デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
5款 大倉商業学校
■綱文

第26巻 p.739-745(DK260118k) ページ画像

明治34年3月9日(1901年)

是日栄一当校ヲ訪ヒ、生徒ニ対シ一場ノ演説ヲナス。尚、当校ニ就キ尽力スル所アリ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK260118k-0001)
第26巻 p.739 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
三月九日 晴
○上略 午後三時大倉氏《(マヽ)》ト共ニ大倉商業学校ニ抵リ、生徒ニ対シテ一場ノ演説ヲ為ス、三時兜町ニ帰ル ○下略


大倉商業学校演説集 同校編 第一―一三頁 明治三五年三月刊(DK260118k-0002)
第26巻 p.739-745 ページ画像

大倉商業学校演説集 同校編  第一―一三頁 明治三五年三月刊
               男爵 渋沢栄一君 演説
此学校ノ評議員トシテ其一人ノ数ニ加ハツテ居リマス渋沢デゴザイマス、昨年開校ノ時ニ一度罷出デマシタガ、其時分ノ学生諸君ガ皆ナ御揃ヒデアルカ否ヤハ、私ハ能ク記憶致シテ居リマセヌ、其以来モ時々評議員ガ各々方ノ修業上ニ就キ又ハ将来ノ修身上ニ付テ意見ヲ申述ベルコトハ、此学校ノ為メニ、又学生諸子ノ為メニ甚ダ必要ナコトデアリマス、併シ私ノ玆ニ御話スルコトハ左迄有益ナコトハゴザイマセヌニシテモ、何カ御話ヲシタイト思フテ居リマシタノデゴザイマス、今日ハ今主事カラシテ御報道シタ通リ、高木博士ガ恰度此学校ヲ見ニ来ラルヽニ就テ、諸子ニ対シテ有益ナ御話ヲ下サルト云フコトデアリマ
 - 第26巻 p.740 -ページ画像 
ス、申サバ商業者トハ全ク方角ノ違フ高木君スラ、左様ニ迄此商業教育ニ重キヲ措カレルト云フコトハ、吾々共甚ダ感佩ノ至リデアル、同君ノ是カラ御話下サルコトハ定メテ金玉ノ論デアリマセウ、ソコデ前座トシテ、私モ一言平生思フテ居ルコトヲ諸子ニ告ゲ置キタイト考ヘテ、此席ニ登リマシタ訳デアリマス。
私ガ玆ニ申述ベヤウト思フ事柄ハ維新後ノ教育ノ異動デアリマス、第一ニ此事ヲ能ク御話ヲシテ置キタイ、第二ニハ此学校ニ就学スル所ノ生徒諸君ニ、更ニ一歩進メテ言フトキハ凡ソ此商業教育ヲ受ケテ居ル学生諸子ニ、斯カル心掛ヲ持ツテ欲シイト云フコトヲ簡単ニ申述ベヤウト思フ、第一ハ先ヅ昔ト今ト教育ノ変ツテ居ル有様ヲ玆ニ申述ベ置キマセウ、是ハ各々方ニ対シテハ一向面白クナイ、斯様ナ事ハ御父サンカ御祖父サンノ時代ニアツタ話ダカラ全ク平素ニハ聞カヌ事デアリマス、又今御聞セ申シタ所カ左迄ハ利益ガナイカモ知レヌ、併シ昔ノ日本ノ教育ハ如何ナル有様デアツタカト云フコトハ、矢張リ現在ノ教育ニ服事スル者ハ将来ニ於テノ参考上利益ガアラウト思フ、ソレ故ニ此御話ヲスル訳デアリマス、日本ニ於テハ維新以前ハ人ニ対シテ教ト云フモノハ武士以外ニハ殆ドナカツタ、享保年間ニ名高イ人デ荻生徂徠ト云フ人ノ言葉ニ、道トハ士大夫以上ノ道ナリ、農工商賈ノ道ニアラズト言ツタ、徳川家ノ政ヲ執ル時分ニハ朱子学ヲ大層尊重シテ、藤原惺窩・林道春抔ト云フ人ガ大イニ用ヰラレテ、先ヅ朱子学ガ教育ノ土台ニ立テヽアリマシタ、ケレドモ其中ニ追々有名ナ学者ガ出来テ、其学者中ニハ前ニ申スヤウナ道ト云フモノハ士大夫以上ニ存スルモノデ、農工商賈ニ存セヌト云フヤウナ断案ヲ下シタ、ソコデ商売人ハ殆ド其範囲ニ入レナカツタモノテアル、詰リ其国ヲ治メルトカ天下ヲ平ラカニスルトカト云フコトニ就テノ教育ハ、上ハ公卿、中ハ武士、是丈ケノ者ニ存セラレタノデアリマス、商売人ニ対スル教育ハ頭ノ禿ゲタ人ハ覚エテゴザルダラウ、商売往来ト云フ僅カニ二十四・五枚ノ書物ガアル、ソレカラ数学ハ塵劫記ト云フ本ガアル、是モ諸君ハ知ルマイ、此本ノ中ニハ加減乗除ノ法モアル、開平開立モアル、大数・小数ナドヽ云フ称ヘカ書イテアル、柱暦ノヤウナ書物デアツタ、此商売往来ト塵劫記ノ二ツカ商人ノ教育ノ道具デアツタ、商売社会ニハ左様ナ教科書ノ外ナカツタト云フコトハ、決シテ私ガ卑下シテ言フノデハナイ、武門武士ノ間ニハ儒道ト云フ教育ガアツタガ、此教育ノ仕方ハ如何デアルカトイフト、先ヅ四書トイフテ大学・中庸・論語・孟子ト云フモノヲ読マセル、ソレカラ五経トテ詩経・書経・易経・礼記・春秋斯様ナ書物ハ数回復読ヲシテ其文義ヲ一通リ覚エルガ、日本人トシテハ之ヲ充分ニ解釈スルコトハ六ケシイ、兎ニ角文字ノ働キヲ成タケ付ケタイ、理解力ヲ早ク付ケタイト思フテモ、今申シタ書物ノ如キモノハ六ケシイノデ、余程進マンケレバ理解シ得ラレヌカラ先ヅ歴史ヲ読マセル、イキナリ読マセルノガ十八史略トカ、国史略トカ、日本政記トカ、日本外史トカ、或ハ史記トカ、漢書トカ、斯フ云フ書物ヲ読マセル、支那ノ教育ハ修身斉家治国平天下、即チ身ヲ修メ家ヲ斉ヘ国ヲ治メ天下ヲ平ニスル、斯ウ云フヤウナ組立デアル、斯ウ云フ風ナ道ヲ教エ、一方ニハ其国ノ歴史ヲ教ヘル、ソコデ其学問ガ出来テ来ルト書
 - 第26巻 p.741 -ページ画像 
生ガ大変気ガ強クナツテ来テ、唯身ヲ治メ家ヲ斉ヘタバカリデハ学問ヲシタ効用ガナイ訳ニナルカラ、一ツ進ンデ国ヲ治メテ見ヤウ、天下ヲ平ニシテ見ヤウ、此考ヲ誰モ彼モ高メテ来テ、遂ニ悉ク乱臣賊子ヲ作リ出スト云フ教育ノ法デアリマス、ソコデ維新マデハ聖堂ト云フモノガアツテ、未ダ其跡ガ残ツテ居ルガ、彼ノ所ニ立派ナ儒官ヲ沢山抱ヘテアリマシタ、旗本ハ勿論、諸藩士モ大抵ハ彼ノ処デ稽古致サネバナラヌノデアツタ、武門武士ハ稍々宜カツタロウガ、百姓町人デモ其所ニ這ツテ、聖堂ニ於テ学問ヲシテ、ソレカラ及第シテ学頭ニデモナルコトガ出来ルト、其人ハ大層ノ名誉デアツタガ、是ハ家ヲ亡ボス素養ガ出来タノデアル、是ハ前ニ申ス商業ト云フ方ニ関係ガアルノデハナクシテ、政治若クハ儒道ト云フ方ノ教デアツタ、ソレヨリ外ニ先ヅ教育ト云フモノハナカツタト云フテ宜シイ、其外ニハ僅カニ和学者ガアツテ和学ヲ教ヘタ、重立チマシタル教育ト云フモノハソレ丈ケデアル、故ニ商売社会ハ前ニ申ス通リ殆ド無教育、僅カニアツタノダガ商売往来ト塵劫記デアル、是ガ先ヅ維新以前ノ教育ノ大体デアリマス、今考ヘテ見ルト徳川時代ニハ革命ヲ企テル人間ヲ、入費ヲ掛ケテ培養シタ有様デアル、到頭其ノ結果ガ尊王攘夷トカ、或ハ討幕トカ、武門ノ政治ヲ改革スルトカ云フコトデ終リマシタガ、始メハ左様ナ意思デハナカツタラウガ、教育ノ弊ガ左様ニ相成ツタノデアラウト思フ。
殊ニ維新前ノ教育ニ於テ悲シイコトハ、学問ト云フモノガ技術的ニナラナカツタト云フノデアル、日本ノ総テノ事ノ進ミニ於テ、諸外国ニ比ベテ何分幼稚ダ幼稚ダト言ハネバナラヌノハ、教育ノ仕様ガ技術的デナイ、即チ商売ト云フコトニ対シテ商業教育トカ工業教育トカ言フモノハ富ンデ居ラヌ、武士道ト云フヤウナ志ヲ養フ教育スラ、前ニ申ス通リ単純ナルモノデアツタ、然ルニ維新後ニハソレデハ外国ト並ビ馳スルコトハ出来ナイト、政治家モ学者モ商人モ大イニ感ズル所ガアツテ、単リ商業教育ノミナラズ、明治ノ始カラ欧羅巴ノ風ニ習ツタル教育法ガ成立ツテ段々進ンデ参ツタノデアルガ、始メハ外国法ニ摸倣シテ組立ツタニ拘ラズ其方法ガ甚ダ不完全デアツタ、玆ニ御集リノ人々ハ商業教育ヲ受ケルモノデアルカラ、特ニ商業教育ノ歴史ニ付テ簡単ニ申シマスガ、明治七年ニ森有礼君ガ亜米利加カラ此商業教育ノコトヲ申越サレテ、其時ノ東京府知事大久保一翁ト云フ人ガ其意ヲ嘉シテ当時ノ東京府下ノ商売人ニ其意見ヲ聞イタリ抔シテ色々相談ヲシタ、今ハ東京モ市ト相成ツテ居ルガ、其時分ノ東京ハ府ノ共有金ニ依ツテ商法講習所ト云フモノヲ組立ツタ、此レガ日本ノ商業教育ノ濫觴デアル、丁度二十七年以前ノ事ダ、其頃東京府会ト云フモノガ成立ツテ居ツテ、共有金ハ府会ニ継続シ、府会ニ於テ商業教育ヲ議決シテ居リマシタガ、両三年過ルト東京府会ハ決議シテ、商業教育ハ必要デナイカラ廃スト云フノデ明治十五年ニ廃シマシタ、此教育ノタメニ要スル費用ハ一ケ年壱万二・三千円デアツタガ、ソレヲ東京府ニ於テ廃シテ仕舞ヒマシタ、ソコデ私共即チ当校主ノ大倉君ナドモ其同志ノ一人デアリマシタガ、東京府ガ斯カル教育ヲ廃スルコトハ甚ダ乱暴千万ナコトデ実ニ嘆カハシイト存ジテ、之ヲ継続サレルヤウニ尽力シマシタ、其時左様ニ極力尽瘁シタノカ如何テアルカト云フト、前ニモ言フ通リ教
 - 第26巻 p.742 -ページ画像 
育ト云フモノハ商売人ナドニハ不必要ダト云フ習慣ノ中カラ生レテ来テ居ル人バカリデアルカラ、西洋ニ模倣シテ組立ツタ教育ヲ受ケタ人デモ、兎角商売ニ対シテハ疎クナル、其証拠ハ例ヘバ帝国大学教育ヲ受ケテ来タ何学士トカ云フ人ヲ頼ンデモ、商業社会ニ往クノハ同ジ俸給デハイヤダト云フヤウナ有様デアツタ、ソコデ私共ハ大ニ憂フベキコトダ、殊ニ商業ニ対スル教育ノ道ハ甚ダ微々トシテ居ルシ、又其教育ヲ受ケタ者モ民業ヲ疎ズルト云フ有様デ、折角覚エタ学問ノ効用ハ何ニ依ツテ顕ハスカ、官吏又ハ教師ト云フ者ハ決シテ世ノ中ニ実業ヲ為ス者デハナイ、唯吏務ヲ扱フモノデアルノニ、却テソレヲ尊重シテ商業ヲ疎ズルト云フコトハ、古来ノ習慣ノ然ラシムル所デアルトハ申シナガラ、人情斯クマデ物カ解ラヌカト憂ヘタ、ソコデ此人気ヲ引起スニハドウシテモ立派ナル商業教育ノ方法ヲ押立テ往キテ、商業者ニ有力ナル人又ハ発達スル人ヲ段々作ツテ往カネバ、到底商業ノ進歩ヲ見ルコトハ出来ナイ、故ニ商業教育ハ実ニ必要デアルト考ヘタカラ、遂ニ吾々ハ此事ニ就テ非常ニ奔走尽力シタ、其後追々世間モ商業教育ノ必要ヲ称ヘルヤウニナツテ来テ、其翌年農商務省デ之ヲ引受ケテ、同省ガ費用ヲ出シテ継続スルコトニシマシタ、其翌年ニハ文部省ニ移ツテ、遂ニ高等商業学校ニナツタノデアリマス、ソレカラ追々進ンデ参リマシテ、各地ニモ商業学校ノ設立ヲ見ルヤウニナリマシタ、是ガ日本ニ於ケル商業教育ノ沿革ノ大要デアリマス、是ヨリ精シクハ諸君ニ御話スル必要ハナイガ、当校主タル大倉君ハ、遂ニ自己一身ノ力ヲ以テ玆ニ完全ナル商業学校ヲ造ルト云フ程マデニ、商業教育ノ進ンダノハ誠ニ賀スベキコトデアル、ナント諸君、商売往来ト塵劫記一冊ヲ以テ商業ヲシテ居ツタ時分ト、何等ノ違ヒデアリマセウカ、政府ニ於テ之レガ普及発達ヲ図ルノハ当然ノコトデアルガ、大倉君ハ独力ヲ以テ三百人・四百人ノ生徒ヲ入レテ教育スルコトノ出来ル完全ナル学校ヲ創立サレタト云フコトニマデ進ンダ、世ノ進運トイフヘキカ、又ハ大倉君ノ篤志ト申シテヨイカ、此位喜バシイコトハナイ次第デアリマス、左様ニ此商業教育ト云フモノガ、僅カ三十年ノ間ニ発達シテ来タト云フコトハ、諸君能ク御承知ニナルヤウニ願ヒタイ、而シテ斯ル隆盛ノ時代ニ斯ル校主ノ篤志ニ依ツテ此学校ニ這入ツタ人々ハ、前後ノ沿革ヲ能ク記憶セラレテ、十分ナル心掛ヲ以テ学事ニ勉励シテ、世ノ中ノ為メ又ハ校主ノ志ニ酬ユルト云フ意念ガナケレバ、人タルノ本分ガ尽サヌノデアロウト思フ、先ヅ教育ノ沿革ハ此位トシテ、是カラ生徒諸子ノ未来ニ於ケル心掛ヲ二・三申述ベマセウ。
追々世ノ中ガ進ンデ来ルニ従ツテ、商業上モ一騎討ノ功名ハ出来ナクナツテ来タ、一騎討ノ功名ト云フテモ各々方ニ分ラヌカ知ラヌガ、商売デモソウデアル、又戦デモサウデアル、能ク軍制ノ立タヌ時代デアルト、例ヘバ熊谷次郎直実ナド、名乗ヲ挙ゲテ只一騎デ敵中ニ飛込ミ戦ヲスル、是ガ昔ノ軍制ノナイ戦ノ仕方デアル、今ノ戦ハサウ云フ訳ニハ往カヌ、一同軍制ニ依ツテ働カナケレバナラヌカラ、ソレト同様ニ教育アル学生諸子ハ規則ニ従ツテ成タケ大勢ノ働キガ効用ガ多クナルノデアルカラ、一騎討ノ僥倖ヲ以テ世ニ立ツコトヲ避ケネバナラヌソコデ是カラ各々方ガ世ノ中ニ出テ働ク商売社会ハ、前ニ申ス商売往
 - 第26巻 p.743 -ページ画像 
来ト塵劫記ヲ以テ売買ヲシタ時代ニ比較スルト非常ニ進ンデ居ルケレトモ、日本ノ有様ハ未ダ充分ニ商業教育ノ必要ヲ感ゼラレテ居ラヌカラ、商業ヲ重ズル諸外国ト較ベルトマダマダ進ンデ居ラヌ、進ンデ居ラヌト同時ニ、一体ノ智識ト云ヒ動作ト云ヒ、諸外国トハ劣ルト云フコトヲ考ヘテ居ラネバナラヌ、故ニ此世ノ中ニ出ルニ就テハ、能ク玆ニ観念シテ己ノ行為ヲ慎ミ、各自ノ気象ヲ高メルコトヲ勉メナケレバナラヌ、此事ハ今日巣籠リヲシテ居ル間ニ能ク心ニ御留メナサルヤウニシタイト思フ、何レ学業ガ修マルト、実業界ニ出ラレルデアロウガ其実業界ニ処スルニ就テノ心掛ケト、其次ニ一身ヲ修メテ行クニハドウシタラ宜イカ、ソレヲ一・二申シテ置キマシヨウ、兎角人ハ栄達シナケレバ学ンダ効能ハナイ、誰モ彼モ自己ニ利益ノアルヤウニ、社会ニ利益ノアルヤウニト心掛ケテ行カネバナラヌ、此心掛ガ肝要デアル唯己レ一身ノ利益ノミヲ考ヘルノハ大間違デアル、ドコマデモ修メタ学問ヲ世ノ中ニ応用スルノデアル、普及スルノデアル、ソレヲ望ムト云フト兎角貨殖ノコトヲ心掛ケトスルカ、ソレハ間違デアル、然ラバ問フ、此校主ノ大倉君ハ、金ヲ沢山持ツテ居ルカラ此学校ガ出来タノデハナイカト云フ質疑ガ起ルカモ知レヌガ、併シ大倉君ヨリマダマダ金ヲ持ツテ居ル人ガアツテモ、学校ヲ建テルコトノ出来ナイ人モ私ハアルト思フ、デアルカラ学校ヲ造ツタノハ金デハアルケレドモ志ガ先デアル、大倉君ヨリ金ノ少ナイ人モアラウガ、果シテ世ノ中ノ事業ニ付テハ金ガ少ナケレバ大イナルコトハ出来ナイカト云フト、己レ自身ノ財産ガ少ナフテモ、才能ガアレハ矢張リ出来ルト云フコトヲ思ハネバナラヌ、故ニ人ハ自分ノ才徳ヲ能ク行フト云フコトヲ第一ニ考ヘネバナラヌ、然ラバ才徳サヘアレバ己ハドノヤウニ飢渇ニ迫ツテモ構ハヌ、親族故旧ノ救ヒヲ被フテモ宜イカトイフニサウデハナイ、己レ一身ガ十分ニ立チ、妻子眷属ニ困却ヲサセズ、又朋友故旧ニモ迷惑ヲカケヌヤウニシナケレバナラヌ、ソレモ場合ニ依ツテハ人ノ力モ求メネバナラヌガ、兎ニ角何ガ必要デアルカト云フト、己レガ学ンデ得タ其才能ヲ世ノ中ニ尽スノガ専一デアルト云フコトヲ、先ヅ御注意ナサルヤウニシタイモノデアリマス、始メテ事業ニ就ク者ガ、唯俄ニ富ヲノミ得タイト云フ考ノミヲ以テスルト、遂ニ邪路ニ迷フテ仕舞フト云フコトガ世間ニ幾ラモアルカラ、其迷ヒヲ解クタメニ一言シテ置クノデアル、ソレカラモウ一ツハ凡テ事業ト云フモノハ多岐ニ渉ルト云フノハ宜シクナイ、ドウカ一ニシタイト思フ、此私ノ申ス言葉ニモ直様諸君ハ反対スルデアラウ、渋沢ハ色々ナコトニ従事スルデハナイカト、成程私ハ銀行其他種々ノ会社抔ニモ随分多ク世話ヲシテ居ルガ、私ガ一番ニ首脳トシテ働クノハ即チ銀行デアル、決シテ矢鱈ニヤルノデハナイ、私ハ他ノコトハ余力ヲ以テ従事スルノデアル、蓋シ私ノ一身ガ丁度此商業界ニ従事スル場合ニ銀行ヲ首脳トシテ考ヲ立テ、ソレヲ終身ノ勤メ場所ト極メタノデアル、極メハ致シテアルケレドモ、其頃ノ銀行ト云フモノハ決シテ銀行ヲノミヤツテ立行クモノデナイ、種々ナ事業ガ成立ツト云フコトデナケレバ、日本ノ商売ノ発達ハ求メルコトガ出来ナカツタト云フテモ宜シイ、明治六・七年、十年頃ノ時代ニアツテハ、余儀ナク他ニ関係ヲスルト云フコトハ時勢ガ然ラシメタノデ
 - 第26巻 p.744 -ページ画像 
アツテ、決シテ自分デ求メタノデハナイ、其一例ヲ申スナレバ、私ハ明治六年カラ商業者ニナツタガ、爾来玆ニ三十年、政治界ニハ一言タリトモ口ヲ利カヌ、一足タリトモ足ヲ入レヌ、故ニ私ハ種々ナルコトニ手ヲ出スト云フ人モアラウガ、其志ハ終始一貫ノ積デアルト云フコトヲ弁解スル、諸君ニ於テモ世ノ中ニ出ルニ就テハ、成タケ一ツノコトニ身体ヲ箝込ンデ、其事業ヲ是非ヤリ上ゲルト云フコトヲ深ク覚悟シテ欲シイト思フノデゴザイマス、モウ一ツ御話シテ置キタイコトハ元来商売ト云フモノハ如何ニシテモ事柄ガ陰気ナモノダ、政治トカ軍務トカ云フモノト比較スルト日々錙銖ノ利ヲ争フノデアル、細カイ算盤ニ依ツテ損得ト云フコトヲ講究シテ往カネバナラヌモノデアルカラ気象ガ自カラ卑屈ニナリ、或ハ不活発ニナルト云フ嫌ガアル、併ナガラ勇壮活発ト云フ方ニ傾イテ、甚シキハ漢ノ高祖ガ個人ノ生産作業ヲ事トセズト言フタヤウナ気象ヲ望ムノデハナイ、成タケ商売社会ノ気韻ヲ高メルト云フコトヲ望ムノデアル、前ニモ申ス通リ商売ハ錙銖ノ利ヲ争フノデアルカラ、其事業ノタメニ見識ガ低クナリ人間ガ卑クナラヌヤウニ、高尚ナ剛毅ナ心ヲ持ツト云フコトヲ心掛ケネバナラヌ、是カラ先キノ商業社会ハ、未ダモウ一層モ二層モ政治界ニ向ツテ反抗シテ、益々重キヲ置カセルヤウニナラネバ、日本ノ富ハ増スコトハ出来ヌノデアル、其重キヲ置カセルニハ自己ノ力ガ低ク気象ガ不充分デアツタナレバ、世間カラ重キヲ置クヤウニナル筈ハナイ、故ニ此最モ注意スベキ時代ニ出ル人ハ、働キハドコマデモ細カイガ宜シイガ、平素守ル所ノ気象、執ル所ノ方針ハ、成タケ剛毅ニ、成タケ高尚デナケレバナラヌ、蓋シ是等ノコトハ追々ニ磨キ行クヤウニセネバナラヌカラ、年ノ行カヌ生徒諸子ニサウ云フ考ヲト言フハ未ダ早イカモ知レヌガ、今日会見ノ序ニ大体ノ商売人タル者ノ心掛ケヲ申述ベタ訳デアル尚ホ此学校ノ生徒諸子ニ更ニ一言加ヘテ玆ニ申シテ置キタイノハ、昔ハ左様ニ教育ト云フモノガ粗雑デアツタガ、此教育ニ於テ甚ダ感心ナノハ師弟ノ関係デアル、師ニ対スルノ恩ト云フモノハ弟子ガ大層重ンジタコトデアル、是ニ反シテ今日ノ教育ノ程度ハ大層進ミ教育ノ道具ハ整フテアルガ、師ニ対シテノ総テノ挙動ガ甚ダ冷淡ダ、併シ昔ノヤウニ唯無暗ニ大切ニシロトハ言ハヌガ、学ブ人ガ受ケタ教ニ対シテ師ノ恩ニ報ユルト云フヤウニアリタイノデス、ソレガ今日少ナイノハ蓋シ今ノ人ハ甚ダ宜シクナイト評サネバナラヌ、此点ニ就テハ昔ノ漢学者流ガ甚ダ慕ハシク思フ位デアル、殊ニ此学校ナドニ於テハ、斯ル完美ナ学校、而モ一個人ノ力ヲ以テ組立テ、世ノ中ニ対シテ好イ商業者ヲ作リタイト思ハルル大倉君ノ志ハ、諸君ハ宜シク感銘シテ、校主ノ恩ニ報ヰナケレバナラヌ、其恩ニ報ユルト云フ一段ニ至ツテハ、余程世ノ進ミト共ニ進マネバナラヌノニ、却テ退歩シテ居ルト云フノハ、如何ニモ注意セネバナラヌコトデアル、今日途中ニテ読ムダ新聞紙ニ水戸ノ義公ノ家憲ガアリマシタ、ソレハ後ニ朗読スルコトヽシテ、先ツ徳川ノ始祖東照公ノ家訓ハ次ノ通リデアリマス
 人ノ一生ハ重荷ヲ負フテ遠キ道ヲ行クガ如シ、急グヘカラズ、不自由ヲ常ト思ヘバ不足ナシ、心ニ望起ラバ困窮シタル時ヲ思出スベシ勘忍ハ無事長久ノ基、怒リハ敵ト思ヘ、勝ツ事ハカリ知ツテ負ケル
 - 第26巻 p.745 -ページ画像 
コトヲ知ラザレバ害其身ニ至ル、己レヲ責メテ人ヲ責ムルナ、及バザルハ過ギタルヨリマサレリ
ト云フノデアリマス、ソレカラ水戸ノ義公ノ訓誡ハ、新聞ノコトデアルカラ御読ミナスツタデアロウガ、重複ナガラ御聞キニ入レマセウ、其中ニ恩ニ報ユルト云フコトモ充分アルヤウデアル、是ハ今ノヤウニ朗読スル程覚エテ居ナイカラ読ミマス、東京ノ今昔ト云フ題テ
 (此間新聞ヲ朗読ス)
丁度第一番ニ恩ヲ忘ルナカレトイフコトヲ、水戸ノ義公モ言フテ居ルカラ、講師ノ恩ヲ各々方ハ深ク心ニ銘シ、又前ニ申述ベタ箇条ヲ能ク御記憶ナサレテ御忘レナサラヌヤウニ願ヒタイ、此事ハ呉々モ諸君ノ御記憶ニ存スルヤウニ願ヒタイモノデアリマス。


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK260118k-0003)
第26巻 p.745 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
四月十七日 晴
○上略 午後六時台湾協会ニ於テ大倉商業学校ノ事ヲ協議ス、大倉・石黒末松諸氏来会ス ○下略
   ○中略。
十二月二十三日 晴
○上略 大倉商業学校ノ評議員会ニ列ス ○下略