デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
3節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第27巻 p.457-460(DK270128k) ページ画像

明治40年6月24日(1907年)

是日ヨリ日本橋区兜町渋沢事務所楼上ニ編纂所ヲ置キ、著者栄一、顧問穂積陳重・阪谷芳郎、校修者三上参次・萩野由之、編纂主任萩野由之、立案者小林庄次郎及ビ記料蒐集者江間政発等ノ所員ヲ以テ徳川慶喜ノ伝記編纂ヲ開始ス。


■資料

竜門雑誌 第二三〇号・第五九頁 明治四〇年七月 ○徳川慶喜公伝記編纂(DK270128k-0001)
第27巻 p.457 ページ画像

竜門雑誌  第二三〇号・第五九頁 明治四〇年七月
○徳川慶喜公伝記編纂 青淵先生には兼て旧主従一位公爵徳川慶喜公の伝記編纂を企図せられ、去る明治二十七年七月江間政発氏を聘し爾来専ら其資料蒐集に従事せしめられたりしが、今般右編纂所を日本橋区兜町渋沢事務所楼上に設け、自ら著者の地位に立ち、左の通り担任を嘱託し、去る六月二十四日より鋭意之に従事せられつゝあり
             著者          青淵先生
             顧問     法学博士 穂積陳重
             顧問     法学博士 阪谷芳郎
             校修者    文学博士 三上参次
             同      文学博士 萩野由之
             兼編纂所主任 同    萩野由之
             立案者    文学士  小林庄次郎
             記料蒐集者       江間政発


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK270128k-0002)
第27巻 p.457 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
四月十二日 晴 暖             起床六時四十分 就蓐十二時
○上略 午後一時兜町事務所ニ抵リ、三上参次氏・穂積・篤二・江間政発等ト御伝記ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
六月二十日 曇 冷             起床七時 就蓐十二時
○上略 午前十一時徳川公爵ヲ訪ヒ、公ノ伝記編纂ノ事ヲ陳上ス ○下略
   ○中略。
六月二十二日 半晴 冷           起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 正午第一銀行ニ於テ午飧シ、食後再ヒ事務所ニ抵リテ徳川公伝記編纂ノ事ニ関シ萩野・小林・江間ノ諸氏ト談話ス
○下略


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK270128k-0003)
第27巻 p.457-458 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四〇年    (八十島親義氏所蔵)
 - 第27巻 p.458 -ページ画像 
六月廿二日 晴
出勤、去明治二十七年以来ノ計画ニカヽル慶喜公御伝記編纂ノ件、従来ハ江間政発紀料編纂ニ専任シ、本伝ハ福地幾分着手ノマヽ逝去、其後未着手ニツキ今回三上博士ニモ相談セラレ、萩野博士督励ノモトニ文学士小林庄次郎ト申人執筆、紀料掛ノ江間氏等ト共ニ今日ヨリ兜町ノ楼上ニテ執務スル事トナル ○下略
   ○中略。
七月廿三日 暑シ
朝例刻出勤、今日ハ夕刻慶喜公兜町ヘ御来臨、御伝記編纂所臨視、夕餐ヲ供ス、三上・萩の氏・ホツミ・阪谷氏等モ来ル、予ハ直接関係無キ故定刻帰宅 ○下略


実験論語処世談 渋沢栄一著 第三三四―三三九頁 大正一一年一二月再版刊(DK270128k-0004)
第27巻 p.458-460 ページ画像

実験論語処世談 渋沢栄一著  第三三四―三三九頁 大正一一年一二月再版刊
 ○旧悪を忘れて旧恩を思へ
    ○徳川慶喜公伝の編纂も謝恩の為め
 私が旧主徳川慶喜公の御伝記を編纂するやうになつたのも、一に謝恩の為めである。私は素より一橋家譜代の臣でも無ければ、又その禄を食んだと申しても、前後を通じて僅に五年に過ぎぬのだが、死ぬべき生命を慶喜公によつて助けられ、私の今日あるのは、一に一橋家仕官時代に発したものと思ふので、その大恩が什麼しても忘れられず、世間に慶喜公を誤解して居る人々が多く、若しや誤つて後世に伝へらるゝやうなことになりでもすれば、誠に御気の毒でもあり、遺憾でもあり、後世を誤ることも多からうと存じ、私が進んで慶喜公の御伝記を編纂することにしたのである。
 徳川慶喜公伝編纂の事は、明治廿六・七年頃、故桜痴居士福地源一郎氏と会して談つた時に、その端を発したもので、福地氏より此の事業を始めては何うかと話された所より思ひ起つたのであるが、同氏ならば旧幕の人でもあり、且つ達文家で、歴史上の造詣も深い故、編纂者として適任だらうと思ひ、穂積・阪谷の両氏とも協議の上、愈よ福地氏に依嘱して編纂に着手する事に決したのである。処で福地氏の意見は、単に慶喜公の伝記のみでは興味が薄くなつてしまふ恐れがあるから、幕府なるものゝ抑々の起源にまで溯つて記述し、ギボンの羅馬衰亡史のやうな一篇の幕末史を編述して見たいといふにあつたのだがそれでは却つて余りに浩澣に失し、慶喜公伝編纂の本末を顛倒してしまふやうになりはせぬかとも私は考へたので、矢張慶喜公の御伝記本位で編纂に着手する事に決めたのであるが、それにしても御伝記の前記として、せめては家康公の起つたことから書かしてくれとの福地氏の注文があつたので、之れまでも断つては福地氏も嘸ぞ本位無からうと思ひ、家康公以来の幕府史を、慶喜公伝の前記として附することにしたのである。
 福地氏も其れで宜しいといふことで引受け、いろいろと史料を寄せ蒐め、徳川幕府時代の外交のことなぞ殊に詳しく取調べ、紀料だけでも大したものであるが、氏の起稿した御伝記も、二十冊ばかりに及んで居る。私が多少幕末の外交事情に通じ、タウンセンド・ハリスのヒ
 - 第27巻 p.459 -ページ画像 
ウスケーン殺害事件に対する処置が、如何にも武士道的であつた事なぞを承知するやうになつたのも、福地氏の書かれたものを読んだ賜である。福地氏が寄せ蒐められた幕府の外交史料中には、オルコツクの日記だとか、その他洋人が日本に就いて記述した記録なども多数に含まれて居る。
    ○編纂所を兜町に置く
 桜痴居士はあれほどの達文家であつたが、晩年に及んでは健康甚だ優れず、流石の達文家も余り書けなくなつてしまひ、編纂は一向進行せず、唯稿料を要求せらるゝばかりになつてしまつたので、私も一時は困つた人に編纂事業を依托したものだと後悔したやうな事もあつたが、その中福地氏は明治三十九年一月四日六十六歳で歿してしまはれたのである。これが今より約十年前の事である。
 初め慶喜公伝の編纂を福地氏に托する際にも、穂積・阪谷の両氏に協議したのであるから、福地氏の歿後、私は編纂事業を如何に進行したら宜しいものだらうかと両氏に相談したのである。幕末の事情を知らうとするには、当時の事情に詳しい人々を編纂の評議役にして置かねばならぬといふので、廿人ばかりに之を依嘱して置いたのであるが何れも老人なる為め、追々と鬼籍に入り、今は残り少くなつてるほど故、編纂事業の進行を急ぐ必要もあつた所から、穂積・阪谷両氏は、兎に角全事業を挙げて専門の歴史家に委托してしまふのが宜しからうそれには文学博士の三上参次氏に更めて相談するが最捷径だらうとの意見を提出し、私も至極尤もの意見だと考へたので、穂積氏と三上氏とは至つて別懇の間柄でもある関係上、穂積氏より三上氏に通じたのであるが、三上氏は兎も角一度私に会はうと云ふ事になり、穂積氏と同道で同氏が私を訪ねて下されたので、私は委細同氏と協議したのである。
 三上氏の意見は、折角徳川慶喜公伝を編纂して後世に遺しても、それが若し偏頗なものになつては後世の譏を受くる恐れもあるから、旧幕の人に依嘱するよりも、歴史の専攻家をして編纂事業に当らしむるが宜しかるべく、然らば自分は多忙なるを以て親しくその衝に当ることは出来ぬけれども、顧問役の格で編纂事業を監理しても苦しく無いからとて、同氏は主任者として文学博士萩野由之氏を推薦せられたのである。萩野氏は現に大学教授の職に在る人で、史眼もあり文筆にも長じ、誠に好適者であると思つたので、私も三上氏の意見に同意し、萩野氏を編纂の主任者とし、一切を挙げて編纂事業を同氏に委嘱し、三上氏も好意を以て公務の傍ら之を監理せらるゝことゝなり、編纂所を私の兜町事務所の二階に置き、規律的に編纂事業を進行するに至つたのであるが、爾来今日まで既う十年にもなる。
    ○編纂所組織の大要
 徳川慶喜公伝編纂所は、私の兜町事務所の二階二間を占めて居るのであるが、編纂に要する図書なども寄せ蒐め、珍らしい本ばかりでも既に数百冊に上つてゐる。編纂所の組織は大体に於て二部に分れ、一を記述掛とし、一を紀料係とし、記述掛の方には、萩野博士が自ら長となり、外に三人の輔佐員を率ひて之に当られて居る、紀料掛の方に
 - 第27巻 p.460 -ページ画像 
は、桑名の人で江間政発と申さるる方が長となり、是亦三人の輔佐員を置いて諸家所蔵の記録・古文書を調査謄写したり、又参考書類を閲読して抜萃したり、幕末の事情に精通する古老を訪問して其談話を聴取したりなどして紀料を作り、之を記述掛の方に提出致すと、記述掛の方では之を調査取捨して記述の材料を得、之によつて記述する事になつて居るのである。
 編纂の大方針は、余り批判を加へず材料を組織的に編纂して、事実を有のまゝに示し、読者をして判断せしめる事にしてあるのだが、時には材料を綜合して断定を加へて置いた所もある。記述せられた部分は一々私が眼を通して読み、之に対し私の意見も申述べることにして居るが、私の幕末に於ける進退などに就ても、この慶喜公伝の中には詳細に記録せらるゝことになつて居る。
 慶喜公伝の編纂事業は、幕末の事情に精通する古老に次々と逝かれてしまへば、材料を得るに困難なわけにもなり、又私とても永遠まで生きて居られるものでも無いから、能きる丈け進行を急いで来たのであるが、斯る事業は進行の遅々たるのが本来の性質である所より、明治廿六・七年の頃、始めて編纂に着手して以来、既に二十年にもなるがまだ完了する迄には至つて居らぬ、然し愈よ本年早々の中に編纂だけは完了の運びとなる筈である。それにつけても一寸考へると、大日本史の編纂が、水戸義公以来漸く近年に至つて、完了するまで二百年を経過して居るのは、甚だしく長歳月を要せる如くに思はれぬでもないが、一徳川慶喜公伝の編纂にすら二十年を要するものだとすれば、大日本史の如き浩澣なる国史の編纂に二百年の長歳月を要したのは当然の事で、私の慶喜公伝編纂事業に比すれば、寧ろ早や過ぎるくらゐのものである。
 編纂を終つても猶ほ印刷頒布の事業が残つて居る。これを何うしたものだらうかといふのが、目前の問題であるが、五・六冊の分本にして発行する積りである。総紙数は菊版五号活字で少くとも五千頁ぐらゐには達するだらうと予想せられる。
(附記) 本書は大正七年一月に至り竜門社から発行せられ、書肆富山房によつて発売せられた。本編四冊・附録三冊・索引一冊、合して一部全八冊、総紙数菊版四千二百余頁で、定価弐拾円である。
   ○萩野由之。文学博士、明治三十四年帝国大学教授、大正五年帝国学士院会員タリ。退職後ハ維新史料編纂会員等多クノ委員ヲ兼ヌ。著書多ク、「中等日本歴史」「日本史講話」ハ明治時代ニ於イテノ権威書ト称セラル。大正十三年二月歿、年六十五。(新撰大人名辞典ニヨル)
   ○江間政発。漢学者ニシテ幕末史料ノ蒐集ニ努ム。旧桑名藩土、片山恒斎ノ孫。大正五年八月歿、年六十五。(新撰大人名辞典ニヨル)