デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
4款 東京高等商業学校
■綱文

第26巻 p.649-655(DK260106k) ページ画像

明治36年11月1日(1903年)

是日栄一、当校ニ於テ催サレタル一橋会第二回大会ニ出席シ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK260106k-0001)
第26巻 p.649 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月一日 雨
○上略 午後一時高等商業学校ニ抵リ、生徒ノ開催スル一橋会総会ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス、大隈伯来会セラル、午後四時畢テ王子別荘ニ帰宿ス


一橋会雑誌 第三号・第一五六―一五八頁 明治三六年一一月刊 一橋会大会(DK260106k-0002)
第26巻 p.649-650 ページ画像

一橋会雑誌  第三号・第一五六―一五八頁 明治三六年一一月刊
    一橋会大会
秋旻大に高うして地に錦楓の麗はしきとき、我一橋会は十一月一日を以て第二回の大会を挙げぬ。客月我れの撰手は彼の強覇と称ふるものを蹂躙して庭球界に擅場の誉を博し、吾等はまた三寸の草鞋に妙義・榛名の乱雲を踏破して日頃の快魂を養ひぬ、校を挙げて数ふれば一千に余る会員が、今方に北斗を衝かんずる覇気の躍々生動するを禁ぜさるもの、亦固より然るべき所のみ、之れが為めに今回の大会が如何に勃々たる生気の磅礴するものありしやは活証前に在り、故らに呶々するを須ゐず。
想ひ起す機運の際会と輿論の統一とは、吾等学生を打て一団とせる此一橋会の創立を促し、組織秩序纔かに成りて、其発会式を挙げたるは実に昨年今月今日ならずや、事たゞ一年の過古に属すれども昨は草創の時代也、今は進歩発展の時代也、借問す、当年身を挺して創立の事に当りし本三の士、玆に第二回の大会に臨みて如何の感かある、されは吾等千二百の会員は方に赫灼たる光明を前途に認めて、相倶に我会発展の新時代に上程せんとす、一片の壮心自ら抑ふ可らざるものあると共に、また一種不可言の快感なき能はざるなり。
此日霏雨蕭々として降り、天候の陰惨なるに加へて新寒俄かに到りしが雨を冒し泥濘を踏んで来り会する者八百余人、未だ定刻に到らざるに大講堂裡は立錐の地を剰さず、午後一時廿分開会。
当日の委員鹿村美久氏起ちて開会の辞を述べ、併せて毎年十一月一日を以て紀念日と定め、一橋会大会は此日に於て開くべきを告げ、降壇す。
松崎会長は満場の喝采に迎へられて演壇に上り、温容靄然しづかに訓示を与へて曰く
 - 第26巻 p.650 -ページ画像 
○中略
右了り、会長の紹介に伴れて登壇せられしは渋沢男爵なり、男が本邦商工業界の先導者として国家社会に致せる三十年の功労と、将又我校の評議員として吾等に与へられたる直接・間接の感化は、今更に言ふも愚か、大講堂に画像を掲けて居常英風を慕へる吾等は、今日親しく謦咳に接するの機を得て漫ろに欽仰の念に堪にざし也。
男が当日の話題は将来の実業界に処すべき吾等の覚悟如何に在り、直截明快の弁を揮つて懇々訓諭せらるゝ所、一として躬ら実業の活世界に実践躬行せられし者ならざるは無し、自ら是れ学者先生が坐上の空論と其撰を異にす、宜しく肝に銘じて慎んで男に辜かざらむことを期す可きなり。
渋沢男降壇し、堂上堂下崩れん許りの喝采声裡に、倏然として現はれたるは大隈伯爵なり ○中略
次に松崎会長は拍手喝采の裡に上壇して、両貴賓の労を謝し、併せて高論は深く会員の心肝に銘ずべきを答へ、鹿村氏一先づ散会を告げ、更に会場を錦輝館に移す、時に午後四時。
同じく四時二十分再び錦輝館楼上に於て開会、茶菓を供す。
○下略


一橋会雑誌 第三号・第一―九頁 明治三六年一一月刊 本校学生に望む(男爵渋沢栄一)(DK260106k-0003)
第26巻 p.650-655 ページ画像

一橋会雑誌  第三号・第一―九頁 明治三六年一一月刊
    本校学生に望む (男爵 渋沢栄一)
学生諸君。今日一橋会の大会に当りまして私に一場の演説を致す様にと、この程御総代でもありましたか御二人の方が御出でになりまして御案内を受けました、デ御承知の通り私は昔から此堂宇とは浅からぬ縁故がありますので、数々此処で本校の学生諸君に御目にかゝることが御座いますが、併し諸君の方では年々新陳代謝をなされまするし、又なされねば困る(笑声起る)、処で私の方では何時もながら相手変らずにおりまするが、諸君の方では今日初めて御目にかゝる御方もありますし、従来の縁故から私もこゝに来会いたしますことは甚だ喜ぶ所であります、由て喜んで御受けを致して、参上致した次第で御座います。それに当日の御話しでは、何方か商業に関係のある御方が二・三人御出での様子に聞き及びましたが、只今伺ひます所では大隈伯爵が御出席といふことで、真打がシツカリして居ますから前座が誠にやりよいので御座います(笑声起る)。
元来吾々商売人は、かういふ処へ登つて演説をすることハ最も慣れて居らぬことで、又アンマリやらぬ方が宜しいかも知れません(笑声)。併し私は随分これまで卒業式なり又其他の会に出まして、学者でも教育家でもないから立派な事ハ申上げられませんが、何とかお話しを致したことが多う御座います。これは前申しました通り最初から容易ならぬ関係がありますので、其止むを得ぬ関係といふものがいつも附纏つて、我から諸君へお話しをすることになりますので、丁度孟子の所謂我れ豈弁を好まんや、已むを得ざればなり、といふやうな次第で御座います、かういふ訳でありますから、又繰言だと思ふ方もありませうが初めての人も御座いませうし、爰に重複ながら申上げるのであり
 - 第26巻 p.651 -ページ画像 
ます。
そこで私の繰言を申せば私が商売人となりましたのハ今を去ること三十年、丁度明治六年のことでありまして、其頃の観念といふものは日本の商業ハ昔の鎖国時代の有様と変つて其区域が大いに拡張せられましたに就ては、什麼しても外国のやうに有力に其区域を広めて行かんでは国の富強ハ得られない、若しそうはせずに小さな国に甘んじて居ることでは、とても商業の発達する見込はない、必ず之を世界的に進めて行つて外国と肩を並べてやらなけれバならぬ必要があると考へました。これは学理からでも何でもない、只当時私がそう思つたに過ぎぬので御座います。デ左様に区域を広めて商工業を進めて行くと考へるには、今迄の如く個々別々にやる様なことではトテモ海外と力を争ふことは六ツかしい、何故と申しまするに向ふの方でハ商売の方法も進んで居りますのみならず、其資本も沢山で其上に皆共同一致してやツて居る。然るに日本ではどうであるかといふに、従来の区域はいかにも狭く力は足りない、デありますから今迄のやうな個々別々に独立して居る有様では、到底外国人の足の下にも達することが出来ぬ、トいふ考へハ私の新発明でも何でもない、当時の人は誰れでもそう考へたので御座いませふ。ソコデかう考へて、爰に生ずる観念は、イクラ資本を大きくして行つても、従来の様に商売人が卑しめられて其地位が軽んぜられ、又商人自らも他人に卑下するやうではいかぬ、尤も武断政治の一千年も続いた後の事で、今日でさへ其影響ハありまするに況して三十年前の有様でハ今から見れば夢にも見らることが出来まいと思ふ姿で、商人ハ縁の下に這ふやうではイクラ資本を集めても骨を折つてもいかん、必ず社会の表面に立て他のものと同等に並んで、所謂社会を維持するには此も重し彼も重しといふ様にならんでは到底駄目だといふ考が、第三に浮んだのであります、これも亦私の新発明ではありません、誰れしもそう考へましたのであります。併し世の中の事ハ社交上にしても又家庭に就て云つても、働きのある賢者が其時に権力を得るのが正当である、智もなく能もないものが何となしに尊重せらるゝといふ道理ハない、当時の商人も其通りで、イクラ智があり働きがあつても人から厚遇せられんで、縁の下に生活して居るといふのは、畢竟世間が此商売を軽んずる為でハあるが、又商業・工業其れ自身が十分に世の中に働くことが出来なかつた為ではないかといふ考もありました、果して然らば之に対して以上の考が合せて強くなりましたので、ソコで明治七・八年の頃から、寧ろ普通教育よりは此の方の教育が大事であるといふ考が起りました、デ本校のやうな商業教育をいたす処の建設が最も必要であるといふことを説いて、遂に私も爰に籍を置いて微力ながら心配をするといふことになりましたので御座います。其初は社会は私共の思つたよりも歓迎して呉れまして、政府も又大に賛成して、築地に商法講習所を開き、百人足らずの生徒を収容して教育を授けることゝなりましたが、今日となりましては此の様な大規模となつて、現に千二百人の生徒を入れ、又千有余の卒業生を出しました。それで今から三十年の昔を回想しまするに、私共凡眼の到底予期せなかつた所で御座います。私も斯様の縁故によつて或機会
 - 第26巻 p.652 -ページ画像 
にハ参上いたしまして演説をし、又今日も諸君に御目にかゝる事が出来た次第であります。
かういふ訳で商業教育の発達ハ前述べました所で御理会になりましたらうが、然し扨其商業教育の根本に立つべき商業ハ如何といふに、実は商業教育の進んで行くほどに進歩ハして居らんので御座います、私共も若し教育上の事に与つて力があるとしますれば、又此の商業の進歩の遅いのにも関係があると云ハねばなりませぬ、これに対しては私も甘んじて其責を受けねばなりませんので御座います。併し乍ら世の中の進歩といふものは、決して学問の進むが如く行くものでハない、学問と並行して物質的に進歩して行くものでハないと云ふことを考へて戴きたい、デ今後商業の振興を計るにハ、是非共十分に教育ある人達の手腕を俟たねバならぬのでありますから、爰に居らるゝ方々が学成つて他日実業界に出て其目的とせらるゝ所に力を尽さるれは、大に歓迎する所であります。兼て卒業式にも申しました如く多くの学生が実業界に出て来る為めに、供給過多になる、社会にあり余るやうにならぬかといふ懸念が、学校にも亦世間にもあるかも知れんが、私は断じてそうではないと申しまする、即ち迎ふべき社会はまだまだ多い、旦那でも番頭でも手代でも、其向き々々に従て適当な人を用ゐやうとならバ、恐らく何百万人を拵へても足りないと思ふ。此学校でも学生の数が近年非常に増加したといふのは、寔に喜ばしいことではありますが、唯爰に注意しなければならぬといふのは粗製濫造のことで、之には諸君も十分御注意をなされて、啻に其人数のみならず、学術に於ても品格に於ても、将来実業家として立派な人物を出して戴きたいのであります。
デ爰に一言したいことがありまする。勿論私は学問に充分な実験もなく、また諸国の取調べをもして居ませんが、昨年の欧米旅行中、亜米利加・英吉利・独逸の学問の有様を一覧しましたから、之に就いて一言しますれば、亜米利加は……勿論其観察ハ雲煙過眼でホンの見わたした意見を、別に識者にも質さず卒爾に申述べることですから、御笑ひもありませうが、私自分の考へる所を述べまする、先づ亜米利加といふ国を見渡しますと、此処は他の方面にも爾うで御座いまするが、殊に実業には一瀉千里の勢を以て進歩して居りますが、或場合には物の進みが全く秩序的・学問的でないことがある、勿論一体の風習が学問を軽んずるではありませんが、独逸のやうに学者風でないのであります。昨年私の旅行中に、亜米利加の或新聞にも、同国で実業界に成功した人の統計がありまして、其れにはホントウの学問から仕上げた人と初めから実際的にやつた人の比較評論がありまして、ホントウの学問をせんで実際の経験から出た人の方がいくらか多いといふ評論でありました。さればとて亜米利加人ハ学問を疎略にするかと言へば、決して爾うではありません、社会凡ての事ハ学問に依らぬ訳には参りませぬが、唯々物事には論理や秩序よりも、寧ろ事業の成功を目的とする方に傾いて居るので、理論にはあまり拘泥しないで、着々と実行して行くといふ事が一般の人の重きを置く所でありまする。
英吉利では人気がコロリと変つて居りまして、凡ての事が昼夜の別の
 - 第26巻 p.653 -ページ画像 
如く違つて居りまする、そこで学校の風習も注入的教育で以て科程を修めさせることよりも、寧ろ円満なる常識を養成する方に重きを置いて居りまする、デありますから学成つて実業界に名のある人は、自然と心が強くて独立自尊の念に富み、英国あるを知つて世界あるを知らずとか、マア英国あつて後に世界があると思ふほどに見識が高い。其一例としては私が或英国の銀行家に面会して経済談をしましたが、先きでは私を全く若輩の取扱ひをしまして、オマエにもそんな事を知つて居るかなどゝ云はれまして(笑声起る)、丁度諸君と私と面会をした様で御座いました、英吉利人は一概に皆こうだとは申されませんが、自負心の強いことが是れでも判ります。斯様に英吉利では総体が、科程を修めて行くよりも、常識を進めて独立の気象を拵へて行くのが、学問の骨子のやうで御座います。偖独乙に参りますと、学問の修め方が英吉利・亜米利加とは頓と違つて居りまして、万事が秩序的で教育制度などは如何にも順序がよく出来ています。私は或工芸に就いて同行の一人を一年許り爰に就学させましたが、其修学の順序が実によく行届いて居る、大学卒業生で一年も日本で実際に当て修業をして行つた者でも、其科程は六ケ月の間是非践まなければならぬ、誰れでも例の青い服を着て、他の者と同様に工場で仕事をさせるのであります、尤も後に設計課といふ所がありまして之に入れましたが、此処では凡そ一年……年限も長くすれば、随分久しく科程を学ばねばなりませぬが、凡そ一年此処で科程を践ませたのであります。其後の手続に就きまして留学者より報告がありましたが、最初に工場長は長くとも是れ丈け、短くとも是れ丈けと其やる可き科程は此ういふ順序に定まつて居ると、チヤンと其科程を践ませ、甚だしきは電気鉄道の車掌も二箇月勤めたといふことであります。されば独乙の学問の一体の修め方を見まするに、如何にも精細で技術的で順序がよく整頓して居りますことは、甚だ亜米利加や英吉利と違つて居りまする。
之を要するに、今の国々の学問の修め方は、宛んど顔の変る如くに様子が違つて居ますが、只其学ぶや真に己れの為めにし、事物に精通して所謂吾が物にするといふ点については、一致して居ると云つて宜しい。之に引替へて我国の実業は如何でありませうか、今日実業界に人物が乏しく、其発達が遅く、又凡ての事に就きまして外国と比べて欠点の多い我が現況を観まするに、我々共のやうに実業界に出て其道に当つて居るものも、又将来此社会に立たんが為めに学んで居らるゝ学生、即諸君の如き方々も、兎角己れの為めにするといふ考が少ないと思ふ。之れは学ぶ本人斗りに責を負はす訳には参らぬ、爰で言つて見れば校長なり職員なりにも願ひたいことがありまするが、学ぶことに就いて、学問を我が為めに勉め、我物にするといふ考へが、悪くすると人の為めに@@といふ様な行違ひになるのは、甚だ不都合なことでありますが、これは今日の社会には往々あることで、殊に日本人に多くはないかと懸念するのであります。
斯う申しますと、現に商売に従事して居る人は皆自己の利益に汲々として、自分の為めにして居るではないか、オマエの言ふことは少し現況に反するではないか、ト云ふ反問も御座いませうが、私は此等の人
 - 第26巻 p.654 -ページ画像 
に対して商売人でも学生でも、其「身の為めにする」といふことの訳を問はざるを得ないのであります。論語に「古の君子は己の為めにし今の君子は人の為めにす」といふ言葉がございますが、此の自他の区別に就いて明劃な判断を下すのは六ツかしいことで、此区別の混乱する所から色々の疑問も起るのであります。欧米の学生が学問を我物にし、日本の方では却つて行違の生ずる懸念がありますのは、畢竟己れの為めにする念の強いと否とが、此差別を惹起すので御座います。
上来述べまする通り、欧米の学問の有様は各々違つては居りますが、諸君も欧米の学生の如く、其学ぶ人の実業家にならうとする精神は、皆学問を己れの為めにし、我が物にし、修めたことは苟くもしない、悉く実地に実着に使つて行く様に、一寸言へば其書いたものを読にも眼光紙背に徹するといふ具合に勉強をして戴きたいのであります。
欧米諸国では、此の観念が各国の風習の異る如く鋭いのでありまするに、残念ながら我国の商業界にも又学生にも乏しいといふのは、寔に歎ず可きことであります、何卒此処に学ばれて居る学生諸君ハ、十分に御注意を願いたいので御座います、初に申しました通り、進み来れる学問に比べて実業の方に進みが鈍い、実業も他のものに比べて進歩が遅いときにハ、日本の国運も決して進歩発達を見ることが出来ぬ、デありますから我日本の国運ハ吾々の双肩に懸つて居ると云つても宜しい、ト斯う考へますれば吾々商工業界に立つて居るものゝ任務ハ太だ重いと共に、将来此任に当る諸君の責任も亦非常に重いのでありますから、諸君が学成りて後も今希望する如くにして、強固健実にやつて戴ねばならぬので御座います。甚だ変つた言葉を以て今一つ申しませうならば、享保時分の頃、荻生徂徠といふ有名な儒者がありましたが、この人が支那の学問を講じて其弟子に誡しめました詞に「諸子百家曲芸の師となるも、道学先生となるなかれ」と言ひましたが、是は書物を読んで勉強しても、世の中に効能のない道学先生といふやうなものになつてはならぬといふことを、呉々も戒めたのであります、此言葉は私も全然同意する訳に参りませぬが、大に味ふ可き所があると思ひます、今此語調を藉りて申しますれば、諸子はこれより学成りて後、たとへ仲買・才取・小売人・行商となるとも、軽薄才子となる勿れ、ト御勧告申したいので御座います。たとへ如何なる職業に就かうとも、軽薄才子となつたり、又は自分は何もせんで他人の事を彼是言ふ批評家などゝ云ふものになつて世の中を了へることになつてハいかぬ、此等は見た所如何にも立派ではありますが、毫しも世に益のないもので、多い程益々害のあるものに違いはありませぬ、諸君は何業にあれ、自分の職務とする所に熱心に執着せではいけぬ、決して他の批評家の如き者になつてはいけぬとカウ思ひまする。甚だ利益のないことを申しまして……これで御免を蒙ります。(拍手喝采)
   ○一橋会ハ当校ノ学生会ニシテ、明治三十五年十一月一日発会式ヲ挙グ。従来当校ニハ学生大会アリテ毎年一回学生一堂ニ会シ、朝野ノ名士ヲ招キテ論説ヲ聴キ、一方ニ於テハ新来会ヲ迎ヘ他方ニ於テハ卒業セントスル者ヲ送ルコトヽセリ。然レドモ其回数少ク全学生ノ統一親睦ニ欠クル所アルヲ以テ、改革ノ主張久シキニ亘リシガ、遂ニ明治三十五年ニ至リテ具体化シ同年十一月一橋会成立セリ。会長ニハ校長松崎蔵之助就任シ、翌年三月ニ
 - 第26巻 p.655 -ページ画像 
至リテ会報「一橋会雑誌」ヲ発行ス、右発会式ニハ栄一欠席セリ。(「一橋会雑誌」第一号ニ依ル)