デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
3節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第27巻 p.445-457(DK270127k) ページ画像

明治26年(1893年)

栄一夙ニ明治維新ノ際ニ於ケル徳川慶喜ノ真意ノ世人ニ著シク曲解セラレ居ルヲ遺憾トシ、慶喜伝編纂ヲ畢生ノ念願トス。是年夏秋ノ頃、右ヲ福地源一郎ニ謀ル。福地マタ予テ徳川幕府ノ歴史編述ノ意アルヲ以テ慶喜伝編纂主任タルコトヲ諾ス。仍ツテ栄一慶喜ノ許可ヲ得ント欲シ、側近タリシ平岡準蔵ヲ通ジテ再三懇請シタルノチ、本伝記ハ慶喜歿後相当ノ期間ヲ置キテ公表スルヲ条件トシテ許可ヲ得タリ。翌二十七年ニ至リ尾高惇忠ノ紹介ニ依リ江間政発ニ資料蒐集ヲ託ス。明治三十四年深川区福住町ノ栄一宅ニ事務所ヲ設ケ、福地・江間両名ヲ以テ編纂ニ着手セルモ、三十七年福地ハ代議士トナリ多忙ノタメ捗ラズ、加フルニ其後病身トナリ執筆進マズ、中止ノヤムナキニ至ル。


■資料

徳川慶喜公伝 渋沢栄一著 第一巻序文・第一―四一頁 大正七年一月刊(DK270127k-0001)
第27巻 p.445-455 ページ画像

徳川慶喜公伝 渋沢栄一著  第一巻序文・第一―四一頁 大正七年一月刊
自序
徳川慶喜公の御伝記の完全なものを、私が終生の事業として作り上げたいと思うたのは、決して偶然の事ではない。私一身の特別な境遇に其動機を発し、種々なる事情よりして益其心を強くしたのである。而して此御伝記を他人が読んで、成程左様であつたかと合点するには、此事業を思ひ立つた原因から説き来らねば、玆に至つた径路が理解し得られまいと思ふ。原来私は実業を本務とする者で、優美なる文筆の才あるでもなく、又御伝記を編纂する程の、史学の素養ある者でもない。然るに玆に大胆にも、自己の名を以て後世に伝へる所の大著述を為すといふは、実に烏滸がましい事である。然れども此御伝記編纂が私に対する天の使命であるとの念慮と、是非此書を完璧たらしめ、後世の人に十分心して読んで貰ひたいとの熱望とは、編纂を始めた後に至つて更に深厚になつたやうに感ずる。今や編纂諸氏の勉強によつて玆に稿を脱したについては、事の玆に至つた顛末を精しく述べて、此御伝記の編纂は斯様な精神から発源したといふ事を明にし、之を巻首に置いて序文に充てるのが最も適当と思うて、玆に徳川慶喜公伝編纂事情を事実有の儘に述べるのである。
私は二十四の年に埼玉県下八基村字血洗島の農家から江戸へ出で、年少気鋭にまかせ、国家の為に攘夷を実行しやうと、同志と共に横浜の異人館焼打を企てた事などもあつたが、併し其機会も去り、我力をも
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省みて、其野心を棄てた上は、其本に復つて農民に安んずるか、又は太閤秀吉のやうに草履取から仕上げるか、此二つより外に道はなかつた。そこで種々に審思熟慮して見ても、何分農に帰つて田畝の間に老いる事は出来ない。然らば身を国事に委ねんか、それには賢君を択んで之に仕へるの外はない、幸に玆に徳川慶喜公がある、此君に身を致すが宜しからうと決心して、翌年始めて一橋家の家来となつたのである。さて一たび公を主君と戴いた以上は、身を終はるまで臣子の分を尽さなければならぬ、貞節の婦人は一たび夫を持てば、必ず操を二・三にすまいといふ観念を持つ、まして君臣の関係は所謂三世の義を結ぶもので、容易ならぬ事であるといふ覚悟を定めたのであるから、唯足掛心で後はどうなつても宜いといふやうな、浅い料簡ではなかつたのである。
其後慶喜公は徳川の家を御相続なされ、引続いて将軍職を御拝命になつたので、私も一橋家から幕府に召連れられて、幕臣となつたのである。故に君臣の関係には変りはないけれども、尊卑の懸隔が甚しくなつて、情意も通ぜず、言論も用ゐられず、殊に公が幕府の滅亡に瀕して宗家を嗣がせられる事は、公の為には実に不利な御地位に立たれるのであると感じたから、頗る憂慮に堪へず、是れ程の利害得失が御解りのない御方ではない、又御側に居る輔佐の重臣も、是れ等の事が前知出来ぬ筈はない、原市之進などゝいふ、識見も学問も経歴も相当にある人が御側に居て、何故に御諫め申さぬかと思つて、原氏に会見して切に反対の意見を進言したけれども、進言は遂に貫徹しなかつた。此時の私の落胆は喩へやうもない程で、何か思案もがなと思つて居た処へ、恰も公の御弟徳川民部大輔殿が仏蘭西の博覧会に参列せられるので、其随行を命ぜられる事になつた。私は素より先見の明などゝいふ程の知識はないけれども、熟ら将来の形勢を予想するに、到底幕府は其権勢を持続する事の出来ぬのは明瞭であるが、併し政変の終局が如何に成行くかといふ事については、全く五里霧中であつた。孰れにもせよ、自分は此場合に海外に出て、民部公子を擁護して時勢を待つが善からうと思案を定めた。但し公子の御傅としては他に上級の人があつて、私は唯荷物の取扱・金銭の出納・文書記録の処理といふ卑職であつたけれども、心の底には、他日は此公子の輔佐に任ずるの抱負を以て仕へたのである。斯くて慶応三年正月に横浜を出立して仏国に渡航し、博覧会終了の後、公子の御供で欧羅巴各国巡回中、本国に於ては、公は幕府の政権を返上なされた。此政変が追々電報若しくは新聞などで海外に伝はつて来たが、殊に驚いたのは鳥羽・伏見の出来事であつた。第一に政権返上が如何なる御趣意であらうかとの疑を持つて居る処へ、此の如き開戦の事を聞いては、何故に公は斯かる無謀の事をなされたかといふ憾を持たざるを得なかつた。当時の私の考へでは最早事玆に至つては、本国は一旦分裂して群雄角逐の世となるであらう、さすれば今遽に帰国しても其効はない、寧ろ公子を擁護して費用のあらん限り留学し、公子も私も共に相当の学問を修業し、将来に報ずる外に採るべき策はないと考へて、何処までも踏留つて居る積りであつたが、其後水戸中納言慶篤侯の薨去により、公子が水戸家を相
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続せらるゝ事になつて、仏国へ迎の人が来た。私に於ては、是れは従来同藩に紛糾せる党争の結果で、順当の御相続とは言はれぬから、諫めて御止め申したいとは考へたけれども、既に藩論が定まり、公子の御迎として来た者も強情の人々であつたから、諫争の無用なる事を悟つて、一行と共に帰国する事にした。此に於て私の希望は事毎に齟齬して、空しく帰朝したのである。それが慶応四年即ち明治元年の十一月であつた。
斯くて横浜の埠頭に帰著した後は、百事滄桑の歎に堪へなかつたが、中にも慶喜公の御境遇については、去年出発の時と今日と僅に一年半の歳月であるに、斯くも変化するものかと、最も無量の感慨に打たれた。公は此時既に駿府に退隠して居られたので、直に拝謁も出来ず、公の御心事を二・三の知人に就いて聴いても、十分に了解し得ぬ。既に大勢を看破せられて政権を返上なされたからは、何故に鳥羽・伏見に於て戦端を開かれたのであるか、仮令公の御意中には求めて戦争をしやうとは思召さぬでも、大兵を先供として入京すれば、防禦の薩長の兵と衝突の起るのは必然の理である、それ程の事を御察しなさらぬ筈はない。果して御察しなされたとすれば、已むを得ざるに於ては、戦争も辞せぬ御覚悟であつたやうにも思はれる。然る時は何の為に大阪から俄に軍艦で御帰東なれたであらうか、尋で有栖川宮の大総督として東征の際に於ては、一意恭順謹慎、惟命是れ従ふといふ事に御決心なされたのは何故であらうか、幕臣中に相当の知識も胆力もあつて武士の意気地已むを得ぬといふ覚悟を持つた人をも断然と排斥して、怯懦と言はれ暗愚と評せられても、聊も弁解せぬといふ御決心までなされたのは何故であらうか。是等の御挙動は実に了解に苦む所であつた。私は仏蘭西滞留中又は帰国の船などで、時々本国からの通信を見て、公の御動作に関して余りに腑甲斐なき有様を憤慨し、天子に対しては何様の事も犠牲にせねばならぬといふ、公の御趣旨は御尤ではあるけれども、実際は薩長二藩が事を構へ、朝命を矯めて無理に幕府を朝敵としたのである、幕府が若し力を以て之を制し得れば、所謂勝てば官軍で、薩長側が却つて朝敵となる事は、元治元年蛤御門の先蹤が歴然である。是れは道理から論じても事実から見ても、甚だ明瞭だと信じて居たから、公の思召の程を何分にも能く了解し得なかつた。
帰朝の後は自己一身の処置が先決問題で、種々様々に苦心したが、原来農民出身の地位声望もなき一青年で、社会に対して大なる責任をも持つて居なかつたけれども、人は権勢に阿附せず、情義に厚き行動を以て一生を送らねばならぬといふ事は、少年の時から、厳父の庭訓によつて深く骨髄に染みて居たし、又聊書籍をも読み、志士を以て自ら任ずるからには、正義人道に拠つて行かねばならぬ事は、始終心掛けて居つたから、斯く時勢の変遷した上は、残念ながら此維新政府には奉仕せず、三世を契つた慶喜公の為に、自己の一身は世に無いものと諦むべしと観念して、其年の冬駿府に行き、久々にて公に拝謁した。
公の幽居宝台院に出たのは恰も夕暮の事で、行灯の前に端坐して公の御出座を待つて居る間に、佗住居の御様子を見廻して、昨年御別れ申した時とは実に雲泥の相違と、坐ろに暗涙に咽び居る処へ、公は座に
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入らせられたので、一通りの御機嫌を伺ひ畢ると、覚えず予ての宿疑が口へ出で、政権返上の事、又其後の御処置は如何なる思召であらせられたか、如何にして此の如き御情なき御境遇には御成り遊ばされたかと、御尋ね申した処が、公は泰然として、今更左様の繰言は甲斐なき事である、それよりは民部が海外に於ける様子はどうであつたかと話頭を外に転ぜられたので、私も心附いて、公子の御身上の事どもを審に言上した。久し振で公の御無事を拝したのは限りなく嬉しかつたが、胸裏に貯へた宿疑は竟に解ける機会がなかつた。
さて明治二年の元日をば駿府此年六月から静岡と改称すで迎へて、商法会所の創設に奔走し、故郷から、妻子をも呼び寄せて、此地に永住する心組であつた。此間に会所の用事で、東京へ出た時の一話がある。或日「山陽遺稿」を購求して一読し、烈婦阿正の伝に至つて中心に一種の感を生じた。蓋し阿正は夫の死後、親戚の勧告に応じて他に再嫁しても、不義でも不貞でもない、然れども彼が心にはそれを快く思はぬから、両夫に見えずして貞節を遂げやうとすると、親戚から強迫せられ、拠なく自殺したのは、狭い女気と言つてしまへばそれまでゝあるが、私は其貞操の志の堅い所を買つて遣りたい、山陽が之を激賞したのは、誠に心地よき事であると思つて、私も「読烈婦阿正伝」といふ漢文一篇を作つて此漢文の原稿は今も尚保存してある。友人にも示した処、杉浦蘐堂もと甲府徽典館の儒員をもした人で外国奉行調役杉浦愛蔵氏の父である。といふ老人が見て、貴下は斯ういふ御覚悟であるかと言はれた。是れは私が新政府には仕へぬ意思を、悟つたものと見えた。
惟ふに王政維新の偉業は、近因を公の政権返上に発したのである。而して公の爾来の御謹慎はさる事ながら、旧臣の目から見れば、朝廷の公に対する御仕向は余りに御情ない、畢竟是れは要路に居る人々が冷酷の致す所であると思ふについて、私は特に其頃の政界に時めく人々の挙動に甚しき厭悪の念を起し、公の逼塞の御様子が見るに忍びぬ様に思はれて、慷慨悲憤に堪へなかつた。其時に作つた拙作に曰く
 維新偉績欲無痕。剔抉未知探本原。公議輿論果何用。千秋誰慰大寃魂。
慶喜公の寃罪をば、誰が慰めて呉れるであらう、廟堂の人々の言ふ公議も、輿論も、口ばかりでは何の用をも為さぬ、此公をば、斯く幽暗の中に閉蟄せしめて置いて、他の人々が頻に威張り散らすのは、甚だ以て怪しからぬと憤慨したのである。さりながら前に疑問とした政権返上の御趣意、並に鳥羽・伏見の出兵と其後の御謹慎と、余りに権衡が取れぬ点は、何としても了解し得なかつた。二年の十一月私は大蔵省に召されて、余儀なく新政府に奉仕する身となり、再び東京に移住した。此頃から公の御謹慎も少しく解けて、是れまでの如く、宝台院の一室に幽居せられぬでも宜いといふ事になつたから、私は窃に之を喜んだ事であつた。
私は前にも述べた如く、一旦覚悟した身の、新政府の官吏となるのは余儀ない事とはいへ実に不本意だと思うたから、大蔵省の召について静岡藩庁へ辞退の取次を請求したけれども、藩庁では朝命に背く事になるから、取次は出来ぬと言はれ、終に東京に出て辞令を拝受したが
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機会があつたらば辞職致さうと考へて、仕官の後一月ばかり経つて大隈大蔵大輔の築地の邸を訪ひ、官を辞したいといふ事を請願した。其時の大隈氏の答は実に巧妙であつた。其趣旨は、今日の維新の政治は恰も高天原に八百万の神達が神集ひに集うたやうなもので、此神々が新に日本を造りつゝあるので、君も矢張一柱の神の仲間である。それ故に静岡藩もなければ、薩摩も長州もない、そんな小事を論じては困る。君も最初は階級制度を打破しなければならぬと言つて奮起した人ではないか、今日は其理想に向つて進むのだ。然るを自己は維新には関係せぬ人である、又徳川公に深い縁故があるなどゝ、小節に汲々するは殆ど道理に合はぬではないか、何故に此日本を我物と思うて呉れぬかといふ、大きな議論を被せられて、私の請願は許して呉れない。私も亦其説の如何にも快濶雄大であるのに服して、それならば先づ出来るだけ勤めて見ませうと考へ、素志を翻して当分官務に奉仕する考を定めた。さりながら当初思ひ定めた事故、数年の後遂に強ひて大蔵省を辞して、宿望を遂げるやうになつた。其時に述懐の一絶を得た、
 官途幾歳費居諸。解印今朝意転舒。笑我杞憂難掃得。献芹留奏万言書。
是れは辞表を提出した時に、時勢を論じた一篇の奏議を奉つた事を申したのである。
官に居る間は、思ふ様に静岡へ往復する事も出来なかつたが、自由の身になつた後は、銀行用で大阪へ往復の折には、必ず静岡に伺候する事と定め、紺屋町の御住居へも数回参り、後に草深町に御新邸が出来てからは、其方へも度々伺候した。伺候の数の増す毎に、親しく御話も出来るやうになり、御慰藉として時候に適する品物などを持参したり、又落語家・講釈師などを連れて御慰め申した事もあつた。私が官を罷めて後始めて拝謁した時に、在官中の見聞を話題として、三条・岩倉、又は大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允などいふ諸公の話を申上げると、公は何時もそ知らぬ風をなされて、話題を外に転ぜさせられるので、公は全く政界の事を見聞せらるゝを避け給ふ御意思であると悟つたから、其後は聊も政治に渉る事をば申上げなかつた。唯何時か公然と社会に御顔出しが出来る様になつたらば、嘸喜ばしい事であらうが、さういふ機会が何時来るか、又は到底来ぬであらうかと、常に焦慮して居たけれども、御伝記を編纂して後世に遺さうという考は、其頃はまだ無かつた。
斯くして追々と歳月を経るに従つて、政権返上の御決心が容易ならぬ事であつたと思ふと同時に、鳥羽・伏見の出兵は全く御本意ではなくて、当時の幕臣の大勢に擁せられて、已むを得ざるに出た御挙動である事、而して其事を遂げんとすれば、日本は実に大乱に陥る、又仮令幕府の力で薩長其他の諸藩を圧迫し得るとしても、国家の実力を損する事は莫大である、殊に外交の困難を極めて居る際に当つて左様な事をしては、皇国を顧みざる行動となると悟られた為である事、又玆に至つては弁解するだけ却て物議を増して、尚更事が紛糾するから、愚と言はれやうが怯と嘲けられやうが、恭順謹慎を以て一貫するより外はない、薩長から無理と仕懸けた事ではあるが、天子を戴いて居る以
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上は、其無理を通させるのが臣子の分であると、斯く御覚悟をなされたのだといふ事を理解したのは、実に明治二十年以後の事であつた。爾来折々公に拝謁して直接に御話をも伺ひ、又種々の人からの談話をも聞き、之を綜合して前日の疑念が益解ける様になつて来た。例へば曩には怯懦の疑があつたが、若しも彼の時に公が小勇に駆られ、卒然として干戈を執つて起たれたならば、此日本は如何なる混乱に陥つたか、真に国家を思ふの衷情があれば、黙止せられるより外に処置はなかつたのであるといふ事を、染々と理会したのである。斯様に理会して見ると、公が国を思ふ所の御思慮の深遠なる事は、私ども凡慮の及ぶ所でないと深く感激して、公が此の如き御心で彼の如き態度に出で御一身を犠牲になされる苦衷は、人に語るべき事ではない、却て他人よりは逆賊と誣ひられ、怯懦と嘲られても、じつと御堪へなされて、終生之が弁解をもなされぬといふは、実に偉大なる御人格ではあるまいかと、尊敬の念慮は弥益切なるのであつた。
旧友の福地桜痴とは、時々幕末の事を討論した事もあつたから、明治二十六年の夏秋の頃、帝国ホテルに催された或る宴会の後に、同氏と維新の政変を談じた際、どうか公の偉大なる御事蹟を記述して、公の大寃魂を天下後世に申雪する工夫はあるまいかと、始めて御伝記編纂の事を言ひ出した。福地氏は是れより先に、幕府の歴史を編纂したいと思ふが、誰も書かせて呉れる者がない、之を完成するには少からぬ費用を要する、願くは公明正大の筆を以て、慶長・元和の初より、慶応・明治の終までの史実を書いて置きたいものだ、維新後の歴史は、とかく徳川家を讒誣する事のみを記した書が伝はるが、是れは実に後世を誤るもので、残念至極であるといふ事を申された。さりながらそれは容易な事ではないと思うて、私は遂に同意しなかつたが、帝国ホテルでは私から、慶喜公の御伝記を詳細に調べて置きたいが、君の健筆を以て編纂の主任を引受けられまいかと、同意を請うたのである。其時福地氏は屹度やれる、御引受すると確答したが、其方法に至つては詳細に論究するまでには進まなかつた。
そこで私は御伝記を編纂するについては、世に公にはせぬにしても、第一に公の御許諾を得なければならぬ、それを伺ひ定めねば著手する訳にはいかぬと思ひ、平岡準蔵氏によつて、公の御内慮を伺ふ事にした。其頃平岡氏は東京で米穀商を経営しながら、公の御家政の事にも熱心に尽力して、藩庁の頃から、小額の剰余金をも公の為めに蓄積の方法を講じ、私の経営する銀行に於て之が利殖を謀り、私も亦常に自己の財産と同じ観念で之を取扱つたから、平岡氏が常に公に昵近して居る事を知つて居たので、同氏に逢つて詳細に御伝記編纂の意見を述べ、是非とも御許諾を得たいと思ふが、君は如何に考へるかと問ふと平岡氏は非常に喜んで、それは誠に親切な事だ、どうぞ好都合に成就したいものである、福地氏は立派な文学者と聞いて居り、公にも全く知らせられぬ人でもないから至極適当の人と思ふ、但し公の御同意の有無は測り難いが、ともかくも申上げて見やうと答へた。其後平岡氏が静岡から帰つての話に公は御許諾がない、どうぞ止めて呉れと仰せられた、何故に左様に御厭ひなされますかと伺ふと、世間に知れるの
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が好ましくないとの事であつたといふ。依つて更に平岡氏と相談の上必ず世間には知れぬやうに、深く私の筐底に納めて置きます、私どもは固より公の千年の御寿命を望むけれども、人生自古誰無死であるから、御死後に於て発表するものとしたならば、御厭ひなくもと思はれます。今の間に存在する史実を集めて、せめては記料にても遺して置かねば、遂に真相を失つて、後世に誤謬を伝へる事と存じます。つまり私の期待する所は、現世にあらずして百年の後にあるからと、再応平岡氏を以て伺ふと、それ程の熱望ならば承諾はするが、世間に公にするのは、死後相当の時期に於てといふ事であつた。
是れから極めて内々で調査に取掛つたが、併し旧幕臣の古老には種々の実歴談を聴かなければならぬ。朝比奈閑水元甲斐守昌広。は外国奉行をも勤めた人、又其実父は十二代将軍の御小納戸頭取を勤務して当時の大奥の事を熟知した人であつた。其他駒井朝温元甲斐守。松平勘太郎・元大隅守。浅野氏祐元美作守。・杉浦梅潭元兵庫頭。などゝいふ人々にも就いて、段々と其実歴や伝聞を調査した。独り旧幕臣のみならず、水戸藩を首として、会津・桑名、其他の諸藩、又は幕閣に列した諸家に就いても、事実の探索に著手した。さて其御伝記の体裁は如何にすべきかといふ事について、福地氏の説は、是非とも幕府を根拠にして書くが宜い、蓋し当時の公は全く御一身に国家の安危を荷はれたのであるから、幕末史と公の御伝記とは相離るべからざるものである、殊に外国の事が又御一身の変化に最も強い関係を為して居るから、それらの事実は成るべく丁寧に調べなくてはならぬ。原来徳川家が幕府として政権を執つたのは、家康公が覇府を江戸に開かれてからであるが、又其前から論ずれば、関ケ原の戦勝から徳川の威力は既に天下を制御すべき程になつて遂に大阪を滅し、公家・武家の諸制度を定めて、幕府は確立したのであるから、幕末の政変に論及するには、どうしても溯つて家康公の幕府を立てた時の精神及び其形式をも調査して、完全に其根原を研究し最後に於て幕府がそれだけの権力を持つて居るものを、何故公は所謂敝屣を棄つるが如くにせられたかと、篤と吟味して置かねば、趣旨が明にならぬ。故に公の御伝記というても、直接公の御一身に属する本伝と、前提に属する前記と、両様の順序を以て調査せねば、結局に至つて明晣に論断し難いと思ふといふ説であつた。私はそれでは大変に手数のかゝる事と思つたけれども、筆を執る人が切に主張する事だから、遂に其意見に依つて起草して見て呉れろと委託した。
其翌二十七年に、尾高藍香翁の紹介によつて、旧桑名藩士の江間政発氏に材料蒐集を託し、福地氏は其材料によつて本伝を執筆するといふ事に、各其受持を分けて従事せしめる事にした。三十四年の春の頃から、深川の宅の一室に始めて事務所を開いて、両人とも此処に通勤する事になつて、福地氏は御伝記の前記を起草したり、外交関係の洋書類を翻訳したりなどして、徐々と進行はしたが、福地氏は三十七年に代議士となつて、多忙の為めに捗取らず、其後は又病身になつて、執筆は思ふ様に運び兼ね、かたがた、残念ながら暫時編纂事業を中止した。其後福地氏は病の為めに世を去られたので、私は此御伝記編纂の事を如何にしやうかと、再び大に考慮せねばならぬ事になつた。併し
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既往に溯つて一考するに、曩に福地氏に依頼する時に、親戚なる穂積陳重・阪谷芳郎両氏にも相談し、両氏も至極結構の事と思ふが、如何なる順序にして為さるかと問はれたから、斯々の手順にして福地氏に頼まうと思ふと答へ、それは適当でありませうとの同意を得た。其際私の胸中には、斯かる重要なる歴史は、成るべく公平に記述せねばならぬ、苟も筆を執る人の感情に馳せて、一家言の論文体になつてはならぬ、此点から考究すると、寧ろ公に関係のない、単に歴史に堪能なる人に依頼するが宜くはないかといふ一案もあつた。さりながら、一面には、私の心事が慶喜公の寃罪を申雪するの目的で、此御伝記の編纂を企てたものであるから、成るべく公を識つた人にと考へて、福地氏と定めたのである。然るに前に述べた如く、其後十年の歳月を経ても成就せぬのみならず、福地氏が没せられた以上は、更に方法を改正しなければならぬ事になつて、遂に再応穂積・阪谷両氏と協議の上、穂積氏を介して三上参次博士に相談して、萩野由之博士に其主任を依頼する事になつた。而して福地氏の旧稿をば継承せず、新に起草する事として、爾後の経営は萩野博士の立案に従うて其順序を立て、是れまでの如き不規律なく、正確に取り運び、相当の年月を定めて其完成を期する事とし、玆に始めて博士の承諾を得たので、更に御伝記編纂所を兜町の事務所の楼上に設け、数名の編纂員を置いて新に編纂事務に着手した。それは明治四十年六月の末であつた。
私の発意は、其原は感情から起つて来たのであつて、公の当時の御有様が如何にも同情に堪へぬ、誰か此寃魂を慰める人がありはせぬかと思ふ処から、せめては其事実を明瞭にして、逆賊と誣ひられ怯懦と罵られた汙名が、後年に於て洗ひ浄められるやうにして上げたい。御伝記によつて、当時の公の御心事は斯うであつて、御行動は斯うであつたといふ事が明白になつたならば、逆賊でもなく、怯懦でもなく、王政維新の大業も、実は是れによつて都合よく運んだのである。然らば公の御行動は、寧ろ国家に対しての大勲功であるといふ事も分るであらうと考へたのである。抑も徳川家康公が、其初めに幕府を建てゝ天下の大権を掌握したのは、敢て天子を後にするといふ精神ではなかつたらうが、国家の統一を企図する為めには、幾分か朝廷を押付けたやうな嫌はあつたけれども、之が為に国家は三百年の太平を致したのである。併し日本の国体からいへば、それは完全な方法ではない。而して此国体観念は、三百年の太平の間に、学問の進歩に伴うて著しく発達した。況や外国と交際を開始する時に於て、中心力が朝幕二途に分れるやうな事は一日も許されぬから、外交の初に当つて、幕府の閣臣に早く此点に気の附く人があつたなら、時の将軍をして疾くに政権を返上せしむる手段に出なければならなかつたのであるが、大勢の推移はさう容易く行はれるものではない。此国家は武力を以て贏ち得た将軍家の物であると思ひ誤つて、徳川の流れ一日も長かれと企望する幕臣多数の情勢から、種々なる齟齬衝突を惹起して、終に大騒乱ともなるべきは当然の形勢であつた。然るに慶喜公の明敏なる、早くも大活眼を開き大勇気を振つて、先づ第一に政権返上を英断せられたのであるが、其後大勢の趨く所、事毎に意の如くならずして、遂に汙名を受
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けらるゝに至つたのは、真に言ふに忍びざる次第である。是れはどうしても公平なる心と正当なる筆とによつて、其際の公の御精神を叙述して、公の寃魂を慰めなくてはならぬ、斯くして幕末政変の事実は此通りの次第であつて、王政復古は結局最後の将軍たりし公の大勢看破の明と、大事決断の勇と、忠君愛国の誠とが、与つて力ある次第であるといふ事が、他日に明瞭になるやうにしたいのが、私の第一の主眼であつた。それ故成るべくは感情に趨らず、勉めて事実を精覈にした御伝記を作りたいと思うた。此点から観る時は、最初福地氏に依頼した儘で若し成功したならば、或は頼山陽の日本外史の如き、文学的・感情的の歴史となつたかも知れぬが、今度の編纂方法は、萩野博士の如き史学専門の人を以て、公平に史実を精査し、其史実の指示する所に従うて、中正な意見を以て之を記述し、其時の事実は斯うであつて此事実によつて斯く処置せられた、此政変の原因は斯うであつたから其結局は斯くなつたと、悉く実際に考証して其成行を論断した事故、極めて正確なる考証的の歴史となり、公の愛顧を受けたる私の名によつて編述したものではあるが、決して偏見の私論でなく、所謂天下の公論であると、一般の人が見て呉れるであらうと思ふ。
文政の末年に、白河楽翁公が侍臣を以て、頼山陽に其著述した日本外史の一覧を求められた時、山陽は其厚意に感じて、楽翁公に呈する書一篇を作つた。山陽は自身を宋の蘇轍に比し、楽翁公をば韓魏公に擬へて、縦横に論弁した。其文章は山陽の筆だけに、情意も貫徹し、抑揚も変化も実に巧妙のものであるが、山陽の真意は如何にといふに、総じて史家が歴史を著作するのは、其当時に於て人に知られる事のみを期するものではない、恰も蘇轍が韓魏公に向つて、今轍は目前に閣下に知らるゝ事は求めぬ、百年を期するのであると述べた如く、拙者も此外史を編纂して、尚蘇轍の言の如く千百年を期したのである、然るに今日斯く閣下が侍臣を以て此稿本を召されて見ると、千百年後を期した文章が、今日既に大賢の鑑識を経て、後世に伝はる保証が出来たやうに思はれると言うて居る、史を編む人の心事は実にさもありさうに思はれる。山陽既に然り、私の企てた此御伝記も、決して之を現在に発表しやうとは思はなかつた、先年平岡氏に答へた如く、公の百歳の後を期する積りであつた。
然るに其後萩野博士に依頼した頃は、計画の当初に比ぶれば時勢が大に変化し、公も東京の御住居になつて、宮中へも時々御参内なされ、明治三十四年には麝香間祗候となり、三十五年には公爵を授けられて特に一家を立てられ、従つて社会的御交際も出来て、私の宅へも数度御越し下される様になつた次第で、此編纂を思立つた頃とはまるで世の中が変つて、公の御身も最早青天白日となられたのである。況や先年薨去に際しては、聖上より誄詞を賜はつて、公が御奉公の精神を御表彰遊ばされた程の事であつた。其際私も左の一絶を作つて公の薨去を哭したのである。
 嘉遯韜光五十春。英姿今日化霊神。至誠果識天人合。赫々鴻名遍四鄰。
私の此編纂の事を企てた初めには、僅に知合の人に其事を談ずるのみ
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であつたけれども、時勢の変化に連れて、公も此事を御厭ひなく、世間も怪しまず、私も亦公然と経営する様になり、随て尚更其事実を成るべく錯誤のない様にしたいといふ企望から、編纂諸氏の発意で、或る事柄について其事実を確かめる為に、私が会主となり、公を中心として、毎年数回会同して、種々の疑点を公に御尋ねいたし、又公の御前で討議もした。公は此会同を昔夢会と命名して、毎回必ず御出席下され、諸氏の疑問に対しては、殆ど心を虚しくして、其時の御思慮又は御行動を懇に談話せられ、事後を飾る心や依怙的感情などは一切除いて、有つた事は有つた、間違つた事は間違つたと、善なり悪なり、事実其儘、真直ぐにありし昔を御話し下されたのである。其一例を言はば、「葵の嫩葉」といふ書に、公の御幼少の時の事を御褒め申した記事があつたから、之を伺つて見ると、左様な事は一つもない、実に恥かしい事である、嘘に褒められるくらゐ不本意の事はないと仰せられて、全然否認せられてしまつた、此一事を以ても、公の虚心坦懐が証拠立てられる。此昔夢会に於て、当時種々に紛糾した事件の真相を確めんと務めた編纂諸氏の苦心も大抵ではないが、公も亦それに対して能く古い御記憶を喚起せられて、丁寧反覆、綿密に御答へ下された事は一通ならぬ御丹精であつた。今も其時の事を追想すると、あの問には少し御迷惑さうな御様子があつたなどゝ恐察する事もある。公は昔夢会に御臨席なされたばかりでなく、一章脱稿する毎に、先づ私が審に一覧した後を、公の御許へ呈して御覧に入れると、喜んで丁寧に御目を通され、時には御自筆で附箋をなされ、是れは斯うあるけれども斯うではなかつたと、修正意見を御記しになり、事の複雑な所は編纂員を召して、細に当時の事情を語り聞かせられ、之が為に幾度も稿本を訂正した所が多いのである。之を以ても此御伝記が聊の虚飾もなく飽く迄も事実を直筆したと言ふ事をば、自ら誇るに足ると思ふのである。原来此御伝記を作るについては、御本人の御行動を枉げても良くしたいといふ精神は毫もなく、此道理が斯様である、彼の事実が斯々であるといふ事を明白にするを主として、筆を執つたのである。私は天下に対して、自己の責任として著者たる名義を持つが、事が著者の大切に思ふ主君に関するが為に、苟も偏頗な意見を立てたり、又は曲筆を弄した所などは、断じて無いといふ事を、どうぞ天下後世の読者に能く了解して貰ひたいと思ふ。
御伝記の当初の企図は、恐入つた申分ではあるが、公の薨後に社会に出す考であつたから、御生前に脱稿し刊行するとまでは予期しなかつたが、公が東京に御住居になり、且萩野博士の立案によつて此編纂を経始し、殊に昔夢会の開かれた頃からは考が変り、御伝記の全体については、素より永久に人心に裨益すべき入念の著作でありたいとは予期したけれども、一方には一日も早く其刊本を公にも御覧に入れたいと思うて、私は時々編纂諸氏を督励して、御覧に供すべき公も御老年であり、私も老人である、どうぞ其考を以て成るべく早くと催促した事は幾度もあつたけれども、記事が複雑でもあり、大部な著述で、容易に脱稿とは参らぬ中に、図らずも公の御薨去遊ばされたのは、実に終生の恨事である。今日此の如く印刷も成り、製本も調うた所を御覧
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に入れて、其御喜の眉を開かせられるのを拝するを得たならば、著者の名を署する私、及び編纂の責任者たる萩野博士其他の人々は、どれ程嬉しからうと思ふにつけ、猶更残懐の念を深うする次第である。併しながら、本書初稿本の公の静岡御移住の章までは、全部御覧を請ひて訂正をも了へ、第二稿も三分の一ほどは再度の御覧を経た事は、せめてもの心遣りである。
惟ふに公は生前に於て既に汙名を雪がれ、薨後には又其忠節を表彰せられたる上は、山陽の所謂百年の後を期した事が、今日既に顕著になつたと言うても宜い。果して然らば史家の苦心は既に足りた、必ずしも百年を待つの必要はないと言ひ得らるゝでもあらうが、私は未ださうではないと断言し、将来を期すべき事は尚種々の方面に於て存在すると信ずるのである。蓋し維新の政変の如き大事は、決して屡帝国に生ずるものではない、然れども人の世に立つて斯かる場合に処するには、如何なる覚悟を有し、如何なる行動を為すべきかといふ問題は、最も講究を要すべきものである。而して私は此問題に対して、一言以て之を掩ふ事が出来る、即ち私を棄てゝ公に徇ふにあると思ふ。畢竟我が国民に貴ぶ所のものは、国家に対する犠牲的観念である。忠君愛国も其真髄は大なる犠牲的観念の結晶にある。大なる犠牲的観念は、私を棄てゝ公に徇ふにあるが故に、其功労の世間に表はれる事を求めず、其苦心に対する報酬をも望まぬのみならず、他より毀損せられても、他より侮辱せられても、毫も其心を動かす事なく、一意国家の為に身命を擲つて顧みざる偉大なる精神が即ち是れである。公が国難を一身に引受けられ、終始一貫して其生涯を終られた偉大なる精神は、実に万世の儀表であり、又大なる犠牲的観念の権化であると思ふ。さすれば世人が此書によつて公の御事蹟を善く心得て、其御一身を国家の為に捧げられた精神の在る所を了解したならば、此御伝記が百年千年の後までも、日本の人心を針砭刺戟して、国民の精神に偉大なる感化を与へるやうにならうと思ふ。斯く考へて見れば、此御伝記編纂の事は、初は唯公の寃魂を慰めやうと思ふに止まつたが、其寃魂の既に慰められた上は、更に公の御事蹟が、将来の日本の人心をして大に感奮興起せしめ、所謂懦夫をして起たしむるの効果あるを望み、且信ずるのである。果して然らば之を発起した私も、又私を助けて筆を執られた萩野博士を始めとして編纂諸氏も、永世に朽ちざる骨折甲斐ある事業を成就したものであると言うても、差支ない事と思ふのである。
  大正六年六月
                  男爵 渋沢栄一述


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK270127k-0002)
第27巻 p.455-456 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月八日 快晴
昨日ニ引替ヘテ春暄ノ候ノ如シ、午前十時山県侯爵来ル ○中略 興山公ノ事ヲ詳話シ、其伝記編纂ノ挙ヲ告ク、侯ハ大ニ之ヲ賛成セラル ○下略
一月九日 晴
○上略 午前十時山県侯爵ヲ訪ヒ ○中略 興山公身上ニ関スル事等請願ス
○下略
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   ○中略。
二月三日 晴
○上略 午後五時福地桜痴・朝比奈閑水・松平勘太郎・新村猛雄・杉浦誠江間政発・尾高惇忠ノ諸氏来ル、一位公伝記ノ事ヲ協議ス、夜十一時散会
   ○中略。
十一月十六日
○上略 五時前巣鴨ナル一位公ノ邸ヲ訪フ、尾高惇忠・江間政発同伴ス、一位公ニ拝謁シテ御伝記ノ事ヲ話ス、夜公ノ邸ニ於テ一橋公夫妻ト共ニ夜餐ノ饗ヲ受ケ、十一時過兜町ニ帰宿ス


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK270127k-0003)
第27巻 p.456 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
九月十九日 雨
○上略 浜町常盤屋ニ抵リ福地源一郎氏ト面話ス、同姓喜作・江間政発来会ス、一位公伝記編纂ノ事ヲ談ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK270127k-0004)
第27巻 p.456 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
五月九日 曇
午前福地氏・江間氏等ト一位公御伝記ノ事ヲ談ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK270127k-0005)
第27巻 p.456 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
一月四日 晴
午前八時朝餐ヲ畢リ、興山公伝記ノ草案ヲ読ム ○中略 午後再ヒ興山公伝記ノ草案ヲ読ム ○下略
   ○中略。
一月十日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リテ御伝記草案ヲ読ム ○下略
   ○中略。
一月十二日 晴
○上略 夜伝記草案ヲ読ム
一月十三日 晴
○上略 午後三時揮毫ヲ畢リ伝記草案ヲ読ム ○下略
   ○中略。
十二月廿八日 曇
○上略 午後七時浜町常盤屋ニ於テ福地・江間其他ノ人々ト一位公御伝記ノ事ヲ協議ス ○下略


(八十島親徳)日録 明治三八年(DK270127k-0006)
第27巻 p.456-457 ページ画像

(八十島親徳)日録  明治三八年   (八十島親義氏所蔵)
六月廿八日 時々雨
例刻出勤、午後五時ヨリ兜町ニテ同族会、穂積博士ヲ除クノ外出席、慶喜公御伝記編纂ノ件ニ付、紀料ハ江間担当追々進行スレトモ、本文ハ福地ノヤリ方意ノ如クナラズ、将来ノ方針ヲ如何ニスヘキヤニ付テ相談アリ、阪谷氏ノ意見ハ、結局ハ福地ニ執筆セシムルヲ可ト認ムルモ、先以テ二十枚位ノ大縮図的ノ短文ヲ作ラシメ、夫レヲ以テ方針ヲ
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定メ、標準トナシテ、将来ヲ責メタシトノ意見アリ、男爵同意シ、其方針ヲ取ル事トセラル ○下略


渋沢栄一 日記 明治三八年(DK270127k-0007)
第27巻 p.457 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
七月五日 曇 軽暑
○上略 午後二時兜町ニ抵リ ○中略 福地源一郎・江間政発二氏来会シ、前公御伝記ノ事ヲ談話ス ○下略