デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
4款 東京高等商業学校
■綱文

第26巻 p.642-645(DK260103k) ページ画像

明治35年2月9日(1902年)

是ヨリ先昨年末、当校校長駒井重格卒去シ、文部省参事官寺田勇吉校長事務取扱ヲ命ゼラレ、次イデ是月四日校長ニ任ゼラル。当校教授ハ之ヲ不満トシテ排斥運動ヲ起ス。仍ツテ菊池文部大臣、穂積陳重ヲ介シテ栄一ニ説諭ヲ依頼セリ。是日栄一、当校教授五名ト会シテ調停ニ努ム。次イデ四月、東京高等商業学校ト改称ス。


■資料

東京商科大学一覧 昭和八年度 同大学編 第一六頁 昭和八年九月刊(DK260103k-0001)
第26巻 p.642 ページ画像

東京商科大学一覧 昭和八年度 同大学編  第一六頁 昭和八年九月刊
    第二 沿革概略
明治三十四年
 十二月 校長駒井重格卒去シ文部省参事官寺田勇吉校長事務取扱ヲ命セラル
明治三十五年
 二月  文部書記官兼文部省参事官寺田勇吉校長ニ任セラル


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK260103k-0002)
第26巻 p.642-643 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
二月五日 晴
○上略 菊地文部大臣ヨリ来書アリ、即時返書ヲ送ル
   ○中略。
二月七日
○上略 高等商業学校ノ事ニ関シ教員ニ伝語セシム、此日モ風邪快方セス褥中ニ在テ事務ヲ執ル○下略
二月八日 曇
○上略 十時穂積陳重来リ、商業学校教員ノ説諭ニ関シ大臣ヨリノ依頼アリシ趣旨ヲ伝ヘラル、依テ八十島親徳ニ電話シテ明日教員数名ニ会見ノ事ヲ申遣ス、此日モ風邪全愈ニ至ラス ○下略
二月九日 晴
○上略 十時商業学校教員福田・関・東・佐野・村瀬ノ五氏及八十島親徳同伴ス、面会ノ上頃日来校長撰任ニ関スル顛末ヲ談話シ、切ニ過激ニ失スヘカラサル事ヲ忠告シ、且ツ大学タラシムヘキ方法ヲ協議ス、午飧後一同都テ領意シテ去ル ○下略
   ○中略。
二月十八日 晴
○上略 十一時桂総理ノ官舎ヲ訪ヒ ○中略 菊地文相ニ面会シテ、商業学校ノ事ヲ談ス ○下略
二月十九日 曇
○上略 十時兜町事務所ニ抵リ ○中略 商業学校教員関・佐野二氏来話ス、昨日菊地大臣トノ談話ヲ伝フ ○下略
 - 第26巻 p.643 -ページ画像 
   ○中略。
二月廿二日 晴
○上略 十時文部省ニ抵リ、岡田良平氏ニ面会シテ商業学校ノ事ヲ談話ス十一時兜町事務所ニ抵リ ○中略 福田徳三来リ、学校ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
三月六日 晴
○上略 十一時文部省ニ於テ岡田良平氏ニ面会シ、高等商業学校ノ事ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
五月七日 晴
○上略 九時文部省ニ抵リ、菊池大臣ニ面会シ商業学校ノ事ヲ談ス ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三五年(DK260103k-0003)
第26巻 p.643-644 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三五年   (八十島親義氏所蔵)
二月三日 晴
○上略
夕福田徳三氏来訪、其要談ハ、旧臘駒井高等商業校長死亡後寺田勇吉氏ヲ事務取扱ニ任命セルカ、徳望学識ナク到底不適任ナルニ付、教授諸氏ハ文部当局ニ多少忠告モセシニ拘ハラズ、愈近々大臣より渋沢商議委員ニ一応ノ相談ヲ試ミタル上ニテ本官任命ノ模様アルニ付、至急渋沢男ニ一同ノ意向差含ミヲ乞フト云フニアリ、直ニ書中ニ認メ同男ニ呈ス
○下略
二月四日 晴
○上略
商業校長ノ件ハ、昨日男爵出先ヘ文部大臣代理来訪相談アリシ故、寺田氏ノ人物ハ詳知セサレトモ、同校長ハ最モ徳望学識アル人ヲ以テ充テラレタキ旨陳ヘ置カレシ由ナルニ付、尚今朝予ヨリ現任教授中皆大反対ノ旨陳述セシ結果、直ニ同大臣ニ親展書ヲ以テ再考ヲ促カレタリ然ルニ《(サ脱)》夕刻福田・関二氏ノ来談ニ、大臣ハ渋沢男ノ意見ヲ無視シタルニヤ、今午後三時半愈寺田氏ニ確定ノ辞令ヲ交付シタリト、実ニ学校ヲ蔑視シタル処警入《(驚)》レリ、教授諸氏一同ハ之ヨリ大反対運動ヲ開始シ成ラズンハ同盟辞職ノ覚悟ヲ定メタリト、要スルニ文部省カ商業学校ニ重キヲ置カザル点ニハ憤慨セザルヲ得ザルナリ
二月五日 晴
男爵ハ風邪ノ為本日出勤ナシ ○下略
二月六日 晴
男爵本日モ出勤ナシ ○下略
二月七日 曇 陰ニ寒シ
今早朝王子ヨリ電話ニテ招喚セラル、依テ九時廿分ノ汽車ニテ行ク積ニテ車ヲ急カセ上のニ至リシニ、其列車ハ王子ヘヨラヌノナリシ故、更ニ車ヲ雇ヒテ寒天ニ曝サレ谷中・日暮里等ヲ経テ王子ニ至ル、男爵風邪快方ナレド未尚床ニ在リ、要件ハ、商業学校長新任ニ付教師中重立者不平事件ヲ菊地文部大臣憂慮シ、且渋沢男ニ対スル相談向礼ヲ失セル旨ヲ陳謝シ、且此向フ以上ノ適任者ヲ得バ更ニ取換フル事モ出来
 - 第26巻 p.644 -ページ画像 
ヌ次第デハナキ思入リナルヲ以テ、不平教授連ナダメ方ヲ穂積博士ヲ経テ男爵ニ依頼アリシ由ニテ、男爵自ラモ大臣ガ学校長任命ニ重キヲ置カズ、ツマリ学校ヲ軽視スルト且自己ニ対シテモ礼ヲ失フヲ不愉快ニハ感スレトモ、今更大物議ヲ起シ、教師自ラ引ク引カヌトカ、生徒中ニ動揺ヲ生スルモ又ホメタ話ニ非ル故、己レ中間ニ立チ逐テ諸氏ノ意ノ達スル時機モアルベシトノ信任ヲ以テ、此際円滑ニマトメ度考フル旨ヲ一同ヘ前以テ伝ヘ呉レ度、尚己レ全快次第直接ニモ面話スヘケレトモ不取敢申伝度トノ事ニ付、午後商業学校ニ立寄リ関・福田・東佐の四氏ニ伝言ス、一同了意、此処粗暴ノ行動ハサケ逐テ男爵快愈ノ上面話ヲ乞ヒ度ト申出ツ
○下略
二月九日 日よう 朝曇午後晴
商業学校教授東・関・佐野・福田・村瀬五氏愈今朝王子ニテ男爵ニ会見ノ事トナリシニ付、予モ午前八時四十分上の発列車ニテ同行ス、男爵ノ意気ハ一同ト全ク投合、要スルニ一同ノ不平ヲ言フハ必スシモ寺田其物ニハ非ズ、文部当局ガ学校ヲ蔑視スルト、一ニハ商業大学ニ拡張スル大切ノ時機ニカヽル軽々敷校長ヲ得ルハ時機柄最不幸トナルニアルヲ以テ、一同ハ区々校長云々ノ感念ヲ去リ、男爵ニ仲裁ヲ大臣より依頼シタルヲ幸ヒ、男爵ハ一同ノ不平ヲ鎮ムルト同時ニ、例ノ大学問題ニ付テ菊地大臣ニ追ルベシトノ事ニテ一同快諾ス、昼食ヲ被出雑談一時半頃退散、所謂男ノ徳望ノ勢力如此、穴勝不平連ヲ単ニ不平家トシテ攻ムヘカラサルナリ
予ハ帰路穂積氏訪問シ、本日ノ結果ヲ報告シ、尚商業大学設立ニ付テノ博士ノ意見ヲ叩キ、夕飯後九時帰宅、入浴


一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第五三―五四頁 大正一四年九月刊(DK260103k-0004)
第26巻 p.644-645 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第五三―五四頁 大正一四年九月刊
 ○第三期 専攻部設置より申酉事件の落着まで
    三 対外部的事情
○上略
  駒井校長卒去
 三十四年十二月九日校長駒井重格は現職の儘卒去した。十一月二十九日迄例の如く出務して居た彼の死は、全く寝耳に水の出来事であつた。小山前校長の偉勲の後を受けて専攻部を二年に延長し、学士号の新設に努力し、一橋を熱愛し、公孫樹下に骨を埋めた唯一の校長、一橋は如何にしても彼を忘れ難い。寒風吹すさぶ谷中で狭い斎場から溢れ乍ら彼の校葬を営んだ時、学生代表が弔文を読んだ時学生は又も涙をそそられるのであつた。
  新校長に対する不満
 彼の死は一橋を再び悲しみの淵へと沈ませた。彼の後任として文部省参事官寺田勇吉が任命された。発展しかけた一橋としては学殖にも経験にも我邦の最高商業機関を指導するに足るの士を求めて居たのに商業教育に一片の理解もないと解せられて居た官僚的教育家を迎え様とは! 大なる人格を以て誘導されたる駒井校長の後任として文部当局の措置があまりにも憾めしかつた。一橋としては今又清水某の事件
 - 第26巻 p.645 -ページ画像 
を繰り返したくはなかつた。然し一・二教授の中には不満遣瀬なく、後年彼をしてその経歴談中に
 翌年二月四日同校長に任ぜられ、高等官二等に叙せられた。抑も東京高等商業学校は排外的遺伝病の潜伏する処にして其の誰たるを問はず外部より任命せらるゝ者は、必ず教友より排斥せらるゝを免れず。況んや余の如きは、学博からず識高からず、才略の人を服するもの無きに於てをや。校長の命を拝すると雖も久しく其の地位を保つ能はざるは、余の不明なるも亦夙に洞察せし処也、果して教官数名相結託して、一商議委員の後援を得て、事に対して余を排斥せんと企てたり。
と書かしめたる事さへあつた。
 然し此の事が大事とならざる八月彼は休職となり、次いで東京帝国大学教授法学博士松崎蔵之助が校長として兼任を命ぜられた。兼任なるが故に、よく一橋をして大ならしめんとする努力の有無に対しては一部に疑を懐くものがあつた。然し乍ら学校の為めに捧げ、一橋を熱愛しつゝ逝つた駒井校長の後任としては、新校長に対しても矢張り前校長の如くあれとの望みを多くの学生は嘱せざるを得なかつた。
○下略


一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 附録・第一二頁 大正一四年九月刊(DK260103k-0005)
第26巻 p.645 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  附録・第一二頁 大正一四年九月刊
    一橋五十年史年表
明治三五《(年)》  四《(月)》 本校を東京高等商業学校と改称す