デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
3款 高等商業学校
■綱文

第26巻 p.577-581(DK260091k) ページ画像

明治22年3月19日(1889年)

是ヨリ先明治二十年十月、東京商業学校ハ高等商業学校ト改称シ、是日始メテ第一回卒業式ヲ挙行ス。栄一之ニ臨ミ祝辞ヲ述ブ。


■資料

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第一九―二一頁 大正一四年九月刊(DK260091k-0001)
第26巻 p.577-578 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第一九―二一頁 大正一四年九月刊
 ○第二期 一橋に移転してより専攻部の設置まで
    一、学校制度の拡張
○上略
  制度次第に備る
 斯くして社会的に其の存在の意義を確めた一橋は、更に其の価値を高めんとする焦燥から、表面的には殆ど朝令暮改の観あるまでに、頻繁な規則の改正をなし、一歩は一歩より実業学校としての内容を充実し、程度を向上せしめて行つた。其の旗幟とする所は「公私の商務を処理経営すべき者或は商業学校の主幹又は教員たるべき者」を養成することであり、専ら実地に間に合ふ洋式教育を施すことを以て主義とした。
 参考――合併後の教科の大略
  尋常科(三年三学級)習字・作文・数学・簿記・図画・理化学・商品・商業地理・歴史・商業慣習・経済・統計・商律・英語・実践・体操
  高等科(二年二学級)作文・簿記・経済・法律・商制・商業史・英語・仏語・独語・実践・実業参観・体操
 一年を二期に分ち、九月十一日より二月十五日までを第一学期とし二月十六日より九月十日までを第二学期とす。
 明治二十年十月には、名称を改めて高等商業学校となつた。本校の生徒総数も二百数十名、附属として商工徒弟講習所――(十九年一月木挽町の旧校舎に開設、二十三年一月分離して東京職工学校に移す。)――銀行専修科――(十九年四月大蔵省所轄の銀行事務講習所を移し後に附属主計学校と改称、二十六年十月廃止す)――等を併せ、更に私立学校乍ら小学程度の予備校も備り、今や一橋校の存在は普く世人に知らるゝに至つた。
 此の年本科予科の制度を置き、小規模ながら図書閲覧所の制も設け――図書貸与の規定は前より有り――二十一年には研究規則を改正して従来一年であつた年限を二年と定めた。後に専攻部となり、やがては大学昇格に導く一橋発展の指針は此処に確然と其の指す所を明かにしたのである。更に此の年より成績優秀なる者若干名に旅費を与へて夏期休業中地方商工業の状況を視察報告せしめる制度も開始された。
  第一回卒業式
 斯くて次第に内容も備つた二十二年三月十九日、創立以来第一回の
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卒業式が挙行せられ、こゝに従来の卒業生本科百十八名・銀行専修科五十五名に改めて卒業証書を授与した。
 蓋し校長矢野次郎の一家塾の観のあつた以前に於ては、卒業は校長一個人の仮証書の交附と懇切なる訓戒を以て足り、敢て形式を整ふる必要を見なかつたものである。しかも卒業生の需要は甚だ多く、生徒の内には卒業を待たずして実地に就く者も少くなかつた為め、此の時卒業証書を授与された人数は合計僅かに百七十三名に過ぎなかつた。講習所創立以来年を閲する既に十数年、此の数は見る者をして誠に奇異の感を懐かしむるものである。――此れより後、第二回卒業式は三年を経て二十五年に行はれ、卒業生本科五十六名・主計学校百二十五名を出した。其の後は毎年挙行せらるゝ様になり、卒業生の数も年毎に殆んど倍加の勢を以て進んだ。
 此の第一回卒業式には有栖川宮熾仁親王より令旨を賜はり、閣相・枢密顧問官・外国公使、其他朝野の名士参列して盛大を極め、幾度か危きに瀕した商業教育の法灯を守つて苦闘し来つた人々の努力は、玆に漸く報ひられたのである。
 唯遺憾な事に、斯道の先覚者、一橋の生みの親である森有礼が、此の日に先立つ僅かに一月余りの憲法発布の朝、刺客の兇刃に斃れて此の盛典の喜を分つことが出来なかつた。
○下略


東京日日新聞 第五二一五号 明治二二年三月二〇日 ○高等商業学校卒業証書授与式(DK260091k-0002)
第26巻 p.578 ページ画像

東京日日新聞  第五二一五号 明治二二年三月二〇日
○高等商業学校卒業証書授与式  神田一ツ橋外なる高等商業学校に於てハ、昨日第一高等中学校内帝国大学講議室に於て卒業証書授与式を挙行し、午前十時来賓小松宮殿下を始じめ黒田・西郷・大隈・榎本の諸大臣、外国公使及び内外朝野の学者・紳士等無慮数百名一同式場に着席し、夫れより高等商業学校卒業生百十八名、同校附属主計専修科卒業生五十五名の諸氏に卒業証書を授与し、畢て矢野校長ハ左の祝詞を朗読せられたり
○中略
其他大隈伯代理土子金四郎氏・青木子・伊太利公使・渋沢栄一氏、外二・三の演説・祝詞等ありて全く授与式を畢り、来賓にハ高等商業学校内商品陳列所に於て立食の饗応ありたる由なり


東京日日新聞 第五二一九号 明治二二年三月二六日 ○渋沢栄一氏の演説筆記(DK260091k-0003)
第26巻 p.578-580 ページ画像

東京日日新聞  第五二一九号 明治二二年三月二六日
○渋沢栄一氏の演説筆記  左に掲ぐるハ過日渋沢栄一氏が高等商業学校卒業式場にて演説せられたるものなり
親王殿下・内閣諸大臣・各国公使閣下及び臨場諸君、在校の諸学士各位、私も今日此の式場の席末に列なることを得たるハ悉なく存じます就て校長矢野次郎君よリ一言の祝詞を述べる様にと云ふことで有りますから、不束なることを述べて責を塞がうと存じます
私ハ諸君の御承知の如く商人であつて、教育のことなどにハ縁の遠いものであります、併し此学校に関してハ甚だ因縁が深い、且つ今日卒業証書を授与された諸君、また是れから先き在校練磨の諸君とハ、最
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も密接の関係ある身体と考へます、なぜなれば此学校ハ成瀬君が先きほど其沿革を述べられた通り、初め私立であり、次に府立になり、遂に地を進めて今日に至りますまでにハ、現在の校長矢野君などゝ謀つて、之を拡張せしむるに就て聊か奔走・尽力したことであります、今卒業証書を得られた諸君、又現に練磨される諸君も、他日業に就かれるときハ、どう云ふことになりませうか、我々と共に商業社会に立て我邦の商運を進ませなければならぬと云ふ同業者であらうと考へます果して然れば学校とも因縁が厚く、諸君とも関係が深い、因て祝詞を述べるにも只御目出たいと言ふことに止めませぬ、どうぞ将来諸君の益ともなるべきことを申し上げたいと思います
今日卒業証書を得られた諸君ハ、実地に就て商業に従事される方も有らう、又今日より実地に就かうと致される方も有らう、既に実地に就かれて居る方ハ商売社会の現況ハ聊か知つても居られるで有らうが、是から業に就ふと云ふ方ハ、恰も鳥が巣起ちをして飛ぶを試みる様なもので有ります、其れに就てハ現在の有様ハ習慣的に間に合せ居ると云ふ時期か、又ハ学術的に経理して居る時節かと云ふ感想を下さねばならぬが、哀しいかな、維新前に成長せし商人ハ学術的の成り立ちをもつて商業を経営するとハ申されませぬ、現に斯く申す私も商人の一人であるが、学問をして実業に就た人間でハない、栄一既に然り、他の商業社会の方ハ、過半と申したいがもう一歩進めて十に八・九ハ、皆習慣的に商事を間に合せ居る者と申さねばなりませぬ、尤も此多数の商人とても、学問の貴重なる事ハ知つて居るが、根が旧習コシダメにて今日を経営する故に、其学問を応用しやうと云ふことハ出来ない訳であります、是に於て諸君将来の位地が頗ぶる困難なることと存じます、諸君ハ既に学問を修めて実地に就かれる人である、併しながら世の中のことハ総て学問の通りのみにハ行かぬものなれば、もし充分の才能と勉強とを以て其学問を応用し其効を見るに至らざるときハ、自然と旧習と学問とハ隔離して、諸君ハ現在の商人を目して「物を知らぬで困る」「学理に暗いから相談が出来ぬ」と云つて、之を蔑視する様になりませう、すると一般の商人は又何と申しませう「成程物ハ知つて居らうが、事実にハ通じない」「理屈ハ高尚だが、実際の用にハ立たない」と言ハれませう、左すれば一般商人の感想ハ、政府で力を入れ世間でも学校を珍重するが、世に取つて効能ハ無いと言ふ様に成り行て、此の学校の名誉も此学問の功益も、諸君の為めに世間に晦まされるやうに成らぬとハ言ハれませぬ、今日ハ習慣的の事物ハ学問的の事物と相戦ふの時にして、恰も海の水と川の水と相漂ひ合ふ様なる場合である、故に諸君ハ飽までも研精励磨して、実際に就て学問の要用を示し、成るほど学んだ人で無ければ利益が無い、と云ふことを知らしむる様にせねばならぬ、是を諸君自身の為めのみならず、学校に対し、国家に対して、志を此に置かなければならぬと思ひます、どうぞ卒業された諸君ハ此事を御記臆下されむことを願ひます
終りに臨んで、在校諸君に尚ほ一言申したいことが有ります、凡そ物を学ぶにハ先きに「斯くありたい」と云ふ目的がなければなりませぬ商業に従事しやうと云ふ考を以て商業学校に於て学問を修めるにハ、
 - 第26巻 p.580 -ページ画像 
将来立派な商業家になりたいと云ふ希望が必要であります、私ハ今より五・六年前、此商業学校がまだ木挽町に在りましたとき、学生諸君と初めて相見たことが有ります、其時に申しましたことを復習して、今日再び諸君に告げたいと思ひます、其事ハ外でハ無い、どうぞ商業に従事する諸君にハ志の立て方、目的の定め方を商業専一にせねばならぬと云ふことで有ります、斯く申すと「其位のことハ誰も知つて居る、貴様が言ふに及ばぬ」と言ハれる方が有るかも知れませぬが、今日の有様が一般の思想・政治に傾いて居ると見えて、苟くも書生たる人、其の学ぶ所の学科何たるを問ハず、口を開けばグラツドストーンハ人傑とか、ビスマルクハ英雄とか、又ハ我邦にてハ誰れ彼れとか、兎角に文勲武功に有名の人を賞讚する様になりますが、是れハ名誉の位置が其所に傾き易いから其の方に思ひ込むと云ふものにて、亦免れぬ道理でも有りませう、去りながら諸君ハ其の方に望みを棄て、商業に就かれようとすることで有るから、若し左様な考へに望みを置くと山に登らむとして舟を造つて居るやうなもので有ります
斯の如く申したことハ明治十八年と思ひます、其時からもう五年も経過しましたから、今日ハ其時の景況とハ聊か相違した様に思ひますがまだ右様なる心得違をされる方がないとハ申されませぬ故に、今日在校の方々にハ篤と此事を御承知なされる為め、更に婆心一言を申し上げて置きます
畢竟此妄想の生ずるも、商業ハ位置の低いものと思ひ誤るからの事と存じます、私が商人の一部分であつてこんなことを申すも於罅がましいが、商人ハ名誉の位置で無いと誰が申しましたか、私は商業で国家の鴻益をも為せます、工業で国家の富強をも図り得られます、商工業者の実力ハ能く国家の位置を高進するの根本と申して宜からうと思ひます、願ハくハ諸君の勉強によつて将来益々商業の効用を顕揚し、此商業学の位置迄も、遂に日本の六大学の一に入れたいと望んで居ります、蕪詞と云へども平生の所思を以て祝辞に代へて申し上げました、諸君宜しく御諒察下さい



〔参考〕矢野二郎伝 島田三郎編 第七六―七八頁 大正二年五月刊(DK260091k-0004)
第26巻 p.580-581 ページ画像

矢野二郎伝 島田三郎編  第七六―七八頁 大正二年五月刊
 ○本伝
    一六 卒業証書授与式
特立の学校として敢て遜色なき形体既に具はりしと雖、真に整然たる組織を見るに至りしは明治二十二年の大改革に在り、此年校則を改正し、予科の修業年限を一年とし、本科を三年とし、附属主計専修科を主計学校と改称せり、同年三月十九日、講習所創立以来出身の学生に卒業証書を附与するの式を挙げたり、此式に列せし者は明治十年初めて出せる二人の卒業生成瀬隆蔵 森島修太郎を始めとし、同二十一年七月に至るまでの本校卒業生百十八名・銀行事務講習所引継以来主計専修科に至るまでの卒業生五十五名ありき
蓋開校以来、此時に至るまでの卒業生は、其別れに臨み唯質実真率なる校長の訓誡を受くるのみにして、卒業式は一回も之を行はざりき、二郎の直話によるに
 - 第26巻 p.581 -ページ画像 
 僕は久しい間、免状なんといふ立派なものはやらなくて、唯疎末な書付丈けやつておいた、卒業式は何時でも小言式だつた、僕は平生言て居るけれども諸君はまだなかなかいかない、モー是が最後の小言だから良く聞て呉れと言た工合に小言を聞かせる、それで終つたものだ
と、此の如くにして数年を経過したりしが、此に始めて正式に之を行ひしなり、此日矢野校長の式辞並に成瀬教頭の報告は、学校の抱負及び経歴を窺ふべきものあり、矢野校長の式辞に曰く
 ……商業の盛衰は、商業者其人を得ると否とに在り、不肖二郎明治九年を以て初めて乏を校長に受けて人材薫陶の責に膺り、爾後興廃弛張ありと雖、開校以還已に仮卒業証書を授くる者百七十有三名に至る、今や社会の進歩と共に校摸漸く張り、百事整備の緒に就くを以て、本月本日を以て親王殿下・諸大臣閣下・外国公使閣下及び朝野の紳士諸君の臨場を仰ぎ、更に卒業証書授与の典を挙ぐ、二郎燕舞雀躍の至に堪へず、諸子の栄亦鮮少ならざるなり
 抑商業の学たる、啻学科を修了したるのみを以て其業を卒へたりと謂ふ可からず、之を実際に施して始めて其効用を顕すべきものなり諸子が已に実業社会に在りて執る所の務も亦一学科に外ならざるべし、故に此活学科に就て益々練り愈々修め、我商業をして倍々旺盛の域に進め国光と共に此証書の光彩を発揚せしめんことを望む ○下略