デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
2款 東京商業学校
■綱文

第26巻 p.569-573(DK260088k) ページ画像

明治18年5月14日(1885年)


 - 第26巻 p.570 -ページ画像 

是日当校、農商務省所轄ヨリ文部省所轄ニ移リ、栄一、文部省ヨリ再ビ当校校務商議委員ニ嘱託セラル。九月、当校ハ東京外国語学校及ビ其附属高等商業学校ト合併シ、更メテ東京商業学校ト称シ矢野二郎引続キ当校校長トナル。


■資料

官報 第五五八号 明治一八年五月一四日 ○告示(DK260088k-0001)
第26巻 p.570 ページ画像

官報  第五五八号 明治一八年五月一四日
    ○告示
○文部省第壱号
農商務省所轄東京商業学校之儀、自今文部省ノ所轄ニ属シ候条此旨告示候事
  明治十八年五月十四日
              文部卿 伯爵 大木喬任
             農商務卿 伯爵 西郷従道


青淵先生公私履歴台帳(DK260088k-0002)
第26巻 p.570 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
    任免叙授
同 ○明治十八年五月十四日 東京商業学校校務商議委員嘱托候事          文部省


東京日日新聞 第四○三八号 明治一八年五月一七日 ○商業学校(DK260088k-0003)
第26巻 p.570 ページ画像

東京日日新聞  第四○三八号 明治一八年五月一七日
○商業学校  此程文部省の直轄となりたる東京商業学校は、当分現今の地に置かるゝよしなれども、追ては地所を選定して高層に新築し東京商業大学校と改称し、今より一層高尚の学科を教授する事となるべし、又各府県にも一ケ所の商業学校を設置するに至るべしとの噂


矢野二郎伝 島田三郎編 第七二―七五頁 大正二年五月刊(DK260088k-0004)
第26巻 p.570-571 ページ画像

矢野二郎伝 島田三郎編  第七二―七五頁 大正二年五月刊
 ○本伝
    一四 東京商業学校文部省の管轄となる
森有礼清国より帰りて文部省御用掛となる、彼は二郎の親友にして又商業教育の創意者なり、此人にして此職に居ることは斯教の為めに好機を与ふるものといふべし、果然二人の間意見契合して明治十八年五月商業学校を農商務省の管轄より文部省に移して森其監督となり、二郎其校長となれり、此に於て東京外国語学校及び附属高等商業学校を併せ、外国語学校附属高等商業学校は外国語学校長内村良蔵其校長を兼ね、磯野計を教頭とし、永井尚行・玉名程三・石藤豊太・酒井佐保・大脇瑛之助、比耳義人スタッペン等教鞭を執り、高等の商科を授け、其卒業生に領事たる資格を有せしむ、之を語学校中に置きたるは、外国語教師の兼務と校舎兼用との便に取りしものなるべし、大学予備門第二級・第三級より移りたる生徒に仮入学を許せしを見て其程度を知るべし、第一期入学生十余人あり、第二期生入学の後、幾時ならずして外国語学校と共に商業学校と合併したり改めて、東京商業学校と称し、神田一ッ橋外なる旧外国語学校を以て其校舎に充て、一ケ年経費三万五千余円を支出することゝなれり
二郎は多年の宿志漸く其半を遂ぐるを得て頗る満足し、学校に縁故ある朝野の士数百人を招待して、一大記念会を開きしが、此会に於て世間を一驚せしめしは河野敏鎌・沼間守一を招きて之を上席に延き、羣衆の前に慇懃の礼を尽し、其学校に対する過去の同情を感謝したる一
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事なりき、是より先明治十四年十月参議大隈重信、国会開設の時期に関して閣僚と議協はず、又開拓使官有物払下問題に対し異議ありて之が為めに退閣し、河野等同議の人相率ゐて政府を去り、尋で改進党を組織して大隈を総理とし、河野は其副総理となれり、沼間は此党の最有力なる領袖の一人なりき、此に於て板垣退助の率ゆる自由党と対峙し駢馳して、等く政府反対党となり、政府は是等の政党を見て一敵国となし、数年間政論の激烈なりしことは前後其比を見ず、政府之を抑ゆれば政党愈々激し、間々不穏の挙に出づるものあり、十七年九月に加波山の挙あり、同年十一月に秩父の暴動あり、政府は一時の変象を見て玉石を混同し、東京府会議員田口卯吉等の開催せる全国府会議員の聯合懇親会を解散するに至れり、十六年二月新聞条例・集会条例を改めて言論集会を厳に拘束せしも亦此際に在りき、十六年四月官民の間殆ど水火の如く、穏健の見を懐く者と雖、民間の論者は官吏の概して之を見ること革命主義者の如く、政党員に対すること謀反人の如く、頗る今日の無政府党員を見るの観ありき、親友の間も民間の士は在官の人を訪ひて、之が為めに其位地を危くせんことを気の毒に感じ、互に往来を絶つに至りたり、早稲田専門学校早稲田大学の前身が官立学校教授講師の兼務を拒まれて授業を妨げられしも亦此時にありき、此の時期に於て、民間論者の翹楚反対党の領袖にして、警吏の追蹤に監視せられ居る河野・沼間を新に官立に組入れたる商業学校の披露会に招待し、而かも之を上席に延きて多数官吏の席上に、公然其功労を頌し其厚誼を謝するが如きは極めて異常の奇観にして、其大胆不敵の挙動は、恟々として唯其椅子の安危に専心なる官吏社会をして駭視瞠目せしめたりき、二郎は二人が政府に嫉視せられ居るを知らざるにあらず、又其結果官僚の感情を傷くるを覚らざるにあらざりしも、良心の命ずる所、理義の示す所、之を避く可らずと確信して断然此挙に出でたるなり、流石に二郎の人格を知り、其品性を信じたる監督森有礼は、却て斯の快男児の心腸を嘉して、一切喙を其間に容れざりき、此年十二月、政府其組織を改め、伊藤博文総理大臣となり、始めて内閣を組織し、森は文部大臣に陞りて、二郎は其下に益々自由の手腕を揮ふを得たり


実業教育五十年史 文部省実業学務局編 第一八七―一八八頁 昭和九年一〇月刊(DK260088k-0005)
第26巻 p.571-572 ページ画像

実業教育五十年史 文部省実業学務局編  第一八七―一八八頁 昭和九年一〇月刊
 ○第二期 第三章 第三節 商業教育
    一 東京商法講習所(東京商業学校)
○上略
 然るに同年同月 ○明治一七年三月文部省は直轄東京外国語学校中に、其の所属として附属高等商業学校を創設し、同じく洋式にて一層高等なる商業教育を施した。同校は年令十六才以上・初等中学科卒業程度の学力を有する者に入学を許し、修業年限は四ケ年であり、卒業者に領事たる資格を与へた。即ち当時本邦には官立の商業学校が二校あり、一は農商務省に、他は文部省に属し、夫々高等専門に類する教育を施したのである。文部省所属の高等商業教育施設、即ち東京外国語学校附属高等商業学校学科目表を左に掲げる
  東京外国語学校附属高等商業学校目(明治十七年三月)
 - 第26巻 p.572 -ページ画像 
 第一学年 修身学 和漢文 算術 簿記法 代数 幾何 物理 地理 習字 図画 外国語 体操(毎週授業時間数三十三時間)
 第二学年 修身学 和漢文 化学 商業算術 簿記法 商業実習 商業経済 商業史 商業地理 外国語 体操(毎週授業時数三十三時間)
 第三学年 修身学 商業書信 商業実習 商業経済 商業史 商業法規 商業地理 関税統計商品工芸誌 外国語 体操(毎週授業時数三十三時間)
 第四学年 修身学 商業書信 商業実習 商業経済 商業史 商業法規 関税統計 商品工芸誌 外国語 体操(毎週授業時数三十三時間)
森有礼清国より帰朝し文部省御用掛となり、東京商業学校長矢野二郎と謀つて十八年五月東京商業学校を農商務省より文部省に移管し、森有礼が校務監督となり矢野が校長となつた。尋いで九月文部省は東京外国語学校及び附属商業学校に新たに直轄となつた商業学校を併合して、東京商業学校と称し、一橋の旧外国語学校校舎に於て授業を開始した。校長は矢野で、森有礼が其の監督に当つた。之即ち明治十八年九月の事で同月二十二日を以て開校した。而して之が現今の東京商科大学の前身である。
 合併に際しては、従来の東京外国語学校附属高等商業学校の教科を第一部、東京商業学校の教科を第二部、旧東京外国語学校の教科を第三部とした。之は後に(十九年一月)改めて高等部・普通部・語学部の三とした。合併当時の生徒数は二百三十八名、教員は内外人合せて十三名、而して明治八年創立以来本校に学を修めた生徒数は八百五十名に及び、内学業を卒へて、仮証書を授与せられた者は六十名に過きない。是既述の如き社会状勢の然らしむる故で、半途退学の多くは大学予備門に走り、或は学半にして実業に就いた。此合併に依りて我国商業教育の基礎是に確立し、此より後は商業教育の要社会一般に認められ、学校は其の存立を脅かさるゝこともなく、一途に内容の充実に向つて努力する時代に入つたのである。


小山健三伝 三十四銀行編 第二六二頁 昭和五年一二月刊(DK260088k-0006)
第26巻 p.572-573 ページ画像

小山健三伝 三十四銀行編  第二六二頁 昭和五年一二月刊
 ○本伝
    第十四章 東京高商校長時代
○上略
 明治十八年五月。東京商業学校は農商務省の管轄より文部省――時の文部卿は大木喬任――に移り、森氏その監督に当る。
 この年、官制の改革あり。新内閣組織され、伊藤博文内閣総理大臣の下に、森氏は文相となりぬ。曾ては東京府会のために幾多の辛楚を嘗め来りたる矢野所長の労苦は、酬いらるべきの時到れり。我国に商業学校を始めて創立したるは森氏なり。その最初の商業学校を今日まで育て上げしは矢野氏なり。しかも二人は交友として常に相許し、相信じつつありし也。玆に於てか、矢野校長の企画は、事事に採用せら
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れぬ。東京外国語学校及び附属高等商業学校を併せて、更に東京商業学校と称したるも此の年なり。神田一ツ橋通りの旧外国語学校を以て其の校舎に宛て、一箇年の経費三万五千余円を計上するに至りしも亦この年のことなりし也。曾ては講習所存続問題の沸騰したりし時、生徒に対しては『予にして此の地位を去らざる間は、望みを商業教育に絶つことなかれ』と諭し、教師に対しては『諸子にして屈することなくば、予は最後まで講習所の存続に努力すべし』と悲壮の言辞を洩らせし当年を回顧したる矢野校長が、朝野の人士を招きて、記念会を開きたるも亦この年のことなりし也。
○下略



〔参考〕高等商業学校一覧 明治二六年刊(DK260088k-0007)
第26巻 p.573 ページ画像

高等商業学校一覧  明治二六年刊
    商議委員会規程
第一条 文部省直轄学校官制第七条ニ依リ、高等商業学校ニ商議委員ヲ置ク
第二条 商議委員ハ左ノ人員ヲ以テ之ニ充ツ
  文部省又ハ其所属高等官     二名
  農商務省高等官         二名
  商工業ノ経歴アル者       三名以上七名以下
第三条 商議委員会ハ、学科課程重要ノ諸規則其他学校長ニ於テ必要ト認ムル事項ヲ審議スルモノトス
第四条 商議委員会ハ文部大臣ノ諮問アルトキハ意見ヲ陳述スヘシ
第五条 商議委員会ノ会議ハ、学校長之ヲ開キ、其議案ヲ提出スルモノトス
  但商議委員ノ意見アルトキハ、之ヲ議案ト為スコトヲ得
第六条 商議委員会ノ議事ニ関スル規程ハ、委員会ニ於テ之ヲ議定スルコトヲ得
第七条 商議委員会ノ決議ハ、学校長ヨリ文部大臣ニ報告スヘシ