デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
7款 全国地方商業学校長会議
■綱文

第26巻 p.829-838(DK260144k) ページ画像

明治33年5月5日(1900年)

是月一日ヨリ八日ニ亘リ、全国地方商業学校長会議東京ニ開催セラル。是日栄一、ソノ招請ニ応ジ会場タル東京高等商業学校講堂ニ到リ、商業教育ニ関シ一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

竜門雑誌 第一四五号・第一―一〇頁 明治三三年六月 ○商業教育意見(青淵先生)(DK260144k-0001)
第26巻 p.829-836 ページ画像

竜門雑誌  第一四五号・第一―一〇頁 明治三三年六月
    ○商業教育意見 (青淵先生)
 本編は、青淵先生が明治三十三年五月五日地方商業学校々長会議の席上に臨み、高等商業学校講堂に於て演説せられたるものなり
此程中より諸君には商業教育の事に就て御出京になり、当学校へ御打寄になッて御協議のあると云ふ事は予て伺ひ居りました、此御会合を機として今日私にも此所へ出席いたして諸君に御目通りを致し、且つ商業教育に就て自分の考へて居りまする意見を申上げるやうにと、駒井校長から御依頼でございましたから、罷出まして寸時清聴を涜すのでございます
一昨日突然の御通知でございまして熟考の暇もありませぬ、詰る所平生抱持して居る愚見を再演するに過ぎませぬから、事新くない事は御用捨を願ひます、且つ御承知の通り私は商売人であッて、学者とか教育家とか云ふ職務とは非常に縁の遠い者で、其間の思慮屈托を致ませぬから、御本務の諸君の前で教育上の事を申上げまするのは、頗る顛倒とも云ふべき訳で汗顔に堪へませぬ、併し商業教育としては教へると云ふ学理、若くは其学校の整理と云ふよりは此商業教育が如何に必要であるか、若くは又商業教育が明治維新以後ドウ云ふ経歴で今日まで来ッたか、又未来商業に従事する人が如何なる心懸けを持てば宜いかと云ふ事は、諸君も十分御講究下さるであらうし、又御講究にならなければならぬ事柄であります、其点に就きましては単に学理とばかりは申されませぬから、私が愚見を呈する余地もあらうと思ひます、此商業教育が明治維新以後ドウ云ふ有様に経過したかと云ふ歴史に就ては、業に已に諸君の御耳には度々這入ッて居りませうから、玆に申上げるのも少し古めかしい御話であります、斯く申すと私が其間に聊か効能でもある如く所謂、自ら賞むるやうに聞える嫌ひもございますけれども、併し其意味で申すのではありませぬ、概略今日商業教育の経過いたしました歴史を申上げたいと思ふのてあります
日本の維新以前と云ふものは、殆ど此教育と云ふものは無かッた、私は平生申して居りますが、日本の商売人は商売往来と塵劫記……此塵劫記と云ふものは諸君は御習ひなさるまいが、算盤の書物でございます、極めて薄い本で浅学の人の作ッた大数小数で二一天作の五、二進カ一十と書いてある、教育と云つたら此塵劫記と商売往来の二ツの外には無かツた、其時分の学問と云ふものは多く漢籍であッたが、漢学
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教育は商売人の間に於ては大層非難をした、既に皆さんの御耳にも這入ッて居りませうが「売家と唐様で書く三代目」と申して唐様を書けばモウ其家は潰れると云ふことであッた、即ち漢学を非常に嫌うた証拠である、詰り教育は漢学の範囲よりほか無かッたけれども、維新以後それではいけませぬから、遂に教育と云ふものが世の中に大いなる問題と相成りましたが、此商業教育と云ふものは政府に於きましても直ぐさま政費を以て組立てると云ふ場合には至りませなんだ、当商業学校も其昔を考へて起因はと申すと、ズッと以前に御亡くなりになッた文部大臣の森有礼君が「ビジネス・スクール」と云ふものを作て、実業教育をしたら宜からうと云ふことに気付かれたのが、抑々此学校の起り立つ原因をなしたと言ッても宜いのでございます、其時に東京市は何さまそれは必要なものであるから、市の共有金を以て補助しやうと云ふ協議をしました、それは唯今の市会の如きものではない、唯共有金を支配する営繕会議所と云ふものがあッて、其営繕会議所に対して当時の東京府知事が諮問したら宜からう、と云ふことに決議をしました、それは明治六年のことでございました、其後東京府知事が私に営繕会議所の世話をせよと云ふことに相成て、森君との関係の此商業教育の事に従事いたし掛けました、是は丁度明治七年であつたと覚えて居ります、それからして「ホヱツニー」と云ふ亜米利加の教師が参りまして、築地に商法講習所と云ふものを組立てました、是が当商業学校の始めであります、尋で明治十四年でございましたが、東京市は市の費用を以て此学校の経費を出すことは止めやうと云ふ節減論から、商業教育は敗滅と相成ツた、時に私共大いに憂ひまして、政府の力でも之を組立てゝ貰ひたいと云ふことであるのに、微々たる有様で僅少なる東京市の費用に依ッて持続して居るものを、尚ほ廃すると云ふ東京市の考へは如何であるかと言ッて争論して見ました、其時の経費は確か年に一万円であつたと思ひます、私は其時分は市会議員ではない、但市会とは申さず府会と申しました頃であります、それで当時の知事も頻に心配して呉れたが、ドウも多数が左様な意向であるから会議の結果已むを得ぬと云ふことであッた、余儀なく種々なる他の資金を以て私共が奔走して半年ばかり維持しました、明治十六年でありましたが、其時分の東京府知事は芳川顕正君であッたかと思ひます、私は頻に同君に諮りまして、東京市民から此学校に対して相当なる寄付金をしやうと云ふ相談をしました、芳川君が大いに府下の商売人を会して、寄付金の事を勧誘されて、遂に此寄付金が三万余円出来ました、出来ましたに付て政府に対して、市民は斯様に商業教育には熱心でござる、東京府会が之に向つて、経費を出さぬと云ふ事は不幸な話だ、斯く一般に必要なものであるからして、是はドウぞ政府が引取て存立せしむるやうにして欲いと云ふことを申立てました、それから農商務省の管轄に属して、二三年経ッて文部省に移ッて今日に至ッたと云ふ経歴でございます、文部省に移りましてからは追々方法も改良し年々経費も増され、又従ッて出た生徒も世の中に段々有要視せらるゝやうに相成りましたから、政府に於ても此高等商業学校と云ふものは甚だ必要なものであると認められ、遂に今日では、官民共に欠くべか
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らざる商業教育の機関と相成たのであります、併し其昔を考へて見ますると、僅か二十年以前でございますが、今申したやうな有様でありました、此事は甚だ古めかしい御話で、諸君の中には度々御聴きになッて御耳慣れた方もあらッしやりませうか、初めて御目通り致しましたから、当商業学校の沿革は斯様であると云ふ事を一言申上げて置くのでございます、私は其以後とても教育事務の考へもなく、又学者の位置でないにも拘らず、商議委員と云ふ名を付せられまして、折りに触れて校長の招集に依ッて罷出て、協議若くは学校の規則上に就て愚見を申上げて居る次第でございます、当商業学校の歴史がさう云ふ有様であッたに依ッて推測しても、商業教育が明治の初めには如何に世に棄てられて居ッたが、如何に幼稚な有様であッたかと云ふことは、諸君の御記臆に十分存することであらうと思ひます
私が此商業教育に就て左様に熱心に、尚ほ今日も頻に希望いたして居るのは、前に申す通り商売と云ふものに対しては道理正い教育はございませぬからして、商人の力が足らぬのみならず、思想が又卑劣である、又一体に商売人が負担して居る有様も、明治維新前はドウであッたかと云ふと、鎖国主義であッたから範囲が日本中に限られて、而して其重立ッた取引は誰がやッたかと云ふと、幕府のみならず藩々政治の力であッた故に、大問屋は幕府若くは各藩であッて、小売と云ふものが商人の働らく区域であッたから、商売人と云ふものの地位も低く力も細くて宜かッたけれども、安政度に国を開き、明治に至りてはドコまでも外国と対等の交際をすると云ふことになり、又内地の制度も廃藩置県などゝ云ふことを行はれた以上は、決して此商売の区域と云ふものは日本以内に止まるものでなく、仮令力が細くとも智恵が少くとも宇内各国を相手に商売せねばならぬと云ふ有様になッた、而して此国と云ふものを真正に持張ッて行かうと云ふには、商売・工業と云ふものが政治・軍事其他国を護る必要事物に立ち勝りて進むと云ふ有様が無ければ、国の富強は期し難いのである、又欧米などから治国の真理を段々輸入して来ると、国内の政治家も其方に考へを着ける、サア其場合に商売人が昔のやうに「売家と唐様で書く三代目」主義では迚も国を維持し得らるゝものでない、自分等は初めに聊ながら漢学を学びまして、漢学書生で世の中に駈出した人間でございます、偶然にも明治政府の官途に就きまして両三年官に居りました、其間に此商売社会はドウも斯くあッては未来が覚束ないと考へた、それで思慮は今もありは致しませぬが、其時分は尚浅かッたのであります、併し見渡しますと世間は政治とか教育とか若くは兵制とか云ふものに大層熱心が強くして、商業と云ふことに就ては、甚だ思入れが少い、又賢い人もそれそれに政治・法律・兵制・教育等に注意するといふのが、勢ひの然らしむる所である、故に明治初年の大体の風潮を見ると、智恵の有る人は皆役人になると云ふ有様であッて、商売人は前に申した儘でありました、此商業教育は必要のみならず、商売人其者をも少し養成せねばならぬと云ふ観念は、其時にも考への深い政治家にはあッたらう、又私もさう云ふ観念を強めました、依てドウか役に立たぬでも自身一人は商売人になッて此商売会社の風潮を引直すとか、気象を進む
 - 第26巻 p.832 -ページ画像 
るとか、実力を増すとか云ふことが出たならば一身の本望であるからドウか専心其方に打込んで見たいと云ふ考へで、明治六年に大蔵省を辞しまして、殆と玆に三十年ばかり一意商業に従事して居る次第でありす、此学校に就ては当初より左様な希望を持ッて、日本の少年子弟に相当なる学問をさせて、それで成立ッて呉れねば迚もいかぬと云ふ念慮が益々強まッて来た、然るに東京府会などはこれを無用視するやうな有様であるから、実に世の中は情けないものであると涙を流して其維持を努めました、故に私は学問とか教育とか云ふ方からは此学校に対して効能ありとは申されませぬ、が此学校を盛大にしやうといふ念慮は頗る強く、又念慮を事実の上に一部分効能を見せたに就ては、誇言のやうに聞へますが、聊か微力ありと申上げたいのであります、此学校に対し或は商業教育に就て、渋沢は二十年以来斯様な考へである、又商業教育が年を逐うて必要視せられて、追々進歩して来たと云ふことも先づ概略斯様な次第であります、併し此事は皆己れ一身に係る既往の歴史を説きましたことであッて、諸君に対しては実に利益の無い事柄でございますけれども、商業教育は如何に生れ出て、如何に成長したかと云ふことの御一考にもならうと考へましたから申述べた次第でございます
既往談は先づ此位に致しまして、此向う商売人に対して諸君が教育の事務を御執りなさるに就て、我々共、即ち実際家と申す者からはドウ云ふ希望が有ることかと云ふことを、玆に二三廉申上げて十分なる御尽力を請ひたいのであります、是は今日諸君に対して申上げたい要件でございます、総て教育は先づ道理と云ふものに依り、学理と云ふものに従ッて教へて行かねばならぬから、法律であれ工芸であれ文学であれ、学理と云ふものを成るたけ明にして生徒に会得させて行くと云ふことは同一でございませう、併し商売人に対して教育を施して行くと云ふことに就ては、通常学理を教ゆるの外に時と場合とに依ッて望みが大いに異なるものではないかと思はれます、今日の場合に於ては此辺に篤と御注意を請ひたいと云ふことを申上げるのであります、即ち明治三十三年に仕立てゝ行かうと云ふ生徒に対しては、ドウぞ斯う云ふ御意念を持ッて戴きたいと云ふ自分の希望を申上げます、若し私の意見が間違ッたら宜しく御修正を請ひたいが、併し私は熱心に斯様に希望して居ります、其考へました要点を二三申上ることに致します併し是も決して新く思案したのではございませぬ、一昨日此所に出ろと云ふことを申越されましたから、今日も種々多忙であつて斯の如く時を遅らして参上する次第で、其間に別に新案も生ぜませぬ、詰り古く考へて居りました事を申上げるに過ぎぬのでございます
第一に申上げますのは生徒の稽古の仕方に於て、為し得べきだけ事実に基くやうにしたい、即ち学理に細密になることを勉めて、気位を大きくさせぬやうにしたい、兎角に学問といふものは快活的の議論で、高尚に行走り易いやうに考へられます、学んで出て来ても、大体に就ての論理は出来るけれども、実際の手続になるとさう細かくは覚へぬと云ふ嫌ひが、殊に日本人には多いやうでございます、誰も彼も当然の論理に於ては名説が出るが、実際に処する手続になると細かくは覚
 - 第26巻 p.833 -ページ画像 
えぬと云ふ弊が多い、漢学書生の学問の仕方は最もそれが多い、私共もそれで育ッたのである、チヨッと申すと天下国家を治むると云ふやうな議論はするけれど、一身は少しも修らぬ、詰り気位が才より高くなッて、常に物足らぬやうな観念を惹起し、一つの場所に安じて居るといふが如き申さば機械的の働きの観念が乏く、大将気取が多い、是は日本に於ては他の生徒にも多いやうであるが、又商業家にも多い、故に各学校の校長諸君が能く其所へ御心を留められて、総て生徒をして左様に走らせぬやうにするのが必要であります、而して之を成るたけ実際的に致さうと思へば、努めて学理と実際の適応を誘導なさる御方に於て能く御研究なされて生徒を教授するやうにありたいのでございます、学問の道理は斯様であるけれども、それが事実に合うか合はぬかは分らぬと云ふやうなことに悪くすると論が走る、さうすると実際家は終に学問を卑むやうになッて、学理はさうであるが実際は違ふと云ふやうになる、教育には間々さう云ふ弊が生じ易いが、私は決してさうでないと思ふ、若し学理が真理であッたら事実と相違する筈はない、相違する学理であれば必ず学理が悪いのである、事実を本当に知らなければ学理を論ずることは出来ぬのであります、学理と申しても其道理が直ぐ現はれて来る者ではない、例へば山に登るに真直に向ふに行かうと思ッても、勾配が強い山であれば、直接には登られぬから、右に行く路も左に向つて登らねばならぬことが間々生ずる、其時には是は道に迷ッたかと人が疑ふ、是は理を知らぬ話である、羊腸たる山路を登ッて行くには、左に行くものも右に進路を取らなければならぬことがある、それで段々行ッて見ると遂に目的の所に達する、斯の如くであるから、実際が直に学理に応ずることが出来ない場合がある、又学理が能く実際を指示すことが出来ない場合がある、此学理・実際が甚だ密着いたさぬ為に、学問に種々の疑が生ずるのであります殊に商業学校には学理を事実の仕事に十分当て篏る手続きが出来得ぬと云ふ弊が起らぬとも申されませぬ、要するに生徒の才を成るたけ事実に基くやうにして気位ばかり高くさせてはいかぬ、又快活的の議論を成るべくさせないやうに戒めて、実務に就て其仕事の所作如何を心懸させるやうにいたしたいのであります、斯の如くなれば、今申した学理・実際の論旨とマルデ同一とは申されませぬが、併し大なる間違はないことゝ思ひます、商業学校にて生徒を教育なさるには、呉々も気位ばかり高くして働きの足らないことにならぬやうに、御心を御用ゐにならぬといけませぬ
それからモウ一つ願ひたいのは、ドウも商売人は気象が高尚でなく卑劣になり易い、錙銖の利を争ふのが商売人の常である、為す仕事が軍事とか政治とか学術とか云ふ者とは、比較的野鄙に流れる嫌ひがある前段に申した快活的の論理ばかり覚えて志が放胆に行走らぬやうにしたいのが、教育に就ての一の望みでございますから尚更困難でありますが、商売人の気象を至ッて卑屈に至ッて弱孱に行走るやうに御仕立てなされてはいかぬ、成る丈高尚に剛毅なる性質を養ふやうに致さぬと困ると思ひます、世間卑劣な諺に、商売人は嘘を資本にすると云ふが、私は大変に間違つて居ると思ふ、仮初にも左様な言葉を生徒に言
 - 第26巻 p.834 -ページ画像 
はしむるのは以ての外である、商売人は何で成立つか、信用で成立つのである、嘘を資本にすると、信用で成立つのとは並び立たれぬ言語である、併し人は駈引とか方便とか、或は裏表があるとか申しますが私は商売人には裏表だの駈引だのは要らぬと思ふ、嘘などは一言も言はないで商売は出来る、私は明治六年から明治三十三年まで商業に従事して、至ッて力も細く、為した仕事を顧ると何たることも致しませぬけれども、先づ商業に従事して、人に不義理も致しませぬで世の中に立ッて居りますか、誓ッて嘘を吐いたことはない、嘘を吐かずに商売は出来ると云ふことを明言いたします、是から先き成立つ商売人は此気象を高尚にすると云ふことを努めなければ、日本の商業をして段段下落せしむるやうになりはせぬかと恐れるのでございます、畢竟此商売と云ふものは、己れ自身か金さへ儲ければそれで能事足れりと云ふ心得違ひに走ると、終に卑劣の極に陥ります、商売人は決してそう云ふものでない、商業の働で国力を強盛にし国威を宣揚するのである政治家が国政を調理し、軍人が国家を捍衛し、商業家が国力を富実にす、是皆同じ働きを以てせねばならぬ、政治家・軍人たる者は其一身を犠牲にして国に報ゆると云ふ観念を持つべき筈である、商売人が其観念を持つと、人が感心だとこれを賞めるなどとは馬鹿な話である、実に当り前のことであるのに、却て賞められるのが即ち商業の卑下されて居る証拠である、若し軍人が己れ一身を大切にして、戦争の場合に国家を忘れるとか、君を思はぬとか云ふ者は是は感心と思ッた者か間違ひで、怪からぬ奴だと云ふのが当然である、商売人が国家の観念を持ッて商売するのを感心だと云ふならば、国家の観念を持たないのが当り前になッて来る、是か即ち商売人か軽蔑されて居る証拠であります、故に未来は商売人の気象を飽までも高尚にし、剛毅の志を持たせたいと私は思ひます、此商売と云ふものは己れ一身の経営を為すやうに見えますけれども、其己れ一身の経営は所謂経世の道理に依ッて致すべきものである、即ち商売は国家と云ふ観念を持ッて出来る、否さうしてやらなければならぬものと申したのである、此気象を養ひませぬといけませぬ、富むと云ふ場合は如何なる道理で富んでも宜い、商売人は儲けさへすればドノやうな詐偽権謀も敢て咎めないと云ふことに行走りましたならば、或る場合はそれで世を眩まし人を欺くことが出来ませうが、それが破れた暁は日本商人の位置・信用は最も下層に陥るのであッて、甚だ恐ろしいことゝ思ひますから、未来の商売人を教育する商業学校の御方は、余程御注意を厚くして戴きたいのであります、是が此先き生徒の気象に対する最も強ひ希望であります
それと相連ッたやうな申分に相成りますが、商業道徳と云ふ事にも能く御心を留められて、十分なる御教誨が欲いのであります、今も申上げました通り、ドウも世が開けるとか進むとか云ふのは実に喜ばしいが、其裏には大変憂うべきことがある、即ち利に弊か附くことは免かれませぬ、今申した通り商売人と云ふ者が疎ぜられ卑められて居ッた場合には、此憂は少なかつたが、追々と商売人か必要だと云ふ今日になッては、商売に就て成丈金を儲けて立身すると云ふことが眼目になると、其弊や人を欺き人を突き倒してもなんのものかわと云ふことに
 - 第26巻 p.835 -ページ画像 
成り行て参ります、果してそうなりましたならば商業道徳は殆ど地に落て、而して其結果其人達も此世の中に利達して行けるかと云ふと反対である、所謂共潰れになると云ふことは皆知ッて居る、知ッて居ッてさう云ふ弊竇に陥ると云ふことは、世を挙げて皆然りと云ふ如くに今日は行走ッて居る、是れ畢竟商売に就ての徳義が段々頽敗して行く所以であると私は思ひます、詰り財を生ずることに就て、道理正く財を生ずるものと、不道理にても財さへ生ずれば宜いと云ふのと、其噛分けか附ぬと、此商業道徳は決して進んで行くことは出来ないのである、財さへ生ずればそれが尊いものだと言へば、知れぬ以上は泥棒をしても宜いと云ふ訳になる、有益なる事業から生ずる財でなければ、集ッても真に国の為にはならぬ、若し其財が有ッても其人は恥づべきことであると云ふだけの観念を是非持たせたい、之を持たぬと商業道徳は進まぬのであります、例へば賭博をして人から金を取る、それは勝ッて取ッたのだから其財は己れのものであッて、是が商業の資本にもなりませう、家屋も出来、物も買へませう、其働きに於ては道理正き国家的の事業に依ッて生じた財と同じことである、併し其生する財は、一方は世を益し人を喜ばせて生じたのである、一方は其財が増すだけ他に損をして居るものがある、是は道理上から論ずれば、殆ど争奪すると同様なものである、商業学校の生徒に対して教誠すべき商業道徳は単にそれだけとは申しませぬが、左様な道理を能く噛分け得られるやうにしたならば、必ず商業道徳と云ふものは自ら起ッて来ると私は思ふのであります、此商業道徳と云ふものを大いに興起する働がございませぬならば、私は恐れます、未来の商売は実に情なくなッて来る、其中には頻々金持ちが出来て外面は立派にもなりませうが、商業道徳の素養ある英吉利人などゝ相交ッて商売をすることは出来なくなる、如何となれば彼等の志操と云ふものは、決して左様に卑劣なものではないと私は察して居ります、実に日本の商売をして今日の如く商業道徳頽敗の儘に任したならば、暗黒世界に陥るやうになりはせぬかを恐れるのであります、此点に就ても余程御注意を願ひたいと考へます
尚ほ申上げたい事も一・二にして足りませぬが、先づ第一に生徒をして実際に働き得らるゝやうに努めたい、理論にのみ行走らぬやうにさせたい、それを望むには学理・実際の関係を能く御注意になつて御講究をなさることが必要である、又生徒の気象を成るべく高尚にし、成るべく剛毅にせしむることが必要である、之を望むにはドウしても此人達は尚ほ武士が戦場へ出て号令を為すとか、政治家が国の為めに政治を取ると同じ観念、同じ位置であると云ふことを心懸けて居らねばならぬ、損益の事に従ふ商人であるから、殊に此商業道徳と云ふことを重ぜさせることが甚だ必要であります、是等の廉々は申上げぬでも諸君に於て能く御分りになッて居ると仰せらるゝでございませう、少しも御耳新くはありませぬが、併し御耳古いからとても不必要なこととは私は存じませぬ、新問題を以て何か御利益になる事柄を申上げたいと考へましたが、時も少なく十分な考慮も生じませぬから、予て貯へて居りました二・三の考へを玆に申上げ、併せて商業教育の今日に
 - 第26巻 p.836 -ページ画像 
沿革いたしたことを一言申添へて、諸君の御参考に供しました次第でございます、甚だ不束な愚見を申しまして恐縮の至りであります


教育時論 第五四三号・第一四―一五頁 明治三三年五月一五日 全国商業学校長会議(DK260144k-0002)
第26巻 p.836-837 ページ画像

教育時論  第五四三号・第一四―一五頁 明治三三年五月一五日
○全国商業学校長会議 同会議は去る二日を以て開会し、左の事項に就て協議し、八日を以て閉会したるも、文部大臣より諮問の事項は、重大の件なるを以て、短期間に審議すべからざれば、主務省と打合せの上宿題となし、次会に答申することになしたる由。
    諮問案
 一、甲種及乙種商業学校に於て商業実践を課するの利害如何、若し之を課するとせば之を課すべき年級・毎週時数及方法如何
 二、高等学校に商業科を加ふることを奨励すべきや、之を加ふべき年級及毎週時数は如何
 三、高等小学校の商業科に於て教授すべき事項の要目如何
 四、商業補習学校に置くべき商業に関する事項の要目如何
    建議案
 一、商業教員養成所の拡張を其筋へ建議すること
 二、明治三十二年九月文部大臣より商業学校長会議に諮問せられし商業学校編制及び設備規則を、速に実施せられん事を同大臣に建議すること
 三、第二高等商業学校の開設を速かにせられん事を、其筋へ建議すること
 四、第二高等商業学校成立の上は、同校に於て適当と認めたる商業学校卒業生にして該校長の証明あるものには、無試験入学を許されんことを其筋に建議する事
    協議案
 一、地方商業学校生徒に修学旅行をなさしむるの可否
 二、乙種商業学校に外国語を課するの可否
 三、商業学校読書科に於て漢文を課するの可否、及漢字節減の方法如何
 四、修身科の外に行状点を設くる必要の有無、及び之が採点の方法如何
 五、身体一部不具の為め体操科を課するに差支ある者に向て入学を拒絶する可否
 六、学校設立地区(県或は市)等の内外を区別し、入学志願者に入学上の特典を与ふるの利害如何
 七、地方学校長会議に私立学校長を加入するの可否
 八、商業学校教員夏期講習会を設くるの可否
 九、我国法制の大意を、商業学校の教科目に加ふるの可否
 十、喫煙禁止法に関し、各学校の方針施設を一定するの件
 十一、農商務省陳列館の陳列品中各学校の参考品となるものは、陳列後無料にて頒付せられんことを当局者に相談する件
 十二、商品標本交換区域を変更する事
 十三、甲種商業学校に予科を設くるの利害
 - 第26巻 p.837 -ページ画像 
 十四、毎週三十三時間の課業は甲種商業学校生徒に過重の憂なきや否や
 十五、生徒の体育上適切なる方法如何
 十六、商業学校学科目及授業時間減少の可否
 十七、一般商業教育奨励の為め、東京高等商業学校に於て適当と認めたる公立商業学校優等卒業生の無試験入学を許可されんことを同校に協議すること


商業世界 第四巻第二号・第四三―四五頁 明治三三年六月一五日 全国地方商業学校長会議(DK260144k-0003)
第26巻 p.837-838 ページ画像

商業世界  第四巻第二号・第四三―四五頁 明治三三年六月一五日
    ○全国地方商業学校長会議
前号本欄に紹介し置きたる全国商業学校長会議は、先月一日より八日に亘り、集会を催すこと七回にして閉会せりき、提出の議案は之を前誌に掲載し置きしが如く、四の建議案、十七の協議案、四の文部省諮問案より成り、後に至りて「商業教育視察のため、毎年地方商業学校長の中より一名若くは二名を海外に派遣せられんことを其筋へ建議すること」なる一の追加建議案を増し、総議案二十六を数ふるに至れり二十六の議案は少しく多過しや、否余りに少ふして考慮過度に失せしや、又は提出議案は実際余りに論議の価無りしや、議論は思しよりも沸き出で、手間も思ひの外に取れ、会議の結果、議案の可決成立せしもの甚だ少く、誠にきまりきつたるものゝみなりき、即ち後段掲ぐる所の第一・第二の二建議案、及び□□《(欠字)》協議案、第七、地方商業学校長会議に私立商業校長を加入するの可否は、或条件を定めて之を加入せしむること
 第八、商業学校教員夏期講習会を設くる可否は可とすること、同第十四及十六、毎週三十三時間の課業は甲種商業学校生徒に過重の憂なきや否やは、過重なる事を決したるのみにして、他は否決となり(追加建議案)撤回となり(協議案第九・十一・十五)宿題となり(建議案第三・四、協議案十七、文部省諮問案)又は単に各校の実際を陳述して参考となすに止め(其他の議案)採決するに至らざりき、今左に可決の上其筋へ上申したる建議案を掲ぐ。
      商業教員養成所拡張の義に付建議案
 方今商業教育の必要を覚るもの年々多く、本年新設の学校五個を加へ、公立商業学校二十九校の多きを見る、然るに其之が教育に服従する職員中、高等商業学校を卒業し商業教育の素養あるもの僅に七十二名に過ぎず、従て各学校を通して商業教育を受けたる相当の教員に乏しく、商業上重要学科の教授すら商業の思想に乏しき教員に委ねざるを得ず、夫れ商業上の智識に乏しき教員の養成する生徒は卒業後果して名実相合ふの成績を挙くるを得るや、蓋し疑なき能はざるなり、我帝国商業進運の上に於て、不肖等其職に当り、其責に任するもの実に憂慮措く能はざる所なり、翻て商業上の智識を有する教員を出す所の源泉たる高等商業学校及び商業教員養成所を顧るに、高等商業学校卒業生は、実業勃興の結果、教育に志望を有するもの年々其数を減じ、昨年の如きは卒業生七十六名の中僅に一名なり、本年亦然らざるを得ず、而して商業教員養成所も満二ケ年毎に
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二十五名の卒業生を出すの計劃にして、該卒業生の多くも義務年限を経過するは実業界に投するものと予想せざるを得ず、今や第二高等商業学校設立の計劃ありと雖も、其卒業生も教育に従事せんとするもの高等商業学校と大差なかるべし、故に今日の現状にして荏苒歳月を経過する如くんば、我帝国商業教育の為めに悲まざるを得ざるなり、而して其の是が急に応ずるの策は商業教員養成所を拡張して、年々五十名の卒業生を出す計劃あらば、聊か其の欠乏を補充し得べきを信ず、冀くは閣下前陳の事情を明察せられ、速に実業教育費国庫補助金額を増加せられ、商業教員養成所拡張の挙あらんことを、各地商業学校長の議決に依り玆に建議仕候也
  明治三十三年五月 日
           各地商業学校長総代
              横浜商業学校長 美沢進
    文部大臣 伯爵 樺山資紀殿
      商業学校編制及設備規則実施の義に付建議案
 今や我国商業教育の急要を告げ、其既に成れるの学校は改良進歩を企図せざるなく、其将に起らんとする学校にありても其設備の十全なるを希望せざるなし、然るに或は直接是が監督の任に当り、或は其計劃を議するもの、多くは商業教育の智識に乏しく、其結果の良好なるを望むも如何にして其目的を達するかを暁知するものに至りては甚だ乏しきが如し、故に適々良案の計劃も議論紛々の間に没せられ、永く其効果の見る能はざるもの蓋し少しとなさず、故に此際一般人民をして、斯教育に要する学校の設備及編制の憑拠する所を知らしむるは実に今日の急務と信ず、曩に明治三十二年九月閣下不肖等を招集し、商業学校設備及編制規則に就きて諮問せられたる所以のもの、蓋し其意の玆に存するものと恐察する所にして、爾来日日に該規則の実施を待ちしも、今日に至り未だ公布に接せず、不肖等の遺憾とする所なり、願くば閣下前陳の事情を察し、右規則を実施せられんことを、各地商業学校長会議の決議に依り玆に謹て建議仕候也
  明治三十三年五月 日
           各地商業学校長総代
              横浜商業学校長 美沢進
    文部大臣 伯爵 樺山資紀殿
尚樺山文部大臣・渋沢栄一氏・三島文部衛生課長の諸氏は、更に臨場して斯道に関する演説をなせりき、本誌は追次此等を紹介せんとす。