デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
5款 大倉商業学校
■綱文

第26巻 p.734-739(DK260117k) ページ画像

明治33年9月1日(1900年)

既ニシテ当校開校ノ準備全ク成リ、是日、赤坂区葵町ナル新校舎ニ開校式ヲ挙グ。栄一之ニ臨ミ一場ノ演説ヲナス。


■資料

中外商業新報 第五三九〇号 明治三三年一月二一日 大倉商業学校の経過(DK260117k-0001)
第26巻 p.734-735 ページ画像

中外商業新報  第五三九〇号 明治三三年一月二一日
 - 第26巻 p.735 -ページ画像 
    大倉商業学校の経過
大倉商業学校にては去十四日同校協議員渋沢・石黒・渡辺の諸氏会合し卅二年度分の決算を調査したるに、三十一年度寄附金十万円の内、地所購入・学校建築費等金八万二千四百円余、給費生費に二百八十円余合計八万二千六百八十円余を支出し、其残金並に残金の利金とも合計一万九千七百円余と三十二年度寄附金十万円を受取り第一銀行へ預け入れたり、即ち基本金五十万円の内金二十万円寄附済となれり、尚ほ建築は頗る堅固に八分通り出来上り、六月中には教場の整備も済み九月より入学を許さるゝ運びなりといふ


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK260117k-0002)
第26巻 p.735 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
三月二十六日 晴
○上略 大倉氏ヲ赤阪葵町ニ訪ヒ学校創立ノ事ヲ談ス、石黒忠悳・末松謙澄両氏来会ス、夜九時兜町ニ帰宿ス


中外商業新報 第五五三六号 明治三三年七月一四日 大倉商業学校の設立認可(DK260117k-0003)
第26巻 p.735 ページ画像

中外商業新報  第五五三六号 明治三三年七月一四日
    大倉商業学校の設立認可
大倉喜八郎氏の設立に係る赤坂葵町の大倉商業学校は、昨十三日文部大臣より設立を認可せられ、工事も略ぼ落成を告げたるに付、愈来月十日迄に生徒の募集を終り、九月一日より開校する由


日本新聞 第三九二七号 明治三三年七月二九日 大倉商業学校(DK260117k-0004)
第26巻 p.735 ページ画像

日本新聞  第三九二七号 明治三三年七月二九日
○大倉商業学校 愈今秋より開校する筈なるが、目下入学を申込むもの頻る多く、已に満員となりたるも、同校は教場の許す限りは可成入学者の希望を達せしむる筈にて、八月十一日より入学試験を執行し、九月一日より開校の予定なり


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK260117k-0005)
第26巻 p.735 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
九月一日 晴
午前九時大倉商業学校仮開校式ニ出席ス、生徒ニ対シテ一場ノ演説ヲ為ス ○下略


読売新聞 第八三二二号 明治三三年九月二日 大倉商業学校の開校式(DK260117k-0006)
第26巻 p.735 ページ画像

読売新聞  第八三二二号 明治三三年九月二日
○大倉商業学校の開校式 同校の開校式ハ昨日挙行せり、当日ハ石黒忠悳・渡辺洪基・渋沢栄一の三氏も臨場し有益なる談話を為したる由


竜門雑誌 第一四八号・第三三頁 明治三三年九月 ○大倉商業学校開校式(DK260117k-0007)
第26巻 p.735-736 ページ画像

竜門雑誌  第一四八号・第三三頁 明治三三年九月
    ○大倉商業学校開校式
同校開校式は去る九月一日午前八時より挙行せられたり、今其詳細を記載せんに、生徒及び生徒保証人・教員・講師・協議員其他来賓着席するや、倉西主事先づ来賓其他に対し一場の挨拶をなし、石黒忠悳氏の祝詞あり、次に督長渡辺洪基氏は教育勅語を朗読し、後学校の方針生徒の心得等に付き演述する処あり、協議員たる青淵先生には学問と商業との関係(演説筆記は社説欄にあり)に就て一場の演説を試み、
 - 第26巻 p.736 -ページ画像 
終て来賓其他に茶菓を饗し、十一時半より授業開始式を行ひ十二時に至り退散せり、因に記す同校生徒は本科・予科合計百三十人にて、去三日より授業を開始せられたりと云ふ


竜門雑誌 第一四八号・第一―四頁 明治三三年九月 ○大倉商業学校開校式に於ける青淵先生の演説(DK260117k-0008)
第26巻 p.736-738 ページ画像

竜門雑誌  第一四八号・第一―四頁 明治三三年九月
    ○大倉商業学校開校式に於ける青淵先生の演説
 本編は青淵先生の協議員たる大倉商業学校の開校式に臨み、先生の述べられたる演説の速記なり
私しも本校の協議員の一人でございます、今日の開校式に当つて此処に諸君と御面会を致しますのは甚だ慶賀の至りに考へます、此式を行ふに当つて一言の蕪詞を呈して、学生諸君に希望を述べて置くやうに致さうと思ひます、只今督長より致して諸君の将来に就て、第一に此真正の商売人となるやうに、と云ふ心掛でなけれはならぬと云ふことと、又それには体格が健全でなけれはならぬから此処に注意を要すると云ふこと、又世の中の事物と云ふものは只書を読み文を学ふか学問ではない、万事に注意を尽して真実に学問を修めねはならぬ、又商業者は信用を重んずると云ふことを第一に注意しなけれはならぬ、其他懇に諸君に対して御説諭がございました、私共誠に一々左様ありたいと常に希望致して居りますことてあります、斯る御懇切なる御話のあつた後にもう蛇足を添へる余地はありませぬ、只御目出度いと云ふ一言て引退つて宜しい訳てありますが、只私は商売と学問の関係と云ふことに就て一言述て、宜しく諸君の御熟慮を願ひたいと思ひます
日本の従来の商業と云ふものには、学問か甚た密着して居らなかつたもう一歩強めて言へば商売に学問は要らなかつた、左様な国柄てあつて如何に外国人か来たからと云ふて、さう急に引つく訳は無かりさうに思はれる、其様な御考へは此学校に這入る御方にはなかろうと思ひますが、或は又さう云ふ御考へか生しまいものてもない、殊に商売人と云ふものは学問と縁遠い、兎角に是は独り東洋のみならず、西洋に於ても商業と云ふ者と学問と云ふものとは、何やら密着せぬやうな考かある、是れは間違であつて商売と云ふもの程強い関係を持つて居るものは外にないと言ひたい位に考へて居るのでございます、維新前に於ては左様に学問と縁遠かつたのは無理はない、商売の区域か素より内地だけに行はれ、総へて物品は政府の力で、藩々の政治の方法に依て、運送のことなり、取扱のことなり、役人がやつて居つて、商売人と云ふものは僅に小売取次をすると云ふ有様てあつたから、先つ押しなべて日本の商売人は小売商売人であつた、其間に於ては左まで学問か要らぬ訳であつたと云ふことは疑ひない、たまたま学ぶと云ふものは多くは漢学であつて、此漢学と云ふものが又た甚だ階級の粗雑なものてありますから、所謂修身斉家、治国平天下と云ふやうな訳、即ち身を修め家を斉へ国を治め天下を平かにする、と云ふやうな次第て、仮へば一から一億と云ふやうに階段か非常に粗ゐ故に、どふしても人間の気か豪放になるから、節約とか「ツマシイ」とか云ふことはなくなつて仕舞ふ、故に学問と云ふものは、常に多くは家を滅ぼす基になつて来たのである、即ち商売人が学問をすると云ふことは擯斥せられ
 - 第26巻 p.737 -ページ画像 
た訳である、又西洋でも学問と商売はそう密着して居らないと云ふのは、私は学者でないから細かいことを申すことは出来ませぬが、商業は一ツの学術と云ふことは言ひ得らるゝと云ふ学者社会の説も承つて居ります、或は「サイヱンス」と云ふ様な称へに就ては知らぬか、私は商売に就ては学問か必要であると堅く信じて居る、此席には大学にも関係のある方か居られますから、私の無学故に左様な御考を持つて居ると御笑ひになるかも知れませぬが、是非商業学校をして大学たらしめたいと、夙に切望して居る人間であります、商売と学問の関係の強ゐことは今日啻に私の私言ばかりではない、モウ総て言ひ得ることが出来ると考へて居ります、現に白耳義に於て英吉利の某氏か其の本国に送つた書面かある、其手紙によると白耳義の商業学問の進んだことを驚嘆して、是非英吉利に於ても商業大学を作るよふにしたが宜しからふと云ふことを申してあります、決して之れを以て輿論とは言ひ得られぬかも知れませぬが、独逸及白耳義あたりに於て商業学校の進んだと云ふことは、大に英吉利人の脳中に称せられつゝあると云ふことは明であります、斯様に商売に対して、学問が必要である時に際して、当校の校主たる大倉喜八郎君か特志を以て斯う云ふ企をせられたと云ふことは、私も実に感服し且つ欣賀する所であつて、不肖を顧みず御請に応じて協議員となつて、此後に於ても願くは諸氏と与に此教育に干与したいと云ふ考で居るので御座ゐます、学問と商業との関係に就ては例を挙げて申しましたならば数多こざまりすか、是は追々諸君が学びつゝ行かれると思ひます、成程学問が用立つものであると云ふことは行く行く御了解にもなろふし、殊に此席には学者諸君も御出でゞあるから、長々と事例を挙げて御話をする必要はないと思ひます諸君が将来に於て学ばるゝ所に仍て御解得あるやうに願ひたいのであります、今渡辺督長から色々御話しがあつたから別に申すことはありませぬが、如何にも此の信用と云ふことの必要は、千古不易の言葉となさなければならぬ、商売は何に依て立つかと云へば信用である、商売が信用を失つたならばそれこそ廃滅したと云はなければならぬ、諸君は是れから先き此の業体に就て往かるゝと云ふに就ては、十分なる信用を保存すると云ふことを呉れ呉れも御心掛になりたい、玆に一つ申して置きたいのは学校のことである、大倉君が特志を以て斯様な企てをされたか、其大倉君の意志が特に大倉君自身の為めに諸君を養成するのであるか、或は世に広く効用する為めであるかと云ふことを御諒知になりたい、私は大倉君に聞き又自らも判断して居るが、日本の商売人を作りたいと云ふ存念であつて、大倉君のために商売人を作りたいと云ふ考でないと云ふことは、深く信じて居るのでありますから諸君は宜しく此処に御注意あるやうに致したい、又大倉君は此学校をして渡辺督長からも御話しがありましたが、学者を作りたいと云ふ意見でないと云ふことも予て御会得ありたい、今一つこゝに成立つ所の商業家は何処までも世間から才子と言はれる人でなしに、安心すべき人と世間から言はれるやうになりたい、私は申して置きます、必ず校主たる大倉君を始め、協議員たる吾々に至るまで左様なければならぬと信ずる所でありますから、此校に這入つた人々は、是れは実に心掛
 - 第26巻 p.738 -ページ画像 
くべきことであるといふ覚悟を願ひたい、私は一向学問と云ふ方の素養のない身体でありまして、或は当校の協議員となり又は高等商業学校の商議員となり、学問の無い癖に学問と商業の関係などゝ云ふことを此壇に立つて御話するのは、甚だ聞苦しいと思召す方もありませうが、今申通りソレは時勢の違で、吾々共は真正なる学問に就くことが出来んであつたので厶います、是れは実に先きに生れた不仕合と言はなければならない、世の進むに於ては今日何処までも学問が入用になつて来て、私は十分な学問をしないのであるから、尚更諸君には学問をなさいと云ふことを勧める、恰も不身持な親が子供に道楽をするな学問を勉強せよと云ふのと、同じ心であると云ふことに御解釈を願ひます、一言の婆心説を述べて祝辞に代へます


大倉高等商業学校三十年史 葵友会編 第一七―二二頁 昭和五年一〇月刊(DK260117k-0009)
第26巻 p.738-739 ページ画像

大倉高等商業学校三十年史 葵友会編  第一七―二二頁 昭和五年一〇月刊
 ○第一期 創業時代
    三 華々しく開校す
 予科二年・本科四年で六ケ年制度、甲種程度財団法人大倉商業学校は、斯くて愈々華々しく開校される事となつた。本校一覧に依ると
 八月一日(卅三年)生徒ヲ募集ス、応募者本科一年ニ六十名、予科一年ニ八十五名アリ、内本科ニ五十名、予科ニ八十名入学ヲ許シ、九月一日開校始業シ、三教場ヲ設ク
とあるが、之は甚だ真実を欠いて居る点が多い様である。第一回卒業生某氏の語るところに依ると、入学志願者は全部で四百名位はあり、採用人員も本科は六十名であつた様に記憶すると言つて居る ○中略
 兎に角甲種商業学校として堂々開校されたのであるから、大変な評判で入学志願者が蝟集して来たのに相違ない、と云ふのは当時東京には中等程度の商業学校としては中央商業と東京商業(夜学)の二つきりであつたから、商業教育を志すものは殆んど集つて来たと考へられるからである、それで競争は可成り激しいものであつたから、本科で落第した者が予科に入学した等の例も随分あつた。
 斯くて愈授業開始といふ事になり、一覧には九月一日開校始業とあるが、之は九月二十日過ぎ、或は二十四日大倉翁の誕生日からが、真実では無いかと云はれて居る、何れにしても当時は未だそちこちの隅隅で大工や左官が仕事をしてゐて、その音は授業時間中の伴奏に役立つものがあつたと云ふ事である。
 何故九月に始業したかといふと、之は当時の東京高等商業学校の学期制度を真似たもので、同校では九月に始業して七月に終る事となつて居た。併しこの制度は明治三十六年文部省の学校令改正に依つて改正されると同時に、本校でも四月始業・三月終業といふ事になつた。
○中略
      創立当時の実状
 創立当時の本校の教育は極めて無秩序な、曖昧なものであつたと云へる。甚だ滑稽な話だが、当時世間の人も又学校当事者も、大倉商業の甲種程度といふ程度がどんな程度であるかを知らなかつた。これは学校最初の振出しからさうさせたものらしく、石黒男爵・前帝大総長
 - 第26巻 p.739 -ページ画像 
渡辺洪基氏、其他高等商業学校長小山健三氏、さては大倉喜八郎氏・末松男爵・渋沢栄一氏等と偉人達ばかりが集つて商業教育を始めようといふところに、既に世人は驚倒の眼を瞠つたであらうし、これ等の人達自身、甲種商業教育とは如何なる程度のものか、一向知らない人ばかりで、成る程渡辺氏は学校には経験はあるだらうが、大学と普通商業では「学校」としては似而内容に於ては非なるものが十二分に有り得るから、之亦素人とみて差支ない。而も当時文部省の商業学校令なるものは頗る不備なものであつたらしく、学校長の名称にしても本校が之を用ひ始めたのは明治四十年で、それ迄は主事と呼んで居たものである、その上本校が開校に先立つて見倣ふべき学校としては、東京には中央商業があるばかりであつたから、本校の方が年限も一年長いし、寧ろ高等商業の教育制度を模倣したのである。それで講師の大部分は高商の教授を招聘したし、教諭は概ね学士の肩書ある人ばかり世間で大倉の教育程度の判断に苦しむのも無理はない。それで一・二回の生徒募集の時には予科の方は尋常小学卒業程度の者としてあるから大した事も無かつたが、本科一年の志願者は、年齢も随分まちまちで、中学校卒業者が居つたり、高等小学を出たばかりの者も居る、年齢も十五・六から二十・二十一歳等色々であつた。先生方も各自思ひ思ひに自分勝手の授業をやつたらしく、本科一年では最初から独逸語をやつたり、本科第一回の卒業生等は入学当初から卒業迄殆んど同程度の英語を教はつたりしたものださうだ。創業五・六年は要するに今から見れば揺籃時代だつた。 ○下略