デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

6章 政治・自治行政
2節 自治行政
2款 東京市区改正及ビ東京湾築港 2. 東京市区改正審査会
■綱文

第28巻 p.18-40(DK280002k) ページ画像

明治18年1月24日(1885年)

是ヨリ先、政府ハ東京府知事芳川顕正ノ建議ヲ容レテ東京市区ノ改正ヲ行ハントシ、内務省内ニ東京市区改正審査会ヲ設ケ、東京商工会ヨリモ其代表委員二名ヲ選出セシム。栄一及ビ益田孝、同会ヨリ推薦セラレ、是日東京市区改正審査委員ヲ申付ケラル。次イデ政府、品川湾築港ノ議ヲ当会ニ命ジテ審議セシム。


■資料

東京市区改正品海築港審査顛末(DK280002k-0001)
第28巻 p.18-25 ページ画像

東京市区改正品海築港審査顛末        (東京府庁所蔵)
○明治十七年十一月十四日東京府知事ヨリ、東京市区改正ノ義ニ付上申書ヲ内務卿ニ呈出ス、其ノ文左ノ如シ
    市区改正之義ニ付上申
  惟ミルニ東京市街ノ起原ハ措テ論セス、昔者徳川氏覇府ヲ此地ニ開カレシヨリ、戸口頓ニ増加シ、識ラス知ラス竟ニ東海ノ一大都会トハ成タルモノナリ、故ニ其区画ノ大小及街路ノ広狭等ニ於ケル、所謂大名小路大通等ノ数部ヲ除クノ外ハ、概ネ人々ノ欲スル所ニ随テ家屋ヲ築造セシメタル者ニシテ、固ヨリ今日ノ盛大ヲ予期シテ一定ノ部署ヲ定メタル者ニアラサルハ、道幅ニ一定ノ度ナク、市街ニ斉整ノ状ヲ欠ケルヲ以テ知ル可キナリ、然ルニ当時ニ在テハ車馬ノ通行稀少ニシテ、吾人ノ不便ヲ感スル事ナカリシト雖、輓今西洲ノ文明東漸セシヨリ、馬車・人力車・電信及鉄道馬車等盛ニ行ルヽノ今日ニ至リテハ、従来ノ道路既ニ狭隘ニ堪エス通行ノ人々頗ル危険ヲ極メ、右往左転、輒モスレハ車馬ノ蹄圧スル所トナリ、又河渠ノ疏通不充分ニシテ、貨物ノ運輸ニ不便ヲ訴フルモノ多キニ至レリ、是レ改正ノ今日ニ止ム事能ハサル所以ニシテ、卑職カ日夜憂慮心ニ措ク事能ハサル所ナリ、然リト雖改正ノ事タル至大至重ニシテ、一朝一夕ニ能ク其調査ヲ完了スヘキニ非サルヲ以テ、止ム事ヲ得ス目前ノ急施ヲ要スルモノハ、其市街焼失等ノ時々裁可ヲ経テ逐次其改良ニ着手シタルモ、独リ奈ン只タ一局部ノ工事ニ止マリ、且其時々ノ詮議ニ出ルカ故ニ、全体ヨリ之ヲ見ルトキハ首尾相合ハス、前後相整ハス、実ニ姑息ノ嫌ヲ免レサルナリ、苟モ撫民ヲ以テ自任シ、府下永遠ノ利益ヲ図ランニハ、先ツ市街全般改良ノ規模ヲ定メ、而后チ事ノ緩急ヲ計リ、至要ノ場所ヨリ着手シ、漸次其歩ヲ進メ、以テ遂ニハ市街全部ニ普及セシム可キナリ、是ヲ以テ卑職向ニ乏ヲ府知事ニ承クルニ際シ早已ニ此改正ノ一日忽諸ニ付ス可サルヲ悟リ、直ニ属僚ニ命シ以テ先ツ府下地勢ノ高低測量ヨリ創メ、終ニ市区改正意見ヲ草セシメ、而シテ今稍々其稿ヲ脱スル事ヲ得タリ、蓋シ意フニ街路・河渠ノ公衆ニ於ケル、本来種々ノ関係ヲ有シ、兵事ニ消防ニ衛生ニ、及ヒ商業・運輸等ニ至ルモ悉ク相牽連セサルモノナシ、決シ
 - 第28巻 p.19 -ページ画像 
テ一局部ノ利害ノミヲ以テ判定スヘキ者ニ非ズ、今其部署ヲ定ムルニハ、尤モ慎重ヲ加ヘズンハアル可ラサルナリ、故ニ政府其改正ノ今日ニ止ム事能ハサルノ情状ヲ察セラレ、幸ニ卑見ヲ裁可セラルヽニ至ラハ、予メ内務・陸軍・工部・農商務・警視ノ省庁及商工会等ニ命シテ各々委員ヲ派シ、卑職ト共ニ此案ニ拠テ互ニ討論上下シ、以テ其利弊得喪ノ係ル所ヲ明カニスル事ヲ得セシメハ是レ独リ卑職カ撫民ノ責ヲ塞ク事ヲ得ルノミナラス、府下永遠ノ利益果シテ此レヨリ興ルヘキナリ、今謹テ其意見書一、図面六、表八、意見書附録一、合十六種ヲ進達ス、時ニ及テ熟ク庿議ヲ尽サレ、速ニ裁可ヲ賜ハラン事切望ニ堪エス 謹言
  明治十七年十一月  日   東京府知事 芳川顕正
      追伸
   本文意見政府ノ裁可ヲ経テ、果シテ之ヲ実施スルノ機ニ至ルトキハ、夥多ノ費額ヲ要スヘキハ論ヲ俟タザルナリ、然而シテ今其費金ノ出処ヲ論セサル者ハ、卑職別ニ考フル所アリ、其方法如何ニ至テハ他日ヲ待テ政府ニ請フ所アラントス
○内務卿ハ東京府知事ノ上申ヲ納レ、之レヲ太政大臣ニ進達ス、其文左ノ如シ
    東京市区改正之儀ニ付伺 ○本文略
  明治十七年十一月十五日     内務卿 山県有朋
    太政大臣 三条実美殿
○太政大臣ハ前伺ニ対シ、同年十二月十七日内務卿ニ指令セラル、其文左ノ如シ
 伺《(太字ハ朱書)》ノ趣聞届、委員ヲ撰命シ審査セシムヘク候条、其省ニ於テ右会議ヲ開キ、査定ノ上更ニ伺出ヘシ、但其省ヨリ委員タルヘキ者四名ヲ撰ヒ可申出事
   明治十七年十二月十七日
○内務卿ハ市区改正ノ上申裁可ノ上、審査会開設ノ義ニ付、同年同月同日東京府知事ヘ指令ス、其文左ノ如シ
  書面上申之趣裁可相成、右審査会ハ於当省開設候条、此旨可相心得事
   明治十七年十二月十七日
                内務卿 伯爵 山県有朋
○太政官ハ同年同月十九日市区改正審査会長ヲ命スル左ノ如シ
                 内務少輔 芳川顕正
 東京市区改正審査会長被仰付候事
  明治十七年十二月十七日           太政官
○太政官ハ明治十八年一月二十三日市区改正審査委員ヲ命ス、其人名左ノ如シ
             工部大輔     井上勝
             内務省三等出仕  長与専斎
             陸軍少輔陸軍少将 小沢武雄
             内務大書記官   桜井勉
             内務大書記官   山崎直胤
         各通  砲兵大佐     黒田久孝
 - 第28巻 p.20 -ページ画像 
             農商務大書記官  品川忠道
             一等駅逓官    日下義雄
             一等警視     佐和正
             工部少技長    原口要
             二等警視     小野田元煕
             東京府少書記官  渡辺孝
 東京市区改正審査委員被仰付候事
  明治十八年一月二十二日          太政官
               東京府一等属 伊藤正信
 東京市区改正審査委員申付候事
  明治十八年一月二十二日           太政官
○内務省ハ同年同月廿三日商工会員ニ審査委員ヲ命ス、其人名左ノ如シ
                      渋沢栄一
                      益田孝
 東京市区改正審査委員申付候事
  明治十八年一月廿三日
                        内務省
○明治十八年二月五日東京府ヨリ品海築港ノ義ニ付上申書ヲ内務卿ニ呈出ス、其文左ノ如シ
    品海築港之儀ニ付上申
 案スルニ凡ソ都会ノ繁盛ヲ致セル所以ノモノハ政治若クハ通商ニ起因セサルハナシ、甲ニ因スル者ハ政権ノ聚散ニ由テ栄枯ヲ顕ハス事実ニ甚シク、乙ニ起レル者ハ一ニ貿易ノ振否ニ関シ、而シテ政権聚散ノ影響ヲ受クル事著シカラサルナリ
 今マ卑職熟々東京ノ地勢ヲ察スルニ、西北遥ニ武相常野ノ諸山ヲ負ヒ、而シテ東南海ニ面シ、又隅田・利根・多摩等ノ諸川ノ周囲ヲ環流スルアリ、中間平濶ニシテ渺茫トシテ際涯ナク、沃野千里実ニ天府ノ地タリ、其形勝豈ニ他ノ諸州ノ能ク肩ヲ比ス可キ者ナランヤ、然ルニ細ニ其裏面ヲ察スルニ、港湾アリト雖トモ甚タ浅ク以テ大船ヲ容ルヽニ足ラス、運河ノ便アリト雖トモ僅々東北数州ヲ牽連スルニ過キスシテ、未タ全ク海内商業ノ牛耳ヲ執ルニ堪エザルナリ、是レ吾人ノ従来憾ヲ遺ス所トス、是ヲ以テ昔載太田氏其居城ヲ此地ニ占ムルノ日ニ方テヤ、唯タ寥々乎タル一市邑ニ過キサリシモ、嗣テ徳川氏覇府ヲ開キ、天下ノ政権ヲ掌握スルヤ、諸侯ニ参覲交代ノ法アリ、家眷ハ玆ニ居住セサルヲ得サルノ制アリ、是ヲ以テ荒野頓ニ第宅ノ美ヲ現ハシ、街路忽チ車駕ノ繁ヲ極メ、百般ノ需用日ニ月ニ増進スルニ及ンテ、百工此ニ聚リ、商賈此ニ群リ、四方ノ貨物ヲ運入シ、以テ其需求ニ応スルニ至リ、市廛鱗次シ、民庶蟻集シ、遂ニ東海ノ一大都会トハナリタルモ、是レ海内ノ富庶ヲ強テ都下ニ集合セシムルノ政策ニ職トシテ由ラズンハアラサルナリ、故ニ幕府ノ末葉ニ於テ、其参覲交代ノ制ヲ解キ、家眷ヲシテ各々其州郡ニ放還セシムルニ及ンデヤ、士民之ニ従テ四方ニ離散スル者甚タ多ク、延テ維新ノ初メニ至テハ、所謂四里四方ノ大都モ殆ント往時ノ一市邑ニ
 - 第28巻 p.21 -ページ画像 
変セントスルノ傾向アリ、然ルニ爾後幾モナク帝都ヲ此地ニ定メラレシヨリ、向ニ離散シタル士民ノ復帰スルアリ、又新ニ居ヲ此地ニ移ス者アリ、方今ニ至リテハ再ヒ往時ノ昌盛ニ復セントスルノ勢アリ、固ヨリ彼ノ通商ニ因テ盛大ヲ致セル大坂等トハ其趣ヲ同フセサルナリ
 今夫レ大坂ノ地勢ヲ観ルニ、河海亦浅淤ニシテ、其便十分ナラズト雖トモ、之ヲ我東京ニ比スルニ其優レル事已ニ幾層トス、之ニ加フルニ其地タル四通八達ニシテ関西諸州ノ咽喉ヲ扼シ、而シテ貨物ヲ四方ニ配布スルニ甚タ便ナリ、故ヲ以テ当時西南諸州ノ貨物ヲ諸国ニ運スルヤ、一旦坂府ヲ経過セサルモノ殆ント稀ナリ、実ニ海内商業ノ中心ト謂フモ不可ナキナリ、是故ニ豊臣氏ノ居城一旦故坵ニ付シ、而シテ政権坂府ノ地ヲ払フニ至ルモ、常ニ海内通商ノ権ヲ執リ賈人商戸ハ依然トシテ其旧観ヲ改ムル事ナキナリ、由是観之、人為ノ都府ノ天然ノ都府ニ如カサルヤ昭々乎トシテ明カナリ、若夫レ人為ト天然ノ便ヲ併有スルノ都府ヲ得ルニ至テハ、其利豈ニ勝ケテ言フ可ンヤ
 然則東京ハ縦令ヒ其河海ノ便ヲ尽スモ政治的ノ都府タルニ過ス、而シテ到底商業的ノ都府トナス事能サハル乎、曰ク否、只タ未タ曾テ善良ノ工事ヲ起シ、之レカ利用ヲ試ミサルノミ、之レニ善良ノ工事ヲ施シ、内外ノ大舶ヲシテ自由ニ出入スル事ヲ得セシムルハ、蓋シ甚難ノ事ニ非ザルナリ
 夫レ東京ハ我大八洲ノ首府タリ、単ニ武蔵国ノ首府ニ非ザルナリ、況ヤ又タ外国互市ノ場ト定メラレタルニ於テヲヤ、於是務メテ河海ヲ浚鑿シ、以テ船舶ノ出入ヲ便ニシ、道路ヲ改修シ、以テ車馬ノ来往ヲ自在ニシ、水道及下水ヲ改良シ、以テ人士ノ健康ヲ進メ、或ハ家屋ヲ改築シ、以テ祝融ノ害ヲ防キ、或ハ歌舞音曲場ヲ改良シ、或ハ遊園ヲ設ケ、以テ精神ヲ慰シ、耳目ヲ娯マシムル等ノ如キハ、寔ニ今日府政ノ止ム可カラサルモノトス、是ヲ以テ卑職曩ニ市区改正ノ意見ヲ草シテ之ヲ進達セシニ、幸ヒニ卑見ヲ納レ、速ニ裁可ヲ賜ハリ、現ニ其審査会議ニ付セラルヽニ至ル、則チ品海築港ノ挙亦一日忽諸ニ付ス可ラサルナリ、蓋シ市区改正ノ挙タル、道路ヲ拡ケ、橋梁ヲ堅クシ、河川ヲ浚渫シ或ハ新ニ之ヲ開鑿スル等、固ヨリ水陸運輸ノ便ヲ尽スノ方法タリト雖トモ、苟モ固有ノ港湾ヲ浚鑿シテ以テ大船ヲ容レ、而シテ海陸ノ便ヲ併有スルニ非スンハ、亦只タ旧来ノ便ヲ益スニ過キサルノミ、若シ大舶ノ自由ニ出入シ、以テ海内外ノ貨物ヲ運輸スル事ヲ得セシメハ、則チ東京ヲシテ独リ政策ノ力ニ之レ由ラス、通商的ノ便益ヲ併有シテ、以テ益々昌盛ノ域ニ進マシムル事ヲ得ヘキナリ、是レ品海築港ノ今日ニ止ム事能ハサル所以ナリ
 是ヲ以テ曩ニ卑職海軍省水路局ニ協議シ、又僚属ニ命シ、先ツ品海ノ深浅ヲ測量セシメ、頗ル其実際ノ利弊ヲ討論考究シ、尚内務省土木局傭工師蘭人ムルドル氏ノ意見ヲ問ヒ、遂ニ別紙図面ノ如ク築港ノ計画ヲ遂ケタリ、或ハ云フ品海築港ノ挙美ハ則チ美ナリト雖トモ費額甚タ多クシテ策ノ得タルモノニアラス、京浜間既ニ鉄道ノ布設
 - 第28巻 p.22 -ページ画像 
アリ、寧ロ横浜若クハ相州地方ニ於テ天然ノ地形ヲ選ミ良港ヲ設ケ而シテ単ニ隅田川ノ下流ニ就テ小船ノ繋留シ得ヘキ一小川港ヲ設クルノ優レルニ如カズト、今或氏ノ説ヲ考フルニ、是レ一論ナリト雖トモ、唯タ目前ノ小利ヲ見テ、深ク府下永遠ノ利益ヲ図ラサルモノニ似タリ、蓋シ宇内各国運輸最モ盛ナルノ地ニ於テ、人工ヲ加ヘ以テ良港ヲ造成セルモノ其例少シトセス、蘇格蘭ノ「グラスゴー」港ノ如キハ其最モ著シキモノニシテ、十数年前ニ在テハ其深サ僅カニ十尺内外ニ過ギサリシカ、今日ニ在テハ大西洋ヲ航行スル巨大ノ船舶ヲ容易ニ出入スルニ至レリ、其他英国ノ「リバルプール」、米国ノ「ニユーヨルク」等ノ良港ノ名ヲ得タルモ亦常ニ人工ヲ以テ浚鑿セルニ非ザルハナシ、況ヤ品海ハ敢テ工ヲ施シ難キ所ニ非サルニ於テヲヤ、此レ卑職カ愈々築港ノ挙ニ熱心シテ止ム事能ハサル所ナリ
 然リト雖トモ築港ノ挙タルヤ、亦至大至重ニシテ其関係スル所甚タ広シ、決シテ軽々看過スヘキ者ニ非サルナリ、故ニ政府幸ニ卑見ノ其正鵠ヲ失スル事ナシトシ、而シテ的当ノ委員ヲ選ビ其審査ニ付シ彼ノ市区改正ト並ビ行ハルヽニ至テハ、果シテ東京ハ政治及通商ノ二利ヲ兼併スルノ都府トナシ、以テ永ク東洋ノ一大都府トナス事ヲ得ルハ期シテ待ツヘキナリ、今謹テ図面並ニ工事解説書・工師意見書ヲ進達ス、伏望ムラクハ速ニ廟議ヲ尽シ、府下将来繁栄ノ基礎ヲ確定セラレン事ヲ 謹言
  明治十八年二月五日      東京府知事 芳川顕正
      追申
  本文亦其費額ノ出処ヲ論セサルモノハ、彼ノ市区改正ノ費額ト共ニ、其方法ヲ定メ、不日将サニ上請スル所アラントス
    築港工事解説書
玆ニ計画スル所ノ東京湾築港ハ内務省土木局傭工師蘭人「ムルドル」氏ノ調査ニ係ル深港策ニ基キタルモノニシテ、図 ○略ス 上ニ示ス如ク、隅田川口西派ヲ塞断シ、東派ヨリ全流ヲ海ニ注ギ、而シテ更ニ突堤ヲ築キ、海ニ向テ漏斗ノ状ヲ為シタル大池ヲ造ルニアリ、永代橋上流隅田川改修ノ工事ハ、自ラ別問題タルヲ以テ玆ニ掲ズト雖モ、今企図スル所ノ深港策ノ目的ヲ完全ナラシムルニハ、其下流ヲ制治センガ為メ左ノ工事ヲ施スベキモノトス
 第一 隅田川口西派ヲ塞断スル為メニ、霊岸島石川島間ニ於テ緩ナル彎曲ヲ為シ、延長弐百四拾間ノ粗朶工導流堤ヲ設クベシ
 第二 永代橋際ヨリ越中島沖ニ達スル全長六百八拾間ノ導流杭柵ヲ設クベシ
 第三 石川島東端ヨリ南ニ向ヒ延長千四百五拾間ノ導流杭柵ヲ海中ニ設クベシ
 第四 前項導流杭柵ヲ猶ホ延長シ、東南ニ向ヒ緩ナル彎曲ヲ有スル同長ノ粗朶工導流堤ヲ設クベシ
粗朶工導流堤ノ構造ハ、海底ノ深浅ニ随ヒ幾層ノ沈床ヲ為シ、捨石ヲ以テ之ヲ覆ヒ、堤頭ヲ低水面ノ高ニ達セシムルニアリ、導流杭柵ノ構造ハ、東京湾澪浚工事ニ使用セシ導流杭柵ニ異ナルコトナシ
 第五 隅田川東川口ヨリ導流杭柵ニ沿ヒ、延長約ソ千間浚渫ヲ施ス
 - 第28巻 p.23 -ページ画像 
ベシ
以上ノ工事ハ川ト港トヲ全ク区別シ、而シテ隅田川下流ヲ制治スルニ必用ナルモノニシテ、左ニ掲グル所ハ築港工事ノ本体ヲ為スニアリ
 第一 石川島第三砲台間ニ於テ、上幅拾壱尺延長千七百拾間ノ突堤ヲ設クベシ
 第二 第一・第四及品川砲台ヲ相結ヒ、上幅拾五尺全長四百四拾間ノ突堤ヲ設クベシ
 第三 第三・第四砲台ヨリ南々東ニ向ヒ、上幅拾五尺全長四千六百〇五間ノ突堤ヲ設クベシ
突堤ノ構造ハ、海底ノ深浅ニ随ヒ一層或ハ二層ノ沈床ヲ為シ、捨石ヲ投ジ之ヲ覆ヒ、堅牢ナル基礎ヲ造リ以テ石壁ヲ築キ、最高潮面上ニ突出セシムルニアリ、抑モ突堤ヲ設ケ其海ニ向テ突出セル部分ニ漏斗ノ状ヲ与ヘシモノハ、一ニハ別冊工師意見書ニ記スル如ク、沿岸ト相結デ大池ヲ為リ、満潮ニ方リ潮水ヲ以テ之ヲ満タシ、干潮ニ方リテハ其瀦溜セル大量ノ水ヲ漸々狭窄セル漏斗口ヨリ放下セシメ、之ニ因テ生ズル速力ヲ以テ港口ノ変更ヲ防グニアリ、二ニハ海面遠隔ノ点ヨリ来レル波浪ヲ撃砕シ、港内ノ船舶ヲ保護スルニアリ、三ニハ波浪ノ流送スル土砂等ヲ港外ニ停ムルニアリ
 第四 石川島以南ニ於テ延長約ソ五百間ノ箇所ヲ埋立テ、其西岸ニ接シ面積大約壱万六千坪ヲ有スル船渠ヲ設ケ、其入口ニ於テ内ノ方ニ開ク所ノ扉ヲ具スベシ
 第五 霊岸島・石川島間ニ於テ幅員三拾間延長百〇八間ノ締切ヲ設ケ、其南岸石垣ヲシテ低水下弐拾三尺以上ノ深サニ達セシムベシ
 第六 締切ヨリ高橋稲荷橋ニ沿ヒ鉄砲洲・海岸通・築地川口ニ至ル海岸ハ、凡テ之ヲ改造シ、新設石垣ヲシテ同ジク低水下弐拾三尺以上ノ深サニ達セシムベシ
 第七 港内ハ凡テ低水下弐拾三尺ノ深サニ浚渫スベキ計画ナリト雖モ、目今ニ在リテハ図上距点線ヲ以テ示ス如ク、延長大約五千七百間幅員平均百五拾間ヲ浚渫スルヲ以テ足レリトス
 第八 第五砲台ハ澪筋ニ係ルヲ以テ直チニ之ヲ撤却シ、将来全港ノ浚渫ヲ施スニ至テハ第六砲台ヲモ撤却スベキモノトス
 第九 突堤両端及芝離宮・石川島・第二砲台ノ五箇所ニ於テ灯台ヲ設ケ、入港船舶航行ノ便ニ供スベシ
以上ノ計画ニ依ルトキハ、石川島ヨリ築地川口ニ達スル海岸ハ、低水下弐拾三尺以上ノ深サニ達スルヲ以テ、桟橋等ノ設ケヲ借ラズシテ汽船ヲ直チニ岸面ニ近接スルヲ得ベク、而シテ其全長千間以上ナルヲ以テ、長サ五拾間内外ノ船舶ト雖モ一時ニ弐拾艘以上ヲ岸面ニ繋ギ、貨物ヲ上下スルヲ得ベシ、又石川島ノ南ニ方リ船渠ノ設ケアリテ、数多ノ船舶ヲ之ニ入ルヘク、而シテ内ノ方ニ開ク所ノ扉ヲ設クルモノハ、吃水三拾尺以上ノ大汽船ト雖モ、渠内ニ在テハ潮ノ干満ニ係ラズ貨物ヲ上下シ、満潮ヲ竢テ出入スルヲ得セシムベキ装置ナリ、其運搬シタル貨物ハ、船渠ヨリ石川島ニ達スル適当ノ線路ヲ設ケ、締切ヲ経テ之ヲ市街ニ運送スルヲ得ベク、又其直チニ分配ヲ要セザル貨物ハ、船渠ノ周囲ニ於テ数多ノ倉庫ヲ築造シ、一時之ヲ儲蔵スルヲ得ベシ、而シ
 - 第28巻 p.24 -ページ画像 
テ芝離宮以北ニ於テ面積三万五千坪余ナル船溜リノ設ケアルヲ以テ、数十艘ノ船舶之ニ碇泊セシムルヲ得ベキガ故ニ、目今ノ商運ニ在リテハ充分ナル計画ト云フベシ、而シテ商業益々隆盛ニ赴クニ随ヒ、漸々港内ヲ浚渫スルニ於テハ、芝品川沿岸ニ於テ随意ニ船渠或ハ桟橋等ヲ設クルヲ得ベシ、又石川島ノ南ニ方リ図上断続線ヲ以テ示シタルハ、将来埋築ノ工事ヲ施シ、船渠等ヲ之ニ設クルヲ得ヘキナリ
    築港工費概算
一、永代橋際ヨリ越中島沖ニ達スル導流杭柵
                        延長 六百八拾間
  此工費金四千六百拾四円四拾銭
                        但壱間ニ付
                        金六円七拾八銭六厘弱
一、霊岸島ヨリ石川島ニ達スル粗朶工導流堤
                        延長 弐百四拾間
  此工費金弐万五千六百拾五円八拾銭
                        但壱間ニ付
                        金百〇六円七拾三銭弐厘弱
一、石川島ヨリ突堤外ニ沿ヒ新築スベキ導流杭柵
                        延長 千四百五拾間
  此工費金九千八百三拾九円七拾銭
                        但壱間ニ付
                        金六円七拾八銭六厘
一、突堤外ニ沿ヒ新築スベキ粗朶工導流堤
                        延長 千四百五拾間
  此工費金八万〇六百〇八円七拾六銭五厘
                        但壱間ニ付
                        金五拾五円五拾九銭弐厘余
一、隅田川東川口浚渫
                        長千間
                        土積七千九百三拾立坪
  此工費金五千九百四拾七円五拾銭
                        但壱坪ニ付
                        金七拾五銭
一、霊岸島ヨリ石川島ニ渡ル締切
                        上幅三拾間
                        長百〇八間
  此工費九万四千四百九拾五円弐拾銭
                        但壱間ニ付
                        金八百七拾四円九拾四銭六厘余
一、締切ヨリ高橋稲荷橋ニ沿ヒ鉄砲洲河岸通
  海軍省ノ北築地川口ニ至ル護岸
                        延長 九百五拾間
  此工費金六拾六万五千円
                        但壱間ニ付
                        金七百円
                        台場外幅拾五尺、長五千〇四拾五間
一、東西両側突堤
                        台場内幅拾壱尺、長千七百拾間
  此工費金四百七拾六万円
一、船渠                    壱箇所
  此工費金七拾五万九千四百八拾三円
一、埋立箇所護岸石垣              八百拾五間
                        但壱間ニ付
  此工費金八万千五百円             金百円
一、築港用諸器械
  此代価金五拾万円
 - 第28巻 p.25 -ページ画像 
一、澪標                    弐拾箇所
                        但壱箇所
  此工費金六千円                金三百円
一、灯台                    五箇所
                        但壱箇所
  此建築費金五万円               金壱万円
一、灯台番人小家                壱箇所
  此建築費金弐百五拾円
一、澪筋浚渫(平均深弐拾尺 平均幅百五拾間)  長五千五百間
  此土積弐百八拾五万立坪
  此費用金四百弐拾七万五千円
                        壱坪ニ付
                        但金壱円五拾銭
一、第五砲台撤却                壱箇所
 此工費金九万九千三百円六拾銭
  合金千百四拾壱万七千六百五拾四円九拾六銭五厘
  外ニ
  金百拾四万千七百六拾五円四拾九銭六厘五毛  予備費
 総計 金千弐百五拾五万九千四百弐拾円四拾六銭壱厘五毛
    品海築港之義ニ付上申
品海築港之儀ニ付、別紙ノ通東京府知事芳川顕正ヨリ意見書提出セルヲ以テ、即致稟申候、抑都府ノ繁盛ヲ致セル所以ノモノハ、一ハ政権ノ集散、治務ノ挙息ニ職由スト雖モ、亦通商上ノ便否如何ニ基クモノ鮮シトセズ、而シテ通商上ノ便否ニ付最モ関係ヲ有スルモノハ、商品即チ貨物ノ由テ以テ輸出入スル所ノ港湾及道路ノ良否如何ニアルハ蓋言ヲ竢タザルナリ、夫東京ハ輦轂ノ下海内ノ首府ニシテ、尚且外国互市ノ場ヲ占メ百貨輻輳ノ地タレバ、輸出入上ノ便否ハ宜シク特ニ講究スベキナリ、然ルニ陸運ハ暫ク措キ、水運ノ便ニ至テハ、東京湾ノ以テ大船巨舶ヲ出入セシム可カラザル其実況夫レ如此ナレバ、宜シク今ニ及ンデ之ガ改良ノ策ヲ図リ、以テ帝都ノ繁栄ヲ無窮ニ期スベキナリ爰ニ其意見書ニ拠ルニ、計画ノ方法順序概ネ宜キヲ得ルガ如クナレバ経費支弁ノ方法ハ予メ事業ノ目的ヲ定メ、然ル後此ニ議及スルモ亦晩キニアラザルベシ、因テ東京府知事意見書ノ旨趣御裁可相成、嚮ニ稟申ノ末命ゼラレ居候東京市区改正審査委員ヘ該件ノ審査ヲモ命ゼラレ候様致度、尤モ本件ノ義ハ海軍省関係ノ廉モ不少ニ付、同省ヨリモ委員二名選名セラレ度、海軍省ヘノ御達案及東京府ヘノ指令案相添此段相伺候也
  明治十八年二月廿七日   内務卿 伯爵 山県有朋
    太政大臣 公爵 三条実美殿
太政大臣ハ前伺ニ対シ三月廿四日内務卿ニ指令セラル、其文左ノ如シ
 伺之通聞届候条《(太字ハ朱書)》、東京市区改正審査会ニ於テ査定為致候上、更ニ伺出ベシ
   明治十八年三月廿四日
内務卿ハ品海築港上申裁可ノ上、東京市区改正委員審査《(之脱カ)》ニ付セラルヽ旨、同月廿六日東京府知事ニ指令セラル、其文左ノ如シ
 書面上申之趣裁可相成候ニ付、該方案、東京市区改正委員之審査ニ附シ候条、此旨可相心得事
   明治十八年三月廿六日        内務卿 伯爵 山県有朋
 - 第28巻 p.26 -ページ画像 


東京商工会議事要件録 第八号・参考部第一頁 明治一八年一月刊(DK280002k-0002)
第28巻 p.26 ページ画像

東京商工会議事要件録  第八号・参考部第一頁 明治一八年一月刊
    東京市区改正審査委員撰挙ノ儀ニ付東京府知事ヨリ達
                      東京商工会
今回於内務省中東京市区改正審査会可被開ニ付、委員タル可キ者二名撰出可致旨、其筋ヨリ照会有之候条、至急撰定ノ上可申出、此旨相達候事
  明治十七年十二月二十二日
                東京府知事 芳川顕正


東京商工会議事要件録 第八号・第三―六頁 明治一八年一月刊(DK280002k-0003)
第28巻 p.26 ページ画像

東京商工会議事要件録  第八号・第三―六頁 明治一八年一月刊
  第四定式会
         (明治十七年十二月二十五日午後五時三十分開会)
  第八臨時会
    会員出席スル者 ○四十五名
○上略
会長(渋沢栄一)ハ先ツ開会ノ趣意ヲ告ゲ、左ノ件々ヲ報告シテ委員ノ意見ヲ問フ
○中略
○東京市区改正審査委員撰挙ノ件
  今般内務省中ニ於テ東京市区改正審査会ヲ開カルベキニ付、本会ヨリモ委員タルベキ者二名ヲ撰出スベキ旨、去ル二十二日附ヲ以テ東京府知事ヨリ通達アリシニ付、乃チ会長(渋沢栄一)ハ之ヲ衆員ニ報告シ、且ツ曰ク、抑モ市区改正ノ事タル、規模宏大、成功遼遠ニシテ、政治ニ、兵事ニ、衛生ニ、警察ニ、商工業ニ、皆至大ノ関係ヲ有セザルハナシ、故ニ現任府知事ハ其筋ノ裁可ヲ経テ、之ニ関係アル各部ノ官衙ヨリ委員ヲ撰挙シテ、充分ニ之ヲ審査セシムル事ニ決シタル趣ナルガ、本会ハ固ヨリ法律ニヨリテ成立シタルモノニハ非ズト雖トモ、ヤヽ府下商工業者ノ輿論ヲ代表スルニ足ルベキノ設立ナルガ故ニ、同ジク其筋ノ裁可ヲ経テ此達ヲ発セラレタルモノナリト、乃チ其委員ノ撰挙方ニ就キ各員ノ意見ヲ問フタルニ、遂ニ衆議ノ上、一同ヨリ現任会頭及副会頭 ○益田孝両人ニテ直チニ其任ニ当ラレタキ旨ヲ請求シタルニ付、両人共之ヲ承諾セシガ、会長(渋沢栄一)ハ更ニ衆員ニ向ヒ、斯ク両人トモ各員ノ推薦ニ応ジタル上ハ、不肖ナガラ充分其任ヲ尽スベシ、就テハ向後此審査員会議ノ景況ハ時々本会ニ報道スベク、又其模様ニヨリテ本会各員ニ就テ調査ヲ要スル事アレハ之レヲ通知スヘキニ付、各位ハ我カ事務トシテ之レヲ分担セラレン事ヲ望ムノ旨ヲ述ヘ、一同之レヲ領承セリ


稟申録 市区調査委員局 明治一七年一一月起(DK280002k-0004)
第28巻 p.26-27 ページ画像

稟申録 市区調査委員局  明治一七年一一月起
                     (東京府文庫所蔵)
乾地第四七号ノ内昨十八日付御照会之趣致承知候、東京府商工会員ヨリ委員ヲ撰命ノ義ハ東京市区改正審査会長ニ任セラレ候義ニ有之、別段御達ハ無之候条右様御承□《(知)》相成度、此段及御回答候也
 - 第28巻 p.27 -ページ画像 
                      内閣書記官
    内務大書記官 山崎直胤殿

    東京市区改正審査会議事章程
一本会ノ開閉ハ会長之レヲ定メ、其日時ヲ各委員ニ通報ス
  但会長要用ナリト認ルトキハ会議ヲ中止スル事アルヘシ
一委員着席ノ順序ハ鬮ヲ以テ之レヲ定メ、毎会其席ニ着クヘキモノトス
一委員ノ出席半数已上ニ満タサレハ会議ヲ開ク事ヲ得ス
一本会ハ熟議款説ヲ旨トス、然レトモ議席ニ於テ喫煙・飲食及私語スヘカラス
一審査ノ順序ハ会長会場ニ於テ之ヲ指示スヘシ
一委員議案ノ疑義ヲ質サント欲スルトキハ、会長ノ許可ヲ得テ臨席ノ主任者ニ対シ、其弁明ヲ求ムル事ヲ得ヘシ
一委員発言セントスルトキハ、必会長ニ向テ之ヲ述フヘシ
 若シ二人已上同時ニ発言スルトキハ、会長先ツ其一人ヲシテ発言セシム
一可否ヲ決スルハ多数ニ依ル、可否同数ナルトキハ会長之レヲ決ス
一委員修正説ヲ発シ賛成者アルトキハ、会長之レヲ問題トシテ審議セシムヘシ
一調査若クハ修正ヲ要スル事アルトキハ会長ノ意見若クハ委員ノ決議ニ依リ小会議ヲ開キ、又ハ数員ヲ選挙シテ之ヲ附託スル事アルヘシ
一会長事故アリテ出席シ難キトキハ、委員中ニ就キ一人ヲ指名シテ代理セシムル事アルヘシ
一委員中事故アリテ出席シ難キモノハ開会前其旨ヲ会長ヘ報告スヘシ


官報 第四六九号 明治一八年一月二六日 官庁彙報(DK280002k-0005)
第28巻 p.27 ページ画像

官報  第四六九号 明治一八年一月二六日
    官庁彙報
○渋沢栄一外壱名ハ内務省ニ於テ一昨廿四日左ノ通申付ケラレタリ
 東京市区改正審査委員申付候事       渋沢栄一
 東京市区改正審査委員申付候事       益田孝


東京市史稿 東京市役所編 港湾篇第四・第二一三―二二三頁 大正一五年一二月刊(DK280002k-0006)
第28巻 p.27-31 ページ画像

東京市史稿 東京市役所編  港湾篇第四・第二一三―二二三頁 大正一五年一二月刊
 ○第二章 第二節 本記 帝都時代ノ港湾(二)
   品海築港審査事蹟
品海築港審査 東京市区改正品海築港審査議事筆記ニ拠レバ、品海築港審査会ハ、明治十八年四月卅日品海築港ニ関スル東京府知事ノ意見書ヲ附議ス。出席委員十四名 ○四名闕席《(原註)》。会長芳川内務少輔 ○顕正。品海築港ノ附議ヲ宣シ、先ヅ築港計画大体ノ可否ヲ問フ。柳海軍少将曰フ、
 世間ニ、品海築港アレバ横浜ガ成リ立ツマイトノ論アルガ、私ハ左様ナル見込ナシ。尤是ハ別問題タルニヨリ、別テ玆ニ論ゼザルカ、一体品海ハ打開ケテ居レドモ、唯南風ノ折リニハ困難アルノミ、敢テ不良港ト云フニアラズ。然レドモ只今ノ姿ニ任セアリテハ、到底不便ニテ、実ニ府知事ノ建言ニ陳ベタル通リナリ。故ニ兎ニ角港ハ
 - 第28巻 p.28 -ページ画像 
之ヲ新築スベキカ。此考案ヲ篤ト審査スルニ、入費ノ割合ニ繋船ノ場所狭キヲ覚フルナリ。彼ノ「グラスゴー」ノ如キ、元ハ其深サ五尺ニ過ギザリシニ、今ハ大船ノ繋留シ得ベキ良港トナレリ。而シテ其費用ヲ見ルニ、蘇国旅案内ニ載スル所ハ五百五十万磅金ナリト云フ。今品海築港ノ費金ハ凡ソ「グラスゴー」ノ半額ヲ掛ケテ、其得ル所ハ僅ニ二三十艘ノ船ヲ停泊シ得ベキ五十「ヱークル」ノ地ニ過ギズ。其先キニ三万坪アリトスルモ二三十艘ヲ増スニ止マレリ。折角新港ヲ築クナレバ、責メテハ二三百「ヱークル」ノ地アルニアラザレバ、其功ナカルベシ。「マルセイユ」ハ三百五十「ヱークル」アリ又「スウエス」海峡ノ船泊リト雖モ九十「ヱークル」ノ上ニアリ。然ルニ首府ノ港湾ニ沢山ノ費金ヲ掛ケ、而シテ五十「ヱークル」ニ過ギズトハ、其甲斐ナキヲ怖ルヽナリ。千二百六十万円ヲ三十艘ニ割付ケ見レバ、一艘四百万円余ニ当ル比例ナリ。是レニテハ余リ入費多キ如シ。又船渠ナルモノモ、十三「ヱークル」ニテハ雛形ニ類スルナラズヤ。依テ考フルニ、三百「ヱークル」位ノモノヲ作リテモ、入費ハ此位ニテ出来スベキナラン。此西ノ締切ニ池ノ如キモノヲ作ルモ可ナルベシト雖モ、大川ハ東ヨリ流レ出デ、而シテ洲ノ生ズルハ砂ノ吹上ゲ多キニヨレリ。今一年ノ強風ヲ統計スルニ、南風若クハ西南風多ク北風ノ吹ク度数ハ多シト雖モ、其方ハ強カラズ、故ニ西南風ノ吹上ニヨリテ埋ルモノト思惟セラル、若シ玆ニ締切ヲ作ルナレバ、上総澪口浅クナルナラン。此大川ニ対シ上総澪ヲ捨ルモ惜ムベキニヨリ、双方ノ便利ヲ併セ得タシ。然ランニハ締切ハ得
 品海築港審査会場之図 会長 芳川内務少輔 書記 書記 樺山海軍大輔 小沢陸軍少輔 長与内務省三等出仕 桜井内務大書記官 黒田砲兵大佐 日下一等駅逓官 原口工部少技長 伊藤東京府一等属 渋沢栄一 益田孝 渡辺東京府少書記官 小野田二等警視 佐和一等警視 品川農商務大書記官 山崎内務大書記官 三島内務省三等出仕 柳海軍少将 井上工務大輔
 策ニアラズ。且ツ其方面狭カルベシ、台場ヨリ金杉迄ニテ凡ソ九百六七十「ヱークル」ノ場所アレバ、此中ニ付テ三百「ヱークル」程ノ繋船所ハ十分ニ築キ得ベキヲ以テ、其方法ニ改メタシ。
益田孝・山崎内務大書記官ヨリ軍事関係ニ就キテ質問スル所有リ。柳少将、海軍ノ防禦線ハ今少シ先キノ処ニアリ、単ニ商港ヲ目的トシテ築造シテ可也ト答ヘ、小沢陸軍少輔亦個人トシテ、差支ナカル可シトノ意見ヲ陳ブ。桜井内務大書記官云フ、築港ニ付キ此上ノ関係ハ横浜ニアリ、横浜ハ之ガ為メニ衰微ヲ来タスモ知ルベカラズト雖モ、寧ロ横浜ハ潰ルヽモ已ムヲ得ズトナシ、断然執行スベキナリ。」ト。柳少将
 - 第28巻 p.29 -ページ画像 
之ニ同意シ、横浜ハ埋リ強ク良港ニ非ズ、東京ノ川ノ土砂ヲ吐出スコト少ナク、頗ル築港ニ便ナルニ如カズト説ク。益田孝亦云フ、
 築港ニハ誰モ異存アルベキニアラザルモ、唯工事ノ難易ニヨリ、近クニ容易キ処アルナレバ、其ヲ捨ルニ及バズト云フ比較論アルノミ工事ハ能ク知ラザレドモ、大抵ノ難儀ガ東京ニアリテ、大抵ノ便利ガ横浜ニアルニモセヨ、今日ノ商売上ヨリ論ズレバ、寧ロ東京ヲ選ムニ如カズ。縦ヒ横浜ニ築港シタリトテ、東京ヘ入ル荷物ハ、鉄道ニヨルカ、或ハ艀ニヨラザルベカラズ。十三年ノ水上警察ニテ取調ベシモノニヨレバ、東京ヘ入ル荷物ハ凡ソ千八百万石ナリト云フ。之ヲ悉ク横浜ニテ卸スコトヽナリテハ、随分大騒ギ、現ニ今日運輸会社ガ五六艘ノ船ニテ運送スルニ、二百六十艘ノ艀ヲ要スルナリ。二十四時間ニテ神戸ヨリ来リテモ、荷物ノ卸シニ三日掛リ、一噸二円ノ運賃ノ外ニ二十五銭ノ艀賃アリテ、殆ド運賃ノ二割五分ヲ払ヒ居レリ。此損失ハ七里ノ間ニ消費スルモノト云フベシ。 ○中略《(原註)》 既ニ然ラバ無論東京ヘ築港スルヲ利トスルナリ。
品川農商務大書記官モ之ヲ賛シ、柳少将ハ艀舟ノ難破多キヲ数フ。同少将・原口工部少技長等ノ間ニ、技術上ニ関スル論難有リ、柳・品川渋沢・原口・益田五人ヲ特別委員ニ挙ゲ、築港方法ヲ調査セシム。
六月十六日第二回審査会ヲ開ク。欠席者八名、特別委員修正案ヲ報告ス。
      品川湾築港工事修正案
 東京府知事ノ原案ニ拠レバ、品海築港方法ノ概略ハ、霊岸島ト石川島トノ間ニ於テ、隅田川ノ西流即チ本澪筋ヲ塞断シ、石川島ヨリ第三砲台ニ達シ、夫ヨリ南シテ干潮下二十三尺ノ深処ニ至ルノ突堤及ビ北品川海岸砲台ニ起リ、第四・第一砲台ヲ経、同ジク南々東ニ向ヒ、深処ニ至ルノ突堤ヲ築キ、以テ砲台以西ニ一大池ヲ造リ、砲台以南ノ航路ハ漏斗状ヲ為サシメ、又佃島ニ続キ、五百間ノ海面ヲ埋立、之ニ船渠ヲ設ケ、高橋以南鉄砲洲・築地海岸ノ護岸ヲ改修シテ之ニ船舶ヲ繋留スルヲ得セシムルノ計画ナリ。而シテ其規模ハ、大船凡三十艘ヲ容ベク、其費額ハ一千二百余万円トス。然ルニ前会ニ於テ其規模ノ過小ナルト、隅田川本流ヲ遮断スルノ不便ナル等ニ付キ議論少カラザリシヲ以テ、会長特ニ我輩五名ヲ指名シテ修正案取調ノ事ヲ依嘱セラレタリ。因テ我輩ノ意見ヲ報道スル左ノ如シ。
 抑品海築港ノ挙タル、其関係極メテ広ク、利害ノ及ブ所特リ東京ノミナラズ、海内ハ勿論東洋ノ通航貿易上ニ係ルモノニシテ、実ニ至大至重ノ事業ナルヲ以テ、其計画ヲナスニ方リテハ最モ慎重ヲ加ヘザルベカラズ。仮令学術経験ニ富メル工業家ノ説ト雖モ、一人一己ノ所見ニ依リ軽々断定スベキ事ニアラズ、必ズ善ク実地ノ状況ヲ調査シ、又内外諸港ノ実際ニ徴シ、或ハ汎ク有名ナル工師ノ定見ヲ詢ヒ、而シテ其差誤ナキヲ保シテ然ル後ニ之ヲ定ムベキナリ。故ニ今之ガ修正ノ計画ヲ定ムルハ寔ニ至難ノ事ニシテ、我等ノ敢テ当ルベキ所ニアラズト雖モ、聊審議考覈セシ所ヲ略陳シ、以テ其ノ責ヲ塞グ。」
 東京築港ノ計画ヲ為スニ方リ、最モ重要ナル事件ハ、隅田川筋ヲ利
 - 第28巻 p.30 -ページ画像 
用シテ流水港ヲ造リ得ラルベキヤ否ノ問題ヲ講究スルニ在リ「ムルドル」氏ノ如キハ、本流及支川ノ水ニ含有スル泥沙ノ量夥多ナルヲ以テ、仮令一旦川筋ヲ浚渫スルモ、終ニハ泥沙ノ為メニ塡塞セラレ所要ノ深サヲ保存スルコト至難ナルベシト云ヒ、又他ノ論者ハ、隅田川ノ水ハ江戸川・中川等ニ比スレバ泥沙ヲ流下スルコト甚ダ少シ又仮令多少ノ汚物ヲ含有スルモ、川輻ヲ制治シ流ヲ束ヌルニ於テハ流勢大ニ増加スルヲ以テ、澪筋ニ泥沙ヲ沈澱セシムルノ虞ナシト云ヒ、孰レガ其当ヲ得タルカハ、川筋上流ノ実況ヲ調査シ、多年ヲ期シテ含有泥土ノ量ヲ測定シ、又前陳外国諸港ノ実例ニ徴スル等、飽マデ審査講究シタル後ニアラザレバ判定スベカラザルナリ。然レドモ若シ或人ノ説ノ如ク容易ニ川筋ノ深ヲ保存シ得ラルベキモノトスレバ、石川島ニ於テ本流ヲ塞断スルト否トノ便不便ハ多言ヲ待タズシテ瞭然タリ。因テ暫ク其説ヲ採リ、玆ニ我輩ノ適当ト認ムル川港ノ計画ヲ定ム。其方法ノ概略ハ、隅田川ノ東派即チ上総澪口ヲ塞断シ、全流ヲ西派ニ導キ、永代橋下ニ於テ川幅ヲ凡百間トシ、漸次之ヲ広メテ品川砲台ノ南ニ至リ凡百五十間ニ制治シ、佃島ノ南埋立地ノ尽ル所ヨリ澪筋ノ両側ニ麁朶工導流柵ヲ設ケテ波浪ノ為ニ流送スル所ノ土砂ヲ防遏スルニ供ス。其疏鑿ハ新大橋以下深サ低水二十四尺ニ至ル。又永代橋下石川島及ビ佃島ニ聯続シテ埋地ヲ作リ、其西岸ニ大小九箇所ノ船渠ヲ櫛状ニ設ケ、其対岸箱崎町・霊岸島・鉄砲洲・明石町・小田原町等ノ東岸ニモ、亦同状ノ船渠十二ケ所ヲ築造ス。
 箱崎町東岸ノ船渠ハ其最モ小ナル者ニシテ、永代橋下ヲ通過シ得ベキ小形ナル船舶ヲ容ルヽノ用ニ供シ、下流小田原町並ニ対岸ニ設クル所ノ二大渠ハ閘門ヲ開鎖シ、干潮ノ時ニ在テモ常ニ満潮ノ水面ヲ保チ得ルノ装置アルヲ以テ、吃水二十三尺以上ナル大船ヲ容ルヽノ用ニ供スル目的ナリ。此二十一ケ所ノ船渠内外船舶ヲ繋留スベキ岸面ノ全長ハ一万六千間余ニシテ、二百余隻ノ大船ヲ繋グニ足ルベシ又船松町ヨリ佃島ニ渡ル新橋ヲ架設シ、其橋ノ中央ニハ廻転ノ装置ヲ附シ、桅檣ヲ樹立セル船舶ノ通過ニ便ナラシム。」
 澪筋ヲ制治シ全流ヲ束ヌルニ於テハ、水流速度ヲ増スガ為メ日本形小船ハ之ニ溯リ易カラズ、且大船ノ通過頻繁ニシテ楫艫ノ便ヲ失フベキヲ以テ、深川汐見橋ヨリ越中島ノ南ニ幅三十間深サ低水下六尺ノ新澪ヲ開設シ、房総地方等ヨリ東京ニ来ル所ノ小船ハ此澪筋ヨリ汐見橋ニ至リ、夫ヨリ便宜ノ川筋ヲ経テ日本橋近傍ノ地又ハ市区改正ノ計画ニ係ル浜町河岸・魚市場其他ヘ達スルノ便ニ供ス。
 隅田川ノ東派ヨリ佃島続キヘ埋立地ヲナス為メニ要スル土砂ハ、河底並ニ澪筋ヲ浚鑿セシモノヲ用フルモ猶余贏アルヲ以テ、之ヲ越中島続キノ海面ニ運搬シ、凡一百万坪ノ埋地ヲ作ラントス。
柳少将修正案ヲ説明ス。修正案ニヨレバ、船渠二十一ケ所、繋船所百二十「ヱークル」、合セテ面積二百「ヱークル」ニシテ、目下我府ニハ十分ナルベシ。尤モ一条ノ澪ノミニテハ、出水アリシ時ニ支障アルベキカトノ恐レナキニアラズ。故ニ日本船ノ為メニハ、別ニ上総澪ヲ開クノ計画ニシテ、此土ヲ取レバ、凡ソ百万坪ノ埋地ヲ作リ得ベシ、敢
 - 第28巻 p.31 -ページ画像 
テ埋地トセザルモ何レ何ニトカ此新澪ノ土ハ整頓セザルベカラズ。幸ヒ土アルニヨリ、之ヲ以テ埋地ヲ築カントスルノミ。元来大川ノ水源ニ溯リテ測定スルニアラザレバ、確言ハナシ難キモ、流土ノ為メニ澪筋ノ埋ルコトハ尠ナキ如シ。品川灯台近傍ノ埋リ方ヲ調ベシニ、九ケ年間ニ一尺ヨリ三尺迄塡塞セリ。之ニ依テ考フルニ川上ヨリ土砂ノ吐出シハ尠ナク、却テ西南ノ風ニ吐出シヲ押戻シテ埋ムルコト多シ。九ケ年間ニ三尺未満ニ過ギザル埋リ方ナル故、市中溝渠ノ汚泥ヲ流シ来リテ之ヲ埋ムル位ナラン。又横浜ノ埋リ方ヲ調ブルニ、明治十一年ヨリ十七年マデ六ケ年間ニ三尺以上四尺五六寸モ埋リ、最甚敷ハ砲台近傍ニシテ五尺以上ニ及ビシ場所モアリ。要スルニ横浜湾ニ比スレバ、品川湾ハ塡塞尠ナシ。其ハ必竟水勢モアリ、加フルニ土砂ノ吐出シ多カラザルニ職由スルナラン。斯ノ如ク今日迄ノ経験ニ照シテ考フレバ左程埋リハセマイト思ハルヽモ、何分水源遠ク航行スル所ハ男衾即鉢形山近クヨリ、入間川福田早又辺迄ニシテ、其先ハ舟船通ゼザレバ水源迄調査ヲ遂グル能ハズ。年ヲ経テ埋ルヤ否ヤノ見込ハ立チ難シ。且水源ニハ山林モアルナランカ。伐木ノ如何ニ関係モアルナリ。併シ今日ノ測量上ヨリ考フレバ、修正案ノ如ク計画シタランニハ、塡塞セザル見込ナリ。而シテ以前ヨリノ模様ハ能ク分ラザルガ、或ハ台場出来テヨリ其最寄リハ、一層埋リシト云フモ、金杉辺ノ漁夫ニ質スニ三十年間此澪筋ニ異状ナキモ、概略一尺五六寸ハ埋リ、「小深ミ」ト云フ所ハ埋ラズト云ヘリ。」ト。斯クテ質問論難ノ後、会長ヨリ左ノ宣言アリテ会ヲ閉ヅ。
 審査委員中ニ斯ル修正説ハアレドモ、自ラ確信シ難キニヨリ、実施ノ場合ハ、能ク専門家ノ意見ヲ下問サレタシト具申シテモ可ナリ。但シ政府ノ考ニテ、或ハ二千万円モ出シテ、修正案ヨリ一層広大ニナスカモ知レズ。
 修正案ヲ添テ上申スルコトニ決スベシ。


渋沢栄一書翰 萩原源太郎宛 (明治一八年)三月一〇日(DK280002k-0007)
第28巻 p.31 ページ画像

渋沢栄一書翰  萩原源太郎宛 (明治一八年)三月一〇日   (萩原英一氏所蔵)
○上略 市区改正原按ハ今日一部丈ケ審査会より受取候得共、兼而荘田氏より請求有之候ニ付、同人ヘ相廻し申候、就而ハ同氏明後日迄ニハ一覧済と存候間、其上貴方ヘ御受取可被下候
○中略
  三月十日
                         渋沢栄一
    萩原源太郎様


渋沢栄一書翰 萩原源太郎宛 (明治一八年)三月二三日(DK280002k-0008)
第28巻 p.31-32 ページ画像

渋沢栄一書翰  萩原源太郎宛 (明治一八年)三月二三日   (萩原英一氏所蔵)
拝啓、然者市区改正ニ付商工会全体より審査会ヘ可差出意見書案ハ、粗末なから小生立案之上さし上可申積之処、何分諸事取込居候ニ付、執筆之間合無之候間、先日御打合之趣意ニて御起草被下度候、尤も最初ニハ此市区改正ハ重大之事件ニ付我々商人ヘ之関係も亦容易ならさる次第と存候間、本会ニ於て企望之要項ハ左ニ列記具申致スと申意味ニて、緒言様之ものを記載し、其他ハ築港を第一着手とすへし、丸ノ
 - 第28巻 p.32 -ページ画像 
中を区別して、諸官衙地又ハ公園等を見込ミ外ハ市街ニ組込むへし、道路之巾ハ審査会御議定之如く可成広きを好むといえとも、将来家屋改良之度も察知せす、只道路さへ広くせハ可なりと申趣意ニハ不相成様致度、又此道路広伸ニ付而ハ町地之模様変換可相生ニ付、右等ニ充分之注意有之度、河川ハ可成丈必要之ものニ止め、其分ハ相当之巾ニいたし、他ハ見合申度、河岸地ハ払下ニいたし度、物揚場ハ橋之近傍ニいたし度、川と沿岸之地形ニ注意有之度抔と申件々を、一打書ニて取調候方可然と存候、其積ニ御草案可被下候
○中略
  三月廿三日
                      渋沢栄一
    萩原様


渋沢栄一書翰 萩原源太郎宛 (明治一八年)四月七日(DK280002k-0009)
第28巻 p.32 ページ画像

渋沢栄一書翰  萩原源太郎宛 (明治一八年)四月七日   (萩原英一氏所蔵)
此程申越相成候市区改正之案ニ付、荘田氏之建議草案ハ委員之意見書ニ追加するニ無之、本会之建議ニ追加之見込と存候、然時ハ来ル十一日之会議ニ附し候件ニ付、兎ニ角原案ヘ御差加相成置候而可然と存候且十一日之通達ハ既ニ御発し被成候哉、余り延引ハ不都合ニ付、もし右議案丈ケ延引候ハヽ跡廻しニ被成、其断を申添他之議案相添早々通知御取斗可被下候、此段申進候也
  四月七日
                      渋沢栄一
    萩原様
○下略


渋沢栄一書翰 萩原源太郎宛 (明治一八年)七月一五日(DK280002k-0010)
第28巻 p.32 ページ画像

渋沢栄一書翰  萩原源太郎宛 (明治一八年)七月一五日   (萩原英一氏所蔵)
○上略 東京府ヨリ下問之取調物、即市区改正ニ付之分ハ其後如何相成候哉是又模様相伺候
右回答旁如此御座候 匆々不宣
  七月十五日
                      渋沢栄一
    萩原源太郎様


雨夜譚会談話筆記 下・第七四四―七四七頁 昭和二年一一月―昭和五年七月(DK280002k-0011)
第28巻 p.32-33 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第七四四―七四七頁 昭和二年一一月―昭和五年七月
                               (渋沢子爵家所蔵)
  第二十七回 昭和四年十二月二十四日午後三時半 於渋沢事務所
○上略
    (一)東京湾築港問題に就いて
先生「此事は大分古い事で、余り記憶が鮮かでないがネ。予備調べの参考資料には、明治三十四年の事が出てゐるが、それより前に、何でも福島県令をやつた三島通庸さんが福島に居つた時分か、それとも東京へ出て来てからか、其処のところははつきりしないが、明治十八年頃(註、青淵先生の記憶は誤りならん。実は三島通庸にあらずして芳川顕正らしい。大日本人名辞書によれば、芳川顕正は「明
 - 第28巻 p.33 -ページ画像 
治十七年内務大輔を以て東京府知事を兼ね、都市計画を立て市区改正・屋上制限・上下水道・築港等の案を提出す……」とあり)と覚えて居るが、東京の市区改正を言ひ出した。この時、私は多分商法会議所議員の中から推薦されてだつたらう、市区改正問題に関係した事がある。(註、明治十八年一月二十三日東京市区改正審査委員設置さる)当時の市区改正問題の要点と云ふのは、要するに東京を単に帝都として、品のいゝ美麗な街にするか、それとも商工業の見地からして港湾をも取入れて、所謂産業都市たらしむるかと云ふ二つの説があつた。それには西洋諸国の実状を参考として、白耳義のブラツセルの如く全然港湾の連絡がない帝都と、倫敦のやうに水陸の便を持つてゐる帝都の比較もした。私としては、どうしても将来、東京が大都会としての発展を希望する上は、単に上品な街として丈けでは不十分である。どうしても産業都市としての設備も必要であるとして、強く論じ新聞にも載せた事を覚えてゐる。勿論これは私一人の論ではないが、主として此方面の論をやつたのは私と益田孝氏だつたやうだ。海外との連絡は横浜でやると言つても、横浜のみに頼つて居つては駄目だ。宜しく横浜を玄関前として、東京自身でも港湾の設備を持たなければいけない。現に大阪はそうだ。東京もやればやれない事はないと云つた訳であつた。勿論これは専門家の云ふやうな論ではなかつた。それから東京市内の道路に就いても、これを広くする事、又道路を造るには宮城を中心にして、どんな風に造るか。京都のやうに碁盤目形にするか、それとも巴里のグランド・オペラを中心にしてあるやうに放射線にするか。これは放射線にしたがよいと云ふ事になつたやうだつた。尚ほ港湾の方の問題についてはその後私は大して関係しなかつたから、その後の事をよく知らないが、浅野総一郎氏が東京湾の埋立会社を創立して築港事業を起したから、この事業に授助してやつた。」
○下略
   ○此回ノ出席者ハ、栄一・渋沢篤二・同敬三・同元治・渡辺得男・小畑久五郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。



〔参考〕東京市区改正事業誌 東京市区改正委員会編 第一六―二五頁 大正八年二月刊(DK280002k-0012)
第28巻 p.33-40 ページ画像

東京市区改正事業誌 東京市区改正委員会編  第一六―二五頁 大正八年二月刊
 ○第一章 第一節 東京市区改正ノ起原
    第二項 東京市区改正審査会審査
東京市区改正ニ関スル東京府知事ノ建言ハ、其筋ノ容ルヽ所ト為リ、内務省ニ審査会ノ開設ヲ見ルニ至レリ、明治十七年十二月十七日内務少輔芳川顕正東京市区改正審査会長仰付ラレ、同時ニ陸軍省・工部省農商務省・警視庁及東京府ニ達シテ各二名ノ委員ヲ撰出セシム、十九日更ニ審査会長ヨリ東京府知事ニ照会シテ、商工会員中委員二名ヲ出サシメ、之ニ内務省委員四名ヲ合セテ十六名、明治十八年一月二十二日及二十三日ヲ以テ何レモ東京市区改正審査委員ヲ命セラル
既ニシテ三月二十四日三条太政大臣海軍省ニ達シテ、品海築港審査委員二名ヲ撰出セシム、四月二日左ノ任命有リ
  品海築港方案審査委員
 - 第28巻 p.34 -ページ画像 
           海軍大輔海軍少将 子爵 樺山資紀
                  海軍少将 柳楢悦
而シテ山県内務卿ハ、三月廿六日ヲ以テ東京市区改正審査会ニ品海築港審査ノ命ヲ伝フ
是ニ於テ東京市区改正審査会ハ、明治十八年二月廿日第一回ノ会議ヲ開キシヨリ回ヲ重ヌルコト十有三、十月八日ヲ以テ審査ヲ終リ、府知事ノ設計ヲ取捨選採シテ、修正方案ヲ定メ、委員ノ建議ニ係ル遊園・市場・劇場・商法会議所・共同取引所設置ノ議ヲ決ス、左ニ同建議案調査案ノ大意ヲ抄シテ、発案ノ旨趣ヲ明カニス
      公園
 人口稠密ノ都府ニ園林及ヒ空地ヲ要スルハ、其因由一ニシテ足ラスト雖モ、第一ニ衛生ヨリ論スレハ、街衢相連リ、軒楹相望ムノ間、之ニ間在シ之ニ連帯スル開豁清潔ノ場所アルニ非サレハ、住民日常ノ生活産業ヨリ生スル大気ノ汚敗ヲ更新スルノ路ナク、有害ノ悪気市区ニ沈滞シテ、病夭ノ媒ヲ為シ、其浄除揮散ヲ求ムルモ得可カラス、是家ニ庭砌ナク、室ニ窓牗ナキニ同シク、亦身体ニ肺臓ヲ闕クニ異ナラサルナリ、加之ナラス、其業務ノ高下ヲ論セス、多クハ室内汚穢ノ大気ニ生息スルモノ、戸外新鮮ノ大気ヲ呼吸シツヽ其労劬ヲ回償スルノ準備ナケレハ、冥々ノ間、人民営産ノ力ニ於テ其失フ所実ニ貲ラレサルモノアリ、其準備タルヤ、園林空地ヲ市府ノ内外ニ設置シテ、常ニ無価ノ清風ヲ居民ニ供給スルノ他求ムヘキノ道ナシ、或ハ遠隔ノ大公園ニ逍遥シ、或ハ近区ノ空地ニ慰憩シ、適度ノ運動ト新鮮ノ大気トニ由テ、次日心身ヲ労役スルノ元気ヲ鼓舞補給スヘシ、凡ソ欧米開明国ノ都府ニシテ、其戸口境域ノ比例ニ随ヒテ公園空地ノ設ケアラサルモノナキ、蓋シ亦職トシテ此ニ由ラスンハアラス、退テ吾東京ヲ顧ルニ、近時一・二ノ公園ヲ開カレ、旧来広小路ナルモノナキニアラスト雖モ、前段市府衛生上ノ目的ニ達セサルコト誠ニ尚ホ遼遠ナリ、今本府市区ノ改正ヲ計画スルノ美挙アリ公園空地ヲ増設スルノ事必ス其重要ノ一課題ト為ササルヘカラス、此課題ニシテ果シテ其目的ヲ遂クレハ、衛生ニ関スル巨益ノ外、首府ヲシテ首府タルノ壮観ヲ煥発セシムルコト、出火天変ノ際、人民廻避ノ場所ヲ得ルコト、一定ノ規律ヲ設ケテ汚穢ヲ浄除スルトキハ朝昏適当ノ時間ヲ限リテ、魚蔬ノ市場ニ供用スヘキコト、交通繁劇ノ市区ニ在テハ、車馬ノ輻集ヲ開通スルノ便アルコト等、間接ニ得ル所ノ利益一々之ヲ枚挙スルニ遑アラサルナリ、左ニ欧洲四大都府ニ現存スル空地及ヒ公園ノ比例ヲ掲ケテ、其参照ニ供シ、次ニハ東京ニ設置スヘキ公園及ヒ空地ノ空ヲ以テスヘシ
 倫敦府
  面積 三百十六平方キロメートル、即チ大約百二十平方英里
  人口 三百八十三万二千四百四十一人
  空地ノ数 百七十八
  人口一万五千九百十二人ニ付キ一空地
  面積一、七二平方キロメートルニ付キ一空地
  外ニ「ハイドパーク」已下大公園十六アリ
 - 第28巻 p.35 -ページ画像 
 巴里府
  面積 九十平方キロメートル、即チ三十五平方英里
  人口 二百二十六万九千二十三人
  空地ノ数 一百四
  人口二万千八百十七人ニ付キ一空地
  面積〇、八七平方キロメートルニ付キ一空地
  外ニボアドブロン、シヤンセリゼーノ如キ大公園十三アリ
 伯林府
  面積 六十一平方キロメートル、即チ二十五、一平方英里
  人口 百十二万二千五百人
  空地ノ数 四十七
  人口二万三千八百八十三人ニ付一空地
  面積一、三平方キロメートルニ付キ一空地
  外ニチールガルテン、フリードリヒスハイン等ノ大公園八アリ
 維也納府 十区外ハ除ク
  面積 五十九平方キロメートル、即チ二十四、三二平方英里
  人口 七十二万六千百五十人
  空地ノ数 六十五
  人口一万千百七十一人ニ付一空地
  面積〇、九平方キロメートルニ付キ一空地
  外ニプラートル已下ノ大公園七アリ
 右ニ掲クル四大都府ノ内、「ロンドン」ノ如キハ、殊ニ「ハイドパーク」「ケンシントンガーデン」「シントジエームスパーク」「グリーンパーク」ノ四大公園、市街ノ中央ヲ横断シテ莫大ノ面積ヲ占ム、衛生上其価実ニ数百ノ空地アルニ同シ、「ベルリン」ノ「チールカルデン」、巴里ノ「シヤンセリゼー」ノ如キモ、亦市街ノ間ニ在リ、前ニ計算スル所ハ、素ヨリ是等ノ大園ヲ除キタル数ナル故ニ、人口ト空地トノ比例ニハ、尚是等ノ大公園ヲモ算入セサレハ不適当ナレトモ姑ク之ヲ除ク
 右ノ外、伊国羅馬府ノ如キハ、人口二十七万八千人ニ、府内ノ空地数百五十二ニシテ、尚ホ「ヒンチヨー」園ノ如キ大公園ノ市街ニ存スルアリ、空地ノミヲ算スルモ、人口二千ニ一空地ニ当レリ、其他中小ノ都府ニシテ、尚ホ多数ノ空地ヲ有スルモノ多シ、独逸「ミユンヘン」「ドレスデン」ノ如キ是ナリ
 今東京ノ人口ヲ八十八万余ト為シ、之ヲ前ノ諸大都府ノ平均数ニ做ヒ、人口二万ニ付キ一空地ヲ必要トスルトキハ、少ナクモ市区内四十四ノ空地ヲ設ケサルヘカラス、又面積ノ点ヨリ言ヘハ、東京ハ二十二平方英里大約五十五平方キロメートルノ面積アリト為シ、前記大都府ノ平均ニ做ヒ、一、二平方キロメートルニ一空地ヲ置クトスレハ、其数四十五ヲ要スルノ割合トス、而シテ此他市外若クハ市内ニ数ケ所ノ大公園ヲ置クヘキハ言ヲ俟タサルナリ(中略)
 別紙図面(略)ニ示シタル十五区内ニ新置スヘキ公園ニ就キテ比例スルニ、大遊園第一号ヨリ第十一号ニ至ル面積合セテ百五十二万八千二十坪ヲ人口八十八万五千四百四十五人ニ配当スルトキハ、一人
 - 第28巻 p.36 -ページ画像 
毎ニ一坪二合七夕ヲ有スル比例ナリ(大遊園十一ケ所ヲ十五区人民総体ニ配当シタルハ、此大園ノ如キニ至テハ、区ノ孰レニ設クルヲ問ハス、十五区人民全数ノ娯楽ニ供スルヲ以テナリ)
 又小遊園ニ就キテ之ヲ算スルニ、神田区ハ、人口十万四千八百三十八人ニシテ、小遊園今川小路・駿河台南甲賀町・万世橋・神田皆川町・今川橋脇・柳原町・万世橋外花房町七ケ所、合セテ一万七千三百弐拾弐坪ヲ有シ、一人毎ニ一合七勺弱ノ割合ナリ
 日本橋区ハ、人口九万三百二十二人ニシテ、小遊園室町三丁目・小伝馬町・美倉橋内・浅草橋内・新和泉町・蠣殻町水天宮・箱崎町・越前堀町・坂本町警視病院・中橋埋立地・新大坂町十一ケ所、合セテ三万弐百七拾壱坪ヲ有シ、一人毎ニ三合四勺弱ノ割合ナリ
 京橋区ハ、人口九万千弐百人ニシテ、小遊園桜橋脇・京橋北・京橋南・真福寺橋脇・新湊町・築地海軍省用地・三原橋脇・数寄屋橋外新橋脇九ケ所、合セテ二万三百二十坪ヲ有シ、一人毎ニ二合強ノ割合ナリ
 浅草区ハ、人口九万四千百五十四人ニシテ、小遊園浅草小島町・浅草清島町・浅草瓦町・浅草須賀橋脇・浅草駒形町五ケ所、合セテ一万五千九百三十坪ヲ有シ、一人毎ニ一合七勺弱ニ当レリ
 本所区ハ、人口六万八千五百八十五人ニシテ、小遊園厩橋脇・両国回向院二ケ所、合セテ六千坪ヲ有シ、一人毎ニ九勺弱ノ割合ナリ
 下谷区ハ、人口五万七千五百十一人ニシテ、小遊園必要ナルモ、下谷二長町大遊園・上野大公園ヲ有スルヲ以テ、小遊園ヲ別置セス
 本郷区ハ、人口四万九千六百六十六人ニシテ、小遊園湯島神社ヲ有シ、一人毎ニ八勺強ニ当ルナリ
 芝区ハ、人口八万四千五百人ニシテ、小遊園幸橋外・芝仙台邸・虎ノ門三ケ所、合セテ六千七百七十坪ヲ有シ、一人毎ニ九勺強ノ割合ナリ
 深川区ハ、人口四万七千五十七人ニシテ、小遊園弥勒寺橋脇・深川西元町大橋脇・深川霊巌寺・深川佐賀町永代橋脇四ケ所、合セテ二万二千百十坪ヲ有シ、一人毎ニ四合七勺弱ノ割合ナリ
 麹町区ハ、人口四万四千八百三十四人ニシテ、小遊園麹町平河町・牛込門内・四ツ谷門外三ケ所、合セテ七千八百六十坪ヲ有シ、一人毎ニ一合七勺強ノ割合ニ当レリ
 麻布区ハ人口三万九千百五十七人、赤坂区ハ人口二万三千三百七十六人、四谷区ハ人口二万三千百九十三人、牛込区ハ人口三万五千百二十人、小石川区ハ人口三万千九百三十二人ノ如キ、一人ニ就キ面積五十三坪乃至十九坪ノ割合ニ当リ、各区何レモ辺隅ニ位シ、人口従テ稠密ナラス、亦庭園樹木ヲ有スル住家少シトセス、故ニ遊園ヲ設クルノ必要、人口稠密ナル市区ノ如ク急切ナラサルノミナラス、現今ニ於テモ明地圃田其区内ニ散在シ、他日遊園ノ位置ヲ定メムトスルモ容易ナルヘキヲ以テ、姑ク之ヲ除ケリ
 公園ノ割合概ネ斯ノ如シ、依テ玆ニ大小遊園五十六、此坪数合計百二十四万九百五十三坪ヲ、十五区人口八十八万五千四百四十五人ニ除スルトキハ、一人毎ニ公園ノ面積一坪四合強ヲ有スル比例ナリ
 - 第28巻 p.37 -ページ画像 
      魚鳥獣肉市場
 現時東京市中ニ在ル大小魚市場ハ、日本橋・四日市・新場・深川・本芝・芝金杉ノ六ケ所トス、而シテ日本橋・四日市・新場ノ如キ、全都府内中央枢要ノ土地ヲ横截シ、僅ニ一葦帯水ヲ隔テテ鼎ノ如ク散在、商業上頗ル貴重ノ場所ヲ充塡シ、且開市中往来ヲ遮断セサルヲ得サルカ故ニ、交通頻繁ノ地ニシテ、人馬ノ通路ヲ妨害スルヤ実ニ甚シク、別ニ市場家屋ノ構造ナキヲ以テ、雨雪ノ際自他ノ困難言フニ忍ヒサルモノアリ、其位置構造ヨリ論スルモ、斯ノ如ク不適当ナルカ上、衛生ノ点ヨリ考察スルニ、以上ノ場所ハ、人家密接、大気ノ流通極メテ不完全ノミナラス、大川ヲ距ルコト已ニ遠ク、其潮流緩漫ニシテ、河川溝渠ニ瀦滞スル汚物ノ排泄ニ便ナラス、魚介ノ汚物或ハ土地ニ浸淫シ、或ハ大気ヲ不潔ナラシメ、首府ノ中央ニ絶エス衛生ノ害因ヲ醸出スルノ場所アリト論摘セラルルモ、殆ト其弁解ニ苦シマサルヲ得ス、現ニ是等ノ汚物ヨリ生スル悪臭ノ堪フヘカラサルハ、日常該地ニ往来スル者ノ感知スル所ニシテ、実ニ其明証タリ、今仮リニ衛生上ノ害毒ハ、左迄甚シカラスト証言スル者アリトスルモ、吾首府街衢ノ骨子トモ称スヘキ日本橋頭若シクハ新場ニシテ、悪臭鼻ヲ襲フモノアラハ、我府民ニ於テ、他ノ内外人ニ対スル豈ニ赧然タルモノナキヲ得ンヤ、又現今ノ如ク各地ニ散在シテ一定ノ制度ナク、且其市場ニ応用スル家屋ハ、直ニ各市人ノ住居ナルヲ以テ、市人自己ノ健康ニ害アルハ措テ問ハサルモ、一般平等ニ掃除浄清スルノ途ナシ、是他日市場警察ヲ厳行スルノ日ニ於テ、取締上最モ不都合ヲ来スヘキナリ、欧洲大都府ノ制ヲ案スルニ、所謂共同若クハ中央市場ナルモノハ、従来散在ノ小市場ヲ集合スルヲ目的トシテ、最モ空気ノ疏通好キ高崇ノ建家ヲ設置シ、特ニ下水排泄ノ溝渠ヲ設ケ、掃除清潔ノ法能ク整頓セルモノナリ、我東京ニ於テモ魚鳥市場前陳ノ不都合ヲ他日ニ矯正セムトスルヤ、市区改正ヲ議スルノ今日ニ在テ、予メ之カ位置方法ヲ設ケサルヘカラス、其方法タルヤ、現今ノ魚市場ヲ廃止シ、新タニ左ノ三ケ所ニ共同魚鳥市場ヲ建設スヘシ
  浜町魚鳥市場 三万八千五百八十九坪
  芝魚鳥市場  二千三十五坪
  深川魚鳥市場 三千九百四十七坪
      蔬菜市場
 蔬菜市場ハ、神田多町・両国矢ノ倉町・浜町・京橋・本芝・下谷・本所竹町・本所千歳町・本所四ツ目ノ九ケ所ニシテ、魚鳥市場ノ如ク甚シク不潔ナラサルモ、略同様不便ノ憾ミナキ能ハス、依テ其市場ト公称スヘキ場所ハ、神田青物市場・京橋青物市場ノ二ケ所ト定メ、魚鳥市場ノ造構ニ做ヒ建設シ、開市スルコトトスヘシ、若シ夫レ蔬菜小市場ニ至テハ、時間ヲ定メ小遊園ヲ以テ之ニ応用シ、其販鬻終ルヤ否、直ニ掃除ヲ為サシムル等、厳重ナル取締法ヲ立テ許可スル事トセハ、更ニ便利ナルヘシ
      屠畜場
 現今府内ニ在ル屠畜場ハ、芝浦ノ一ケ所ニシテ、明治十七年中ニ屠
 - 第28巻 p.38 -ページ画像 
殺シタル牛羊豚合テ一万三千九百三十一頭トス、之ヲ一年即チ三百六十五日ニ除スルトキハ、一日屠殺ノ数三十八頭余ノ割合ニ当リ、日々繋留シタル頭数少ナクモ六・七十頭ニ下ラサルヘシ、故ニ魚鳥市場ト同一ニ、其近傍ノ土地大気ヲ汚染スルヤ疑ヲ容レス、且日常生畜ヲ屠殺スルハ、素ヨリ人ノ感想ニ不快ヲ与フルモノニシテ、屠畜場ハ実ニ首府ノ庖廚タリ、宜シク市区ノ辺隅ニ遠ケサルヘカラス然ルニ現在ノ場所即芝ノ如キハ、内外人首府ニ出入スル門戸ニシテ殊ニ全府ノ南面風上ニ設クルハ、決シテ其位置ヲ得タルモノト云フヘカラス、彼ノ欧洲大都府ニ於テモ、目下莫大ノ資金ヲ擲チ、屠場ヲ市区ノ辺隅ニ移スノ計アルヤ、其取締上ノ画一ヲ希望スルノ他、亦此主旨ニ基クモノナリ、以上ノ理由ナルヲ以テ、深川ニ一地ヲ卜シ、永代新田屠畜場ニ転移スルトセハ、前陳一切ノ障害ヲ排除スルノ外、尚水路ノ便ヲ藉リ、浜町其他ノ魚鳥市場ニ漕運スルノ利益アルナルヘシ
      商法会議所及共同取引所
 商法会議所及共同取引所ハ、首府商業ノ焼点ニシテ、其振不振ハ実ニ該府ノ盛衰ヲ卜知スルノ権衡ナリ、故ニ其位置中央最モ便宜ノ地ヲ占ムヘキハ論ヲ俟タス、且其家屋ノ如キハ首府ノ外観ヲ装飾スル一要具タルヲ以テ、之ヲ設置スルハ、中央ノ市区中極メテ人ノ注視ヲ惹キ易キ広場ノ一隅ニ於テ、其位置ヲ卜シ、巍然ト築造スルヲ要ス、殊ニ株式取引所ノ如キニ至テハ、日々群集スル商民ノ往来ニ於テモ、最モ便利ノ地ヲ選ハサルヘカラス、此ヲ以テ其建設地ハ予メ坂本町ト定メ、其街衢隅角ノ地ヲ以テ適当ノ場所トスヘキナリ
      劇場
 歌舞演劇ハ文明社会必要ノ快楽物ニシテ、巧妙ノ詩歌著作モ、事物ノ実想ニ照写セサレハ、人ノ感情薄ク、其国文学ノ開進如何モ、歌舞演劇ノ優劣ニ因テ之ヲ判スルノ状況ナリトス、古来伊太利歌舞ノ優美ニシテ、仏蘭西演劇ノ熾ナルカ為メ、自然文明ノ古国ヲ以テ欧米ニ称揚セラルルカ如キ是ナリ、現ニ我国ニ於テハ、近年頻リニ外賓ノ周遊スルアリテ、官民ノ待遇頗ル懇篤ヲ致シ、諸般ノ事物ヲ観覧セシメテ遺スナキモ、劇場ノ一事ニ就テハ、観覧ニ足ルモノナシ一回欧米ノ地ヲ踏ミ、稍彼ノ国情ニ通スル者ヨリ視ルトキハ、実ニ我国民社会ノ欠点ニシテ、遺憾措ク能ハサルナリ、我国文学ニ和漢雅俗ノ別アリ、詩歌ハ高尚優雅トシ、院本小説ハ野鄙拙俗ト為シ、貴賤上下各々其嗜好ヲ異ニス、嗜好異ナレハ自ラ風俗ヲ別ニシ、貴賤上下ノ間ニ其情交ヲ隔絶シ、国民団結一致ノ勢力ヲ乏フス、故ニ国風ヲ存重シ、上下ノ苦楽ヲ同フスル設備ノ一タル歌舞演劇ヲ改良シ、文学上雅俗ノ別ヲ去リ、和漢洋折衷シテ、倍々其上進ヲ図リ、国民ノ団結一致ノ勢力ヲ養成スルハ社会ノ開進上必要ノ事ナリトス然レハ従来卑俗拙劣ヲ免カレサリシ所ノ劇場ノ如キモ、漸次改良ヲ施シ、国勢進捗ノ度ニ適ハシメサルヘカラス、欧米諸洲、其ノ帝国タリ、王国タリ、又共和国タルニ従テ、「イムペリヤール」「ロアイヤール」又ハ「ナシヨナール」「テアートル」ナル劇場アリテ、上ハ帝王后妃ヲ始メトシテ、百官紳士ノ之ヲ臨観スルアリ、而シテ詩歌
 - 第28巻 p.39 -ページ画像 
音楽ヲ奨励シ、古来ノ国風ヲ保存シ、言語ヲ矯正スル為メ、政府ヨリ劇場ニ補助金ヲ給スルモノ寡ナカラス、其位置建築ノ如キ、都府最良屈指ニシテ、都府ノ壮観ヲ飾ル須要ノモノトセリ、今ヤ市区改正ノ盛挙ニ際ス、宜シク彼ノ「イムペリヤールテアートル」ニ摸擬スヘキ一ノ歌舞音曲場ノ位置ト、二個ノ上等劇場ノ位置トヲ選定スヘキナリ、一ヲ歌舞音曲場ト云フハ、我国ニ於テ、彼ノ「オペラ」ノ如キ種類ノモノナキヲ以テ、或ハ高尚優美ノ歌舞伎或ハ能狂言ヲ興行シ、或ハ和洋ノ音楽ヲ奏スルノ場所ト為サムコトヲ欲スレハナリ、他ノ二個ニ至テハ、所謂上等劇場ニシテ、単ニ歌舞伎ノミヲ演セシムヘキナリ、其数ヲ三ケ所ニ限ルハ、其建築構造ノ旧套ヲ去リ洋風ニ一新シテ、其宏壮ヲ図リ、濫リニ数ケ所ノ競争ヲ許サヽルカタメナリ、維新前ニ於テモ、上等芝居ハ猿若町ノ三座ニシテ、近年四・五座ニ至リシカタメ、一・二ハ常ニ休業ヲ免レサルナリ、場所ハ成ルヘク市街地ト邸宅地トノ中央ヲ選ヒ、邸宅地住居ノ人ト市街地住居ノ人トヲシテ互ニ往来ヲ便ニシ、且小公園若シクハ広場ノ側ニ於テシ、以テ衛生上及出入上ノ便ヲ得ントス、因テ第一ノ歌舞音曲場ハ日本橋区○建議者ハ、私ニ中洲埋立地河岸ノ方ヲ擬ス第二劇場ハ神田区、○建議者ハ、私ニ美倉橋傍ヲ擬ス第三ハ京橋区、○建議者ハ、私ニ真福寺脇最寄ヲ擬ストシ、其坪数ハ若干ト指定セラレンコトヲ希望ス、新様ノ三劇場ニハ、茶屋ヲ許サヽルモノトシ其近隣ノ地ヲシテ、実着ノ商業地タルヲ妨ケサラシムヘシ、下等ノ劇場ニ至テハ、予メ其場所ヲ選定スルヲ要セス、在来ノモノニ付キ随時適宜ノ存廃ヲ行フヲ可ナラン
以テ遊園・市場・劇場・商法会議所・共同取引所ノ市区改正事業ニ加ヘラレタル趣意ノ那辺ニ在ルカヲ想見スヘシ
〔参考〕
     東京市区改正品海築港審査会経過
      明治十七年
 十二月十七日 東京市区改正審査会長任命
      明治十八年
 一月廿二日  東京市区改正審査委員十四名任命
 一月廿三日  東京市区改正審査委員二名任命
 二月廿日   第一回開議
         市区改正大体議
 三月三日   第二回開議
         道路幅員議事
         鉄道馬車議事
         一等道路議事
         公園等調査委員設置
 三月十日   第三回開議
         二等道路議事
 三月十七日  第四回開議
         鉄道議事
         中央停車場附近道路議事
         三・四・五等道路議事
 - 第28巻 p.40 -ページ画像 
 三月廿四日  第五回開議
         三等号外路線議事
 三月卅一日  第六回開議
         品海築港附議、報告
         河川議事
 四月二日    品海築港方案審査委員二名任命
 四月七日   第七回開議
         河川議事



 四月十四日  第八回開議
         河川議事
         橋梁議事
         図面議事
 四月廿一日  第九回開議
         遊園調査報告、議事
         魚鳥市場蔬菜市場屠畜場調査報告、議事
         商法会議所及共同取引所調査報告、議事
         劇場建議、議事
 四月卅日   第十回開議
         築港大体議事、調査委員五名設置
 六月十六日  第十一回開議
         品海築港調査報告、議事
 六月卅日   第十二回開議
         市区改正確定議
         市区改正局設置建白
         明治十八年六月九日呈出東京商工会建議報告
 十月八日   第十三回開議
         復申文及建議案議事
         復申
         東京市区改正局設置建議
十月十二日   内務卿、太政大臣ニ東京市区改正及品海築港審査結了復命
十二月八日   東京市区改正審査会長及委員十四名免セラル
十二月十一日  東京市区改正審査会委員二名・品海築港方案審査委員二名免セラル