公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第26巻 p.758-767(DK260125k) ページ画像
明治14年9月(1881年)
当時、世俗官尊民卑ノ弊習漸ク盛トナリ、大学学生ノ間ニ於テモ亦実業ヲ蔑視スルノ風有リ、栄一之ヲ嘆ジ、偶々事ニ托シテ当大学総理加藤弘之ニソノ非ヲ難ズルヤ、弘之ソノ言ヲ是トシ、却テ大学学生ノ為メニ実業ノ実際ヲ講ゼンコトヲ請ハル。栄一之ヲ諾シ、即チ是月ヲ以テ当大学文学部講師トナリ、日本財政論ヲ講ズルコト爾後三ケ年ニ及ブ。
青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第八六八―八七〇頁 明治三三年二月刊(DK260125k-0001)
第26巻 p.758-759 ページ画像
青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第八六八―八七〇頁 明治三三年二月刊
○第五十九章 雑事
第七節 東京大学講義
東京大学ハ、開成所ノ昔ヨリ専ラ洋書ヲ以テ学生ヲ教授シ、学生為メニ我邦ノ実況ニ暗ラキノ弊ナキニアラス、明治十四五年青淵先生、大学ノ嘱託ニヨリ銀行及手形ノ実況ニ就テ学生ニ講義セリ、本史ノ編纂者タル余モ在学ノ当時先生ノ講義ヲ聴キ、我邦銀行業及手形取引ニ関シ頗ル得ル所アリ、余カ父朗盧ハ、慶応元年先生カ一橋家領分巡見ノ為メ余カ郷里備中後月郡ニ来リタル時ヨリ以来、多年交遊セシカ、余カ先生ニ親接シタルハ此ノ講義ノ時カ初テナリ、先生ノ講義ハ独リ余ノミニアラス、余ト同学科ノ学生一般ニ頗ル利益ヲ与ヘタリ、而シテ特ニ此ニ記サヽルヘカラサルノ一事ハ、先生カ講義ノ嘱託ヲ承諾スルニ至リタルノ事情是ナリ
当時先生ハ東京府瓦斯局ヲ管理シ、其技師トシテ高松豊吉ノ紹介ニヨリ理学士某ヲ採用セント欲シ、其事ヲ先生ヨリ東京大学総理加藤弘之ニ依頼セリ、然ルニ当時ハ世人一般ニ官吏トナルヲ尊シトスルノ風アリ、瓦斯局ハ商社ニハアラサレトモ稍々商社ニ近キヲ以テ、某ハ其技師タルヲ好マストノ趣キニテ、加藤ヨリ先生ニ回答セリ、先生直チニ馬車ヲ駆テ加藤ヲ訪ヒ論シテ曰ク、某カ瓦斯局ノ技師タルヲ諾スルト否トハ素ヨリ本人ノ随意ナレトモ、官吏ヨリ身分カ下ルト云フヲ理由トスルニ至テハ、大ニ其誤解タルヲ弁セサルヲ得ス、抑モ官吏ヲ尊崇シテ商工業者ヲ卑ムハ従来ノ弊風ニシテ、此ノ弊一洗セサレハ我邦ノ繁栄ハ決シテ望ムヘカラス、而シテ此ノ道理ヲ解スルモノハ、最モ之ヲ欧米最新ノ学ニ通スル学士ニ望マサルヲ得ス、然ルニ今某カ言ハ何事ソ豈ニ嘆スヘキノ至リニアラスヤ、必意如斯キ思想ヲ学生ニ懐カシムルハ大学平生ノ教授方其宜シキヲ得サルニ帰セサルヲ得ス、若シ将来如斯キ思想ヲ学生ニ養成スルモノトセハ、予ハ断然大学ノ廃止ヲ望ムモノナリト、加藤曰ク先生ノ論真ニ当然ナリ、大学モ其点ニ注意セ
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サルニアラス、而モ学生ノ気風兎角官府ニ赴クヲ栄トスルノ傾向アルハ甚タ嘆スヘシ、而シテ此ノ気風ヲ一新セントスルニハ、先生請フ来テ講義ヲ為シ、学生ヲシテ商工業家ニモ亦如斯人アリ、商工業ハ決シテ卑ムヘキニアラサル所以ヲ実地ニ示スニ若カスト、此ニ於テ講義嘱託ノ約成ル、実ニ一佳話ト謂フヘシ
○右文中ニ余トアルハ阪谷芳郎ナリ。
雨夜譚会談話筆記 上・第一〇〇―一〇三頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK260125k-0002)
第26巻 p.759-760 ページ画像
雨夜譚会談話筆記 上・第一〇〇―一〇三頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
(渋沢子爵家所蔵)
第五回 昭和二年四月十二日午後五時より 於飛鳥山邸
○上略
明石「大学 ○東京大学で銀行の講義をおやりになつたことがありましたが―」
先生「銀行条例の講義をした。学生には穂積八束・鶴原定吉などがあつたやうに思ふ。これは当時大学の総理であつた加藤弘之さんにすすめられたからであつた。否加藤さんに私が苦情を云つたからと云ふのが適当かも知れぬ。(一般に実業界のことを、どぶ田へでも入るやう思つて居るが、斯様な官尊民卑が甚だしいのは困つたことだ)とて、商業教育のないこと、実業の蔑視せられて居ることを述べた処、(それなら先づ銀行の講義をしてくれ)と云ふことで、私が大蔵省に居て、銀行条例を作つた関係もあつたから、其の講義をしたのであります。
その起りは初め、吉原で火事が多いので瓦斯を敷設しようとて、白河楽翁公の残して居られた、東京市の共有金を以て、瓦斯の機械を買つた。然しそれを吉原へ持つて行かず、東京市へ設置するに決した。此時の技師はペレゲレンと云つた仏人で小規模な機械ではあつたが据付けた。そして私が此の共有金の保管方を頼まれて居た関係から、瓦斯局の事務を見ることになつた。従つて私は外国人の技師よりも日本人の技師を傭ふべしとて、その人の事を加藤さんに依頼した。すると加藤さんは高松豊吉氏に相談して、応用化学出の所谷英敏と云ふ人を推薦して来た。其処で私は此人に会つて色々の話をした処(瓦斯局は今後どう成るか)と聞くから(株式会社にするのだ)と答へて置いた。然るに翌日やつて来て(私は瓦斯局へは入る事はお断りします)と云ふ。理由は(瓦斯局が会社になるならば、其処に勤めても何等の名誉が伴はぬ。私が笈を負うて東京に出て学問をしたのは、名誉が得たいからである。民間の商売人のやることに従事するのは嫌です)と云ふのである。従つて私は(私の前でさう云ふのは、私が不名誉な人間であるからであるのか、私は役人をよして斯うして銀行者になつた人間である)と云ふと(貴方は変り者だ。私は民間の仕事をするのは郷里を出る時の意志に反する)とて、遂に瓦斯局へは入らなかつた。所谷は水戸の者であつたが、右のやうに応用化学を学んで、民間の仕事が嫌だと云ふやうでは、大学の教育方針が悪いに違ひないと、加藤さんに(官尊民卑の学生を養成しては困る。斯様な有様では国は亡びる)と抗議を申込んだの
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であります。其処で(銀行の講義を出てやれ)と私に云つたから、一年余り、銀行の講釈を本郷の大学でやつた。瓦斯会社を創立したのが明治十八年で、何でも其二三年前であつたと思ふから、十四五年頃でもあつたであらう」
○下略
○此ノ時ノ出席者ハ栄一・森荘三郎・渋沢敬三・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・明石照男ナリ。
東京大学第二年報 同校編 附表・い号 明治一六年七月刊 東京大学法理文学部教員受持学科表 自明治十四年九月至同十五年七月(DK260125k-0003)
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東京大学第二年報 同校編 附表・い号 明治一六年七月刊
東京大学法理文学部教員受持学科表 自明治十四年九月至同十五年七月
東京大学第二年報 同校編 第五八―六一頁 明治一六年七月刊 職員ノ事(DK260125k-0004)
第26巻 p.760 ページ画像
東京大学第二年報 同校編 第五八―六一頁 明治一六年七月刊
○職員ノ事
内国人ノ部
○上略
○同月 ○明治一五年六月文学部講師佐伯惟馨・小菅揆一・渋沢栄一・吉谷覚寿理学部准講師巨智部忠承ノ任ヲ解ク
○下略
東京大学第二年報 同校編 第五八―六四頁 明治一六年七月刊 職員ノ事(DK260125k-0005)
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東京大学第二年報 同校編 第五八―六四頁 明治一六年七月刊
○職員ノ事
内国人ノ部
○上略
○同月 ○明治一五年九月法学士高橋一勝ニ此月ヨリ十六年七月マデ法学部准講師ヲ嘱シ、大蔵少書記官小菅揆一・佐伯惟馨及渋沢栄一ニ日本財政論
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吉谷覚寿ニ印度哲学ノ講義ヲ嘱ス独リ小菅揆一ハ十二月ヨリ十六年七月マテノ期トス
○下略
東京大学第三年報 同校編 第四六―四七頁 明治一七年七月刊 職員ノ事(DK260125k-0006)
第26巻 p.761 ページ画像
東京大学第三年報 同校編 第四六―四七頁 明治一七年七月刊
○職員ノ事
○上略
○九月 ○明治一六年十日文部一等属佐藤誠実・東京大学御用掛兼務文学部准講師ヲ命ゼラル、同十一日市川正寧・佐伯惟馨・石川有幸・渋沢栄一吉谷覚寿ニ各々文学部講師ヲ、加藤一勝ニ法学部准講師ヲ、巨智部忠承ニ理学部准講師ヲ嘱託ス ○下略
○因ニ同書附表い号「東京大学法理文学部教員受持学科表(自明治十五年九月至同十六年七月)」ヲ見ルニ、佐藤誠実・市川正寧・佐伯惟馨・石川有幸渋沢栄一等五名ニ関スル記載ヲ欠ク。ソノ理由トスル所ヲ詳ニスル能ハズ姑ク本文ノ記ス所ニ従フ。
渋沢栄一書翰 加藤弘之宛 (明治一六年カ)一〇月二六日(DK260125k-0007)
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渋沢栄一書翰 加藤弘之宛 (明治一六年カ)一〇月二六日
(渋沢子爵家所蔵)
拝啓、□□兼而御示命有之候申報書《(老台カ)》、昨日迄ニ奉呈可仕之処大ニ延引いたし候恐入候義ニ候、即別紙ニ記載し進呈仕候間御閲覧可被下候
右申報書ニハ何か効能を相認候得共、実ハ商業上之慣習を講説するハ随時之模様ニて、別ニ定律等無之、学生も聴ニ苦しみ講師も説ニ難んする情態有之候間、本年よりハ稍手続を存し候書類ニよりて講説可仕と存候、併書物ニ拠候と終ニ実際ニ離れ、却而小生之不長所と相成、甚ニ取捨ニ困却仕候、何れ右段ハ拝眉之上尚相伺可申上奉存候
右ハ別紙進呈之序一言申上置候 頓首
十月廿六日
渋沢栄一
加藤総理閣下
○右ニ云フ別紙申報書トハ次掲ノモノト推定サル。
東京大学第三年報 同校編 第二五四―二五六頁 明治一七年七月刊 日本財政論講師渋沢栄一申報(DK260125k-0008)
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東京大学第三年報 同校編 第二五四―二五六頁 明治一七年七月刊
日本財政論講師渋沢栄一申報
凡ソ理財ノ学ニ於ル、能ク実際ヲ詳ニシテ講究スルニアラサレハ、以テ実用ニ適スルヲ得ス、総理此ニ見アリ、曩ニ余ニ嘱スルニ本邦理財ノ実況ヲ講説スルヲ以テス、余嘗テ謂ラク、本邦ノ商業ヲシテ殷盛ノ境ニ進歩セシメ、理財ノ学ヲシテ空論ニ渉ラシメサルハ、其唯々実務ヲ講究スルニアルノミト、是ヲ以テ不肖ヲ顧ミスシテ其嘱託ヲ諾セリ、爾来学生ニ授業スルニ主トシテ本邦商業ノ実況ヲ説キ、併セテ余カ従来経験スル所ノ実務ヲ述ヘ、力メテ薫陶シテ以テ総理ノ嘱託スル所ニ背カサラン事ヲ欲セリ、玆ニ一学年ノ終ヲ告ク、則政治理財学第四・第三ノ両年級ニ講説スル所ノ要領ヲ挙ケ、左ニ之ヲ開陳ス
初次、銀行ノ商売ニ於ルハ蓋商業ノ管鑰トモ謂フ可キヲ以テ、商業ノ情態ヲ知ラント欲セハ宜シク先ツ銀行ノ組織ヲ詳ニセサルヘカラス、因テ現行ノ銀行条例ニ基キ、営業ノ箇目ヨリ貸借ノ方法・金融運転ノ
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情態ニ至ルマテ実際ニ施行スル所ヲ講説シ、又余カ嘗テ外人ノ需メニ応シ銀行ヲ創立スルノ順序ヨリ、営業ノ方法・効用ノ総論ニ至ルマテ悉ク其大要ヲ輯録スル者ヲ示シ、之ヲ講明シタル後、此書ヲ学生ニ与ヘテ各謄写セシメ、以テ其服膺スルニ便セリ
二次、商業ノ講説ハ一定ノ規律ナキヲ以テ、其部分ニ就テ慣習・法律等ノ有無ヲ弁明シ、然ル後実際ノ効用ヲ述ヘサルヘカラス、然レトモ此順序ヲ以テスレハ、一般ノ商況ヲ領知スルニ至ルマテ前途甚タ遠ク或ハ望洋ノ憾ナキニアラサルカ為メニ、先ツ東京・大阪・横浜等ニ就テ其商情・運輸ノ便否等ヲ説明シ、此ヨリ進ンテ尚他殷繁ノ地ノ商業ヲ略説シ、昨年日本銀行ノ創立アルニ因リ即チ該銀行ノ組織作用、及其営業ノ全国諸銀行ニ関係スヘキ理由ヨリ、金融効用ノ如何ニ至ルマテ挙テ之ヲ講説シ、前ニ講説スル所ノ一般銀行ノ情態ト併セ鑑ミテ、以テ其経営スル所ヲ領会スルニ便セリ
以上本学年授業スル所ニ係レリ、而テ学生皆孳々聴講ニ懈ラス、且其大旨ヲ領スルニ於テモ亦甚タ苦シマサルカ如シ、然レハ則学生ノ本学年ニ在テ本邦商業ノ実況ヲ徴シ理財ノ学ヲ修明スルニ、必ス裨補スル所ナキニアラスト信ス
〔参考〕竜門雑誌 第五五一号・第四七―五二頁 昭和九年八月 大学講師としての青淵先生(DK260125k-0009)
第26巻 p.762-764 ページ画像
竜門雑誌 第五五一号・第四七―五二頁 昭和九年八月
大学講師としての青淵先生
青淵先生が実業家として又経世家として以外に、偉大なる教育家で在らせられたことは、例へば商業教育とか女子教育とかに余力の一端を払はれたと云ふやうな点だけでなく、それよりも先生御自身が御在世中は勿論、恐らく永遠に後人尊敬の的となられて、恒に世道人心を教導せられるであらうと云ふ意味からでなくてはならない。されば先生に関しては所謂学校教育とか、社会教育とか云ふ様な『教育』と云ふ言葉は何うも不充分で相応はしくない。もつと広く且つ大きな意味で『教化』と云つた方が一層切実であらうと思はれるが、兎に角その教化と云ふことを、斯やうな広く且つ大きな意味に解し得るものとすれば『教育』はその一部に過ぎないものであり、従つて所謂学校教育は、更にその中の一部分に過ぎないものであると云はなければならない。(但しそれは何ら『学校教育』を軽視する意味ではない。)
して見れば先生がその所謂学校教育に関して寄与せられた所などは『教化』と云ふ方面に於ける、先生の偉大なる御功績全般の上から観ると、僅にその片鱗に過ぎないものであり、従つて先生の御事績としては、今更事々しく特記するには及ばない事のやうではあるけれども話は未だ比較的世間に知れ渡つて居ない事のやうでもあるし、又先生の教育に関する非凡なる卓見の一端を窺ふに足るとも思はれるので、幸ひ本社青淵先生伝記資料編纂室の好意に依り、本欄に於てそれに関する資料の一部を紹介しようと思ふ。
その資料と云ふのは先生が嘗て東京大学(現今の東京帝国大学)の『文学部講師』として、日本財政論の講座を担当して居られた当時の記録であつて、時代は明治十五乃至十七年頃のことである。明治十五乃至十七年と云へば西南の役が戢つて数年後、朝鮮に起つた閔氏事件
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の直前に当り、我国の政情は内外に亘つて尚ほ騒然たるものがあつた一方、財界としてはその十五年は、六月に制定せられた日本銀行条例に基いて同年十月同行の開業を見たのに引続き、その十二月には『手形条例』が公布せられて、東京銀行集会所内に『手形取引所』が開設せられた等、日本の経済史上特筆すべき年であつたが、又先生御自身としては同年七月十四日に先の令夫人が逝去せられたと云ふ御不幸の年で、公私共に御多端に亘らせられたことは拝察するに余りある所である。
先生はその十五年九月に東京大学から日本財政論の講義を嘱せられ翌十六年九月に改めて文学部講師を嘱託せられたのであつて、その時の辞令や職員の部署に関する記録は左の如し。
東京大学講師時代記録抄写
(青淵先生伝記資料編纂室所蔵)
○中略
○中略
○職員
総理 加藤弘之 東京
○中略
文学部
長 外山正一 静岡
○中略
講師
日本財政論 渋沢栄一 東京
○下略
右の法・理・文学部の『学部』は今日の『学部』そのものではなく曩の法科大学・理科大学・文科大学の前身であつて、教科目なども現行制度に於けるものとは相当に異つて居たやうである。それで財政論などが文学部の講座に属して居たのであつて、試にその教科細目を示すと左の如きものである。
○第四章 教科細目
○中略
〔理財学〕
○前略 第三年ニ於テ授クル講義ノ目二アリ、即チ第一通貨及銀行論・第二日本財政論是ナリ
第一 ○略ス
第二 日本財政論
本論ニ於テハ徳川旧政府財政官ノ組織及財政ノ沿革、並ニ維新以後ノ政府財政ノ沿革及其現況、貨幣・租税・関税等ニ就テ之ヲ詳論シ、且本邦国立銀行ノ起元・沿革並ニ銀行実際ノ業務等ヲ講授ス
第四年ニ於テ授クル講義ヲ分テ二トス、即チ第一労力・租税・公債
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論・第二日本財政論是ナリ
第一 ○略ス
第二 日本財政論
第四年ニ於ケル財政論ハ、已ニ第三年ニ始メタル講義ノ題目ヲ続キテ授クルモノトス
◇
ところで一体青淵先生が何う云ふ訳で大学講師に就任せられ、そして日本財政論の銀行に関する講義に当られたか。試に雨夜譚会の記録を見ると、その事に関する先生のお話が左のやうに載せられて居る。
○中略
先生の教授方針は恐らくその当時としては、否或は今日としても所謂定石破りであらうと思はれる程に、全く非凡の大見識に出でたるものであつて、それは学生に講義を授けられるに就いて提出せられた教授綱領又は提要とも認められる左の『申報』に、よく体現せられて居るのである。
日本財政論講師渋沢栄一申報 ○前掲ニツキ略ス
冒頭先づその指導精神を闡明して『凡ソ理財ノ学ニ於ル能ク実際ヲ詳ニシテ講究スルニアラサレハ、以テ実用ニ適スルヲ得ス』と断ぜられ、空論を排して実務に根拠を置かざるべからざる所以を力説して居られる辺り、洵に警世の大文字であつて、当時の学者が徒に西洋の学説を翻訳受売りすることを以て、能事畢れりとなして居たのに対し頂門一箴の感なきを得ないのである。殊にその頃に在つては『商業ノ講説ハ一定ノ規律ナキヲ以テ、其部分ニ就テ慣習・法律等ノ有無ヲ弁明シ、然ル後実際ノ効用ヲ述ヘサルヘカラス』と主張して居られる所から観ると、先生が寧ろ我国の実際に即した商業教育を創案するの意気込で教授の任に当られた深慮の程が偲ばれると共に、その御苦心の程も察せられるのである。
◇
当時先生が銀行業を始め自ら経営又は干与せられて居た事業は、殆ど屈指に遑なき程で、夙に我実業界の重鎮として活躍して居られたのであるから、その御日常は随分御多忙に亘らせられたであらうに、尚ほその余力を割愛せられて大学講師の任に当られ、然も飽く迄も熱心と親切とを以て学生を誘導せられたことは、前掲『申報』末尾の学生に対する先生の態度や所見に躍如たるものがある。即ち子弟に対する師としての先生の遺徳を追慕するのよすがとしても、玆に会員諸君の清鑑を煩さんと希ふものである。(編輯室)
〔参考〕竜門雑誌 第五六八号・第一一頁 昭和一一年一月 逍遥博士の卒業証書に青淵先生の署名(DK260125k-0010)
第26巻 p.764-765 ページ画像
竜門雑誌 第五六八号・第一一頁 昭和一一年一月
逍遥博士の卒業証書に
青淵先生の署名
青淵先生が現在の東京帝国大学の前身たる東京大学文学部――前に『文科大学』と称せられましたその前の学部の名称でありまして、今日の文学部とは同名異体であります――の講師として、明治十五年か
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ら同十七年に亘り、日本財政論の講座を担当せられましたことや、先生が開講に際して当時の『大学総理』加藤弘之氏に提出されました講義要綱や、その他先生の講師就任に関する諸記録に就いては、一昨昭和九年五月号の本誌上にて御紹介致しましたやうな次第であります。
然るに昨秋渋沢子爵 ○敬三が早稲田大学よりの招に応じて、同大学附属演劇博物館を参観せられましたところ、偶ま故坪内逍遥博士の大学卒業証書に就いて一つの奇遇を得られました。
と、申しますのは、御承知の通り逍遥博士は遺言によつて、自身所蔵の資料一切を挙げて早稲田大学演劇博物館に寄贈されました。右の卒業証書もその一つでありますが、同証書に青淵先生の署名が載つて居るといふことは、単なる資料として以上、師たる青淵先生と弟たる逍遥博士と云ふその対照に、より多くの好奇的興味を感ぜしめるものがあります。幸、同大学の快諾を得ましたので、右卒業証書を撮影しまして新春号の巻頭を飾ることに致しました。
右卒業証書に署名せられて居る職員諸氏の中、総理の加藤弘之・文学部長の外山正一・教授の穂積陳重諸氏に関しては、玆に贅言を附する迄もない所でありますが、その他の諸氏に就いて早稲田大学の塩沢教授に伺ひましたところに依りますと
『日本古今法制論』の飯田武郷氏は、元々国学者であつて、その方面の著書が二三遺つて居ります。『行政学』のラートゲン氏は独逸人で若い頃に来朝し、行政学ばかりでなく、昨冬の本社の会員総会に於ける阪谷理事長の演説『国体論』の中に引用されました通り、国法学を論じ又経済学を講じた人ださうであります。
次に『理財学』のフエネロサ氏は米人で、今日謂ふ所の経済学を講義したことになつてゐますが、この人は寧ろ哲学または日本の美術界に大きな貢献をなしたと云ふ方で有名でありまして、岡倉覚三氏などは第一の門下生であると云ふことであります。『日本財政論』の市川正寧及佐伯惟馨両氏は、多分大蔵省関係の人であつたと思ふと云ふことであります。
○右文ノ筆者不明。
〔参考〕竜門雑誌 第五六八号・巻頭口絵 昭和一一年一月 【坪内雄蔵政治学理財学…】(DK260125k-0011)
第26巻 p.765 ページ画像
竜門雑誌 第五六八号・巻頭口絵 昭和一一年一月
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〔参考〕実業之世界 第三六巻第一号・第一一四頁 昭和一四年一月 渋沢翁を時局に起たしめよ(三宅雄二郎講演)(DK260125k-0012)
第26巻 p.766 ページ画像
実業之世界 第三六巻第一号・第一一四頁 昭和一四年一月
渋沢翁を時局に起たしめよ (三宅雄二郎 講演)
△東大の講師として
○上略 翁のお話を初めて承りましたのは、東京大学へ講師となつて来られた時であります。明治十四・五年の頃でありまして、当時の文学部の政治経済の方へ、銀行のお話をなされるが為に出られたのであります。
私は出なくてもいゝのでありまして、銀行の話を承り度くもありませぬけれども、どういふお話をなさるかといふことに付て、銀行のお話を聴くのも悪くないと思つて出席しましたが、筆記も何も致しませぬ。その当時聴講した人の中で現存し居られるのは、先づ阪谷男一人位のものと思ひます。若い穂積さんはまだお生れにならなかつたと思ひます。(笑声)
それで翁の銀行の話はどういふのでありましたか。内容は兎も角その態度は少々変つて居りました(笑声)固より普通の教授と変つて居る筈でありますが、聴講者の話して居るのでは、大黒様のやうな顔をして居るけれども、あれで狡いとか、喰へないとか(笑声)いつて居りました。話は中々上手でありまして、態度が幾らか西洋人のやうな所がありました。(笑声)
それはまだ翁のお若い時―お若いと申しても四十才を越えて居りましたらうが、考へる時に一寸かうやつて(手を額にあてる)(拍手)(笑声)この考へ方は後に時々人がしたりしますけれどもその時には余程珍しいので、西洋人は何かといふと考へる時にかうします。(笑声)
外国か何処ぞで御覧になつて、あれはいゝとお思ひになつたのでありませうが、しかし態度は幾らか日本人離れがして居りました。(笑声)後にはさうもお見受申さなかつたのでありますけれども、その当時はさうでありました。
○下略
〔参考〕渋沢栄一 日記 明治四一年(DK260125k-0013)
第26巻 p.766 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四一年 (渋沢子爵家所蔵)
七月十一日 晴 暑
○上略
午前十時帝国大学ニ抵リ卒業証書授与式ニ参列ス ○下略
〔参考〕東京帝国大学五十年史 同校編 下冊・第一〇四―一〇五頁 昭和七年一一月刊(DK260125k-0014)
第26巻 p.766-767 ページ画像
東京帝国大学五十年史 同校編 下冊・第一〇四―一〇五頁 昭和七年一一月刊
○第四巻 第一篇 東京帝国大学
第八章 卒業式 行幸
○上略
明治四十一年七月十一日本学卒業式を挙行す。此の日 明治天皇本学に臨幸あらせられ、標本・古文書等を 天覧に供したる後、式場に臨御 御前にて卒業証書を授与し、優等卒業生十四名に恩賜銀時計を授けらる。
- 第26巻 p.767 -ページ画像
当日卒業証書を授与せられたる者は合計八百四名にして、内法科大学に二百八十四名・医科大学に百十四名・工科大学に百六十九名・文科大学に百二十四名・理科大学に三十名・農科大学に八十三名なり。
○下略
〔参考〕渋沢栄一 日記 明治四四年(DK260125k-0015)
第26巻 p.767 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四四年 (渋沢子爵家所蔵)
七月十一日
○上略 午前十時帝国大学ニ抵リ、卒業証書授与式ニ出席ス、十一時頃陛下着御、十一時半式ヲ開ク、此日暑気強ク流汗面ヲ掩フニ至ル ○下略
〔参考〕東京帝国大学五十年史 同校編 下冊・第一〇七―一〇八頁 昭和七年一一月刊(DK260125k-0016)
第26巻 p.767 ページ画像
東京帝国大学五十年史 同校編 下冊・第一〇七―一〇八頁 昭和七年一一月刊
○第四巻 第一篇 東京帝国大学
第八章 卒業式 行幸
○上略
明治四十四年七月十一日本学卒業式を挙行す。此の日 明治天皇親臨あらせられ、載仁親王殿下台臨あらせらる。例規に従ひ本学附属図書館内卒業証書授与式場にて 御前に於て卒業証書を授与し、優等卒業生十六名に恩賜銀時計を授けらる。
当日の卒業生は合計九百十八名にして、内法科大学に三百八十六名医科大学に百三十八名・工科大学に百七十二名・文科大学に八十一名理科大学に三十七名・農科大学に百四名なり。
○下略
〔参考〕商業資料 第六号 明治二七年四月一〇日 渋沢栄一と五代友厚(DK260125k-0017)
第26巻 p.767 ページ画像
商業資料 第六号 明治二七年四月一〇日
○渋沢栄一と五代友厚
日本の商業教育歴史に於て一大特筆すべきは故岩崎弥太郎氏なり、而して此岩崎氏が率先して商業教育の我国に最も必要なるを感じたると同時に、大阪に於ては故五代友厚氏・東京に於ては渋沢栄一氏等主として其商業教育の普及拡張を謀らんとしたり、今の東京高等商業学校即ち昔しの商法講習所なるものは渋沢氏の尽力多きによりて以て、今日の盛を見るに至り、今の大阪商業学校が校長に成瀬隆蔵氏を得て其盛ますます倍加するに至るも、其基礎は故五代氏の力に依て築かれたる事を知らは、如何に其渋沢氏の功の偉なるか、如何に其五代氏の績の著るしきかを見るに足るべし
渋沢氏の幕下には大学出身の腕利多し
渋沢氏と大学と何の因縁かある、然れども渋沢氏は今の実業社会に於て学者の大に利用せざるべからざるを先覚せし人なり、たしか明治十五年頃の事と覚ゆ、氏は学校の教師たる人にあらず、然れとも文部省より嘱托せられて氏は慥かに大学の講師となれり、氏は文部省に向て大学の講師たらん事を望みしなり、講師となりて一週間一度大学に至り、生徒の学業品質を吟味したり、而して他日己れの幕下たらしめんとする学者の撰抜に付て最も心を痛めたり、渋沢氏の幕下に今日大学出身の壮年学者多きは、蓋しこれが為めなり