デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
6款 埼玉学友会
■綱文

第27巻 p.44-55(DK270015k) ページ画像

明治32年2月11日(1899年)

是ヨリ先、滝沢吉三郎等ノ主唱ニヨリ埼玉県出身ノ都下学生間ニ埼玉学友会成立ス。栄一推サレテ会頭トナル。是日神田開花楼ニ於ケル例会ニ出席シ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK270015k-0001)
第27巻 p.44 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
 ○民間略歴(明治二十五年以後)
    慈善其他公益ニ関スル社団及財団
一埼玉学友会会頭
  以上明治三十三年五月十日調
   ○年次ノ記入ヲ欠ク。


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK270015k-0002)
第27巻 p.44 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
二月十一日 晴
○上略 午後五時神田開花楼ニ於テ埼玉県人学友会ニ参席ス、来会者凡七八十人許、席上学問ト事業ノ関係ニ就テト云フ問題ヲ以テ一場ノ演説ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第一三〇号・第八―一四頁 明治三二年四月 ○事業と学問(青淵先生)(DK270015k-0003)
第27巻 p.44-48 ページ画像

竜門雑誌  第一三〇号・第八―一四頁 明治三二年四月
    ○事業と学問 (青淵先生)
 二月十一日埼玉学友会の大会に於て演説せられたる大要なり
諸君、今日此学友会の大会に方りまして、幹事の諸君から、私にも何か一言演説をしろといふ御倚頼でありましたが、何分此頃は極めて多忙に暮らします処から、此会の事は能く承知しながら、終にまだ十分考案する暇もありませなんだ、夫故御倚頼に対しまして、学生諸君の御利益になる程の事は、申上兼ますが、さればといつて、御辞退するも不本意に存じます、其訳は、諸君も御承知の通り、私も埼玉県出身の一人ですから、仮令ひ年齢は大層違つて居るにもせよ、斯く同県人が多数集りました席上に臨んで、自分の所思を述べて、これを諸君に質しまするは、一身の光栄でもあり、且は又愉快に思ふ所であります依て甚だ未熟の考案ではありますが、敢て一言を述べて、清聴を煩はさうと思ひます
そこで、此会の名称、即ち学友といふ文字に因みまして、学問と事業との関係上から、聊か所思を申述る事と致しませう、偖て、学問と一口に申したなら、此明治の聖代に成長致された方には、現今の有様から感想を起さるゝかも知れませぬが、私の様な天保時代の者が学んだ学問といふは、所謂事業とは、其因縁が甚だ疎遠でありました、尤も此時代の学問は、和漢の両流に分れて居ましたなれど、先づ漢学の勢力が盛んに行はれた事であります、成程漢学は哲理には適ひましやう
 - 第27巻 p.45 -ページ画像 
けれども、私の申す事業とは極めて縁が遠い、否、啻に縁が遠いのみではない、全然背馳の趣も少なからぬやうに覚えます、此漢学にも様様の学派があつて、其学科の立て様も、随て異同かある訳でありましやうが、先つ其手を下す処は、四書五経の素読で、其から左伝・史記漢書の類ひ、又古文や蒙求・唐詩などを読で詩文を修るものも有りまして、書物の数ばかりにしてもなかなか容易ならぬ浩澣なもので、五年・十年位の事では学者にはなれません、しかし漢学の大主脳とする所は、修斉治平の四字で、かの大学に此の順序が書てありますから、諸君も夙に御承知の事であらうと思ひます、成程読んで見ると、其順序は至極宜いが、経書などは、誠に文字が少ない所からして、如何にも粗ツぽい、其あらつぽいものを、或は集註により、或は末疏の説に照らしなどして、終身矻々として、蛍雪に伴ひ、其真理を窮めたものが、時の鴻儒と呼ばれて、即ち学者先生となる、然るにこれは実に、千人に一人の割合にも出来ません、多くは皆詩賦文章などの、一技芸に甘んずる人物になり、然らされば、彼の世を憤り時を慨きて、終に革命を計るといふやうなものも出来まして、世の中の事に就ても、或場合には、誠に困ツた人物になる事が、間々あります、是が即ち支那学の応用が、善《(悪カ)》くいつた場合であります、併しこれらを以て、直ちに其利害を漢学に帰着するのは、些と酷論かは知れませぬが、彼の有名な徳川政府が倒れて、維新開明の時代となつたのも、或は此漢学が与かりて力あつた訳ですから、漢学も時にとりては、世の中の薬石鍼砭とも見られます、其は兎も角も、前にいふ事業との関係に至りましては、実に疎かりしと謂はねばなりません、然らば天保時代漢学の行はれた頃には、世の中に事業といふはなかりしやといふに、決して左様ではない、様々なる事業のあつたのであるけれども、其事業には、学問は全く不必要なもの、農業にせよ、商業にせよ、又は工業せよ、先つ、第一は、従来の仕来りを本として、之に加ふる所の作略などは、銘々自己の工夫を以て、手加減した位に止つて、学問的の応用を施した事などは、殆ど無かつたのでありました、さうして、其事業も凡て小仕掛で、商業といつた所が、小売同然、農業は一家の自治に過ぎずして、工業も手仕事といつて宜しい程であつたから、学問の応用が必要であると、気が付たにもせよ、之を施す区域がないから、仕方がない、事業に学問はいらないと、済して居たのも亦是非ない時世で、これが私の少年時代の有様でありました
偖て、明治の御代になつてからは、如何にぞといふに、学校も学問も矢張り従前の精神から成立て居ましたが、追々と、欧羅巴の学問が、東漸して来るに従て、其分子も次第に密になつて、其間すさまじき長足の進歩を見る事を得たのは、実に幸福の至りであるが、併し初の間は、随分守旧の傾きがありました、例へて見ますれば、今の東京瓦斯会社が、まだ東京府に属して瓦斯局であつた時分、明治十四・五年の頃、大学の理化学を修めた人を一人頼みたいと申込みました、処が、官に就くのならば善いが、民業の如き事なら厭だ、尤も給料の点からいへば、官吏の俸給よりは多いといふものゝ、寧ろ少給でも、官吏となる方が、直打がある、且又そんな事業に従事すれば、友人から彼此
 - 第27巻 p.46 -ページ画像 
と、卑められるのも、恥かしい訳だといつて、謝絶した、私は之を聞て、大に歎息した事でした、それも政治学を修業した人であつたならば、左様いつても、強ち無理ではありませんが、好しそれとても、官途に就くばかりに限る事はない筈である、況んや理化学・工学などを修めた人が、官吏にならねば友人に卑められるといふに至つては、昔風にも程があると思ひました、其時の大学総理は加藤弘之さんでしたが、私は加藤さんに向つて、ドーモこれではいかない、学は士大夫以上の道なり、農工商賈の道にあらず、といふ昔風を固守して、官途に於てのみ立身をせねばならぬ、其才を試むるは、官吏となるに限るといふ日には、到底学問と事業と、密着する折がなからうと申しました欧羅巴流の学問をする大学校でさへ、其頃は斯様な始末でありましたから、私は頻りに之を論じて、結局は本人も同意せられました、此頃の学風を以て、今日に比較して見ますれば、商工業の学問界に卑められたのは、明白なる事実であると信じます、されば、近く文明時代の学問に於ても、事業に縁の遠かつた事は、第二に注意すべき事柄であります
廿七・八年日清戦争以後に於きましては、諸般の経営も著しく発達して来まして、明治三十二年の今日となつては、最早今申した様な心得違の学問をする人もなく、又実業界に於ても、自然と学者を歓迎する様になりました、此に至て初て学問と事業と須臾も離るべからざる関係を生じて、世の中に活用せられて居ます事は、現に事物の上に於て明白であります、誠に喜ばしい事ではありますが、能く考へて見るとなかなか安心は出来ない、成程、学問も事業も進んだには違ひない、けれども其標準を、何処に立るといふと、唯々維新前の漢学時代よりは、一層進んだのであるといふに過ん、試みに一歩を進めて、之を他の諸国……学問の大に開けた外国に比べて見ると、我国の学問・事業の間に於る親和力は、未だ遠く及ばないと思ふのは、強ちひが言でもあるまいと私は心配するのであります、独り私か心配するのみにあらず、諸君も亦、御同感であらうと存じます、尤も学問と申しても、種種分れて居るからして、単に商業や農業・工業などの上にのみ、応用せらるゝものでないから、之を一概に実業区域にのみ論ずる訳には参りませんが、去ながら、真実なる国家の開明、完全なる国家の富強は此の農工商の三者の発達に基くもので、かの政治や軍事などは、皆此三者を進むるに必要なる手段たるに過ぎません、だから、学問も農工商に重きを置かなければならんといふのであります
国運進歩の今日に於ても、まだ学問・事業の二ツが、十分の密着を得ませんのは、学者にも亦罪ありと謂はねばなりません、詰り学問が精密でなく、浅い所があるからです、又事業家も、学者を待つに粗末な考で、或は之を信用し過ぎたり、或は之を疑ひ過ぎたりして、中道を得る者が少ない、信用し過るのは固より善くはないが、之を度外視するのは最もわるい、斯様な有様でありますから、終には或場合に於て両者互に親和力を有せない中に、相離叛する事にもなりますので、斯ういう場合は、現今の実業界に於て、往々見る所であります、私は新事業には多く関係しまして、紙漉・瓦斯・製糸・織物・人造肥料・帽
 - 第27巻 p.47 -ページ画像 
子製造・煉瓦など、すべて西洋工芸的の製造に従事する所の、東京・大阪又は京都の諸会社には、大抵関係がありますが、其実地に就て試して見ますに、只今申上た如く、其業に就く技術家の、学問に精通しないのと、之に応じて其事を処理する人の、技術家に対する親切が足りないのとには大に心配をしましたが、甚しきに至つては、終に乖離して、不満足なる結果を招いたのも、ないではありません
斯様な実例を見ましても、学問と事業との関係に就ては、学者も事業家も、共に注意に注意を加へねばなりません、此両者が密着して、十分に応用をなし得る時が、即ち国家の事業の真に発達せる時節であります、英国・独逸などにては、事業と学問の有様が、決して日本の今日の様な、具合ではなからうと思ひます、此席に御出席の諸君は、皆学問に従事して、現に蛍雪に勉励中の方々てありますから、他日学成るの後は、御銘々其志す学問の力に依て、政治家とも成り、事業家とも農業家ともなつて、各々相競ふて、国利民福を進むる事に努力せらるゝであらう、かくして埼玉県の富を増し、埼玉県の進歩を図るは、取も直さず、日本の進歩となるのであるが、兎に角、学問に就く方々は、事業と学問との関係を、力めて、密接ならしめるが即ち国家を富強ならしむる元素であるといふ事を、決して御忘れにならぬやうに深く希望致します
漢学の教育を受た私が、昔の事を回想すると、様様な感慨も起ります自己の身上話は些と御聞苦しいか知れぬが、学問の関係から、漢学は兎角革命に走り易いといふ事の一例として聊か申上やうと存升
私は榛沢郡でしたが、廃合の結果、今では大里郡です、同郡八基村の血洗島のものであります、子供の時から、格別学問に出精したといふ程の事はないが、併し四書・五経・文選位は読みならひました、現に此席に見ゆる尾高君は、私より十歳以上の先輩で、即ち郷里に於ける私の師匠です、私の家は、安部摂津守の領分で、其領主の陣屋は中仙道の岡部村にありました、其陣屋の代官に若森権六といふ人があつて私が十七歳の時に其人は四十六・七の年でした、其頃領主は領分の財産家に用達といふを申付けて、時々其人々から用金を徴収する事がありました、私の父も勉強家で、在方の百姓にしては蓄財があつた方ですが、血洗島では渋沢宗助といふ者が第一の金持で、其次が私の家でした、又近所の矢島に磯右衛門、町田に紋七といふのがありまして何れも私の家と同じく御用金を命ぜられました、私は十七の時父の名代とし磯右衛門・紋七と共に陣屋に呼出されましたが、代官若森権六が私へ対する待遇が甚だ恠しからぬ、一体領主の用金などいふものは、殆んど只取りの有様で、決して返す事ではない、それに其待遇の横柄無礼な事といふは、丸で犬猫に対する様でありました、私は其時に、恥かしい待遇を受けました、其用金の高は総体で二千両取立つる筈で私の家へは二百両出せといふのでありました、其事に付て、父は私を陣屋へ遣つて、一応伺て来いと言付けましたのです、故に其通りに申述へますと若森が私に向つて、即答せぬからといつて、それは実に甚い嘲弄侮慢の言語を以て、大変に叱り付けました、其時分には、領内の百姓などはなかなか以て御代官に対して、言葉を返す事は出来ない
 - 第27巻 p.48 -ページ画像 
ので、唯何事もへー、へー、といつて畏るの外はありませんのです、若森の申しますには、即答が出来ぬ事があるものか、年はいくつだ、十七だと、それ位の身体になりながら、是程の事が分らぬか、ナニ、親爺に対して出来ませんと、此己《コノヲレ》が出せといふに、何で出来ぬ事があるものか、恠しからぬ奴ぢや、意気地なしめ、そんな事で組頭にもなれるものか、マーこんな有様でありました、そこで私は帰りながら熟く熟くと考へました、こんな道理があるものかしらん、自分は年か若くて学問も未熟とはいひながら、論語や孟子や八十史略、日本外史位は読んで居る、情けない事には百姓だから、こんな恥かしい目に遇ふのだ、あの役人が果して何れ程の智識があるか、政治をする経験も才能もない様に見える、それに謂れもなく、人の財産を只取にしやうとして、斯くも横柄なる振舞をするとは何事であるか、武門政治も段々腐敗して、侍と百姓との間に、天地懸隔の階段が出来て、今日の様な乱暴千万なる事もあるのだ、苛政は猛虎よりも暴なりといふ事があるが、実に情けない話で是程理屈に合はない事はない、若しこれが正しいとしたときには、学問も勉強も入らない世の中ではないかと、斯様に考へました、是れが、終に私をして、埼玉県に居ないで、東京に出て、今日あるに至らしめた原因で、即ち漢学が私を駆て、革命根性を惹起させたのであります、固より是も私に、幾分か野心があつた為めでもありませうか、其頃の学問は大凡こんな趣きでありましたといふ一例として申上るのであります
諸君は今日の盛世に生れて、道理正しき学問に従事せらるゝからは、飽くまでも道理正しき奮発心を起して、道理正しく世に立たねばなりません、人は或る張合よりして、勉強心を強め、勇気を鼓舞するものであります、私の例は悪い例であるが、私を鼓舞作興した事に付ては領主の用金が大に与かつて力ありです、若森権六は、私の為めには善導智識といつて宜しい、御話序に太田錦城が韓信を詠した詩を申上けませう
薄倖王孫誰復知、辱君年少是君師、野梅雪圧垂将折、忽得春風花満枝といふのです、これは、梅が寒気に遭ふて雪に圧せられ、枝が折れさうになつたが、能く其苦虐を耐へ忍びたればこそ、忽ち春風温和の気に遭ふて、香ばしき花が枝に満ちたといふ意味であります。即ち韓信が市井の年少に辱められたを能く堪忍して、後に大に英名を揚けた事を賞賛したのであります、私も此学友会々報の初刊を祝して過日梅に因みて一言を述へましたが、私のは逆ですが、ドーゾ諸君に於ては順道より感奮して、将来の美花を御開きになります様希望致します



〔参考〕埼玉学友会設立趣旨(DK270015k-0004)
第27巻 p.48-49 ページ画像

埼玉学友会設立趣旨           (滝沢吉三郎氏所蔵)
  小生手許ニ保存スル小生ノ起案草稿左記ノ如キモノアリ、甚蕪雑ノ稿ナルガ、其当時如此案文ヲ以テ八拾弐名(拾四校?)ノ有志者ヲ得タル事ト存候
    埼玉県学友会設立ノ旨趣
 各地方有為ノ少年、志ヲ立テ笈ヲ負ヒ東京ニ留学スル者必ズ各自同県人ト相詢リ、種々ノ会ヲ設ケテ時々集合シ、相互ノ交誼ヲ厚フシ
 - 第27巻 p.49 -ページ画像 
親睦ヲ謀ルノミナラズ、之カ為互ニ智識ヲ交換シ、自ラ会員ノ主義ヲ一定シ、合同団結ノ風ヲ養成シ、以テ将来事業ヲ興ス基礎トス、誠ニ美挙ト云フ可シ、然ルニ我埼玉県出身ノ学生ハ、他県人ニ比スレバ家郷最モ近ク、父母ノ膝下ヲ隔ツル遠カラザルヲ以テ、親子ノ愛情ハ切ナル可シト雖、朋友ノ団結力乏シク、是マデ一ノ学友会アルヲ聞カズ、或人之ヲ評シテ埼玉県人ニハ一定ノ主義ナシト謂タリト、斯ル有様ナルヲ以テ、何事ヲ為スニモ心ズ先ツ一歩ヲ他県人ニ譲ラザルヲ得ズ、豈遺憾ナラズヤ、是ヲ以テ吾々同感ノ輩相議リ、爰ニ埼玉学友会ナルモノヲ設ケ、広ク埼玉出身ノ諸君ト団結シ、将来ノ起業等ノ便益ヲ謀ラントス、有士ノ諸子速ニ賛成アラン事ヲ望ム(此時分ハ主義と云言葉か流行)
      埼玉学友会略則
第一条 本会ノ目的ハ、埼玉県出身ノ学生相互ノ交誼ヲ厚フシ、将来事業経営ノ便ヲ謀ルニアリ
第二条 会員ハ東京各官私立学校ニ在学ノ埼玉県学生ヨリ成立
第三条 本会ハ埼玉学友会ト称ス
第四条 本会ノ目的ヲ完フセン為、年四回、即一・四・九・十二ノ四季ニ便宜ノ時日ヲ定メ会員ノ集会ヲ催開シ、快談楽語以テ一ハ各自ノ親睦ヲ謀リ、一ハ智識ノ交換ヲ為ス可シ
  但一・四・九ノ三回ヲ通常会トシ、十二月ヲ大会トス
第五条 会費ハ通常会拾銭・大会金四拾銭トス
第六条 本会役員ハ幹事壱名・委員若干名ヲ置キ、幹事ハ本会ノ総務ヲ主トリ、委員ハ幹事ノ事務ヲ補佐ス
第七条 委員ハ各学校ヨリ壱名宛ヲ撰出シ、幹事ハ委員中ヨリ投票ヲ以テ定ム
以上ノ概則ハ尚来ル明治二十二年一月 日第壱回会合ノ節総員協議ノ上完全ニ改定ス可シ
 右ノ如キ草稿保存シアリ、且印刷セル規則書アリ、明治二十二年壱月拾九日会ヲ開キ協議決定セルモノト存候
 尚同日会員録トシテ、コンニヤク版摺ニ氏名・校名ノ記録アリ、会員数八拾弐名、学校拾弐校、外ニ弐名校名ナキモノアリ、拾四校カ
   ○本文以外ノ記事ハスベテ所蔵者滝沢吉三郎氏ノ筆ニナレルモノナリ。



〔参考〕埼玉学友会規則 同会編 刊(DK270015k-0005)
第27巻 p.49-50 ページ画像

埼玉学友会規則 同会編  刊
    埼玉学友会規則
一、本会ハ埼玉学友会ト称ス
一、本会ノ目的ハ、埼玉県出身ノ士相互ノ交誼ヲ温メ、将来就業ノ便ヲ計ルニアリ
一、会員ヲ分チテ三種トス
 一、通常会員ハ東京各官公私立学校ニ在学スル埼玉県学生ヨリ成ル
 一 特別会員ハ学生以外ニシテ本会ノ目的ヲ賛成スルモノヨリ成ル
 一、名誉会員ハ埼玉県人ニシテ学識徳望ヲ備ヘ本会ノ目的ヲ賛成スルモノヨリ成ル、但シ会員三分ノ二以上ノ推撰ニヨリテ之ヲ定ム
一、本会ノ目的ヲ完フセン為メ年四回、即チ一月・四月・九月及十二
 - 第27巻 p.50 -ページ画像 
月ノ四期ヲ以テ、便宜時日ヲ定メ会員ノ集会ヲ開クヘシ、但シ四月九月・十二月ヲ以テ通常会トシ一月ヲ以テ大会トス
一、本会ヘ入会セント欲スルモノハ原籍・氏名並ニ現住処若クハ在校名ヲ詳記シ其旨幹事ニ申出ツヘシ、移転・改名・退学亦同シ
一、退会セント欲スルモノハ其旨幹事ニ届出ツヘシ
一、本会ニ於テハ正副幹事二名・委員若干名ヲ置キ、幹事ハ本会ノ総務ヲ主リ、委員ハ幹事ノ務ヲ補佐ス
一、委員ハ各学校ヨリ一名宛撰出シ、正副幹事ハ委員中ヨリ互撰シ其任期ハ各一ケ年トス、但シ改撰ノ際前任者ヲ再撰スルモ妨ナシ
一、会員ハ会費トシテ通常会ハ毎会金十銭・大会金四十銭ヲ出スベシ
  但シ開会ノ前日迄ニ届出デズシテ欠席スルモノハ、其理由ノ如何ヲ問ハズ会費ノ全額ヲ納ムベシ
一、此規則ハ出席会員三分ノ二以上ノ賛成ニヨリ、何時ニテモ之ヲ変更増減スル事ヲ得ベシ
 幹事  亀井藤重(高等商業学校)
 副幹事 後藤伊左之助(東京農林学校)
 委員  諸井六郎(第一高等中学校)  杉田清吉(東京職工学校)
     中島彀之助(専修学校)    奥貫恭輔(済生学舎)
     木下貞助(尋常中学校)    中村悦造(英吉利法律学校)
     池田吉太郎(東洋英和学校)  根岸栄助(東京英語学校)
     田中勝太郎(専門学校)    清水宇助(海軍主計学校)
   ○右ハ明治二十二年一月十九日ノ会合ニ於テ、協議決定サレタルモノト考エラル。



〔参考〕埼玉学友会規則 同会編 刊(DK270015k-0006)
第27巻 p.50-51 ページ画像

埼玉学友会規則 同会編  刊
    埼玉学友会規則
第一条 本会ハ埼玉学友会ト称ス
第二条 本会ハ埼玉県出身ノ士其相互ノ交誼ヲ温メ、将来就業ノ便ヲ謀ルヲ以テ目的トス
第三条 会員ヲ分テ通常・特別・名誉・賛成ノ四種トス
  一通常会員ハ東京ニ留学スル学生ヨリ成ル
  一特別会員ハ通常会員ノ資格ヲ有セシモノニシテ已ニ其業ヲ卒ヘタルモノヨリ成ル
  一名誉会員ハ埼玉県ニ縁故アリ名誉徳望アルノ士ニシテ、評議員ノ議決ニヨリ推撰セラレタルモノヨリ成ル
  一賛成員ハ学生以外ニ立チ本会ノ目的ヲ賛成スルモノヨリ成ル
第四条 本会ノ目的ヲ達セン為メ毎年一月ニ大会ヲ開キ、三月・五・九月及十一月ニ通常会ヲ開クモノトス
  但時宜ニヨリ臨時会ヲ開キ若クハ会期ヲ変更スル事アルヘシ
第五条 本会ノ事務ヲ処理スル為左ノ職員ヲ置ク
  一幹事     一名
  一副幹事    一名
  一委員     若干名
  一評議員    若干名
 - 第27巻 p.51 -ページ画像 
第六条 正副幹事ハ委員中ヨリ互撰シ、委員ハ通常会員中ニ於テ各学校ヨリ一名乃至二名互撰シ、其任期ハ各一ケ年トス、而シテ委員ハ毎年五月通常会期前ニ改撰シ、正副幹事ハ五月通常会ニ於テ改撰シ事務ノ受渡ハ改撰後一ケ月以内ニ於テナスモノトス
  但改撰ノ際前任者ヲ再撰スルモ妨ナシ
第七条 幹事ハ本会ノ惣務ヲ主ドリ、且重要ノ件ハ評議員会ノ採決ヲ経テ後之ヲ実行シ、副幹事ハ幹事ノ事務ヲ補佐シ、委員ハ各自其学校ニアル会員ニ関スル事務ヲ分掌シ、兼テ幹事ノ事務ヲ補佐スルモノトス
第八条 幹事・副幹事・委員及特ニ本会ニ功労アル者ト特別員・賛成員中ノ若干名トヲ以テ評議員トス
第九条 評議員ノ任期ハ一ケ年トシ、毎年五月ニ改撰スルモノトス
  但改撰ノ際前任者ヲ再撰スルモ妨ナシ
第十条 評議員会ハ必要ノ場合アル時臨時之ヲ開ク
  但其細則ハ別ニ之ヲ定ム
第十一条 本会ヘ会入《(マヽ)》セント欲スルモノハ原籍・氏名・現住所ヲ詳記シ其旨幹事ニ申込ムベシ、但学生ハ其校委員ノ手ヲ経ルヲ要ス、移転・改名・退学・退会亦同シ
第十二条 会員ハ会費トシテ通常会ニ於テハ毎会一人金拾銭、大会ニ於テハ一人金四拾銭ヲ納ムベシ、其大会会費ハ時宜ニヨリ評議員ノ議決ヲ経テ変更スル事アルベシ
  但開会前日迄ニ通知ナク欠席スルモノハ、其理由ノ如何ヲ問ハズ会費全額ヲ納ムベキモノトス
第十三条 本会ノ目的ヲ賛成シ金員・図書・物品等ヲ寄贈スルモノアル時ハ之ヲ受領シ、謝状ヲ送リ金員ハ幹事ノ名義ヲ以テ逓信省貯金局ヘ貯金シ、図書・物品ハ事務所ニ保存シ会員ノ縦覧ニ供スベシ
  但寄附金ハ本会維持金トシテ保存スルト雖、必要ノ場合アルトキハ評議員会ノ決議ヲ経テ、之ヲ使用スル事ヲ得
第十四条 本会々員ニシテ、本会ノ体面ヲ涜ス者アルトキハ、評議員会ノ決議ヲ経テ退会ヲ命スルコトアルベシ
第十五条 本則ハ総会員二分ノ一以上ノ承諾アル時ニ限リ改正増補スルコトヲ得
   ○右ハ前掲ノモノヨリ後ニ協議決定サレタルモノト思ハルルモ、ソノ時日ハ不明ナリ。



〔参考〕評議員会請求書 滝沢吉三郎記(DK270015k-0007)
第27巻 p.51-53 ページ画像

評議員会請求書 滝沢吉三郎記      (財団法人竜門社所蔵)
    評議員会請求書
我学友会ノ創立ヤ已ニ久シク、其間会員諸君ノ熱心奮励ヲ以テ着々其歩ヲ進メ、会員数漸ク其多キヲ加ヘ、其相互ノ交情益密ニ、団結益固ク本会ノ基礎漸ク鞏固ナルニ至レリ、之ニ於テカ去四月十七日開会ノ第四大会ノ如キ、吾県選出代議士諸氏ノ賛同臨会ヲ得、且翌十八日本会委員総代埼玉県人懇親会ニ列席シ、親シク本会ノ趣旨将来ノ目的等ヲ述ベ、大ニ地方人士ノ賛成ヲ博シ、特ニ満場一致ヲ以テ後来本会ト連絡ヲ結ビ、毎会本会々員ニ限リ会費半額ヲ以テ出席スル事ヲ得ベキ
 - 第27巻 p.52 -ページ画像 
ノ承諾ヲ得タリ、如此ハ本会ガ地方ノ人心ヲ収攬シ益隆昌ヲ極ムルノ一斑ヲ知ルニ足レリ、就テハ此際尚一層本会ノ趣旨ヲ拡張シ、其素志ヲ達センガ為メ、斯夏期ノ休暇ヲ好機トシ、別紙目的方法ニ因リ有志ノ会員地方ヲ漫遊シ、或ハ演舌ニ或ハ談話ニ以テ地方人士ヲシテ本会アルヲ知ラシメ、且将来笈ヲ東都ニ負ハントスル有望ノ者及其父兄ニ対シ、就学ノ方針ヲ示教シ、周旋ノ労ヲ採リ、便益ヲ与ヘナハ其裨益スル処実ニ尠ナカラザルベシ、加之留学者ハ挙テ本会ノ会員タラシメ其身ヲ本会ニ托ネシメ、本会ニ於テ之ガ保護監督ヲナス事ヲ得ルニ至ラバ、一ハ彼等ヲシテ其方向ヲ誤ル事ナカラシメ、一ハ吾県人士ノ一致結合ノ鞏固ナルヲ世ニ知ラシメ、如此シテ本会ヨリ続々有望ノ士ヲ出ス事ヲ得バ、独リ本会ノ名誉ノミナラズ、併セテ吾県ノ名誉タリト信ズ、是生等ガ微志ヲ以テ聊カ本会ノ為メニ計画スル所、然レトモ生等浅学寡聞ニシテ経験ニ乏シク、其利害得失ヲ審ニスル事能ハズ、故ニ之ヲ評議員会ノ議ニ付シ、審議討究セラレン事ヲ希望ス
  明治弐十五年六月十三日      委員 山下竹三郎
                   〃  松沢藤三郎
                   〃  美田満寿之助
                   〃  田中律
    埼玉学友会幹事 山川信次郎殿
(別紙)
    旅行ノ目的及方法ノ概略
目的及方法 本会ノ趣旨性質及取ル所ノ方針等ヲ示シ、地方人士ヲシテ本会ノ必要ヲ知ラシメ、或ハ各学校ノ状況、学生ノ状態等ヲ知ラシメ、確タル志想目的ナクシテ出京スル青年ヲ戒シメン為、及近時ノ青年浮薄ニ流レ漫リニ社会ノ風潮ニ感染セラレ、驕奢遊惰ヲ事トシ、甚シキハ父兄ヲ欺キテ意トセザル等ノ学生ノ本分ニ反スル者多シ、如此状況ヲ地方人士ニ詳説シ注意ヲ求メンガ為メ、幻灯ノ助ヲ藉リ各地ニテ演説・談話ヲ為ス事
○各学校ノ規則等ヲ輯聚携帯シ有志者ノ閲読ニ供シ、且特ニ定メタル委員ヲシテ其校ノ景況・経費・就学ノ手続、其他百般ノ心得ヲ説明セシム
○地方人士中、学生今日ノ状態ヲ知ラザルカ為、吾人ニ対シテ一ノ悪感情ヲ懐抱セシムルモノ多シ(仮令ハ在京者ハ美味美食ニ飽キ居ルナラン又ハ学生ハ粗暴傲慢ナリ(二字許不明))従テ其交親密ナラズ、実ニ慨嘆ニ堪ヘザルナリ、故ニ今回旅行ニ依リ各員言行ヲ慎ミ躬行実践着実ヲ主トシ、真誠ノ学生タルノ本分ヲ示シ、此ノ如キ迷想ヲ破リ親睦ヲ得ン事ヲ計ル事
○旅行ニヨリ会員相互ノ親睦ヲ深厚ナラシメ、且各自大ニ得ル処アルベキ事
○費用ハ各自ノ負担ニシテ且学生ノ本分ヲ示スノ目的ナレバ、宿泊其他ハ倹素ヲ主トシ可成自餐ヲ為スノ意ナリ
○演説・幻灯等ニ対スル各地ヨリノ報酬及有志者ノ寄附金等ハ、此旅行会ハ断シテ謝絶スル事
○旅行会員ハ旅行中特ニ定ムル規約ニ従フベキ事
○旅行日数 四十日乃至五十日(但壱ケ所ニ付一回開会ノ積リ)
 - 第27巻 p.53 -ページ画像 
○開会ス可キ地 県下高等小学校現今ノ区域ハ平均武里位ナルヲ以テ其区域内ニ於テ壱回宛開クトシ、三十九回及其区域広キニ過クル所若クハ会員ノ請求ニヨリ会場ヲ定ムル積ナリ
○旅行ノ順路 発起人ニテ略地図ニ依リ定メタレトモ、之ハ其地附近ノ会員其他地方人士ニ其便否ヲ問フテ定ムル意ナリ
○機械及原板 機械ハ発起人ニテ尽力借入ルヽ積ナリ、原板ハ新ニ参拾枚位調製ヲ要スルナラン、其費用ハ有志者ノ寄附ニ依ル考ナリ
○旅費 確定スルヲ得ザルモ賄及宿泊料ヲ合セ最多額壱円拾五銭ノ見積ナリ、此費ニ付テハ発起人中ニ大ニ意見ヲ有スル事アリ、会議ノ際之ヲ詳述セン
○旅行スベキ人 有志ノ会員ハ何人ヲ問ハズ旅行日数ハ各自随意タルベキ事、而シテ其費用ハ各自ヨリ実費ヲ徴集スベシ
以上ハ其方法ノ大略ナリ、其他一切詳細ノ事ハ賛同ヲ得テ、後ニ計画スルモ可ナラン
 (注意)新調ヲ要スル原板ハ、会ノ目的必要ヲ談話スルニ要スルモノニシテ、之ハ会員ノ意匠ヲ聞キ、或ハ斯道ニ経験アル士ニ謀リテ調製スル積リ
  此書面ハ当時ノ委員ヨリ其当時ノ幹事タル山川氏ニ差出シタルモノナルガ、同幹事ヨリ小生ニ相談ノ為ニ示サレタルモノナリ、拙者ハ已ニ学生ニ非ズ、其実行ニハ関与セズ、其実行状況・結果等承知セザルモ、此挙ガ埼玉学生誘掖会ヲ創設ノ原因力トナリタルモノト存候
   ○本文以外ノ記事ハスベテ所蔵者滝沢吉三郎氏ノ筆ニナレルモノナリ。



〔参考〕埼玉学友会創立希望初発の事情 滝沢吉三郎報告(DK270015k-0008)
第27巻 p.53-55 ページ画像

埼玉学友会創立希望初発の事情 滝沢吉三郎報告
                     (財団法人竜門社所蔵)
    埼玉学友会創立希望初発の事情
私が明治十八年五月修学の希望を以て上京せし際、東京中に知人としては飯河三角氏(旧幕府千百石の旗本の息)三田英学校に在学せし者只壱人のみにて実に孤独寂寞の感強く、十九年東京商業学校(後直に東京高等商業学校となる)に入学して少しは学友も出来ましたが親友と云べき者絶無此境遇に在りて入魂の友人を渇望する念願切烈なりしため、他府県の学生状況を見聞するに或ハ旧藩、又ハ県の先輩が種々適当なる機関を設けて保護・監督或ハ指道誘掖し、従て学生間の親睦敦厚なる様子を知る、然るに我県ハ東都に近接して郷里に父兄・親戚・知友在りて学生間互ニ親交の意念薄弱、団結の念慮甚乏しきを感じまして、学生時期は夫れでよしとするも、卒業して社会に出て何の職業、如何なる事業に従事にも多数の知友が各方面、各階級に在りて相互聯絡助力、便益を交換する事が最大の必用事と思料し、玆に学友会を組織結成し将来業務執行に便ぜんとの願望を起しました
幸ひ同級に亀井藤重氏が在り、同郷人とも申すべき人なりしため弐拾壱年初頭頃より寄宿舎内ニ於て或ハ夕食後靖国神社参拝の途次其他に於て此事を諮りましたが、両人とも孤独無援の身にて有力者、知名の先輩の声援者なく、学生の意志を鼓舞収攬する方便もなく、其緒に就
 - 第27巻 p.54 -ページ画像 
く能はず空しく経過し居たるに、或日亀井氏が曰はるゝに、次年級に尾高次郎と云人が在り、渋沢家の親戚の方なれば同氏に相談して三人で発起しては如何と、成る程間接にも渋沢家の声望を利用すれば必ず出来ると信して、亀井氏より尾高氏に懇談して、先以て三人で創立組織に着手し、賛成者を勧誘し、会員八拾弐名(学校数拾弐)を得て明治弐拾弐年壱月拾九日最初の会を催開しました(今川小路玉川亭の会合は此時か記録なく又確と記臆ありませぬ)幹事として私ハ是非尾高氏に願度交渉しましたが固辞されまして、弐人にて相談の上亀井氏を幹事とし、副幹事に後藤伊左之助氏を選び、又各学校に壱人宛役員を置く訳で委員拾名を選挙しました(添付の書類にて御承知下さい)而して会合の節は委員に通知し、其委員が学校に掲示して、会員に知らしむると云節約、会費も一回普通拾銭、大会ハ四拾銭(先日弐拾銭と申ましたが最初其考後に其倍の四拾銭となりました)
其際先輩の援助と指導を受けむと運動交渉を試みましたが、其頃は先輩に理解なく、浅草の某先輩を数回訪問せしも面会を得ず、五円程の会費補助を請願《せが》みましたが書生が飲食料を貰ひに来たか位に思ふてか遂に拒絶さるる次第で会の仕事は困難なりしも学生は熱心に尽力しました、私は二十三年卒業して学生生活を離れ、自然縁遠くなりましたが、其後学生が熱心に会員を募集し、其際自然学生の意気・品行等の内容の調査が出来て、遂に委員四名が心配して添付せる別紙書面の如き計画となり、県下の有望なる子弟の上京、修学を勧奨すると共に其父兄の意志をも察し、保護・監督指導の必要を痛感し、何か其機関が欲しくなり、学生のため寄宿舎設置の希望が起りた事は其当時諸井六郎氏から聴取りました
私ハ二十六年春大坂に移寓し其後の事は能く知りませぬが、此学友会の熱情に因りて青淵先生が会頭に御成り下されたのは二十七・八年頃かと想察されます、而して
会頭の盛徳と熱誠なる御指導により会が次第ニ隆盛に赴き、先輩有志者も此会に対する理解も大に進みたれば、会頭は前記計画希望事項も御考慮になりたらむ、明治三十四年三月先輩有志者を招請なされて御懇談あり、学生誘掖会設立の計画となりたる趣にて大坂に在住(廿七年帰京廿八年三井銀行に勤仕大坂支店在勤より住友銀行に転勤)せるに明治三十四年十二月十二日附書面会頭及佐野延勝氏連名にて学生誘掖会設立発起人ト為ルベシトノ交渉を受けましたが、三十四銀行頭取小山健三氏ト相談して遠隔の地に在る故を以て辞退致し、再度御勧誘を受けしも其結末は記臆しませぬ
学生誘掖会は三十五年に設立になりました、申さば学友会が母体となり、誘掖会と云立派な子が産れた様なものです
三十五年九月東京に移住、三十八年八月会計主住なりし野崎新太郎氏ヨリ会計事務の引継を受け、大正十一年迄会計主任で居りました様会報にて知れますが其後ハ訳りませぬ
創立満三十年の記念祝賀会は大正七年十月三十一日飛鳥山渋沢家の庭園に於て開催せらる、会頭が別紙写の如き書面を以て賛助を御求めになり、会場役員も添付せる氏名表の如き人々にて盛大に挙行せられました
○誘掖会方は三十八年商議員、四十四年維持員、大正三年と六年理事
 - 第27巻 p.55 -ページ画像 
ニ選れ、其後監事たりしが、今は只維持員たるのミと思ひます
   ○栄一ガ学友会々頭ニ就任シタル日時ニ就イテハ、種々取調ベタルモ、詳細判明セズ。昭和二年十月三十日飛鳥山邸内ニ於テ開カレタル学友会大会ニ於テ、栄一自身「私ハ明治二十七年ニ会長ヲオ受ケシタ様ニ覚エテヲリマス」ト云ヒ居ルモ、当時学友会委員タリシ諸井六郎氏ノ報告ニヨレバ「故渋沢子爵ノ埼玉学友会々頭ニ御就任ノ時日ハ明治三十年以後之事ニ有之云云」トアリ、又埼玉学友会並ニ埼玉学生誘掖会ト深キ関係ヲ有セル、斎藤阿具氏モ諸井氏ト同意見ナリ。明治三十二年九月発行ノ「竜門雑誌」ニ掲載サレタル「青淵先生ノ現職」中ニ「埼玉学友会会頭」トアルトコロヨリ按ズルニ栄一ノ会頭就任ノ時期ハ、明治三十年ヨリ同三十二年九月マデノ間ナリト思考セラル。



〔参考〕学友会報 埼玉学友会編 第二二号・第八五―八六頁 大正四年二月 【顧みれば随分遠い昔と…】(DK270015k-0009)
第27巻 p.55 ページ画像

学友会報 埼玉学友会編  第二二号・第八五―八六頁 大正四年二月
    ○
 顧みれば随分遠い昔となつた。我埼玉学友会が設立されてから二十有八年になる。恰度自由民権が絶叫され、やがて憲政も布かれようと云ふ明治二十二年の正月、当時高商に在学中であつた滝沢吉三郎・亀井藤重・尾高二郎の三氏に依つて主唱され、同月十九日に神田今川小路の玉川亭で発会式を挙げた。其時集つた者が三十九名で、同年十二月の第二回には六十四名の集まりであつたと云ふことである。右三氏発起の主意は、県人相互の交誼を厚くしようとするに在つた。先日滝沢先生にお目に掛つた時当時の設立趣意書を拝見したが、それにも明白に此の旨が示してあつた。
    ○
 爾来二十有八年、我国が未曾有の大発展を為した如くに、我学友会も大に発展したのである。就中最も盛に活躍したのは明治三十年前後日清戦役後国勢が昇天の勢であつた頃だ。当時諸井六郎・竹井耕一郎野崎新太郎・野口弘毅・諸井四郎・渋沢元治・長島隆二の諸氏が相次いで役員となり、或は寄宿舎設立運動を熱心に試み、或は会報発刊を企て、中々すばらしい勢を示した。其結果埼玉学生誘掖会が生れたのである。
 会報第一号の発刊は、明治三十二年四月一日である。年二回の発行で、竹井・諸井・渋沢・長島等の諸氏が中心になつて編輯したのであつた。其の体裁は現今と余り変つては居ないが、雑録と雑報とに、溌溂たる活気を示して居つた。会報は第七号から、年一回の発行となつた。
○下略