デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

6章 政治・自治行政
2節 自治行政
2款 東京市区改正及ビ東京湾築港 4. 東京湾築港調査
■綱文

第28巻 p.293-295(DK280030k) ページ画像

明治22年12月2日(1889年)

是ヨリ先東京湾築港ノ問題起リ、是日栄一、東京市区改正委員会ニ於テ、田口卯吉等ト共ニ築港調査委員ニ指名サル。


■資料

東京市史稿 東京市役所編 港湾篇第四・第四九〇―四九二頁 大正一五年一二月刊(DK280030k-0001)
第28巻 p.293-294 ページ画像

東京市史稿 東京市役所編  港湾篇第四・第四九〇―四九二頁 大正一五年一二月刊
 ○第二章 第二節 本記 帝都時代ノ港湾(二)
    築港調査委員設定事蹟
築港調査委員設定 明治廿二年十二月二日ノ東京市区改正委員会ニ於テ、委員肝付兼行築港調査委員設置ヲ発議ス、賛者有リテ之ニ決シ、委員長芳川顕正左ノ委員ヲ指名ス。其次第東京市区改正委員会議事録ニ見ユ。
 田口卯吉  角田真平  銀林綱男  古市公威
 益田孝   渋沢栄一  肝付兼行
因ニ云フ、肝付兼行是日「測量ハ、本員ニ於テ十分為スベキ見込ナリト雖トモ、表面海軍省ニテ測量ヲ引受ルコト決定セザルニ由リ、更メテ委員長ヨリ照会セラレタシ」ト陳ブ。
東京湾築港沿革ハ是日ノ会議ヲ記シ、ルノーノ意見報告ヲ叙シタル後左ノ如ク記ス。
 - 第28巻 p.294 -ページ画像 
 二十二番(古市公威)尚之ニ付言シ、此「ルノー」氏ノ答案ハ港門ヲ羽田ニ設クル事、又運河ノ方法、繋船所ノ位置等、至極可ナルガ如シ、然レドモ其巨細ニ至リテハ、篤ト調査ヲ為サヾレバ確定スルヲ得ザル旨ヲ述ベタリ。
 玆ニ於テ三十一番(肝付兼行)ヨリ調査委員ヲ設クル説ヲ提出シテ、之ヲ可決シ、委員長ハ直ニ五番(田口卯吉)六番(角田真平)十九番(銀林綱男)三十一番(肝付兼行)ヲ調査委員ニ選定セリ。爾来該調査委員ハ、品川湾内海底ノ地質ヲ調査スル為メ、前十二ケ所、後十二ケ所ヘ鑿錐ヲ為シ、以テ之ヲ試ミ、傍ラ戸田橋・小台・鐘ケ淵・霊岸島・第二砲台・羽田等ヘ、験潮場ヲ設ケ、専ラ潮流ノ干満ヲ験シツヽアリキ。
〔参考〕 東京湾築港沿革ニ、
  市区改正ニ係ル取調ハ、僅ニ著手致候位ニ有之候ヘ共、左ノ景況概略御報申上候。
   一、東京湾築港ノ件ハ、主トシテ海軍省海港監督「ルノー」氏ニ相談仕候。同氏ハ海港ニ関シ学識経験共ニ有之由、技術官連中ノ評ヲ聞及候。叉手同氏ノ考案ハ、未ダ結了不致候得共大体ニ於テ大ヒニ従前見ル所ノ計画ト異リ、意表ニ出テ閉口致候。勿論地勢及運輸ノ景況等ヲ詳ニセザレバ、確タル計画ハ難相成候得共、十分従来ノ参考ト可相成材料ハ授呉候事ト確信候。
   当地ニ於テ小生面会致候技術官ハ、尽ク東京築港ノ有益ナルヲ断信候様見受候。巴里技術部長土木一等技監「アルフアン」氏ノ如キハ、東京ノ図ヲ見ルヤ否直チニ、港ハ何所ニ有ヤト問候ニ付、沖懸リナル由相答候処、余程驚キタル模様相見候。「ルノー」氏モ「ムルドル」氏及小生ノ説ノ如クマンチエスター運河ノ例ヲ挙ゲ、東京ヲ放擲スルハ了解シ難キ由申候。東京ヨリ横浜迄八里許ノ鉄道ヲ桟橋ト見ルハ余リ長過ルト申候。其他ノ技術官数名就中「ブーケ・ド・ラ・ケリー」氏巴里築港主唱者。ノ如キ無論同説ニ御座候。(以下略ス。)
    二月十八日 ○明治廿二年歟《(原註)》。        古市公威
      芳川次官宛


渋沢栄一書翰 萩原源太郎宛 (明治二一年)二月三〇日(DK280030k-0002)
第28巻 p.294-295 ページ画像

渋沢栄一書翰  萩原源太郎宛 (明治二一年)二月三〇日   (萩原英一氏所蔵)
○上略
御書状落手仕候、只今従是モ一寸申上度相考候義有之候際ニ付、貴价ニ附シ申上候一事ハ、明後二日午後六時ニ東京湾築港之事ニ付委員会相開度候間、最前市区改正委員之外更ニ小室信夫・平野富二之両氏ヲ加ヘ、至急御通達被下度候、尤荘田・平野・小室抔之諸子ニハ是非出席相成候様仕度ニ付、別而其段御申添可被下候
右ハ今日審査会ニて築港之議ニ取掛リ候処、船入港湾之面積等ニ付商工会ニ於て調査相成度と申事ニ相成、至急右様委員会相開候義ニ付、可成ハ貴兄夫々ヘ御越ニて其辺も御申入被下、必ス出席相成候様御心配可被下候、此段書中申上候 匆々
  三十日
                      渋沢栄一
 - 第28巻 p.295 -ページ画像 
    萩原様
   ○本資料第十九巻所収「東京商工会」明治二十一年一月二十七日ノ条、並ニ第二十七巻所収「東京経済学協会」明治二十二年一月十九日ノ各条参照。