デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
4款 東京高等商業学校
■綱文

第26巻 p.645-649(DK260105k) ページ画像

明治36年6月20日(1903年)

是日当校同窓会員有志、元校長矢野二郎ノ病気全快祝賀会ヲ帝国ホテルニ催ス。栄一之ニ出席シ、祝賀演説ヲ為ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK260105k-0001)
第26巻 p.645 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
六月二十日 曇
○上略 午後五時帝国ホテルニ抵リ、矢野次郎氏ノ病気全快ノ祝賀会ニ列ス、食卓上一場ノ祝辞ヲ述フ、来会者二百名余、頗ル盛会ナリ ○下略


矢野二郎伝 島田三郎編 第九九―一〇二頁 大正二年五月刊(DK260105k-0002)
第26巻 p.645-646 ページ画像

矢野二郎伝 島田三郎編  第九九―一〇二頁 大正二年五月刊
 - 第26巻 p.646 -ページ画像 
 ○本伝
    二二 快復祝賀会
一時人をして殆ど絶望せしめたる二郎が、万死に一生を回へして快復の報を伝へしかば、朋友は愁眉を開き、門生は歓呼したり、此に於て明治三十六年六月、東京・横浜に居住する門下の有志先づ相謀りて、恩師の病気快復を祝せんが為めに、東京に於て祝賀会を開かんことを議したるに、皆奮て之に賛成せり、元来此挙は唯門下が恩師病気の快復祝賀と、国手の熱心治療に対する感謝との誠意を表せんが為めに企てたるものなるを以て、其通告を同窓の間に限りしが、協議の進行に随ひ、之を耳にしたる交友・知人、特に列席せんことを望みて申入るる者甚多かりしかば、此挙の範囲を拡めて歓情を頒つべしとの議に決したり
二郎及其家族、並に高木・野村二国手を正賓として、六月二十日帝国ホテルに此会を開けり、門下の各地に住する者近くは横須賀・足利・宇都宮より、遠くは名古屋・大阪、其他関西・東北・北海道より特に出京し、当代の名士朝野の別なく衷心の歓喜を表して来会せり、政治家あり、外国公使あり、実業家あり、専門の学者及び技術家あり、二十六年の慰労会に比するに更に幾倍の盛況を呈したり
午後六時三十分食堂を開きて正賓を上席に延き、会食将に終らんとする時、第一回の卒業生成瀬隆蔵は会長席より立ちて開会の辞を陳べ、二郎快癒の祝意を表し、両国手治療の奏効を感謝し、且来賓に挨拶を述べ、次に男爵渋沢栄一は学校既往の事歴に附帯して二郎過去の功績を陳べ、更に学校以外の教育が斯くの如き人格に待つの必要を説き、左の一段を以て其演説を結べり
 一体此教育といふものは学校教育丈けで満足であるかと尋ねると、否、ソーで無い、既に普通教育に於ても学校以外に家庭といふものがあつて、其父賢明で其母貞潔で良い家庭を組み立てねば、縦令学校は良くても良き子弟は出来ぬと、教育に従事する人は不断言ふて居る、今高等学校といふもの、又は其他にも種々なる学業を授くる校舎は沢山ある、併し商業者の家庭といふものは、唯賢明なる父と貞潔なる母と許りで組立てる訳には行かない、矢張り先輩が始終注意を致すのが即ち商業上の家庭と言はねばならぬ、或は会社とか銀行とかいふやうなものも、或る場合に此商業上の家庭たることを得ますが、熟々世の中を見渡すのに、此銀行なり会社なりが、果して其の善良なる家庭たることを得るもの幾何ぞと言はねばなららぬ、此時に方て矢野君の如き世の中の酸いも甘いも嘗め尽した人が、十分なる経験と十分なる親切と、又之に加ふるに君の奇警の言語を以て人の骨を砭することがある、斯る種々なる天稟の才能を以て、良い家庭を学校以外に造つて、吾々商業界を学校教育以外に於て、今一層高めることに努めて戴きたいと望むのでございます、故に今夕特に矢野君を祝するは、矢野君の全快は唯御目出たいと言ふばかりでは無い、幸に御健全になつたを期として、更にモー一層の重荷を負背はせたいと私は思ふのでございます
○下略
 - 第26巻 p.647 -ページ画像 

竜門雑誌 第一八二号・第四〇―四二頁 明治三六年七月 ○矢野次郎氏快気祝(DK260105k-0003)
第26巻 p.647-649 ページ画像

竜門雑誌  第一八二号・第四〇―四二頁 明治三六年七月
○矢野次郎氏快気祝 高等商業学校出身者の主唱に係り、朝野紳士の賛同を得て発起せられたる、高等商業学校に永く校長として令名ありたる本社客員矢野次郎氏の病気全快祝賀会は、六月二十日午後六時より帝国ホテルに於て開催せられたり、正賓矢野次郎氏及家族は勿論、氏の病痾治療に専ら力を尽したる高木医学博士及野村虎長氏等を陪賓として案内せり、主人側よりは遉に内外に多数の知己を有する矢野氏のことにもあり、且つ親しく氏の陶冶を受けた子弟の今や多くは実業界に重要の地位を占むることゝて、朝野名士の出席せるもの無慮三百余名に達し、其重もなる向は大隈伯・川村伯・榎本子・青淵先生・金子男・石黒男・三井三郎助・三井養之助・阪谷芳郎・浅田徳則・益田孝・早川千吉郎・木村清四郎・朝吹英二・団琢磨・有賀長文・飯田義一・園田孝吉・豊川良平・佐々木勇之助・江原素六・牧野伸顕・島田三郎・大岡育造・増島六一郎・稲垣満次郎・梅浦精一・アルヴイン・暹羅公使ヒヤラジヤヌブラバンド等諸氏にして、席定まつて宴酣なるの時、当日の会長たる成瀬隆蔵氏起つて開会の辞を述べ、矢野二郎氏が三十二年大患に罹られたるに、幸にも九死に一生を得て今や全く平癒を見るに至りたれば、之を祝すると共に、治療の任に当られたる高木博士等に謝意を表するため本会を催せしに、斯く朝野貴顕の多数来会せられたるは、本会の幸栄とする所なりとの旨を述べ、続いて青淵先生起つて
 先つ矢野氏病気快癒の祝辞を述べ、更に進んで「矢野氏の交際広きは今夕の会合を以ても知るべく、即ち来会者中には政治家あり、財政家あり、学者・技術者・商業家・教育家ありて、あらゆる方面の人物を網羅せざるはなし、是れ畢竟氏の徳高き所以なり」と述べ、更に進んで「特に余が感激するは、余の本業とする商工業に対し氏の貢献したる功績著大なるものあるは、余の忘れんとして忘るべからざる所、即ち氏が商工業の根原たる商業教育に向つて、十八年の長き終始一貫拮据経営有用の人材を輩出せしめたるは他に類例を見ざる所なり」と語り、明治七年始めて商法講習所なるものを設けてより以来、氏が専心一意商業教育の振興に努力したる事蹟を語り、就中氏の功績として最も感嘆に堪へざるは、氏と之か薫陶を受けたる子弟との間柄にある旨を述べて「学校教育の変遷に伴ひ、師弟の関係旧来の如く親善ならざるに反し、独り矢野氏と卒業生との関係は先人の師弟に於けるか如き美風を存し、氏の卒業生を見ること慈子の如く、遂に能く社会に立つて方向を誤らず、有要の材たるに至らしめたり、是れ又偉大の功績と云はざるべからず」云々、是れより氏の事歴を詳細に語り、尚今後再び倍旧の努力を請ふ旨を述べられたり
右終るや大隈伯爵は起つて
 先づ祝辞を述べ、次に矢野氏との関係より説き起し「余は三十一年前、井上伯及渋沢男の紹介にて矢野氏に面接したるが、始めは江戸ッ子の軽薄才子として信を措かさりしに、爾来屡々氏と接してより
 - 第26巻 p.648 -ページ画像 
余が初めの観察頗る誤れるを窃に悔ひ、世上多くは時勢の変遷に伴ひ恰も浮萍の如く変転し、反覆表裏常なきの間に処し、氏は能く時流と行を共にせざるの人と為りを発見するに至り、玆に敬慕禁する能はさるの念強く、後更に故文部大臣の邸に於て氏の商業教育談を聞き、愈々以て氏が得難きの人材なるを知りたり」とて、是より氏の功績を大に賞揚し、商業界の母なりと断定して憚からさる旨を語り、余も近時実業教育に多少関係を有するに至り、氏に負ふ所少からざる由を述べ、更に氏が商業学校長として如何に適任たりしかは氏が退職後殆ど一年毎に校長の交迭あるを以ても知るに足るべきを語り、続ひて氏が卓見の適中せること、師弟間の関係等に就き比類なき旨を述べられたり
最後に大隈伯には、氏の病気快癒の祝意と前途の希望とに対し祝盃を挙んと語り、伯の発声にて一同三鞭を捧げて矢野氏万歳を和唱せり、右終て曾禰大蔵大臣の祝詞を朗読し、右終るや矢野二郎氏は謝意を述ぶるがため、満場崩るるばかりの拍手に迎へられて起ち、円転洒落の弁を以て
 本日は図らざる盛宴を以て余の恢癒を祝せられ欣喜に堪へず、之に対し種々謝辞を陳述せんと欲すれど、本日は極めて簡単に謝意を表せんとす、即ち「ありがとー」にて数百言の深意を含むものと解せられんことを望む、又只今諸君より種々称揚せられたれども、余は何れも夢の如く感せらる、有体に云へは当初何人も遣手のなかりしため其任に当り、遂に抛出されたるのみ、云々
と述べ、引続き委員渡辺専次郎氏は起つて矢野氏の主治医たりし高木博士及野村虎長氏に対する謝辞を述べ、矢野氏の健康を回復し今日あるに至りしは全く両氏の功に帰せざるべからざる旨を語り、続いて高木兼寛氏は起つて
 先づ当日の謝意を表し、曩に矢野氏が発病以来の経過を語り、氏か陋屋に住居し、居室不潔にして樹木は鬱茂し、空気日光の流通悪しきこと甚だしき所に居住せしより、大に健康を害したることを語りて、斯の如くなるにも拘らず、氏は容易に是等の衛生法に頓着せさるため、夫人に説いて樹木を伐採せしめたること等を説き、終りに「要するに氏の病癒たるは、余輩の功労と云はれんよりは、氏の意思頗る健全なると、夫人の周到なる看護と、並に氏の薫陶を受けたる人々の情意深きとに基因するに外ならず」と述べられたり
右終るや島田三郎氏起つて
 当日の会長及発起人に対する挨拶を述べ、尚矢野氏が功績の偉大なるを語り、商法講習所以来氏が苦心経営したる事跡を詳細に述べ、今日氏の功績に関し皆称揚の辞を吝まざる所以を語り、最後に「矢野氏の功績は斯くも著大にして天下挙つて之を称せざるものなし、何ぞ図らん或一部のものは之を冷視するの感あらんとは余は決して氏のために之を欲するにあらず、然れとも我制度は永く官職を奉じたるものは養老金を給し、或は貴族院議員の如き栄職を与ふ、然るに氏に対しては或は一片の法律を楯とし斯かる恩典なきか如き、公平なる見地よりすれは頗る奇異の感なき能はず、過刻披露せられた
 - 第26巻 p.649 -ページ画像 
る如き要路に立つの人にして彼か如き賛辞を呈せらるゝならば、希くは一片の祝辞に止まらず実を以て之に酬ゐられむことを」云々と述へられたり
続いて全国各地に散在せる知己より寄せられたる祝電数十通の披露あり、之にて式を終り、更に席を別ちて歓談に時を移し、全く退散せしは午後十一時頃にして、近来稀なる盛会なりき