デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
3款 高等商業学校
■綱文

第26巻 p.586-594(DK260093k) ページ画像

明治26年7月25日(1893年)

是ヨリ先矢野二郎、当校校長ヲ辞ス。是日、有志者相謀リ矢野ヲ請ジテ慰労会ヲ開ク。栄一同会ノ発起賛成人トシテ出席演説ス。


■資料

矢野次郎君慰労会記 第九―二〇頁 明治二六年一一月刊(DK260093k-0001)
第26巻 p.586-590 ページ画像

矢野次郎君慰労会記  第九―二〇頁 明治二六年一一月刊
    慰労会の準備
本年 ○明治二六年四月二十四日矢野次郎君が高等商業学校長の職を辞するや同校出身者の組織に係る学友会常議員、即夜相会して君の為めに感謝の意を表し併せて多年の功労を慰めんことを議る、同然一辞事直に決す、而して其方法に至つては思ふ所各同じからず、或は矢野君の為めに奨学資金を募らんと云ふ者あり、或は銅像を作らんと云ふ者あり、金牌を贈らんと云ふ者あり、慰労の宴を張らんと云ふ者あり、衆議終に学友会員たると否とを問はず、広く同窓の出身者に計り、盛大なる慰労宴会を開き同時に紀念金章を贈呈するに決し、之を在京の学友四十余名に計りて共に発起者となり、信を内外各地の学友に通じて其賛成を促し、各自金五円以下随意の醵出を求むるに、亦一人の否を唱ふるものなし、発起人再び相会して会日を七月廿五日と定め、矢野君一族を招待して盛宴を帝国ホテルに張らんことを決し、準備の手配を定めて岩下清周・堀越善重郎・渡辺専次郎・図師民嘉・倉西松次郎の五氏を発起人総代とし、会場の準備は平岡寅之助氏、記録往復等は井上英七郎・藤村義苗・各務鎌吉の三氏、会計は原田貞之介氏の担当する所とし、金章製作の事も亦其担任を井上以下の四氏に委嘱し専ら周旋準備の局に当らしむ、外務省通商局長原敬君・衆議院議長星亨君・内外用達会社々長大倉喜八郎君・東京株式取引所頭取大江卓君・日本鉄道会社々長小野義真君・北海道炭鉱鉄道会社々長高島嘉右衛門君・横浜正金銀行頭取園田孝吉君・三井鉱山会社副長益田孝君・枢密顧問官子爵榎本武揚君・農商務次官斎藤修一郎君・三井物産会社々長三井養之助君・東京商業会議所会頭渋沢栄一君・衆議院議員島田三郎君・日本郵船会社々長森岡昌純君等大に此挙を賛成し発起賛成人たらんことを諾せらる、即ち発起人総代及賛成諸君の名を署して書を内外の貴顕紳士に送り、各新聞紙に広告して平素矢野君に交際ある諸氏の賛同を求め、又矢野君一族の臨場を請ふて幸に其承諾を受けたり、玆に準備漸く成りて更に慰労会の次第・順序及当日に於ける周旋の部署を定む
   ○係員氏名略ス。
    慰労会の光景
数百の彩旒は翩々として帝国ホテルの屋上に翻り、無数の球灯は周辺の墻柵と楼上楼下一面に沿ふて懸り、四面の門戸には日旗《(章脱カ)》を交叉し、東門を以て会場の入口とす、庭園には仮屋を構へて賓客の涼を納るゝの所とし、正堂の正面には緑葉を剪裁したる演台を設けて当日の式場とす、準備既に成れば渡辺専次郎・藤村義苗の両君特に用意したる馬車を以て矢野君を其邸に迎ふ、午後五時に至れば内外貴顕紳士陸続として来会するもの車馬相連る、少頃にして矢野君は其令夫人・令息・
 - 第26巻 p.587 -ページ画像 
令嬢を伴ひ、車声轔々会場に来る、其近づくや狼煙一発、国旗及矢野君の紋旗は高く中天に翻り、劉喨たる奏楽切りに起る、馬車既に門に入れば喝采歓呼湧くが如く、君をして握手応接に暇なからしめぬ、之より先き館前の広場に於て、丸一は大神楽を演し、源水は独楽の技を為し、仮屋には氷塊を積んで適宜客の喝を医するに任す、既にして午後六点鐘すれば、主客共に式場に入る
招待に応じて臨場せられたるもの、正賓には矢野次郎君・同令夫人・令息・令嬢、親族富永冬樹君・同令夫人・令嬢・益田孝君・同令夫人益田克徳君・益田英作君・中山三保太郎君・同令妹・石原近義君令夫人・令息・令嬢・前田正名君令夫人・本間義存君・同令叔母あり、之を別にして特に賛同の栄を与へられたる大臣・公使等を始め来会者の数都て八百名、全都の建築中宏大を以て誇る帝国ホテルの正堂亦狭隘を感ずる程なりき
席既に定れば、発起人等は前面に起立し、当日の会長岩下清周君は一同に参会の辱きを謝し、直に開会の旨を告ぐ
総代倉西松次郎君壇上に上り、謹んで謝徳の辞を朗読し(辞は巻首に掲ぐ)恭しく紀念金章を矢野君に捧ぐ、矢野君壇上に進んで之を受け再び席に就くや、会長は渋沢栄一君の演説を請ふ
渋沢栄一君は商法講習所創立の当時より、終始力を矢野君に戮せ、百忙の一閑を割きて商業教育の擁護に任じ、今尚高等商業学校の商議員たり、斯学の変遷・発達の事蹟は身親しく其局に当つて歴然君の記臆に存す、今や矢野君の偉勲を叙するに君の熱心を以てし、又君の快達明晰なる雄弁を以てす、満場静粛八百の呼吸寂として音無く、唯其妙処に至りて拍手喝采感歎の声を聞くのみ
    渋沢栄一君演説
来会の閣下諸君、此の盛会に当りまして、私も矢野君の功労を彰表し且つ之を謝しまする為めに、一言の蕪辞を呈して清聴を煩はしまするで御座います
矢野君の商業教育に従事なされたことは、唯今商業学校出身の諸氏から矢野君へ呈せられた所の書面に照しても、十八年の星霜を経ました事で、其歳月の久しき間、充分なる精神を以て其事業に専らなりしと云ふ事は、今玆に喋々を要せんても諸君の是認する所と考へます、殊に私は矢野君の功労を称するに流麗の言葉、古雅の文章を以て過賞溢美に渉ることは嫌ひます、寧ろ事実に照して、功績が如何であつたと云ふことを証拠立たいと思ひます(喝采)、如何となれは、商業社会の事柄などは虚偽を去つて実益に就きたい、空論を去つて実利に就きたいと思ふからて御坐います(拍手)
矢野君の商業教育に従事なされた事を申述ぶるには、第一に此の現に在る所の高等商業学校の歴史を申述ぶるが必要で御座います、過ぎ去りました事柄で御座いますから、或は記臆の間違も御座いませう、又遺漏の点も御坐いませう、一々叙し来つたならは、御耳煩はしう御座いませうが、暫くどうか御聞きとりを願ひとふ思ひます
日本の従来の商業教育と云ふものは、どう云ふものであつたかと云ふ事を、第一に先づ御考へなすつて戴きたい、其昔しは私は知らぬ、維
 - 第26巻 p.588 -ページ画像 
新以前、随分文明な事業を為したと云ふて宜しい、徳川政治三百年、商売に対しては殆んど教育は無かつたと申して宜しいのです、御覧なさい、商売往来と塵劫記より外には御座いませんぞ、なぜ左様な有様であつたかと云ふと、商売人と云ふ者を、大体の政治が陥れ賤んだと云ふ事実が、然らしめたので御座います、例へば或大なる店あたりで若し漢籍を読む者があれば、仮令ひ丁稚でも之を斥けると云ふ有様があつた、一寸川柳の諺にも「唐様で売りすゑと書く三代目」総て此商業に対して、教育の少なかつたことは証するに足るであろうと考へます、斯る世の中に、商業教育の必要と云ふことを考へたと云ふ、其起りから能く御考をなさるように願ひたいと思ひます、元と商業学校の起りは、其初めは明治七年頃であります、皆故人になられましたが、大久保一翁君が東京府知事の時、森有礼君が亜米利加に行かれます時分、初めて東京に商業教育のことの企てをなされ、当時東京に会議所と云ふものが御座いまして、其会議所の人々に謀つて、ビュジネス・スクール即ち商業学校と云ふものを組立る事の評議か御坐りました、会議所の議員が至極宜かろうと其議を賛して、遂に森君が亜米利加に於て、明治八年ホイツツニーと云ふ教師を雇ふて、日本に送つたのがそもそも今の高等商業学校の濫觴て御座います、その頃には今申した会議所は、私共も其の一人てありまして、自から思へらく、また今日の時節に斯様な外国人を商業教育の為めに雇つたと云つても、唯経費を浪費するに止まつて、果してそれ丈け有益のものであらうか、無からうかと云ふ、鑑定の着きません為めに、其の費用の支出に就き、始めは私共も異論を申した一人であつた、併し既に約束も整ひ、其教師も来ると云ふ事から、遂に校舎を開いて、其事を会議所の中から相談して、森有礼君が担当すると云ふて成立ちました、その翌年森君が支那へ赴かれるに就て、その学校をその姿に維持する事か出来ませんで遂に此東京会議所に此学校を挙げて嘱托することになりました……嘱托ではない、詰り引譲ると云ふことになりました、其時初めて矢野君が校長たる職を受けて、東京府の共有物で此学校を組立てると云ふことになりましたので御坐います、其初め生徒の入りましたのは、漸く其頃に二十七・八名の人数であつたと覚へて居ります、其後一両年を経まして、東京府会と云ふものが成立て、東京府会が成立つたに就て前に申した東京会議所は一切の事務を東京府会に譲つた、それからは資金も東京府会に於て監督することに相成つた、玆に至つて始めて府立の体裁を以て、一年若くは二年ばかりの間、学校を継続致して参りました、明治十五年頃に至つて東京府会は議決して曰く、此学校の経費を継続支出することは出来ぬと云ふ事になりました、他の事業の多い為めに、如何に実用たる商業教育であつても……凡て其時分の資金か……経費金が一万円位であつたと覚へて居ります、其金の支出が為し得られんと云ふ議決に相成つた、其時の府知事は是も故人になられました松田道之君である、其頃私共も丁度従来の関係から、今の学校一部の評議員に選まれ居りまして、屡々矢野君と相談を致して、此学校をして此儘に湮滅せしむるは、如何にも残念である、どうでも充分之を継続して行く様に致したいと云ふ冀望を以て、其時に私共の意見
 - 第26巻 p.589 -ページ画像 
は前に申す通り、日本の商売の状態は、商業に対しての教育は甚だ乏しい中に、将来日本商業をして他に愧ぢない位置に立たせるにはどう云ふ手段に拠らなければならぬか、即ち漸々相当の学校を経て充分なる学力を持つ人が商売社会に其力を得る様にならねば、到底日本の商業を盛にすると云ふことは出来ぬと云ふことを、其初めに心附かぬ私共でさへも、十二・三年頃には厚く其観念を起した、殊に矢野君に於ては最も熱心に其事を我々にまで誘導されて、我々も大に之を賛成して、遂に明治十五年に、府下一般の商工業社会に、此学校の為めに醵金を望むことを、府知事から勧誘か御座いまして、其勧誘に依つて此学校に寄附を致した、其金額は殆んと三万足らず弐万以上てあつたと記憶して居ります、今其金は多分高等商業学校に維持資金として、今日は相当の高に上つて保存せられ居るに相違無からうと存じます、左様に府下一般の人民か、即ち商売社会か、此学校の存立を望むと云ふ事実がありましたに依つて、遂に一年農商務省から資金を出して、此学校の持続を謀りました、併し東京府会は尚ほ其翌年も経費を支出することの議決か御座いませなかつた、遂に其翌年、即ち十六年て御座いませう、農商務省の管轄に属することになつて、府立が官立の学校と成り、間もなく文部省に移つて、追々今日の如き有様になつたと申す所て御坐います、処て其間に或は絶えんとして繋ぎ、仆れんと欲して存すると云ふ如き感覚は、今日此場で申上るのは誠に軽々たる一言であるが、其当時を想像しますると云ふと、殆んど危険な有様と申して宜しきやうに思ひます、其際の矢野君の十分なる熱心は殆んど至れり尽せりと云ふ奔走と、確固たる精神とを以て、能く其事に堪へて之を処し、遂に仆れんと欲するに繋ぎ、廃れんと欲するに興したのは、実に矢野君の力与つて大なりと申して宜しい、只今も学校出身の方から、矢野君に対しての、此の矢野君が教育上に充分なる精神を以て力を入れるのみならず、其学校に従事する人に対しての、世話の届くと云ふを厚く称賛されましたが、私共も久しく交つて、是れは十分なる証拠人に立つて大に其事をば証したいと思ひます(拍手喝采)、或は言を作す者は、詰り矢野君は官の役人、斯様にしては過ぎる、それは分外であると云ふ説も御座いませう、私はさうは考へない、商業教育と云ふものは唯一通りの議論方式を稽古致せばそれで済むと云ふものでは御座いませぬ、況んや前に申す通り、古今未曾有の事業、即ち無いとも云ふべき一の形づくりを存しようと云ふのは即ちそれ丈の考、それ丈の働きがなくては、此の商業教育をして普ねからしむることが出来ませうか、故に矢野君もそこに見る所があつたからして、学校出身の人にして、今此の世の中に頭角を現はして居る者は、必ず矢野君と密接の間柄をもつて居る、即ち矢野君其人に就て、談論の間に馴養を受けたと云ふことは、歴然たる証拠と申上げて宜しい、而して其事の悪るいと云ふものは、其人の考へ違ひだと云ふことは明かであると考へます(喝采)、私は矢野君の功労を称すると共に、独り其労を謝しまするのみならず、世の中の商業教育が前に申す通り左様に卑く、左様に世の中に殆んど無いと云ふ位であつたものが、幸にして矢野君其人があつて、十八年間の苦労をして、日本に商業学校の貴きものと云ふ
 - 第26巻 p.590 -ページ画像 
ことを知らしむるに至つたと云ふ事は、常に嬉しく喜ばしく感して居ります(喝采)、古人の言葉に功の成るは成るの日に成るにあらすして必す其因つて起る所があると、多分蘇老泉の言葉であつたかと覚えますが、私も此の語に就て、誉れの生ずるも生ずるの日に生ずるにあらずして、即ち其因て来る所があると云ふ言葉を添へたいと思ふ、今日矢野君の名誉は今日生じたのでは御座いません、十八年の間、熱心従事せられた所から、此の名誉が生ずる所以で御坐います(拍手喝采)、謹んで矢野君の光栄を祝し、諸君の健康を祈りまする(拍手)
○下略


矢野二郎伝 島田三郎編 第八六―九二頁 大正二年五月刊(DK260093k-0002)
第26巻 p.590-592 ページ画像

矢野二郎伝 島田三郎編  第八六―九二頁 大正二年五月刊
 ○本伝
    一八 退隠と謝恩会
二郎が校長の職を辞して退くや、同校出身者の組織に係る学友会常議員は、即夜相会して二郎の為に感謝の意を表し、併せて多年の労苦を慰めんことを討議せしに、一人の異議なく即決せられ、学友会員以外広く同窓の出身者に謀り、又二郎の知友に告げて其賛同を求め、盛大なる慰労の宴会を開き、且記念金章を贈呈するに決し、在京の同窓四十余名其発起者となり、信を内外各地の学友に通じて其賛同を促せしに、響の声に応ずるが如く悉く賛同の答を得たり
此に於て二十六年七月廿五日を以て帝国ホテルに盛大の慰労会を開き二郎及び家族を招待して正賓とし、陪賓として大臣・外国公使及び内外の貴顕紳士を迎へたるに、在朝在野知名の士及び社会に頭角を現せる門生等来会する者都て八百余名、夕六時を以て式場を開き、岩下清周会長席に着きて参会の辱きを謝し、会員総代倉西松次郎左の謝辞を朗読して記念金章を贈呈せり
 矢野二郎先生、我国商業教育の創始に際し、先生奮然管理の任に当り、爾来幾多の困難を排し、高等商業学校の基礎を定め、力を斯界の発達に尽す、其間年を閲すること実に十有八年、養ふ所の子弟前後三千余人、共に実業に志して永く先生の教訓に背かざらんことを期せり
 今や世運隆盛、人々商業教育の重ずべきを知り、各地商業学校の設立あり、而して其今日ある豈先生が経営辛苦率先して範を天下に示されたるに因らざるなきを得んや、是れ実に朝野を挙げて先生の功蹟を記する所以にして、生等先生に師事するものにあつては其感一層の深きを覚ゆ、然れども生等が敬慕措く能はざる所のものは啻に是のみにあらざるなり、先生好で青年を愛育し、誘導懇切諄々として倦まず、一たび贄を先生の門に執るものあれば、終生其栄達を助くるを以て己の任と為し、誠意監督の労を執り、極力其方向を過らしめざらんことを勉む、是を以て師弟相親むこと恰も父子の如く、歳久くして其情念愈々深し、蓋師道の盛なる此の如きは今日に於て稀に見る所にして、生等多年先生の薫陶を被るものゝ深く肺肝に銘する所なり
 今や先生偉大の名誉を荷ひて高等商業学校長の職を勇退せらる、生
 - 第26巻 p.591 -ページ画像 
等嘆惜奚ぞ堪へん、玆に同窓出身者相計り、内外貴顕紳士の賛同を得て、先生が多年の功労を謝するの微意を表し、併せて金章一個を拝呈し、永く記念に供せんことを欲す、儀は菲薄を免れずと雖、実に生等丹精の存する所なり、幸に其意を諒として領受せられんことを冀ふ謹言
  明治二十六年七月廿五日       高等商業学校出身者
記念章は直径一寸八分余・厚一分五厘余、表面の図様は中央地球儀の傍に図器及書冊あり、上に高等商業学校名誉の徽表たる希臘商神の霊杖を横たへ、右方には錨及び荷装したる各種の商品を配置し、後方遥に旭日の煌々たる下には汽車黒煙を吐て橋上を走るの遠景を図し、裏面には矢野氏の紋章なる細輪の桔梗を画き、月桂樹の葉を以て之を包めり、意の寓する所凡て二郎が眼を世界の大勢に注ぎて、力を商業教育に尽したる偉大の功蹟を表彰するにあらざるはなし、刻する所の篆宇都て二十有八、右に『謝恩』の二字を記し、下に『矢野二郎君明治二十六年七月二十五日高等商業学校出身者』の二十六字を刻せしものなり図案は伊太利人キヨソネ、彫刻は鈴木長吉、小篆は益田香遠
総代より右の記念金章を贈呈するや、二郎は壇上に進み莞爾として之を受けたり、商業会議所会頭渋沢栄一は演壇に進めり、此人は商法講習所以来一日も休息せざりし商業教育の保姆なり、一切の変遷を知悉せる唯一の証人なり、熱烈の賛成者として斯教発達の為めに辛苦経営せし同志の紳士なり、此人の演説は言々語々悉く学校の活歴史にして又矢野二郎其人の記功碑なりき、而して之を結ぶに左の言を以てしたり、曰く
 古人の言に功の成るは成るの日に成るにあらず、必因て来る所ありと、私は此言に就て、誉の生ずるは生ずるの日に生ずるにあらず、必其因て生ずる所ありとの言葉を添えたいと思ふ、矢野君今日の名誉は今日生じたるものにあらず、十八年の間熱心斯業に従事せられたるによりて生じたる名誉である
横浜在住以来旧交ある星亨は『矢野君は青年幕府の吏たりし以来、直截虚飾なく、不覊独立、人言を畏れずして所信を実行する性格を現したり』と言ひ、其成功は熱誠忍耐より来るを述べたり、ヂャパンメール主筆ブリンクリーは在留外人の感想を表し『此慰労会の至当にして受くる者と与ふる者と共に名誉なり』と述べ、伊国全権公使マルチノーは書を寄せて其功を讚し『矢野君は実に貴国の一恩人なり、伊国皇帝陛下亦臣の奏言によりて深く君の功を嘉賞せられ、贈るに王冠勲章を以てせらる、貴国の為めに君をして永く其敏腕を揮はしめんことを冀望す』といへり、親友島田三郎は適ま富山県に赴きて此会に列する能はざるを憾とし、文を寄せて其実際見聞せし往事を陳べ、河野敏鎌松田道之・沼間守一等の講習所に対する関係を挙げて『君の成功は一に艱難に克てる結果なること』を説き以て其功労を称揚したり、
二郎は是等の演説贈辞に対して満腹の歓情感謝を以て、簡明なる答辞を陳べ、此に其式を終り、主客歓を尽し、半夜に至りて散会せり、顧ふに今を距ること二十年、明治二十六年の時代にありては、多数集会の風未だ興らず、民間有志の企てたる前校長の感謝会に朝野内外の有
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力者を一堂に集め、此の如き盛況を呈したるは実に空前の事なりき、以て二郎が平生社交の広くして知己に富めるを知るべし、ヂャパンメールは当夜の経過を精密に其紙上に報道し『全局に於て最顕著なる又熱心なる示威的大運動の光景なり』と評したり



〔参考〕一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第三二―三五頁 大正一四年九月刊(DK260093k-0003)
第26巻 p.592-593 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第三二―三五頁 大正一四年九月刊
 ○第二期 一橋に移転してより専攻部の設置まで
    三 矢野校長排斥問題
○上略
  校長に対する不満
 此頃 ○明治二十四五年他の傾向としてパリ、アントウアープ等の諸高等商業学校の制度の研究が頻りに行はれ、学課程度の向上といふ事が一般の輿論であつた。之に伴つて制度の改革も盛んに行はれた事は前に述べた如くである。然し乍ら学生の間に、一橋は我国商業教育の淵叢であり、産業統率者の養成所であるとの意識が次第に明瞭となり、智識探究の慾求が熾烈を加へるに従つて、現行制度に対する云ひ知れぬ不満と焦燥とを感ずる様になつた。一橋の到達地は遥かなる彼岸に在り。此の新しく意識された若人等の理想及び之に驀進せんとする焦慮に対して、矢野校長の一歩一歩踏み固めて行かうとする漸進主義は、もどかしくも又姑息にも思はれた。即ち矢野校長の方針は飽くまで前垂式商業の技術的方面に熟練した学生、人に使はれる人間を養成することであり、商業は尊重したが之に従事する人間を向上せしめ様とはしなかつた。之に対して新進気鋭大いに伸びる所あらんとする学生の思想が衝突するに到つたのである。加之所謂軟派の学生は只管矢野校長に迎合し、其の教を聞き、就職の際には可成く其の恩恵に与らんと努むる観があり、硬派の学生は屡々不利の立場に立つ事等があつた為め、此点に私憤も存在したのである。
○中略
  排斥運動具体化す
 明治二十四年矢野校長排斥運動は、遂に其の火の手を揚げた。
 其の年十二月第一学期試験に際して、地理及び簿記の二科目は元来補習科の性質を帯びて居るものであるとの理由からして、本科二年の一同は其の試験を取止められたき旨を学校に陳情した。然るに学校は之を容れず、試験日割を発表した内に此の二科目があつた為め、本二の学生は其の当日は全部欠席すべき事を申合せて、数名の違背者を除く外は全く試験場に姿を見せず、他所にて同級会を開いて居たのである。此の事に際して補習科の試験云々は単なる導火線に過ぎず、学生の真に目指す所は矢野校長に対する突撃に在つたのである。学校当局は狼狽して種々籠絡の手段を講じ、之に依つて更に裏切る者十数名を出したが、本二の結束愈々固く、本三・本一・予科生も加つて、学生有志は交々文部省を訪問し、当路の官に校長の失徳を訴へ、学校教授中にも此の運動に好意を有する者があつた。
 十二月二十五日朝、学生有志四十余名は凜洌の朔風を冒して山王台に集合し、隊を分つて麻布広尾なる校長の自宅に辞職勧告に赴いた。
 - 第26巻 p.593 -ページ画像 
病人有るの故を以て全部の面会は許されず、委員数名が面会した。先づ校長が社会蒙昧の時に当つて商業教育の基礎附けに全身を献げて尽された功労を謝し、時代の進歩は既に其の職に在るに適せざるを述べ全校生徒の之を希望する今にして処決する所無くば、従来の徳望をも傷くる恐れありとして誠心誠意辞職を勧告する所があつた。之に対して矢野校長は尚其の決意を明かにする事無く、唯学生の熱誠を謝するのみであつた。是に於て委員は他の同志と共に青山練兵場に引上げ、学生一同に委細を報告して解散した。
 其後有志は尚文部省・商議委員等に運動する事を怠らず、為めに寝食を忘るゝに到つた。
 斯くして二十四年は匆忙の内に暮れ、明くれば二十五年の新春、世は屠蘇の香に喜の色は天地に溢れたが、吾一橋のみは秋風荒寥、不穏の気随所に漂ひ一人として心安らかな者は無かつた。
 学校は一時弥縫策として、「教務一切を担任し、校長は単に之を監督するに止る」といふ教務委員なる制度を設けたが、学生は之を冷笑し去り、校長を有名無実の木偶たらしめるか或は依然として校長の手足を増すに過ぎざるものとした。一月八日開校式の日に校長は出席せず、教授今村有隣立つて教務委員に就いて説明を試みんとした。学生は予て打合せがあつた為め、只管校長の出席を要求して已まず、遂に大混乱の内に式は解散せられた。学生有志は直ちに校長室に於て校長に迫り、不都合を詰つたが校長は顔色蒼白、応ふる所がなかつた。其の十日更に同級会を開き愈々結束を固くして初志の貫徹を期したが、此の席上遂に主動者四十六名に退校命令書の発せられた事を知り一同痛快を叫んで直ちに其の手続に及んだ。
○中略
 斯くて此の事件は学生側に多大の犠牲者を出して一段落を告げたが其の希望も亦達せられ、翌明治二十六年四月、矢野校長は遂に限り無き愛慕と懸念と失望とを感じつゝ一橋の地を去るに到つたのである。総ては発展向上の為めの踠きであつた。
○下略



〔参考〕(浜尾新) 書翰 渋沢栄一宛 (明治二五年)一月五日(DK260093k-0004)
第26巻 p.593-594 ページ画像

(浜尾新) 書翰  渋沢栄一宛 (明治二五年)一月五日
                     (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、此程ハ高等商業学校之件ニ付御懇書被下敬承仕候、御厚配之至文部大臣へも具陳致置候、商議委員の制も有之、是迄不容易御賛画相成居候儀ニも有之、此際増員之上名質ある博士等をも相加へ、毎月一回位必御会合相成候ハヽ、商業教育の為め一層効益可有之、其適応なる人々に付而ハ、省議も可有之候へとも、御受付之儀ハ何卒御内報被下候ハヽ幸甚ニ奉存候、矢野氏之事に付而ハ、御垂示之通其短所のみを挙而其長所迄も滅するが如きハ御同様甚遺憾之至、別ニ補短の道も可有之、一人ニて十分教頭とも可相成程の人物ハ、遽に得難き儀ニも有之、差向教務委員を設け教務の整理を図らしめ、本日の御規程も裁定相成、教員中先ツ今村・谷田部・石川三氏へ御委員を命する事ニ相成、合川氏ハ見合セ、成瀬・森島二氏も見合候次第ニ御坐候、今後学
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校の為め都合よろしからさる向ハ便宜処分するの外無之、既ニ学校の程度を進めたる上ハ、教員の学力・人物も之ニ適応せしめざるへからさる儀ニて、其選用方ニ付而ハ殊ニ注意を要する儀と存候、過日来校長へも夫是談置、又教員中不感触の向へも精々相諭置、教務委員へは別而相話置候間、委員ニハ此際及ぶ処精担可致筈ニ御坐候、尤生徒の処分等も有之、委員ニハ殊ニ困難之事と被察候、右の次第御含迄、大略申上置候、尚書外御拝晤の上ニ譲候 匆々頓首
  一月五日                    新
    渋沢老台
 追而、過日来矢野氏ニハ非常ニ心配被致、気の毒之至、今日教務委員も相定り同氏の為ニも都合宜敷と存候
 将又合川氏ニハ法律上公私の経歴ある人物とも可然旨ニて、穂積博士とも相談之上採用相成候次第ニも有之候、御序ニ御聞取置被下度候 不具