デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
9款 埼玉学生誘掖会
■綱文

第27巻 p.108-117(DK270032k) ページ画像

明治35年3月15日(1902年)

是ヨリ先埼玉学友会会員ノ間ニ、県下出身学生ノ修学ヲ奨励監督スベキ一会ヲ設クベシトノ議起リ、栄一ノ援助ヲ求ム。是日、上野精養軒ニ於テ当会ノ創立総会開カレ、栄一会頭ニ推サル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK270032k-0001)
第27巻 p.108 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
三月二日 晴
○上略 埼玉学友会長島隆二・吉田市十郎・本多静六ノ三氏来ル ○下略
   ○中略。
三月七日 雨
○上略 午後八時埼玉県人竹井澹如・吉田市十郎・本多静六・長島隆二諸氏来ル、学校生徒監督ノ事ヲ談ス
   ○中略。
三月十九日 晴
○上略 午後六時兜町ニ帰宅ス。此日埼玉県出身ノ書生修学ヲ奨励監督スヘキ一会ヲ設クル為メ、佐野少将・竹井澹如・長谷川敬介・吉田市十郎・福田又市・諸井恒平・根岸武香・長島隆二ノ諸氏来会シ、其方法ヲ審議ス、衆議其設置ノ大体ヲ可決シ、方案起稿ノ為メ佐野男爵・吉田市十郎・諸井恒平・長島隆二ノ諸氏ニ主査ヲ托ス、夜十時散会ス


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK270032k-0002)
第27巻 p.108 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
二月四日 晴
○上略 午後二時新橋発汽車ニテ横浜ニ抵リ ○中略 四時相生町賀以古楼ニ横浜居住埼玉県人ヲ会シテ、学生誘掖会設立ノ事ヲ談話ス、渋沢作太郎田沼為右衛門其他七・八名来会ス、佐野・竹井・諸井諸氏同伴ス ○下略
   ○中略。
二月十五日 晴
○上略 四時新橋発汽車ニテ横浜ニ抵リ、嘉以古楼ニ於テ埼玉郷友会ノ春季総会ノ饗宴ニ列ス、学生誘掖会ニ関スル一場ノ演説ヲ為ス、本多静六氏同行ス、夜十時帰京 ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三五年(DK270032k-0003)
第27巻 p.108 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三五年   (八十島親義氏所蔵)
三月十日 晴
今朝ハ青淵先生ノ命ヲ帯ヒ、埼玉学生誘掖会定款ノ事ニ関シ、穂積博士ヲ其牛込ノ邸ニ訪ヒ、兜町ヘハ十二時過出勤、夕六時帰宅ス


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK270032k-0004)
第27巻 p.108-109 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
三月十五日 曇
○上略 午後一時上野精養軒ニ抵リ、埼玉学生誘掖会発起総会ヲ開ク、議
 - 第27巻 p.109 -ページ画像 
長席ニ於テ会則ノ議事ヲ整理ス、畢テ会頭ノ推薦ヲ受ケ、之ヲ承諾ス ○下略
   ○中略。
四月十三日 晴
○上略 諸井恒平氏来リ、埼玉学生誘掖会ノ事 ○中略 ヲ談話ス ○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK270032k-0005)
第27巻 p.109 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴 (明治二十五年以後)
一埼玉学生誘掖会会長  卅五年三月十五日
  以上明治四十二年六月七日迄ノ分調


竜門雑誌 第一六四号・第三八頁 明治三五年一月 ○埼玉県学生誘掖会(DK270032k-0006)
第27巻 p.109 ページ画像

竜門雑誌  第一六四号・第三八頁 明治三五年一月
    ○埼玉県学生誘掖会
青淵先生を始め佐野延勝男・本田静六・高田早苗諸氏、其他有力なる同県出身者相図りて今回学生修学及監督の便を得せしめんため、埼玉誘掖会といふを起し、寄宿舎を設け、学資を給与し、会報を発行し、且つ倶楽部をも設立して同県人の親睦を図る由なり


埼玉学生誘掖会十年史 同会編 第一―一一頁 大正三年一〇月刊(DK270032k-0007)
第27巻 p.109-114 ページ画像

埼玉学生誘掖会十年史 同会編  第一―一一頁 大正三年一〇月刊
 ○第一篇 埼玉学生誘掖会史
    第一期 会員組織時代
夫れ国家の隆替は主として人材の有無に因る。故に天下重要なるもの育英の事業に如くはなし。されば明治維新廃藩置県の結果、我国全く統一して一政府の治下に就きし後も、各地育英の機関有志の間に起りて、各競て英材を天下に出さんとせり。而して旧大藩の地方に於て、殊に其の最も完備せるものを見たりき。然るに我埼玉県は地広く人多きに拘はらず、元と大藩の之を統治せるものなく、且つ住民は農に非ずんば商なりしかば、旧藩主又は先覚にして進んで斯かる機関を起し後進を養成して雄を中原に争はしめんとするもの容易に出でざりき。明治二十年頃に至り、始めて埼玉学友会の組織在京学生の間に成りしも、会員は数校在学の有志者に止まり、本県学生全体の連絡は未た望む能はざりき。爾来学友会此間に立ちて、学生の団結を図り、切瑳琢磨の途を講ぜしも、学生誘掖の方法尚全く闕如せしを以て、成績甚だ大ならざりき。然るに学友会の創立後十余年を経て、当時の学友会幹事諸氏の尽力に依り、先輩との連絡漸く端を啓き、先輩も時世に鑑み奮て後進の誘導提撕に当るに至りたり。
今少しく其顛末を摘記せんに、最初主として本県学生誘掖提撕の必要を唱導せしは、学友会々員諸井六郎・竹井耕一郎・野崎新太郎.野口弘毅・諸井四郎・渋沢元治・長島隆二等の諸氏なりしなり。此等諸氏は相謀りて是非とも寄宿舎を設置せんと欲し、各々分担を定めて、或は都下に先輩を歴訪し或は県地に有力者を遊説し、以て一意資金の醵集に力めたり。されど不幸未だ有力者にして此事業の大成を期せんとするもの出でず、其の募集し得たる金額亦七百円内外に過ぎざりき。因て寄宿舎設立の希望は暫く隠忍して他日を期し、該金額を以て先づ
 - 第27巻 p.110 -ページ画像 
埼玉学友会の機関雑誌として、学友会々報を発刊し、以て県人の同情を喚起するに決せり。斯の如くして会報の発刊を見るに至り、会の基礎一層鞏固となりしかば、更に一歩を進めて其統一を保ち、且つ其発展を期するため、本県出身の有力者を会頭に推戴するの極めて時宜に適するを認めたり。是に於て前記諸氏は相携へて男爵渋沢栄一氏の邸に至りて、学友会々頭たらんことを懇請せしに、男爵幸に快諾せられしかば、学友会の組織及施設漸く備はり、後日初志貫徹の気運実に此時に種蒔せられしなり。
斯くて明治三十四年二月学友会は評議員会を開き、其決議に基き埼玉学生誘掖の方法を調査する為め、同年三月左の十一氏を推して其調査委員を嘱託せり。
 長谷川敬助  本多静六    吉田市十郎  高田早苗
 竹井澹如   竹井耕一郎   長島隆二   根岸武香
 福田又一   男爵佐野延勝  諸井恒平
爾来調査事務所を麹町区中六番町三十四番地男爵佐野延勝氏の邸に定め、頻次集会協議する所あり。
三月七日竹井澹如・吉田市十郎・本多静六・長島隆二の四氏渋沢学友会々頭を深川福住町の邸に訪ひ、詳に委員会決議の理由を陳述し、且つ県下学生誘掖提撕の事業は一日も看過すべからざるの事情を弁明せり。会頭遂に其議に賛し、乃ち調査を左の九氏に嘱託せり。
 長谷川敬助  本多静六  吉田市十郎  高田早苗
 竹井澹如   根岸武香  福田又一   男爵佐野延勝
 諸井恒平
同月十三日麹町区富士見町吉田市十郎氏邸に於て第一回調査会を開き審議の上事業成功の確実と便宜とを期せんため、全く学友会との関繋を離れて、新に育英を目的とする県人会を創立するに決せり。因て同月十九日日本橋区兜町渋沢男爵邸に第二回調査会を開き、前回に於て議定せる事項に就きて大体会頭の賛同を得、尚更に会頭の発議に基き経費・概算及び募集金額の予定に付、精細なる調査をなすことゝせり左記本会設立の要旨は当時の発表に係るものなり。
      埼玉学生誘掖会設立要旨
 国運ノ隆昌、民業ノ発達ハ之ヲ人材ノ養成ニ望ムベクシテ、人材ノ養成ハ之ヲ教育ノ宜シキヲ得ルニ望ムベシ。而シテ教育ノ宜シキヲ得ルハ先輩有力ノ誘掖提撕ニ依ラザルベカラズ。是レ古今内外ノ実例ニ徴シテ明カナル所ナリ。
 我埼玉県ハ帝都ニ接壌シ、山河形勝ヲ占メ、耕織ノ生産ニ富ミ、古来文武ノ士ニ乏シカラザルヲ以テ、今日教育ノ如キモ必ズ他県ニ優ルベキヲ推知スベクシテ、却テ遜色アルモノハ、蓋又故ナキニアラザルナリ。封建ノ時、政治ノ区域犬牙交錯シテ、互ニ溝渠ヲ設ケ、先進ノ後進ヲ導キ、後進ノ先進ニ倚ルモノ、亦其区域ニ止マリ、習慣ノ久シキ、其俗容易ニ革ラズ。置県三十余年ノ今日ニ至リ、未ダ闔県一団ノ挙ニ出ヅルモノアラザリキ。是ヲ以テ県内ノ学生超群俊秀ヲ除クノ外ハ、或ハ方向ニ迷ヒ、或ハ目的ヲ誤リ、人生発達ノ時機ヲ失フモノ尠シトセズ。或ハ笈ヲ帝都ニ負ヒ、蛍雪ノ初志ヲ鎔鑠
 - 第27巻 p.111 -ページ画像 
シテ学資ヲ逸予ニ蕩尽スルモノ、或ハ貧家ノ子弟進ムニ学資ナク退クニ生計ナク、空シク志ヲ抱キテ恨ヲ窮途ニ呑ムモノ、亦尠シトセズ。真ニ慨歎ニ堪ヘザル所ナリ。嗚呼均シク教育普及ノ盛世ニ生ルルモノ、智愚強弱ハ暫ラク措テ論セズ。其就学ノ得失、成材ノ優劣ニ至テハ、之ヲ自然ニ放任スベカラズ。宜シク人為ヲ以テ育養ノ助ヲ与ヘ、国家ニ献ズルノ大義ヲ明カニスベシ。於是カ同感者協議シテ、我県学生ノ為メニ東京修学ノ監督法ヲ設ケ、厳正ノ規律ニ依テ其進退ヲ保護シ、方向ニ迷フモノヲ指導シテ、其目的ヲ達セシメ、有志ノ学費ニ乏シキモノハ、貸費ノ恩例ヲ設ケテ、其志ヲ貫徹セシメ、資有ツテ行ヒ亡キモノハ、之ヲ訓戒シテ、其品行ヲ修治セシメ之ヲ要スルニ、内ニシテハ我県教育ノ根元ヲ涵養シテ、人材発達ノ源ヲ深クシ、外ニシテハ闔県共同ノ美風ヲ造成シテ、大ニ徳義ヲ重ンジ、以テ国運ノ隆昌ヲ裨補セント欲ス。其規程節目ハ之ヲ別冊ニ詳ニス。冀クハ県内同感ノ諸君、此挙ヲ賛成シ、其分ヲ論ゼズ、其意ニ任セテ義捐セラレ、腋ヲ集メ裘ヲ成シ、県内幾多ノ年少ヲシテ各能事ヲ尽サシメンコトヲ。謹テ啓ス。
  明治三十四年辛丑三月
是時に当り、長島隆二氏東京府下にある各地方学生の寄宿舎を巡覧して学生誘掖に関する緊要書類を蒐集し、以て調査の参考となせしが、同月吉田市十郎・諸井恒平・長島隆二の三氏は更に調査の資料に供せんがため、小石川区久堅町青森県学生寄宿舎修養館に赴き、館の構造及内外の設備を調査せり。是れ同館は最近の建設に依り、設備稍完全なるを以てなり。同月廿九日佐野男爵邸に於て第三回調査会を開き、経費・予算及募集金額の予定を定む。此日吉橋徳三郎・秋庭直衛の二氏亦席に列して調査を輔けたり。而して本案は爾来本多・竹井・吉田秋庭・佐野男爵諸氏の数次の修正増補を経、更に渋沢学友会々頭の意見を参酌し、以て会則草案及経費収支予算並に一時費消概算書の編成となりたり。同年五月十六日佐野男爵邸に第四回調査会を開き、将来の進行に就き商議する所あり、調査の完全と事業の実行とを期せむ為め、県知事・郡長諸氏の賛同を請ふことに決せり。因て同年九月五日佐野男爵は浦和に知事山田春三氏を訪ひて、親しく本会の趣旨を陳べ本会創設に尽力せられんことを懇請せり。同年十月五日竹井澹如氏復知事を訪問せし結果、各郡長県庁に参集の機を以て此事業につきて会談せしむべしとの承諾を得たり。同年十一月五日左の諸氏を府下王子町渋沢別邸に招待せり。
 知事山田春三・書記官横山三郎・視学官豊岡俊一郎・大里郡長中村孫兵衛・秩父郡長坂本与惣次郎・北足立郡長早川光蔵・児玉郡長東郷重清・入間郡長島崎広太郎・南埼玉郡長神谷厚・北葛飾郡長市川春太郎・北埼玉郡長田村省三・比企郡長山田奈津次郎・教育会長伊沢徳定・教育会副長高橋重蔵
右の外、長谷川敬助・本多静六・竹井澹如・吉田市十郎・高田早苗・竹井耕一郎・福田又一・秋庭直衛・諸井恒平・長島隆二の諸氏亦席に列す。渋沢男爵衆に代りて本会設立の必要及発起以来の経過を陳述し自今本会のため諸氏の賛助を得て、最善の方法を講ぜんことを嘱望せ
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り。知事之に対し、其趣旨全然賛成なりと雖ども、事固より重大なるを以て、一応協議の上追て確答すべきを約せり、翌六日約に基き、諸氏浦和に会す。本会よりは吉田・竹井・秋庭の三氏亦之に列席せり。此会合に於て知事・書記官・視学官・教育会正副会長諸氏は、本会創立の上は協賛員として発起者同様力を尽すべきこと、及び地方発起人の選定嘱託のことを承諾せられたり。同年十二月三日佐野男爵邸に会す。此時知事は既に地方発起人の選定を了せしを以て、渋沢・佐野両男爵より此等地方発起人に対して依頼状を発送し、又更に京浜地発起人に関し評議する所ありたり。同月十六日埼玉学友会は評議員会を開き、調査の報告に基き、学友会は従前の通り独立し、誘掖の事業は之を新計画の誘掖会に委することに決せり。是に於て育英を目的とする県人の結合は愈々新設の緒に就きたり。
明治三十五年三月十五日、本会主唱者の名義を以て創立総会及び同じく準備会を上野精養軒に開く。準備会出席者十六名、会則其他諸般の準備に付決議し、且つ既に県地及京浜地に於て二百四十余名の発起人選定を終りしを以て、続て創立総会を開けり。出席者百〇九名、会則を議定し、正副会頭の選挙を行ふ。乃ち満場一致を以て会頭に男爵渋沢栄一氏、副会頭に男爵佐野延勝氏を推薦し、両氏の承諾を得たり。又評議員は会則第十八条の範囲に於て適宜人員を定め、其氏名と共に会頭に一任することに決議せり。而して本会の議決は出席者の多数決に依り確定することと予め通知し置きたるを以て、本会の組織此に至りて全く成立せしものなり。此日の来賓は埼玉県書記官・同視学官・及教育会副会長・各郡長・埼玉県各新聞社々主とす。総会に引続き懇親会を催し、来会者の交誼を温めたり。
      埼玉学生誘掖会々則
    第一章 総則
第一条 本会ヲ埼玉学生誘掖会ト称ス
第二条 本会ハ事務所ヲ東京市牛込区市ケ谷砂土原町三丁目二十一番地ニ設置ス
第三条 本会ハ埼玉県人及埼玉県出身者子弟修学ノ便ヲ図リ、併テ相互ノ交誼ヲ温ムルヲ以テ目的トス
第四条 前条ノ目的ヲ達スル為メ本会ニ於テ施行スヘキ事業ハ概ネ左ノ如シ
 一、就学者ニ諸般ノ便宜ヲ与フル事
 二、寄宿舎ヲ設ケ学生ヲ容レ之カ監督ヲ為ス事
 三、貸費ノ制ヲ設ケ、学資乏シキ有望ノ学生ヲ養成スル事
 四、優等学生表彰ノ法ヲ設ケ学生ヲ奨励スル事
 五、会務ノ報告及会員通信ノ機関ニ供スル為メ、会報ヲ発行スル事
 六、会員相互ノ親睦ヲ謀リ、及其会合ノ便ニ供スルタメ倶楽部ヲ設クル事
    第二章 会員及出資
第五条 本会ノ会員ハ左ノ四種トス
 一、正会員 本会ノ目的ヲ賛シ一口以上ノ出資ヲ為スモノ
 一、準会員 正会員ノ子弟並ニ本県人ノ在学者ニシテ入会ノ許可ヲ
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得タルモノ
 一、協賛員 本会ノ特ニ推薦シタルモノ
 一、賛成員 本会ノ趣旨ヲ賛シ一時ニ金参円以上出資スルモノ
第六条 正会員ノ出資ハ一口以上トシ、一口ハ金拾弐円ト定メ、六箇年間ニ分割シ毎年金弐円ツヽ払込ムモノトス 但入会ノ際一時ニ払込ムトキハ一口金拾円トス、尚第一回払込後又ハ其後ニ於テ一時払込ヲ為ストキハ、以上ノ標準ニ依リ定ムルモノトス
第七条 会員ハ既ニ払込ミタル出資ニ就キ返還ヲ求ムルコトヲ得ス
第八条 準会員ハ成業後正会員タルヘキ義務アルモノトス
 準会員並ニ賛成員ハ議事及投票ニ与ルコトヲ得ス
第九条 協賛員ハ、何時ニテモ総会及評議員会ニ出席シテ其意見ヲ陳述スルコトヲ得 但決議ノ数ニ入ラサルモノトス
 協賛員ニシテ出資ヲ為スモノハ正会員ノ資格ヲ併有ス
第十条 会員中不都合ノ行為アリト認ムルトキハ、評議員会ノ決議ヲ経テ除名スルコトアルヘシ
    第三章 役員
第十一条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク
 一、会頭    一名       一、副会頭    一名
 一、理事    五名乃至二十名  一、主事     一名
 一、委員    若干名
第十二条 会頭ハ本会ヲ総理シ、会議ノ議長トナリ、及本会ヲ代表ス副会頭ハ会頭ヲ補佐シ、会頭事故アルトキハ之ニ代ル
 理事ハ会頭ノ指揮ヲ受ケ会務ヲ処理ス
 主事ハ会頭並理事ノ指揮ヲ受ケ、庶務及会計ノ事務ヲ掌理ス
 委員ハ本会ヨリ特ニ委任セラレタル事務ヲ行フ
第十三条 会頭・副会頭ハ総会ニ於テ正会員中ヨリ之ヲ推薦ス
 理事ハ評議員会ニ於テ正会員中ヨリ之ヲ選挙ス
 主事及委員ハ会員又ハ会員外ヨリ会頭之ヲ嘱托ス 但主事ハ有給ト為スコトヲ得
第十四条 理事ノ任期ハ三箇年トス 但シ再選ヲ妨ケス
第十五条 会頭ハ必要ノ場合ニ於テ有給事務員ヲ雇使シ、且ツ会務ノ施行ニ関スル細則ヲ定ムルコトヲ得
    第四章 会議
第十六条 本会ノ会議ヲ総会及評議員会ノ二種トス
第十七条 総会ハ毎年四月之ヲ開キ、前年四月ヨリ翌年三月マテノ会務ノ顛末及会計ノ決算ヲ報告シ、且ツ必要ナル事項ヲ議決ス 但会頭必要アリト認ムルトキ又ハ評議員会ノ決議ヲ以テ臨時総会ヲ開クコトヲ得
第十八条 評議員会ハ重要ナル会務ヲ議定ス
 評議員ハ六十名乃至百二十名トシ、県地ノ正会員ヨリ半数、京浜其他ノ地方正会員ヨリ半数ヲ総会ニ於テ選挙ス、評議員ノ任期ハ三箇年トス 但再選ヲ妨ケス
第十九条 評議員会ハ、会頭ニ於テ必要ト認ムルトキ又ハ評議員十名以上ヨリ会議ノ目的ヲ示シテ請求シタルトキ之ヲ開ク 但評議員ノ
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五分ノ一以上出席スルニアラサレハ議決ヲ為スコトヲ得ス
第二十条 会議ハ総テ会頭之ヲ招集ス
    第五章 雑則
第廿一条 会員ハ、理事ノ許可ヲ受ケ本会所蔵ノ図書・器具ヲ使用スルコトヲ得
第廿二条 本会ニ金円物品ヲ寄附スルモノアルトキハ、会頭ノ名ヲ以テ謝状ヲ贈リ、寄附者ノ姓名ヲ記録ニ登載ス
第廿三条 本会則ハ総会出席者ノ過半数ヲ以テ議決スルニアラサレハ之ヲ変更スルコトヲ得ス ○下略


本多静六自叙伝原稿(DK270032k-0008)
第27巻 p.114-116 ページ画像

本多静六自叙伝原稿          (本多静六氏所蔵)
    渋沢子爵ト自分
 埼玉学生誘掖会ノ由来ハ、同会十年史ニ詳記サレテ居ルガ、ソレハタダ表面ニ現ハレタ事実ニ過ギナイ。自分ハ裏面ニカクレテイル重要ナル挿話ガアルカラ、今之ヲ記シテ、堙滅ヲ防イデ置キタイ。
 自分ガ未ダ苦学生デアツタ当時、同窓ノ河合鈰太郎君(後ノ林学博士)ハ、愛知舎ヨリ毎月六円ノ給与ヲ受ケ、年五十円ノ自分ノ学資ヨリモ余程楽ニ勉学ノ出来ルノヲ見テ、我ガ県ニモ愛知舎ノヤウナ、学生ニ学資ヲ給与スル会ガアツタラバト、沁々ト羨シク感ジ、何トカシテ、将来斯カル会ヲツクリ度イモノデアルト思ツタコトガアル。其後自分ハ、幸ヒ帝国大学ノ助教授トナツテ俸給ヲ貰フヤウニナルヤ、予テノ宿志デアル、愛知舎ノ如キ会ノ設立ヲ思ヒ立チ、之ヲ竹井澹如・諸井恒平・吉田市十郎ノ諸氏ニ相図ツタ所、同氏等モ大賛成デアツタノデ、熟議ノ結果、竹井老ヨリ渋沢子爵ニ内談ヲ遂ゲ、自分ガ改メテ其返事ヲ聞キニ行ク事ニナツタ。ソレハ明治三十三年ノ秋デアツタ。私ハ予メ妻ト相談ノ上、三百円ノ金ヲ腹巻ニ入レ、早速渋沢栄一先生ヲ深川福住町ニ訪レタ。生憎其日ハ不在ノ為メ面会ガ出来ナカツタノデ、翌日ハ夕飯后ニ出掛ケテ、八時頃ニ着イタ所、尚帰宅サレテ居ナカツタ。ソコデ自分ハ、モウ少シ待ツテ見ヤウト思ヒ、玄関ノ脇ニ頑張ツテ居ルト、ヤツト十時過ニナツテ帰ラレタ。スグニオ会ヒシタイト思ツタガ、風呂ニ入ラレタト云フノデ、尚ホ暫ク待ツテ居ルト、十一時頃ニナツテ書生ガ出テ来テ
 「今夜ハ遅イカラ明朝来テ下サイトノコトデス」ト云ハレルカラ、「私ハ駒場ノ官舎カラ四里近クノ道ヲ歩イテ来マスノデ、明朝八時カラ講義ヲ間ニ合セル為メニハ、遅クモ五時迄ニ来ナケレバナリマセンガ、往復六時間程カヽリマスノデ、今十一時過カラ家ヘ帰ツテモ、スグ又、出掛ケテ来ナケレバナリマセン、ソレニ私ハ、明日ノ講義ノ準備モアルノデスガ、幸ヒ私ハ、コヽニ参考書ト紙ヲ持ツテ来テ居マスカラ、ドウカ此玄関ノ隅デモオ貸シ下サルナラ、私ハ夜中カヽツテ明日教授スル原稿ヲ作リ、御主人ノ御目覚ヲ待ツテ居リマスカラ、左様オ願ヒシタイ」ト云フト、書生ガ引込ンデカラ暫クスルト、渋沢先生ガどてらヲ着テ出テ来ラレ
 「君ハ人ノ家ニ来テ、ドウシテモ帰ラナイソウダガ、怪シカランデハナイカ、ソレニ君ノ用事ハ、予テ竹井氏カラ聞イテ承知シテ居ル
 - 第27巻 p.115 -ページ画像 
ガ、今ノ日本ノ壮態カラ見テモ、君等ガ考ヘルヤウニ、容易ニ出来ル仕事デハナイヨ」ト云ハルヽカラ、私ハ此処デ怯ンデハナルモノカト思ヒ、一歩突キ込ンデ反問シタ。
 「趣旨ハオ分リニナツテ居ルトオ仰有ルカラ申シマセンガ、一体ソレガ悪イ事ダト云フノデスカ」
 「イヤ、敢テ悪イ事トハ云ハナイ、善イ事ニハ相違ナイガ、元来斯フ云フ事ヲヤルニハ、主ニナツテヤル人ガ先ヅ以テ自分デ金ヲ出シ然ル後ニ人ニスヽムベキモノダガ、自分デ出サズニ、人ノ所ニノミ勧メニ来ルナゾハ、初メカラ間違ツテ居ル」ト、真向カラキメツケラレタノデ、私ハ
 「御意見ハヨウク分リマシタ。シカシ私モ不肖ナリト雖モ、少シハ出スツモリデ覚悟シテ居マスガ、余リニモ少ナイノデ申上ゲ兼ネテ居ルノデアリマス」ト云フト、渋沢先生ハ少シ頷ヅカレテ、
 「金額ハ其人ノ力ニ応ジテ出セバヨイノデアルガ、多少ニ関ハラズ先ヅ自分デ出シテカラデナケレバ、自分ハ絶対ニ相談ニハ預カレナイカラ」ト、キツパリト宣告サレテ終ツタ。ソコデ私ハ
 「ソレ迄オ仰有ラレテハ、止ムヲ得マセンカラ申上ゲマスガ、私ハ此ノ仕事ヲ思立ツタ時カラ、何トカシテ目的ヲ達シタイト思ヒ、自分ノ決心ノ塊リトシテヒソカニ用意シ、封印シテ持ツテ居リマスカラ」ト云ツテ、胴巻カラ状袋ヲ取出スト
 「幾何アルノカ」ト云ハレルカラ、中ヲ御改メ下サイト云ツテ、十円札三十枚入ツテ居ル状袋ト、埼玉学生誘掖会基金ト書イテアルノヲ添ヘテ出スト、先生ハ少シ意外ラシイ顔デアツタ。当時自分ハ九百円バカリノ年俸デアツタガ、ソノウチカラ三百円ヲ出スコトハ、后ノ三千円ヨリモ苦痛デアツタノダカラ、先生モヤツト自分ノ誠意ガ分ツテクレタラシク
 「ソレデハ僕ニハ幾何出セト云フノカ」
 「実ハ此企テハ十二万円ノ資金ヲ造ル予定デ、先生ニハ其二十分ノ一、即チ六千円ヲ出シテ戴キタイノデス」
 「十二……十二万円、ソンナ大金ハ、あめりかナライザ知ラズ、今ノヤウナ貧乏ナ日本デハ到底集マルマイ」
 「ソレデハ幾ラ位ナラ集ルオ見込デスカ」
 「マア其半分ガセイゼイダロウ」ト云ハレルカラ、「ソレハ見込ノ相違デ止ムヲ得マセンガ、先ヅ六万円ノ予定トシテ、最前申上ゲタ金額ノ半分出シテ戴キタイ、ソシテ若シ六万円以上集メル事ガ出来マシタラバ、更ニアトノ三千円ヲオ出シ願ヒタイ」
ト云フ事デ、ヤツト先生ヲ射落シテ、帳面ニ三千円ト書イテ貰ツタガ玆ニ先ヅ、第一陣ヲ征服シタコトハ、目的ノ達成ヲ予約シタコトニ等シイノデ、天ニデモ飛ビアガル心地ガシテ嬉シカツタ。「ヨシ之レデ出来ル、キツト作ツテ見セルゾ」ト、深夜モ物カハ、喜ビ勇ンデ飛ブヤウニ駒場ヘ帰ツタノデアルガ、途中デハ黎明ヲ告ゲル鶏ノ声ガ盛ニ聞エテ居タ事ヲ記憶スル。
    寄附金募集ノ苦心
 斯クシテ兎ニ角、渋沢先生ノ内諾ヲ得タノデ、翌三十四年二月ニ開
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カレタ学友会評議員会ニ、誘掖会創立ヲ発表シテ一同ノ賛成ヲ得、調査委員十一名ヲ選挙シ、数回ノ会合ヲ経テ愈々表面ニ成立スル事ニナツタガ、最モ困難ナル基金募集ニハ、専ラ自分ト諸井恒平君トノ二人デ当ル事ニナツタガ、老練ニシテ慇懃ナル諸井君ノ説明ハ、諒々トシテヨク其要ヲ尽セシ為メカ、相当ノ寄附ガ集ツタ。 ○中略
 斯クシテ漸ク自分達ノ努力モ報ヒラレ、総寄附金額ガ六万円以上ニ達シタノデ、自分トノ前約ニヨリ、改メテ渋沢先生ヨリ増額(二千円増計五千円)ノ寄附ヲ得タ次第デアル(但シ後年先生ヨリハ更ニ多額ノ寄附ガアツタ)ガ、玆ニ銘記スベキハ――一体渋沢先生ト云フ方ハ初メテ事ヲ起ス時ハ極メテ慎重デ、先ヅ以テ発企人等ノ熱心ノ度合ト実力ヲ試スル為メニ、極メテ冷淡ニ取扱ハレルガ、一度自分ガ賛成セラルヽヤ、前トハ反対ニ、極メテ熱心ニナリ、金モ出サレルシ身ヲ以テモ働ラカレル事デアル。ソシテ我等ノ学ブベキコトハ、勧メル事ハ勧メルガ、無理ニ自分ノ思ヲ通サナイ事デアツタ。
 或ル時自分ハ渋沢先生ニ伴ハレテ横浜ニ趣キ、県出身者ヲ賀以古楼ニ招キ、寄附ノ勧誘ヲシタコトガアル。其時平沼専蔵老モ出席シ、涙ヲ流サンバカリニ寄宿舎ノ美挙ヲ賛成サレタノデ、自分ハ此機ヲ逸セズニ、予テ相談シテ置イタ一万円ノ帳付ヲ渋沢先生ニスヽメタ所「マア、アトデ書イテ貰ハフ」トノ事デアツタカラ、其後田沼太右衛門氏ノ手デ、寄附申込書ヲ貰ニ行クト、僅カ三百円デアツタノデ、自分ハ一万円ガ三百円ニ減ツテハ、到底予定ノ寄附額ヲ集ムル事ハ出来ナイカラ、其申込書ヲ返サウト云フト、渋沢先生ハ「出サナイモノハ仕方ガナイ、又出ス人モアルカラ」ト、其儘ニナツタガ、アトデ平沼氏ノ性格ヲ聞クト、同氏ノ貯金法ノ秘伝ガ「平常入ツタ金ハ一文モ出サナイ事ニシテ、イザト云フ時ニウント答ヘテ出サナイノダ」ト云フノデアツテ、成ル程、ウント答ヘラレタノダナト云ツテ、兎ニ角平沼氏ノ意志ノ鞏固サニ感服ヲシタ事ガアル。


本多静六談話筆記(DK270032k-0009)
第27巻 p.116-117 ページ画像

本多静六談話筆記
                 昭和一三年七月一四日 於帝国森林会事務所 本編纂員井東正一記
    渋沢さんと私
 私は年をとつたので兎角あけすけにものを言ふ様になつた。だからたとへ渋沢さんの伝記編纂と云つても、もし今迄の多くの伝記の様に当人を神格化して、善い面丈をみると云ふ様なやり方では話は出来ない。人は誰でも悪い面・欠点があつて、それをどう云ふ風に治し乍ら好い面をのばして行くかに人間の努力の一生がある。すべて我々の親しみ易いもの、人間的にみなけれバどんな偉人の一生も面白くない。
 渋沢さんも、古人が仏も又凡夫なりと云はれた様に、凡夫であつた然しあの健康と才能、それに努力と修養を重ねて遂に晩年の大成をなした。年と共に磨かれて行つたと云ふにふさはしい人です。智徳は年と共にすゝみ、晩年には円満至極、まことに神格化したと云つても差支へない程でした。それは主として八拾五才頃よりです。福徳兼備の大偉人となつたのです。
 私は五十年間も子爵と知己を得ましたが、あの孔子の四十にして惑
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はず、五十にして天命を知り、六十にして耳順ふ、――七十にして己れの欲するを行ひて矩を越えずとの言葉に、全く相応した生き方をされたと云へませう。渋沢さんは七十才を越えて長生されたと云ふことがあの晩年の偉人をつくつたと云へます。世道人心に貢献されたのは主として七十を過ぎられてよりです。事業界より引退されてからが、渋沢さんの晩年の円満な人格をつくつたのです。
 偖私と渋沢さんの話に移りますが、最初の関係はこう云ふエピソードより初まります。
 私の義兄に藤村久と云ふのがおりましてやはり埼玉県人なので、この義兄が同郷の渋沢さんの引立で玄関番をして深川の邸に居つたことがあります。私は明治十二・三年頃、未だ十五・六才の頃でしたが、学問をしようと思つて、乞食同様の姿で、郷里を出て上京して来ました。その当時の苦学生です。その上京して来た時、自分の義兄もおりますので、渋沢家を訪問して、色々世話を受け様かと思ひました。ところが二度訪問して、二度とも玄関払ひを喰ひ、その時の憤慨は甚だしく、二度と渋沢の門なぞ、くゞるものかと決心して以来東京で駒場の学校を卒業する迄一度も渋沢さんの厄介にならなかつたのです。その玄関払ひの書生時代から十年程経ちまして、私も学校を卒業し、外国より帰つて、帝大の農科大学の助教授になりまして、始めて埼玉学生誘掖会をつくることで渋沢さんに会ひました。その時からのことは別に、唯今私の自叙伝をかいておりまして、こゝにその渋沢さん及び誘掖会との関係もかいてあります故これで御覧下さい。とにかく、私は渋沢さんに、一身上のことでは絶対世話にならぬと決心しましたしそのことを渋沢さんの前で言ひ切りましたので、遂に今迄一身上のことでは一度も頼みに行つたことがありません。学生のためか、国家のため、そのために丈子爵にいろいろ世話になり御願を致しました。人間としては石黒忠篤子・益田孝氏、それに渋沢さんの三人が私の亡くなつた養父のきびしい訓育に代る、親とも師とも仰いだ人で、随分人間としても大きな感化をうけました。渋沢さんは、最初のとつゝきは非常に冷淡な感じを受けますが、一旦話が分つたとなると真心をこめて尽して下さる人でした。だから最初の印象で誤解する人もありましたが、こちらの誠意を知つて一度仕事を引受けられると、あの方程熱心に世話してくれる人はなかつたのです。学生誘掖会のことでも、始め余り冷淡なので、私もかなり憤慨しましたが、誠心誠意あたつて遂に成功しました。渋沢さんが冷淡だと云つて、私の子分の様な者達が激昂して渋沢をやつゝけろ等と云つていきり立ちましたのを、やつと抑へて遂に子爵の心を得ることが出来たのです。