デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
16款 其他 10. 京華中学校
■綱文

第27巻 p.206-210(DK270081k) ページ画像

明治37年4月10日(1904年)

是日当校第六回卒業式挙行セラル。栄一、病ノ為メ欠席シ「商工業ノ現況並ニ諸子ニ対スル注意」ト題スル演説ヲ代読セシム。


■資料

京華中学校校友会雑誌 第一七号・第九四頁 明治三七年一一月刊 京華中学商業両校卒業修業証書授与式記事。(DK270081k-0001)
第27巻 p.206 ページ画像

京華中学校校友会雑誌  第一七号・第九四頁 明治三七年一一月刊
○京華中学商業両校卒業修業証書授与式記事。
春風払窓菫花薫る春も半の四月十日吾京華中学校第六回卒業証書修業証書授与式並に同商業学校修業証書授与式を挙行す。 ○下略


京華中学校校友会雑誌 第一七号・第一―八頁 明治三七年一一月刊 渋沢男爵の演説大意(DK270081k-0002)
第27巻 p.206-210 ページ画像

京華中学校校友会雑誌  第一七号・第一―八頁 明治三七年一一月刊
    ○渋沢男爵の演説大意
御集りの学生諸君よ、私は只今磯江先生の御紹介せられた通り渋沢栄一であります。予ねて当校に一度参上いたして生徒諸君に一言の御話をする約束になつて居りましたが、何分其の機会もありませぬでした所、今日幸に其の時を得まして一場の御話をする事になりましたのは私の光栄とする所であります。
偖お集りの御一同は皆学問に従事し研究の効を積まれ、他日愈愈此の世の中に出で国家の為めに働かうといふ重大なる責任と抱負とを持つて居らるゝ末頼しい青年であると私は喜んで居ります、殊に私は此の京華商業学校の生徒諸君に多く望みを嘱して居ります、とは申すものゝ世の中の事物は商業ばかりで無く工業に農業に、又之を支配する政治など、すべてありとあらゆる事物か倶に進んで社会の繁盛をなすものであるから、独り商業のみに重きをおくやうなことを言ふは、一方に偏する様ではあるが、然し各自自分の責任如何を考へねばならぬ即ち商工業に従事するものは、其本業たる商工業を今一層完全に従事して貰ひたいと思ふのは当然の事であります、私は三十年以前より商工界に身を立てゝ居る者でありますから、充分に研究の暁は商工業界に出る諸君をば、我が子か兄弟の感を以て迎ふる考へであります、故に私は学生諸君に対し現在の商工業の有様を述べ、軈がて学問成就し此の社会に出られた暁の諸君の覚悟を第一にお話をして、幾分の御参
 - 第27巻 p.207 -ページ画像 
考に供へようと思ふのであります、私は御存知の通り学者でもなく、又弁者でもないから、多数お集りの席に於て演説することは至極不馴れでありまして、或は学理に適はぬことや、道理の前後することあるやも知れませぬ、何うか其の辺は御容赦を願ひます。
偖商工業の現況を申上げますには、先づ其の以前の経歴を申上げてからにせねばなりませぬ、日本の商工業は現在も未だ幼稚であるが、三十年以前即ち明治の初年は最も幼稚でありまして、殊に幕府は他国との交通を禁ずる、所謂鎖国主義の為め商業の範囲が狭く、加ふるに総ての租税は物品徴収であつた、即ち米・酒・藍・塩・蝋燭等を金銭でなくひたすら品物で取り、その運送も政事に依つた故に、当時の商業は此等のものを小売するものと手間取りとの二つの有様であつた、特に国家は政治・軍備・法律といふものさへあれば、国を維持して行けるものと思ふのが多数の考へであつて、世間の頭脳ある人は皆其の方面に向つて力を傾けたからして、商工業以外維新の制度は、実質上の有様は兎も角、形式だけは稍々各国に似ましたけれど、斯方面は表面すらまだまだ御話しにならぬ次第でありました、海外の有様に於ても商工業のやうなヂミなものは、他の事物に比してさう直ぐに表はれぬ即ち法律とか政事とかいふハデなものは学ぶにも早く、誰も皆注目すれども、之に反して商工業は甚だ幼なかつたのでありますから、当時の我日本の有様は猶更のことであります、併し其の実充分に力の暢びた国はさうでなかつた、就中英吉利は第一の屈指の国であつて、其の主義とするところは独り兵備・法律・教育のみではいかぬ、国家全体の富が増さなければ国は進まぬ、それには商業が必要であると云うて漸く商工業に多数の力を入るゝことになつたのでありますから、商工業に付て我国は最も力を尽さねばなりませぬ、次にさう古い話ではなく、度々私が公衆の前で申すことではあるが、明治十三年帝国大学の工科を卒業した応用化学士を瓦斯会社で雇ふことになり、愈愈此人と約束する時になると、其の人は、私は官途であれば同じ俸給でもよいが民間事業なれば同じ割合ではいやだと断はつたので、殆んど凡ての事の相談が纏り、其の這入場所で破れたのである、私は其の当時総長たる加藤弘之氏に大に之を訴へ、かくの如く大切なる民間の事業を軽蔑して、官吏官吏と其の方にのみ向うやうでは、我国の将来は親計りであつて子が無く、先生ありて生徒なく、不具となるのである、英国の如きは応用化学をやつて居つてもかういふものは一人も無い、これでは日本の前途が思ひやらるゝと申しました、所が加藤さん、之を諒とし、充分其人に説得を加へて遂に会社に雇はるゝことと致しました、現実あつた所の一例でありますから玆に繰り返しました。然しながら一般の人が何時までも左様に商工業を疎んずるといふことは、道理の許さぬことだらうと思ふ、仮令一時の戦争に勝つても、平和の戦争には商工業が盛んにならない中はだめであらうと思ふ、故に世の中も漸く此の説に傾いて来た、此の成行を譬へて見れば、お互に一つの身体が此の世に生れて六・七十が寿命であるから随分短いが、短い間にも一人前になるには相当の年限を経ねばならぬと同じことである、我国も明治の初年には前述の如く幼稚であつて、今日も未だ未だ幼稚
 - 第27巻 p.208 -ページ画像 
であるからして、皆さんはよく覚悟せねばならぬ、幸に外国に対する交際は、通商上の条約も、交通上の事も、国の進歩に伴ひ百事拡張せられてありますから、先づ商工業に於ても、其の覚悟さへあれば左様に憂ふべきものでもありませぬ、今日如何程に事物が拡張したといふ事に就いて二・三の主なるものを申上けますると、銀行も初めて出来たのは明治五・六年の頃で、当時僅に五行のみであつたのが、今では其の数二千何百出来、金額も三億円になつた、会社(商売・工業・銀行を含み)其の始めは明治五・六年頃、それから三十年の年月を経て今は総数五千、資本額は拾億円もありませう、さうして之を大抵十年位に調べると、或は三倍或は五倍、今日では或種類に至りては二十倍位になつて居るものもある。話し変つて、明治二十七・八年の役に勝つて償金を取り、国が拡張しましたと同時に、商工業に於ても大に発達しましたのみならず、一般の事物も、亦一を二にする様に進歩しました、併し物を喜ぶ間に憂あり、憂のある間に喜びがあると云ふ事を思はねばなりませぬ、今申す通り、支那との戦争が凡ての事物に関係し恰も一を二にし、三を六にする様に増大しましたが、政治上・軍事上・実業上、其の見解は其の人によつて各々違ふもので、或ひは軍備を拡張せよと主張して商業は武力の後押し無くては出来ぬ、故に軍備は必要であると、これは生きてる為めに働くか、働く為めに生きるか食ふ為めに働くか、働く為めに食ふかの弁別をせぬものゝ言である、我々実業は主客いづれに在るかといへば、寧ろ主に在ると思ふ、実業が主で、政治なり軍事が之れを援けて此の日本国家を盛にしたいと思ふので御座います、昔の日本は之と反対で実業はだめであつたけれども、今日ではさうでない、或者の軍備が主、実業が客との論も今日には間違ひはせぬかと私は恐れます、順よく進んで一時の福、一時の繁盛は此の明治二十七・八年の征清役より頻りに来たが、繁盛の間に変調の来るのは免れぬことで、毎七・八年に経済社会が一変するのであります、他の国々のことは調べませぬが、聞く所に依ると矢張り七年或は八年位に一張一弛するさうである、亜米利加の如きは早くより風もあれば波もあつて波瀾が多い様である、日本に於ても同じく進む間に波動高低がある、明治二十七・八年以後は此の波動が大波となり、三年・五年立つても満足に行かぬ、これは支那償金より国の力を加へたるに因つて、過度なる仕組が政事に、実業に及ぼしたのだらうと思ふ、併しこれも一昨年頃から、追々世の説が、真の実力に無くして政事・軍備のみでは宜しくない、成る可く整理する様に心掛けるが必要であるといふやうになつた、其の結果先づ今日では商工業に大なる利益も無いが、其の代り大なる怪我も無い時代となつて、新聞で見ても銀行にしても、金が幾らか余つて居るものが、沢山ある様になつて来た、今申す様な有様で、商業は多少平穏であるし、工業も利益は無いが、おとなしくある、只恐れるのは、斯様では明治の始めから三十年頃迄の進み方に比較すると、其の足が鈍いといふことである、元来、日本の商人は世界的でなく、公衆的でなく、自分の商業にのみ満足して居るからだめである、亜米利加等に向てもどんどんはじめねばならぬ、仮令凌駕侵入まで行かなくとも、東洋第一と云ふ位で無ければな
 - 第27巻 p.209 -ページ画像 
らぬ、朝鮮・支那の銀行にも共に働きかけて行かねばならぬのにいかがである、朝鮮の京釜鉄道三十哩は、二十九年から着手したにも拘らず、未だだめであるではないか、これは力の細いのと資本の足りない為めとではあるが、英吉利・独逸・露西亜あたりの力を入れるのに比較すれば、遜色どころではない、後へに瞠若して居るのである、是れ所謂「時、人を待たず」で今の支那も竟に他の国のものが取つてしまう様な事があつたならば、東洋の名誉な事を何れの日に成すことが出来ませうか、事物の進んだ喜びが、却て先が短くなつた様な感じを慝き起すでなからうか、今日の商工業界は実に平和無事に緩かな様であるけれども、内部は潮流が急いで居る所の最も忙はしい時節であります。
これで現今の商工業界の大体を申述べたのであります。
斯ゝる時に各々方は学成つてこれに従事せねばならぬ。又前に溯つて元来我国には学問的の商業は少なかつたが、幸に今日は教育が大に進んだからして、今申した大学の話の様な事は、今後無い様にしたいものであります。それで其の先輩、此等がどういう様であるかと云ふと学問の無い方であるから、頭に立つて居る人々は皆不規則なる成立をなした人々は種々ある。此れから出掛ける人々は種々なる風雨に当り霜に氷に、種々なる艱難に打勝ちて一人前の人とならねはならぬ、故に基礎学問をした諸君は未来には、一山挙つて事をする様になつて戴きたいと私は希望します。任重くして道遠し、諸君は充分なる覚悟を以て働くと云ふことを、今よりお心掛けある様に願ひます。
未だ社会に出ない中にどういふ覚悟を持たねばならぬかと云ふことに就て、一二の注意があります、人間の一生には色々の事がある、其の百端なる間に立ちて肝要なることは、どうもこの日本人は押並べて、此れ迄のみでなく近頃でも甚だ嫌ふべきことは、多数一致の心の欠けて居ることである、これが欠けて居ては最も不利益であります、御覧なさい、日本人は一人では智恵があつて、三人とか五人とか沢山で議論すると、もう纏まらない。「三人寄れば文珠の智恵」と云ふが、日本人は三人でも幾人でも、多くなれば多くなる程悪魔の智恵である、彼の始めには団結して終には大なる喧嘩を引き起して社会を擾乱せしむること等があるのも、此の精神が欠けて居るからである、三角や四角なものと円いものとを寄せて、一つの器を造らうとすると出来ない其の一つとしてはよいが、集つて出来ないのは残念ながら我国お互の気風でないかと思ふ、昔の武士道なども、或点に就いては此等の気風が原因して居りはせぬか、所謂「善をして己れに同意せしめよ」といふことが、支那の教へにある、日本人はよく之れを守らねばならぬ。
要するに此の結合力、即一致すると云ふことは、斯る学校の時代の素養で岐かれる。此の一堂に居らるゝ人々は、相当なる習慣を付けて、何処までも仮令ひ学校を出ても心力を一斉にして失はない様にすればよい、何卒其の点に就いて今日から御注意あつて、努めて共同の力を養つて戴きたい、今の器の風には習はぬ様に希望いたします。
今一つは志操を堅実にするといふ事であります、これも日本の人の特性で、遷り気・変り易いことは免れぬ様に思はれる、これは事物凡て
 - 第27巻 p.210 -ページ画像 
の方面の成効に大なる妨げをいたします、強い考へを養はないと、社会に立つる後には堅実なる仕事を成し得られぬと私は思ふ、変り易い即ち俄かに転ずると云ふものは、皆此の志操が堅実で無いことから原因する、此の気象が充分でないと、大なる仕事・大なる成効を遂げ難からうと思ふ、功成つた暁には先づ其の方向を定めて、一旦定めたならは、何時までも其れを通し、如何なる困難にも屈せず、やり通す考へを持たねばならぬ。加ふるに志を高尚にするには、道徳の念を養はねばならぬと云ふ事もあり、其他色々な話はあるけれども、余り数多いのは、恰も料理の品数多くて食ふに困る如く、やつて善いか悪いか解らぬ様になるからこれ丈けにして、此の志操を堅実にすること、一致することは、世の進歩し繁昌する上に大いに必要であると云ふことを、よく御承知を願いたい、志操の堅実は或る場合には人と衝突し一致か欠ける様であるが、併しこれは決して並び馳せて敗を取ることはありませぬ、今日の商工業界をして又更に進め、更に振はすべき未来に極く重い任を負ふて居る諸君に向って、其の前進を祝し且つ私の希望を申上げて置きます。
諸君を益することも出来ませんで、誠に汗顔の至りでありました。
                           (完)
   ○栄一ノ日記ニヨレバ是年三月初メ病ノ為メ国府津ニ転地シ、九月上旬ニ至リ快癒帰京セリ。右掲資料ニ是日栄一出席演説ヲナセシ如クナレドモ、右ハ代読ナランカ。且、冒頭ニ「私は只今磯江先生の御紹介せられた通り渋沢栄一であります」云々トアルハ筆記者ノ修飾ナルベシ。



〔参考〕全国学校沿革史 東都通信社編 第二編・第二〇三―二〇四頁 大正五年六月刊(DK270081k-0003)
第27巻 p.210 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。