デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
3款 高等商業学校
■綱文

第26巻 p.624-638(DK260101k) ページ画像

明治34年3月13日(1901年)

是ヨリ先昨年七月、当校同窓会主催ノ栄一還暦並ニ授爵祝賀会ニ於テ、栄一ガ商業大学必要論ヲ開陳シテ以来、同窓会其ノ設立ニ関シ調査研究ヲ続ク。是日、同問題ニ関スル商議員ノ意見ヲ聴カントシ、商議員招待会ヲ銀行集会所ニ催ス。栄一出席シ所見ヲ述ブ。爾後商業大学実現ノ為ニ栄一斡
 - 第26巻 p.625 -ページ画像 
旋尽力シテ止マズ、日露戦役勃発ト共ニ論議一時中絶ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK260101k-0001)
第26巻 p.625 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
三月七日 雨
午前成瀬隆蔵来リ商業大学ノ事ヲ談ス、依テ各国ノ実例ヲ調査スル事ヲ告ケ、且近日一会ノ商議委員集合ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
三月十二日 晴
○上略 午後帝国大学ニ抵リ、菊池総長ニ面会シテ ○中略 商業大学ノ事等ヲ談話ス、後、文部省ニ抵リ梅次官ニ面会シテ、商業大学ノ事ヲ談ス
○下略
三月十三日 晴
○上略 夜銀行倶楽部ニ抵リ、商業学校出身ノ諸氏ト商業大学ノ事ヲ談ス
○下略


東京高等商業学校同窓会会誌 第一二号・第一―二頁 明治三三年一〇月 常議員会例会(DK260101k-0002)
第26巻 p.625 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一二号・第一―二頁 明治三三年一〇月
    ○常議員会例会
九月廿日午后五時より日本橋区亀島町偕楽園に於て開会
一、出席者
 早水親宗   小河作郎    大田黒重五郎
 横田清兵衛  祖山鍾三    内池廉吉
 隈本栄一郎  倉西松次郎   福井菊三郎
 郷隆三郎   岸吉松     水島鉄也
 下野直太郎  白杉次郎太郎  東奭五郎
一、評議事項及其決議左の如し
○中略
 九、予て渋沢男より注意ありたる商業大学設置の件に関し、近日中更に臨時常議員会を開くこと、以上
   ○「予て渋沢男より注意ありたる」トハ明治三十三年七月一日同窓会主催ノ栄一ノ還暦並ニ授爵祝賀会ニ於ケル栄一ノ演説中、商業大学必要論ノ開陳アルヲ指ス。


東京高等商業学校同窓会会誌 第一三号・第一―四頁 明治三三年一二月 臨時常議員会(DK260101k-0003)
第26巻 p.625-626 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一三号・第一―四頁 明治三三年一二月
    ○臨時常議員会
十月十八日午後五時より麹町区富士見軒に於て開会
 出席者
 早水・祖山・図師・成瀬・内池・隈本・倉西・八十島・丸岡・郷・水島・宮川・下野・白杉・東・日高、以上十六名
右の外佐野善作君の出席を乞ひたり、但し氏は欧洲留学中彼の地商業教育の実況を親しく目撃せられたる結果、我国現今商業学校程度問題に関し、同氏は渋沢男と略同様の意見を有し居られ、且該問題に関する多少の材料をも彼の地より齎らし来られしを以て、特に本日の出席を乞ひたるなり
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評議事項及其決議左の如し
 一、予て渋沢男の主張せらるゝ商業学校程度問題は、種々評議の末
  (い)一と先づ委員を選定して、此問題に関する諸般の材料を調査せしむること
  (ろ)右委員の選任は其夜の議長成瀬隆蔵君に一任すること
右に付成瀬君は左の諸氏を指名して委員に推選せられたり
 村瀬春雄君  内池廉吉君  隈本栄一郎君
 佐野善作君  水島鉄也君  東奭五郎君
    ○常議員会(二)例会
十一月八日麹町富士見軒に於て開会
 出席者
 早水・小川・川村・横田・祖山・成瀬・内池・隈本・倉西・松本・福井・下野・白杉・東、(以上常議員)・佐野、十五君
評議事項及び其決議左の如し
○中略
 二、商業学校程度問題
  右は前項同様種々評議の末、更に委員の手に於て左の事項を調査することに決議せり
  (い)此問題に関する海外諸国の例
  (ろ)此問題に関する経費の概略
  (は)此問題をして成効せしむる諸般の方法
    ○秋季総会
前々項常議員会(一)に引続き(十月廿七日)上野精養軒に於て午後六時開会、今当日の出席者を挙ぐれば左の如し
 小川作郎 ○外六十九名氏名略
定刻に至りて成瀬隆蔵君会長の席に就かれ、左の諸項に就て全会員の評議ありたり
(一)評議事項
 一、岸吉松・檜山剛三郎・山本邦之助の三常議員辞任に付、補欠選挙の件
  右選挙の結果(別項にも記載の如く)左の三君推選せられたり
  川村桃吾君  山田万里四郎君  松本長蔵君
 二、商業学校程度問題
  右は満場一致を以て左の如く決議せり
  本会は我国に商業大学設置の必要を認む、而して此目的を達せんが為めに、臨機の処置をなすことを常議員会に委任す
   因に記す、右に要する相当の入費は無論本会の経費より支出することゝなれり


東京高等商業学校同窓会会誌 第一四号・第一―二頁 明治三四年二月 常議員会(一)臨時会(DK260101k-0004)
第26巻 p.626-627 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一四号・第一―二頁 明治三四年二月
    ○常議員会(一)臨時会
明治卅三年十二月十三日午後五時より日本橋区亀島町偕楽園に於て開会、其出席者左の如し
 小河・川村・横田・図師・内池・隈本・山田・丸岡・福井・郷・宮
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川・白杉・水島・東
の拾四君、外に商業学校程度問題委員として佐野善作君出席、都合拾五君
(甲)議題
 一、渋沢男への紀念品贈呈の方法
  紀念品は隈本・水島及東の三幹事本会を代表して近日内同男邸へ持参することに決す
 其二、大学問題に関し向後の運動方法
  本問題に関しては先づ高等商業学校商議員及校長等の賛同を求め且向後の運動方法等にも助勢を仰くこと、尤も如此計画実行に就ては、予め一応は渋沢男の意見を聞くの必要あるべきに付、前項記載の通り、本会幹事に於て近日内紀念品贈呈の為め同男を訪問するの序を以て、篤と同男と協議を遂くることに決す


東京高等商業学校同窓会会誌 第一五号・第一四―一七頁 明治三四年四月 商議員招待会記事(DK260101k-0005)
第26巻 p.627-629 ページ画像

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(八十島親徳) 日録 明治三四年(DK260101k-0006)
第26巻 p.629-630 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三四年   (八十島親義氏所蔵)
一月十日 晴
○上略 五時ヨリ偕楽園ニ至ル、高等商業学校同窓会常議員会也、来会者二十二名、今夜ノ重ナル議題ハ昨年七月還暦祝賀会ノ節、青淵翁ノ演説ニ基ツク商業大学設立ニ関シ、常議員中ノ起草委員ニテ起草シタル趣意書ニ付テノ討議ナリシカ、今夜ハ甲乙二案ニ就テ単ニ一読会ニ止メ、追テ来月第一日曜ニ会合シ、其節各員ノ修正案ヲ持参スル事トシテ十時散会セリ
○下略
   ○中略。
三月七日 朝雨午後晴
○上略 今日ハ夕刻ヨリ偕楽園ニ於テ、商業学校同窓会常議員会開催ニ付出席ス、商業大学設立ノ必要ヲ訴フル趣意書モ出来シ、主唱者渋沢男ノ同意モ経シニ付、愈来十三日銀行倶楽部ニ於テ商議員渋沢・益田・安部・和田垣諸氏招待ノ事ニ決定セリ、十一時過帰宅
   ○中略。
三月十三日 晴 寒風甚シ
○上略
午後五時過ヨリ銀行倶楽部ヘ至ル、高等商業学校同窓会代表者ノ催ニ係ル商議委員招待会也、商議員出席者ハ渋沢栄一・益田孝・園田孝吉阿部泰蔵ノ四氏、又主人側ハ成瀬隆蔵・隈本栄一郎・下野直太郎・水島鉄也・東奭五郎・福井菊三郎・原錦吾・村瀬春雄・図師民嘉・内池廉吉・八十島親徳ノ十一名也、先銀行倶楽部談話室ニテ成瀬氏今夜招待会ノ趣旨ヲ述ヘ、商業大学設立ノ必要、及欧米ニ於ケル大学的商業教育ノ実例、此二ノ取調書ヲ朗読シ、且其玆ニ至レル次第ヲ述フ、次ニ渋沢男ハ此事タル自分モ関係アリ、寧近頃ニ於テハ自分ヨリ促カシタル形アルガ、一体商業者カ社会ヨリ冷遇サルヽト同シク、商業教育
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カ他ノ教育ヨリモ冷遇サルヽヲ慨シ国家ノ政策トシテモ是非共他ノ農工諸科ト同シク大学程度ニ進ムルノ必要ナル所以ヲ述ヘラル、次ニ食卓ニ就キ終テ又談話室ニ帰リ、又渋沢男ハ予メ一両日前菊池大学総長ト梅文部総務長官トニ面会シテ其各一己ノ意見ヲ聞キシ事ヲ披露セラル、菊池氏ハ商業学ヲ大学的程度且取扱トナスハ、学問其物ヨリ見ルモ又国家ノ政策ヨリ見ルモ必要且相当ナラン、故ニ予ハ反対セズ、但帝国大学ニ合併スル事ハ却テ不利ナラン、大学ハ今日ノ処デスラ頗雑駁ニシテ行届キ兼ヌル処アリ、況シテ一科ヲ増セバ、其増シタル一科ハ頗自然手ノ行届兼ヌル場合ニ立至ルヘシト思フ云々、又梅氏ハ強テ大学トセズトモ、今日ノ商業学校ヲ土台トシ、其上ニアル専攻部ヲ幾分拡張シテ大学的教育トシ、其卒業生ニ学士号ヲ許ス事トセバ可ナラン云々、渋沢男右ノ披露終リテ益田孝氏ハ、大学的程度ノモノモ必要ナランカナレトモ、今日ノ商業社界ニ最モ適応スルモノハ今ノ高等商業学校其物ナリト信ス、故ニ大学ヲ起ストスルモ、今日ノ学校ハ其儘継続存置サレン事ヲ望ムトノ趣旨、又阿部氏モ、日本現在ノ地位ヨリ云ヘハ、現在ノ高等商業学校ノ如キモノヲ今二ツモ三ツモ増設スル方急務ナルベシト被述ベ、園田孝吉氏モ、寧ロ現在ノ程度ヨリモ一層実際ニ近キ人間ヲ作ラマホシト思フ位トノ話アリ、要スルニ渋沢男ハ国家ノ政策上ヨリ大学ノ必要ヲ唱ヘ、又益田・阿部・園田三氏ハ我国現在社界ノ需用上ヨリ不急論ニ傾クモノノ如カリシ、結局渋沢氏ハ已ニ文部当局者ノ意見モアレハ今日ノ際帝国大学ニ合併シ又ハ商業大学校トナス事ハ見合セ、現在ノ高等商業学校専攻部ノ規模ヲ拡張シテ大学部トナシ、其卒業生ニ学士号ヲ与フル方法ニヨリテ、向後文部省其他ヘ運動スル事トシ、而シテ其準備トシテ其方法・課程・予算金等ノ調ヲ次回迄ニ取調ヘ内議スヘキ事ニ決セリ、十一時帰宅
   ○中略。
三月廿六日 晴
○上略
午後五時半済ミ夫ヨリ一ツ橋商業学校ニ至リ、同窓会委員会ニ臨ム、今日ハ去十三日商議委員招待会(大学問題)ノ結果ヲ報告シ、且今後文部省ヘ交渉ニ必要ノ、方法書・予算等取調方ハ従来ノ委員ニ依頼スル事トナリ、九時退散帰宅
○下略
   ○中略。
五月九日 小雨
○上略 午後五時ヨリ偕楽園ニ至リ、商業学校同窓会ノ常議員会ニ臨ム、商業大学問題ニ付テハ、研究ノ結果高等商業学校内ニ大学部ヲ設クルノ方法ヲ取ル方出来易キ意見ニテ、ツマリ此意見方針ヲ以テ、文部省ヘ交渉方ヲ渋沢商議委員ニ依頼スル事ニ決セリ ○下略


東京高等商業学校同窓会会誌 第一五号・第一―三頁 明治三四年四月 商業大学設立の必要(DK260101k-0007)
第26巻 p.630-632 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一五号・第一―三頁 明治三四年四月
    ○商業大学設立の必要
国家富強の基は産業の振興にあり、而して我邦の位置・形勢は商工業を以て主脳とし其隆盛を図るにあり、然るに其国民は勇敢の気象に富
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み、古来専ら武を尚ひ、農業を以て国の本とし、商業者の如きは私利是れ争ふ者として、四民の末班に賤置したり、此商業を発達し、正理公道を踏み、需要供給の間に立ち、百工を指導し、有無相通し、世界商業の競争場裡に処して、能く我国家の主義を貫徹し、毫も他を侵害せず、又己を損傷せられす、其行は博愛的道徳的ならしめ、其事は国家的経済的ならしめ、所謂本分を全うし天職を尽くし、外交之に因り国政之に基し、以て人世の幸福社会の繁栄を計らしむるには、完全なる智識と高尚なる思想を要す、而して之を発揮せんと欲せは、蓋し教育に依らざるべからざるなり
我邦今日の教育制度漸く具備し、進んでは法・文・医・理、或は農に或は工に皆大学あり、商に至りては之なし、其大なる者は只高等商業学校と曩に帝国議会に於て議決したる第二高等商業学校の計画あるのみ、人或は曰はん、商業は応用の学科にして学理を覃究すべき者にあらずと、其然り豈其然らん、今日大学として専攻する農の如き工の如き、皆応用の学科にして、商と択ふ所なし、且大学設立の如き、何れの学科を問はす其必要に応し之が施設を蹰躇すべからざるは、帝国大学令に照すも明なり、凡そ事物の発達は国民一般の覚るを待ち始めて其緒に就くべき者にあらす、必ずや時勢を達観し、以て一般国民を提撕するにあり、況んや商業の如きものに於てをや、又況んや社会の下層に置きて教育の素養なく、鎖国の余弊を承けて貿易の経験頗る乏しきものをや、今日の急は専意奨励し熱心保護するも尚或は足らざるを恐る、之に加ふるに現今有為の少年は高尚なるものに傾く常態あるを以て、多く之に従事せしめ、真正の商人を養成せんには、其教育高度なるものあらざるべからず、然るに教育の淵源・人材陶冶の根本に於て、已に同等同位ならしめざるは適当の学制にあらず、宜なるかな商業上の徳義頗る薄く、其人材甚乏しく、国力随つて富実ならす、民度極めて賤微なるや
我邦は二十七八年の戦役に依り、近くは清国の事変に際し、国威を海外に揚耀し、列強をして、驚嘆せしむるに至りたり、誠に快事慶事なりと雖も、是れ蓋し偶然にあらす、政府は夙に力を陸海軍に尽し、国庫は之に尠からざる鉅費を投し、以て古来涵養したる尚武の気象に加ふるに教育訓練を施したる結果に外ならず、此実戦に依りて得たる名誉は国の富実を以て維持し、国の富実は商戦に由りて経営せざるべからず、我邦の通商貿易は能く列国と対戦奮闘するの成算あるか、開国日尚浅しと曰ふも既に四十余年を経過し、之を人世に比すれば知命の齢に達せんとするにも拘はらず頗る幼穉なるは、果して何等に原因するか、其原因一にして足らざるべきも、之が教育の闕如居多なりと謂ふべし
英国が昔時通商を発達するに頗る画策奨励し、彼の剛毅なる国民は彼の広大なる領土を得、縦横の経験を積み、其勢力世界を席巻したり、他諸国は之に対抗する方法蓋し教育にあるを悟り、之を実行して大に成功し、英国亦其必要を認め、倶に共に之か拡張発達を謀り、近年に至りては、独にライプチツヒアーヘンの商業大学あり、英にリヴアブール、マンチヱスター、倫敦の諸大学に商業科増設せられ、其他仏蘭
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西・以太利・伯耳義等の教育者一致称道せざる者なきが如し、米国亦ペンシルバニア、シカゴ、コロンビア諸大学に此科を存在し、尚諸所に新設の計画を為しつゝあり、我邦は遠く東瀛に在るを以て独逸等が英国に就きたる如く、先進国に学習する固より容易にあらず、又国内に経験ある者も寥々数ふるに足らざれば、一意唯教育を施すの外なきなり
之を要するに商業大学を設けて其発達を謀るは、何れの点より観察するも必要欠くべがらず、其盛なる邦国は興り、其盛ならざる邦国は振はず、現に従来不十分ながら其教育に依りて養成したる者が、我実業界に立ちて貢献する所の者ある一事に例するも、蓋し思ひ半ばに過ぎん、抑高等商業学校の起源は元東京商法講習所と称し、米国商業学校教師を聘し、英語を以て教授せしに始り、当時僅に有識先覚者の外は之に意を注ぎ其奨励を謀る者なく、屡存廃の問題となり、維持頗る困難を極めたりしが、時勢の変遷に随ひ、通商貿易の発達を期図するに伴ひて、校謨漸《(マヽ)》く拡張し、学科次第に進み、以て現今に至りたり、幸に今日は全国重要の都市皆商業学校の設備を有し、更に又幾多創立せられんとするものあり、此等は姑く地方及私人の経営に任じて足ると雖も、大学の如きは自ら其規模大なれば、我邦目下の状勢当然政府之か衝に当らざるべからず、而して其設置は大学の分科として新に設立するなり、或は現今の高等商業学校の制を革むるなり、一に当局者の捨取に委すも、速に国家須要の学科なるを諒せられ、之が設立に着手せられんことを訴ふるものなり
  明治三十四年三月
                    高等商業学校同窓会


東京高等商業学校同窓会会誌 第一六号・第二―三頁 明治三四年六月 商業大学問題委員会(DK260101k-0008)
第26巻 p.632-633 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一六号・第二―三頁 明治三四年六月
    ○商業大学問題委員会
五月一日午后七時より本会事務所に於て開会
 出席者
 成瀬・内池・佐野・東
  以上四君(水島氏は風邪の為め、村瀬隅本の両氏は事故の為欠席)
当日は去る三月廿六日の臨時常議員会の決議に基き、該大学設立に関する向後の方法に付審議を遂げられたるが、今其要点を記せば、目下新に大学なるものを創設せんには、政府に於ても財政困難の今日なれば、先づ第一に経費の点よりしても到底其成立の見込なければ、純然たる一個独立の商業大学を設立するは最終の目的として、差当りは先づ現今の高等商業学校内に大学部なるものを附設する事(第十五号会誌第十七頁下欄二行目記載の説)に決議したり
右の方法に拠るときは、其大学部なるものは現在の専攻部の学科課程を改正変更して之れに充つる事(即梅博士が嘗て渋沢男に語られたる意見と同じ)を得、経費の如きも現今の高等商業学校の費用に僅かの増額をなさば其成立を見るを得べし、尚ほ其学科課程及経費等の点は佐野・内池両君にて調査せられ、其結果を来る九日の常議員会へ提出し、更に審議を遂げたる上、成瀬君を経て一先づ渋沢男の意見を敲く
 - 第26巻 p.633 -ページ画像 
ことゝして其夜は解散せり、時に午後十時なりき
    ○常議員会(二)例会
五月九日(木曜)午後五時より日本橋区亀島町偕楽園に於て開会
 出席者
 早水・原・土肥・太田黒・尾崎・川村・永富・内池・倉西・八十島丸岡・松本・佐野・水島・白杉・東・日高(以上十七君)
当日の評議事項は幹事の撰挙及び前項五月一日の商業大学問題委員会の決議に基き、内池・佐野両君に於て調査せられたる商業大学科課程及び経費の調書に就き審議せらるゝ所ありしが、今其決議の結果を挙ぐれば左の如し
 一、商業大学々科課程及び経費
  此項は先づ原案に就き佐野君の説明ありて、之に対し二三の質問等起りしかど、結局は原案に対して一の異論を生ぜずして議了せられぬ(其原案なる書類は本会事務所に保存しあり)


如水会々報 第一号・第九―二二頁 大正九年天長節 挨拶(成瀬隆蔵君)(DK260101k-0009)
第26巻 p.633-634 ページ画像

如水会々報  第一号・第九―二二頁 大正九年天長節
    挨拶 (成瀬隆蔵君)
○上略
 昇格のことは一番最初に唱へられたのは、学生諸氏にあると思ひます、それは二十二年に私が欧羅巴に出かけました留守中、当時の学生諸氏の中に成瀬が帰つて来たらば昇格に尽力するだらう、諸方の程度の高い有様を見来てさうするだらうといふ、当時意外なことを期待されて居つた向きもあるやうで、そこで私が帰朝すると早速数名の方が御出になつて、先生の意見は何うか、大学にでもする考へはあるだらうなといふ問ひでありました。ところが私は其時分さういふ考へは更になかつた、欧米を廻はつて見ましたところで、巴里のエコールオーゼチニウド・コンメルシヤルといふのが大学程度でありまして、其他は高等商業学校程度であつて、白耳義のアントワープの商業学校と雖も、書いたものより言へば何程も我校とは違はない、併しながら彼等は実業が発達して居ります、従つて教授の方法は発達して居りますから、其辺は良いが、程度は決して高い事はない、世の中の事は大抵対手者に応じて定まるもので、刀槍の時代には刀槍を以て戦ふ、銃砲の時代は銃砲といふやうなことで、未た諸方が高い程度でない、殊に程度斗り俄に高めるは害ありて益がないから、此程度が宜からう、尤も金を沢山かけるところは程度に拘はらず実質が発達する、即ち日本の陸軍・海軍・政治・法律等は大方発達したけれども、一番金もかけないところの商業は発達しない、之は発達させなければならぬが、目下程度を高める必要はないといふことをいふて、大に甘心を失つたことがあります、或は此中に其時御出でになつた方があるかも知れませぬ明治二十三年のことであるから大分古いことであります、それ以来皆さん御承知の通りバーミンハム大学のアッシユレー、マンチエスターのテヤッブメン等の名が聞えて来まして、商科大学が各国に起るやうになりました、さすれば此方も進まなければならぬ、又時と共に進んでも良い事情になりました、其時分から私共は商業大学にせなければ
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ならぬといふ考へが起つて居るところに、最も権威ある渋沢男爵閣下それを唱へられたので、轟然として皆同意致したのは二十余年前でありました、それから紆余曲折を経て今日に至つて、名実共に大学となりましたのは実に偶然ではない、真に渋沢男爵閣下等の御心入れ御尽力の結果でございます。
○下略


一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第四五―五五頁 大正一四年九月刊(DK260101k-0010)
第26巻 p.634-638 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第四五―五五頁 大正一四年九月刊
 ○第三期 専攻部の設置より申酉事件の落着まで
    二 商業大学論
  在外諸教授頻りに海外の状況を報ず
 一橋の歴史は古い。此頃世界に高級な商業教育を施す学堂として、現存した最古のものは、一八二〇年創立の仏国巴里高等商業学校であり、一八五二年開校の白耳義アンヴエルス高等商業学校に次いでは、一八七五年創立の日本東京の高等商業学校であつた。
 然して此当時異状の発達を来したる商業界は教育の方面に新傾向を与へずには置かなかつた。与へられたる新傾向とは、高等なる学理を考究して実業の将帥を養成せんとする教育即ち是であつた。
 講習所より商業校へ、商業校より高等商業校へと、学海へ泳ぎ出した一橋からは、当時幾多の俊才が、欧洲各地に留学して居た、即ち明治三十年三月福田徳三の独逸留学をはじめとして、同六月に佐野善作(英米へ)、翌年八月関一(白耳義)、三十二年七月には石川文吾(同上)が同じく在外研究を命ぜられた。之等卒業生は母黌一橋の発展について細心の注意を怠ることなく、常に欧米の新傾向を取り伝へては警めの叫びとなす事を忘れなかつた。
 三十年の春福田徳三はミユンヘンから訳文「高等商業教育論」を小山校長に、次いで翌年十一月「欧米商業教育近況」なる一文を、母黌唯一の聯絡機関たる同窓会誌に掲載した。尚彼は三十二年六月伊太利ベニスに開かれたる国際商業教育会議に列席し、世界の進歩して行く線上から一橋を一歩も遅らせまいと努めた。
 関一も亦「欧米商業教育の概況」なる一報告を文部省に送り、次いで同年十二月には石川文吾の「アントワープ府の商業学校」が同窓会誌に訳載され、佐野善作は倫敦経済学校に於て商業教育に関する講演をなし、其の速記録中日本に関する部分が英国文部省の年報中に掲載された。
○中略
  商業大学必要論表に現る
 時しもあれ三十三年七月一日、商議員男爵渋沢栄一の還暦並びに授爵祝賀会が同窓会の主催に依つて開かれた、その席上行はれた彼の一場の演説に於て、一橋商業大学の主張は始めて明らかな形を取つて現はれた。
 「能く考へたならば、商業といふものに対する教育が、他の教育と同じ程度に進んで居るとはまだ申されぬのでございます。私は学問を以て成立つた人間でございませんから、学理についての事は丁寧
 - 第26巻 p.635 -ページ画像 
にここに述べることは出来ませぬが曾て此の商業学校をして大学の位置にまで進めたいと云ふことを度々申した事がございます……」
 明治の初年に商業教育の必要を率先して叫んだ先覚は、こゝでは又商業大学の必要を力説して居る。それのみではない。従来彼が卒業式其他あらゆる機会に於て試みた演説は、明らかに大学とは主張しなくとも片言隻句と雖も之れを具象して居ないものはなかつた。常に商業校生徒養成の要を叫び、技術のみならず人物の養成に意を用ひられたき事を述べ、商業道徳を具へたる実業家の養成の必要を絶叫した。是即ち大学の主張であつた。然し彼が大学の名辞を用ひてその主張を明かにしたのはこれが最初であつた。之によつて商業大学論は一部の教授・学生の独占のみでなく、全日本に於ける問題となつた。
  同窓会の活動
 本校と最も関係深き同窓会は到底黙する能はず、九月二十日開かれたる常議員会は左の一項を決議した。即ち「かねて渋沢男より注意ありたる商業大学設置の件に関し、近日中更に臨時常議員会を開く事」次いで十月十八日臨時常議員会は富士見町富士見軒に於て新帰朝者佐野善作を迎へて開かれ、委員を選定して此事に当らしめ、堂々たる歩調を以て新問題の解決に向つた。降つて十月二十七日上野精養軒に於て開かれたる秋季総会に於ては満場一致を以て左の決議をなした。
 本会は我国に商業大学の設置の必要を認む、而して此の目的を達せんがために、臨機の処置をなすことを常議員会に委任す。
 斯くて同窓会は運動の中心となり、策源地となり、趣意書を公にし校長と商議員とを此問題に結びつけて離れないものとした。運動の中枢となつた同窓会は、会誌十五号(明治三十四年四月三十日)に於て「商業大学の必要」なる宣言書を載せて此を公に計つた。商業教育の世に認められざりしを慨し「真正の商人を養成せんには其の教育程度の高きもの在らざる可からず、然るに教育の淵源・人材陶冶の根本に於て已に同位ならしめざるは適当の学生《(制)》にあらず、宜なるかな商業上の徳義頗る薄く、其の人材甚だ乏しく、国力従つて富貴ならず、民度極めて賤微なるや」と断じ、世界の大勢よりして商業大学の「設置は大学の分科として新に設立するなり、或は現今の高等商業学校の制を革むるなり、一に当局者の取捨に委すも、速に国家須要の学科なるを諒せられ、之が設立に着手せられんことを訴ふるものなり」と絶叫した。越えて三十五年五月、渋沢栄一は欧米漫遊の途に就き、其途次桑港・シカゴ・紐育・倫敦・里昂・新嘉坡・香港の各地の同窓会員歓迎会に臨んで商業大学の必要を叫び、各地出身者は母校の為にあらゆる努力を為す事を誓ふた。斯くして海外よりも、亦伸びんとする一橋に対し幾多の皷舞激励が伝へられたのである。
  伯林宣言
 更にまた、此処にこの運動に一大転機を与へたるものは、海外に研鑽を積んで居た本校出身諸教授が、明治三十四年二月二十四日を期して伯林に集合して、本国に於ける母校の昇格問題につきて凝議を遂げた。一橋に「伯林宣言」として伝へられるもの即之である。そは平常諸教授の理想に存する最高等なる商業教育の府は如何なるものなるべ
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きや、之を日本に設立せんとせば如何なる手段に出づるべきや等を研究したるものにして、会するもの石川巌・石川文吾・神田乃武・滝本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一の八教授、石川文吾の報告によればその際に於ける討究事項は次の六項であつた。
 一、現時日本国の趨勢は、高等商業学校以上更に高等なる商業教育の機関を必要とするや
 二、若し必要ありとせば如何なる程度の学校を設くべきか
 三、右学校と現存する他の学校との関係を如何にせむか
 四、其学校の学年・学科分類・入学者の資格等を如何に定むるか
 五、現存高等商業学校を如何に処分すべきか
 六、上記の最高等なる商業学校の設立の必要を認めたる上に於て、之を事実ならしむる為に如何なる策を執るべきか
 第一問は出席者一同固より其の必要を認め、満堂一致にて可決決定を見た。
 第二問については「今後作り出さるべき最高商業学校は、全然従来の帝国大学と同程度とし、高等学校の上位に置き、実質に於ても能ふだけ従来の帝国大学と同等ならしむべし、と云ふ事に満座決議仕候」と報告されて居る、第三問は、慎重を要する件の一であり、論多岐に渉つたが結局、従来の大学内に更に一科を加へて商科大学となすを最上の策と決議された。第四問に対しては、其の要領と認められたる点につき、左の如く定めん事を望む旨一致した。
 (一)商科大学にありては学年を制定せず、三年以上籍を当科に連ね、各部に特有なる必修科目を履修せる者は、其の部に於て卒業試験を受る資格あるものとす
 (二)商科大学内に左の五部を置く
 商業経営部・銀行部・交通部・保険部・商政部
 商政部は、主として領事其他商事に関する官吏の養成を以て目的とす。
 (三)商科大学は高等商業学校と何等の聯絡を有せず
 (四)商科大学は高等学校卒業生に限り無試験入学を許す、他は同校卒業生と同程度の入学試験を行ふ
 (五)商科大学の課目を必修・随意の二課目に分つ
 第五問の従来の高等商業学校の処分に就ては「第三問中の議に上りたる通り、目下の商業界は之が存在を必要と致候に付、従来の儘にて存在せしめ、只専攻部は商科大学設立の上は其の目的に於て是と類似するを以て、之を廃止すべき事に決定相成候」と報じて居る。
 第六問は、商科大学設立の必要を極論した意見書を草し、出席者一同之に連署し、併而同大学に課すべき学課目・時間割等の梗概を編製し、二者を刊行して、文部高等官・高等商業学校長・同評議員、其他朝野の斯道に関係ある人士に示して、商科大学の必要を一般の輿論に上らしむる事に勉むる事とした。
 先づ第六の決議に従つて、「商業大学設立の必要」なる一文と、時間表が、前八教授の署名を以て、同窓会々誌第十五号に掲げられた。同窓会の調査と共に、問題の具体的解決を示す精密な調査を有するとい
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ふ自覚から、実行期に入つた明治四十一年頃の人々をして「吾等は命令一下直に大学に改造する事を得る」と叫ばしめた一つの大きな仕事であつた。
  諸教授帰朝、一橋面目を改む
 之等諸教授は相ついで帰朝した。佐野善作は三十三年十月に帰朝するや、直に十二月の同窓会臨時常議員会に出席して、商業大学設立の必要を説き、次いで三十四年春全国視学官会議に於て、矢張り商業大学の必要を絶叫し、一橋及当局者外の人々に対して広く最初の批判を仰いだ。
○中略
    三 対外部的事惰
  為政者の謬論
 内にはかくの如く熱烈なる火が燃えて居たにもかゝはらず、外はあまりにも一橋に対して冷淡であつた。商業教育は高等商業学校を以て足り、之を以て吾国に於ける最高商業教育機関として満足して居た、且つ又商業に対する世間の軽蔑は甚しいものがあつた。後年帝国大学法科に商科の設けられんとした時、当時の帝大が是を歓迎しなかつた事実に依つても、当時の商業が如何に白眼視されて居たかを知るに充分である。世の識者と云はれ先覚と認めらるゝ人でさへ、商業に対しては深い理解を持たなかつた。三十四年五月に開かれた地方商業学校長会議に於て外務大臣加藤高明がなした演説は、商業大学の目的を誤解して商政者の養成にあるとし、従つて商政に参与するものを多数に産出するが如きは不要だと唱へ、文部次官梅謙次郎の如きは、新しき産業の形式について全く理解を欠いて居つた。之に対して同窓会は第十六号の会誌に於てその全文を掲げて之を反駁した。
 然し乍ら彼等の謬論は長く続く事はなく、月と経ち年と過ぐるに従つて霧の如く散じ去つて、一橋の唱へる商業大学論には少くとも或根拠のある事を否まざるに至つた。
○中略
  日露戦争起る
 斯る間に三十四年六月第四次伊藤内閣は仆れ、第一次桂内閣此の後を承け、政界の波瀾を漸くにして鎮静すると共に、財政事情も亦幾分の余裕を示して来た。此頃には一橋の主張に対する無智な、頑強な反対の声も次第に鎮り、一方一橋を中心とする人々の努力に依つて輿論は巧に指導され、少くとも識者の間に於ては、一橋の主張に無理解な暴論を聞く事は無くなつた。
 障碍は霧と散じて時は愈々一橋に近づかんとした。商業大学が形を取つて我等の前に現はるゝのも遠くはあるまいと思はれた三十六年、満洲の野に風雲怪しく動いて、闔国の大難は迫つた。今は国を挙げて此の難に当らなければならない。愛国の心火に燃えた一橋は、しばしは総てを放擲して国のために動いた。
 三十八年、戦は終つた。国民は皆戦勝の歓に酔ひ、其の所を忘れて熱狂したが、一橋は玆に再び其の行く可き道に立ち戻つたのである。
 戦前既に機熟して実行期に入らんとした商業大学問題は、戦後の経
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営益々商工業の発展を促すと共に、一段の有力なる根拠を加へ来り、人をして殆んど議論の余地なきを思はしむるに到つた。四十年春には更に同窓会誌第五十号の附録として、新帰朝の教授堀光亀の筆に成る商業大学必要論を発表し、欧米諸国の大勢を引証して、我国商業大学設立の急務なるを説いた。時勢斯の如くなるにも拘らず、当局の固陋なる、正論の向ふ所を察せず、一橋三十年の苦闘を弊履の如くに捨て去らんとした為め、此処に失望と憤懣は遂に大爆発を来して、申酉の変を見るに到つたのである。


一橋風雲録 浅野源吾著 第四―七頁 明治四二年六月刊(DK260101k-0011)
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一橋風雲録 浅野源吾著  第四―七頁 明治四二年六月刊
    第一章 高等商業の起源及び商大問題の由来
○上略
若し夫れ一橋高等商業学校を中心とせる商科大学問題を検す、今日迄実に既往十年間の歴史を有するものにして、同問題の発議者は同校商議委員として功労最も多き渋沢男なり。明治三十三年男が還暦の齢に際し、高等商業学校関係者が、男の為めに祝賀会を開ける席上、男が明治初年頃商法講習所と称せし時代より、帝国唯一の商業教育所として、常に社会の進歩に伴ひ来れる同校在来の歴史に省み、更に我国将来の商業の発展に鑑みて、漸次同校の組織を改善し、我国商業教育最高の機関たる実質を挙くるの希望を陳述したるもの、実に即ち商科大学問題の濫觴たり、当時社会は未だ此等の問題に対し何等耳を傾くる者なく、尚ほ同校商議委員の間にも一顧の価値なしとして反対せし人も尠からず。益田孝氏の如きは実に其一人なりき。然れども此の希望は又実に同校出身者一同の希望なりしを以て、男の演説は熱心に此等の人々に依りて歓迎せられ、其結果同校出身者熱心なる商業大学制度の研究となりたり。而して当時恰も伯林に遊学しつゝありし同校出身の滝本教授は、同地に於て特に母校の為め、該大学の制度と最近商業教育の調査研究を申合はせし程にて、此精神は以心伝心的に爾来同校出身者の間に一貫する傾向を呈し、故矢野次郎の校長時代に於てすら同校出身の教授間には、校長の処置を全く緩慢なりとして遂に衝突を来せし事あり。而して一方に於て此等留学生諸氏は漸次其調査の結果を齎らして帰朝し、世人に対して商科大学の必要なる事を説きたると同時に、他方に於て従来反対の位置に立ちし商議委員等も、時世の推移と共に漸次之が必要を認め来りつゝあるに際し、恰も教育事業に関して一見識を有する久保田譲氏、桂内閣の一員として文相の椅子を占むるに至れり、由来同氏は学制改革の意見を抱持して、単独大学制度を素論とする人なりしかば、高等商業学校側にては此の機逸すべからずとなし、同氏に依りて数年来の素志を実現せんとし、之が調査の歩を進めたるも、成案将に成らんとするに際し、同氏は帝大教授等の言論に関して突如職を辞するに至りたるのみか、其後数年間は日露の戦争起り、勢ひ同問題は暫時中止の姿を呈するに至れり。 ○下略