部久三郎
 島田延太郎   森茂哉
  購読者
 今井又治郎   西山貞吉    落合太一郎
 河崎覚太郎   田中槌之助   田中一造
 野口夬     山内篤     山村米次郎
 藤崎金太郎   藤浦富太郎   河野間瀬次
 遠藤正朝    木村弘蔵    元山松蔵
  客員
 本田静六    坪井正五郎
  来賓
 - 第26巻 p.403 -ページ画像 
 石川千代松
又当日の会費中へ左の如く寄附ありたり、此に記して其芳志を謝す
  一金参百円                青淵先生
  一金七円                 同令夫人
  一金弐拾円                渋沢社長
  一金五円                 同令夫人
  一金五円                 穂積博士
  一金参円                 同令夫人
  一金五円                 阪谷男爵
  一金参円                 同令夫人
  一金弐拾五円            佐々木勇之助君
  一金拾円          万歳生命保険株式会社殿
  一金拾円            東京印刷株式会社殿
  一金拾円               大川平三郎君
  一金拾円               田中栄八郎君
  一金拾円               浅野総一郎君
  一金拾円                鈴木金平君
  一金拾円                岡部真吾君
  一金拾円               堀越善重郎君
  一金拾円               渋沢作太郎君
  一金拾円                諸井恒平君
  一金五円                 星野錫君
  一金五円               諸井時三郎君
  一金五円               尾高幸五郎君
  一金五円                尾高次郎君
  一金五円               岡本儀兵衛君
  一金五円                成瀬隆蔵君
  一金五円                八巻知道君
  一金五円                阿部吾市君
  一金五円                山中譲三君
  一金五円                鈴木恒吉君
  一金五円               湯浅徳次郎君
  一金五円               寺井栄次郎君
  一金五円                野崎広太君
  一金五円                原林之助君
  一金五円               犬丸鉄太郎君


竜門雑誌 第二三六号・第一七―二一頁 明治四一年一月 ○竜門社秋季総会に於ける演説(昨年十月二十七日)(青淵先生)(DK260068k-0003)
第26巻 p.403-407 ページ画像

竜門雑誌  第二三六号・第一七―二一頁 明治四一年一月
    ○竜門社秋季総会に於ける演説(昨年十月二十七日)
                       (青淵先生)
今日は竜門社の総会に最も好紀念を遺しまする日でございます、会員の一人たる阪谷博士が今般勲功に依つて授爵の栄を得ましたことは本会として甚だ喜ぶべきことで、社員諸君が申合せて祝辞を同氏に御呈しになりましたことは、一面には私も博士に対して賀辞を述べ、一面
 - 第26巻 p.404 -ページ画像 
には近親の身柄として社員諸君に対して謝辞を申上げねばならぬのであります、本多君には御旅行よりお帰り早々で、御忙しい所を繰合せて今日此会に御出席を得まして、強いて一場の御話を願ひました、新見聞の御演説は大分諸君に趣味を添へたやうに感じます、又前席の石川博士の動物に関する遺伝の御話は、吾々頗る興味を以て拝聴致しましてございます、私が玆に御話しやうと思ひますることは、左様な諸君を笑はせたり喜ばせたり、又利益を与へるやうな御話ではございませぬ、寧ろ此会員中の最も青年の人々に一言の注意を致して、将来に於ける注意を申述べて置かうと考へるのでございます。
竜門社の成立に就きましては私が主唱者といふ訳でもなく、又発起者の一人といふ訳でもありませぬから、詳しい事は存じて居りませぬ、併し私が深川に住つて居つた頃であるから、多分明治十七八年頃であつたらうと思ふのです、今回が三十九回の総会といひます処から、年に両度総会を開くものとすると、三十九回は即ち十九年半になる、さすれば二十一年頃に始めて本会の総会を開いて、順を追うて今日に至つたものと思はれる。竜門社といふ名を命けたのは故尾高藍香先生であると聴いて居りますが、私が深川の家に住つて居ります時分に五六の書生が居りまして、或は学校に或は銀行若くは会社に通つて居つた其書生等が代り代りに追々殖えて来るに従つて、時々相会して智識の交換をしやう、又懇親を厚くしやうといふやうな事が遂に一の団体になつたのでありまして、此竜門社と云ふ会合は、殆ど主義もなければ目的も甚だ茫漠たる有様に成立つたと申して宜からうと思ひます、当時の有様を回想しますると、十人か十四五人打寄つて雑談致したに過ぎなかつたのが、世運の進みに伴はれて二十年の歳月を積みました今日は、殆ど準会員といふ御人まで数へると、七百八十人の多数になつて居るといふことを、先刻承りましてございます、社会の事物は総て増大したでありませうけれども、此竜門社も二十年の間に斯の如く成長し、何等の主義なく何等の求める所もなく、毎年毎月相会して情を通じ楽を倶にするといふことは、実に喜ばしきことである、併し私が今玆に竜門社員に一言を述べて注意を乞ふといふことは、此竜門社の将来を如何にしたら宜いか、どう進めて行つたら宜いかといふことを能く御考究あれかしと思ふのでございます、勿論此竜門社の組立は、或る党派とか団体とかいふて、殊更に物を構へて多数を求めるといふ趣意でなく、先づ私に縁故ある人々が相集つて、或は親睦を厚ふして智識を交換し、或は共に公益を図り、妨害があるならば之を防ぐといふやうなことであつて、全く社交の一団体でございませうけれども、併し此世の中の段々進んで行くに従つて、所謂優勝劣敗の争も生じて来まするし、生存競争と云ふことが追々に烈しくなつて来る、故に商工業各種類の方々が相集つて居る間には、勢ひ衝突といふことが生ぜぬとも言はれぬと思ひます、多く相合同して、其方面の広くなる程、結合の道理が能く立つて居りませぬと云ふと、将来に於て利害の衝突よりして、種々なる扞格を生ずるといふことをば顧慮せねばならぬやうに考へるのでございます。
前に申す通り、私が好んで斯る組立を是非なさいまし、それが利益で
 - 第26巻 p.405 -ページ画像 
あると御勧めして玆に至つたのではない、実に偶然に期せずして会したのである、而して此会員を見渡すと、或は政治家もあり教育家もありますが、多数は私に縁の多いために所謂実業家といふ種類であるけれども、此実業家といふ総称の中には銀行者もあれば工業者もあり、又農業に従業して居る人もある、種々雑多の御人が集つて居ると申して宜い、而して此相会する人は唯単に一片の友情に依り、道理に由り所謂人道を以て相会して居るのでありますから、此位清浄潔白の集会はない、一方から言へば無味淡白の会である。けれども将来此会をして飽までも拡張を図り繁盛を求めるといふには、勢ひ一の主義と云ふものを備へるやうにあれかしと私は思ふのでございます、果して其主義を備へるといふことが必要と思ふならば、是から後にはもう一層竜門社をして相当の方法を講じて、多少の規程規約等を設くるも必要であるものではなからうか、今日の竜門社をして斯くあらまほしく思ふ私は今此問題を起して諸君に求めるのではございませぬが、謂れなく働き、謂れなく倒れるといふことのなからぬことを希望するなれば、此際会員諸君の中から、相当なる委員にても撰挙して、未来に於ける方法を考究して、今までの偶然の成立をしてチヤンと規矩あるものに固める御工風が必要でありはしまいかと、会員御一同に向つて申上げて置くのでございます。
而して此の会の精神とも申すべきものは、どういふ主義を立てたら宜からうかと考へますると、私の平日希望して居る所は、竜門社の今日まで準拠して来つた所の慣例に則るやうにありたいと思ふのであります、それは長いことを申さぬでも宜い、詰り一国の繁盛は、其国民の智識の進むのと又勉強の逞しいのにあるといふことは、何人も異論のない所で、若し其国民が智識なく、縦し智識あつても怠慢であつたならば、一国の繁盛は期せられぬから、此点は仮令孔子の如き大聖人出るとも我言を易へずと申し得られる、而して其智識を進め、進めた智識を応用し十分勉強するといふことに就ては千差万別、議論も百端に別れるのでございまするが、帰する所真正なる鞏固・真正なる繁盛は国民の義を先にし利を後にするにあると信ずるのでございます、孟子の梁の恵王に答へた如く、王何必曰利亦有仁義而已矣、此仁義・道徳の心が其智識に依りて十分応用され、其仁義・道徳に依つたる勉強が逞しうして、始めて鞏固なる繁盛が期し得られると申して宜からうと思ふのです、如何に智識があり如何に勉強をするとも、道徳を失ひました勉強・智識は、或場合には甚だ悪結果を惹起して、遂に未来に衰頽を来すやうなことがありはしないかと恐れるのでございます。
私は常に竜門社の青年に対して、自分が実業家であるから、私を見習はうと思ふ御人は、成るべく其範囲内に於て働くやうに希望して居ります、但し人の性質からして、商工業者たるに適せぬ者が無いとは言はれぬ、又仮令其人の才能は、何れか判らぬけれども、欲する所他の方面にあるならば、それは人々の望む所に従ふが宜いと思ふ、国家の大、人民の多き、決して人が一様なる方面にのみ働くべきものではないが、如何なる方面に働かうとも守る所は一である、所謂、夫子之道一以貫之、其貫く道は何であるか、曰忠恕而已、括めて言へば忠恕、
 - 第26巻 p.406 -ページ画像 
伸して言へば孝悌忠信・仁義道徳、故に私は商工業者となる諸子に対て常に訓誡しまするは、孔子の言に為君子儒、勿為小人儒といふことをば言換へて、君子でも商売人が出来る、小人でも商売人が出来る、どうぞ小人の商売人にならぬやうに御心掛なさいと口癖のやうに申して居ります、今日の商工業者、即ち実業界に対つて斯の如き言葉を用ゐるのは甚はだ嗚呼がましく聞えまするけれども、昔の聖人の人に教へ、或る王侯に説いた王道・覇道の差別でございます、現に孟子の如きは常に王覇の別を論弁して、王者は斯々、覇者は云々といふことを反復説明しましたが、此実業界にも同じく王道・覇道の差別があると私は思ふのです、今朝も私は宅を出る時に孟子の王覇の差別を読んで見ましたが、孟子は斯やうに説いてある、以力仮仁者覇、覇必有大国以徳行仁者王、王不待人、唐以七十里、文王以百里、実力に依り仁義の力を仮りて人を圧するのは之を覇といふ、故に覇は必ず大きな富を有つ、けれども徳を以て仁を行ふのが真正に仁を為す人である、それを即ち王と云ふ、故に王は人を待たず、多数を頼まぬ、唐は唯七十里の国を以て王たることを得、文王は百里の国を以て、王たることを得た、之を繰返して、力を以て人を服するものは其人が心服するのではない、力不足也、以徳服人者衷心悦服、即ち例の七十人の弟子が孔夫子に服したやうな有様が、真正なる王道の意味であらうと思ふ、詩云自西自東自南自北無思不服此之謂也、即ち人の悦服する所を詩経を引いて玆に一語の結論を為した、至つて単純の意味で、左まで敬服すべき言葉でもないやうでありますが、王覇の差別は成程これで能く解るやうでございます、実業界の王道・覇道は、政治界の王道・覇道と類を同じうしては論じられませぬ、けれども、私は利と義との差別を明かにして行つたならば、即ち実業界にも王道・覇道の差別を為し得られるだらうと思ふ、一国の繁盛、多数の富を目的とし、自己本位でなく、事業を経営するに先づ此主義を根本として、而して其行ひが総てに行き届き得たならば、即ち実業界の王道と申して私は宜からうと思ふ、之に反して唯一家の利益、我一族の富のみを図り他を虐げるとも己れの富を努めるといふことであつたならば、之は実業界の覇道といふて宜からうと思ふ、併し実業界に於ける覇道は決して悪くはない、即ち力を以て仁を仮るのであるから、仁を仮るといふことは既に宜しい、覇道でもなくて暴戻の君主の如きものが実業界にあつたなら、是は沙汰の限りであるが、併し真正なる実業家に望む処は、どうぞ私は此王道を以て事業を経営するにあれかしと思ふのでございます、但し斯様な主義は一歩を誤りますると人の働きを鈍くし、人の勉強を妨ぐるやうになる虞がある、なぜならば利己主義と云ふことが、どうしても人の智識を磨き勉強を増すものである、人の為となるよりは自分の為になるを望むは、殆ど人間の通有性といふても宜いやうなものである、けれども私が考へる所では、啻に己れをのみ本位として務めると云ふことになつたならば、孟子の所謂不奪不厭といふことに帰しはしないか、如何に智識が進むとも、如何に学理が高尚になるとも、如何に勉強が逞くなるとも、不奪不厭といふ国民が打揃つたならば、進めば進む程危険の度が高まると思はねばならぬやうになります、故に今
 - 第26巻 p.407 -ページ画像 
日世の中が進むと同時に、仁義忠孝、所謂王道を攻究するのは即ち世の進みに伴ふ大なる務と自分は考へまするから、前に申す竜門社の将来に於て追々規程を立つるならば、私が平日希望する所の、実業界の王道の拡張するやうに、深く諸君に望むのでございます、今日の竜門社に即時に斯る規則を御組立てなさいと云ふではございませぬが、偶然の組立が年を逐うて斯の如く盛大に相成つたのを深く喜びます、けれども、如何にも是といふ拠る所もなければ帰する所もない、偶然の組立である、此組立は何処までも保存して行きたい、保存して行くことは諸君も御希望であらう、然る上は将来前に申すやうな主義綱領の如きものが立てられたなら、別して宜しくはないかと心付きました為に、玆に一の希望を述べて置くのでございます。(拍手)



〔参考〕(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK260068k-0004)
第26巻 p.407 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四〇年    (八十島親義氏所蔵)
九月廿一日 強雨
○上略
今日ハ日露戦役ノ功ニヨリ元老・閣員・次官・武官等ニ陞爵・新授爵ノ発表アリ ○中略 阪谷大臣ニモ(次官トシテノ功ニヨリテナラン)男爵ヲ授ケラル、蓋相当ノ事ナリ ○下略



〔参考〕竜門雑誌 第二三三号・第四一頁 明治四〇年一〇月 阪谷大蔵大臣の授爵(DK260068k-0005)
第26巻 p.407 ページ画像

竜門雑誌  第二三三号・第四一頁 明治四〇年一〇月
○阪谷大蔵大臣の授爵 我社の名誉社員にして監督たる大蔵大臣法学博士阪谷芳郎君が、三十七・八年戦役中大蔵次官の要職に在りて戦時財政経理の難局に当り異常の偉勲を奏せられしは満天下の認むる所なりしが、果せるかな去る九月二十一日を以て、左の如く授爵の御沙汰を受けられたり
           正四位勲一等法学博士 阪谷芳郎
 依勲功特授男爵
之れ実に同博士一門の名誉は申すまでもなき事にして、亦実に博士と深縁ある本社の深く光栄とする所なれば、来る二十七日開会の秋季総集会に於て、特に同博士の為に授爵祝賀会を挙ぐる筈なり