デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
16款 其他 9. 東京府教育会
■綱文

第27巻 p.197-206(DK270079k) ページ画像

明治36年6月14日(1903年)

是日当会ノ主催ニ依リ教育講談会開催セラル。栄一之ニ臨ミ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK270079k-0001)
第27巻 p.197 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
六月十四日 晴
○上略 午後二時過神田橋畔東京府教育会講談会ニ抵リ、一場ノ演説ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第一八一号・第三八頁 明治三六年六月 東京府教育会に於ける青淵先生の演説(DK270079k-0002)
第27巻 p.197 ページ画像

竜門雑誌  第一八一号・第三八頁 明治三六年六月
○東京府教育会に於ける青淵先生の演説 同先生には、本月十四日神田橋外なる東京府教育会講談会に臨まれ「商業教育経歴談」を演説せられたり、同速記文は本号社説欄に掲載せり

 - 第27巻 p.198 -ページ画像 

竜門雑誌 第一八一号・第四―九頁 明治三六年六月 ○商業教育経歴談(DK270079k-0003)
第27巻 p.198-201 ページ画像

竜門雑誌  第一八一号・第四―九頁 明治三六年六月
    ○商業教育経歴談
 本編は本月十五日東京府教育会総会《(マヽ)》に於て青淵先生の講話せられたるものゝ速記に係れり
今日本会の講談会に於て愚見を申上げるやうにと云ふ会長からの御依頼を蒙りまして、玆に参場致しました、教育会と云ふ御名前の下に、余り学問に縁遠い私が此所に顔を出しますのは、殆ど流義違ひとも申すべき訳で、甚だ言はんと欲する事も大に口に支へる恐れがございます、況んや前席に極く雄弁を以て鳴る島田君が、教育に最も利益の多い、又趣味ある御話があつた様でございます、此次に罷り出る私は余程迷惑千万でございます、其事は私が断はるよりは、諸君が御察し下さる方が尚ほ宜からうと思ひます
教育と云ふ御話は、どうしても之を教へると云ふことですから丸るで方角違ひの様で、銭が儲かるとか欧羅巴の貿易が何うであるとか云ふだけでは、何分此教育と云ふ場所に対して甚だ御話しになりますまい故に兎に角教育趣味を持つた御話をせざるを得ないと思ふのでございます、然るに前に申します通り縁遠い私が御話をした所が一向御利益を為す訳にはまゐりませぬ、扨て自分に幾らか関係の多い商業教育も是から先きの理想と云ふのではない、経歴と申す既往談を致さうと斯う考へたのであります、仮令教育に縁遠い御話でも、商業教育の経過を申上げます為には、普通教育に論究せざるを得ぬのであります、而して其の普通教育も現在の教育法ではない、寧ろ維新以前の教育法に就て簡単に御話を致し、而して商業教育の経過に及ぼさんと考へます学者・教育家の入らしやる此席ですから、勿論現今の教育のみならず維新以前の教育も能く心得へぬ私が、斯様なものであつたらふと申す話は、正鵠を欠く嫌ひがござりませう、去り乍ら先づ昔の教育法と云ふものは多く所謂漢学教育、今島田君が段々孔子を引いて御述べになりました、即ち孔孟講読の方法と云ふものが先づ教育の原素となつて居つた様に思はれます、故に其仕方は精神の教育の方に趣味が多くて詰り芸術の学問をせずに其学問を直様に自己に当てたいと云ふ、斯う云ふ考を以て教へたので其階級が甚だ粗雑であつた、之れは孔子が悪かつたのでもないでせう、孟子が悪かつたでもないでせう、朱子と云ふ宋朝の学者の系統を承けたる学者が多くあるが、是れは我日本の漢学教育、而も幕府徳川家の尊奉した教育上一般の状勢と云ふて宜い、此宋朝の朱子なり、或は曾子なり教育法が悪かつたではなかつたか知らぬ、乍去先づ受けた所の日本の教育は前に申す通り大抵吾々一身一家を修め、又は平日の家業に従事するとか云ふ方の教育ではなふて、所謂道とは士大夫以上の者なり、農工商の道に在らずと云ふ様な趣意に教育と云ふ者は立てられたのであるからして、先づ苟も書を読んで教を受くると云ふ人であると、勿論此の倫理に甚だ重きを措いたのであります、又修身にも重きを措くは論を竢たぬが、直く一階級進むと家を治め、もう一つ進んで国を治め、又進んで天下を平かにすると云ふ、即ち此第四で修身斉家治国平天下は造作がない、子弟を教へる方からは勿論造作がないが、左様に一足飛びに飛びますから人の思想に
 - 第27巻 p.199 -ページ画像 
大なる誤解を来たす、それでも上が賢に、有司が廉直に、世の中が十分事なく治つて居る時は左様な教育法で都合宜く行つたでせうが、偖て一朝事があると、其間に段々に色々な非望が起きて来る、左様申す私共なども僅かに漢学教育で一種の野心を起して、到頭百姓をして居らぬで、玆へ出て物々しく今日演説を致すのも、矢張其漢学教育の御蔭げか罪か孰れかであらふと思つて居ります、何うしても漢学教育と云ふものは仕方を教へる方法でなくて、精神談で、それも多く革命を誘導すると云ふ教法だと今考へて思はれる、左様な教育法が先づ維新以前に普通であつたのであります、所が王政復古以後の教育法は多くは海外に則ることになりましたから、所謂科学的なる方法を専らにする様になつて、いま申す様な荒らぽい教は段々に普通教育に無くなつて、もう実に夜が昼になつた様でありますが、左様な有様からして商業教育は実に維新以前には無かつた、年を取つた御方は御覚へがございませう、商買人《(マヽ)》と云ふものに教育がましい物があつたのは纔に商買往来と云ふ書物が一冊、それから塵劫記と云ふ算術書があつた、其以外に尋ねて見ると書籍等はございませぬ、或は有つても私が無学の為めに知らぬのか、蓋し此席上に御出での御方は皆余り御知りなさらんだらうと思ひます、維新以前の商工業の教育と云ふものは……此商業と云ふものに対しては殆ど教育などゝ云ふものは必要でない、否必要でないと思ふ位ならばまだ宜かつた、有害なものだと認められて居つた、度々申しますことですから、或は此席に入らしやる方が、又アヽ云ふことを云ふだらふと、往々御聞き遊ばした方がありませう、私の此談話と云ふものは、彼の川柳に売家と唐様に書く三代目と云ふあれが、恰度支那教育が商業上有害だと云ふことを、誠に宜く証拠立てた川柳であります、譬へば初代が大層勉励して、まアケチケチと金を溜めた、其次の代の人も大いに家道に注意した、併し段々さうして家が富んで来ると云ふと、遂に色々なことに地位が進んで行く、又交際も増して行けば境遇も進んで来る、而して此漢籍などを読み文字などを書く、即ち御家流で書く、是が遂に唐様になる、到頭唐様になつて三代目には家を売る様になつて、玆に唐様で書く三代目と云ふ川柳が出来たのである、是が恰度其教育が商工業などに有害であつたと云ふ証拠立てと云ふても宜い位になつて居つたのであります
左様な維新以前からの行懸りでありましたが、維新後には前に申す通り普通教育は幸ひに欧羅巴に則つて、支那風の教育を一変して、今日の小学より段々順を追つて大学にも行ける、又は小学若くは中学で其自分の適度の課程を終つて或は職に就き又業に赴く、種々なる方面に行渉る様な制度も学制も立てられましたけれども此商業と云ふ方には殆んど維新以後も別に教育と云ふ考へはまだ生じなかつたと申して宜い、恰度商業教育が東京に稍々其芽を生しましたのは明治七年でございました、其前に普通教育に於ては私は詳しい歴史を覚へませぬけれども、大学も成立つたし、それそれの学者が集つて、前に申す極く単純なる漢学主義は行けない、是非欧羅巴に則つて学制を設けんければならぬと、即ち論じもし且行ひもしつゝある際に、商業教育と云ふものは、別に此政府の費用に依て之を如何にしたら宜からふと云ふ問題
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は無かつたのです、但し大学の方には工芸の部分に属するもの、例へば理学・化学の如きものが一つの教育主義として行はれましたけれども、是れ以て其の主なる目的は教員を作るとか役人とか云ふに必要であつて、それに依て商買人を利益しやうと云ふ程の観念を以て組立てられたものとは、未だ其頃には申せなかつた、詰り明治七年に森有礼と云ふ人が、東京に是非此商業教育を開きたいと云ふことを考へられて、私の取設けを以て亜米利加で一人の教師を傭つて、さうして東京に商法講習所と云ふものを開設致しました、但し此商法講習所を開設する時に東京市に望んだ、其時の東京市は今の如く、市政の施かれぬ前ですから、東京府と唱へて当時の知事大久保一翁と申して、旧と静岡藩の有力な人であつて、其人が知事を致して居る時に、森有礼氏が東京府に請ふて、此商法講習所を作る補助をして欲しいと相談が起きた、其頃此東京に於きまして唯今の如く市制がないからして、別に土地に属する議員と云ふものはございませなんだが、恰度今寛政度の御話が出ましたが、寛政頃から此東京の町に一つの積金法が行はれて居つて、其積金法を始めた人は誰であるかと云ふと、諸君も御聴覚へでもございませう、例の白川楽翁公、松平越中守定信と云ふ人が、大層節倹を唱へた人で、其人の老中の時分に市に一種の積金をさせた、其金が維新以後にも町に存して居りました、其存して居つた金は政府のものでないからして、東京市のものとして保管してありました、当時此金の支出を議する為め一の評議員がありました、ソレは維新早々の間でありましたから、維新会議所と云ふもので、其議員は東京府知事が任命して、府知事から召集して其金の支出に付て評議させる、で今の森有礼氏の商法講習所に対して補助を請ふて来た時に、即ち其会議所で商議して、之は将来東京市の繁盛を助くる一つの商業若くは工業の技術を教へる所であるから宜からうと云ふので、其費用を補助しやうと云ふことを議決して、東京府知事に上申し、府知事は其由を森に答へ、於是一年に三千五百円許りも支出したと私は覚へて居りますがそれが今の東京高等商業学校の抑も嚆矢濫觴と云ふて宜からう、其翌年に森君は学校を始めましたけれども、自身の体が支那の公使に行かれる様な都合になつて、遂に其学校も自身の管理の下に成功せしむる訳に行かない境遇に陥りまして、遂ひに其学校を挙げて、今云ふ市ですが当時の東京府で引取ることに相成りました、そこで東京府の商法講習所と致して商業教育と云ふものを此所で尚ほ続いて経営致して居つた、恰度其東京府の商法講習所に成りました時に校長に立ちました人が、未だ存して居りますが矢野次郎氏であつた様に記臆して居ります、其時分の学校の教師又は生徒と云ふものは甚だ少数で、教員も亜米利加から一人の教員が来た、其他の人は先づ商業に近い普通教育から、商業に近い人を以て之に充てると云ふ有様でありました、で其頃から私は此商業教育の必要を感じて、恰度矢野次郎氏を大に助け、又此商業教育に就ては頻りに必要を説き、拡張を望んだ一人でございました、殊に其事を感じましたのは何う云ふ理由かと申しますと、恰度明治十三年の年と覚へて居ります、前に申す普通教育の方には数個の大学、此数箇の大学には今日もある通りに、其頃からして文科もあり
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理科もあり工科もありました、未だ六大学とか七大学には分れませぬが、多分四つ許りに分れて居つた様に記臆して居ります(未完)


竜門雑誌 第一八二号・第三―八頁 明治三六年七月 ○商業教育経歴談(承前)(DK270079k-0004)
第27巻 p.201-204 ページ画像

竜門雑誌  第一八二号・第三―八頁 明治三六年七月
    ○商業教育経歴談(承前)
 本編は六月十五日東京府教育会総会《(マヽ)》に於て青淵先生の講話せられたるものゝ速記なり
恰度明治七年に東京瓦斯会社が創立せられましたが、当時日本に適当なる技師が無い為に、仏蘭西から化学の技師が一人参つて、此瓦斯会社に従事して居りました、而し何時迄も続いて外国人のみに任せる訳には参らぬ、是非日本人で其学問を修めた人を外国人の助手に入れ、実地習練の上で其外国人に代らしめたいと云ふ意念から、大学の理科に交渉を開ゐた、其時の大学総長は、加藤弘之さんと覚へて居りますが、段々御相談申して、或る一人の化学の卒業生を此瓦斯工場に頼まうと相談して見ると、ある一人の卒業生がどうも此瓦斯の工場に行くと云ふことは、教員になるよりは大分位地が低い、つまり民間事業に行くのであるから、左様な所に行くと云ふことは同じ給金では嫌やだと、斯う本人が一向恥づる所なしに明答されたので、私共大に歎息しました、高等の学術を修めて物の道理の分つて居る大学生が、さう云ふ考を有つとは何たることであるぞ、同じ給金で嫌やだと云ふ以上より見れば、商業を非常に階級の違うものと看做すのであります、さうすれは大学あたりで拵へるのは役人か教員の外は出来ない、又教員が教員を作り、教員が教員を作り、段々日本中の人が皆教師・役人で終るであらう、さうして日本の商業が何ふして進んで行くものであらうかと考へて見ると、甚だ慨嘆に絶へなかつた次第でありました、今日では可笑しい御話であるが、昔日はさう云ふ事実であつた、そこで私は大に嘆息して加藤さんに会つて、此大学を盛んにする様に御尽力為すつてござるのは結好だが、或は政治も文学も法律も必要であらうが自分等の考へる所では商業・工業が発達せねば、真実なる富、真実なる栄えはなからうと思ふ、然るに実業に従事すべき教育を受けたる人が其事を嫌ひ且つ恥づると云ふに至ては、余りと言へば教育の仕方が間違つて居るではございませぬか、斯の如き有様であつたならば学ぶ人は皆、人を使う人、人に教へる人であつて、教はつて之を事実に現はす人はない、さうすると製造者は無くなつてしまう、若しも我国の教育が単に人を使ふ人とか、人に向つて講釈をすると云ふ人にのみ走つたならば、国家の前途は思ひ遣られるではありませぬかと懇々と説きました、加藤さんも大に愕くりして、それは大変だと云ふので、加藤さんが説得して、其技師は漸く同意して呉れました、是は今在る瓦斯会社に抑も日本技師の這入り初で、明治十三年でありました、是等の話からして、私は其商業教育の必要と云ふことに就て、益々強い意念を起しました
如此事実に当ることを賤しむ、即ち昔此の商買人と云ものを酷く賤めた習慣が、中々因襲の久しき、親から子に、子から孫に厳しく伝つて左様云ふ私自身すらも或は過つた位であるから、殊に武士育ちの御方
 - 第27巻 p.202 -ページ画像 
方の誤つたのは無理はなからふ、実に此儘に置たならば我国商工業の進歩は期せられなかつたのてある、学問は進むも、唯た空論理窟のみは馳せ、欧洲と競争することも出来たかも知らぬが、実力の上に於ては敗北し、日本が海国で軍艦の必要ありとするも、之を買ふ金はないと云ふことに立ち到ることを悟らなかつたのである、そこで私共は大に商工教育と云ふことに向つて大声疾呼し、前に申上げましたる当時の商法講習所長たる矢野次郎氏あたりに頻りに力を添へて、此商業教育の拡張を図りました、偖て世の中は中々思ふ様に行かぬ、恰度東京に府会と云ふものゝ組立てられたのが明治十二年と記臆して居ります五十名でありましたか三十名でありましたか、会員が出来て東京府下の制度は、此東京府会議員の議事に依て財政其他の事を議決されるので、知事に向つて協賛を与へ或は意見を述べる、斯う云ふ様な性質のものが成立つた、其成立つた三・四年後ち、即ち明治十五・六年であつたと思ふ、それまでの間東京府の共有金で経営して居つた商法講習所に就て、斯かる教育に経費を出すことは大に東京市に必要のないものである、寧ろ之れは廃めて宜からふと云ふて、経費の支出を杜絶することに極められた、其時には大変弱りました、矢野氏は殆んど狂する如くに心配し、私共も脇から大に心配したのであります、当時我国の商業教育機関とては僅に明治七年に成立つた講習所のみであり、其講習所も創立以来殆んど孤城落日の姿にて漸く命脈を存して居る、而して前申す通り十三年頃には帝国大学に於てすら此実務に当ることを賤み、其卒業生は同じ月給では嫌やだとか、或は同じ位地では詰らぬとか云ふ様な習慣を持つて居り、又東京府民が如何に在るかと云ふと前申す府会の決議に依て自今商業教育に対する費用は無用として、遂に其支出を廃めると云ふことに決せられたに至ては、実に驚き入つたのであります、私共はそれは大に東京府民の心得違ひ、府会議員の決議は間違て居ると云ふことを唱へましたが、如何にせん多数に無勢、殊に自分等府会議員でも何でもないものですから、其論も到頭徹底し得んで、或は此学校が殆んど廃滅、若くは或る一個人の所有に帰さうとしたのであります、此時に私共の歎きと云ふものは実に容易なものでなかつた、又殊に校長になつて居つた矢野次郎氏は恰も狂するが如くなつて、諸方に奔走して其苦衷を訴へたが、扨て此経費を支出せざることに議決する程の東京府民は、一向そんなことに同情を表して聴いて呉れなかつた、併しながら時の東京府知事は松田道之氏で、大に此学校の廃滅されることを憂慮されました、又商業社会に多少私共と同じ考を持つ人がありまして、結局遂に府民中からして商業に従事する者が多く打寄つて、此の必要を唱へて学校の基本金を寄附すると云ふことを申しました、其時の評議に何でも三万円許り寄附金を備へると云ふことになりました、そこで之を一つの言立てにして、迚も東京府会に望んでも資金の出る途がなからふと云ふことからして、政府に学校を維持して貰はんことを望みました、恰度明治十四年に農商務省と云ふものが出来て居つたからして、府知事は同省に頼んだら宜からふと云ふ事であつた、是を以て商業教育の疎んぜられた有様が直ぐ御分りになる、其時に文部と云ふ立派な教育の役所が、而も大金を使つ
 - 第27巻 p.203 -ページ画像 
てやつて居つた、而も島田さんの御説では、文部の勢力がなかつたから、軍艦拵へる程教育費がなかつたと云ことであるが、それにしても文部大臣と云ふ立派な役人があつて、立派になつて居つた、そこで其学校は何れに便つたかと云ふと農商務に便つたので、斯う云ふ商業教育の有様であつた、去りながら其時分の農商務大臣が賢明であつたか其時の内閣諸公が皆打揃つて宜かつたか、矢野校長などの議論が或は徹底したのか、遂に其時に漸く一万円だけ経費を添へると云ふことになつて、其学校が僅かに廃滅を免れた、其後何でも三年許り致して明治十八年であつたか、漸く其学校が文部省に移されて、そこで唯今の高等商業学校と云ふものになりました、其間に一度か名前が変じて、遂に今の名前になつたと覚へて居ります、之は歴史として今日重要なことでもございませぬ、而して今日は如何なる有様に此学校が進んで参つたかと云ふと、殆んど入学の人が千人に充つるでございませう、で是迄此学校を卒業しました人も今や千人以上になつて、此高等商業学校から出た人々の中に、唯今随分海外の商業などに従事して、頭角を現はした人も頗る多いと云ふ程までに相成りましたのでございます又一方には東京のみならす神戸にも高等商業学校があります、其他大坂に名古屋、或は新潟に長崎に、其数を今覚へませぬから申上げ兼ねますが三十五・六も商業学校が出来るやうになりました、之を其昔明治十二・三年頃及び其以後の有様に思ひ較べて見ますと、実に二十年そこそこの歳の間に斯くまでに商業教育が発達致したかと思ふと、真に意外の観を為す程でございます、是れが商業教育の抑も始めは如何なる有様であつて、又現今は何う云ふ迄に進んだかと云ふ大略でございます
扨て左様に喜ぶべき現象には相成りましたが、玆に私は其喜びのみに止めて置き兼ねると云ふことを一寸申添へて、どうぞ諸君にも充分此商業教育の未来に対して御同情を請ひたいと思ふのでございます、即ち明治十七・八年頃から文部省管轄に属して、或は東京のみならず各地にも商業教育が発達して参ると云ふことは、真に旭日の昇るが如く進んで参つたとは申しまするが、どうも此点に於ては島田君の御説と私共も同様の論で、所謂科学の教育が大に進歩したと言はねばならぬ其昔日支那教育には事実に添いたる科学教育がなくて、唯だ精神とか意志の教育許りで、実に学者になると直様大英雄・大学者になると云ふ様に考へるが間違つて居ると云ふことは、昔の学問に対して大に欠点があると言はねばならぬが、去り迚又今日の如く此学科々目だけに拘泥して其学問を修めて、それで能事足ると云ふ教育法であると、折角進んで行つた商業教育も形ちは出来たが精神が、譬へば仏は作つたが魂いが入らぬと云ふ様なことになりはせぬかと恐れるのでございます、一通り商業歴史も能く覚へた、商業地理も心得た、欧羅巴等の商買にしても、利息の勘定は斯様する、銀行の事業は斯くし、或ひは委托販売は何うである、保険はどうである、総てそれ等の業務に付ては手続に依て悉く知り得るであらふ、又取扱ひも出来るであらふ、併し此商人たる品性、例へば志操・性格・行動と云ふ様な教育に至ては、各商業学校共に欠けて居りはしませぬか、又其教員も商人たる性格、
 - 第27巻 p.204 -ページ画像 
商人たる思想を与へるだけの力を持て居らるゝ人は、私は甚だ乏しくはないかと思ふ、一方には此商業界の或は会社と言ひ若くは一家商業を勤むる者と云ひ、総て前に申す通り極く賤まれた有様から僅かに成立つた今日の商業界でございますれば、決して立派の条理、正しい商業家庭の成立つて居る訳はございませぬ、して見ると恰度今日は精神のない、手続を覚へた商業家が、満天下に渉つて居ると斯う申さねばならぬ、之に引替へて、例へば英吉利であれ亜米利加であれ独逸であれ、此数箇国の商業に従事する人の受くる教も違ひますが、併し通常学校で教へる手続に至ては左までは違ひませぬ、寧ろ日本の程度は高いと云ふても宜いかも知れませぬけれども、個は有様がまるで違う、第一明治十四・五年頃になつて初めて商買が必要なものであると云ふことを悟り、今日の政治を執る人も商業が必要であると云ふことを主張せらるゝも、中には世間体に言はれる人がないとも言はれぬ、或は人気取りに言はれるかも知れない、さう云ふ世の中に在る所の商買人ですから、何うしても一朝学校を引いた後に於て、其商買人に魂を入れる所は何処にもないので、唯形ちを教へる学校のみたんとある次第であります、故に皆さんが能く御穿鑿せねばならぬは、其教へた学生即ち商業家に払底なる魂を入れる問題である、若し此魂がなかつたらば仮し智慧があらうとも学問は相当に修めたにしろ、真正の魂のある人と相対して同じ商買が出来ないことは、是は言はずとも分つた事実ではございませぬか、而して未来を考へて見ると、固より国家の富強は実業の繁盛に在る、商工業の隆替は大に国の消長に関係すると云ふことは今玆に喋々するまでもないと考へる、然るに若し斯様な商業家が大勢出来ると云ふことであつたならば、又昔日の商業教育を疎んぜられたと同じ様な懸念を申さねばならぬ様に考へるのである、故に、私は商業教育の是までの経歴を談ずると共に、未来の商業家は勿論、其他此商業教育に考のある、否な国家に充分なる考案のある人に向て吾々商業家に充分なる魂を入れるといふ工夫の、未来に一般に盛にならんことを希望して止まぬのでございます、経歴談を申上げると共に将来に渉る希望を一言申上げて置きます(完)



〔参考〕東京府教育会沿革誌 同会編 東京教育雑誌臨時増刊・第一―四頁 明治三六年一二月刊(DK270079k-0005)
第27巻 p.204-206 ページ画像

東京府教育会沿革誌 同会編
               東京教育雑誌臨時増刊・第一―四頁 明治三六年一二月刊
    本会沿革略記
我が東京府教育会は、明治十六年六月に於て東京教育社員長倉雄平・同日下部三之介等の諸君発起人となり、府下学事に直接の関係を有する者と特に教育に篤志なる者とに就きて、府下教育の気脈を通暢し、併せて其の改良進歩を計らんには有志者の結合に求むるを以て最便法とする意を開陳せしに、賛成の有志者凡百二十余名に達せり、即ち同月三日を以て始めて京橋区東京府商法講習所なる商工会議所に於て集会を催ふし、終に府下に一の教育会を設置することに決したり、乃ち同年七月一日を以て、更に有志の協議会を同区内公立文海学校に開き規則を議定し、東京府教育談会と命名し、正副会長・幹事等の職員を置き、一年二回の開会とせり、即ち会長には銀林綱男君、副会長には
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長倉雄平君其の選に当り、爾後該規則に由り定規の開会をなせしこと都合十四回に及べり、後規則の修正、職員の改選ありしかども、大体に於ては変更せす、而して此の間会員・客員の演説をなせしこと前後四十七回、東京府学務課より諮問案並に会員よりの提出に係れる論題を討議せしこと七回、通俗教育会を開きしこと一回、其の他郡区委員を置きて学事の情況を諮詢し、或は議員を置きて重要の事件を議し、又各郡区に部会を設け、会員を派出して演説・談話せしめ、又は東京府知事に向ひて建議せし等、主として府下教育の改良進歩を謀れり、同廿一年六月二日芝公園弥生社に於て臨時総集会を開き、従来の規則を改め東京府教育会と称し、従来郡区にありし部会を廃し、全体の力を中央に集めて改良上進の途を講じ、常議員五十名を置きて重要の事件を議し、隔月に常集会を開き、及び毎月雑誌を発行して会員に頒ち又学術講習所を開き、通俗講談会を催す等、専ら実際的事業を興すこととせり、当時選びたる会長は渡辺孝君、副会長は元田直君にして、理事には日下部三之介・大束重善・小谷茂実等の諸君あり、着々事業を経営し、小学校教員伝習所・裁縫教員講習所・家事専科教員伝習所を起して多数の教員を養成し、一方には本会経費収入の道を図り又教育品展覧会を開きて学事奨励の端緒を開きたるに、当時 皇后陛下行啓の栄を辱ふし、宮内省より御下賜金あり、同二十六年には森子爵の奨学金千余円を得て本会の基本財産を作りたり、東京府教育会と称せし以来、同三十一年に至るまで、参事会を開き事を議すること凡そ九十件の多きに及び、又役員会を開くこと約五十五回にして、議了の事件凡そ百三十件、議員会を開く凡そ六十五回にして、協議せし事項二百三十件以上に達し、通常会を開く凡そ四十五回にて、議了せし事約六十件、総会は九回之を開きたり、又通常会・総会等にて演説せられし諸君凡そ百名に上りたれど、各伝習所卒業式場に於て演説せられたる諸君を合すれば、更に多数となるへきなり、役員は変遷頗る多く、一・二ケ月にして、職を去るものあり、当選当時に直ちに辞すものあり、然れども枢要の職に居るものは比較的変更少く、会長は渡辺孝君以来、銀林綱男君・芳野世経君之に継ぎ、銀林君の在任最も長し、調査せし事項、文部大臣・東京府知事の諮問に答申せし要領の如きは本書に之を蔵めたれば贅せず、更に廿二年以後に至れば益々面目を改め本会は一の法人組織に進化し、定款を制し、役員を改選し、伝習所の事業を益々拡張し、雑誌の改善を図り、書籍の出版を計画し、府及び市より年々若干の補助金を得るに至り、調査部に於ては問題出る毎に着々之が整理を講じ、又郡部に委員を置き、臨時委員を託して地方教育思想の勃起を呼び、且聯合教育会を開きて郡区の輿論を徴し、財政上のことに至ては監査員並に予算委員を置て設備愈々完きの域に進めり、三十二年以来三十五年末に至る役員会の数凡百十回の多きに及び協議せし事件実に三百余件の多きに達せり、又議員会を開くこと三十回、百四十件の事項を議し、総会は四回之を開けり、本会の為めに演説・講演せられし学者・教育者の数五十余名に上り、会員は年々増加して今や一千八百に達し、雑誌の刷数一ケ年二万二千二百部に上る、要するに本会は終始一貫の目的を変ぜず、事業は年々拡張し来り、府
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下教育上至大の原動力たるに到達せんとしつゝあり