デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
6款 其他 2. 共立統計学校
■綱文

第26巻 p.768-775(DK260126k) ページ画像

明治16年(1883年)

是年、大書記官杉亨二当校ヲ設立スルヤ、栄一ソノ趣旨ニ賛シ、資金ヲ拠出シテ之ヲ援助セシガ、後漸ク経営困難トナリ、十八年三月遂ニ東京統計協会ニ合併セシメラレタリ。


■資料

竜門雑誌 第五一九号・第七六―七七頁 昭和六年一二月 統計学と渋沢子爵(横山雅男)(DK260126k-0001)
第26巻 p.768 ページ画像

竜門雑誌  第五一九号・第七六―七七頁 昭和六年一二月
    統計学と渋沢子爵 (横山雅男)
 渋沢翁と論語との関係は、本校に於て明瞭でありますからそれは申しません。私は明治十五年頃中洲先生の門下生でありましたが、その後英学に移り、更に杉先生の統計学校へは入つて統計を専攻した者であります。杉先生は明治以前蘭学を修め徳川幕府の臣となり、後徳川家が静岡に封ぜられると共に、そこに赴いて居たのでありますが、明治新政府の基礎が固まると、そこへ呼び出されました、即ち先生を呼び出した人が渋沢翁その人であつたので、翁は明治の初年早くも統計の必要を認めて居られた方であります。それから杉先生は明治十九年頃独力《(マヽ)》で統計学校を起しその建築をするに当つて富豪に寄附を求めましたが、その中に第一銀行頭取としての渋沢子爵の名がある書類が残つて居ります。誠に翁の論語と算盤の、算盤と云ふのは統計の一つであるのでありまして翁が統計の必要を認められて居たと云ふ此の話はまだ人の知らないものであらうと存じますから、一言申上げました。


二松 第七号青淵先生追悼号・第五六―五七頁 昭和六年一二月 青淵翁と統計学(横山雅男)(DK260126k-0002)
第26巻 p.768-769 ページ画像

二松  第七号青淵先生追悼号・第五六―五七頁 昭和六年一二月
    青淵翁と統計学 (横山雅男)
○上略
 それから統計学校といふものが設立され広く生徒を募集するといふ事がありまして、私はそれを志願したのであります、其学校は、則ち只今靖国神社の附属地の愛国婦人会の附属地の一抹に学校が設立されたのが、所謂統計学校であつたのであります、そこの先生は、大正六年に九十歳の高齢を以て往生を遂げられました、杉亨二先生と申します。此の先生は、幕末の頃に蘭学を修められまして、その後幕末の外交の問題が段々に喧ましくなりました時に阿部伊勢守に召し抱えられ幕府瓦解の後は、徳川家達公につき駿州へ行かれて色々の仕事をされ沼津の兵学校に教官もされた、所が明治政府が段々仕事の緒につきますのについて、此の杉先生を、呼び出したのであります、その呼び出した人は誰であるかといふと、則ち青淵翁でありました、その事は、杉先生の古稀の寿宴を私共門下生が開きました時に、紀念出版物が出来、杉先生講演集といつて約四百頁の書物が出来て居ります、その中の先生の自序伝の中に明言してある、今日統計の学問は、私立大学・商科大学等に行なはれて居りまして、又仕事と致しましては、是非なければならない所の事業であるから、水村山郭到る所統計を課せざる
 - 第26巻 p.769 -ページ画像 
ものなき今日に至つて居ります、日本政府の統計の仕事といふものは最早今日我国に於いて、欧米先進国にも譲る事のない程に発展して居ります、此の源を開いた人は誰であるかと云ふと、青淵翁なかりせば杉先生も恐らくは、駿州の蒼海の辺で朽ちたかも知れません、此の意味に於きまして、私は維新の政府に、青淵先生が杉翁を奨められたといふ事に感謝せざるを得ぬので有ります。第二といたましましては、杉翁がかう考へられた統計の仕事といふのは、一つのサイエンスである、之を取扱ふ人間に頭がなくてはならぬ、就いては、人物を作らなければならぬ、而して、之を時の参議、其他要職の人に説きましたけれども、機運はなかなか起らなかつた、因て先生は独力を以て、学校を建てやうと決心された、恰度明治十四年の五月、統計好きな大隈さんの政府へ建言によりまして、統計院といふ大きな規模のものが出来たのであります。此の意味に於いて、私は、大隈伯は、常に統計侯と唱え、統計の侯爵と私は常に言つて居つたのでありますが、その統計院といふものは非常な権力を持つてゐて、院長は参議が之を兼ねるといふので、その役所が出来た時に、大隈さんが参議で、之を兼ねて御座つたのであります。所が明治十四年、北海道の払下問題で伊藤さん山県さんと議論が合はず、大隈さんの方が、野に下らなければならぬ様になりました、こゝに於いて、統計院長の資格を一段下げて、陸軍中将鳥尾小弥太さんがなられた、それで実業方面の方々に寄附をお願ひしなければならぬといふ事から、先生が三井とか、岩崎といふ様な富豪にお説きしたが、渋沢翁は第一人目に此の学校に寄附して下さつたのであります、それで渋沢翁は先には、日本の統計の元祖を明治政府に紹介し、後には其の元祖が学校を建てる時に、逸早く寄附者の一人になつて居られるといふ所から言ひますれば、我々統計に終始する者は深く感謝しなければならぬのであります。
○下略
   ○後出「杉先生講演集」第二一頁所掲ノ杉亨二実歴談ニ「明治二年であつたか、政府から召された ○中略 私を周旋した人は渋沢栄一だと云ふことだが」トアリ。


杉亨二自叙伝 河合利安編 第五四―五六頁 大正六年一一月刊(DK260126k-0003)
第26巻 p.769-770 ページ画像

杉亨二自叙伝 河合利安編  第五四―五六頁 大正六年一一月刊
    杉先生略伝
○上略
      ○統計学校を設立す
天下最も貴ぶべく楽むべきは有為の子弟を教養し国家貢献の人材を養成するに若くはなし、是を以て孟子も天下の英才を挙げて之を教育す是れ楽しみの一也と云ひ、教育を以て人間三楽の一に加へたり、先生が熱心主唱して統計学校を設立し青年教育の任に当りしもの、亦先生の理想抱負の如何に高遠なるかを指示するものなると共に、其明治文明史に貢献したる効果は真に欽慕すべく伝唱すべきもの多大なりと謂はざるべからず
明治十四年の大政変に依ツて参議統計院長官大隈重信、冠を掛けて野に下るや、鳥尾小弥太氏其後を襲ふて新に統計院長たるに至れり ○中略 
 - 第26巻 p.770 -ページ画像 
扨て先生は国家の前途を深慮して切に自ら期する処あり、真に国家永遠の業に貢献するは教育事業に在るを察し、乃ち学校創立を企て鳥尾氏に対して具さに相謀る処あり、鳥尾氏亦頗る先生の計画に賛同し、極めて助力すべきを以てしたりしかば、此に先生は愈々意を決して統計学校創設に従事したり、斯学校創立は全く先生一個人の計画にして決死の覚悟を以て是に当りしかば、政府部内の面々も皆先生の意気決心に動かされ、先づ宮内省の五百円を首めとし統計院の有志も皆応分の寄附金を醵出せしを以て、之を基本として九段坂下なる陸軍省用地を借り受け校舎を新築せり、先生自ら教授長の職に任じ、高橋二郎・寺田勇吉・岡松径等の諸氏先生を輔けて諸般の任務に当れり、教授科目としてはスタチスチック学二百余条を選定し、斯くて生徒募集をなしたるに、入学を請ふもの実に八十余名、三年間にして卒業せしもの三十六名、就学証明受領者二十七名に上れり、明治二十年代より今日に至る迄内閣統計局及び全国各府県に統計事務を執りしものは多く同校出身の人なり、此統計学校創設は我国文明史上には逸すべからざる関係を有し後代の範を垂れたるもの乃至国家に貢献したるの功績は真に多大なるものありき、莫遮明治十八年内閣制度大改革となるに及び先生亦廃官となりて閑散の身となり、随つて学校の経営も漸く困難を訴ふるに至り、悲しい哉先生の独力を以てしては所詮維持の目算なきに至り、遂に廃校の已むなきを致せり、真に惜しみても尚ほ余りある次第なり、右統計学校出身者の姓名(いろは順)左の如し
 今井藤四郎   今井武夫     池田近勇
 岩井徳次郎   飯尾利幸     伊藤義見
 飯田旗郎    伊藤才次郎    井沢志津馬
 橋本巳之橘   長谷川洒     西川諫
 仁田貞吉    戸川孝太郎    土肥正一
 富田松三    大沢起綱     小沢半平
 大浜信     大川孝五郎    和田千松郎
 和田鐸之助   河合利安     海北勇
 河野通智    横山雅男     竹田唯四郎
 高木七郎    多治見十郎    都々野竹造
 堤貞吉     中曾根寿二郎   中村東一
 永田豊     永田克孝     永山嘉一
 永田正幹    村上丈夫     村垣振
 臼井喜之作   植野為吉     熊谷銓吉
 山中政太    正木律二郎    藤田磯
 丸岡彦四郎   松田静太郎    福原全治
 小林亀太郎   小島福太郎    相原徹
 芦立文之進   佐伯範一     宮本基
 水科七三郎   三井久腸     宮武勇平
 柴谷亀雄    篠原義徳     清水信彬
 柴田鉄一郎   遠藤踟      杉浦久兼


杉先生講演集 世良太一編 第一〇五―一一二頁 明治三五年八月刊(DK260126k-0004)
第26巻 p.770-774 ページ画像

杉先生講演集 世良太一編  第一〇五―一一二頁 明治三五年八月刊
 - 第26巻 p.771 -ページ画像 
    ○統計学校開校の辞 明治十六年九月
今や本校将に教授の緒を開かんとするに臨み敢て一言を陳べて余の丹心を生徒諸氏の腹中に布き、且つ聊か諸氏将来に向て宜しく注意を施すべきの要点を示し、以て此校に教授長たるの責を塞がんとす
抑余の告げんと欲するものは三件に過ぎず、曰く本校諸氏を待するの情意、曰く謹で本邦現行の条例規則を遵踏せんことを望む、曰く殊に親睦の情意を厚くし、団結互助の形体を永遠の後に維持せんことを望む、是のみ、今之を逐次左に開陳すべし
余の今此席に臨みて机卓の間に諸氏と相見るに及び、余は実に余の予図の果して違馳せざるの喜びに耐へざるものあり、其予図せし所のものは何ぞや、着実沈静岐途に迷はず急躁に失せざるべき諸氏の如きものを得て相共に此業を永年の後に大成せんと欲するの情意是なり、元来此学たる其開発日尚浅く、支那にありては禹貢の篇、欧洲にありては摩西斯の人口録等の如く、生民ありて以来未だ嘗て其跡を人間の中に絶つことなしと雖も、然れども能く一学問たるの体裁を具備せしは僅に前三十余年の近きにあり、是を以て方今開化の称ある欧洲各国と雖も普魯士某州に在る協立スタチスチツク学校の外之を講習するものなく、欧人目して幼稚の学問と云ふ、今諸氏は未だ開化の称を有する能はざる本邦にありて進みて此幼稚の学問を修め以て本邦の面目を一変せんと欲す、諸氏の前途は実に遠且大と謂うべきなり、又諸氏は此業の一大難事たる所以を知るか、試に世間人事の変遷活動昨日の是は忽ち今日の非となり、昨年の事物は已に今年の事物にあらざるの状を熟視せよ、人生に生、婚、死の三大関節あり、而して生に公私の別あり単胎あり、双三四胎あり、死胎あり、以て此生を始め、婚にも亦公私の別あり、再三四婚あり、離婚あり、妻死夫死の離縁あり、死に亦常変の別あり、生れて直に死するあり、夭折するあり、以て此生を終ふ只是れ一身、而して此三大関を経歴するの間に於て纏綿附着するもの件々相積みて実に数千万に至り、此個々数千万の事実を有する人生団団相群集して又数千万の多きに至り以て此人間社会を構成す、諸氏此活動の実状を目撃せんと欲せば一朝日本橋畔に赴き舟子の操棹、担夫の奔走、東西相喧騰するの状を一見せよ、諸氏にして果して静神沈思の労を其間に厭ふなくんば、忽ち社会経世の条緒の盤根錯節にして実に其端倪だも容易に判知し得べからざるの驚動を感ずるものあるべし欧人此人事の変遷を名状して坤輿の大演劇と称す、然るに此演劇たる動止必ず縁由あり、進退必ず規律ありて其間に存し、人間社会の栄枯盛衰は只此規律に一遵一背の間に決す、今諸氏は此人間社会を進退すべき大権力ある自然の規律を発見し、以て斯国を安きに置くの業を起こさんとす、諸氏の事業は実に繁且難と謂うべきなり、今夫れ此遠大にして且繁難なる事業を大成せんと欲す、是等固より急躁事の失却を招き、浮薄業に倦むの徒と共に語る能はざる所にして、余の此校を興すに当り窃に憂へし所のものは偏に此点に存せしなり、然るに幸にして大抵年歯丁壮に近く、精神堅確、敢進勇為の諸氏と与に今日玆に相会して此業大端を開くを得、嗚呼亦た快なり、余の喜びて措く能はざる所以と、本校の諸氏を待する所以とは夫れ此の如く、厚く此くの如
 - 第26巻 p.772 -ページ画像 
く優なり、諸氏熟慮せよ、本校は諸氏を以て已に年歯丁壮にして、敢て他の検束使令を要せざるも能く自ら其道に入るを知り、以て此大業を成就するに充分堅確なる精神を有するものなりと認めたり、是を以て本校は他の例に傚ふて懈怠罰責し退学を命ずる等の厳法を設けて諸氏を待つ如きことは一切之をなさず、又二期大試業黜陟法に只試験皆済・半済及び未済の三等を立てゝ及第・落第等の法を用いず、就学予備の科を設けて疾病其他の事故に阻せられて学業を果す能はざる諸氏の志望を満足せしむる如き、亦凡て諸氏を大人視するの意に出づるものとす、本校の諸氏を優待する情意は大抵此の如し、諸氏遠慮熟考自ら検束し、果して本校の信認する所に違はず、以て余の予図する所を満足せしめよ
次に余の諸氏に向て深く希望する所のものは諸氏の深思遠慮謹で本邦現行の国法を遵守し、仮りにも法例の指す所となり、其疵害引きて本校の体面上に及ぼさしむるが如き挙動なからんこと是なり、余の諸氏を信認するの厚きを以て尚殊更に玆に之を布陳する所以のものは抑故あるなり、諸氏は勿論精神確実なりと雖其年歯よりして之を論ずれば奇を好むの一事をば蓋し未だ全く免るゝ能はざるべく、是を以て奇大喜ぶべきの論あり、頻々来りて之を皷動するあらば志気激発の余諸氏或は之に聴従し、不知不覚の間に罪科に陥る如きことなきを得んや、是れ此学を修むる上に於て障害を与ふる最大価あるものなり、余は一言諸氏に注意しをかざるを得ざるなり、所謂奇大喜ぶべきの論とは何ぞや、方今世間に大勢力ある政談演説の如き即ち是なり、然りと雖も元来此事たる能く思想力を涵養せしむる等固より今日の社会に欠くべきものにあらず、是を以て今余の諸氏に注意せんと欲するも亦敢て此事を以て諸氏の頭脳に有害なりとなすにあらず、只所謂最繁至難と称するスタチスチツク学講習の上に向て甚大なる妨害を与ふる所以の点を指示せんとす、抑此事業の最繁至難たる所以は略ぼ已に余が演述せし所の如し、是を以て其学亦只一線単条にして能く其目的を達し得べきにあらず、神学・地学の風儀スタチスチツクに於ける、生理・物理二学の衛生スタスチツクに於ける、精神・歴史二学の人員スタスチツクに於ける、論理学のスタチスチツク全体に於ける等、皆密着の関係あるものにして、此諸学を欠かばスタスチツクは独り能く其完全充美なる効力を逞ふする能はざるなり、今諸氏は已に能く此諸学を具備せしか、余は先般本校入学試験の結果につきて之が観察を下すに、諸氏其精神の堅強なるにも拘らず此一点に至りては窃に憂懼を将来に遺さざるを得ざるものあるなり、人生の脳力は蓋し定限あり、然らば諸氏今より専心従事すべきの第一着は即ち此関係の諸学を修むるにあり、彼の政談演説の如きは要は則ち要なりと雖、諸氏の今日にとりては之を第二着の地歩に譲らざるを得ず、況んや此事たる、諸氏に対しては固より政府法例の禁ずる所にあり、若し夫れ其論説の奇大なるを喜びて所謂第一二着歩の順序を誤まり、一旦国法の問ふ所となり世人をして彼の校は罪人を出せり、罪人を出すが如き学校は信憑するに足らずとの悪評を下ださしむるに至りては、余等若干の資を擲ちて此校を起こし以て諸氏を待つものゝ甚だ快しとせざる所なり、此の如きは即ち
 - 第26巻 p.773 -ページ画像 
急躁者のみ、岐路に迷ふもののみ、精神腐敗せるものゝみ、余等啻に之を厚待するを好まざるのみならず、固より共に語るを喜ばず又語るに足らざるものなり、諸氏切に将来を商量して冀くは誤まるなかれ
後に諸氏に望む所のものは諸氏の親睦の情を損せず団結互助の体裁を永遠に維持せんこと是なり、普魯士の大学生は眉間常に撲痕を存す、欧人高談し以て其活発勇悍なるに誇る、是れ殆んど本邦の旧時額頭の刀痕能く五百石の禄を買ふ如き武断政治の下に立つものゝ業のみ、今日にありては啻に誇るに足らざるのみならず茶席の談柄となして一笑を博するに足るのみ、何ぞ貴ぶに足らん、況んや前陳の如く実着繁密の事業を前途に期する諸氏にありては、苟くも此の如きの風習に浸染せしむること其害殆んど大事を誤まるに足るものありて存するなり、諸の事業中或は孤行単立にして能く其目的を達し得るものありと雖も社会の全体に関する此業の如きに至りては、固より全社会一体に団結して東西気脈を通じ甲乙相補助するの仕組にあらずんば其大成は得て望むべからざるものとす、而して全社会をして果して此体裁を保有せしむると否とは一に諸氏相互の親睦如何に関すべし、請ふ試みに聊か其理由を陳ぜん「スタチスチツク」の要主意は所謂大数上の経験なる一語に帰するものにして、人間全社会の機軸となり其変遷活動を司どる天法即ち余の前に論述せし人生自然の規律なるものは、独り此大数上の経験によりて之を得べきものとす、而して大数云々なる語は世間多量の事実を畳積し以て経験に附するの謂にして、例せば一郡は一町村より其事実の数多く、一県は一郡より多く、一国全体上に至りては又一層其多を加へ、其国人寿の長短、民間経済の実状等、一郡村の経験にありては未だ其端倪をも窺見すること能はざるもの、一県上の経験に至り初めて其長たり短たり富たり貧たるを観察するを得、全国を通じて之を験するに及び漸く其実状を断定し併せて其長短貧富を生ずる所以の起因を明解し得る如き是なり、諸氏試に思へ、諸氏の各地に在りて業を執るに当り、乖離散在気脈相通せず疎隔相関せざる如き各個孤立の形体にして、果して是等の目的を達し得らるべきか、是等の理由に至りては固より一場の談話の能く尽くす所にあらざるを以て、其詳細は勿論教授の際に譲らざるを得ずと雖も、近く之を譬うるに某の地に一叢竹あり、測者其総竿を計測し平均尺の他に比して伸長せるを見、初めて此地竹植に適せりと断言し得るが如し、然るに此際測者東叢に在るものは其測る所を以て之を西端に報ぜず、甲者は乙に聞かしむるを好まず、乙者は丙に語るを嫌うが如きことあらんには、此地の経験は到底其結果を見ることなく、其労して得し所のものは、竹木雑植交々相害し両ながら失ふて止むが如きの愚計に出づるを免れざるべし、復た笑ふべきのみ、諸氏にして一旦乖離孤立の失体に陥らば、其結果亦唯此の如くにして止まんか、諸氏の親睦は実に此業終末の結果に大関係あり、諸氏冀くは此理を了し、長く団結互助の体を維持し以て此業を大成せよ、諸氏の前途は決して孤立単独にして成るべきものにあらざるなり
余の殊に諸氏に告げんと欲せしものは大略右の如し、古伝ふ、大邦扶桑木あり、枝葉繁蔓全州を隠蔽すと、諸氏の堅強勇為なる精神を以て
 - 第26巻 p.774 -ページ画像 
してよく余の告ぐる所を了し黽勉怠るなくんば、余は断じて此業の良結果を見るも亦た甚だ遠きにあらざるを知る、諸氏全く本校の業を卒はるに及び本校を以て其根基となし、諸氏枝となり葉となりて我が八十余国の事実を網羅すること猶扶桑木の六十余州を影蔽滋潤するが如くならば、豈亦一大快事ならずや、諸氏須らく勉むべし


東京統計協会沿革略誌 同会編 第四頁 刊(DK260126k-0005)
第26巻 p.774 ページ画像

東京統計協会沿革略誌 同会編  第四頁 刊
○上略
同年 ○明治一九年二月七日 共立統計学校を本会へ合併するの議を同校へ照会し同月九日同意を得て之を合併す。依て同校資産の引継を受く。
○下略


新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第六巻・第二六一頁 昭和一〇年一〇月刊(DK260126k-0006)
第26巻 p.774 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第六巻・第二六一頁 昭和一〇年一〇月刊
  共立統計学校
    東京統計協会へ合併
〔三・三一明治一九年朝野〕 共立統計学校 ○九段坂下牛ケ淵の同校にて過般第一期卒業生徒若干名ありし内、東京府・福島県へ各一名、統計局へ一名、逓信省へ一名夫々拝命したるが、同校は何分維持法の立たざるより、今度東京統計協会へ合併されし由、右に付同校の書籍・器械及び資金九百五十二円余を協会へ引渡されしと云ふ。


新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第六巻・第二八〇頁 昭和一〇年一〇月刊(DK260126k-0007)
第26巻 p.774-775 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第六巻・第二八〇頁 昭和一〇年一〇月刊
  統計学研究の
    スタチスチツク社
〔五・七明治一九年改進新聞〕 スタチスチツク即ち統計学は、文明世界の新学術にして其人間社会に功用の大なる事は今更ら弁を要せざる所なるが、明治九年中有志者相謀りて同学研究の為め表記学社なる一社を興し、種々其道を研究するの際、同十六年中共立統計学校設立の事あり、同校生徒四十余名同盟してスタチスチツク同盟会と云ふを興し、是又其道の拡張に尽力せし所、本年に至り右二社合併してスタチスチツク社と名付け、既に会員も九十余名に及びしが、猶又広く会員を全国に募りて益々其道を拡めんとす。其の主意はスタチスチツクの学術が盛んに我国に開くるやうになりたき事(第一)、スタチスチツクを実際に運用する智識の開くる様になりたき事(第二)の二条ありて、彼の東京統計協会は実際を重にし、是は学理を主にする積りにて、互に連絡して、統計学の功用を求むるものなりと云ふ。又同社にては毎月一回雑誌を発行し会員に頒つ筈にて、本月五日を以て、其の第一号を神田区猿楽町十七番地右発行所より発兌せしが、持主兼編輯人には同社幹事今井藤四郎氏、印刷人には社員内田美功氏が記名せり。
   ○杉亨二、文政十一年(一八二八)長崎ニ生ル。旧称純道、幼年ニシテ父母ヲ失ヒ、祖父杉敬輔ニ養ハル。後、公儀ノ時計師上野俊之丞ニ預ケラレ、苦役ニ従ヒ孤児故ニ困苦ス。上野ハマタ西洋ノ細工物ヲ調整スル所ヨリ、大阪ノ緒方洪庵等長崎ニ遊学スル人々ト親シ。洪庵ノ弟分、緒方摂蔵・手塚律蔵・村田徹斎等上野ニ寄寓スルアリテ、夜間経書ヲ学ブコトヲ得。更ニ摂蔵ニ依ツテ「医範提綱」ヲ知リ、医ヲ志ス。十六・七歳ノ頃村田徹斎
 - 第26巻 p.775 -ページ画像 
ニ進メラレテ上野ヲ辞シ大村ニ赴キ、村田ニ寄寓シ後チ更ニ大阪ノ緒方洪庵ノ塾ニ学ブ。当時苦学ノ為メ夜間笛ヲ吹キテ按摩ニ歩ク、此ノ時後チノ大村益次郎・佐野常民ト知ル。幾クモナク病ヲ得テ再ビ大村ニ帰リ、村田徹斎ノ江戸勤番トナリシニ従ヒ共ニ出府ス。江戸ニハ手塚律蔵ニ寄寓シ手塚ニ蘭学ヲ学ビ更ニ坪井信良ノ塾ニ入リ、進メラレテ村上英俊ノ助手トシテ蘭仏対訳ノハルマヲ訳ス。コノ謝儀ヲ以テ杉田成卿ノ塾ニ入ル。時ニ二十三、神田孝平ト知ル。奥平藩岡見竜蔵ノ推薦ニヨリ奥平侯ノ蘭学教授トナリシモ、辞シテ立花正甫ノ許ニ仮寓シ、一日立花ト共ニ勝海舟ヲ訪ヒ勝邸ニ寄寓ス。コノ間大目付伊沢美作守ニ知ラレ、紀州ノ家老水野土佐守ニ乞ハレテ丹鶴書院ニ於テ蘭学ヲ講ズ。更ニ閣老阿部伊勢守ニ知ラレ、蘭書ヲ講ジテ十五人扶持ヲ給セラレ、阿部家ニ仕フ。万延元年蕃所取調所教授手伝ヲ命ゼラレ、元治元年幕府直参ニ召出サレ開成所教授並ニ進ミ、三十人扶持役料二十五両ヲ給セラル。コノ折西洋ニ統計ノ学アルヲ知ル。慶応四年徳川家ニ従ツテ駿河ニ移住ス。新任地ニ於イテ始メテ政表調査ノ実施ヲ企図シ、駿府奉行中台伸太郎ニ諮ル。中台ソノ説ヲ入レ、即チ吏ヲシテ調査セシム。亨二自ラ江尻・原・沼津ニ赴キテ調査シ、原・沼津ノ政表完成ス。時ニ清水次郎長ト知ル。偶々藩ノ重役ニ異議ヲ唱フル者アリ、朝廷ニシテ戸口調査ヲ令セザルニ静岡藩ニテ独リコレヲ行フハ不可ナリト、遂ニ中止ス。後、沼津海軍兵学校教官トナリ仏語ヲ教授ス。明治三年七月民部省出仕ヲ命ゼラル。時ニ三ケ条ノ建白書ヲ出ス。曰ク、一、奴隷ノ廃止二、四民ノ通婚ヲ許ス、三、土下座礼ノ廃止、併セテ政表調査ノ要ヲ説ク民部省亨二ニ戸籍調査ヲ命ズ、亨二ソノ統計ト異ル所以ヲ説キ、同年九月辞任ス。翌四年十二月正院大主記ニ任ゼラレ、始メテ統計ノ事ヲ扱フ。仍ツテ諸官庁ニ牒シテ政表ヲ報告セシメコレヲ編纂シテ「辛未政表」成ル。以後毎年続刊シ、又、大蔵省ノ出入貿易年表ヲ改良ス。明治七年三月太政官出仕政表課長タリ、乃チ全国郡別民費調査ニ着手シ公刊ス。亨二ノ手ニ成リシ明治初年ノ政表ハ辛未政表ヲ首トシテ、壬申政表、明治六年――十一年ノ各年海外貿易表、民費表、六年――十年ノ各年警察表、六・七年両年ノ司法刑事裁判表、六・七・八ノ三年ノ陸海軍裁判表、七・八両年ノ家禄賞典禄表、府県賦金表等アリ。就中甲斐国現在人別調ハ十三年着手、十五年六月ニ至リテ完成シタルモノニシテ本邦不朽ノ典範ト称セラル。十四年統計院設置セラレ、大隈重信長官タリ。亨二大書記官ニ任ゼラレ、是年ヨリ統計年鑑発刊サル。明治十六年春、共立統計学校ヲ創立、十八年統計院廃セラレタルヲ以テ亨二マタ辞任シ、従ツテソノ経営不可能ニ陥リ、東京統計協会ニ合併ス。明治三十六年法学博士、四十三年国勢調査準備委員会委員仰付ケラレ、大正六年十二月四日歿ス。(「杉亨二自叙伝」ニ依ル)
   ○本資料第二十七巻所収第四章学術及文化事業中「東京統計協会」ノ項参照