デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
6款 其他 5. 新潟商業学校
■綱文

第26巻 p.785-793(DK260130k) ページ画像

明治34年4月30日(1901年)

是ヨリ先是月二十五日、栄一信越地方巡察ノ旅途ニ著ク。是日当校ニ到リ、生徒ニ対シ一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK260130k-0001)
第26巻 p.785-786 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年    (渋沢子爵家所蔵)
四月三十日 晴
 - 第26巻 p.786 -ページ画像 
○上略
食後新潟商業学校ニ抵ル、生徒ニ対シテ修学上ノ心得ニ関スル一場ノ演説ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第一五八号・第一―六頁 明治三四年七月 ○新潟商業学校に於ける青淵先生の演説(DK260130k-0002)
第26巻 p.786-790 ページ画像

竜門雑誌  第一五八号・第一―六頁 明治三四年七月
    ○新潟商業学校に於ける青淵先生の演説
 本編は本年四月三十日新潟商業学校に於て青淵先生の演述せられたる商業教育談の筆記なり
臨場の諸君・学生諸子、今日は私が御当地へ参つて居りましたに就て当新潟商業学校で学生諸子に対して一言の商業教育に関する意見を述べるやうにと、此ほど教頭の川口君が御依頼がございました為めに、此処に罷り出で諸君にお目に懸つた次第であります
只今川口君から私のこれまでの経歴に就いて御紹介下さいましたが、甚だ溢美過賞と申すべき様で却つて慚愧に堪へませぬ、決して商業界の泰斗とか、若くは商業教育の率先者といふ如き私は功労は無いであらうと思ひます
併しこれ等の謙遜の言葉を此処に縷述いたすも必要の無い次第でございますから、此処に学生諸子に対してお目に懸かつたを機会として一言申し述べて置かうと思ひますことは、第一に商業教育が今日の実業界に如何に必要であるかといふ点と、もう一つ商業教育に従事せられた諸君が、将来どういふ考へを有つて此世に処するが宜しいかといふ二つの事柄に就いて愚見を申し述べて置くやうにいたしませう
此処に申し述べますことは、私は度び度び東京若くは其他で演説に談話にいたしたことでございますから、詰り新案ではござりませぬ、或は陳腐のことに思はるかも知れませぬが、偖て平生の宿志といふものは俄かに変はることでないから、毎時も同じことほか申されませんので、甚だ事の古めかしいことは御容赦を請ひます
此実業教育が今日の実業界に如何に必要であるかといふことを申し述べますには、第一には日本の商売がどういふやうに成長したかといふことを簡単に申さなければならぬと考へる、日本の商売は一昨夕も御当地へ到着いたしまして、有志諸君の御案内を蒙むつた席上でも概略申し述べましたけれども、此維新以前に在つては、頗る区域の狭い頗る軽蔑されたものである、故に商売に対しての教育といふことは殆んど先づ無かつたといふ外無いです、御当地辺は如何であつたか、私も矢張り田舎に生れて田舎に生長したものである、東京より二十里許り隔つた中山道の在方で生長いたしましたから、私共小供の時分に教育された其生徒は殆んど常に申して居りますが、商売往来といふ書物と塵劫記といふ算術書、此二冊外商業教育は無かつたと申して宜しい、殊にそれも商業といふか、普通教育といふか、若くは大学といふか、区別し難い如き教育法であつた、甚だしきは此教育は商業家に在つては成る得べきだけこれを避けるやうにして居つた、殊に商業家の最も忌むのは漢籍てあつた、といふ一の例を申しますると、川柳に「売家と唐様に書く三代目」――尤も三代目になると少しづゝ人の前に学問などの考へが附いて来る、其時分に身代が悪くなる、遂に売家といふ
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札を唐様で書くやうになる、そういふ学問であつた、故に殆んど漢籍などを教へるのは家を滅ほす如く見做されたものであるから、結局東京あたりの立派のお棚と称へる商家などでは、子供に四角の文字を読ませると大変年寄りが叱かり、且つ戒しめるといふ程であつた、然らば此外、漢籍以外に如何なる教育があつたかといふと、其日其日の商業の取締と事務の以外に、子供の教育が無かつた、僅かに今申す筆算と、そうして自分の名前を書くとか若くは加減乗除の算盤が出来る、これで以て教育は足れりとしてあつた、故に其商売人が世の中から卑下されたといふことも、誠に已むを得ぬ場合であつて、詰り人に向つて尊敬さるゝべき元手を入れるといふことは一体無かたのである、其取扱ふことは勿論商売人の仕事は卑しいものと誹られ、又其成長するものは左様に無教育に成り立つて往く、こうして己れも人も、己れ自身が商売人は野卑のものである、損益さへ知つて居ればこれで済むものであるといふ心持を有つて、自からも卑下した、人も卑しみ又自からも卑下する、そういふ有様で発達しやうが無いといふことは、数の免かれぬ話しである、其有様で遂に此維新以前若くは御一新になつてから、外国人などに相交はるといふ時に至つては、実を申せば用意が無いと言はうか仕度が無いと申さうか、何も無しに立派に一人の人と相対するといふ世の中になつて来たからして、維新草創の、若くは其以前の海外通商に就ての商売の仕方などゝいふものは、殆んど外国人に対すると先づ手代といはうか番頭といはうか、モウ一歩悪くいへば仲買・賽取といふやうな者で決して相対するなどは一人も出来た人は無い、事は知らず量見は卑しい、何にか詐はつて彼れを掠めて金を少少儲ければこれが最大の働き、斯くいふやうな仕方で外国人に接したから、日本に参つた外国人は日本人を見て、情けない有様だ、商売に就いては殆んど智識が無いと見下られたも已むを得ぬのであります、それで政治家は此商売人を率ゐてそうして今の世の中からして珍重され、政治家なり、軍人は此力に依つて国家を進めて往かう、強めて往かうと、組み立てゝある外国人と相戦ふて往くのであります、それこそ卵を以て鉄に叩き附けると同じで、これは迚も商売にも何んにも比較になつた咄しで無いからして、相取り組むことが出来ぬ、商業は着着進んで往くのに、独り日本人は不信用であるといはれて居るのは、其原因遥かに遠しといはんければならぬ、従つて其頃の教育家は、どういふ有様であつたか、――其頃と申すのは維新後の教育です――、先づ初めに学校は出来ましたけれども、此文部省で大学を作つても、学問の勤めは総て政治家になるとか学者になるとか、教師になるとかいふ外に学問の考へは無かつた、商売に工業にといふやふな学術は殆んど維新草創の間には唱へる人が無かつた、蓋し人も無かつた、こゝに実例を一つ申しませう
明治十三年である、漸く文部省に理科・工科が出来て、そして理学士工学士といふやうなものを、造り出すことになつた、其頃十三年に私が――今は会社になつて随分重大なる東京の一会社でございますが、瓦斯会社であります、これが東京府に属して瓦斯局といつて居つた時分は、此瓦斯局の東京府から委嘱されて東京府の瓦斯局長をして居つ
 - 第26巻 p.788 -ページ画像 
た、其時に外国人にばかりやらせて見るのは甚だ残念である、どうか日本人にやらせて見たいといふので、今申した其理学士を雇はうと思つて此大学に照会をしたときに、教師も其時の大学総理も至極宜からうといふて相談をしたが、本人が嫌やだといふた、何ぜ本人が嫌やだかと聞いて見ると、此事業は後に人民の事業になる、そうすると自分は民間に下らなければならぬ、同じ直段では自分は嫌やだ、それが丁度十三年である、私は是に至つて、文部省の教育が実に情け無い有様だといふことを酷く嘆息した、何んとなれば若し民間に下るが嫌やといふことであれば、此事業は何処でやる積りか、教員になるか、役人になるか、然らざれば政治家になるか、政府の事業をするか、漸く工学なり、理学なりを大学に於て課程を設けて、そういふ生徒を養ふこれも容易の費用で無い、況んや仕上げた人の心は如何であるかといふと、普通民間の事業は大層卑下さるゝものであるから嫌やと生徒がいふ、此学校の世話をする、即ち其時の大学総理といひましたのは今の加藤弘之博士である、どういふ意見を有して此学生を薫陶して居るか指導して居るか甚だ疑はしいと思つて、加藤氏に其事を酷く嘆息して咄したことがある、加藤氏はそれを聞いて恠しからぬことだ、面目が無い、誠に民業を卑しいといふことは如何に学校でもそういふことは時々申して努めて説得いたしませう、再三説得いたし、且つ私も其人に会つて、将来に在つては寧ろ民業の方が望み多いと、或は道理を以て説き或は利益を以て誘ひ、漸く其人を瓦斯局に雇ふたといふ例がある、私は今川口君から、商業教育に就いて大に憂慮した人であるといふお褒めの言葉を戴いたが、これが即ち其頃である、今の東京商業学校は其原因はもう些つと始めでした、明治七八年頃成り立ちましたがこれが東京の高等商業学校に向つて商業教育を勤めんければならぬと観念したのは丁度今の一年前――十二年頃であつて自分の心の低き感じを強めた、前に申す通り商売人は至つて卑下されて居る、従つて商業教育は殆んど無い、又其他に教育といふ教育は一歩過ると革命家になるといふ教育の仕方である、幸ひ維新後欧羅巴に則つて教育法を一洗いたしたであるが、偖て其教育は皆な矢張り政治家・役人の教育で大体民業に充つべき工学とか理学とかいふものまでも組み立てゝも、其科の生徒は今申すやうな意念であつて、殊に商業に対しては殆んど教育といふことは、明治十三四年頃まで未だ世間に無かつた、僅か東京に講習所があつて、東京市も――今は市ですが其頃は東京府であつた――東京府から聊かの保護を願つて維持して居る、甚た微々たるものであつた、所が其十五年に其東京府には不用のものがあるからこれを廃校するといふ議を起して、一方には民業を軽蔑して大学に稽古したところの、詰り民業に必要なる学科を訓練した人すら、尚ほ民業に就くを嫌ふ時代に幸ひ東京府で聊かたりとも商業教育が持続されてあつたのを、無用の経費なりとしてこれを廃止せんといふ決議を為すに至つては私共酷どく驚いた、これは以ての外のことだ、斯ういふ仕方で教育の総べてのもの或る部分は皆な政治の教育に走つて仕舞ふ、従つて此商売にはトンと誰れも心を用ゐて呉れぬといふ、商業教育に対して心を用ゐて呉れぬといふ仕方であつては未来は如何になるか、迚
 - 第26巻 p.789 -ページ画像 
も日本の商業教育は、発達することは覚束ないといふ観念を起しました、それから初めて東京市に、経費を支弁して学校をして廃滅に帰さぬやうに、これを持続させるといふことに多少議論尽力いたしたのでございます、これが十六年でごさいましたが、其事に就いて時の東京府知事が大層骨を折つて、市民の重なる人に向つて醵金などを募りまして、其醵金を以て維持することにいたした所が、政府に於ても斯く東京市民が商業教育に強い、東京市が廃したのは心得違ひであるから仕方が無い、然る上は政府から此費用を出して維持する外仕方が無からうといふことで先づ一年は農商務省から金を出して維持して、そうして其翌年、此教育は成るべく専一に帰することが宜からうといふことで、文部省に帰して一歩一歩進んで、今は生徒が四百人もあり、経費も拾万円近く支出する相当の学校に成り行きました、丁度それを顧みますと、十八九年・二十年内から以前のことでごさります、今日で見ますと、商業学校で成り立つた生徒が商業家になるといふことを望むは勿論のこと、或は帝国大学から出身した人も、大分商業教育に従事するものは進んで望むやうになりましたのは、時勢の変遷とは申しながら、僅か二十年の間に、私一身の考へでありまするが甚だ心嬉しい、実に僅かの中にそういふ人気が変はつたかと、昔日を考へますると愉快に考へます、実際商業教育に於てはまだ今日の程度を以て果して完全と申し兼ぬると吾々は思ふのであります、已に昨年の冬から当春へ懸けて高等商業学校出身の人達は互に相謀つて、遂に此学校を今一歩進めて商業大学とまで至らしたいと希望して居ります、但し此商業教育は只だ位地を進め気位を高めるといふ方が必要だといふのでは無い、寧ろ商業教育を得て商業に従事する人は、成るたけ事業に専ら任するやうになりたいから、余まり位地を高めるとか階級を上げるとかいふことは好みませぬけれども、併しなから今日までの余弊、即ち商業を一般卑しめるといふ観念が、商業界には少なくなつてもまだ他の部分に多い、即ち政治界、若くは軍人者間とか、そういふ自から其位地を高めることも必要であらうといふ意念から、今申す商科大学といふまでに此科程を進めたいといふ説も起つて、互に講究しつゝあるといふ迄に相成りました、左様に教育上の時体も進歩して来ましたが併しまだ商業界に出た人達が十分に此商業界のことを取つて居るといふ時代であるかと申すと、相当に歳月は経過しましても、社会から考へて見ますると、まだ歳月が浅い為めに、今の教育が我日本の商業界に対して、十分に働いて居ると申せぬでありませうけれども、尚ほ十年・二十年の歳月を経て参りますれば、遂には真正なる学問に依りて成り立つた人が追々に殖えて参つて、遂には商業者といふ一体の品格一体の気象が昔日と全く異なるやうに相成るであらう、それで始めて力が細いにもせよ、日本商業界は他の部分と肩を並べるやうに相成るであらうと、末を望んで居るのであります、若し果して政治若くは軍人・教育・法律、そういふ種類よりも割合に大に優るとも劣らぬ位地に商業界が進まぬならば、即ち日本の商勢は何時までも最下級に居るといふ有様になつて終はらねばならぬと申さぬければならぬのですからして、今の如き希望は私は国を思ふ人に於ては、独り私が申上ぐる
 - 第26巻 p.790 -ページ画像 
ばかりで無い、どなたでも左様に観念して、左様に其位地に達することに、商業界に従事するお方は望まんければならんことに私は申し上ぐるのでございます
商業教育が今日の商業界に左様に必要なことである、是非相当なる学問に依つた商業でなければ、此末は決して第一国の商務を処理して往くことが出来ぬのみならず、一歩進んで海外に対等の商業をなし往くことが出来ぬといふことは、私が申上ぐるまでも無く誰れも信ずることであるが、誰れも信じてまた其場合に至つて居らぬといふことは、諸君は御承知あらねばならん、且つ商業教育が此商業界に必要だといふことを申し述べればまだ種々なる点がありますけれども、略してここに止めて、これから先き商業教育に薫陶された人達が――即ち今此席にお出での学生諸子が、未来――学業を終つて向ふの覚悟は如何であるか、諸子の量見はどうして宜しいかといふことに就て一つ申し述べて置きませう                  (未完)


竜門雑誌 第一五九号・第四―八頁 明治三四年八月 ○新潟商業学校に於ける青淵先生の演説(承前)(DK260130k-0003)
第26巻 p.790-793 ページ画像

竜門雑誌  第一五九号・第四―八頁 明治三四年八月
    ○新潟商業学校に於ける青淵先生の演説(承前)
学問の次第は、他の学問も商業に就いての学問も別に変つたことは無い、第一に勉励して能く覚え能く記臆して、教官なり其他指図をする人の命令に服従して、其与へられて居る課程を十分に練習するといふやうにせねばならぬ、商業に従事する人は是非此事は別して心を用ゐんならぬので、成るたけ心を専らにせねばならぬ、商業といふものは誰れも彼れも皆な大将になるといふ考へでは、決して其教務が十分挙つて往かぬ、先づ其課程に就て学び、到る処に皆さんは成るたけ一の技術者になるといふことの考へを有つて苦心して往かんならん、志しもそういふやうになくばならん、私は前には商業者が甚卑下されると困る、気位は高く持たんならん、決して政治家・軍人、其他の向と同一に相並ふやうに心懸けなければならぬと申したのは、其力とか智識の進んで往き方が、只だ無暗に交際の為めに、軍功の為めに、高慢に尊大にして不覚を取るなといふ主意ではございませぬ、こゝはどうでも言葉を以て意を解してはなりませぬから、能く聴き違はんやうになさらんければならぬ、商業は誠に能く専らなるものである、帳面を附けろといふたら、附けることに就ては熱心に其事を守るといふことは甚だ商業に必要のことである、或は得意先は応対にして、或は倉方の取扱ひにして、或は物品の出納にして、総べてこれから先き各々方が学問が出来てから事務に附く、其事務に附く場合に今私がいふたやうな気位を高くといふた所がなくなる、大将気取りて気位を高く以つたら宜からうと考へらるゝと間違ひである、心を強く以て堅固にせよといふので、我が位地を高慢に高く留まらせよといふのでないから、能く誤解を為さんやうにして戴かなければならぬ、成るたけ其事に専らに其内に事務を能く呑み込んで、それに従事して能く怠らぬといふ観念を有つて、余まり高尚なる望みを持たぬやうにせねば、決して学んだ丈けのことを十分に世の中に功能を現はすことが出来ぬである、昔しの教育は総て漢の高祖、太閣秀吉ばかりを作るやうになつて居たが
 - 第26巻 p.791 -ページ画像 
今の教育はそうで無い、其内にそういふ人の出来る場合もありませうが、又出来ぬ場合もありませう、併し多数の人が、今申したやうな漢の高祖や太閣秀吉のやうな不規律の考へを有つては、決して世の中に位地を保つて往くことが出来ぬ、故に商業教育に従事したものは成るたけ我が分を守るといふことを考へなければならぬ、それから又此事業に就いて成るへくたけ種々なることを考へて、あれが宜からう、これが宜からうと、屡々自分の従事することを変更するといふことは甚だ宜しくない、成るたけ意を専らにして、初めて事業に懸かつたならば、成るたけ遂げるといふ観念にせねばならんのである、今人間の一生に変化をせんならぬ場合もある、それは自然已むを得ないときに於て初めてあるべきもので、これから学成つたならば、例へば何れに向くか、或は雇るゝとか、或は又自分の親が斯ういふ発体をして居るから、其手伝をするとか、或は一身で身を立てゝ、何にか商売をするとか、各々方それそれに何れも身の程に従ひ、其事柄に就いて往くといふことにいたしまして、成るたけ其事柄に就いてやるといふ念慮で無ければならぬ、悪るかつたら隣りに往かうといふ浅果敢の念慮を以て従事するは、到底世の中を益さぬのみならず、己れ一身の発達も遂には為し得られぬといふことを観念しなければならぬ、斯やうに申すと渋沢はとういふ位地であるといふお方もありませうが、私共屡々変化いたしました、今日の商売になりますまでには、四たび五たびも変化して、遂に商業家になりました、併し其変化は実に已むを得ない場合であつて、其初め百姓から浪人になつてからは余まり已むを得ないと申さぬが、これは自身が求めてやつた有様でありませうが、其外は已むを得ないと申して宜からうと思ふ、そういふやうなことは此実業界に於ては何れにもあると思ふのです、独り渋沢のみではありませぬ、これ等は皆な已むを得ない場合からであります、これから次に仕事を幾らもするといふことは宜くない、変化せぬと同時に成るべく従事し懸けたことは一つに止めるといふことでなければならぬ、あのことも此事も三つも四つも手を着けて往くといふことは成功を告け難い、これも直ぐ反問が出るであろう、左様に申すと渋沢はどうである、銀行家でありながら、種々の事業に関係してゐる、已に今日見ても銀行とか或は鉄道のことの為めに此処に来てゐるでは無いか、斯ういふ反問をするでありませうが、併しこれは私自分が好んで各種のことをするといふよりも、寧ろ其位地で免かれない場合からするので、変化し得らるゝのであります、殊に私一身を以て、果して此学生諸君に同じやうな境遇として論する訳に往かんのである、私一身は成るべく事を専らにしやう、一つに止めやうといふ精神は矢張り失はぬでゐるのである、況んや此事業にこれから先きに着く諸君に於ては、決して左様の種々なることに手を出すといふ観念では、十分なる功を奏さぬものである、成るへく一つの仕事を成功しやうといふことを考へなければならぬ
尚ほ申し上げて置きたいのは、段々教育は進んで参るに従つて智識の働きは十分に出来得るです、併し今日の教育は智識の働きは十分に進め得らるゝが、扨て其真正なる志の働きに就てはどうも私は欠くる所
 - 第26巻 p.792 -ページ画像 
がありはせんかと思ふ、即ち智育は立つても徳育が不足でないかといふことを恐るゝ、此徳育といふ中にも種々ある、単に只徳育といふてもが、只だ孝悌忠信と一概に言ひ切つて、それだけが徳育とも申されん、或は倫理とか道徳とかいふ教へも定つて此学校の課程中にもありませうが、どうも一体の風習が目前を間に合せ、又小成を以て安んするといふ気風が、追々智育の進むほど其弊を強めるかと私は憂ふるである、左様に人間が小さく塊まつて居ると、取りも直ほさずこれが鉢殖ゑの松見たやうになつて仕舞ふ、一寸見た枝振りは結構かも知らんか直きに風に触れでもすると倒るゝ、少し長い雨に遭ふと腐つて仕舞ふ、こういふ風にして言行の高邁といふ所は少しも無くなつて仕舞ふ左なきだに御互ひ日本人の性質として物の感触は甚だ強いか、又耐忍の力は甚だ弱い、殆んど此感触の強い耐忍の弱いといふことは、どうしても此気量が大きくならんといふ一の恐れがある、これは英吉利人若くは亜米利加人あたりの剛毅な活溌な人に比較いたしますと、実に恥かしいやうな有様である、これが今の学問からして智識が堅まり、甚だしきは目前の利益を得れば、これは、寧ろ賢いと慾走ることになつて、商業の教へなどは、どうしても利益とか損害とかいふことを以て先づ第一に心懸けねばならぬものであるからといふことで、此小利口といふものに対しては自然と人間か卑しくなる、若し商売人が軽蔑されたのもそれに原因したのである、そういふ事情であるから、普通の他の教育よりは心懸けの持ち方で吾々は段々卑しくなるといふことは免かれぬことてある、其位地が然らしむるのである、加ふるに今の一分試めしの刻莨に依つて気象を剛毅にするといふことを養つて往かぬと、遂には日本の人が挙げて眼の前の儲けさへあれば、それで宜いといふことになる、若し左様に往きましたならば、此商業界は教育が進むほど、位地が低くなるといふことを又恐れなければならぬやうになる、寧ろ其教育が挙つたならば或る場合には優れて力の強い人が出来たてあらうが、教育のあつた為めに人間が小さくなつて、悉く商業人が小人島の人となつたと斯く申されるやうにならぬとも申されん、故に今申す通り己れの勤めるところに対しては、如何にも大人しく、気を小さく、従事することに対しては傍き目も振らず誠心一意に従つて心に抱く念慮は成るべく剛毅に活達にしなければならむ、人間の貴ふところは其処である、若し此念慮を欠いて往くと今申す通り実際に商業教育はかりてない、渾べて教育が人間をして、却つて其弊にのみ陥いらしめるやうにならんとは申されんのてありますが、冀くは此処に就学いたし、且つ卒業さるゝ所の即ち満場の学生諸士は今私のこゝに申し述べましたこと、第一には日本の商売は甚だ商業教育が必要てある、斯やうに新潟市は力を入れて、吾々に大なる費用を懸けて商業教育を与へて呉れるのてある、其精神には十分酬はねばならぬ、商業教育は此商業界に必要てあるといふ第一段に申したことを能く御記臆になさるやうにいたしたい、第二段に此処に卒業したものは飽くまても熱心に其事業に従事し、且つ志しを強く高く有つやうにして欲しいと思ふのてす、私は或る席て古今教育の比較を申し述べました、其事に一言申し述べたのは、何にも彼も昔しの教育法が悪るかつた、今の
 - 第26巻 p.793 -ページ画像 
教育法が宜いと申しましても、又今の制度が大層良いといふことは勿論褒めらるゝ、併し一つ悪いことは師弟の関係、生徒が恩誼に感するといふことに乏しいといふのは甚だ昔しに劣つて居る、苟くも学に就くものは恩誼に感するといふことは甚だ必要てあるから、これだけは昔しを忘れぬやうにいたしたいといふことを申し述べたことがございます、此一堂の学生諸子は、即ち新潟市が斯く力を入れて諸子を教育するといふことに対しては、又此校長始め教頭其他の先生方が諸子の為めに十分に教育を与へられるといふ、即ち師恩に対しては常にこれを忘却せさらんやうにいたしたいと考へるのであります、これ即ち今の徳育の一つてある、其二点をどうぞ学生諸子は、御忘却のないやうにいたしたいと思ふのてあります
余り益することも無くて長い間清聴を汚しました、これて御免を蒙ります
   ○当校ハ明治四十三年「新潟県立新潟商業商船学校」ト改称セリ。