デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
3款 高等商業学校
■綱文

第26巻 p.638-641(DK260102k) ページ画像

明治34年7月8日(1901年)

是日栄一、当校第十一回卒業証書授与式ニ臨ミ演
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説ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK260102k-0001)
第26巻 p.639 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
七月八日 曇
午前九時高等商業学校卒業証書授与式ニ列ス、一場ノ演説ヲ為ス ○下略


東京高等商業学校同窓会会誌 第一七号・第一四―二一頁 明治三四年八月 高等商業学校卒業証書授与式(DK260102k-0002)
第26巻 p.639-641 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一七号・第一四―二一頁 明治三四年八月
    ○高等商業学校卒業証書授与式
我が高等商業学校卒業証書授与式は、去る七月八日午前九時より、同校講堂内に於て挙行せられたり
此日参列の来賓には約数十名にして、定刻に及んで駒井校長は開式の旨を述べ、続いて左の壱百弐拾弐名へ対し卒業証書を授与されたり
   ○氏名略ス。
左に掲けたるは、卒業式に於ける菊池文相祝詞及び渋沢男の演説なり ○中略
                 男爵 渋沢栄一君 演説
臨場の諸君、本日当学校の卒業証書授与式に当りまして、私に一言の祝辞を申述べろと云ふ校長よりの依嘱でございます、それで此演壇に登りました次第でございます
私は本校の商議員を永年勤め居りますからして、此卒業証書授与式に対しては、殆と毎回罷出て一言を申述べると云ふ例に相成つて居ります、所謂相手変れど主変らず、いつも私が此演壇に登らぬことはないと申して宜いくらゐでございます、殆と言ひたいことは皆な言尽したで、今日は胸中無一物と言つても宜いくらゐである、併し追々に此商業教育が進んで参つて、既に今日も専攻部で十二名、本科で八十七名及び教員養成所と云ふものに於ても二十何名の卒業生を出すと云ふやうな盛の有様になり来りましたのは、我々ども永年商業教育が総ての商業家に必要であると云ふ希望か、玆に貫徹いたしたものと思ふて、毎回此卒業証書授与式に出ますのを、此上もない喜ばしきことに思ふて出て居ります、それで既に商業に対し、若くは商業教育を修める学生に対して申述べますことは尽して居りますから、今日卒業されたところの生徒諸君にもどうぞ是から先き商業界に出て思想を堅実にし、行為を敏活にする所の商業者になつて、今日萎靡振はぬ商業界をして早く興起せしむるやうにしたいと云ふことを、御依嘱するに過ぎぬのでございます、更に附加へて一言申上げますのは、唯今校長からの報道に、専攻部の卒業生に商業学士と云ふ称号を与へると云ふことに相成つたと云ふ御話でございましたが、是は特に私は喜ばしく感じて、一言を述べなければならぬと考へます、元来商業学士と云ふ称号が果して適応するや否やは別問題であるが、商業学士と言つたら、工業学士とか何とか云ふことになるかも知れないと思ふ、けれともそれは私が玆で批難をするには及ばぬ、何ぜ左様に商業学士と云ふ称号の附いたのを喜ぶかと云ふのに、即ち私は平生に此商業と云ふものが甚だ世の中から軽んぜられて居る、商業の必要と云ふことは誰も言ひつゝある、其必要は口に言ひつゝも心には思はぬ、唯今も文部大臣が商業は
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殆ど平和的の戦争の武器である、又商業者は信用を重ぜねば、決して商業を完全にすることは出来ぬと仰せられた、是は甚だ御尤千万で、文部大臣のみならず、其他の臨場の方々も必ずさう言はるゝに相違ない、併し実際此商業を大切に思ふや否や、未だ私は疑を存して居ります、何ぜと云ふに未だ会の終らざるに、祝辞が済んだからと云つて帰へらるゝと云ふことは、即ち商業を余り重んじない証拠ではないかと思ひます、口では尊重して心では軽蔑すると云ふ様な尊重は有難くないと思ふ、斯る式場に於て何か苦情を申すやうになつては相成らぬが畢竟私は商業を大切に思ふからこそ言ふのである、まあ外の御方は暫く置いて、商業家になりたいと云ふ方面に向つての諸君は能く御聴き下さるやうに願ひたい
斯様な学士と云ふ称号を与へられたのを何せ喜ぶかと云ふと、私は一体虚礼を好む人間でないが、併しながら既に他に法学士・文学士・農学士・工学士・理学士と云ふ称号があつて、特り此商業に於ては学士と云ふ称号がない、昔より在来りの士農工商の階級上から、商売人は卑しいと云ふことを世の中に表白して居る嫌ひがあるから、どうしても之を同等の位置にまで進めるの必要があると、斯く考へた所以である、而して今日は此学校に於て段々の丹精、段々の勤労より、遂に此専攻部を卒業した者は商業学士の称号を得らるゝと云ふやうに相成つたのは、実に喜ばしいことでございますから、此商業界に於ては互に之を紀念と考へて宜からうと思ひます、嘗て私は商業大学と云ふまでに進みたいと云ふ考を持つて、商業家にも等しく学士号のあるやうに致したいと云ふことは、昨年も既に希望を申上げたのであります、まだ其希望が完全に行届いたとは申されませぬが、業に已に世の中が其必要を見て下されたかと考へますると、是ほど喜ばしいことはないのでございます
さて左様に商業の位置の高まること、商業の名称の宜くなることを好むと同時に、御互商売人も亦自から責任を重んじて、未来に大いに力を尽さねばならぬと云ふことを能く諸君に御記臆を願ひたい、即ち私は商業の高まるを望むと同時に、文部大臣より戒められた通り、商業家は信用が第一の必要である、信用がなければ商売は世の中に成立たぬと思ふ、さて其商業の信用を高めるには如何なる手段に拠るか、若し商業家の意思が甚だ軽薄に、挙動が甚だ粗暴にして、即ち思想の堅実と云ふものがなくして、而して道徳と云ふものが進みませうか、若し道徳が進まずに信用を保たうとするのは、尚ほ木に縁つて魚を求むると同じことであります、故に信用を重んずるには即ち商業家の思想を高め、行為を敏活にしなければならぬ、私は唯商業家をして無暗に英雄豪傑たらしむることを希望するのではない、此商業と云ふものは成るべく気位ゐを高くし、行為を飽くまでも剛毅に致すと云ふことを望むのでございます
終りに臨んで今日卒業された生徒諸君に一言申述べて置きますのは、今日の商業界は甚だ不振の時代である、明治二十八九年頃から財政に経済に俄かに膨脹したところの余弊を受け、昨年以来萎靡振はず、度度彼の銀行が破綻したとか、此の商業家が破産をしたと云ふ如く、甚
 - 第26巻 p.641 -ページ画像 
だ好ましからざる声を聞く世の中である、此時代に諸君は商業界に出て、是から商業を実際に練磨されるところであるから、申さば出かける時機は甚だ悪いのであるが、諸君の為めに考へると、寧ろ斯る時機が諸君をして能く励精せしむるのであらうと私は反対に申すのである古人の言葉に「名を成すは多く窮苦の日に在り、事を敗るは毎に因す得意の時」と云ふ警句があるが、困難の時には却つて事業の成立を見得意の際には多く事業を破るものである、二十九年から今日の悲境に陥つたのは、一言以て之を申せば得意の時代に敗れたと考へねばならぬ、斯る時機に諸君は此世の中へ出て、十分なる辛艱を嘗めて、世の有様は斯様だと云ふことを会得したならば、所謂寒中に出た筍で味ひも甘まからうと思ひますから、十分奮励せられむことを希望いたします、更に一歩進めて申すと、今私は英雄豪傑と云ふことを申しましたが、商業家は成るべく英雄豪傑になつてもらいたいと思ふ、去ればとて余り気性を豪放にして磊落なる考へを持つとか、傲慢の挙動があつてはならぬと云ふことは、常に私も戒め、世間も亦左様に希望して居るのである、然しながら前に申す如く思想を堅実にし気性を高尚にせよと云ふのは、唯人に会つて無暗に御辞儀をするやうなことでは相成らぬ、玆は能く咀分けなければなりませぬ、元来英雄豪傑と云ふ言葉は、私は漢学者でないから細かに字句を分析して御話をすることは出来ぬけれども、蓋し文明の英雄豪傑と野蛮未開の英雄豪傑とは自から違ふと解釈して宜しい、私は却つて諸君に対して商業家の英雄豪傑たらむことを望むのである、真正なる地位を持ち十分なる働を為して商業界に立て、其言ふことは一々節に適り、其行ふことが都て宜を得て而して此商業区域に十分なる力を注ぎ、東洋のみならず、西洋にも進んで行くところの英雄豪傑の商業家たることを望むのである、八大家文集と云ふ書に、韓退之か書かれた文章に、苟も大丈夫が志を当世に得た云々とある、丁度商業家も同じである、左れば英雄豪傑と云ふ字は商業界には流儀違ひのものであると観念するには及ばぬ、御互商業家は英雄豪傑になることが出来るものと自から期して宜い、但し太閤秀吉が矢矧の橋で蜂須賀小六を罵倒したとか、漢の高祖が家人の生産作業を事とせずとか云ふ、斯る豪傑に商業者はなつて欲くない、属吏から長官、長官から大臣になれると云ふ英雄豪傑に為したい、事に依ると大臣にはなれるが属官にはなれぬと云ふ人がある、私はどうぞ商業家の英雄豪傑は、属官にもなれ、又大臣にもなれると云ふ文明的の英雄豪傑になつて欲しいと思ふのでございます、兎角に英雄豪傑と云ふものは何か放蕩者か破落漢のやうに思ひ違ひをするから、英雄豪傑の弁解を致して置きます、諸君はどうぞ文明の英雄豪傑になることを希望いたします(拍手)
   ○商業学士号ノ認許ニ就イテハ、校長駒井重格ヨリ明治三十三年十一月十二日附ヲ以テ其筋ヘ伺ヒ中ナリシ所、翌三十四年六月二十七日ヲ以テ認許セラレ、専攻部ノ規定左ノ如ク改定サル。
     専攻部規程第五条ノ次ヘ左ノ一条ヲ加フ
     第六条 専攻部ヲ卒業シタル者ハ商業学士ト称スルコトヲ得
    右規定ハ明治三十六年二月、但書ヲ附セラレテ研究科出身ニモ学士号許サル。(「一橋五十年史」第五二頁)