デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
3款 高等商業学校
■綱文

第26巻 p.600-602(DK260097k) ページ画像

明治30年7月6日(1897年)

是日栄一、当校第七回卒業証書授与式ニ臨ミ演説ス。


■資料

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 附録・第七頁 大正一四年九月刊(DK260097k-0001)
第26巻 p.600 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  附録・第七頁 大正一四年九月刊
    一橋五十年史年表
明治三〇《(年)》  七《(月)》 第七回卒業証書授与式を挙行す、本科卒業生八十五名


時事新報 第四九五二号 明治三〇年七月七日 ○高等商業学校卒業式(DK260097k-0002)
第26巻 p.600 ページ画像

時事新報  第四九五二号 明治三〇年七月七日
    ○高等商業学校卒業式
高等商業学校にては昨日午前十時より第七回卒業証書授与式を挙行せり、来賓の重なる者は蜂須賀文部大臣・都築次官《(都筑)》・安広局長・鮫島海軍大学校長・原田陸軍戸山学校長・高田通商局長及び渋沢・益田の両商議員を始、近藤廉平・加藤正義・阿部泰蔵・山中隣之助其他卒業生の父兄・保証人等百余名にして、号鐘を以て一同式場に着席し、小山校長は小高き演壇に立て八十四名の卒業生に一々証書授与し、終りて一場の演説を為し、卒業生総代田中慶三郎氏答辞を述べ、次蜂須賀文部大臣は演壇に進みて祝詞を朗読し、夫より同校商議委員渋沢栄一・同益田孝両氏の演説あり、正午式終り夫より別室に於て来賓に饗応し一時頃散会せしよし


竜門雑誌 第一一一号・第一―六頁 明治三〇年八月 ○明治三十年七月高等商業学校卒業式に於て(青淵先生 演説)(DK260097k-0003)
第26巻 p.600-602 ページ画像

竜門雑誌  第一一一号・第一―六頁 明治三〇年八月
    ○明治三十年七月高等商業学校卒業式に於て
                     (青淵先生 演説)
此御目出たい式場に於きまして、私にも一言の祝詞を申上ますやうにと云ふ校長よりの御依嘱でございまするで、不肖ながら本校の評議員《(商)》と申す任を持つて居りまするから不弁を以つて辞することもなければ拒みはせぬ、で暫く蕪辞を呈して諸君の清聴を煩しまするやうな次第であります、又学校の今日に至つた履歴は唯今校長からして御話があり、殊に私一身の事をも御附加へ下されまして縷々御申述べがございまして、又昔日は甚だ微々たる有様であつたが、商業教育は年を追ふて世に重ぜらるゝやうになり、又年毎に人も多分に卒業生を出すやうになつて、今日は殆ど八百人近い所の卒業生が商売社会に散布して各種の事業に使はれて居ると云ふ……段々進んで行くと云ふことは誠に喜ぶべき次第でございます、玆に本年卒業されましたる八十有余名の諸君、即ち今日の卒業生の此方々は今校長の仰せの通り数年の間の蛍雪の労が其効を奏して、玆に丁度鳥が巣立をする如く、若くば船が艤装して今や大洋中に浮び出すと云ふ有様であつて、誠に諸君の為には御目出たいことである
 - 第26巻 p.601 -ページ画像 
ソコで私が玆に一言諸君の為に申上げたいと云ふのは、既に大臣からも仰せがあり、又校長からも懇々御申述べになりまして、日本の商工業の有様は昔は至て軽しめたものであるけれども、斯く申す私なども幾たびか此卒業式に向つて、どうも日本の商売は他の種類より至て軽しめられて居る、是れが国の貧乏なる所以で斯くあつては困ると云ふことを、声を嗄し舌を爛らして申した人間でございます、其申した甲斐は格別ないかは知れませぬが、世の中の識者が御卓見が強くつて、遂に明治廿七年の戦争の結果商業社会の程度を進められて居る、去りながら校長は仰せらるゝに、他の事物に比べると商工業の進歩はまだるいと云ことを云れた、御尤千万でございます、斯う云ことを言ふと何だか商売人を代表し、若くは政治家の答弁に出たと云やうになつて面白からぬ語気を発するやうになりますが、私は毎々政治家・御役人様を招待するときには、どうも商売が進ぬ、銀行に弊がある、御尤である、御卓見であるけれども、日本の有様……商売がどう云ふ有様で進化し来たと云ことを御察し下さらねばならぬ、斯く申すと貴様は政治家みたやふであると言はれるか知らぬが、一体国の持方と云ふものは一国の有様・政治上の都合・軍備の都合からして斯う云ふことは斯くしたいと云ふが、土台斯くしたいに付ては是程の金が要る、依て此金を出せと斯う云ふやうな風に始終仕向けられて居る、是れは国の体面を保つには軍費を是れだけ払はねばならぬ、其軍費を払ひ国の体面を保つには、商業・工業を或る程度に進めねばならぬと云ふやうに私は行きたい、どうも日本の今日の有様は彼が先きになつて是れが後になつて、向ふが駈けて行くからこつちが後とから追付くと云ふやうに見える、但し私の解釈が間違であるかも知らぬ、政治家に言はせたらさうでないと云ふ御弁解かあるかも知れませぬ、私は商業・工業は此程度に進めたい、是れだけの軍費、是れたけ設備が要るから商業・工業の発達を……程度を是れまで進めねばならぬと云ふことに私はありたい、例へば二十九年度の予算でも三十年度の予算でも、前申したやうな嫌ひなきにしもあらずと思ひます、我々は退いて見ても又如何に急いでも追付けない、是れは私が年をとつて殊に肥満して居るから駈けられぬと云ふ話ではない、諸君のやうな若い方でも追付くことは出来ませぬ、現在商売の有様は進んで居ります、商売社会は校長は甚だ進みがたるいと仰せられたが、昔日と比較すると紡績の一事でも、明治十五年には殆んど僅かに三万錘か五万錘かであつた、それが百五十万錘となつて居る、又生糸でも十四五年頃は漸やく横浜輸出が三万四五千梱のものが、今日は十三万以上の高になつて居る、又貿易の高は輸出入総計して一億万と云ふのが、今日は三億に進んだ、総ての物が三倍の進歩をして居るは疑ひませぬ
今日他の事物の進歩の割合に、実業が進まぬと云ふ校長の御叱りを頂戴する点に於ては、私も左様と云はねばならぬ、今日は商売するに遅れ勝ちになるので、追付て行くことが出来ぬ為に、我々商売人は最も痛苦に堪へぬに、是れは何とか予防致さねばならぬ時期だと考へます丁度諸君は斯る場合に御出掛なすつて、此実業社会に従事されると云ふ次第である、宜しく此際十分に御注意なすつて「さてそふ云訳なら
 - 第26巻 p.602 -ページ画像 
ば」と云ふ心を持つて力を尽さにやならぬと云ことは、予て観念して其実地につかれんことを希望致すのでございます
斯様申すと各々方をして、直様商売の機軸を握つて右に左に自由に切り回せとおだてるやうになるが、それは私は甚だ嫌ふ、丁度校長から学生諸氏に、世の中に出て最も注意しなければならぬのは行状だとか又自分一身上の経済は出入其宜しきを得るやうに心掛けねばならぬと云はれたのは、如何にも御尤千万であると敬服するのであります、私が申上げたのも実業社会が斯様あるからと云ふて、直様商売上の英雄豪傑となれと御勧めするのでない、其気でやりたいものであると言ふので、商売上の有様は斯う云ふ事情でございますぞ、斯う云ふ有様でございますぞと云ふことを一言申上げたのでございます、斯様な泣言を申し、総て憂ふべき点を申上げると、至つて渋沢は貧乏たらしい奴だ、喜びを兎角言はず、いつでも泣事を言ふ奴だと思召すか知らぬが私は其の通りである、成程喜ぶこと進むことは私も希望するのであるが、総て世の中のことはもう是れで満足だと云ふ時は即はち衰ふる時期である、憂ひと云ふことのある時は、必らず喜ぶべき現象を含んで居ると云ふことを記臆せねばなりませぬ、即はち進んでも憂れひ退ぞいても又た憂ふで、此の憂ひの間に過まちを少なからしめんと云ふことである、言葉を換へて言へば国の進歩を計るのが第一の要点でございます、古人名を成し事を成すは多く得意の時で、日本でも政治上なり商売上なりから言ふのは多く得意と云ふ時にあると思はれる、若し得意の時でなければ其の時は廃頽である、諸君は斯かる名誉を得て御出でなさる、甚だ得意の時で、此得意の時は過を生ずる時でございますから、御注意あらんことを希望します、一言以て祝詞に代へます
終りに臨んでチヨツト御礼を申上げます、唯今校長より此学校の経歴を御述になりまして、不肖私の身に及んで此学校に付て些少の功労あるものと御認め下すつて、特に私の肖像を玆に掲げることに相成つたと云ふ事実を御披露になりました、私は甚だ慚愧に堪へませぬ、如何にも此学校の甚だ要用なりとして希望して居つて、殆んど二十年間心掛けたには相違ありませぬ、と云ふのは先刻も申す通り世の中の人が商売を重んずるやうにならなければ国の富は甚だ覚束ないと思つた私は、根が百姓で学問もありませぬが、途中に書生をして少々御役人をしてそれから商人となつたと云ふ色々変化した人間で立派な学問は知らぬ、知らぬが心に左様感じた、是非此商業教育は十分にしてやらねばならぬと云つて尽力したけれども、功労に至つては何もございませぬ、併ながら左様な心掛が幾らか此学校に及ぼし、今日は商業教育も大いに進んだと云ふやうになりました、誠に御恥しいが之を受けるに憚らぬのでございます、有難く御礼を申上げて置きます(完)