デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
2節 女子教育
2款 日本女子大学校
■綱文

第26巻 p.881-884(DK260153k) ページ画像

明治33年4月(1900年)

是月、当校創立委員会開催セラレ、栄一建築委員並ニ教務委員ニ挙ゲラル。


■資料

成瀬先生伝 仁科節編 第二〇一頁 昭和三年四月刊(DK260153k-0001)
第26巻 p.881 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

日本女子大学校の過去現在及び将来 同校編 第一二―一三頁 (明治四四年)刊(DK260153k-0002)
第26巻 p.881-882 ページ画像

日本女子大学校の過去現在及び将来 同校編
                       第一二―一三頁 (明治四四年)刊
 ○第二章 設立の準備
    第六節 設立地の変換
 元来本校は大阪に設立するの予定にして、既にその敷地として、大阪城南、地高く気清き処に、五千余坪の土地を買収したるにも拘らず教育上の立脚地より見て、先づ、第一着に東京に創設するの利便なるを主張する者あるに至り、遂に明治三十三年創立委員会を大阪に開き満場一致、先づ第一に東京に創設し、機を見て大阪にも亦設立するの議を決したり。当時来会せられたる委員は菊地大阪府知事・北畠大阪控訴院長・住友吉左衛門・磯野小右衛門・村山竜平・芝川又右衛門・大西堺市長・土倉庄三郎・広岡浅子・成瀬仁蔵等の諸氏なりき。大阪の創立委員・発起人諸氏の間には、当初より本校を日本全国の為めに創立するの意向ありて、何等地方的感情に左右せらるゝ所なかりしかば、かくも迅速痛快に東京説に賛同決議せられたるのみならず、住友鴻池・芝川・殿村・村山・磯野・北畠等の諸氏を初め、多くの大阪に於ける賛成員諸氏は、奮つて既約の寄附金額を増加せられ、以て本校創立の挙を促進せられたり。
 - 第26巻 p.882 -ページ画像 
    第七節 開校の決議及び準備
 爾来約三年間、成瀬設立当事者等の諸氏東西に遊説し、南北に奔走して、募金に力めし結果、賛助員は七百余名に上り、募金額拾五万円余に達し、敷地としては、小石川区目白台に約五千五百坪の土地を、三井家より寄附せらるゝに至りしかば、明治三十三年四月、創立委員会を開き、愈々四月開校することに決議し、教務委員として近衛公・西園寺侯・蜂須賀侯・大隈伯・内海男・渋沢男・久保男を挙げ、建築委員として岩崎男・渋沢男・児島氏・三井三郎助氏・住友氏を挙げ、校舎寮舎の建築、学部学科の編制、教師の招聘等に従事し、開校の準備に着手するに至り、建築監督の任に当られしは文部省技師久留正道氏にして、清水組及び赤神の両建築受負師の如きも、本校設立の由来に感じ、或は建築費の上に於て、或は労力の上に於て、少なからざる同情の実を表せられたり。而して清水組の如きは、爾来今日に至る迄依然として建築ある毎に好意を以て之に従事せらる。



〔参考〕成瀬先生伝 仁科節編 第一九四―二〇〇頁 昭和三年四月刊(DK260153k-0003)
第26巻 p.882-884 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三三年(DK260153k-0004)
第26巻 p.884 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
三月十三日 晴
午前女子大学ノ麻生正蔵 ○中略 来ル ○下略
   ○中略。
八月十三日 晴
○上略 此日成瀬仁蔵氏女子大学ノ事ヲ談ス
   ○中略。
八月十五日 晴
○上略 午後成瀬仁蔵来ル、女子大学校ノ事ヲ話ス