デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
2款 講道館
■綱文

第26巻 p.469-476(DK260074k) ページ画像

明治34年4月21日(1901年)

是日栄一、講道館長嘉納治五郎ノ懇請ニヨリ、当館造士会第六回講話会ニ出席演説ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK260074k-0001)
第26巻 p.469 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
四月二十一日 晴
午後一時嘉納治五郎氏トノ兼約ヲ践ミ、小石川富坂町講道館ニ抵リ、造士会ニ出席シ一場ノ演説ヲ為ス、畢テ柔術ヲ一覧ス ○下略
   ○造士会ハ、館長嘉納治五郎会長ト為リ、少壮ノ子弟ヲ指導シテ立身ノ方針ヲ定メ心身ヲ鍛錬セシムルヲ以テ目的トシ、雑誌「国士」ヲ発行シテ子弟ノ教養ヲハカリ事務所ヲ講道館内ニ設ク。


国士 第三二号・第七〇頁 明治三四年五月 第六回講話会(DK260074k-0002)
第26巻 p.469 ページ画像

国士  第三二号・第七〇頁 明治三四年五月
    ○第六回講話会
本会は予告の如く、去月二十一日午後一時より、第六回講話会を小石川講道館に開きたり。来会者凡そ二百名、渋沢栄一君及井上哲次郎君の講話ありき。右講話速記は、本号より講話欄内に出づ。


国士 第三二号・第六―二二頁 明治三四年五月 今日の学生に対する予の希望(男爵渋沢栄一君)(DK260074k-0003)
第26巻 p.469-476 ページ画像

国士  第三二号・第六―二二頁 明治三四年五月
    今日の学生に対する予の希望 (男爵 渋沢栄一君)
本会には始めて私は参上致しまするので、総て皆さんには初対面であらうと考へる。御承知の通り私は商売人で学者とか弁士とかいふ方の人間でございませぬから、学術的の講話などといふことは致しかねまする。此程より会長の嘉納君と屡次御会合致す機会がございまして、其節に此講話会に一日出て、話をするやうにといふ御依託を蒙りました。御懇意の間柄黙止し難く参上致しましたけれども、前に申述べます通り、諸君を益する程の御話は出来ませぬので、先つ申さば方面の違つて居る人間であります。が此講話に対して、私のやうな商業者の説も所謂他山の石を以て、玉を磨くといふことになりませうと、斯う思ひましたゝめに、推して参上仕りましたのでございます。
      四十年前の教育
私が玆に御話したいと思ふことは、此教育といふ事柄に付て、自分の受けました教育の有様と、今日の教育の度合が如何に違ふて居るかといふことを、昔子供の時の事を回想致して御話しやうと思ふのでございます。年長けた御方は殆と此席に見えぬやうでありますから、四十年若は五十年前の教育の度合は皆様は余り御存じあるまいと思ふのです。但し斯く申上げまする私が古風な教育たりとも、教育を完全に受けたかと申すと、昔古風な教育中の最も粗末な教育に養育せられたものでありますからして、或は都会に於ける者の教育法と、私が今玆に御話することとは、大に異つて居る点があらうと思ひます。
 - 第26巻 p.470 -ページ画像 
私は東京を距ること二十里ばかり、中仙道に於て成長したのでございます。百姓の忰でありまして、所謂寺子屋組織の教育を受けたものでございます。それからして二十を超えましてから、東京に出て儒者の塾に半年ばかり這入り《(つ)》たことがございます。其処で、始めて東京の漢学の教授は、斯かる方法であるといふことを、極く浅薄に窺ひ知つたのです。併せて此撃剣を在所に居る時分に好んで聊か修業致しましたに依て、丁度同じく東京に居る間に、千葉といふ剣客の門に入門をして、是も半年ばかり稽古致しました。併し撃剣の事は、今玆に御話する必要はありませぬが、昔の教育といふものは何であるかといふと、私共の在所あたりの有様は普通の百姓若は商売人の稽古すべきものは先以て此一二と称へて一から十までの字を書かせる。それから「いろは」四十八文字。之を片仮名にも書かせる。それからして人の名前の頭字を取つて教ふるのが、名頭といふ書物であつて――書物といふと大変ですが紙数十四五枚のもので源平藤橘などといふ、人の姓名の頭を教ふると。それから国尽し、或は商売人は商売往来、少し立上つて実語教とか庭訓とか若は大学・中庸・論語・孟子、即ち四書であります。更に進んで此漢籍の幾らか文才のある者は、或は歴史若は詩文章の如きものを読みかける。其中にもう追々に相当な年配になりますからして、己れの掌る事に従事する。百姓は農業に従事しなければならぬ。商人は商売に従事しなければならぬ。マアそこらを今申す教育としてあつたのです。其外にもう一つ算術を教ふるのが普通でありました。此算術は大抵加減乗除に止まる。八算と申ものと見一と申すのとそれから進んで開平開立などといふ算術の名目があります。其書物には塵却記といふものでありまして、是は大数、小数といふ数字を書いて、八算なり、見一なりの算盤を乗けたり、除つたりする方法が示してあります。算術といふてはそれくらゐのものだ。其教をどういふ方法にしてやるかといふと、寺小屋《(子)》と称へて先づ多くは寺の和尚さんが教ふるといふのが、重なる仕組のやうでした。併し寺小屋といふて、果して寺ばかりであつたかといふとさうではない。「てら」といふのは支那から伝はつた教であつて、寺小屋といふ名が付いたといふ説がありますが、是は学者の構造説でありませう。多くはお寺が教ふるのが本当であつたろうと思ひます。それから名主などゝいふマアさういふ種類の人が、皆な子供を世話する。故に此子供の世話が詰り申すと、今の私塾と同じやうな有様でありますけれども、却て一つの篤志とか若は慈善とかいふやうな性質を含んで居りまして、又世話する人は、幾らか其近所合壁の間に於て、優れてそれだけの事を覚えた人でありますからして、其地方に於ては天稟の才能のあつた人と云つて宜いのです。さういふ人々が年寄つてから、三十人若は五十人の子供を集めて教授を致す。先づ普通の階級としては今申しましたくらゐで、優れて漢籍を好むといふ種類は、此れから四書より進んで、五経を読み、或は歴史では、史記・漢書、短きは十八史略、或は日本外史とか、日本政記とか、和漢の書物を読むといふことが、重なる学問の趣意で、さうして続いて文章では文章軌範であるとか、或は八大家文集であるとか、申すやうな書物に止まる。
 - 第26巻 p.471 -ページ画像 
      当時学問の趣意
それで少し高尚な書物を読む人の学問の趣意はどうかといふと、所謂経世実用と称へて国を治めたり己れを修めたりする方の学問は、何に依るかといふと、経書即ち孔孟の教に依るのです。之が己れが研究するといふ学問の趣意になつて居るのです。それはどういふことであるかといふと、誠に簡単な教であります。即ち大学に説く通り、「身修而家斉、家斉而後国治、国治而後天下平」なりで、其階級順序が誠に荒つぽい。詰り一身を修める、一家を斉へる、一国を治める、天下を平にするといふので、一身を修めるから天下を平にするまで四段しかない。殆と千百より直くに億兆に飛超えて教ふるといふことで、それ故に総て学問が己れの方に付いた教が少くて国に関する教が多い。即ち消極でなくして積極であります。一体孔子の教もさうらしく見える。文武兼備のものである。譬へば六芸といふものは、礼・楽・射・御・書・数としてある文武共に一括に籠めてあります。周の時代は如何な有様であつたか、又孔子が左様な六芸といふ教法を立てたのは、どういふ訳であるか、私は学者ではありませぬから講釈は出来ませぬが、其糟粕を嘗めた漢学、即ち前来述べました維新以前の教育の仕方は至つて粗笨なものであつたといふことを、申上げるに憚らぬのでございます。
      漢学者の目的――治国平天下
それ改《(マヽ)》に会ま其間に熱心な人があつて、どういふ性質に出来て来るかといへば、直ぐ国家を以て己れの任務とする。斯ういふやうな念慮になつてしまふのが常であります。即ち修身といふ方と、斉家といふ方とを第二に置いて、治国平天下といふことを直様観念して来る。加ふるに歴史でも読むと、其歴史には世の治乱盛衰に関る事柄が多く記載してあるから、其観念が起きて来る。実は歴史を書く人も、其治乱の由て起る原因は、微細の間にあるでありませうが、其処を書く人は少くして、寧ろ漢の高祖が豪放にして家人の生産作業を事とせず、意豁如たりなどゝいふことを一番前に書いてあるから、歴史を読む人が、どうも漢の高祖は家人の生産作業を事とせず、一たび兵を沛に起して天下靡然として之に服し、竟に四百余州を一統した。えらいものではないかといふ感じを起す。甚しきは民権家。もう一歩進んで申したならば革命家になるといふ教育の土台であつたのです。漢学といふものは、一歩誤ると、まるで革命家を作り出すの教であつたといふことは今申した通りでございます。
今申したのは少し上等な教育の法で、普通教育は前申す僅かな書物に依て、書は姓名を記すに足るとか、人に対つて自用を弁ずるに足るとか、殆ど世の中の人間の務は如何であるか、世の進化して来る道理は何であるかといふやうな、其日々々の事柄すら理解し得る教は、普通の平民には無かつたといつて宜いぐらゐでございます。一歩進んだ教は、先きに述べたやうに、殆ど革命の助けを与ふるといふ教育の仕方でありました。斯く申すと此時代に於ては馬鹿な人間ばかり多くして偶々幾分か漢籍を読んだ者は皆革命家になつたかといふ御疑があるか知れませぬが、併ながら世の中は左様に行走りはせなんだか、今日よ
 - 第26巻 p.472 -ページ画像 
り回顧すれば、教の土台がさういふ姿であつたと申しても、決して過言ではないのでございます。誠に其時分の江戸の聖堂といふやうな場所の教に於ても、唯今私が申した田舎にある所の教育の度合を少し高めただけでありまして、色を以て論ずれば同じ色で、只其色の濃かつたと云ふに過ぎぬのでございます。故に維新以前の教育の度合といふものは、左様なものであつたといふことを、皆さんに御知らせするのであります。御覧なさい。維新以前の者は、多くは無学と云はれても一言ない。併し会ま熱心な人は、どういふ有様に行走つたかといふと都て革命といふ意念が強かつたのです。竟に幕府が此措置を誤つたゝめに、殊に外交といふものを誤つたために、国歩艱難、幕府衰亡して王政を復古せしむるに至つたのは、蓋し此漢学の教育が其因をなしたと思はれるのであります。幕府が漢学を重じたのは曷んぞ知らん、竟に己れが革命を致されるの病根を作つたといふ様に、後から評すると見えるのでございます。併し或は若しさういふやうな教育法がなかつたならば、又他の事柄からして、此革命があつたかも、知りませぬ。特り此革命が漢学の罪だとは、申されますまいが、是は別問題として今私の申述べましたのは唯だ維新以前の教育法は如何であつたかと云ふ一例証でございます。それがために或部分にては学問の働が鈍いのみならず。先つは無学の人が多かつた。而して誤ては革命の徒ばかりを作るといふ虞がありましたけれども、併し此粗雑な教の中にも大に人間の気風を養成することがあつたのは、今日も尚欽慕せねばなりませぬ。
      武士道
今も世間にて尊重しまする武士道、この武士道といふのは、昔の士といふ種類の中に多くありましたから、終に武士道を以て目せられたてありますけれども、併し武士道は士の道だと、直接に解釈する訳ではないので、一種の気風、一種の性行を号して武士道と云つたのでありまして、百姓にも、町人にも、其武士道は保存して居つたのであります。此武士道といふものゝ、世道人心に大に与つて力有りといふことは、決して容易なものでなかつたと考へるのであります。此武士道は今申す漢学より養成されてあつたといふことは、立派な証拠あることと思はれるのです。して見れは前に申した粗雑な教の中にも、亦一種の機能が具へてあつたと申さなければなりませぬ。彼此今申上けたのは維新以前の教育上の大体と、斯う記憶を願ひたい。
      維新後の教育
而して次に申上まするのは、即ち維新後の教育法であります。維新後の教育法に付ては、私は今玆に縷々申上げることは、寧ろ出来ぬのであります。却て申上けぬでも各々方が御案内であります。即ち此実際が玆に分つて居る。学齢が来れば小学に這入る。尋常科が卒へれば高等に進み、中学から高等中学に行つて、其上十分なる学問を望めば、大学まで行くといふ、順序であります。而して其課程といふものは至つて密なるもので、又其順序に従つて、銘々の修めて行く所も実に愉快なものと思ふのです。此教育の順序といひ若は課程といひ、甚だ結構千万、至れり尽せりで、之を昔日の教育と較べて見ましたならば、
 - 第26巻 p.473 -ページ画像 
それこそ雲泥霄壌の差と申しても宜いと考へらるゝのであります。此席に御集りの方々には、色々の筋合から修業されて居らるゝであらうと思ひますから、各々其望む所に依て十分に修学されることを望みますが、昔は左様に学問が粗雑でありましたし、且つ骨折れだといふことは、今日の学問に従事される人能く御記憶なさるが必要であらうかと考へる。
      今日の学生に対する希望
此に於て私か諸君に御話して置きたいのは、左様な密な学問でありますからして、結構で昔の学問は左様に粗雑てあつたから、甚だ卑むべきものだとのみ考へると或は御了見違ひでありはせぬかといふことを申上けて置きたいのです。決して此学問が密だからして、人間の了見か細くなる。従て気が小さくなると申すばかりでもなからうが、どうも今日の学問が悪いではない。或は一体の気風が然らしむるのか知れませぬが、今日の世間の風潮から論じまするといふと此学生諸子は余程心を強く持つといふ観念を御持ちなさらぬといふと、人間は段々と武士道が衰へて来るといふことを、能く御覚悟なさらなければなりませぬ。如何にも学問の順序、又教ふる課程としては誠に完全でありますが、学んだ人が小成に安んずる。極く小規模にのみ居るといふことでありましたならば、蓋し其人々は譬へて言はゞ鉢植えの人間みたやうなもので、世の中に対つて、大に功を奏するといふことがなくなりはせぬかと思ふのでございます。決して己れが天保時代の人間だに依て天保時代の人を褒めるではございませぬが天保年度の者は今申述へた粗末な教育に依て養成せられた者に相違ないが、併し国家に対して相当な功労を立てたのも、矢張天保・弘化・嘉永の人間が多いと云つて宜からうと考へる。即ち今日の此緻密な順序立つたる教育を受けない人に、国家に功労ある者が今目の前に見えるではないか、若し翻つて緻密な学校の教育を受けても、私が気遣ふ如く、唯た人間が小成に安んずるやうになり、而して唯た功利にのみ是れ走るといふやうに行走つたならば、現今の御人達は行届いた人間にお成りなさるか知れませぬが、世に大に功労のある人には成れぬと云はねばならぬかと私は虞れるのです。目を放つて世界の有様を見ますると、前に申す如く、天保とか嘉永とかいふやうな時代、即ち日本を日本だけて維持すれば宜いといふやうな世の中ではないといふことは、仮令小学校にござる御人達でも記臆せねばならぬ。観念せねばならぬことである。だからして此教育の度も進み、国家も人民も共に此処に力を入れなければならぬ。今日に出て来る人が、仮令ば課程が整つて居るから、順序立つた学問をしたからといふても、唯た気力の乏しい小成に安するといふ如き人ばかり出来て行きましたならば、日本内だけてすら、尚甚た用ひるに足らぬといふ人になりはせぬか。況や是から先き、世界に相対して事を為して行かねばならぬといふ大なる人物になることは、到底出来ぬと思ふのでございます。
故に今日の緻密な学問に養はれる人が、是れから先きどういふ心掛けを持たねばならぬかと云へば、一層心を高尚に剛邁にするといふことが甚だ必要であらうかと考へる。今日の気風は功利功名を重んずると
 - 第26巻 p.474 -ページ画像 
いふことには甚た密であります。智識を進めるといふ教育には甚た行届いて居るが、武士道養成といふ方は、ソロリソロリ無くなつて行きはせぬかと、私は憂ふるのでございます。天保度の教育から比較して見ますると、実に霄壌も啻ならず、行届いて居る今日の教育に依て作り成された人が小成に安んずる、極く規模の細い人ばかり出来ると云つたならば、我国の未来は如何であるかと、私は憂ふるのでございます仰ぎ願はくは、今日の文明教育に養成される、即ち此一堂に御集りになつた諸君の如き人々は、どうぞ今日私が申述べました古今の――古今と申しては少し言葉が過ぎますが、維新前後の教育の程合の違ひを能く玩味して、今日の教育の貴いことを十分御服膺なすつて、学事に勉励をして御貰ひ申したい。それと同時に単純に申しましたならば、武士道とに心掛けを併せて大きくするやうに、又た強くするやうに御務めなさることを、御遺却にならぬやうに致したいと考へるのでございます。
      士の意義
更に一言申上げて置きたいのは、此会は造士会と称しまするで、此造士――士を造るといふ意義に付ては、大抵定義のあることであらうと思ひますけれども、如何なるものを之を士と云ふ可きかといふことを申上げて置きたいと思ひます。蓋し此会長も士に付ての定義は指定められて居るであらうと思ひますが、私が前に申述べました士といふのは、国士と申し、造士と申し、士といふのは多くは政治若は軍事等から割出したものから士といふ字があつて、私如き者は士に歯ひせられないといふのが、漢学の教育でありました。そこで私は如何なる之を是れ士と云ふべきかといふ定義が、極めて貰ひたいといふ考でございます。凡そ漢学にて国士を以て遇するとか、国士を以て迎へるとかいふのは、決して商売人を士と云はなかつた。是は大なる考違ひて、天保度の士の定義は、今日に之を襲踏することは、私は甚た迷惑であります。諸君も定めて是に御同感であらふと考へる。此処に列席の御人達は、学成つて商業に工業に、所謂実業に関係なさる方が多いと思ひますが、若し実業に関係する者は、商工業が卑しいものであるから、之を士と云はぬといふならば、大に憤怒して、政治界を打壊はす程の勢を持つであらうと思ふのです。今日の造士――此士といふものは、実業に関係の者も、士と定つて居るといふことは、論を俟ちませぬが唯た前に申す、古風なる漢籍の講釈を致しましたならば、士といふものは左様でなかつたといふことを、玆に一言申述べたのです。而して此士といふものに付ては、漢籍に於ては、多く国を治めるの位地にある人のみに唱へられたものであります。
既に彼の享保頃に名の高い荻生徂徠といふ学者が「道とは士太夫以上の道なり。農工商賈の道に非す」といふ説を述べられた。此商売人とか工業家とかいふものには、昔の制度、昔の風習からは、殆と一人前の権利無いものゝ如く軽んぜられて居つた。
階級から申せば、士農工商といふ順になつて居りましたから、商売人といふ者も矢張人間の一部分に算へられたとお思ひであらうが、さうではないのです。昔の幕府の制度に於ては、商人百姓といふ者は殆と
 - 第26巻 p.475 -ページ画像 
人間社会に容れられなかつた。そこで此国を治めるといふ方の側のみで、国事といふものは取扱ふて、治められる側の者は、必ず国の事は論ずべきものでない。甚しきは孔子の教に「民は是に由らしむべし。之を知らしむべからず」などといふ教があります。若し此定義からいふと、実業家は士といふ中に加はりませぬが、併し此造士会の定義は決して左様な訳でないといふことを、私は厚く信じまするが、斯様に此士といふものに付て、詳細に御話をして置くのは、諸君の未来に取つて甚だ必要と考へるのでございます。
      実業発達の必要
私は明治六年から商売人になりまして、殆ど三十年、商人で世の中の事に苦心経営致して居るものでございますが、維新以前の日本の商売人といふものは、今申す如くに、世の中から疎んぜられた。疎んぜられると同時に力が細くて、決して是商売人では、日本の国をして十分なる力を張ることの出来得るものでなからうとまで虞れたのです。私は別に学問のために渡航したのではありませぬが、維新以前に欧羅巴へ一年ばかり参つて、彼地の有様を観察しましたが、海外の形勢はまるで違つて居る。殆ど国家といふものは、商売とか工業とかいふものが基礎になつて、さうしてそれを進めて行くといふことに付て、政治とか、軍事とかいふものがあるので大きく云へば国である。小さく云へば人である。其人の重なるものは何んであるかと云へば、即ち生存上最も必要なる実業である。此実業の力を強めるのが、即ち国の富を増し力を殖すのである。斯かる主義を以て、欧米の国では進みつゝあるのに、維新当時の日本は是に反対して、実業に従事する者が、唯だ政治家の奴僕手足の如く扱はれて居る。己れ自身の奴僕手足の如くなるのは宜しが、政治家の奴僕手足になつては、国の富を増し力を張るといふことは出来ぬのであります。従て国が弱いのである。貧しいのである。是では日本は真に国力を張ることが出来ぬと、不肖ながら私は頻に憂へた。どうかして此実業家といふものゝ位地を進め、力を増すといふことでなければ、未来の日本の国家は、貧弱に陥るの外はない。是は私一人が憂へたばかりでなく、心有る人は皆憂へたのです。竟に其後商工業といふものゝ位地が比較的に進むと共に、力も幾らか増しました。けれども此世の中は決して私共の憂ふるが如く、又望むが如くに、商工業が世に重んぜられぬ。また商工業の力が満足ではないのです。各々方はまださういふことに頓着のない時代でありまするが、今日の経済界の不振にして、之を救済せねばならぬといふやうな議論の起るのも、此商工業の力の張らぬのが、即ち其原因であります併し此原因に付ては、私が独り商人で苦情を申すのではない。商工業者といふものゝ智恵の足らぬ力の足らぬばかりでないので、即ち国家といふものゝ仕向けも其宜しきを失つたといふことは、蓋し掩ふべからざる事実であります。而して此日本の商工業の力といふものは、国の財政に比較して甚た力の弱いものである、他の英吉利とか、亜米利加とかいふ国は、一般の民力の度合が大変に強いから、譬へば租税として国に納めるものも少いし、政府の歳出入の度合も一般の民力に比較して甚た低いのであります。然るに日本は是と正反対の有様になつ
 - 第26巻 p.476 -ページ画像 
て居りますから、従て国家の財政が、民間の経済界に強い影響を及ぼすのです、で今日の経済界の不振といふことは、国家の財政が一歩誤ると、民間の事業が縦し宜しきを得ても、其不幸を蒙るのでございます。
若し此の如くに此経済界が不振にして、商工業即ち実業が振はぬといふ場合には、縦令堅甲利兵ありと雖も、それだけを以て、他の国々に抵抗することが出来ぬ、縦し抵抗することが出来るとしても其力が十分に足るとは云はれぬ。然らば其力を十分に充実せんとするには、即ち実業の発達に俟たねばならぬといふことは明かであらうと思ふのでございます。其実業に従事する者をば、昔の如く殆と人でないといふやうな待遇を以て之を扱ひ、又た左様な観念であつては、能く国の富強を計るといふことは決して為し得らるゝものではありませぬ。今日の此造士会といふものゝ士は、即ち今申上けました実業家を残らず士としての定義が立てゝあるものと私は厚く信じますから、古風の士といふ定義に惑はされて諸君が誤解なさらぬやうに致したいと斯う考へるのでございます。果して左様ならば、玆に此実業に従事するお人達は前にも申上げた通り、今や其位地を大に高められたと共に、大に心を磨いて呉々も小成に安んずるやうな考を出して頂きたくないと思ふのでございます。玆に此維新前後の教育の相違と、士といふものゝ定義に付て此造士会の定義は、吾々実業家を士と御遇しなさることであらう。維新以前に在つては左様に定義せられないのは、大なる間違であるといふことを弁解して、諸君の未来に於て、どうぞ勇気有る武士道を保ちつゝ、此実業を進めて行くやうな御人になることを希望致す次第でございます。余り利益のない事を申述べて、却つて諸君の清聴を煩はしました。(完)