デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

6章 政治・自治行政
2節 自治行政
2款 東京市区改正及ビ東京湾築港 4. 東京湾築港調査
■綱文

第28巻 p.295-343(DK280031k) ページ画像

明治28年8月24日(1895年)

是日、東京市区改正委員会ニ於テ、栄一ノ建議ニヨリ、東京湾築港ニ関シ更メテ調査委員設置ノ件議決サル。同年十月十四日、同委員会ニ於テ栄一等七名、築港調査委員ニ選定サレタル旨報告アリ。


■資料

東京市区改正委員会議事録 第八巻・第八三―一〇六丁(DK280031k-0001)
第28巻 p.295-296 ページ画像

東京市区改正委員会議事録  第八巻・第八三―一〇六丁
                     (東京府文庫所蔵)
東京市区改正委員会議事録第百二十号
  明治二十八年八月二十四日午前九時四十分開議
○上略
○二十七番渋沢曰 議題外ノ事項ナルカ、東京湾築港ノ件ハ明治十七八年頃ヨリ此問題起リ、本会ニ於テモ二十一二年頃ヨリ古市氏カ欧米ヘ行カルヽトキ其取調ヲ嘱託シ、之ヲ報告セラレタル事ヲモ記憶セルカ、之ハ市区改正ノ付帯事業ト為シタレトモ設計ヲ為ス迄ニハ及ハサリキ、最初本会ヨリ内務大臣ヘ具申セシコトニテ、原来築港ノ事柄ハ市区改正トハ恰モ門戸ト坐敷ト連接セシムルカ如キ関係ヲ有スルモノナレハト論シタル位ナレハ、只徒ラニ歳月ヲ空過セシムルハ残念ナリ、古市氏カ仏国ノ「ルノー」氏ニ聞合セテ適当ノ設計ヲ組成セラレシコトヲ記憶シ居レハ、之ニ就テモ相当ノ調査アランコトヲ喚ヒ起シタシ、其調査ハ以前ヨリ引続キタル委員ト為スカ、或ハ別ニ調査委員ヲ設ケラルヽカ、兎モ角モ速カニ調査ニ着手セラレンコトヲ希望ス
○二十四番佐久間曰 賛成
○二十一番石垣曰 此度商業会議所ヨリモ築港ニ関スル建議ヲ提出セラレタル由、御洩シカ出来得ルナラ伺ヒタシ
○二十七番渋沢曰 商業会議所ヨリ何ニモ建議ハ為サス、只調査会ヲ開キタルカ、某々設計ニセハ可ナルカト云フ様ナルコトハ致サス、商業会議所ハ艀舟ヲ如何スルトカ、商品ハ如何トカ、倉場ノ必要トカ云フ方ノ点ヨリ取調フルモノニテ、詰リ築港ニ就テハ諸方ト手ヲ引キ合フテ行カントスルモノナルニ外ナラス、要スルニ明治十八年頃「ムルトル」氏ニ設計セシメ「デレーケ」又ハ「ルノー」氏等ノ設計アレトモ之ハ只大体上ノ事ノミ、故ニ是非本会ニ於テ充分ナル設計ノ確定アランコトヲ欲スルニアリ
○二十一番石垣曰 同意ヲ表シタシ
○二十五番芳野曰 其当時一旦調査委員ヲ置カレタレトモ、恰モ水道事業ノ起リシ際ナリシヲ以テ、築港ハ当分ノ内為スコト能ハスト云フ事ニテ其儘今日ニ押移リタリ、然ルニ今日ニ於テハ已ニ其委員モ古市氏ヲ除ク外一人モナキニ至リシ程ナレハ、此際二十七番ノ提議ヲ採用セラレンコトヲ欲ス
 - 第28巻 p.296 -ページ画像 
○七番松田曰 賛成
○委員長曰 前ノ委員ハ自然消滅ナラン、依テ更ニ調査委員ヲ置ク説ニ同意者起立アレ
  三名ノ外総起立
 又曰 調査委員ハ追テ指令報告セン、本日ハ是ニテ散会
   于時午後二時三十六分


東京市史稿 東京市役所編 港湾篇第四・第五七五頁 大正一五年一二月刊(DK280031k-0002)
第28巻 p.296 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

東京湾築港沿革 刊(DK280031k-0003)
第28巻 p.296-343 ページ画像

東京湾築港沿革  刊
  目次 ○丁付略ス。
一東京湾築港沿革要領
一東京府知事ヨリ品海築港上申
  付 築港工事解説
    築港工費概算
一内務省土木局傭工師「ムルドル」氏意見
一内務卿ヨリ品海築港上申
一太政大臣ヨリ内務卿ヘ指令
一太政大臣ヨリ海軍省ヘ達
一内務卿ヨリ東京府知事ヘ指令
一内務卿ヨリ東京市区改正審査会ヘ達
一樺山・柳両海軍少将ヘ品海築港方案審査委員仰付ラル
一東京市区改正審査会議定品海築港方案
  付 築港費用概算
一内務卿ヨリ太政大臣ヘ復命
一芳野世経ヨリ品海築港ニ関スル提議
一東京市区改正委員会ヨリ品海築港ニ関スル建議
一内務大臣ヨリ東京市区改正委員会ヘ訓令
一古市公威ヘ外国ニ於テ築港設計ニ関スル質議ヲ依頼ス
一大川ノ地質調査ヲ地質調査局ニ委託ス
一材料取調方ヲ沖野忠雄・肝付兼行ヘ委託ス
一東京湾築港設計用材料集緝手続
一砲台以外ノ深浅測量・潮流ノ方向・速力測定・地質調査・量潮標ニ関スル一切ノ事務等ヲ海軍省・農商務省・東京府ニ依頼ス
 - 第28巻 p.297 -ページ画像 
一地質調査ヲ農商務大臣ヘ依頼ス
一仏国海軍省海工監督官「ルノー」氏意見
一肝付兼行ヨリ調査委員設置ノ提議
一渋沢栄一ヨリ更ニ調査委員設置ノ建議

参考書
 一内務省土木局傭工師「デ・レエケ」氏上申書
 一品海水底地質調査報告
 一東京湾水底地質調査報告
 一築港ニ関スル古市委員報告

  東京湾築港沿革要領
明治十八年中時ノ東京府知事芳川顕正カ内務省傭工師蘭人「ムルドル」氏ノ意見ヲ問ヒ、以テ隅田川口ノ西派ヲ塞キ東派ヨリ全流ヲ海ニ注キ更ニ突堤ヲ築キ以テ海ニ向ヒ漏斗ノ状ヲ為シタル大池ヲ造ラントスルノ設計即チ深港策ヲ採ラントスルコトヲ内務卿ニ上申セリ、之レ蓋シ築港計劃ノ嚆矢ナラン、而シテ内務卿ハ太政大臣ヘ上申シ太政大臣ハ之ヲ納レテ更ニ東京市区改正審査会ノ議ニ付セラレシカ、同会ニ於テハ審議ノ末隅田川ノ東派即チ上総澪口ヲ塡塞シ全流ヲ西派ニ導キ永代橋下ニ於テ川幅ヲ凡ソ百間トシ漸次之ヲ拡メテ品川炮台ノ南ニ至リ凡ソ百五十間ト為シ佃島ノ南埋地ノ尽所ヨリ澪筋ノ西側ニ麁朶工導流柵ヲ設クルノ設計ニシテ、即チ流水港ヲ作ラントスルノ意見ヲ定メ以テ復申セリ、後チ東京市区改正委員会ヲ組織セラレシニ当リ同会ハ二十五番ノ発議ヲ採リ内務大臣ニ向ツテ品海築港ニ関スル建議ヲ提出シ、又二十二番ノ欧行ニ託シ欧洲ニ於テ斯業ニ経験アル者ニ就キ之カ意見ヲ徴スルコトヲ以テシ、傍ラ調査委員ヲ置キ品川湾ノ測量、海潮ノ干満、諸川ノ水源、土砂ノ流量、大川ノ深浅等ヲ取調ツヽアリタリ
而シテ二十二番ハ仏人「ルノー」氏ニ嘱セシ設計ヲ齎シ帰朝セシヲ以テ之ヲ本会ニ報告シ、各調査委員ハ鋭意斯業ニ熱中従事セシモ如何セン事頗ル大業加之当時専ラ水道改良事業ノ急施ヲ要スルモノアルト潮流ノ干満ヲ験スルハ成ルヘク歳月ヲ永カラシムルヲ良シトスル等ノ事アルヲ以テ終ニ今日ニ到レルナリ、故ニ其間該調査委員ノ如キモ或ハ退任シ或ハ転換シ前キニ選定セラレシモノ殆ント一人ヲ遺スナキニ至リシヲ以テ今回二十七番ノ建議ニ基キ更ニ調査委員ヲ選定セラレシナリ、之レ即チ斯業ニ於ケル沿革ノ概要ニシテ其詳細ハ別紙ニ臚列セリ
  東京湾築港沿革
    東京市区改正審査会ニ於ケル沿革
○明治十八年二月中東京府知事ヨリ品海築港ノ義ニ付、築港工事解説書並内務省土木局傭工師「ムルドル」ノ意見ヲ添ヘ内務卿ヘ上申セリ、其上申文左ノ如シ
    品海築港之儀ニ付上申
 案スルニ凡ソ都会ノ繁盛ヲ致セル所以ノモノハ政治若クハ通商ニ起因セサルハナシ、甲ニ因スル者ハ政権ノ聚散ニ由テ栄枯ヲ顕ハス事実ニ甚シク、乙ニ起レル者ハ一ニ貿易ノ振否ニ関シ而シテ政権ノ影
 - 第28巻 p.298 -ページ画像 
響ヲ受クル事著シカラサルナリ
 今マ卑職熟々東京ノ地勢ヲ察スルニ、西北遥ニ武相常野ノ諸山ヲ負ヒ而シテ東南海ニ面シ又隅田・利根・多摩等ノ諸川ノ周囲ヲ環流スルアリ、中間平濶ニシテ渺茫トシテ際涯ナク沃野千里実ニ天府ノ地タリ、其形勝豈ニ他ノ諸州ノ能ク肩ヲ比ス可キ者ナランヤ、然ルニ細ニ其裏面ヲ察スルニ、港湾アリト雖トモ甚タ浅ク以テ大船ヲ容ルルニ足ラス、運河ノ便アリト雖トモ僅々東北数州ヲ牽連スルニ過キスシテ未タ全ク海内商業ノ牛耳ヲ執ルニ堪エサルナリ、是レ吾人ノ従来憾ヲ遺ス所トス、是ヲ以テ昔載太田氏其居城ヲ此地ニ占ムルノ日ニ方テヤ唯タ寥々乎タル一市邑ニ過キサリシモ嗣テ徳川氏覇府ヲ開キ天下ノ政権ヲ掌握スルヤ諸侯ニ参勤交代ノ法アリ、家眷ハ玆ニ居住セサルヲ得サルノ制アリ、是ヲ以テ荒野頓ニ第宅ノ美ヲ現ハシ街路忽チ車駕ノ繁ヲ極メ百般ノ需用日ニ月ニ増進スルニ及ンテ百工此ニ聚リ商賈此ニ群リ四方ノ貨物ヲ運入シ以テ其需求ニ応スルニ至リ、市廛鱗次シ民庶蟻集シ遂ニ東海ノ一大都会トハナリタルモ、是レ海内ノ富庶ヲ強テ都下ニ集合セシムルノ政策ニ職トシテ由ラスンハアラサルナリ、故ニ幕府ノ末葉ニ於テ其参勤交代ノ制ヲ解キ家眷ヲシテ各々其州郡ニ放還セシムルニ及ンテヤ、士民之ニ従テ四方ニ離散スル者甚タ多ク、延テ維新ノ初メニ至テハ所謂四里四方ノ大都モ殆ント往時ノ一市邑ニ変セントスルノ傾向アリ、然ルニ爾後幾モナク帝都ヲ此地ニ定メラレシヨリ向ニ離散シタル士民ノ復帰スルアリ、又新ニ居ヲ此地ニ移ス者アリ、方今ニ至リテハ再ヒ往時ノ昌盛ニ復セントスルノ勢アリ、固ヨリ彼ノ通商ニ因テ盛大ヲ致セル大坂等トハ其趣ヲ同フセサルナリ
 今夫レ大坂ノ地勢ヲ観ルニ河海亦浅淤ニシテ其便十分ナラスト雖トモ之ヲ我東京ニ比スルニ其優レル事已ニ幾層トス、之ニ加フルニ其地タル四通八達ニシテ関西諸州ノ咽喉ヲ扼シ而シテ貨物ヲ四方ニ配布スルニ甚タ便ナリ、故ヲ以テ当時西南諸州ノ貨物ヲ諸国ニ運スルヤ一旦坂府ヲ経過セサルモノ殆ント稀ナリ、実ニ海内商業ノ中心ト謂フモ不可ナキナリ、是故ニ豊臣氏ノ居城一旦故坵ニ付シ而シテ政権坂府ノ地ヲ払フニ至ルモ常ニ海内通商ノ権ヲ執リ賈人商戸ハ依然トシテ其旧観ヲ改ムルコトナキナリ、由是観之人為ノ都府ノ天然ノ府都ニ如カサルヤ昭々乎トシテ明カナリ、若夫レ人為ト天然ノ便ヲ併有スルノ都府ヲ得ルニ至テハ其利豈ニ勝ケテ言フ可ンヤ
 然則東京ハ縦令ヒ其河海ノ便ヲ尽スモ政治的ノ都府タルニ過ス、而シテ到底商業的ノ都府トナス事能ハサル乎、曰ク否、只タ未タ曾テ善良ノ工事ヲ起シ之レカ利用ヲ試ミサルノミ、之レニ善良ノ工事ヲ施シ内外ノ大舶ヲシテ自由ニ出入スル事ヲ得セシムルハ、蓋シ甚難ノ事ニ非サルナリ
 夫レ東京ハ我大八洲ノ首府タリ、単ニ武蔵国ノ首府ニ非サルナリ、況ヤ又タ外国互市ノ場ト定メラレタルニ於テヲヤ、於是務メテ河海ヲ浚鑿シ以テ船舶ノ出入ヲ便ニシ、道路ヲ改修シ以テ車馬ノ来往ヲ自在ニシ、水道及下水ヲ改良シ以テ人士ノ健康ヲ進メ、或ハ家屋ヲ改築シ以テ祝融ノ害ヲ防キ、或ハ歌舞音曲場ヲ改良シ或ハ遊園ヲ設
 - 第28巻 p.299 -ページ画像 
ケ以テ精神ヲ慰シ耳目ヲ娯マシムル等ノ如キハ寔ニ今日府政ノ止ム可カラサルモノトス、是ヲ以テ卑職曩ニ市区改正ノ意見ヲ草シテ之ヲ進達セシニ、幸ヒニ卑見ヲ納レ速ニ裁可ヲ賜ハリ現ニ其審査会議ニ付セラルヽニ至ル、則チ品海築港ノ挙亦一日忽諸ニ付ス可ラサルナリ、蓋シ市区改正ノ挙タル、道路ヲ拡ケ橋梁ヲ堅クシ河川ヲ浚渫シ或ハ新ニ之ヲ開鑿スル等固ヨリ水陸運輸ノ便ヲ尽スノ方法タリト雖トモ、苟モ固有ノ港湾ヲ浚鑿シテ以テ大船ヲ容レ而シテ海陸ノ便ヲ併有スルニ非スンハ亦只タ旧来ノ便ヲ益スニ過キサルノミ、若シ大舶ノ自由ニ出入シ以テ海内外ノ貨物ヲ運輸スル事ヲ得セシメハ、即チ東京ヲシテ独リ政策ノ力ニ之レ由ラス通商的ノ便益ヲ併有シテ以テ益々昌盛ノ域ニ進マシムル事ヲ得ヘキナリ、是レ品海築港ノ今日ニ止ム事能ハサル所以ナリ
 是ヲ以テ曩ニ卑職海軍省水路局ニ協議シ又僚属ニ命シ先ツ品海ノ深浅ヲ測量セシメ頗ル其実際ノ利弊ヲ討論考究シ、尚内務省土木局傭工師蘭人ムルドル氏ノ意見ヲ問ヒ遂ニ別紙図面ノ如ク築港ノ計画ヲ遂ケタリ、或ハ云フ品海築港ノ挙美ハ則チ美ナリト雖トモ費額甚タ多クシテ策ノ得タルモノニアラス、京浜間既ニ鉄道ノ布設アリ、寧ロ横浜若クハ相州地方ニ於テ天然ノ地形ヲ選ミ良港ヲ設ケ、而シテ単ニ隅田川ノ下流ニ就テ小船ノ繋留シ得ヘキ一小川港ヲ設クルノ優レルニ如カスト、今或氏ノ説ヲ考フルニ是レ一論ナリト雖トモ、唯タ目前ノ小利ヲ見テ深ク府下永遠ノ利益ヲ図ラサルモノニ似タリ、蓋シ宇内各国運輸最モ盛ナルノ地ニ於テ人工ヲ加ヘ以テ良港ヲ造成セルモノ其例少ナシトセス、蘇格蘭ノ「グラスゴー」港ノ如キハ其最モ著シキモノニシテ、十数年前ニ在テハ其深サ僅カニ十尺内外ニ過ギサリシカ、今日ニ在テハ大西洋ヲ航行スル巨大ノ船舶ヲ容易ニ出入スルニ至レリ、其他英国ノ「リバルブール」米国ノ「ニユーヨルク」等ノ良港ノ名ヲ得タルモ亦常ニ人工ヲ以テ浚鑿セルニ非ザルハナシ、況ヤ品海ハ敢テ工ヲ施シ難キ所ニ非サルニ於テヲヤ、此レ卑職カ愈々築港ノ挙ニ熱心シテ止ム事能ハサル所ナリ
 然リト雖トモ築港ノ挙タルヤ亦至大至重ニシテ其関係スル所甚タ広シ、決シテ軽々ニ看過スヘキ者ニ非サルナリ、故ニ政府幸ニ卑見ノ其正鵠ヲ失スル事ナシトシ而シテ的当ノ委員ヲ選ヒ其審査ニ付シ彼ノ市区改正ト並ヒ行ハルヽニ至テハ、果シテ東京ハ政治及通商ノ二利ヲ兼併スルノ都府トナシ以テ永ク東洋ノ一大都府トナス事ヲ得ルハ期シテ待ツヘキナリ、今謹テ図面並ニ工事解説書・工師意見書ヲ進達ス、伏望ムラクハ速ニ廟議ヲ尽シ府下将来繁栄ノ基礎ヲ確定セラレン事ヲ 謹言
  明治十八年二月五日
                東京府知事 芳川顕正
    内務卿 伯爵 山県有朋殿
  追申
 本文亦其費額ノ出処ヲ論セサルモノハ彼ノ市区改正ノ費額ト共ニ其方法ヲ定メ不日将サニ上請スル所アラントス
    築港工事解説書
 - 第28巻 p.300 -ページ画像 
玆ニ計画スル所ノ東京湾築港ハ内務省土木局傭工師蘭人「ムルドル」氏ノ調査ニ係ル深港策ニ基キタルモノニシテ、図上ニ示ス如ク隅田川口西派ヲ塞断シ東派ヨリ全流ヲ海ニ注キ而シテ更ニ突堤ヲ築キ海ニ向テ漏斗ノ状ヲ為シタル大池ヲ造ルニアリ、永代橋上流隅田川改修ノ工事ハ自ラ別問題タルヲ以テ玆ニ掲スト雖トモ、今企図スル所ノ深港策ノ目的ヲ完全ナラシムルニハ其下流ヲ制治センカ為メ左ノ工事ヲ施スヘキモノトス
 第一 隅田川口西派ヲ塞断スル為メニ霊岸島・石川島間ニ於テ緩ナル彎曲ヲ為シ延長弐百四拾間ノ粗朶工導流堤ヲ設クヘシ
 第二 永代橋際ヨリ越中島沖ニ達スル全長六百八拾間ノ導流杭柵ヲ設クヘシ
 第三 石川島東端ヨリ南ニ向ヒ延長千四百五拾間ノ導流杭柵ヲ海中ニ設クヘシ
 第四 前項導流杭柵ヲ猶ホ延長シ東南ニ向ヒ緩ナル彎曲ヲ有スル同長ノ粗朶工導流堤ヲ設クヘシ
粗朶工導流堤ノ構造ハ海底ノ深浅ニ随ヒ幾層ノ沈床ヲ為シ捨石ヲ以テ之ヲ覆ヒ堤頭ヲ低水面ノ高ニ達セシムルニアリ、導流杭柵ノ構造ハ東京湾澪浚工事ニ使用セシ導流杭柵ニ異ナル事ナシ
 第五 隅田川東川口ヨリ導流杭柵ニ沿ヒ延長約ソ千間ノ間浚渫ヲ施スヘシ
以上ノ工事ハ川ト港トヲ全ク区別シ而シテ隅田川下流ヲ制治スルニ必用ナルモノニシテ、左ニ掲クル所ハ築港工事ノ本体ヲ為スニアリ
 第一 石川島・第三砲台間ニ於テ上幅拾壱尺延長千七百拾間ノ突堤ヲ設クヘシ
 第二 第一・第四及品川砲台ヲ相結ヒ上幅拾五尺全長四百四拾間ノ突堤ヲ設クヘシ
 第三 第三・第四砲台ヨリ南々東ニ向ヒ上幅拾五尺全長四千六百〇五間ノ突堤ヲ設クヘシ
突堤ノ構造ハ海底ノ深浅ニ随ヒ一層或ハ二層ノ沈床ヲ為シ、捨石ヲ投シ之ヲ覆ヒ堅牢ナル基礎ヲ造リ以テ石壁ヲ築キ最高潮面上ニ突出セシムルニアリ、抑モ突堤ヲ設ケ其海ニ向テ突出セル部分ニ漏斗ノ状ヲ与ヘシモノハ、一ニハ別冊工師意見書ニ記スル如ク沿岸ト相結テ大池ヲ為リ満潮ニ方リ潮水ヲ以テ之ヲ満タシ、干潮ニ方リテハ其瀦溜セル大量ノ水ヲ漸々狭窄セル漏斗口ヨリ放下セシメ、之ニ因テ生スル速力ヲ以テ港口ノ変更ヲ防クニアリ、二ニハ海面遠隔ノ点ヨリ来レル波浪ヲ撃砕シ港内ノ船舶ヲ保護スルニアリ、三ニハ波浪ノ流送スル土砂等ヲ港外ニ停ムルニアリ
 第四 石川島以南ニ於テ延長約ソ五百間ノ箇所ヲ埋立テ其西岸ニ接シ面積大約壱万六千坪ヲ有スル船梁ヲ設ケ其入口ニ於テ内ノ方ニ開ク扉ヲ具スヘシ
 第五 霊岸島・石川島間ニ於テ幅員三拾間延長百〇八間ノ締切ヲ設ケ、其南岸石垣ヲシテ低水下弐拾三尺以上ノ深サニ達セシムヘシ
 第六 締切ヨリ高橋稲荷橋ニ沿ヒ鉄砲洲・海岸通・築地口ニ至ル海岸ハ凡ソ之ヲ改造シ、新設石垣ヲシテ同シク低水下弐拾三尺以上
 - 第28巻 p.301 -ページ画像 
ノ深サニ達セシムヘシ
 第七 港内ハ凡テ低水下弐拾三尺ノ深サニ浚渫スヘキ計画ナリト雖トモ、目今ニ在テハ図上距点線ヲ以テ示ス如ク延長大約五千七百間幅員平均百五拾間ヲ浚渫スルヲ以テ足レリトス
 第八 第五砲台ハ澪筋ニ係ルヲ以テ直チニ之ヲ撤却シ、将来全港ノ浚渫ヲ施スニ至テハ第六砲台ヲモ撤却スヘキモノトス
 第九 突堤両端及芝離宮・石川島・第二砲台ノ五箇所ニ於テ灯台ヲ設ケ入港船舶航行ノ便ニ供スヘシ
以上ノ計画ニ依ルトキハ石川島ヨリ築地川口ニ達スル海岸ハ低水下弐拾三尺以上ノ深サニ達スルヲ以テ桟橋等ノ設ケヲ借ラスシテ汽船ヲ直チニ岸面ニ近接スルヲ得ヘク、而シテ其全長千間以上ナルヲ以テ長サ五拾間内外ノ船舶ト雖モ一時ニ弐拾艘以上ヲ岸面ニ繋キ貨物ヲ上下スルヲ得ヘシ、又石川島ノ南ニ方リ船渠ノ設ケアリテ数多ノ船舶ヲ之ニ入ルヘク、而シテ内ノ方ニ開ク所ノ扉ヲ設クルモノハ吃水三拾尺以上ノ大汽船ト雖モ渠内ニ在テハ潮ノ干満ニ係ラス貨物ヲ上下シ満潮ヲ竢テ出入スルヲ得セシムヘキ装置ナリ、其運搬シタル貨物ハ船渠ヨリ石川島ニ達スル適当ノ線路ヲ設ケ締切ヲ経テ之ヲ市街ニ運送スルヲ得ヘク、又其直チニ分配ヲ要セサル貨物ハ船渠ノ周囲ニ於テ数多ノ倉庫ヲ築造シ一時之ニ儲蔵スルヲ得ヘシ、而シテ芝離宮以北ニ於テ面積三万五千坪余ナル船溜リノ設ケアルヲ以テ数十艘ノ船舶之ニ碇泊セシムルヲ得ヘキカ故ニ、目今ノ商運ニ在リテハ充分ナル計画ト云フヘシ、而シテ商業益々隆盛ニ赴クニ随ヒ漸々港内ヲ浚渫スルニ於テハ、芝・品川沿岸ニ於テ随意ニ船渠或ハ桟橋等ヲ設クルヲ得ヘシ、又石川島ノ南ニ方リ図上断続線ヲ以テ示シタルハ将来埋築ノ工事ヲ施シ船渠等ヲ之ニ設クルヲ得ヘキナリ
    築港工費概算
一永代橋際ヨリ越中島沖ニ達スル導流杭柵
                 延長 六百八拾間
  此工費金四千六百拾四円四拾銭 但壱間ニ付 金六円七拾八銭六厘弱
一霊岸島ヨリ石川島ニ達スル粗朶工導流堤
                 延長 弐百四拾間
  此工費金弐万五千六百拾五円八拾銭
                 但壱間ニ付 金百〇六円七拾三銭二厘弱
一石川島ヨリ突堤外ニ沿ヒ新築スヘキ導流杭柵
                 延長 千四百五拾間
  此工費金九千八百三拾九円七拾銭
                 但壱間ニ付 金六円七拾八銭六厘
一突堤外ニ沿ヒ新築スヘキ粗朶工導流堤
                 延長千四百五拾間
  此工費金八万〇六百〇八円七拾六銭五厘
                 但壱間ニ付 金五拾五円五拾九銭弐厘余
一隅田川東川口浚渫        長千間 土積七千九百三拾立坪
  此工費金五千九百四十七円五拾銭
                 但壱坪ニ付 金七拾五銭
 - 第28巻 p.302 -ページ画像 
一霊岸島ヨリ石川島ニ渡ル締切   上巾三拾間 長百〇八間
  此工費金九万四千四百九拾五円弐拾銭
                 但壱間ニ付 金八百七拾四円九拾四銭六厘余
一締切ヨリ高橋稲荷橋ニ沿ヒ鉄砲洲河岸通海軍省ノ北築地
 川口ニ至ル護岸         延長 九百五拾間
  此工費金六拾六万五千円    但壱間ニ付 金七百円
                 台場外 巾拾五尺 長五千〇四拾五間
一東西両側突堤
                 台場内 巾拾壱尺 長千七百拾間
  此工費金四百拾六万円
一船渠              壱ケ所
  此工費金七拾五万九千四百八拾三円
一埋立箇所護岸石垣        八百拾五間
  此工費金八万千五百円     但壱間ニ付 金壱百円
一築港用諸器械
  此代価金五拾万円
一澪標              弐拾ケ所
  此工費金六千円        但壱ケ所 金三百円
一灯台              五ケ所
  此建築費金五万円       但壱ケ所 金壱万円
一灯台番人小家          壱ケ所
  此建築費金弐百五拾円
        平均深弐拾尺
一澪筋浚渫            長五千七百間
        平均巾百五拾間
  此土積弐百八拾五万立坪
  此費用金四百弐拾七万五千円  但壱坪ニ付 金壱円五拾銭
一第五砲台撤却          壱ケ所
 此工費金九万九千三百円六拾銭
  合金千百四拾壱万七千六百五拾四円九拾六銭五厘
   外ニ
  金百拾四万千七百六拾五円四拾九銭六厘五毛   予備費
総計
 金千弐百五拾五万九千四百弐拾円四拾六銭壱厘五毛
    東京湾築港ニ関スル「ムルドル」氏意見書
東京ハ日本ノ首府全国ノ大市ナリ、其海並ニ内地ト交通ノ便ヲ占ムルノ緊要ナルハ各人之ヲ洞察スヘシ、今ヤ此首府ト江戸湾ト交通ノ状況ヲ見レハ甚不便ト云ハサルヲ得ス
河口ヲ入テ市中ニ近ツクヲ得ルノ船ハ甚細小ノ者ノミ、吃水四尺乃至五尺ニ過クル艀舟及諸船ニ至テハ高水ヲ待タサレハ内ニ入ル能ハス、諸日本大船ハ(大汽船ハ勿論)其載貨ヲ艀舟ニ移スヘク而シテ市ヲ距ル里余ノ外港ニ在テ風浪ヲ冒シ或ハ数日間爰ニ留ラサルヘカラス、然レハ此忍ヒ難キ状況ヲ改良スルハ人ノ切ニ希望スル処ト為リ而シテ其改良ヲ施スニハ如何ノ方法ヲ以テ最良トスヘキヤヲ研究スルニ至レリ
一説ニハ東京ヲ貫ク処ノ墨田川ヲ改修シ、船ヲシテ全貨ヲ載セテ市中ニ達スルヲ得セシムヘキ者トシ、又一説ニハ充分ノ結果ヲ此川ノ改修ニ望マス、全ク此川ヨリ別テ港ヲ造リ以テ大海舶ノ出入ニ堪ヘシメント欲セリ
 - 第28巻 p.303 -ページ画像 
此方法ニ就キ意見ノ相合ハサルヨリ予ニ質スニ左ノ問題ヲ以テセリ
第一 地図ニ示スカ如ク墨田川ハ石川島ニ於テ其水ヲ二道ヨリ放ツ、今其西澪ヲ塞キ水路ヲ深フシ港ヲ隄下ニ造ルノ説アリ、其意見行ハルヘキヤ、又其結果如何
第二 第二説ハ東澪ヲ塞キ全川ヲ他ヨリ放チ、而シテ流水ノ浚力ヲ以テ所要ノ水深ヲ港内ニ保ツヘシトス、此企図ヲ行フノ結果如何
第三 此計策各河流ニ関係スル如何、又通船ニ所要ノ水深ヲ保ツニ於テ利害如何
第四 上ノ問題ニ拘ラス東京港ノ為汝ノ考按ハ如何
予ハ此質問ノ順序ニ拘ラス先ツ川ノ改修ニ由テ東京貿易ノ為如何ノ結果ヲ期待スヘキヤヲ論シ、次ニ河流ヲ用ヒスシテ又其要旨ヲ傷ハス東京ヲ海港ノ地ト為スヲ得ヘキヤヲ穿鑿セント欲ス
初三ケ条ノ問ニ答フヘキ処ノ方法及之ヨリ引ク処ノ決断ニ由テ自ラ第四問ノ答ヲ生スヘシ
  川策
墨田川ノ口ハ如何ノ方法ヲ以テ改良セン乎、此改良ハ如何ノ結果ヲ生セン乎
墨田川ハ東京ノ東部ヲ通過シ一双ノ溝渠ニ由テ中川及江戸川ヨリ注入ヲ左岸ニ両国ノ下及大橋ノ下ニ承ケ、右岸ニハ遠ク市中ニ通スル溝渠若干条ト接ス、該川ハ広狭甚不同ニシテ其流曾テ制治ノ働ヲ為サス
川ハ永代橋ノ下石川島ニ至テ二派ニ分ル、其西派即主派ハ築地・浜離宮・芝離宮ニ沿フテ其路ヲ取リ、而後漸ク岸ヨリ遠ザカリ品川砲台第二・第五ノ間ヲ経テ江戸湾ニ入ル
東派ハ要旨少キ者ニシテ石川島ノ外ニ出テヽ大ニ散蔓シ其水ヲ砲台ノ東ニ放ツ
現今ノ状況ニ於テ貫通セル深サハ両国橋ヨリ永代橋ノ下ニ至ルマテ低水ニ在テ約十二尺、之ヨリ東孔ヲ経テ海ニ達スル者ハ低水下二尺乃至三尺、西孔ヲ経テ品川ニ至ル者ハ低水下四尺乃至五尺ニ過キス
其他川ニ三所ノ深淵アリ、乃チ両国橋・大橋ナル大屈曲ノ者及永代橋ノ者是ナリ、此最後ノ深所ハ東西両孔ヨリ進入スル潮流ノ力ニ帰セサル可ラス、其潮流ハ殊ニ夏間ノ南風ニ由テ種々ノ盤渦及底ノ侵蝕ヲ起ス者ナリ
川ノ水線ノ形ハ殊ニ低水ニ在テ大抵斉整ナル事其縦断積ニ明ナリ、但永代橋ノ下ニ水面ノ亢隆ヲ生スルヲ見ル、其因ハ該所ノ横断積ト石川島ノ東西両孔ノ者ト権衡ヲ得サルニ帰セサル可ラス、第五断積(永代橋ノ下分点ノ上)ノ容量ハ千八百八十一年九月十九日即量査ノ日ニ於テ六千二百六十方尺ニシテ、石川島ノ両側ナル第六・第八断積ノ総計ハ僅ニ六千六百三十五方尺ニ登レリ、即チ百分ノ六ノ如キノミ(第七第八ノ総計ハ尚小ニシテ六千三百三十方尺)此川ノ二派ニ分ルヽニ方リ、其二派ノ断積ノ総計ハ未タ分レサル断積ヨリモ著ク大ナルヘク、又主河ト其派トノ広サニ於ルモ必某関係ノ存ス可カリシ者ナリ、今ヤ其然ルヲ見ス、故ニ此不斉整ハ則川ニ沮滞ヲ起シ其勾配線ヲ不斉整ニ為サヽルヲ得サルナリ
高水ニ方テハ同日ニ於テハ恰モ反対ノ象ヲ現セリ、則第六・第八断積
 - 第28巻 p.304 -ページ画像 
ノ総計ハ(一万千五百十四方尺)第五断積(八千百)ニ比較スルニ至大乃チ百分ノ四十二ノ大ナルニ至ル
霊岸島ヨリ品川ニ至ル九月二十九日ノ勾配線ニ拠レハ此日ノ低水ハ品川ノ霊岸島ヨリ高カリシヲ知ル、此現象ハ南風ノ水ヲ砲台ノ近傍ニ駆逐セルニ起ル処ニシテ只特別ニ生スル者タル事明ナリ、是若シ然ラサレハ河水ハ湾ニ放下スル能ハサルヘキカ故ナリ、加之某時間霊岸島及品川ニ於テ経験セル潮線ノ図ニ拠ルモ亦其然ルヲ審ニス、其図ニ干潮ハ砲台ノ近辺ニ下ル事河口ヨリモ低ク、満潮ハ之ニ反シテ品川ニ高キヲ見ル
此潮線ハ蓋シ完全ノ者ニアラス(例ヘハ第二砲台ニテハ只日潮ノ経験ニ止リ或ハ真正ノ最高低水位ヲ欠ケリ)然レトモ之ニ由テ左ノ数ヲ得
 品川ノ潮差    大汐平均六尺小汐検査ヲ経ス
           満潮ハ霊岸島ノ低水上平均四尺
           干潮ハ霊岸島ノ低水下平均二尺
          大汐平均四尺即平均低水上三尺
 霊岸島ノ潮差
          小汐平均二尺乃至二尺半則平均低水下一尺
 両国橋ニ於テハ潮汐ノ差大汐四尺小汐一尺トス
然リト雖トモ此最後ノ潮差ハ甚不斉整ニシテ風候ニ関スル者ナリ、則月日ト連結セル図ニ明ナル処ノ如シ
東京ト海ト水路ノ交通ヲ改良スルカ為墨田川ヲ用ユルノ良法ハ、第一図ニ紅色ノ線ヲ以テ示ス処ノ者タル事彼是ノ事実及局所ノ穿鑿ニ由テ明ナリ、此図ニ由テ見レハ第一最高潮水ノ上ニ抽ル処ノ隄ヲ以テ東孔ヲ塞クヘク、第二両国橋或ハ尚上ノ方第一断積ヨリ霊岸島ニ至ルマテ川ヲ制治スヘク、第三石川島ニ当テ断積ヲ増大シ及之ヨリ海中十二尺ノ水線ニ至ルマテ河床ヲ低隄ノ間ニ束ヌヘキ者トス、低隄ハ緩ナル彎曲ニ沿ヒ流下スル河水及出入スル潮水ヲ導ク者ナリ
第一東孔ヲ塞クニ隄ヲ以テス、其隄ハ最高潮水ノ上ニ達ス、則是
 イ南風ニ向テ河口ヲ防護スル為
 ロ二潮ノ合流ニ由リ永代橋ノ下ニ河床ニ生スル不斉ヲ防ク為
 ハ河水及潮水ヲ悉ク一流ニ束ネ以テ侵削力ノ最高度ヲ獲ルカ為ナリ
第二川ノ制治是レ低水ノ高サニ達スルノ工ヲ置キ河水及潮水ヲシテ斉整ノ澪ニ就テ海ニ下ラシムル者ヲ云フ、毎潮進入スル水ノ多寡ハ就中河床ノ斉不斉ニ従フヘシ
河中ニ突出セル工ハ都テ潮汐ノ働ヲ妨ク、高水ノ断積ニ於ケルモ亦其理相同シ、然レトモ低水下ノ不斉整ナルハ(俄ニ断積ノ縮小シ或ハ増大スル者モ亦此内ニ算ヘサル可ラス、其害尚大ナル者トス、是レ素ト最大速力即最大流送ハ深サノ最大ナル処即低水床ノ処ニ在ルヲ以テ也故ニ低水床中ニハ苟クモ流下ヲ妨クル者ヲ存在セシムヘカラサルナリ図上厩橋ヨリ霊岸島ニ至ル両赤線ハ(ロノ方ニ向テ漸ク開ク者)力メテ現在ノ状ヲ変スル少ナク之ニ拠テ平行工ヲ置クヘキ方向ヲ示ス者ナリ、此工ハ(其精神ハ既ニ利根川ニ施ス者ニ斉シ)素ヨリ市中ノ溝渠ヲシテ川ト接続ヲ失ハシメス、今其容ルヽ所ノ潮水ノ量ヲ減セサル様築造セサル可ラス
第三石川島ニ傍フノ断積ハ之ヲ拡メサル可ラス、其理ハ上ニ現今ノ断積ニ就テ言フ処ト、此計画ニ拠リ従来二孔ヲ経テ通過セシ河水及潮水ノ悉ク只西孔ヨリスヘキトヲ以テ明ナリ
 - 第28巻 p.305 -ページ画像 
川ヲ導テ霊岸島ヨリ品川ニ至リ更ニ進テ深サ十二尺ノ線ニ達スルノ件ハ左ニ之ヲ弁スヘシ、若シ川ヲシテ西孔ヲ経テ後其元来ノ道ヲ逐ハシムル者トセン乎、其流大ニ散開シ点々深所ヲ獲ルト斉シク其間ニ浅所ヲ生スヘシ、若シ斉整ナル深澪ヲ浚フテ自然ヲ助ケン乎、此澪ハ流ニ由テ乍チ復タ埋マリ、爰ニ生スル屈曲ニハ尚侵削ヲ起シ直部ニハ浅キ所ヲ生シ、以テ幾クナラスシテ再ヒ同一ノ困難ニ陥ルヘシ
浅キ曲江中ニ不易ノ深澪ヲ獲ンニハ之ヲ経テ流ルヽ川ヲ束ヌルニ隄ヲ以テシ、其河身ニ於テ期待スヘキ最大ノ深サニ符合スル深水線ニ達スルノ外他ニ術ナシ、是レ他ノ河流ノ実験ニ由テ知ル処ナリ
此隄ノ高サハ凡ソ満潮ノ半ニ達スルヲ要スルノミ、故ニ目下ノ場合ニテハ霊岸島ニテ低水上二尺乃至三尺ニ及ヒ、其製式ハ甚簡単ニシテ長サノ過半ハ沈層上ニ石隄ヲ投スルヲ以テ成ルヲ得ヘシ、但シ某深所殊ニ砲台外ノ深サ斉等ニ増加シ多ク波浪ノ衝激ニ触ルヽ処ハ其隄(麤朶ノ沈料数層ヲ用ヒ、石ヲ以テ之ヲ列杭ノ間ニ鎮ス)大ナル強固ヲ有セサル可ラス、然レトモ頂ノ高サハ同一ニ居テ可ナリ
此隄ヲ築クニ方リ鉄道隄ノ後ナル溝渠ハ恐ラク河澪ト結ハサルヲ得サラン、則古川ノ如キ是ナリ、然レトモ其口ニハ良好ノ方向ヲ与ヘ、即海ノ方ニ向ハシムヘシ、又兼テ此細流ノ不潔ヲ致スヘキ原因ヲ穿鑿シ其因ヲ除クヲ良トス
此計画ニ拠レハ新河口ノ心線ハ南々東ニ向フ、而シテ西隄ハ東隄ヨリ長キ事其端末凡ソ南北線ニ居ルニ至ル、此ニ於テ口ヲ南風ニ護シ航入容易ナルヲ得
砲台ノ外及其近傍ニ於テ撿スル処ニ拠ルニ潮流ノ方向ハ(図上ニ示ス)所撰ノ隄ノ位置ニ於テハ凡ソ河口ノ方向ト合スルヲ知ル
第二・第五砲台間ノ孔ハ狭小ナルカ故ニ、此計画ノ行ハルヽニ方テハ第五砲台ノ一部ヲ殺カサル可ラス、是レ尚爰ニ一言スヘキノ件ナリ
川策ノ本案既ニ了ル、次ニ先ツ此施行ニ由テ如何ナル結果ヲ待ツヘキヤノ問題ニ及フヘシ
此問ニ答フルニハ先ツ川ノ航溝ヲ維持スルカ為存在セル原素ノ何タルヲ穿鑿セサル可ラス、則
一隅田川独自ノ水
二側溝ニ由テ中川及江戸川ヨリ会スルノ水
三高水ニ方リ新河口ニ由テ内ニ入リ、干潮ニ方テ退去スルノ潮水
四半潮ニ方リ低導隄(石川島ヨリ台場ニ至ル)ヲ越テ流入ヲ始ムルノ潮水是ナリ
然リト雖トモ不幸ニシテ此源皆不潔ナリ、墨田川ノ水ハ実ニ中川・江戸川ノ水ヨリ清浄ナリト雖モ、諸川ノ水ノ如ク砂或ハ泥分ヲ含ム、是レ水ト共ニ海ニ放下スヘキ者ナリ
口ヲ経テ内ニ入ルノ潮水ハ最清浄ナリ(故ニ此口ニ頗ル大ナル広サヲ与ヘ力メテ此潮水ヲ容ルヽヲ図レリ)然レトモ尚南風ノ際東京ニ向テ進行スル多摩川ノ汚物ヲ以テ穢サルヘシ、利根川ノ砂洲ノ海中ニ突出スル幾何ノ遠キニ至ルヤハ只第二図(海軍図)ニ就テ考フルヲ要ス、而シテ二間且三間ノ深線ハ此川ノ近傍ニ於テ海ノ方ニ向ヘル湾円ノ撓曲ヲ現ハス、是レ此川ノ影響少ナカラサルヲ知ラシムル者ナリ
 - 第28巻 p.306 -ページ画像 
此潮水ハ尚低隄ヲ越テ内ニ入ルヘキ者ヨリモ清浄ナルヲ、必進潮ノ際広キ砂洲ヲ渉テ進動スル薄層ノ水ハ、其泥砂ヲ動シ以テ不潔ト為ル
満潮ノ際此洲ヲ越ヘテ航スルトキハ容易ニ之ヲ証スルヲ得、今ヤ最不潔ナル下層ノ水ハ低水上二尺乃至三尺ノ隄ニ由テ遮却セラルヘシト雖トモ上層モ亦多々ノ汚物ヲ含ムヘシ、尚其流送スル諸汚物ニ加フルニ許多ノ市溝ニ由テ泥ヲ川ニ致ス者ヲ以テセサル可ラス、進入スル処ノ潮水ハ川ノ汚物ヲ放下スヘク又川ノ航溝ヲ維持スヘキ者ナリ、而シテ其自ラ不潔ト為ル既ニ如此、殊ニ石川島ト品川ノ間ノ勾配少キニ注目スレハ甚此潮水ノ侵削力ヲ恃ム能ハサルナリ
以上ノ諸事ニ由リ、又石川島ヨリ下現今航溝ノ状況ヲ以テ観察スルトキハ、予ハ此島ヨリ以下ハ低水下六尺乃至七尺ノ澪ヲ存スルヲ得ヘシト言フノ外ニ出ツル能ハサルヲ信スルナリ
然リト雖トモ、水ノ侵力ニ由テ此澪ヲ生セシメス、而シテ浚疏ニ由テ浅洲ヲ除キ、以テ侵削セル物質ヲ再ヒ口前ニ沈堆セシメス、故ニ新難事ノ因ヲ為サシメサルヲ図ルハ是レ切ニ望ム処ナリ
或ハ浚濬ニ由テ低水下六尺乃至七尺ヨリモ深キ不易ノ澪ヲ獲ル能ハン乎、是レ容易ニ預言ス可ラス、此件ニ就テハ幾多ノ議論ノ起ルヘキヤ量リ難ク、故ニ又其諸事ノ助力ニ由リ如何ナル結果ヲ生スルヤモ預メ言能ハサルナリ
石川島ヨリ上両国ニ至ルノ川ニ於テハ水ノ流下ヲ便易ニシ、又流ノ分離及ヒ南風ノ害力ヲ除クヲ以テ状況ヲ斉整ニスヘシ、深淵殊ニ永代橋ニ在ル者ノ如キハ漸ク深サヲ減スヘク、貫通セル澪ハ恐ラク低水下十尺乃至十二尺ニ存スベシ、此部ノ澪ノ下ノ方ヨリモ深キヲ存スヘキ者ハ第一勾配即流下ノ速力下ヨリモ大ナルカ故、第二川ニ上ルノ海水ハ只上層ノ汚物少キ者ノミナルカ故ナリ
此川策ノ考案ヲ終ルノ前尚爰ニ一言センヲ欲スル者アリ、則此計画ヲ施行スルニ方リ、第五・第一・第四砲台ヲ相結ヒ更ニ之ヲ岸ニ接スルニ半潮高ニ達スル隄ヲ以テスル是ナリ、然ルトキハ芝品川、砲台右河隄ノ間ニ凡ソ三百町大ノ沼ヲ生ス、此沼ハ充分静止セル水量ヲ含ミ泥分ヲ沈底スヘシ、而シテ毎潮泥ヲ含孕セル新水ヲ承ケ、其泥ハ常ニ此内ニ留リ其結果ハ底ノ堆積ニ外ナラサルヘシ、故ニ数年ヲ経ルノ後囲隄ノ地ト為リ豊熟ノ耕地ヲ呈シ以テ工費ノ一部ヲ還償スルヲ得ヘシ
  深港策
川ヲ用ユル者ハ恐ラク大ナル日本船ヲ東京ニ近ツカシムルヲ得ヘカラス、況ヤ吃水深キ汽船ヲヤ、是上ニ言フ処ニ由テ明ナリ、今ヤ東京ヲシテ海港備フルヲ得テ其望ニ満足セシムルニハ、如何ノ方法ヲ用ユヘキヤ之ヲ穿鑿セントス
此計画ヲ約論スレハ則左ノ如シ、其方法全ク川ト別チテ大ナル池ヲ造ルヘシ、其池ハ漸ク狭窄セル漏斗状ヲ以テ口ヲ海ニ開ク者ナリ、此港ノ深サヲ保ツノ考ハ(最初浚疏ノ後)毎二十四時二回ノ潮水ヲ以テ池ヲ満タシ、干潮ニ方テ之ヲ漏斗ヨリ放下シ、爰ニ流ヲ生セシメテ口ノ変化ヲ防クニ在リ
此計画ハ第二・第三・第四図ニ之ヲ示セリ、其図ニ見ルカ如ク池ノ大サ一千町余、之ヲ造ル者ハ、第一石川島ニ於テ川ノ西孔ヲ塞ク処ノ隄
 - 第28巻 p.307 -ページ画像 
第二此島ノ東角ヨリ第三砲台ニ至ルノ隄、第三・第一・第四ノ砲台ヲ相結ヒ又岸ニ接スルノ隄
此隄ハ皆最高潮ノ上ニ抽テ塞断充分ニシテ毫モ河水及汚濁ノ海水ヲ池ニ入ラシメサルヲ必スヘシ、但水ノ衝激ヲ受クル少ク浅水ニ亘ルヲ以テ其築造易簡ナルヲ期ス
漏斗ヲ為リ及第一・第三両砲台ニ接スルノ隄ハ多ク風浪ノ衝激ヲ受ケサル可ラス、故ニ其築造之ニ準シ強クシテ高カラサル可ラス、地鑽試査ノ表ニ拠レハ(殊ニ第二砲台ノ者)下地ハ甚シキ沈陥ナクシテ港隄ノ重サヲ荷フニ堪ユヘキヲ明ニス、而シテ年来存在セル品川砲台ノ現存ニ由ルモ亦之ヲ証スルニ足レリ、然レトモ若シ此計画ヲ施行スルニ方リテハ港隄ヲ築クヘキ方向ニ於テ尚数多ノ地鑽ヲ施スヲ良トスヘシ
隄ヲ以テ造レル漏斗ノ心線ハ南々東ニ向フ、而シテ隄ノ頭ハ上ニ河隄ニ示スト同理ノ為復タ南北ノ方向ニ居ラシム
此心線ハ第二砲台ニ交叉ス、故ニ此ノ砲台ハ港口ニ対シテ正中ニ位ス是ヲ以テ戦争ノ時ニハ第一・第三砲台ト相須テ頗ル港ヲ護スルノ利アリ、第五・第六両小砲台ハ恐ラク之ヲ除ク難カラサルヘシ、是レ通船及潮水流動ノ為希望スヘキ処ナリ
此ノ如ク造レル池内ニ欲スル処ノ深サヲ獲ルニハ浚渫ヲ以テセサル可ラス、其深サハ低水下二十三尺トス、是レ大汽船ヲシテ港ニ入ルノ便ヲ得セシムルカ為ナリ、此目的ニ由リ突隄モ亦西ノ方少クモ低水下四間ノ深線ニ達スル者トス、其他面積ノ大サハ貿易ノ為要用ナル所ニ堪ユヘク、桟橋及泊所ハ沿岸至ル処随意ニ之ヲ造ルヲ得ヘシ
港隄ノ相対スル傾斜ハ若シ東突隄ヲ西突隄ト同一ニ延伸スル者ト想像スルトキ、其両頭ノ間隔九百尺ニ及フカ如ク撰定セリ、此所撰ノ距離ハ恐ラク進潮ニ際シテ充分ノ水量ヲ流入セシメ、其退潮ニ際シテ急流ヲ口ニ起サスシテ望ム処ノ深サヲ維持スルヲ得ルニ足ラム、隄ノ長サ今予定スル不同ノ者ニ拠リ間隔過大ニシテ充分ノ流ヲ起スニ足ラサルヤ否ハ実行ノ時既ニ分明ナルヲ得ヘシ、其濶キニ失スルトキハ東隄ヲ伸テ須要ノ長サニ致スヘシ
前々載スル処ノ第一問ニ拠レバ、只川ノ西派ヲ塞断シ其下ノ澪ヲ浚ヒ而シテ所浚ノ深サヲ保護シ、其澪ヲ深水ト湾中ニ結フヘキ隄ヲ須ヘスシテ港ヲ造ルヲ得ルト考定セシ者ノ如シ(此問ヲ約言スレハ「今西隄ヲ塞キ水路ヲ深フシ港ヲ隄下ニ築クノ説アリ」ト云フニ外ナラス)然レトモ上ニ言フカ如ク墨田川・中川・江戸川ノ近傍ニ於テ潮水ノ不潔ナルト、又流ノ在ラサル処ハ至ル処浅所ニ遇フ(海軍図ヲ看ルヘシ)ノ事実アルト、又此ノ如クシテ浚疏セル澪ニ於テハ聊流力ノ効ヲ恃ム可ラサルノ確然ナルトニ由レハ、容易ニ此港澪ノ永存ス可ラスシテ泥淤ノ為ニ速ニ復タ用ヲ為サヽルニ至ルヲ知ルヘシ
是故ニ池ノ淤堆ヲ防クノ隄ヲ設クルナリ、此池ノミニ於テハ又決シテ言フニ足ルノ流ヲ見サルヘシ(但漏斗ニ於テハ然ラス)然レトモ是レ全ク不潔ヲ拒絶スルカ為流ヲ要用トセサル也(此事ニ関シテハ港策ハ勢川策ヨリモ利アリ蓋港隄ノ遠ク海中ニ出ツルヲ以テナリ)此池ニ放泄スルノ水ハ第一霊岸島及京橋ノ市溝第二古川第三鉄道隄後ノ溝渠ナリ、然レトモ此溝渠ハ時々浚深ヲ加ヘテ清浄ニ保チ又古川ノ汚物ヲ送
 - 第28巻 p.308 -ページ画像 
ルヲ止ムルノ制度ヲ建ツルトキハ此水ハ港池ヲ害スル事微ナルヘシ
然リト雖トモ爰ニ他ノ危害ノ戒心セサル可ラサル者アリ、乃チ先ツ港池ハ全ク川ヨリ分タサル可ラサル者トセリ、若シ墨田川ヲシテ自由ニ池中ニ流入セシメシトキハ、河水ハ広キ池内ニ至テ充分ニ静息スヘク而シテ川ノ送ル処ノ土砂ハ大抵此ニ沈底シ、其物質ノ沈澱ハ川ノ其流勢及其勾配線ト応合セル緩斜ノ底及狭小ノ広サヲ造ルニ至ラサレハ止マサルヘキハ自然ノ結果ナリ、此淤浅ヲ防カンニハ始終浚渫ヲ行ハサルヲ得サルヘシ、是避ケサル可ラサルノ事ナリ、今ヤ所企ノ塞隄ヲ造ルト雖トモ、川ト港トノ交通ハ霊岸島ノ溝渠ニ由テ之ヲ存セシムルヲ以テ川ノ一部此溝渠ニ投シテ港池ニ注泄スルノ恐アリ、川ヨリ此溝ヲ経テ池ノ深水ニ達スルノ道ハ必ス東孔ヲ経テ海ニ入ル者ヨリモ近カルヘク池ノ深水ニ於テハ又恐ラク干潮ノ下ルコト稍霊岸島ヨリ低カルヘシ故ニ或ハ流ヲ此溝ニ起シ其狭窄ナル断積中底及岸ヲ害シ且川ノ汚物ノ一部ヲ港ニ致スアラン、是レ必避ケサルヘカラス、此難事ヲ救フニハ霊岸橋ノ近傍ニ於テ退潮ノ際河水ヲ遮ルノ閘門ヲ築カサル可ラス
川ヨリ江戸橋及白魚橋ヲ経テ湊ノ方ニ導クノ溝渠モ亦少シク河水ヲ致スヲ得ヘシ、然レトモ此路ハ甚遠キヲ以テ恐ラクハ爰ニ自由ノ交通ヲ存セシメテ可ナラン
此故ニ港ト川トノ交通霊岸橋ヲ経ル者ハ、只高水(満潮)ノ際聊妨ナキヲ得ルノミ、若シ此交通ヲ低水(干潮)ニ備ヘンヲ要セハ右ニ言フ処ノ閘ヲ行舟閘ト為サヽル可ラス、其製ハ川ノ方ニ開ク処ノ扉ヲ具スル者ナリ
港隄ノ頭ノ近傍深線ノ事ニ至テ尚注目セサル可ラサル者ナリ、乃チ港口ノ近傍ニ現在セル河流殊ニ多摩川ノ如キハ毎年多量ノ汚物ヲ海湾ニ致スヘク、西港隄ト第一・第四砲台ト陸岸トノ間ナル潟ハ漸ク淤堆スヘク、又二間・三間及四間ノ深線ハ漸ク海ノ方ニ移遷スヘキヲ期ス故ニ三間ノ深線(海軍図参照)ハ漸ク港隄ノ頭ニ近ツキ竟ニ之ヲ過クヘシ、此ニ於テ港隄間退潮ノ侵力既ニ所要ノ深サヲ維持スルニ足ラサルトキハ後来隄ヲ延伸セサル可ラス、其方向ハ最初ノ者ニ傚フ歟、或ハ航入ヲ狭窄セサル為之ヲ平行スル歟時宜ニ従フヘシ、此事情ニ由リ幾多ノ星霜ヲ経ハ其延伸ヲ要スルハ預メ之ヲ知ルヘシ、但預メ之ヲ定ムル能ハサルノミ
予曾テ湾中潮流ノ方向ヲ調査セシムルヲ請ヒ、而シテ其所得ノ方向ヲ第三・第四図ニ載セタリ、其方向ハ凡ソ所撰ノ港口ノ心線ニ従フノミ深線ノ方向ニ於テ此心線ニ垂直ナル潮流ハ一モ之アラス、其流ノ現在スルアリシトキハ港口堆淤ノ恐少カルヘシト雖トモ、勢此ノ如キヲ以テ後来延伸ノ免ル可ラサルヲ知ルナリ
結局一言スヘキ者アリ、此港策ニ拠レハ川ハ東孔ヲ経テ海ニ注カサル可ラス
西孔ヲ経テ放下スルニ方テ川ヲ制治スルノ計画ハ上ニ之ヲ論セリ、東孔ヨリ放下スルニ於ルモ亦其主眼考案右ト相同シ、河口ノ改修ハ港策ノ行ハルヽニ遇フテ其主要ヲ失ハンモ、内地舟漕ノ便ニ至テハ決シテ川ノ天運ニ放任スル能ハサル也
川策ニ用ユルカ如キ方法ヲ用ヒ、両国橋ヨリ低水下六尺乃至七尺ノ深
 - 第28巻 p.309 -ページ画像 
線ニ至ルマテ川ヲ制治スルハ切ニ之ヲ希望ス、而シテ永代橋ヨリ東孔ノ外端ニ至ルマテ局部ノ制治ヲ加ヘ(第三図ニ紅線ヲ以テ記ス者ハ、此局部ノ制治、鉛筆ノ線ヲ以テ画スル者ハ、緩ナル彎曲ニ沿ヒ尚遠ク右方ノ制線ヲ延伸スヘキ方向ヲ示スナリ)尚第八断積及新澪ヲ浚疏シ(深サ四尺乃至五尺)之ニ拠テ川ヲ海ニ放下セシムヘキハ已ムヲ得サルノ事業ナリ
此予カ已ムヲ得ストスル工事ノ行ハレサルトキハ川ハ砂洲ノ為ニ其流ヲ妨ケラルヘシ、其砂洲ハ則堰埭ノ如キ働キヲ為シ川ノ水面ヲ亢隆シテ勾配ヲ減シ従テ速力ヲ失フヘシ、其果ハ河水ノ含有スル固形物ヲ沈底シ、為ニ河床ノ堆淤即舟漕ノ妨害ヲ生スル也
第一ニハ川ヲシテ東京貿易ノ用ヲ為スニ至ラシムルノ方法、第二ニハ墨田川ノ助ヲ借ラスシテ東京ヲ大船ノ出入スル港場ト為スニ緊要ナルノ工業、次ニ此計画ヲ実施スルニ由テ各期待スヘキ結果ヲ併セ論スル既ニ如此、今ヤ既知ノ状勢ニ於テ孰レノ計画ヲ用ユルノ最良トスルヤノ問題ニ至レリ、此問ニ答フルハ蓋難キニアラサル也
日本ノ首府ナル東京ニ在テ大商舶並ニ軍艦ノ出入ニ堪ユル良港ヲ備フルノ重要ナルニ注意シ、又海ト交通ノ不便ヲ問ハス今已ニ東京ニ拡張セル商運ヲ観察シ、又人口百万ヲ有シ広大ナル沃野ノ端末ニ位セル市城ヲ以テ此貿易ニ与フル非常ノ繁盛ニ着眼スルトキハ、則第一ニ港策ニ密結セル財用困難ハ此策ノ施行ニ由テ東京ニ呈スル大利益ヲ以テ之ヲ償フニ余リアリト決断スヘシ、是敢テ此計画ノ川策ニ勝レリトスル所以ナリ
結局尚一言スヘキ者アリ、若夫財用或他ノ事故ノ為港策ヲ採ラス、川策ヲ用ユルニ決スルトキハ、後年ニ至リ爰ニ弁スル精神ヲ以テ港ヲ造ルモ亦能ハサルニ非ルヘシ、但毎時極メテ困難ニシテ尚多額ヲ費スニアラサレハ施ス能ハサルニ至ランノミ
  東京千八百八十一年十一月二十四日
      工師
      アー、テー、ヱル、ローウエンホルスト、ムルドル
    土木局長 石井省一郎殿
内務卿ハ東京府知事ノ上申ヲ納レ、同月二十七日附ヲ以テ之ヲ太政大臣ヘ進達セリ、其伺書左ノ如シ
    品海築港之義ニ付上申
 品海築港之儀ニ付別紙ノ通東京府知事芳川顕正ヨリ意見書提出セルヲ以テ即致稟申候、抑都府ノ繁盛ヲ致セル所以ノモノハ一ハ政権ノ集散治務ノ挙息ニ職由スト雖モ、亦通商上ノ便否如何ニ基クモノ鮮シトセス、而シテ通商上ノ便否ニ付最モ関係ヲ有スルモノハ商品即チ貨物ノ由テ以テ輸出入スル所ノ港湾及道路ノ良否如何ニアルハ蓋言ヲ竢タサルナリ、夫東京ハ輦轂ノ下海内ノ首府ニシテ、尚且外国互市ノ場ヲ占メ、百貨輻輳ノ地タレハ輸出入上ノ便否ハ宜シク特ニ講究スヘキナリ、然ルニ陸運ハ暫ク措キ、水運ノ便ニ至テハ東京湾ノ以テ大船巨舶ヲ出入セシム可カラサル其実況夫レ如此ナレハ、宜シク今ニ及ンテ之カ改良ノ策ヲ図リ以テ帝都ノ繁栄ヲ無窮ニ期スヘキナリ、爰ニ其意見書ニ拠ルニ計画ノ方法順序概ネ宜キヲ得ルカ如
 - 第28巻 p.310 -ページ画像 
クナレハ、経費支弁ノ方法ハ予メ事業ノ目的ヲ定メ然ル後此ニ議及スルモ亦晩キニアラサルヘシ、因テ東京府知事意見書ノ旨趣御裁可相成、嚮ニ稟申ノ末命セラレ居候東京市区改正審査委員ヘ該件ノ審査ヲモ命セラレ候様致度、尤モ本件ノ義ハ海軍省関係ノ廉モ不少ニ付同省ヨリモ委員弐名選定セラレ度、海軍省ヘノ御達案及東京府ヘノ指令案相添、此段相伺候也(別紙及ヒ御達案指令案之ヲ略ス)
  明治十八年二月廿七日    内務卿 伯爵 山県有朋
    太政大臣 公爵 三条実美殿
而シテ太政大臣ハ内務卿ノ伺ニ対シ同年三月二十四日左ノ如ク指令シ又品海築港審査委員ノ選定ヲ下ノ如ク海軍省ヘ達セラレタリ
    太政大臣ヨリ内務卿ヘ指令文
 伺之趣聞届候条、東京市区改正審査会ニ於テ査定為致候上更ニ伺出ヘシ
    同大臣ヨリ海軍省ヘ達文
 品海築港之義別紙之通内務卿ヨリ上申有之、其方案東京市区改正委員ノ審査ニ付シ候ニ付、右委員タルヘキ者二名ヲ選ヒ可申出、此旨相達候事           (別紙略ス)
是ニ於テ内務卿ハ同月二十六日付ヲ以テ東京府知事ノ上申並東京市区改正審査会ニ対シ左ノ如ク達セリ
    内務卿ヨリ東京府知事ノ上申ニ対スル指令文
 書面上申ノ趣裁可相成候ニ付、該方案東京市区改正委員ノ審査ニ付シ候条、此旨相達候事
    同卿ヨリ東京市区改正審査会ヘ達文
 品海築港ノ義ニ付別紙之通東京府知事ヨリ上申有之候処今般裁可相成候ニ付、其会ニ於テ審査可致、此旨相達候事  (別紙略ス)
越ヘテ同年四月二日海軍大輔海軍少将樺山資紀・海軍少将柳楢悦ヘ品海築港方案審査委員仰付ラレタルヲ以テ、同審査会ハ審案討査ノ上、同年十月八日付右ニ係ル決議ノ次第ヲ内務卿ニ上申シ、之ニ附スルニ意見書並費目概算書ヲ以テセリ、即チ左ノ如シ
    東京市区改正審査会議定品海築港方案
 東京府知事ノ原案ニ拠レハ、品川湾築港ノ方法タル所謂深港策ニシテ、霊岸島ト石川島トノ間ニ於テ隅田川ノ西派ヲ遮断シ、其全流ヲ東派ニ注キ、更ニ突堤ヲ築キ以テ第四・第一砲台ニ至リ、而シテ砲台以西ニ一大死水港ヲ作リ、砲台以南ノ航路ハ海ニ向テ築地漏斗ノ状ヲナシ、又佃島ニ続キ海面ヲ埋立テ、之ニ船渠ヲ設ケ高橋以南築地ニ至ル海岸ニ船舶繋留所ヲ造ルノ計画ニシテ、蓋シ大船凡三十艘ヲ容ルヽニ過キサルヘシ、故ニ本会ニ於テハ其規模ノ猶未タ大ナラサルノ憾アルト、隅田川本流ヲ遮断スルノ不便ヲ感スルトニヨリ、特ニ之カ調査委員ヲ選ミ、水勢ノ注ク所ヲ量リ、風力ノ傾ク所ヲ慮リ、利害便否ノ在ル所ヲ審案シ、更ニ一ノ方法ヲ計画ス
 抑モ品海築港ノ挙タル、其利害ノ被フル所海ノ内外ニ亘リ実ニ至要至重ノ事業タルハ必シモ贅弁ヲ竢タサルナリ、其計画ヲナスニ方リ最モ慎重ヲ加ヘサルヘカラス、仮令学術経験ニ富メル工業家ノ説ト雖、一人一己ノ所見ニ因リ軽々断定スヘキニアラス、必スヤ善ク実
 - 第28巻 p.311 -ページ画像 
地ノ情況ヲ調査シ、又内外諸港ノ実蹟ニ徴シ、然ル後ニ之ヲ定ムヘキナリ、苟モ一朝一夕ノ考慮ヲ以テ之カ計画ヲ定ムルハ寔ニ至難ノ事タリ、此レ本会ノ大ニ苦シミ深ク懼ルヽ所ナリ
 今ヤ本会ニ於テ東京湾築港ノ計画ヲナスニ方リ、最モ重要ナル事件ハ隅田川筋ヲ利用シテ流水港ヲ造リ得ラルヘキヤ否ノ問題ヲ講究スルニ在リ、曾テ説ヲナス者アリ、曰ク本流及支川ノ水ニ含有スル泥沙ノ量夥多ナルヲ以テ数々浚渫ノ工ヲ施スモ終ニ所要ノ深サヲ保チ難カルヘシト、又一説ヲナス者アリ、隅田川ハ江戸川・中川等ニ比スレハ泥沙ヲ流下スルコト甚タ少シ、仮令多少ノ汚物ヲ含有スルモ川幅ヲ制治シ、全流ヲ束ヌレハ流勢大ニ増加スルヲ以テ澪筋ニ泥沙ヲ沈澱セシムルノ虞ナシト、孰レカ其当ヲ得タルヤハ未タ知ルヘカラスト雖、果シテ後者ノ説ノ如ク容易ニ川筋ノ深サヲ保チ得ラルヘキモノトセハ、石川島ニ於テ本流ヲ塞断スルノ便否ハ多言ヲ須スシテ知ルヘキノミ、故ニ本会ニ於テハ姑ク後者ノ説ヲ採リ、流水港ノ計画ヲ適当ナリト認メ、其方法ヲ略陳スルコト左ノ如シ
 隅田川ノ東派即チ上総澪口ヲ塞断シ、全流ヲ西派ニ導キ永代橋下ニ於テ川幅ヲ凡ソ百間トシ、漸次之ヲ広メテ品川砲台ノ南ニ至リ凡ソ百五十間ニ制治シ、佃島ノ南埋地ノ尽所ヨリ澪筋ノ両側ニ麁朶工導流柵ヲ設ケテ波浪ノ為ニ流送スル所ノ土砂ヲ防遏スルニ供ス、其疏鑿ハ新大橋以下深サ低水下二十四尺ニ至リ、又永代橋下石川島及ヒ島ニ連接シテ埋地ヲ作リ、其西岸ニ大小九箇所ノ船渠ヲ櫛状ニ設ケ其対岸箱崎町・霊岸島・鉄砲洲・築地明石町・小田原町等ノ東岸ニモ亦同状ノ船渠十二箇所ヲ開設スヘキモノトス
 箱崎町東岸ノ船渠ハ其最モ小ナル者ニシテ、永代橋下ヲ通過シ得ヘキ小形ナル船舶ヲ容ルヽノ用ニ供シ、下流小田原町並対岸ニ設クル所ノ二大渠ハ其閘門ヲ開鎖シ、干潮ノ時ニ在テモ常ニ満潮ノ水面ヲ保ツヲ得ルノ装置アルヲ以テ、吃水三十尺ニ及フ大船ヲ容ルヽノ用ニ供スル目的ナリ、此二十一箇所ノ船渠内外船舶ヲ繋留スヘキ岸面ノ全長ハ一万六千間余ニシテ弐百余隻ノ大船ヲ繋クニ足ルヘシ、又船松町ヨリ佃島ニ渉ル新橋ヲ加設シ、其橋ノ中央ニハ廻転ノ装置ヲ付シ桅檣ヲ樹立セル船舶ノ通過ニ便ナラシム
 澪筋ヲ制治シ全流ヲ束ヌルニ於テハ、水流速度ヲ増スカ為ニ日本形小船ハ之ニ溯リ易カラス、且大船ノ通過頻繁ニシテ楫艫ノ便ヲ失フヘキニヨリ、深川汐見橋ヨリ越中島ノ南ニ幅三十間、深低水下六尺ノ新澪ヲ開設シ、房総地方等ヨリ東京ニ来ル小船ハ此澪筋ヨリ汐見橋ニ到リ、夫ヨリ便宜ノ川筋ヲ経テ日本橋近傍ノ地、又ハ市区改正ノ計画ニ係ル浜町河岸魚市場其他ヘ達スルノ便ニ供ス
 隅田川東派ヨリ佃島続キヘ埋立地ヲナスニ要スル土砂ハ、河底並ニ澪筋ヲ浚鑿セシモノヲ用フルモ尚ホ余贏アルヲ以テ、之ヲ越中島続キノ海面ニ運搬シ凡一百万坪ノ埋地ヲ作ラントス
 本会ノ意見前ニ述ル所ノ如シト雖、隅田川水流ニシテ果シテ泥沙ヲ含有スルコトナキヤ否ハ断定ヲナセシモノニアラス、必スヤ其水源ニ溯リ土質ヲ点撿シ、多年ヲ期シテ之ヲ測定スルニアラサレハ之ヲ保シ難ク、又前陳外国諸港ノ実蹟ニ徴スル等、飽マテ講究シタル後
 - 第28巻 p.312 -ページ画像 
ニ非サレハ猶未タ揣測ノ説タルヲ免カレス、故ニ其実施セラルヽ機ニ臨ミ、尚ホ海外諸国ニ著名ナル工師ニ就キ善ク其利弊如何ヲ諮詢セラレ、以テ万差誤ナカラシメンコトヲ望ム
 本会ニ於テ計画セル流水港ヲ以、東京府知事ノ建議ニ比較スレハ大ニ其面目ヲ異ニスル所アリト雖、敢テ彼ヲ非トシテ此ヲ是トスルニ非ス、乃チ両説並ヒ存シテ以テ参考ノ資ニ供ス
  同上費用概算書
 一澪筋浚渫及船渠内掘取
   此土積三百拾三万三千百〇八坪
  此費用金四百六拾九万九千六百六拾弐円   但壱坪ニ付 金壱円五拾銭
 一船渠周囲石垣
   此延長壱万〇八百〇三間
  此工費金八百六拾四万弐千四百円      但壱間ニ付 金八百円
 一埋立地護岸石垣
   此延長弐千六百八拾間
  此工費金八万〇四百円           但壱間ニ付 金三拾円
 一越中島際ヨリ南ヘ平均干潮下深六尺ニ達スル導流柵
   此延長三千七百拾間
  此工費金拾壱万千三百円          但壱間ニ付 金三拾円
 一築地安芸橋際ヨリ本澪筋平均干潮下深二十三尺ニ達スル導流柵
   此延長九千五百八拾四間
  此工費金百拾五万〇〇八拾円        但壱間ニ付 金百弐拾円
 一築地及深川船渠ニ要スル民有地買上
   此面積六万六千弐百拾四坪
  此地価金弐拾九万九千弐百八拾七円弐拾八銭 但壱坪ニ付 金四円五拾弐銭
 一同建物移転料
  此金弐拾三万九千四百弐拾九円八拾弐銭
 一築港用諸器械
  此代価金五拾万円
 一澪標                   二十ケ所
  此工費金六千円              但一ケ所 金三百円
 一灯台                   五ケ所
  此建築費金五万円             但一ケ所 金壱万円
 一灯台番人小屋               壱ケ所
  此建築費金弐百五拾円
 計金千五百七拾七万八千八百〇九円拾銭
  外
  金三百拾五万五千七百六拾壱円八拾弐銭   予備費
 総計
  金千八百九拾三万四千五百七拾円九拾弐銭
             (東京府知事建議築港工事解説書並ムルドル氏設計書ハ前ニアリ之ヲ略ス)
右ノ如ク審査会長ヨリ上申セシヲ以テ、内務卿ハ同年十月十二日太政大臣ヘ左ノ通リ復命セラル、其伺文左ノ如シ
    東京市区改正及品海築港審査結了ノ儀ニ付伺
 - 第28巻 p.313 -ページ画像 
 東京市区改正及品海築港審査ノ義ハ、曩ニ御裁令ノ旨ニ随ヒ会議ヲ開キ審案討議セシメ候処、今般会長内務大輔芳川顕正ヨリ審査結了ノ趣ヲ以テ別紙目録ノ通差出申候、依テ致熟閲候処其考案適実ニシテ修正宜シキヲ得、其経費ハ之ヲ東京府知事ノ原案ニ比スレハ通計弐千六百六拾余万円ヲ増加セリト雖モ、右ハ修正上避クヘカラサル増費ニ有之、殊ニ其市区改正局ヲ置クノ議ノ如キハ、后来実施上ニ於テ緊要ノ儀ト存ラレ候間速ニ御允裁相成度、別冊並図面共相添此段相伺候也(別紙別冊之ヲ略ス)
  明治十八年十月十二日    内務卿 伯爵 山県有朋
    太政大臣 公爵 三条実美殿

  東京市区改正委員会ニ於ケル沿革
○明治二十一年十一月五日ノ東京市区改正委員会(議事録第二巻第十五号)ニ於テ河川改修ノ項ヲ議スルニ方リ、二十五番(芳野世経)ヨリ大川改修ハ築港ニ関係ヲ有スルノミナラス、或ル道路ノ如キハ築港ヲ目安ニ計画セシモノナレハ、若シモ築港ノ計画ニシテ変更ヲ来タセハ亦従テ既定ノ路線ニ影響ヲ及スヘキヲ以テ、築港ノ計画ハ本会ノ議ニ付サレンコトヲ内務大臣ヘ建議セントスルノ説ヲ提出シ、本会ハ全会一致ヲ以テ之ヲ可決シ、建議案起草委員ヲ選定シ案成リ本会ヘ付議シタル後即チ内務大臣ニ向ツテ左ノ如ク建議セリ(議事録第二巻第二十一号)
    品海築港ノ件ニ関スル建議
 東京ノ市街タルヤ元是レ政治的ノ目的ヲ以テ創設シタルモノナルハ人皆知ル所ナリト雖モ、日月ノ相推移スルニ随ヒ民衆蟻集自ラ殷富ナル大都府トナリ、加フルニ三十年来開市ノ場トナリ又帝都トナルニ至テハ、情勢大ニ変シ兼テ商業ノ中点ノ位地ヲ占メントスルノ勢アリ、乃チ府内外ニ要スル百般ノ施設固ヨリ其情勢ニ応セサルヲ得ス、故ニ苟モ東京市街ノ改良ヲ謀ルトキハ、外ハ港湾ヲ疏濬シテ船舶ノ出入貨物ノ運輸ニ便シ、内ハ街衢ヲ改良シテ人民ノ交通車馬ノ往復ニ便セサルヘカラス、此ニ於テ往年東京府知事ノ市区改正議ヲ呈スルヤ、踵テ品海築港議ヲ呈シ、市区改正審査会ヲ設ケラルヽニ当ツテモ亦併セテ市区改正ト品海築港トヲ審議セシメラル、蓋シ市区ト港湾トノ相待ツハ猶家屋ノ門戸ニ於ケルカ如ク、其関係至密ニシテ毫モ相離ルヘカラサルヲ以テナリ
 本会市区改正ノ方案ヲ審議スルコト玆ニ数旬、改正ノ事項略ホ議了ヲ告ク、然ルニ本会ノ議定スヘキ所ハ特ニ市区ノ一偏ニ止リ港湾ノ改良ニ波及スルヲ得ス、故ヲ以テ徐ロニ其議了セシ所ヲ顧レハ、人民ノ交通車馬ノ往来ニ於テハ大ニ利便ヲ加フ可キヲ信スト雖トモ、船舶ノ出入貨物ノ運輸ニ至テハ依然トシテ不利不便ヲ脱シ得サル可シ、是ヲ譬ヘハ門戸ノ構造ヲ論セスシテ単ニ家屋ノ経画ヲナシタルカ如シ、虧簀ノ憾ナクンハアラサルナリ
 由テ熟按スルニ本会開設ニ当リ庿議故ラニ港湾ノ改良ヲ除キ、単ニ市区改正ノミヲ議定セシメラレタル所以ノモノハ、豈市区改正ニ加フルニ港湾改良ヲ以テセハ費額増加シ市民ノ負担ヲ倍蓰センコトヲ虞レタルニ非ルヲ得ンヤ、果シテ然レハ港湾ノ改良ハ市民ノ最モ熱
 - 第28巻 p.314 -ページ画像 
望スル所ニシテ其費額ノ如キモ強テ市民ノ負担ニ堪ヘサル所ナリト云フヘカラス、現ニ数年以来市民港湾ノ漸ク埋マレルヲ憂ヘ、干潮下ニ於テ十二尺ノ深サヲ有タシメンコトヲ希望シ、五拾万円ヲ支出シテ其疏濬ニ着手セルハ即チ其証ト云フ可キナリ、況ンヤ港湾改良ノ挙ハ其事啻ニ東京ノ商業ニノミ関スルモノナラス、全国商業ノ利便ニ関スルヲ以テ政府ハ其支弁ヲ分担セラレテ至当ナルヘシ、故ニ市民ノ負担スヘキ所ハ単ニ商業ニ関スル費途ニ過キス、且ツ市区改正ト雖トモ一時ニ施行セラルヽモノニアラスシテ漸次ニ施行セラルルモノタルカ故ニ、港湾改良ノ如キモ右ノ例ニ傚ヒ先ッ其設計ヲ定メ、市民ノ力ヲ謀リ漸次之ヲ施行スルモノトセラルヽニ於テハ敢テ市民ヲシテ其負担ニ苦マシムルノ虞ナシトス、故ニ此際本会ノ権限ヲ拡メ、市区改正ノミナラス併テ港湾ノ改良ニ議及セシメラレ、東京市街ヲシテ政治上ニ商業上ニ共ニ洪大ナル利便ヲ得セシメラレンコトヲ希望シ、本会ノ議決ニ由リ謹テ之ヲ具申ス
  明治二十一年十一月二十七日
            東京市区改正委員長 芳川顕正
    内務大臣 伯爵 山県有朋殿
内務大臣ハ其建議ヲ納レ左ノ如ク訓令セラル
                    東京市区改正委員会
 本年十一月二十七日付第弐拾一号具申東京湾改良ノ方案ハ其会ノ審議ニ付ス
 右訓令ス
  明治二十一年十二月二十七日
               内務大臣 伯爵 松方正義
又本会ハ二十六番(益田孝)ノ発議ヲ容レ、内務大臣ノ洋行ニ随行ヲ命セラレタル二十二番(古市公威)ニ託シ、欧洲ニ於テ築港事業ニ経験アル者ニ就キ之カ設計ヲ質議シ以テ速ニ報告セラレンコトヲ嘱託セリ
越ヘテ翌二十二年二月十九日ノ本会(議事録第二巻第二十七号)ヘ審査会議定方案、東京府知事建議方案並内務省雇工師「ムルドル」氏ノ設計方案ヲ提出シ、之ニ付スルニ左ノ議ヲ以テセリ
 東京築港ノ挙ハ得失利害ノ被ムル所単ニ東京市街ニ止マラス徧ク内外諸商業ニ波及ス、故ニ其経画ノ議定ハ最モ慎重ヲ加ヘ、最モ精密ヲ致サヽルヘカラサルナリ
 往年東京府知事ノ品海築港議ヲ呈スルヤ、所謂深港策ヲ採リ、隅田流末ノ西派即本澪ヲ遮断シ、全流ヲ挙ケテ東派即上総澪ニ放流シ、一大死水港ヲ第一・第四砲台以北ニ設ケ、常ニ干潮下二十二尺ノ水深ヲ有タシメンコトヲ期セリ
 市区改正審査会ノ調査ハ之ニ反シ所謂用川策ヲ採リ、隅田河流ノ東派即上総澪ヲ遮断シ、全流ヲ挙ケテ西派即本澪ニ流注セシメ船渠ヲ其両岸ニ設ケ港ト川トヲシテ殊別ナカラシムルコトヲ期セリ
 故ニ東京市街ノ沿辺ニ於テ一大良港ヲ開カント欲スル上ニ於テハ、二説固ヨリ其目的ヲ同クストイヘトモ、其方法ニ至テハ殆ト両己相背スルノ状ヲナセリ、但審査会ノ調査ハ用川策ヲ採レリトイヘトモ強テ其説ヲ主張シテ府知事ノ議ヲ排スルニアラス、両説ヲ並存シテ
 - 第28巻 p.315 -ページ画像 
以テ参考ノ資ニ供センコトヲ希望シタルナリ
 故ニ本会審査会ノ調査ヲ以テ議題トナストイヘトモ各員宜シク十分ニ討論ヲ尽シテ之ヲ議定スルコトヲ要ス
             (審査会議定方案・東京府知事建議方案・ムルドル氏設計書ハ前ニアリ、之ヲ略ス)
是ニ於テ之カ設計組成ノ順序ニ就キ討議ヲ尽シタルニ、本会ニ於テハ結局品川湾ノ測量、海潮ノ干満、江戸川・荒川・綾瀬川等ノ水源、土砂ノ流量、大川ノ深浅等ヲ取調フルヲ以テ第一着ト為スヘシトノ番外(沖野忠雄)ノ提議ヲ納レ、大川ノ地質調査ハ地質局ニ、其他之ニ要スル渾テノ材料取調ヲ番外(同人)三十一番(肝付兼行)ニ委託スルコトニ決シ、而シテ其材料ノ調査結了次第更ニ専務者ヲ置キ取調ヘシメ、尚欧米ニ於ケル公学会等ヘモ諮問スルコトヽ為スコトニ決シタリキ
後チ右材料ノ蒐集了リ番外(同人)三十一番(同人)両氏ヨリ其手続書ヲ提出セシニ由リ同三月五日ノ本会(議事録第二巻第二十八号)ヘ付議セリ、即チ左ノ如シ
    東京築港設計用材料集緝手続書
 品川湾深浅ノ測量ハ明治十四年三・四月中施行シタルモノ尤モ確実ニシテ、即チ東京府ノ依頼ニ由リ海軍省士官ノ手ニ成リタルモノ是ナリ、其元図並野帳等ハ尚東京府庁ニ保存スルモノト信ス、此度更ニ本湾ヲ測量スルノ目的ハ之ヲ十四年ノ深浅ニ比較シ、以テ爾来海底変換ノ景況ヲ察シ、傍ラ前測量ノ不足ヲ補フニアリ、其方法ヲ定ムルコト左ノ如シ
  (一)玉川吐口ヨリ江戸川吐口ニ至ル海岸ノ三角測量ヲナスコト
  (二)右三角測量ニ基キ六千分一ノ地図ヲ製スルコト
  (三)参謀本部実測図ニ基キ海岸ノ摸様ヲ前項ノ図上ニ詳細記入スルコト
    但シ東京市街ニ属スル部分ニ於テハ海岸ヲ距ル凡ソ十町ノ間市区ノ模様ヲ記載スヘシ
  (四)六千分一ノ図ヲ縮シテ一万八千分一ノ図ヲ調製スルコト
  (五)品川砲台以内及干潮以下深サ三尺以内ノ場所ニ於テハ、海岸ニ沿ヒ凡二町間ニ標杭ヲ設ケ、此ヨリ海面ニ向テ適宜ノ方向ニ従ヒ銅線ヲ張リ、毎十間ノ深浅ヲ測量スヘシ、但シ海底ノ傾斜緩ニシテ深浅ノ異動軽小ナル場所ニ於テハ省略ヲ加ヘ、毎十間若クハ毎二十間ノ測量ニテ足レリトス
  (六)砲台以外ノ深キ場所ニ於テハ一般セキスタントノ方法ニ拠ラサルヘカラス、但シ其深浅ヲ測定シタル諸点相距ルコト三十間乃至五十間ヨリ多カラサルコトヲ希望ス、但シ海底ノ起伏著シキ場所ニ於ケル測定点ハ右制限ヨリ一層近密ナルヲ要ス
  (七)以上二項ニ於テ示ス処ノ深浅測量ト共ニ海底ノ土質ヲ調査スヘシ
  (八)明治十四年実測深浅図中用フル処ノ零点ハ如何ナルモノナルヤ図上之ヲ掲載セス、依テ此際東京府所蔵ノ該測量関係書類又ハ当時ノ測量従事員ニ就テ精々之カ正確ナル調査ヲ遂クヘシ
      第二章 量潮ノ事
 量潮標ハ左ノ三ケ所ニ於テ之ヲ設置スヘシ
  玉川吐口ノ近傍ニ於テ一ケ所
 - 第28巻 p.316 -ページ画像 
  第二砲台ノ北方ニ於テ一ケ所
  霊岸島近傍ニ於テ一ケ所
 右ノ内第二砲台ノ北方ト霊岸島ノ二ケ所ハ之ヲ永久常備ノモノトシ玉川吐口ノ一ケ所ハ湾内深浅測量ノ間ニ限リ、番人ヲ置キ之カ観測ヲナスヘシ
 右何レモ自記量水標ヲ用ルヲ可トス
      第三章 潮流ノ方向及速力ヲ測定スル事
 明治十四年ノ測量ニ於テハ潮流ノ観測尤モ不完全ナリトナス、依テ此際湾内各所ニ於テ更ニ之カ観測ヲナシ、以テ其方向及速力ノ概略ヲ視定スヘシ(但シ本文ノ観測ハ砲台以南ニ限リ之ヲナスヘシ)
      第四章 地質調査ノ事
 石川島ノ南尽端ヨリ、第三号砲台ニ達スル直線上ニテ深凡ソ十五尺(但シ干潮已下々之ニ傚ヘ)ノ錐鑿三ケ所
 第二砲台以南湾ノ中央線上ニテ深凡三十尺ノ錐鑿六・七ケ所
 各砲台間及第四砲台ト海岸トノ間ニ於テ錐鑿一ケ所ツヽ、尤モ第一第五砲台間及第二・第五砲台間ニ於テハ深サヲ三十尺トナシ、其他ハ総テ二十尺トナス
 隅田川澪筋ニアリテハ石川島ト霊岸島間ニ一ケ所、海軍兵学校及浜離宮近傍ニ於テ各一ケ所ツヽ、以上ハ深三十尺ナリトス
 高輪近傍ニ於テ深三十尺ノモノ二・三ケ所
 第一砲台ヨリ羽子田ノ間ニ於テ深三十尺ノモノ三ケ所
      第五章 海底堪重力調査ノ事
 海底ノ堪重力ハ突堤沈降ノ度ヲ予算スルニ必要ノ材料タルニ過キサレハ湾内一般ニ之カ調査ヲ要セス、只タ突堤ノ敷地トナルヘキ既定ノ法線ニ沿テ之ヲナスモノトス、故ニ他日築港ノ計画確定ノトキニ臨ミ調査スヘキモノナレトモ、今玆ニ之ヲ掲出スル所以ハ築港工事施行上必要ノ材料タルヲ表スルカ為ナリ
 図面ハ第一章ニ述ル如ク六千分一ト、一万八千分一トノ二種ヲ調製スヘシ
 六千分一ノ図ハ左ノ二葉ヲ製スヘシ
  (甲)此度測定ノ深浅ヲ以テ十四年ノ零点以下ノ深浅ヲ算出シ、之ヲ数字ノマヽ記入シタルモノ一葉
    但シ干潮ノ際水面上ニ露出スル砂洲ノ高低モ亦数字ノマヽ之ヲ記スヘシ
  (乙)毎一尺ノ深浅線潮流ノ方向及速力地質撿査ノ錐鑿施行ケ所ヲ記入シタルモノ一葉
    但シ深浅線ハ南ハ玉川吐口ヨリ東方ニ向ヘル見通線、又東ハ平井新田ヨリ南方ニ向ヘル見通線ニヨリテ之ヲ界シ、此両界線以外ニ於テ之ヲ伸張スルヲ要セス
 一万八千分一ノ図ニハ明治十四年ノ深浅線ト、此度測定シタル深浅線トヲ深三尺毎ニ各色ヲ分テ記画シ、以テ既往八年間ニ於ル深浅ノ変動ヲ表示シ、併テ潮流ノ方向ヲ記入スヘシ
 以上五章ニ於テ列挙シ来リタルモノヽ外、尚隅田川ヲ主トシ品海ニ注ク処ノ大小ノ河川及溝渠ヨリ流出スル沈澱物ノ調査アレトモ、熟
 - 第28巻 p.317 -ページ画像 
ラ之カ実施ノ方法ヲ考フルニ夥多ノ人員ヲ具備シ、夥多ノ歳月ヲ経ルニアラサレハ信憑スヘキ功果ヲ得ルノ難キヲ認メタリ、蓋シ河水ニ混同シテ流動スル処ノ固形物ハ、大気中ニ発現スル総テノ顕象ト共ニ其量ノ変動スルモノニシテ水量ニ正比スルカ如キ単純ナルモノニアラス、今該物量ヲ測定スルカ為メニ僅々一・二年間之ニ従事スルモ、到底所望ノ材料ヲ収得スルニ足ラスシテ若干ノ費用ヲ徒費スルニ過キス、依テ小官等反復評論ノ上本件ニ関スル調査ヲ省略スルコトニ決シ、玆ニ深浅再測量外六件ニ付キ卑見ヲ縷述シ謹而呈ス
  明治二十二年二月     内務三等技師 沖野忠雄
              東京市区改正臨時委員
                海軍大佐 肝付兼行
    東京市区改正委員長 芳川顕正殿
 本文ハ小官等内務省土木局雇和蘭国工師「ムルドル」ト協議ノ末決シタルモノナレトモ、其署名ナキハ当初横文ノ本書ヲ調製セサリシニ由ルナリ、依テ同工師ノ承諾ヲ得テ玆ニ此事ヲ追加シ以テ同工師カ小官等ト議協ハスシテ其記名ヲ拒ミタルニアラサルコトヲ証明ス
 附録
 本文ノ諸件ハ専務ノ官庁ニ請テ之カ調査ヲ依頼スルモノトナシ、其事項ヲ類別スルコト左ノ如シ
    第一海軍省ニ依頼スヘキ件
 本書第一章(六)砲台以外ノ深浅測量及第三章潮流ノ方向及速力ノ測定ノ件
    第二農商務省ニ依頼スヘキ件
 第四章ノ地質調査ノ件
    第三東京府ニ依頼ノ件
 第一章中(五)項ノ測量ヲ除キ其他ノ事件
 第二章ノ量潮標ニ関スル一切ノ事務即チ該標建設方、番人ノ監督及其進退、量潮日表ノ保存方等ナリ
 第六章ノ図面調製方
 品川湾深浅測量ニ要スル一切ノ準備即チ測量用雑品ノ購入及集緝方目標ノ建設等ナリ
此際三十一番(肝付兼行)ヨリ、台場内ヨリ大川ノ深浅調ヘハ明年四月迄ニ測量済トナル様東京府庁ニ依頼シ、台場外即チ海軍省引受ノ部分ハ明年四月ヨリ七月迄ノ三ケ月間ニ測量シ竣ル見込ナル旨ヲ報告セシカ、更ニ八番(和田維四郎)ヨリ、地質調査モ明年四月迄ニハ出来得ル見込ナレハ、委員長ヨリ更ニ此際農商務大臣ニ向ツテ表面ノ照会アランコトヲ要求セシニ由リ、委員長ハ之レヲ領シ官庁ニ依頼スヘキ事ハ夫々依頼セリ、而シテ農商務次官ヨリ同年四月五日付ヲ以テ右ニ要スル費用ノ支出方ヲ照会シ来リシヲ以テ、同月十六日ノ本会(議事録第二巻第二十九号)ニ於テ本会費中予備費ヨリ支出スルコトニ決セリ
同年十二月二日ノ本会(議事録第三巻第三十八号)ニ於テ、二十二番(古市公威)ヨリ其嘱託セシ築港ノ答案ニ就キ「ルノー」氏ノ意見書ヲ提出セリ、即チ左ノ如シ
 去年十一月東京市区改正委員会ニ於テ依嘱ヲ受ケタル東京湾築港ニ
 - 第28巻 p.318 -ページ画像 
係ル事項取調ノ件ハ、仏国海軍省海工監督官ルノー氏ニ就テ親シク其意見ヲ諮ヒシニ、氏ハ一ノ新案ヲ提出シテ質問ニ答ヘタリ、左ニ訳述スル如シ
  附言仏国海軍省海工監督官ノ任ハ仏国ノ海浜ニ係ル一切ノ工事ニ就テ計画ヲ撿査シ、意見ヲ附シ修正ヲ加フル等ナリ、故ニ海港ノ工事ニ於テルノー氏ノ博識熟練ナルハ疑ヲ容レス、又本員ノ氏ヲ訪フタル頃ハ仏国ニ於テ軍港及ヒ枢要ノ商港拡張ノ計画アルニ際シ、氏ノ繁忙ヲ極メタルハ本員ノ見ル所ナリ、然ルニ氏ハ快ク本員ノ請求ニ応シ、貴重ナル余暇ヲ以テ計画研究ノ用ニ充テ、遂ニ一案ヲ立テ本員ニ満足ヲ与ヘタリ、記シテ以テ氏ノ厚誼ヲ謝ス
    ルノー氏東京湾築港意見
 日本ノ都府及ヒ帝国全体ノ経済ニ於テ、横浜ヲ措キ東京ニ築港スルノ利益アルハ論ヲ俟タサル如シ
 我輩ノ前説ヲ信スルハ欧洲ニ於テ常ニ見ル所ニ拠ル、即チ深ク内地ニ進入シ、産出支消ノ中心ニ最モ近キ港ノ頗フル繁昌ナル其例多キヲ以テ之ヲ証スヘシ
 右ノ事実アル所以ハ商業ノ手続ヲ以テ之ヲ理解シ得ヘシト雖トモ此点ニ就テ経済論ヲ為スハ此簡短ナル意見書ノ許サヽル所ナリ、然レトモ我輩ハ玆ニ一事ヲ掲ケテ注意ヲ乞ハントス、即チ欧洲ニ於ケル都会ノ近況ナリ、二・三ノ都会ニ於テハ最近ノ港ニ達スルニ鉄道ノ便アルニモ拘ラス直チニ海ニ通スヘキ水路ヲ求メ、或ハ已ニ水路ヲ有スル地ニ於テハ更ニ之ヲ改良スルノ工事ニ力ヲ竭シテ止サル事是ナリ
 其例ヲ挙クレハ魯西亜ノセン・ペテルスブールヲ始メトシ、和蘭ニテアムステルダムアリ、新運河ヲ以テ北海ニ通シ、白耳義ニガンアリ、亦運河ニ頼テエスコーノ下流ニ達ス、英国ニ於テハグラスゴーニユーカスルアリ、共ニ莫大ノ費用ヲ以テ其川筋ニ改良ヲ加ヘ大船ヲ引寄セタリ、又マンチエスタモ巨額ノ工費ヲ投シテ運河ヲ掘鑿シ将サニメルゼーノ川口ニ接続セントス、仏国ニ在ツテハルーアン、ナント、ボルドーニ大船ヲ入ルヘキ計画アリテ今日已ニ工事実施中ナルモノアリ
 東京湾ノ築港ニ就テハ已ニ二様ノ計画アリ、紅線ト緑線トヲ以テ海図ニ載スルモノナリ、此計画ハ両ナカラ二条ノ突堤ヲ築キ之ヲ以テ三尋半乃至四尋(六「メートル」四乃至七「メートル」三)ノ深ニ達ス、突堤ノ頭部相対スル点ハ市街ヲ距ル六「キロメートル」余ニシテ海底ノ平坦ナル場所ナリ、緑線ノ計画ニ於テハ惣長一万三千「メートル」ノ突堤間ニ海面積一千四百町歩ヲ容レ、紅線ノ計画ハ惣長一万千五百「メートル」ノ突堤ヲ以テ海面二千二百町歩ヲ囲フ
 我輩ハ此問題ニ就テ熟考シタルニ、右ノ両計画ト全ク趣旨ヲ異ニスル第三ノ考案ヲ提出セントス、即チ黄線ヲ以テ海図ニ之ヲ示ス、其要領左ノ如シ
 川崎ノ突出点ノ北ニ一ノ前港ナルモノヲ設ケ、大深線ニ達スルマテ左右ニ突堤ヲ築キテ之ヲ保護ス
 長十「キロメートル」半ノ運河ヲ掘鑿シ右ノ前港ヨリ繋泊所ニ達ス
 - 第28巻 p.319 -ページ画像 
ル航路トス
 市街ニ近クシテ鉄道ノ便並ヒニ市内ノ運河及ヒ隅田川ノ利アル地ヲ撰ミ、浅洲ヲ掘鑿シテ繋泊所ト為ス
 右ノ考案ヲ採用シタル理由左ノ如シ
 品川湾ハ海岸ヨリ十「キロメートル」余ノ間ニ泥沙ノ充満スルヲ見ル、即チ此湾ニ注ク所ノ諸川殊ニ新利根川ノ流送スル泥沙ナリ、此泥沙ハ東ヨリ西ニ回リツヽ徐カニ沖ノ方ニ進ミ出ツルモノナリ
 東京湾内ノ潮流ノ速度ト方向トニ就テハ未タ実験スル所ナシト雖トモ、海図ヲ熟視スレハ略ホ実験ノ結果如何ヲ推測予想シ得ヘシ
 海底ノ斜傾ハ頗ル緩ナリ、殊ニ湾ノ西北ニ於テハ三尋線ト六尋線トノ間即チ三尋ノ差(五「メートル」四五)ニ対シテ二千五百「メートル」ノ距離アリ、之ニ反シ湾ノ西南ヲ鎖ス所ノ川崎ノ突出点ニ在ツテハ近傍ノ斜傾頗ル急ニシテ、三尋線ト六尋線トノ間隔僅カニ百五十「メートル」許ナリ
 是ニ由テ推考スルニ湾内ニ東ヨリ西ニ向ヒタル潮流アリ、其速度ハ湾ノ西北隅ニ於テ殊ニ緩ナルモ、川崎ノ突出点ニ触レテ若干ノ勢力ヲ得ルニ至ルヤ明ナリ
 紅線或ハ緑線ノ突堤ヲ築クノ結果ハ東ヨリ西ニ向フ所ノ泥沙ノ進行ヲ止ムルニ在リ、乃チ此泥沙ハ東堤ノ背後ニ停滞シ遂ニ其頭部ヲ繞リ港門ニ堆積シ浅洲ヲ生スルニ至ルヘシ、今日ニシテ海浜ハ遠浅ナリ且漸々沖ノ方ニ進ミ出ツルノ徴アリ、港門ヲ閉塞スルニ至ルハ期シテ待ツヘキナリ
 海潮干満ノ差大ナラサレハ退潮ニ港門ヨリ流出スル水量モ亦小ナリ故ニ潮力ヲ仮リテ港門ノ浅洲ヲ浚ヒ、大船ノ出入ニ差閊ナキ深ヲ保ツ能ハス、類似ノ場合ニ於テ実験スル所ニ拠レハ到底此方法ヲ以テ好結果ヲ得ルノ望ナシトス
 故ニ港門ヲ維持セントスルニハ不断浚渫ノ方法ニ依頼セサル可ラス即チシユエス運河ノ入口ニ於テポルサイドノ港門ヲ浚渫スルト一般ナリ
 右ノ如ク港門ヲ維持スル為メニ毎年浚フヘキ泥沙ノ量ハ我輩之ヲ推測スル能ハスト雖モ、新利根川ノ近キニ在ルヲ以テ考フルニ其量ノ決シテ鮮少ナラサルヲ信ス、乃チ之カ為メニ要スル工費モ巨額ナラサルヲ得ス
 突堤ノ長ヲ増加シテ右ノ害ヲ除カント欲スルモ良法ニ非ス、何トナレハ海底ノ斜傾緩ナルカ為メニ度外ニ遠ク進ミ出テサレハ相当ノ深ヲ得ル能スハシテ冗費ヲ要スヘケレハナリ、且再ヒ港門ニ浅洲ヲ現出スルノ害ハ依然トシテ尚ホ存ス
 紅線・緑線ノ計画ニ類スルモノハ凡テ必ス前同様ノ結果ヲ来スヘキモノトス
  泥沙ノ停滞ニ因テ海浜ノ進出スルヲ止ムルノ一策アリ、玆ニ之ヲ記スルモ無用ナラスト思考ス、即チセネガルノ川口改良ニ関スルブーケ・ド・ラ・クリー氏ノ小著書ニ載スル所ノ方法ナリ、此方法ニ依レハ東ノ突堤ヲ中断シ此所ヨリ泥沙ヲ港内ノ航路ニ注キ、退潮ノ力ヲ仮リテ之ヲ港外ニ放流スルナリ、然レトモ潮流ノ力ハ
 - 第28巻 p.320 -ページ画像 
航路ニ適度ノ深ヲ維持スルニ足ラス、且港外ニ放流シタル泥沙ハ港門外ニ沈澱シ遂ニ浅洲ヲ生スルニ至ルヘシ、故ニ此方法ヲ用ユルモ亦到底不断浚渫ノ力ヲ仮ラサルヲ得ス
 黄線ノ計画ハ右ノ弊害ヲ除クヘシ
 突堤ノ頭部ハ海底ノ斜傾急ナル点ニ之ヲ置ケリ、且潮流ノ之ニ触ルルアリ、故ニ海岸ニ沿フテ進ム所ノ泥沙ハ深淵ニ陥リ港門ニ浅洲ヲ生セスシテ潮流ト共ニ門外ヲ通過シ去ルヘシ、又港門外ノ深サ大ナルカ為メニ波浪ノ泥沙ヲ捲クコト少ナシ、又南風ニ因テ生スル怒濤ハ門外ヲ通過シテ港門ヲ侵サヽルヘシ、欧洲ノ二・三港ニ於テ就中キングストンノ港門ニ於テ好結果ヲ得タルヲ以テ推考スルニ、黄線ノ計画ニ依レハ別ニ港門維持ノ工事ヲ要セスシテ突堤ノ頭部ノ周囲ニ自カラ適度ノ深ヲ保チ得ヘキハ疑ナシトス
 我輩ハ此点ニ就テ玆ニ贅論セス、詳説ハステクレン、ラロシユ両氏ノ著述ニ係ル海港築設及水深維持論ニ就テ見ルヘシ
 但シ未来ニ於テ川崎ノ突出点ハ玉川ノ泥沙ヲ流送スルニ随ヒ、漸々進ミテ今日ノ善良ナル地位ヲ失フニ至ルノ患ナシトセス、我輩ノ参照ニ供シタル海図ハ皆近年ノモノニシテ、往年ニ溯リ突出点ノ進歩如何ヲ知ル能ハス、然レトモ若シ今日ヨリ予メ突堤ノ頭部ヲ四尋乃至五尋線以外二百「メートル」ニ置カハ多数ノ年限ニ港門ノ深ヲ維持シ得ルハ疑ヲ容レス、而シテ若シ其後ニ至リ港門閉塞ノ傾向アレハ僅カニ突堤ノ長ヲ加ヘテ直チニ大深線ニ達スルヲ得ヘシ
  川崎ノ突出点ハ深キニ向フニ随ヒ進出ノ度ヲ減スヘシ、若シ又少シク工事ヲ施コシ玉川ノ吐口ヲ幾分カ南ニ向ハシムルヲ得ハ、更ニ其進歩ヲ圧ユルヲ得ヘシ
 右ノ如クナレハ港門ハ百年ノ未来ヲ保証シ得ヘシ、即チ実際工業・商業ニ於テ予算スヘキ年限ヲ超過スルモノナリ
 前港ノ内部ハ暴風ノ際ニ難ヲ避ケ来ル船舶ヲ容ルヽニ適スヘキ面積ヲ浚渫スヘシ
 風帆船ノ港門ヲ出入スルハ北風・西北風・南風・西南風ニ於テ容易ナリ、而シテ一年ノ半ハ北風・西北風ノ季節トス、又南風・西南風モ頗ル多シ、風帆船ノ前港ニ入リタル後ニ逆風ナレハ小蒸汽船ヲ仮リテ引カシムヘシ、或ハ運河ノ側ニ設ケタル堤塘ニ頼リ普通ノ曳船ヲ為シテ繋泊所ニ達スヘシ、出港ノ時モ亦同様ノ航法ヲ用ユヘシ
 両堤ノ頭部ハ潮流ニ併行シテ之ヲ築クヘシ、港門ハ最大波浪即チ南風ニ因テ起ル所ノ怒濤ニ対シテ前港ヲ十分ニ保護スヘキ方向ヲ取ラシムヘシ
 繋泊所ハ風ノ方向及ヒ其強力如何ニ拘ラス船ニ害スヘキ動揺ヲ生スル事決シテ無カルヘシ
 此点ニ於テ黄線ノ計画ハ他ノ二計画ニ比シテ多少ノ利益アル如シ、他ノ二計画ニ於テハ港門ノ方向妥当ナラスシテ突堤間ノ海面積頗フル大ナリ、故ニ南風ノ強キニ方ツテハ海面ニ甚シキ動揺ヲ起スヘシ満潮以上ニ突出シタル堤塘ヲ以テ、運河及ヒ繋泊所ト海トヲ離隔スヘシ
 繋泊所ハ市街ノ南ニ於テ最モ接近シタル浅洲ヲ掘鑿シテ之ヲ設ク、
 - 第28巻 p.321 -ページ画像 
我輩ハ自然ノ地勢ニ拠リ其位置ヲ撰定セリ、即チ鉄道ニ近クシテ市内ニ縦横スル運河及ヒ隅田川ニ通スル便アリ、繋泊所ノ周囲ニハ広キ埋立地ヲ得テ倉庫ヲ建設スヘシ、而シテ商業ノ拡張スルニ随ヒ漸次ニ整頓シ遂ニ壮大ニシテ完全ナル装置ヲ為スニ至ルヘシ
 前港内ニハ泥沙ヲ沈澱スヘシ、運河及ヒ繋泊所ニモ猶ホ少シク此患アルヘシ、然レトモ之ヲ浚渫シテ深ヲ維持スルハ他ノ二計画ニ比シテ別ニ多キヲ要スルナシ
 工費ノ比較ニ就テハ三計画ヲ各十分ニ研究セサル可ラス、然レトモ我輩ハ左ノ事項ニ注目ス
 第一黄線ノ計画ハ一・二尋以上ノ深ニ築クヘキ突堤ノ長ニ著シキ縮減ヲ来タス
 第二運河ト海トヲ離隔スル堤塘ハ冗費ヲ要セスシテ成ルヘシ、何トナレハ之ヲ築クノ地ハ干潮ニ於テ水浅ク且南風・西南風ノ怒濤ニ対シテハ前港ノ保護スル所アレハナリ
 第三運河ヲ掘鑿スル為メニ要スル浚渫ハ、在来ノ二計画ニ於テ突堤間ニ掘鑿スヘキ広キ航路ヨリモ其量更ニ大ナリトセス
 依テ推算スルニ黄線ノ計画ヲ実施スルノ費用ハ、他ノ二計画ニ比シテ或ハ廉ナルヲ得ヘシ
 前港運河・繋泊所ノ掘鑿ハ之ヲ実施スルニ容易ナリトス、且需用ニ応シテ漸次ニ之ヲ増シテ可ナリ、事業大体ノ規摸ハ未来ヲ誤ラサルヲ目的トシ、商業ノ盛大ナルト共ニ必要ヲ感スルニ随ヒ結構ヲ拡張スルノ策ナカル可カラス
 図面ニ載セタル我輩ノ考案ハ此主意ニ出ルモノナリ
  図上ニ実線ヲ以テ示スモノハ前港ニ於テ十分ノ深ニ浚渫スヘキ船溜百町歩及ヒ繋泊所ニ於テ物揚場長五千四百「メートル」ニ適ス我輩ハ、ル・ハーブル港ヲ以テ比較ノ便ニ供ス、其入口ニ設クヘキ計画アル大前港ハ船溜百五十町歩ヲ容ルヘキモノトス、又其繋泊所ハ今日ニシテ横附物揚場一万千「メートル」ヲ有ス
 大体ノ計画ニ於テ港内ノ深ハ今日第一等ノ海港ニ適用スル規則ニ遵ヒ干潮以下八「メートル」ヲ保ツコトヲ希望ス
 但シ繋泊所ニ於テハ尽ク右八「メートル」ノ深ヲ有スルヲ要セス、何ントナレハ其一部ハ近海往復ノ用ニ供スル喫水ノ大ナラサル船ニ充ッルヲ得ヘケレハナリ、八「メートル」ノ深ハ大船繋泊ノ部ニノミ之ヲ具ヘテ可ナリ
 工費節減ノ目的ヲ以テ一時或ハ七「メートル」ノ深ト為スモ可ナリ然レトモ是レ実ニ最下限ナリ、其以下ハ許ス可ラス
 運河ハ時宜ニ因リ創業費ヲ減スル為メニ、前港及ヒ繋泊所ヨリ稍浅ク之ヲ掘鑿スルヲ得ヘシ、然ルトキハ大船ハ満潮ヲ待テ之ヲ通過スヘシ
 運河ノ幅員ハ北部ニ於テ二十五「メートル」南部ニ於テ三十「メートル」ト定メテ可ナリ、南部ノ広キ所以ハ線路ノ直ナラサルト此辺ニ於テハ概シテ風ヲ船ノ横ニ受クルトニ因ル、又途中ニ待避所一二ヲ設クル必要アルヘシ
 運河ノ岸ノ法ハ先ツ二割ト定メ、崩欠スルアレハ随時浚渫シテ可ナ
 - 第28巻 p.322 -ページ画像 
リ、堤塘ハ岸ヲ距ル凡二十五「メートル」ニ之ヲ築クヘシ、其崩欠スルアルモ運河ノ中ニ陥ラサルヲ要スレハナリ、運河大体ノ景況ハ左図ノ如シ
  満潮面
 石材ヲ以テ物揚場ノ崖壁ヲ築カント欲スレハ巨額ノ工費ヲ要スヘシ繋泊所ノ岸ニ相応ノ法ヲ附シ、鉄材或ハ木材ノ桟橋ヲ以テ之ヲ回ラセハ冗費ヲ要セスシテ港ヲ為スヘシ
 船舶ノ修繕ニ要スル装置ハ完全ノ海港ニ於テ欠ク可ラサルモノナリ其位置及ヒ構造法ハ基礎ノ難易即チ地質ニ最モ関係アリテ取捨スル所ナカル可ラス、築港落成ノ後ハ必ス実業家自カラ担任シテ之ヲ設ケ之ニ頼テ営業スルアルヘシ
 以上陳フル所ヲ約言スレハ我輩ノ意見ハ
 東京ノ築港ハ大体ニ於テ黄線ノ計画ニ遵フヲ可トス、工事ハ右述フル所ノ趣旨ニ遵ヒ施行スルヲ可トス
  千八百八十九年五月一日巴里ニ於テ    ルノー
 右ルノー氏ノ意見ヲ案スルニ其主眼ト為スヘキ点ハ港門ヲ羽田ニ置キ運河ヲ以テ便宜ノ繋泊所ニ達スヘシト云フニ在リ、蓋シ滴当ナル考案ナリ
 港門ヲ羽田ニ設クルハ撰ミ得テ妙ナリト云フヘシ、羽田以北ノ海面ニ泥沙堆積シテ全ク海潮ノ運動ヲ断ッニ至ルマテハ突出点ノ海底ハ其斜傾ヲ維持スヘシ、即チ港門ヲ置クヘキ地ニシテ他ニ之ニ優ルモノヲ見ス
 又繋泊所ノ周囲ニ広キ倉庫地ヲ要スルハ勿論ニシテ且其地ハ鉄道ト直接ノ関係ナカル可ラス、乃チ浚渫ヨリ生スル土沙ヲ以テ芝浜ヲ埋立テ貨物集散ノ用ニ応スヘキ地ヲ此処ニ得ルノ策極メテ可ナリ
 港門ト繋泊所ノ位置已ニ定マレリ、而シテ又一方ニ於テハ潮力ノ頼ムニ足ラサルヲ知ル、故ニ港門ニ前港ヲ設ケ運河ヲ以テ繋泊所ニ達スルハ自然ノ方案ナリトス
 右ノ如ク大体ノ計画ハ動カス可ラサルモノヽ如シ、而シテ港門ノ方向、前港ノ大小深浅、運河ノ線路及幅員、繋泊所ノ配置等ハ尚ホ研究ヲ要シ、突堤桟橋等ノ構造ハ特ニ立案セサル可ラス、宜シク更ニ技師ヲ撰定シテルノー氏ノ考案ヲ基礎トシ東京湾築港ノ計画ヲ完フスル事ヲ依嘱スヘシ、是レ今日ノ急務ニシテ切ニ希望スル所ナリ
 別ニ一言シテ参考ニ供スヘキアリ、ルノー氏ノ考案ハアムステルダム新航路ノ計画ト趣ヲ同フス、乃チ玆ニ其大略ヲ記シテ東京湾築港ノ難易便否ヲトスルノ一助ト為サントス
 アムステルダムノ前港ハ北海ニ在リテ直線ノ海岸ニ突出ス、海底ノ斜傾ハ甚急ナラスシテ突堤ノ長凡千五百「メートル」アリ羽田ニ比シテ地勢不良ナリ、突堤落成ノ後南堤ノ背部ニ流沙ヲ寄セタレトモ
 - 第28巻 p.323 -ページ画像 
今日ニ至リテハ殆ント海岸ノ変動ヲ止メタリト云フ、前港ノ面積百二十町歩ニシテ全部八「メートル」半以上ノ深ヲ有ス、此地風濤ノ激烈ナル実ニ言語ニ絶ス、二十噸ノ保護石突堤ヲ超ヘテ港内ニ陥リ八十噸ノ人造石位置ヲ変スルニ至ル工事ノ困難ナル推シテ知ルヘシ前港ヨリアムステルダム繋泊所ニ達スル運河ハ長凡二十五「キロメートル」ナリ、即チルノー氏ノ運河ニ倍ス、其一部ハ堀割ニシテ一部ハ前ノアイ湾ヲ浚渫セルナリ、堀割ノ部ハ長七「キロメートル」許ニシテ短カシト雖トモ、土地高ク海面上七八「メートル」ニ達スルモノ少カラス、之ヲ東京湾ノ浅洲ヲ掘鑿スルニ比スレハ難易ノ点ニ於テ判断ニ苦シマス、敷巾ハルノー氏ノ運河ニ等シク二十五「メートル」ナレトモ掘鑿ノ土坪ハ数倍ス、又アイ湾ノ浚渫ハ或ハ甚シキ困難ナキモ、左右ニ設ケタル堤造ノ築造ハ敢テ東京湾ノ浅洲ニ築クヘキ堤塘ヨリモ容易ナリト云フヲ得ス
 運河ノ長キハ船舶ノ不利ナリ、加フルニアムステルダムニ於テハ他ノ一難物アリ、即チ前港ト運河トノ間ニ設ケタル閘門是ナリ、閘門ハ其築設ニ莫大ノ工費ヲ要スル而已ナラス大ヒニ運輸ノ不便ヲ来タス、東京湾ニ其必要ナキハ幸福ナリトス
 是レニ由テ観レハ東京湾ノ築港ハアムステルダムノ新航路ニ比シテ頗ル容易ナリト云フヲ得ヘク、而シテ落成ノ後ニ船舶ノ便利ヲ得ルモ亦アムステルダムノ比ニ非ルヘシ
  明治二十二年十一月  東京市区改正委員 古市公威
    東京市区改正委員長 芳川顕正殿
二十二番(古市公威)尚之ニ付言シ、此「ルノー」氏ノ答案ハ港門ヲ羽田ニ設クル事又運河ノ方法繋船所ノ位置等至極可ナルカ如シ、然レトモ其巨細ニ至リテハ篤ト調査ヲ為サヽレハ確定スルヲ得サル旨ヲ述ヘタリ
玆ニ於テ三十一番(肝付兼行)ヨリ調査委員ヲ設クル説ヲ提出シテ之ヲ可決シ、委員長ハ直ニ五番(田口卯吉)六番(角田真平)十九番(銀林綱男)二十二番(古市公威)二十六番(益田孝)二十八番(渋沢栄一)三十一番(肝付兼行)ヲ調査委員ニ選定セリ爾来該調査委員ハ品川湾内海底ノ地質ヲ調査スル為メ前十二ケ所後十二ケ所ヘ鑿錐ヲ為シ以テ之ヲ試ミ傍ラ戸田橋・小台、鐘ケ淵・霊岸島第二砲台・羽田等ヘ験潮場ヲ設ケ専ラ潮流ノ干満ヲ験シツヽアリキ
二十八年八月二十四日本会(議事録第八巻第百二十号)ニ於テ二十七番(渋沢栄一)ノ建議ヲ納レ更ニ該調査委員七名ヲ置クコトニ決シ、後チ委員長ハ二番(須藤時一郎)十一番(古川宣誉)十二番(佐藤秀顕)二十二番(古市公威)二十四番(佐久間貞一)二十七番(渋沢栄一)三十三番(肝付兼行)ヲ調査委員ニ選定セリ

  工師デレヱケ氏築港計画上申書
    東京湾築港計画ニ付上申
      附略図壱葉
過ル千八百八十八年昨年一月三十一日我カ捧呈シタル横浜築港計画報告書中東京湾築港ニ係ルノ問題ヲ掲ケタリ、是レ畢竟横浜・東京間ニハ親密ナル関係アルカタメタリ(同書第八・第九及ヒ第十三章ヲ看ヨ)夫レ東京湾ヘ築港ノ場合トナラハ彼ノ墨田川ニ就テ詳細ニ論究セサルヘカラス、譬トヒ此川ハ日本国中他ノ河川ニ比スレハ水稍ヤ清澄ト云
 - 第28巻 p.324 -ページ画像 
フコトヲ得ルト雖モ、然レトモ唯タ海岸図ヲ一見スルノミニテモ既ニ明晣ナル所ノモノハ、其川口ノ外ニ広大ナル沙洲アリテ少クモ其大半ハ此川ヨリ流出シタル固形物ニ起因スヘキコト即チ是ナリ
故ニ東京ノタメニ大ナル船舶ノ出入ニ適スヘキ一ノ良港ヲ築成スルコトハ、設シ此川流ヲ劃然離隔シタランニハ応サニ成スヲ得ヘキノ事業タリ、然ルニ由リ夫ノ墨田川ヲ其港内ニ引導スルカ如キ計画ニハ片時タモ意ヲ留メテ講究スルニ足ラストス
今東京湾築港計画ニ対シ猶ホ他ニ顧フヘキ一事アリ、此亦タ前項ノモノト均シク緊要ナリ、其ハ即チ港ノ門口ヲ潮流ニ籍テ恒ニ深ク開存セシムルヲ要スルコト是レナリ、東京湾中潮水面ノ上昇ハ僅ナルヲ以テ其港口ノ潮流ニ十分効ヲ奏スヘキ勢力ヲ惹キ起サントスルニハ、一ノ広大ナル養潮池《タイダルベースン》ヲ備ヘサルヘカラス
初項ニ謂フ所ノ報告書中ニハ彼ノ墨田川ニ入ルヘキ小船航通ノタメニ必要トシ、今工事中ノ該川西川口ノ浚渫工成ルノ後ト雖モ、東京ニ接近スル所ノ湾内ニ一港ヲ築設スルノ策ハ猶ホ存スト云フコトヲ説明シ置ケリ
斯ク浚渫ヲ加ヘ西ノ水路ヲ深開スルニ由リ該一方ニ全川ノ流水ヲ誘導スルコトヽナルハ必セリ、而シテ東ノ川口ハ漸々自カラ𣽏塞スヘシ、且ツ石川島ト品川砲台ノ間ハ海底ニ浅淤ヲ速ネクコト今日ニ於ケルヨリモ更ニ速カナラントス、其海底堆起シ、久シカラスシテ干潮面ニ達スルハ必然ノ理ナリ、然ルトキハ則チ新港ノタメニ此海面ヲ養潮池ノ用ニ供セントスルモ既ニ已ニ不適当ノモノトナルヘシ(過ル千八百八十一年(八年前)「ムルドル」氏ヨリ提出ノ築港計画モ二条ノ理ニ原ツキタリ是レ固ヨリ然ルヘキコトニシテ其二条ノ理トハ即チ川港離隔及ヒ養潮池開設ヲ云フ然ルニ其養潮池トナシテ用ヒントスル所ノ海面ハ即チ斯ノ砲台内ニアルモノナリ)然リト雖モ我ハ亦タ前陳ノ報告書中ニ説明シテ曰ク、譬ヒ品川砲台内ノ海底全ク充塞シテ海水面上ニ出ツルニ至ルノ後ト雖モ猶ホ築港ヲナスヘキ他ノ方法アリト、其方法ハ他ナシ養潮池ヲ砲台ノ外ニ造設スルニアリ、是レ何レノ計画ニ拘ハラス砲台以内ニ該池ヲ備フルモノニ優ルナルヘシ
客年一月中提出ノ報告書ニ附属シタル略図ヲ看ヨ、其図ニハ築港計画ノ位置彼ノ墨田川流尾西水路ノ右側ニ在リ、且ツ其港域ハ遠ク浜離宮ニ達スルノ状ヲ示セリ、該計画ニ於テ一ノ不利ハ港頭ノ市街ニ接近スルノ便未タ十分ナラスト云フコト即チ是ナリ、然レトモ我数日前貴下ニ報道セシカ如ク、今少シ修正ヲ加フレハ其港口及ヒ養潮池ノ計画位置ヲ変更セスシテ尚全ク斯ル不利ヲ除去スルヲ得ヘシトス
今玆ニ貴下ニ捧呈スル略図(此モ亦別段ノ検査及ヒ測量ヲナサスシテ製シタルモノト知ルベシ)ハ則チ前陳ノ修正ヲ加ヘタル計画ヲ顕ハスモノナリ
此ノ計画ノ趣向ニ従ヘハ新船松町ニ至ル迄海ニ瀕スル前面悉皆港内ニ入ル、且ツ此市城ノ渠湟モ多クハ皆ナ墨田三流尾ノ西水路モ亦港ノ一部分トナル(故ニ今施行中ノ浚渫工ハ将来ノ築港ニ大ナル稗補ヲ与フ)故ニ該水路ハ今ノ石川島渡津ノ所ニ堰堤ヲ築クヲ以テ確乎封鎖ヲ要ス、此ノ堰堤築成以前ニ同川ノ東川口ヲ浚開シテ深キコト干潮面下凡ソ六尺トナシテ以テ墨田川全川ノ水量ヲ通スルニ十分足レルモノトナスヘシ、其容量ハ恰モ現今ノ東西ニ両水路ノ合容量ニ均シキ程ニ拡開スルコト肝要ナリ、設シ然ラサル
 - 第28巻 p.325 -ページ画像 
トキハ該島(石川島)ヨリ上流ノ水深ニ減殺ヲ速クヘシ
新港ヲ新開スルコト及ヒ浚渫工ヨリ得ル所ノ泥土ヲ移シテ埋起スヘキノ海面(即チ埋立地)並ニ長サ十九丁ノ瀕壁其他永久橋ノ上方ニ於ケル一所ヲ択ンテ設置スヘキ閘門ニ至ル迄、悉皆ノ工事ハ孰レモ明カニ新製ノ略図ニ示セリ、而シテ該閘門ハ降雨ノ節ヲ除クノ外ハ全ク之ヲ開放シ置クモノトス
多摩川モ亦新港ト連絡ヲナスヘキノ状ハ最前提出ノ略図ニ掲クルモノト其趣ヲ一ニス
我カ伝聞スル所ニ拠レハ政府既ニ新規ノ測量ヲ命セリト、該測量完成ノ日ニ至テハ則チ此ノ書ニ附スル略図ノ計画ヲ尚ホ詳細ニ調定シ、且其工費予算額ヲモ精密ニ算スルヲ得ヘシ
蓋シ此工事中費用最モ大ナルヘキハ左ノ部分ナルヘシ
 一水路ノ浚渫石川島ヨリ港口ニ至ル距離殆ント三里ノ間深サ大抵干潮面下二十四尺ニ達スヘキモノ
 一瀕壁ノ築設其壁縁ニハ洋行大船ヲシテ直接ニ横繋セシムルニ適当ナルモノ
 一海壁若クハ破濤堤ノ尽端部築造
其他ノ部分ニ至テハ上陳ノ工事ノ如ク経費大ナラサルヘシ
工事ノ順序ハ先ツ二条ノ海壁ヲ築出シ同時ニ墨田川東口ヨリ第三号砲台ニ達スル所ノ堤塘ヲ築立スルコトヲ第一着トスヘシ、其堤壁ヲ築起シ高サ已ニ水面上ニ達スルニ至ラハ尋テ該川ノ東川口ヲ浚開シ而ル后チ西川口ヲ封鎖スヘシ、於是港内ノ浚渫ヲナサハ凡ソ六箇ノ浚渫器械ヲ使用シテ著シク其ノ効ヲ奏セシムルヲ得ヘシ
港内船路ノ濶サハ最初ハ先ツ二百尺トナル、後漸次広濶ニナスヘシ
瀕壁ハ其一端ヲ金杉新浜町ニ発シ逐次竣工ヲ告ケタル幾分ノモノト雖トモ、海上ヨリ其所ニ至ル迄ノ船路浚開シタル暁ハ直チニ其用ヲナシ船舶ト汽車ノ間直接ニ貨物ヲ受授スルノ便ヲ開クコトヲ得
上文ニ記載スル所ノ工事ヲ施行スルニハ其起工ノ日ヨリ四ケ年以内ニ竣工スヘキコトヽ思フヲ得、然リト雖モ此港全体ノ工事ヲ完成スルニハ蓋シ八ケ年若クハ更ニ多キ歳月ヲ要スルコトアランカ
  西暦一千八百八十九年即明治二十二年三月八日
            於東京  工師 ヨハネス・デレヱケ
    土木局長 西村捨三殿

  品海水底地質調査報告
本年三月第三拾壱号付ヲ以御依頼相成候品川湾及隅田川等之地質調査結了ニ付、主任技術官ヨリ別冊復命書差出候間及御送付候也
  明治廿二年十月廿六日  農商務大臣 伯爵 井上馨
    東京市区改正委員長 芳川顕正殿
小官明治二十二年五月一日品海水底地質調査ノ為メ隅田川・羽田沖間ニ出張ノ命ヲ蒙リ、因テ右調査ニ要スル諸器械ヲ整理シ地質局雇西山惣吉ヲ随ヘ同月六日品海ニ出張シ水底ノ地質調査ニ着手セリ、蓋シ其調査ノ方程タルヤ曩ニ東京市区改正委員会ニ於テ定メタル東京築港設計材料集緝手続書ニ法リタリト雖モ、水底ニ錐鑿スヘキ箇所ノ数及ビ
 - 第28巻 p.326 -ページ画像 
深サニ至リテハ参酌変更セルモノアリ、便チ二十有余ノ錐鑿スヘキ箇所ノ数ヲ十二ニ減少シ、其深サ低潮以下十五尺乃至三十尺ヲ水底面以下三十尺乃至五十尺ニ増加セリ、是レ這回東京築港ノ計画ノ参照ニ供スルニハ反テ適当ニシテ且地質学上充分ナラントノ意ニ出テタルナリ爾後月ヲ閲スル三有余ニシテ漸ク実地ノ調査ヲ完了シ今ヤ其結果ヲ報告スルニ至レリ、仍テ別冊ニ其調査ノ要領ヲ録シ復申候也
  明治廿二年十月十六日  農商務技師試補 鈴木敏乃
    農商務大臣 伯爵 井上馨殿
    第一項 錐鑿箇所ノ位置及ヒ調査方法ノ要領
曩ニ東京市区改正委員会ニ於テ定メタル東京築港設計材料集輯手続書ニ拠リ其要旨ヲ採リ実地ニ就キ品海水底錐鑿ノ箇所及ヒ其鑿下深サヲ撰定スルコト左ノ如シ
  一 海軍兵学校裏        鑿下深サ従水底面五十尺
  二 芝浦            同上三十尺
  三 高輪車町海瀕        同上三十尺
  四 四番砲台・洲崎間      同上五十尺
  五 大井沖           同上五十尺
  六 南品川六丁目西方ノ沖合   同上五十尺
  七 大森沖           同上五十尺
  八 第三砲台南方ノ沖合     同上五十尺
  九 第五・第六砲台間      同上五十尺
  十 第三砲台・石川島間     同上五十尺
 十一 佃島南方ノ洲上       同上五十尺
 十二 越前堀・石川島間      同上五十尺
其他調査区域内数十ケ所ニ簡便ナル錐鑿器ヲ用ヒ水底面以下六尺乃至九尺間ノ地質ヲ実撿セリ、又其調査ノ方法ヲ撮載スレハ左ノ如シ
前ニ選定セシ錐鑿ケ所ノ中其一ニ趣キ位置ヲ測定シ、爰ニ目標ヲ建テ立脚地《アシバ》ヲ築キ錐鑿器械ヲ装置シ、以テ水底ニ竪坑ヲ鑿シ深サ一尺乃至二尺若クハ土質ノ変更スル毎ニ底土ノ標本ヲ採リ、其質ヲ撿定セリ、其際使用セシ錐鑿器ニ二種ノ別アリ、一ハ丸錐ニシテ軟質ノ底土ヲ穿通スルニ充テ、他ハ螺錐ニシテ硬質ノ底土ヲ鑿通スルニ供セリ、又既ニ開鑿セシ竪坑ニ鉄筒ヲ押入シ、以テ錐鑿器曻降ノ際坑側ヨリ坑内ニ土砂ヲ墜落シテ坑口ヲ塡塞スルヲ防ケリ、而シテ這回ノ錐鑿ニ関スル事項ヲ誌スニ、左式ノ錐鑿日記表ヲ用ヒタリキ

図表を画像で表示第何号錐鑿位置

  以下p.327 ページ画像 第何号錐鑿位置 年 月 日 従水底面       満潮 至水底深       低潮 錐鑿セシ土層断面ノ記 従水底面深サ            穿採セシ底土ノ番号            底土ノ名称            (色組織硬軟成合分等ヲ記ス)            底土ノ性質            各底土ノ厚サ 雑 記        錐鑿器ノ種類人足ノ数事業ノ進歩等ヲ記ス 



    第二項 品海沿岸地ノ地勢及地質
冊尾ニ附セル図ヲ繙キ隅田川河口ヨリ羽田沖間ニ亘レル沿岸地ノ地勢ヲ視ルニ、阜岡断崖ヲナシテ品海ニ面シ、阜間ニ谷アリ川アリテ、断続極リナキモ、其断崖ハ略々白金台ノ南端ナル御殿山ヲ中心トシテ、二個ノ方位ヲ取リ、一ハ北々東ニ走リテ白金・三田・芝公園内及ヒ麹町区永田町ニ起伏セル岡陵ノ端辺ヲ限リ、一ハ南西ニ走リテ荏原郡内ニ連ナレル台地ノ長崖ヲ劃シ、其両阜崖端ノ走位ヲ描ケハ一個ノ鈍角形()ヲ成セリ、此鈍角形ヲ画セル断崖ト海岸トノ間ニ介厠スル低地ハ復タ御殿山ヲ中央トシテ断崖ニ傍ヒ敷衍スルモ、其沿岸線ハ断崖線ト走位ヲ違ヘ一ハ北東ニ曲リ弓形ヲナシテ隅田川ノ河口ニ終リ、他ハ南東ニ環リ又弓形ヲナシテ六郷川ノ委口ニ至レリ、此弓形ヲナシ湾入セル両沿岸線ノ相接シ合スル所ハ御殿山ノ山趾ナル低地ノ少ナキ品川四近ノ地ニシテ、之ヲ遠サカルニ随ヒ沿岸平地漸ク広マリ、其最モ広濶ノ地ハ隅田・六郷ノ両河口ニ近キ所ニアリ
斯ク弓形ヲ為シ両河ノ委口ヲ指シテ広布セル沿岸ノ低地ハ地質学上新シキ時代ニ成リシ地質ニシテ、特ニ其最モ新地ト称スヘキ所ハ隅田川及ヒ六郷川ノ委口ニ近キ芝・京橋区一円及其東北ト川崎以西ノ地ニシテ、泥土若クハ砂土ノ錯合ニ成リ其大部ハ嘗テ海底ニテアリシコトハ之ヲ史乗ニ徴シ又之ヲ大森村ニアル介墟ニ照シ知ルヲ得タリ(以上ノ事項ハ地質局刊行東京地質図説明書ニ詳ナリ)然ラハ其往昔海底ニテアリシ所ハ如何ニ今日ノ如キ地形ヲ呈シ滄海変シテ陸田トナリシヤト云フニ、其変遷ヲ惹キ起セシ主要ノ因ハ隅田川・六郷川其他大小ノ河渠ヨリ流出セル土砂ト潮流ノ瀉シ来レル海砂ノ多年海底ニ沈渣堆積セシニ由レリ(石川島・佃島・深川・京橋区ノ一部ハ隅田川ノ三角洲ニシテ羽田村鈴木新田等ハ六郷ノ三角洲ナル事ハ冊尾ニ附スル地質図ヲ一見シテ明カナルヘシ)而シテ此自然ノ造営力ニ伴レ土工ヲ起シ海澨ヲ塡メ人為ニ由テ今日ノ地形ヲ造成セシコトハ天正十八年徳川氏入国以後ノ記録ニ照シテ明カナリ、斯ル人工ニ由テ成レル埋立地ヲ除キ凡テ江海ノ瀕ニ堆積シ今尚堆積シツヽアル新地ヲ地質学上沖積層ト称ヘリ、其地分子未タ固結セス孰レモ軟弱ナリ(沿岸ノ低地ニシテ阜岡ニ接スル所ハ其阜岡ヲ構成セル壚坶《ローム》、粘土、砂礫、等ノ永年太気ノ作用ニ感シ@砕霉爛セシモノニシテ或ハ壚姆土トナリ或ハ壚坶質砂土トナリテ或ハ礫質土トナリ崖下ニ堆積セシモノアリ是レ亦沖積層ニ属スル地質ニシテ其配置冊尾ノ地質図ヲ参看セハ明ナリ)是ヨリ品海ニ面シ起伏セル阜岡ニ眼ヲ注キ其上部ヲ視ルニ之ヲ蔽フ敷地若クハ黒色ノ畑土ヲ除キ去レハ、俗ニ赤土ト唱ヘ地質学上ノ所謂壚坶ト称スル岩石ヨリ成リ(質ノ硬軟ヲ問ハス凡テ地皮ノ一部ヲ構成セル土石ヲ地質学者ハ岩石ト云フ)赤褐色ヲ帯ヒ粘土ト灰土トノ雑合セシモノニシテ、其質底地ノ地盤ヲ構成スル粘土若クハ泥土ニ比シ稍鞏固ナルモ猶柔軟質ノ名ヲ免レサル岩石ナリ、水ヲ以テ其塊ヲ捏レハ粘
 - 第28巻 p.328 -ページ画像 
土ノ如ク粘着質ニ富ミ日光ニ晞セハ浮軽質ノ灰塵ニ化成スヘシ、台地ノ霖雨ニ泥濘トナリ強風ニ砂塵ヲ飛揚スルハ此一種特異ノ性質ヲ有スル壚坶ノ其上表ヲ構成スルニ由レリ、而シテ其土層全部ノ土質ハ均一ナルモ厚薄不定ニシテ随所等シカラス、三田台ヨリ御殿山ニ連亘セル阜岡ノ壚坶層ハ厚ク七米突乃至九米突アリ、之ヨリ南シ荏原郡ノ高台ニ到レハ三米突乃至七米突ニ減少シ爰ニ其平均ノ厚サヲ数ヘ六米突トセリ
阜岡ノ上部ヲ成セル壚坶ニ亜キ往々現出シ、特ニ荏原郡ノ台地ニ多ク現出スルモノハ恰モ糠ノ如キ黄色粗疎ノ浮石層《カルイシ》ニシテ、其上方ニ鉄錆色ノ泥鉄鉱ヲ交ユルモノアリ、全層ノ厚サ一尺内外ニ止マレリ、之ニ次キ又浮石層ヲ欠クトキハ其上表ニ座セル壚坶ノ直下ニ現ルヽ岩層ハ壚坶ニシテ多量ノ粘土ヲ抱ケリ、之レ粘土質壚坶ト称スルモノニシテ暗褐色ヲ帯時々小量ノ砂利ヲ包ミ其質柔軟ナリ、壚坶質粘土ノ下位ハ大概黝緑色若クハ淡灰色ヲ呈スル粘土層アリテ其厚サ半米突乃至一米突半ニ達シ、大井村ニ在テハ黒色ノ泥炭ヲ其上方ニ介厠セリ、是等数帯ノ地層ニ次クモノハ砂利ヲ交ヘ或ハ粘土ヲ介ミ、或ハ厚薄不定ノ泥鉄鉱ヲ包メル砂層ナリ、其質粗造ニシテ凝灰質ニ富メル灰砂ヲ混スルモ石英・雲母等ノ砕片ヲ含ムコト多ク、又其中ニ夾雑セル砂利ハ皆硬質ノ硅岩・砂岩・板岩等ノ磧礫ヨリ成レルコトナレハ、阜岡ヲ構成スル地層中諸般建築ノ土台ニ供シ最モ堅牢ノ地質ト謂フヘシ、其厚サハ四米突乃至十有米突ニ達シ永田町・芝公園内及ヒ三田ノ台趾ニ現出スルモノハ砂利ヲ夾雑スルコト不定ナルモ、之ヨリ南ニ赴キ白金台以南御殿山・大森村以北ノ地ニ至レハ、砂層砂利ヲ交ユルモノ多ク所在之ヲ採掘シ建築用ニ供スルコト頻ナリ
以上阜岡ノ大部ヲ構成セル地層ノ厚薄ニ於テハ随所同シカラス、随テ各層ノ海面上ヨリノ位置モ均シカラサルモ、其全層ノ層位ハ概ネ平坦ニシテ個々ノ層相互ニ整合シ、恰モ厚板ヲ累ネシ状ヲ為セリ、斯ノ如ク井然トシテ累畳セル数帯ノ地層ハ地質学上同時期ニ出来セシ者ニシテ、之ヲ総括シテ洪積層ト称ヘリ、是レ沿岸ノ低地ヲ構成スル沖積層ヨリ一層古代ニ属スル地質ナリト知ルヘシ
洪積層ノ外ニ尚阜岡ヲ構成スル一類ノ地層地表ニ露出セリ、开《ソ》ハ三田ノ台趾及ヒ品川鉄道線路切通シノ最下方ニ現レ、火山灰泥ノ集合ヨリ成レル凝灰質粘土若クハ火山灰砂ノ凝成シタル凝灰質砂岩ヨリ成リテ甲介ノ化石ヲ含有スル柔軟粗弱質ノ地層ニシテ、此層ト其上方ニ累積セル洪積層トノ間ニ往々凹凸線ノ存スルヲ目撃スヘシ、是レ上層ノ洪積層ト時期ヲ違ヘ堆積セシ一証ニシテ、又洪積層中ニ甲介ノ化石ヲ有スルモノナケレハ之ヲモ亦証左トシ当層ヲ洪積層ト分別セリ、之ヲ第三紀ノ最新期ニ堆積セシ地質トス、而シテ該層ハ東京四近ノ台地ニ現ルヽ最旧ノ地質ナリ
斯ク品海沿岸ノ地質ヲ甄別シ来レハ其低地ハ埋立地及ヒ沖積層ナル二種ノ地質ヨリ成リ、又其阜岡ハ洪積層ト第三期最新期層ニ属スル地質ヨリ成レルヲ知レリ、是ヨリ歩ヲ進メ先ツ品海ノ水底ハ沿岸地ノ地質ト如何ナル関係ヲ有スルヤヲ示シ、又其共水底全般ノ地質如何ヲ詳述セントス
 - 第28巻 p.329 -ページ画像 
    第三項 品海水底ノ地質
品海ハ東京湾ノ一鎖ニシテ其沿岸弓形ヲ為シ両端ニ隅田・六郷ノ二大河口ヲ擁シ、中央ニ七基ノ砲台ヲ列ネ浅灘遠ク岸ニ連ナリ砲台以北隅田河口ノ間ニ洲瀦蛇座シテ海水特ニ浅ク、人工ニ係ル水路ヲ除カハ低潮ノ候一尋ノ深サヲ超ユル所尠ク、大干潮ニ至レハ海面ノ大部ハ干潟ニ変シ容易ニ歩行スルヲ得ヘシ、翻リ砲台以南六郷河口ニ至レル沿岸ヲ看ルニ亦浅ク低潮ノ候岸ヲ距ル数町ヲ出テサレハ一尋ノ深水ニ達セス、巨舶ノ碇泊地ハ遥カ其西方ノ沖ニァリ、沿岸斯ノ如ク浅遠ニシテ阜岡之ニ瀕スルコトナレハ、此阜岡ノ下部ヲ構成スル地層又海澨ノ床底ニ連亘セサルヲ得ス、而テ其地層ノ沿岸ノ床底ニ布衍セル実アルハ之ヲ今回品海ノ水底十有二ケ所ニ施行スル錐鑿ニ徴シテ知ヲ得タリ、乃チ左ニ各錐鑿所ニ於テ穿チ採リタル土石ノ質ヲ別記シ、其累層ノ断面図ヲ掲ケ、以テ其実アルヲ示シ、併セテ品海水底全般ノ地質ヲ明ニセントス
      第一号錐鑿 海軍兵学校裏
 (附言) 錐鑿セシ深サハ水底面ヨリ四十二尺五寸ニシテ、之ヲ鑿下スルニ五月廿五日ヨリ同月三十日ニ至ル五日間ヲ要セリ、錐鑿所ノ水面ヨリ水底ニ至レル深ハ当時満潮ノ際平均六尺ニシテ、干潮ノ候平均八寸ニテアリシ
水底面ヨリ四尺ノ間ハ海砂及ヒ泥土ノ錯合ヨリ成リテ蜆貝ノ砕片ヲ包ミ其質柔軟ナリ、之ヲ降ル四尺ノ所ハ細砂ニシテ、甲介ノ砕殻ヲ混シ閃々タル雲母ノ薄片ヲ夾ミ、砂粒漸ク固リテ其質柔軟ナラス、是ヨリ以下這回穿通セシ深サ迄ノ水底ハ専ラ洪積層ニ属スル地質ニシテ、甲介ノ遺骸ヲ含マサル砂層ヨリ成リテ其層間ニ往々粗砂ヲ抱クモ、質概ネ鞏固ニシテ石英・輝石・雲母等諸鉱物ノ砕片ヲ交雑スル事多シ、該ノ洪積層ノ上表ヲ覆ヘル前記セシ八尺内外ノ土層ハ、近時海底ノ床ニ沈渣堆積セシ最新ノ地層ニシテ地質学者ノ所謂沖積土ニ属スルモノナリ、左ニ当錐鑿所ノ断面図ヲ掲ケ以テ其地質ヲ一目瞭然タラシム

図表を画像で表示海軍兵学校裏錐鑿

         海軍兵学校裏錐鑿   深サ      厚サ   水 底 面  寸  尺    寸  尺     四四      四   同  砂及泥土錯合      六      二   同  細砂      八      二   同  泥土雑リ砂     十一      三   同  細砂  五  一四   五  三   同  細砂ノ凝力強キモノ  五  一五      一   同  雑斑粗砂  七  一七   二  二   同  細砂ノ固結シ錆色ヲ帯ルモノ  七  一三      二   同  同上ノ粗弱ナルモノ  五  四三   八 一二   同  粗砂 



水底面以下二十一尺ノ所ニ累畳スル砂層ヨリ淡水ヲ涌出シ、其量多ク混々トシテ海底上ニ漲溢シ、為ニ錐鑿器ノ進行ヲ遅々ニシ遂ニ四十二尺五寸ニテ進ム事能ハス、五十尺鑿下スヘキ予定ナリシモ遺憾ナカラ休止スルニ至レリ
      第二号錐鑿 芝浦
 - 第28巻 p.330 -ページ画像 
 (附言) 掘下ケ深サハ廿六尺五寸ニシテ之ヲ錐鑿スルニ五月十七日ヨリ同月十九日ニ亘レル三日間ヲ費セリ、錐鑿所ノ深サ(水面ヨリ水底マテ)ハ当時満潮ノ候平均五尺ニシテ、干潮ノ際平均二寸五分ニテアリシ、当所ハ水底面以下三十尺穿通スヘキ所下層ニ粗大ノ砂利多ク、為メニ進行スル事能ハス、止ヲ得ス二十六尺五寸ニテ休止スルニ至レリ
水底面ヨリ三尺五寸ハ沖積層ニ属スル砂土及ヒ泥淤ノ集合ヨリ成リテ時々介殻ヲ含ミ砂利ヲ交ユルモ其質軟弱ナリ、之ヲ通過スレハ洪積層ニ係ル黝緑色若クハ黄緑色ノ粘土ニ達シ、其厚サ四尺内外アリテ上方二尺間ハ特ニ地分子固結シ稍硬質ナリ、之ヲ降ルニ従ヒ粘土ハ砂質ヲ帯ヒ漸々細砂ニ変シ其層中ニ個々ノ薄キ粘土ヲ介ムモ全層ノ質概ネ強鞏ニシテ、下層ハ第三紀ニ属スル凝灰岩ノ砕片及ヒ砂利ヲ混シ砂利層ト成レリ、其断面図ハ左ノ如シ

図表を画像で表示芝浦錐鑿

       芝 浦 錐 鑿   深サ     厚サ   水 底 面  寸  尺   寸  尺   同  砂質泥土  五   三  五  三      五  五  二   同  硬粘土  五   七  五  二   同  粘土  五   九     二   同  砂質粘土(錆色ヲ帯フ)  五  一三     四   同  錆色細砂     一五  五  一   同  同上ニシテ粘気アリ     一六     一   同  小砂利雑リ砂     一七     一   同  粘土縞入砂     二〇     三   同  砂利雑リ砂     二一     一   同  砂利  五  二六  五  五   同  同上中ニ凝灰岩ノ砕片ヲ含ムモノ 




前号ト当号ノ土層断面図ヲ比較スルニ水底面以下三尺五寸乃至八尺ハ沖積土ヲ以テ覆ハレ、之ヨリ以下ハ倶ニ洪積層ニ属スル地層ナルモ互ニ差アリ、前者ハ主トシテ砂層ヨリ成リテ後者ハ個々ノ粘土ヲ介メル砂礫層ヨリ成レリ、是レ前者ノ土層ハ芝公園地内ノ阜趾ニ現レ砂利ヲ交雑スル事少ナキ砂層ノ爰ニ連亘シ、後者ノ土層ハ三田台ノ下方ニ現ハレ、粘土ヲ夾雑セル砂礫層ノ伸ヒテ爰ニ洽達スルニ由ルナラン
      第三号錐鑿 高輪車町海浜
 (附言) 掘下ケ深サハ通計三十尺六寸ニシテ、之ヲ穿通スルニ五月九日ト同月十一日及ヒ十二日ノ三日間ヲ要セリ、当時水面ヨリ水底マテノ深サハ満潮ノ候平均四尺ニシテ干潮ノ際平均二寸ニテアリキ
海表ニ斗出スル沿岸ハ海波潮流ノ為ニ痛ク浸蝕セラルヽモ其岸底ニ渣滓物ヲ沈積スル事尠シ、之ニ反シ海岸ノ湾入スル所ハ海水ノ為ニ浸蝕セラルヽ事尠キモ渣滓物ヲ爰ニ堆積スル量多キハ地質学上ノ通則ナリ高輪ノ海岸ハ弓形ヲ成シ彎曲セリ、左レハ其水底ニ稍々厚キ沈渣物ノ堆積スルハ数ノ免レサルモノト云フヘシ、之ヲ錐鑿セシ土石ニ徴シ見ルニ水底面ヨリ二尺乃至四尺ハ泥土及ヒ砂土ノ錯合ヨリ成リ、之ヲ降ル尚六尺間ハ粘気ニ富ミ暗緑色ヲ帯ヘル灰泥土ヨリ成リテ其中ニ雲母ヲ雑ユル韮薄ノ砂層ヲ介ミ甲介ノ砕殻ヲ混セリ、以上十尺内外ノ沈渣物ハ便チ彎入セル沿岸ニ堆積セシモノニシテ沖積層ニ属シ熟レモ軟弱ノ地質ナリ、之ヨリ以下二十尺間ハ第三紀ノ最新期ニ堆積セシ凝灰質粘土ヨリ成リテ其下層ハ稍砂質ニ富ムモ全体ノ地盤ハ鞏固ニ非スシテ軟質ナリ、左ノ断面図ニ由テ其地質ノ一斑ヲ窺フニ足ラン

 - 第28巻 p.331 -ページ画像 

図表を画像で表示高輪車町海岸錐鑿

       高輪車町海岸錐鑿   深サ     厚サ   水 底 面  寸  尺   寸  尺   同  泥土及砂錯合      四     四     一〇     六   同  砂雑リ灰泥土     一六     六   同  凝灰質粘土  三  二二  三  六   同  砂雑リ凝灰質粘土  六  三〇  三  八   同  同上ニシテ猶砂質ニ富ムモノ 




      第四号錐鑿 四番砲台・洲崎間
 (附言) 鑿下セシ深サ水底面ヨリ四十九尺ニシテ其錐鑿ニ費セシ日子ハ六月廿二、廿三ト同月廿五、廿六ノ四日間ナリ、当面ヨリ水底ノ深サハ満潮ノ候平均八尺ニシテ干潮ノ際平均二尺八寸ニテアリシ
水底面ヨリ四尺間ハ泥土及ヒ砂土ノ錯合ヨリ成リ、其下層ハ第三紀最新ノ地層ニ係ル疑灰質粘土ヨリ成リテ其厚サ二十一尺五寸アリ、此粘土ニ亜キ韮薄ノ砂層ヲ介厠セル凝灰粘土アリテ、之ヲ降ルニ及ヒ砂質ニ富ミ更ニ小砂利ヲ包ミ其質稍々鞏固トナルモ地盤ノ過半ハ軟弱ナリ左ノ断面図ニ由テ其地質明白ナラン

図表を画像で表示四番砲台洲崎間錐鑿

      四番砲台洲崎間錐鑿   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  砂及泥土錯合      四      四  五  二五  五  二一   同  凝灰質粘土  五  二六      一   同  砂目入凝灰質粘土  五  二七      一   同  凝灰質粘土  五  三一      四   同  砂目入凝灰質粘土  七  四四  二  一三   同  凝灰質砂土     四九  三   四   同  小砂利雑リ凝灰質粘土 



当所ト前錐鑿所土層ノ大部ハ第三紀層ニ属スル凝灰質粘土若クハ其砂質ニ富メルモノヨリ成レリ、是レ白金台ヨリ御殿山ノ台趾ヲ構成セル第三紀層ノ爰ニ連亘スルモノニシテ、当錐鑿所ノ上表ニ沖積土ノ深ク沈渣セサルハ、該ノ地、海表ニ斗出スル所ニ接スルニ由レリ
      第五号錐鑿 大井沖
 (附言) 鑿通セシ土層ノ深サハ水底面ヨリ五十二尺ニシテ、之カ穿鑿ニ費セシ日子ハ七月廿八日ヨリ同月三十一日ニ至ル四日間ナリ、当所ハ水面ヨリ水底マテノ深サ満潮ノ候平均七尺ニシテ干潮ノ候平均二尺三寸ニテアリシ
水底面以下七尺ノ間ハ硬質ノ石英岩・砂岩・硅岩・粘板岩ノ磧礫及ヒ甲介ノ砕片ヨリ構成セラレテ地盤鞏固ナリ、之ニ亜キ八寸ノ細砂層アリ、其下方ハ三尺二寸ノ小砂利雑リ泥土(往々浮石《カルイシ》ノ砕片ヲ含ム)二尺ノ砂利雑リ砂、及ヒ四尺ノ泥土雑リ砂等漸次重畳シ其地質上方ニ於ルモノニ比シ軟弱ナリ、是等数多ノ地層ヲ経過スレハ第三紀ノ新地層ニ属スル厚キ凝灰質粘土層ニ達シ夥多ノ介化石ヲ含ミ、該層ノ上部ヲ降ル二十四尺ノ所ニ珊瑚ノ化石アリ、此地層粘気ニ富ミ柔軟ナリ、左ニ当錐鑿所ノ断面ヲ掲ケ以テ其地質ノ一斑ヲ記セリ

 - 第28巻 p.332 -ページ画像 

図表を画像で表示大井沖錐鑿

        大井沖錐鑿   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  砂利  八   七  八       同  細砂     一一  二   三   同  砂利雑リ泥土     一二      二   同  砂利雑リ砂     一七      四   同  泥土雑リ砂                 同  凝灰質粘土     五二     三五   同  珊瑚ノ化石アリ 



      第六号錐鑿 南品川六丁目西方ノ沖合
 (附言) 鑿下セシ土層ノ深サハ五十一尺ニシテ、之ヲ穿通スルニ七月四・七・八・九・十日ノ五日間ヲ費セリ、当所水面ヨリ水底マテノ深サハ満潮ノ候平均一丈三尺五寸ニシテ干潮ノ候平均七尺二寸ニテアリキ
水底ヨリ直下六尺ハ介殻ノ砕片ヲ夾雑セル砂利層ニシテ、其砂利ニ粗細ノ別アルモ皆硬固質ノ磧礫ヨリ成ルモノナレバ、之ヨリ組立ラルヽ地盤ハ堅牢ナラサルヲ得ス、此砂利層ノ下部ハ軟弱質ノ粘気ヲ帯フル灰泥土ヨリ成リテ其厚サ二尺アリ、之ニ亜キ往々貝片及ヒ砂礫ヲ雑交セル灰質砂土アリ、六尺五寸許ノ厚サニ達シ土中雲母ノ薄片ヲ混シ熒熒タリ、是ヨリ以下這回錐鑿セシ所マテハ第三紀ノ新期ニ堆積セシ凝灰質粘土ヨリ成リテ其地分子能ク固結セスシテ軟質ナリ、左ノ地層断面図ニ照シ其地盤ノ如何ヲ察スヘシ

図表を画像で表示南品川六丁目沖中錐鑿

      南品川六丁目沖中錐鑿   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺     二      二   同  小砂利  五   三  五   一   同  粗砂利      五  五   一   同  小砂利      六      一   同  粗砂利      九      三   同  灰泥土  五  一五  五   六   同  灰質粘土  五  二四      九   同  凝灰質粘土  五  二八      四   同  同上ニシテ砂質ヲ帯フ  五  三〇      二   同  同上ニシテ凝灰岩ノ砕片ヲ包ム     五一  五  二〇   同  凝灰質粘土 



以上第五号ト第六号即チ当号両錐鑿所ノ上方ニ座セル砂利層ハ品川以南大井村以北ノ地ニ洽達セル砂礫層(洪積層ニ属スル)ノ爰ニ布衍セシモノニシテ、其一部ハ砂礫ノ海波ノ為メニ破砕転磨セラレシモノ再ヒ爰ニ堆積セシモノアリ、特ニ第六号錐鑿所ニ於テ之アルヲ看ルヘシ
      第七号錐鑿 大森沖
 (附言) 穿通セシ土層ノ厚サハ五十尺ニシテ之ヲ鑿下スルニ八月一日ヨリ同月二日ニ至ル二日間ヲ消費セリ、当所海水ノ深ハ満潮ノ候平均七尺五寸干潮ノ際一尺二寸ニテアリシ
水底面以下三十八尺ノ間ハ海砂泥土・粘土若クハ凝灰質砂土等ノ累層ヨリ成リテ個々ノ層中或ハ砂利ヲ雑ヘ或ハ浮石ヲ含ミ、或ハ火山礫ヲ混シ或ハ炭化セシ木片ヲ夾ミ全土質ニ数種ノ別アルモ、皆是近時海床ニ堆積セシ最新ノ地層ナレハ地分子未タ固結セスシテ熟レモ柔軟質ナリ、其断面図ハ左ノ如シ

 - 第28巻 p.333 -ページ画像 

図表を画像で表示大森沖錐鑿

        大森沖錐鑿   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  細砂             二      六      四   同  泥土及砂錯合     一四      八   同  小砂利雑リ砂     一八      四   同  砂利雑リ泥土     二六      八   同  雑色泥土  五  二七  五   一   同  砂利雑リ灰泥土     二八  五       同  砂質粘土     三八     一〇   同  小砂利及凝灰岩塊雑リ灰質砂土     五〇     一二   同  灰泥土 



      第八号錐鑿 第三砲台南方ノ沖合
 (附言) 鑿下セシ深サハ水底面ヨリ五十一尺ニシテ之ヲ通過スルニ六月三十日ヨリ七月一日ニ至ル二日間ヲ要セリ、該錐鑿所ノ水面ヨリ水底迄ノ深サハ満潮ノ候平均一丈一尺ニシテ、干潮ノ際六尺二寸ニテアリシ
穿通セシ土層五十一尺ノ間ハ泥土・砂土及ヒ灰泥相積テ累層ヲナシ、之ヨリ構成セラル、地盤皆軟弱ナリ、全層近時海中ニ栖息セル甲介ノ遺骸ヲ包ミ、上方ニアル泥土及ヒ砂中ニハ往々小量ノ小砂利若クハ木片・木葉等ノ炭化セシモノヲ目撃セリ、左ノ断面図ニ是等土層ノ排列秩序ヲ示セリ

図表を画像で表示第三砲台南方沖錐鑿

        第三砲台南方沖錐鑿   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  泥土      四      四      七      三   同  小砂雑利リ泥土     一六      九   同  泥土及砂錯合     三二     一六   同  灰泥土     三六      四   同  砂及灰泥土錯合     五一     一五   同  灰泥土 



      第九号錐鑿 第五・第六砲台間
 (附言) 水底ノ土層ヲ通過セシ深サハ五十一尺ニシテ之ヲ遂ルニ六月十六日及ヒ同月十九日ノ二日間ヲ要セリ、当所ノ海水ハ干潮ノ候平均一尺五寸満潮ノ際七尺二寸ニテアリシ
当水底ノ地質ヲ観ルニ其累層ノ状態左ノ如シ

図表を画像で表示第五・第六砲台間錐鑿

       第五・第六砲台間錐鑿   深サ     厚サ   水 底 面  寸  尺   寸  尺   同  砂及泥土錯合      八     八     一二     四   同  小砂利雑リ砂     一六     四   同  砂目入リ灰泥土     二〇     四   同  灰泥土     二四     四   同  砂目入リ灰泥土     三〇     六   同  灰泥土     三二     二   同  小砂利雑リ灰泥土     三四     二   同  砂質粘土     四六    一二   同  砂雑リ灰泥土     五一     五   同  小砂利雑リ砂 



土層下方ニ降ルニ随ヒ小砂利ヲ含ミ稍々強固ナルモ上層三十尺ノ間ハ主トシテ泥土・砂土及灰泥ヨリ成リテ、是等ノ地層ハ敦レモ海床ニ近
 - 第28巻 p.334 -ページ画像 
時漸ヲ以テ堆積セシ軟弱質ノモノナリ、全層甲介遺骸ノ砕片ヲ混ス
      第十号錐鑿 第三砲台・石川島間
 (附言) 鑿下セシ深サハ五十尺二寸ニシテ、之ヲ穿ツニ六月十二日ヨリ十三日ニ至ル二日間ヲ費セリ、当所水底マテノ深サハ当時満潮ノ際五尺ニシテ干潮ノ候干潟トナレリ
上表六尺間ハ雲母・硅石ノ粒子ヲ混シ泥土ヲ交ユル海砂ヨリ成リテ凝力弱クシテ軟質ナリ、之ヲ直下スル十七尺有余ノ土層ハ重ニ泥土及砂ノ貝殻ヲ含ミ海草ノ炭化セシモノヲ夾ミ、時ニ或ハ小砂利ヲ錯合スルモ其質軟弱ナリ、是ヨリ十二尺ノ間ハ砂ヲ雑ユル灰泥土ヨリ成リ、上層ニ比シ稍々堅キモ尚柔軟質ノ土層ナルヲ免レサルヘク、之ヲ降ル十尺間ノ土層ハ小砂利ヲ包メル砂ニシテ地盤稍々鞏固ナリ、地層ノ秩序ハ左ノ断面図ニ由テ明カナルヘシ

図表を画像で表示第三砲台石川島間錐鑿

      第三砲台石川島間錐鑿   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  細砂      六      六  五  二三  五  一七   同  泥土及砂錯合     二六  五   二   同  砂雑リ灰泥土     二八      二   同  縞入灰泥土     三四      六   同  細砂     三六      二   同  縞入灰泥土     四〇      四   同  砂質灰泥土     四四      四   同  小砂利雑リ砂     四五  二   一   同  細砂  二  五〇  二   五   同  小砂利雑リ砂 



      第十一号錐鑿 佃島南方ノ洲上
 (附言) 穿通セシ深サハ五十尺ニシテ、之ヲ降下スルニ六月三日ヨリ四日ニ亘ル二日間ヲ費セリ、当所水面ヨリ深サ満潮ノ候平均二尺二寸ニシテ干潮ノ際干潟トナル
水底面ヨリ五十尺直下ノ地層ハ砂土・泥土若クハ灰泥土ヨリ成リテ孰レモ軟質ナリ、層中甲介ノ砕片ヲ普ク含有ス、左ニ這般ノ断面図ヲ掲ケ以テ土層ノ状態ヲ一目瞭然タラシム

図表を画像で表示佃島南方洲上錐鑿

        佃島南方洲上錐鑿   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  細砂      三      三     二二     一九   同  泥土及砂錯合     三四     一九   同  灰泥土     三六     一二   同  砂縞入灰泥土     五〇     一四   同  灰泥土 



      第十二号錐鑿 越前堀町・石川島間
 (附言) 鑿下セシ土層ノ深サハ四十八尺八寸ニシテ、之ヲ遂クルニ六月六日ヨリ同月八日ニ至ル三日間ヲ費セリ、当錐鑿所ノ水面ヨリ水底迄ノ深サハ、干潮ノ際平均四尺六寸満潮ノ際平均七尺五寸ニテアリキ
当地ハ隅田川河口ニ接シ淡鹹両水ノ最モ激衝スル所ニアリ、水底面ノ上表二尺乃至三尺間ハ石英・硅質粘板岩ノ礫磧及ヒ瓦磚・磁器・介殻
 - 第28巻 p.335 -ページ画像 
等ノ砕片ヲ以テ成レル砂利層ニシテ其質稍々鞏固ナルモ、之カ土台ヲ為セル土層ハ泥土質若クハ凝灰質ニ富ミ、或ハ泥土雑リ砂トナリ或ハ凝灰質泥土トナリテ其質柔軟ナラサルハナシ、全層甲介ノ砕片ヲ含ム事多々ナリ、左ニ断面図ヲ掲ケ以テ其全般ノ状態ヲ窺ハシム

図表を画像で表示越前堀町石川島間鑿錐

         越前堀町石川島間鑿錐   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  砂利      二      二  八   五  八   三   同  泥土及砂利雑リ砂  八   八      三   同  灰質砂土  八  一九     一一   同  灰泥土  八  三一     一二   同  凝灰質砂土  八  三三      二   同  同上ニシテ少ク粘気ヲ帯ブ  八  四八     一五   同  灰質砂土 



以上順ヲ逐ヒ縷々記述セシ各錐鑿所ニ就キ又這回ノ調査区域内数十ケ所ニ簡便ナル錐鑿器ヲ用ヒ、水底面以下六尺乃至九尺間ノ地質ヲ稽査セシ結果ニ徴シ彼是参照シ、以テ隅田川河口ヨリ大森沖間ニ亘ル海澨ノ底質ニ視ルニ、其ノ上床ハ流水(江海ノ)ノ作用ニ由テ水底ニ沈渣セシ泥砂ト勁風ノ海浜ニ吹キ降セル砂塵トノ両堆積物ヲ以テ覆ハレ、其厚薄不定ナルモ之ヲ排除シ去レハ、其床底ノ地質ハ海澨ニ傍ヒ起伏セル阜岡ノ台趾ヲ成スモノト同質ニシテ、其地層ノ伸ヒテ海底ニ連亘セシモノタルヲ識ルニ足ラン、彼ノ海軍兵学校ノ裏手ヨリ南西ニ亘ル芝浦ノ水底ハ砂礫層若クハ硬質ノ粘土ヨリ成リテ、是等ノ地層ハ其西方芝公園内四近ノ阜趾若クハ三田台ノ裾ヲ構成セル洪積層ノ爰ニ敷衍スルモノニシテ、其土質ハ土木学者ノ所謂磨軋革定《フリクシヨナルスタビリチー》ニ富ミ克ク重量ニ堪ユル鞏固ノ地盤ニ非スヤ
又品川洲崎砲台以南大井沖以北ニ連ナル水底ノ上表六尺乃至七尺間ハ硬質ノ砂利ヨリ成リ、其砂利ハ品川以南大井村以北ノ地ニ現ハルヽ砂礫層(洪積層ニ属スル)ノ爰ニ洽達セシモノナレハ、是亦鞏固ノ土質ニ非スヤ、而シテ前記セシ鞏固質ノ地盤ニ介リ芝田町ヨリ品川洲崎ニ亘リ湾入セル沿岸ノ水底ハ、凝灰質粘土若クハ之ニ砂質ヲ帯フル土層ヨリ成テ、其地質ハ三田台及ヒ其南端ナル御殿山ノ阜趾ニ露ハレ甲介ノ化石ヲ混合スル第三紀新期層ノ爰ニ連亘スルモノニシテ、其質柔軟能ク重量ニ堪ユヘカラサルノ地盤ニ非スヤ、海澨ノ底質夫レ阜岡ノ下方ヲ構成スル地質ニ関係アルヤ明カナリ
海澨ヲ去リ隅田・六郷両河ノ委口ト其間ニ広布セル沖合ノ水底ニ眼ヲ注キ其底質ヲ視ルニ、主トシテ両河ノ委口及ヒ其他大小ノ河渠ヨリ多年流送シ来レル沈澱物ノ河流ト潮流トノ両作用ニ由テ海底ノ床ニ沈渣堆積セシモノヨリ成リテ、或ハ泥土トナリ或ハ砂土トナリ或ハ灰泥土トナリ個々ノ土石相積ミテ累層ヲ成スモ、素ヨリ沖積期ニ属スル最新ノ地層ニシテ今尚海底ニ堆積シツ、アルモノナレハ、地分子ヲ固結スルノ暇少ナク孰レモ柔軟ニシテ堪重力ニ乏シキ土質ナリ、品海水底ノ地質夫レ斯ノ如シ、逐次其地質ト築港トノ関係ニ就キ数葉ノ文字ヲ費サントス
    第四項 品海水底ノ地質ト築港トノ関係
 - 第28巻 p.336 -ページ画像 
如何ナル方法ヲ設ケ以テ東京湾内ニ良港ヲ営築スルヤニ至リテハ未タ確定シタル計画アルヲ知ラサレトモ、其一ナリト云フヲ聞クニ、隅田川河口・大森沖間ニ二派ノ大波堤ヲ築キ其第一派ハ越前堀町ヨリ石川島ノ北端ニ亘リ、又其南端ヨリ第三砲台ヲ経テ品川錨地ノ北西ニ終リ其第二派ハ品川・洲崎砲台ヨリ第四・第一砲台ヲ経夫レヨリ南々東ニ曲リ、他ノ波堤ト相対シテ品川錨地・鈴ケ森間ノ中央ニ至テ止ム、両波堤ノ終止スル所ハ即チ港門ニシテ口狭ク其北方ニ至ルニ逮テ頓ニ開キ恰モ漏斗ノ如シ、斯ル漏斗状ヲ為セル大波堤ヲ築キ以テ海方ヨリ来襲セル風波ヲ防キ、隅田川河口ヨリ吐出スル泥砂ト潮流ノ流送シ来レル海砂トヲ港内ニ注瀉スルヲ遮断シ、又港内ニ低潮水深サ五尋以上ノ水道ヲ開鑿シ大船巨舶ノ出入ニ便ニシ以テ一大良港ヲ東京湾中ニ出現セシムルノ計画ナリト、今若シ此設計ヲ実地ニ施行セラル、ト仮定セハ、之ニ関シ地質学上要用ノ事項ハ其波堤ノ線路ニ当ルヘキ水底ノ地質如何ニアリ、依テ之ヲ観ルニ彼ノ隅田川河口ヨリ石川島ヲ経テ第三砲台ニ亘リ海方ニ迆走スル波堤ノ伸長殆ント二里ニ達シ、其位置風波ヲ受クル事最モ激シキ所ニアリ、然ラハ其波堤ノ構造頗ル堅牢ナラサルヲ得ス、之ヲ堅牢ニセント欲セハ其土台又鞏固ナラサルヘカラス、然ルニ前項ニ照シ波堤ノ線路ニ当レル底質ヲ視ルニ、泥土・砂土・灰泥土等ノ累層ヨリ成リテ地質学上最モ新シキ地質ニ属シ、其質柔軟ニシテ堪重力ニ乏シケレハ当局者宜シク這般ノ地質ニ適スル築堤法ヲ撰フヘシ、又品川洲崎ヨリ第四及第二砲台ヲ経テ大森沖ニ亘ル波堤ハ前者ニ比シ風波ヲ受ル事少ク、又其延長モ短カケレハ堅牢ノ土台ヲ要セサルモ、其線路ノ過半ハ軟質ノ凝灰質粘土及ヒ沖積土ヨリ成レル水底(地質図ヲ参看スヘシ)ヲ経過スル事ナレハ、亦這種ノ土台ニ適スル築堤法ヲ行ハサルヘカラス
尚終リニ望ミ一言ヲ呈セン、夫レ品海ノ沿岸ハ遠浅ニシテ特ニ将来繋船場トナルヘキ砲台以北・隅田川河口間ハ海水浅ク低潮ノ候現今大澪《オホミヨ》ト称スル水道其他人工ニ係ル水路(此水路ト雖モ低潮ノ際僅ニ小蒸汽船ヲ通スルモ五百石有余ノ和船ハ出入ニ便ナラスト云フ)ヲ除カハ三四尺ノ深サニ達スル所尠ク、大干潮ニ至レハ其大部ハ干潟ト変スヘシ、斯ル浅沙ニ低潮水深サ五尋以上ノ水道ヲ開鑿シ、之ヲ囲ムニ長大ノ波堤ヲ築キ以テ良港ヲ築造スル実ニ巨額ノ費金ヲ要スルヤ必セリ、好シヤ巨額ノ費金ヲ支出シ以テ之ヲ成功スルモ、其港内ニハ猶大小ノ河渠アリテ之ヨリ土砂ヲ流出シ、又陸地ヨリハ勁風砂塵ヲ飛揚シ来リテ其海底ヲ浅クシ、潮流ハ海砂ヲ瀉シ来リテ港口ヲ塡ムルノ恐アルニ非スヤ、然ラハ東京湾ノ沿岸ニ接シ他ニ深水ノ海底ナキカ、品川湾図ヲ繙キ之ヲ視ルニ海水俄ニ六尋以上ニ達スル所ハ六郷川ノ河口ヨリ西方半里ヲ距ル羽田沖灯台ノ四近ニアリ、此地海水深キカ為メニ良港トナルヘキカ、然ラス、海波常ニ荒ク潮流激シ、船舶ノ碇泊ニ便ナラス、好シヤ六郷川河口ノ北南ニ各一線ノ弧形ヲナセル波堤ヲ築キ立テ以テ風波激潮ノ来襲ヲ防キ港ヲ造築スルモ、河口ヨリ吐キ降セル土砂ハ港内ニ沈渣シテ漸々港底ヲ埋塡スヘシ、且ヤ其河口浅クシテ舟楫ノ便ニ供スル能ハス、之ヲ開鑿シ以テ河運ノ利ヲ計ルモ河流ノ流送シ来レル土砂ハ依然トシテ港内若クハ港口ノ前後ニ沈積スル恐アリ、矧ヤ其位置東京ヲ距ル数里ノ遠キニアルニ於テヲヤ、品海ニ
 - 第28巻 p.337 -ページ画像 
良港ヲ営築スル何ソ容易ノ業ニアラサランヤ、爰ニ聊カ蕪言ヲ附シテ以テ報告ノ局ヲ結ヘリ
  東京湾水底地質調査報告
本年二月発第二二号ヲ以テ御依頼相成候東京湾地質調査結了ニ付、主任技術官ヨリ別冊復命書差出候ニ付及御送付候也
  明治廿四年六月四日     農商務大臣 陸奥宗光
    東京市区改正委員長 侯爵 蜂須賀茂韶殿
小官明治二十四年二月十六日東京湾水底地質調査ノ命ヲ被リ該調査ニ従事スルコト一月有余ニシテ芝浦・羽田沖間ニ拾箇所ノ錐鑿ヲ施シ、水底ノ土類ヲ採集シ本所ニ於テ其性質・分類・排列ノ順序等凡テ地質学上ノ調査ニ従事中、五月七日更ニ同湾水底地質調査ヲ命セラレ再ヒ羽田沖ニ出張シ、尚二箇所ノ錐鑿ヲ為シ五月十六日全ク該事業ヲ完了セリ、依テ玆ニ両度調査ノ結果ヲ具シ謹テ復命ス
  明治二十四年    地質調査所五等技師 三浦宗次郎
    農商務大臣 陸奥宗光殿
    錐鑿処ノ位置及深
錐鑿箇所ノ数ハ左ニ掲クル十二所ニシテ、其調査方法ハ曩ニ明治二十二年東京市区改正委員会ノ需メニ応シ嘗テ本所ニ於テ施シタルモノニ依レリ


 錐鑿所ノ番号  位置          水底面ヨリノ深サ
 第一号    浜離宮裏         四十尺八寸
 第二号    高輪沖          四十一尺三寸
 第三号    南品川沖         四十六尺
 第四号    鈴ケ森沖         四十尺
 第五号    同沿岸          三十五尺
 第六号    大森羽田間沖       四十四尺
 第七号    同            四十二尺
 第八号    羽田沖          四十一尺五寸
 第九号    同            四十五尺
 第十号    同            四十三尺
 第十一号   鈴木新田洲島ノ北岸    四十二尺
 第十二号   六郷河口一洲島ノ東岸   四十四尺

    各錐鑿所ノ地質
  第一号 錐鑿浜離宮裏
   錐鑿ノ深ハ水底面下四十尺八寸ニシテ、之ヲ鑿下スルニ二月二十日ヨリ二十一日ニ亘レリ、当所ノ水面ヨリ水底ニ至ルノ深ハ平均低潮下凡ソ五寸トス
水底面ヨリ五尺三寸ノ間ハ泥土及ヒ砂ノ錯合セルモノニシテ、往々蜆貝殻ヲ交ヘ、之ヲ降ル十二尺ハ浮石ノ細分ヲ混スル灰質砂土ニシテ頗ル甲介ノ遺骸ニ富ム、是ヨリ以下此回錐鑿セシ迄ノ間ハ軟質ノ灰泥土タリ、本錐鑿所ノ全層ハ悉ク近時海底ニ沈積セシ地層ニシテ、地質学上所謂沖積層ニ属シ大概軟弱ナリ、左ニ其断面図ヲ掲ク

図表を画像で表示第壱号錐鑿断面図

  以下p.338 ページ画像 第壱号錐鑿断面図   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  泥土及砂錯合  三   五  三   五  三  一七  〇  一二   同  灰質砂土  八  四〇  五  二三   同  灰泥土 



  第二号錐鑿 高輪沖
   錐鑿ノ深ハ四十一尺三寸ニシテ、之ヲ鑿下スルニ二月二十二日二十三日ノ二日ヲ要セリ、当所水面ヨリ水底迄ノ深ハ平均低潮下凡ソ二尺五寸トス
水底面ヨリ三尺ハ少シク海砂ヲ混入セル泥土ニシテ時ニ牡蠣ノ貝殻ヲ夾ミ、是ヨリ以下二十六尺三寸ハ黝色微粒ノ灰泥土タリ、之ヲ通過スレハ此回鑿下セシ迄ノ土層ハ地質学上所謂第三紀ノ最新層ニ属スルモノニシテ、其上部八尺五寸ハ凝灰質砂土ニシテ、次クニ一尺五寸ノ凝灰質粘土ヲ以テシ、最下ノ二尺ハ又凝灰質砂土ニ変ス
当錐鑿所ノ上表二十九尺余ハ沖積層ニ属シ、第三紀層ニ達スルニ従ヒ地分子稍々凝固セルモ、全層尚ホ軟弱ノ地層タルヲ免カレス、左ニ其地質断面図ヲ示ス

図表を画像で表示第弐号錐鑿断面図

       第弐号錐鑿断面図   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  砂雑リ泥土  〇   三  〇   三  三  二九  三  二六   同  灰泥土  八  三七  五   八   同  凝灰質砂土  三  三九  五   一   同  凝灰質粘土  三  四一  〇   二   同  凝灰質砂土 



  第三号錐鑿 南品川沖
   鑿下セル深ハ四十六尺ニシテ、二月二十五日ヨリ二十六日ニ亘レリ、当所水面ヨリ水底面迄ノ深ハ平均低潮下凡七尺トス
上表一・二寸ヲ除キ水底面下十七尺五寸ハ第三紀ノ凝灰質砂土ニ属シ普ク甲介ノ遺骸ニ富ミ、其以下二十八尺五寸ハ同紀ノ凝灰質粘土ニシテ、時ニ甲介ノ遺骸若クハ凝灰岩ノ砕片等ヲ含ム、当所ノ地層全体モ亦柔軟ナリ

図表を画像で表示第三号錐鑿断面図

      第三号錐鑿断面図   深サ    厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺   同  凝灰質砂土  五  一七  五  一七  〇  四六  五  二八  同  凝灰質粘土 



  第四号錐鑿 鈴ケ森沖
 - 第28巻 p.339 -ページ画像 
   鑿下ノ深ハ四十尺ニシテ、二月二十七日ニ始マリ三月一日ニ終レリ、水面ヨリ水底面ニ至ル深ハ平均低潮下凡八尺五寸ナリ
水底面下二尺ノ間ハ貝殻ヲ夾雑セル小砂利入リ泥土ニシテ、稍々硬固ナルモ之ヲ経過スレハ十尺六寸ノ間ハ泥土ヲ混スル砂層ニシテ、其質軟質ナリ、是ヨリ以降ハ第三紀ニ属スル凝灰質粘土若クハ砂土ニシテ大概軟質タリ、最下ノ四尺余ハ貝殻ヲ含有ス、当所ノ地層排列ノ順序ハ左ノ如シ

図表を画像で表示第四号錐鑿断面図

       第四号錐鑿断面図   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  砂利雑リ泥土  〇   二  〇   二  六  一二  六  一〇   同  泥土雑リ砂  五  一四  九   一   同  砂雑リ凝灰質粘土  三  一九  八   四   同  凝灰質粘土  三  二一  〇   二   同  凝灰質砂土  七  三六  四  一五   同  凝灰質粘土  〇  四〇  三   三   同  凝灰質砂土 



  第五号錐鑿 鈴ケ森沿岸
   錐鑿ノ深ハ三十五尺、之ヲ鑿下スルニ三月二日ヨリ三日ニ亘レリ、当所ノ深ハ低潮下凡六尺トス
水底面ヲ下ル九尺六寸ハ泥土雑リ砂層ニシテ、往々石〓《エボシガヒ》ノ貝殻ヲ混シ以下四尺余ハ牡蠣殻ヲ多ク夾雑スル黒色ノ泥土ニシテ、次ニ三尺四寸許ノ泥土雑リ砂ヲ以テス、以上十七尺余ノ地層ハ近時海底ニ沈積セルモノニシテ、是ヨリ以降此回鑿下セシ迄ノ深ハ第三紀層ニ属シ、凝灰質粘土及砂土トス、水底面下二十七尺許ニアル凝灰質粘土ハ三・四尺間凝灰岩ノ砕片ヲ包ミ、又最下ノ四尺間ハ稍々甲介片ニ富ム、此処ノ地質ハ概ネ軟弱質ナリ

図表を画像で表示第五号錐鑿断面図

         第五号錐鑿断面図   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  泥土雑リ砂  六   九  六   九  八  一三  二   四   同  牡蠣殻ヲ夾雑スル泥土  二  一七  四   三   同  泥土雑リ砂  二  三三  〇  一六   同  凝灰質粘土  〇  三五  八   一   同  凝灰質砂土 



  第六号錐鑿 大森羽田間沖
   錐鑿ノ深ハ四十四尺、鑿下ノ時日ハ三月七日及ヒ八日ノ二日ヲ要シ、水底面ノ深ハ平均低潮下三尺トス
水底面下二尺五寸ハ貝殻ヲ混スル軟弱ノ砂ニシテ、次クニ二尺八寸ノ泥土雑リ砂ヲ以テシ、以下十一尺余ハ砂及ヒ泥土ノ錯合ヨリ成リ、是ヨリ以降此回錐鑿セシ迄ノ間ハ灰泥土・灰質砂土・砂雑リ灰泥土等ノ累層ヨリ成リ、時ニ甲介若クハ第三紀凝灰質粘土ノ砕片ヲ包ム、全層悉ク地質学上近時ノ堆積(沖積層)ニ属シ軟弱質ナリ、左ニ其錐鑿断面図ヲ示ス

 - 第28巻 p.340 -ページ画像 

図表を画像で表示第六号錐鑿断面図

       第六号錐鑿断面図   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  細砂  五   二  五   二  三   五  八   二   同  泥土雑リ砂  〇  一七  七  一一   同  砂及泥土錯合  二  一九  二   二   同  灰泥土  五  二三  三   四   同  灰質砂土  〇  二五  五   一   同  砂雑リ灰泥土  五  二九  五   四   同  灰質砂土  〇  三〇  五   〇   同  砂入リ灰泥土  〇  三二  〇   三   同  灰質砂土  〇  四四     一一   同  灰泥土 



  第七号錐鑿 大森羽田間沖
   錐鑿ノ深ハ四十二尺、鑿下ノ時日三月八日ヨリ九日ニ亘レリ、水底面ノ深ハ低潮下凡五尺
水底面下二十八尺ノ間ハ多少泥土ヲ混スル海砂ニシテ、閃々タル黒雲母片ヲ雑ヘ時ニ貝殻ヲ包ム、是ヨリ以降五尺ハ灰泥土ヨリ成リ、其下又七尺許ノ泥土雑リ砂之ニ次キ、最下ノ二尺二寸ハ灰質砂土ニシテ皆軟弱ノ地層タリ

図表を画像で表示第七号錐鑿断面図

        第七号錐鑿断面図   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  細砂  〇  二八  〇  二八  〇  三三  〇   五   同  灰泥土  八  三九  八   六   同  泥土雑リ砂  〇  四二  二   二   同  灰質砂土 



  第八号錐鑿 羽田沖
   錐鑿ノ時日ハ三月十六日ヨリ十七日ニ亘リ、其深ハ四十一尺五寸ニシテ水底面迄ノ深ハ平均低潮下凡ソ六尺トス
水底面ヨリ十一尺ハ軟弱ノ泥土雑リ砂層ニシテ、之ヲ下ル十三尺余モ亦砂雑リ泥土タリ、尚ホ十二尺余ハ灰質砂土、最下五尺ハ灰泥土ニシテ少ク貝殻ヲ包メリ、全層悉ク近時ノ堆積ニ属スル沖積層タリ、左ニ其排列順序ヲ示ス

図表を画像で表示第八号錐鑿断面図

       第八号錐鑿断面図   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  泥土雑リ砂  〇  一一  〇  一一  二  二四  二  一三   同  砂雑リ泥土  五  三六  三  一二   同  灰質砂土  五  四一  〇   五   同  灰泥土 



  第九号錐鑿 羽田沖
   錐鑿ノ深ハ四十五尺ニシテ、之ヲ鑿下スルニ三月十四日ヨリ十五日ニ亘レリ、水底面迄ノ深ハ低潮下一尺トス
 - 第28巻 p.341 -ページ画像 
水底面ヨリ二尺ハ黒雲母片ヲ混スル軟弱ノ海砂ナリ、其下凡二十二尺間モ軟質ノ泥土雑リ砂層ニシテ、往々雲母片ヲ混シ時ニ甲介殻ヲ包ムモノァリ、之ヲ降ル二十一尺間ハ灰質砂土若クハ砂雑リ灰泥土タリ、其順序ハ左図ノ如クニシテ軟質ノ土層タルヲ免レス

図表を画像で表示第九号錐鑿断面図

         第九号錐鑿断面図   深サ    厚サ     水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  細砂  〇   二  〇   一  五  一五  五  一三   同  泥土雑リ砂  〇  一六  五   〇   同  灰質砂土  〇  二四  〇   八   同  泥土雑リ砂  〇  三四  〇  一〇   同  灰質砂土  〇  四五  〇  一一   同  砂雑リ灰泥土 



  第十号錐鑿 羽田沖
   深サ四十三尺、之ヲ鑿下スルニ三月十一日ヨリ十三日ニ亘レリ当錐鑿所ハ平均低潮面ヲ上ル凡ソ一尺トス
水底面下五尺ハ閃々タル雲母片ヲ混スル軟砂ニシテ、之ヲ降ル二十四尺間ハ泥土雑リ砂層ニシテ、貝殻ヲ包ムモノアリ雲母片ヲ含ムモノアリテ軟弱ノ地層タリ、以下十四尺間ハ主トシテ灰質砂土若クハ砂雑リ灰泥土ヨリ構成セラル、其錐鑿断面図ハ左ノ如シ


図表を画像で表示第十号錐鑿断面図

       第十号錐鑿断面図   深サ    厚サ     水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  細砂  〇   五  〇   五  〇  二九  〇  二四   同  泥土雑リ砂  七  三一  七   二   同  灰質砂土  五  三二  八   〇   同  泥土雑リ砂  〇  四三  五  一〇   同  砂雑リ灰泥土 



  第十一号錐鑿 鈴木新田洲島ノ北岸
   錐鑿ノ深サ四十二尺、之ヲ鑿下スルニ五月十一日ヨリ十三日ニ至ル三日ヲ要セリ、当所ハ平均低潮面ヲ上ル凡ソ四尺トス
水底面下二十三尺ハ軟弱ノ泥土雑リ砂ニシテ、雲母片ヲ夾雑シ稀レニ貝殻ヲ包ム、其下此回錐鑿セシ迄ノ深ハ灰泥土若クハ灰質砂土ヨリ構成セラレ、悉ク地質学上近時ノ沈積ニ係ルモノトス

図表を画像で表示第拾壱号錐鑿断面図

       第拾壱号錐鑿断面図   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  泥土雑リ砂  〇  二三  〇  二三  五  二四  五   一   同  灰泥土  〇  三三  五   八   同  灰質砂土  〇  四二  〇   九   同  灰泥土 



  第十二号錐鑿 六郷河口一洲島ノ東岸
 - 第28巻 p.342 -ページ画像 
   錐鑿ノ深サ四十四尺、之ヲ鑿下スルニ五月十四日ヨリ十六日ニ至ル三日ヲ要セリ、当所ハ平均低潮面ヲ上ル凡ソ五尺トス
水底面下五尺五寸ハ軟質ノ細砂、之ニ次キ三尺五寸ハ泥土雑リ砂ニシテ其最下一尺間ハ少シク小砂利ヲ交ユ、之ヲ経過スレハ再ヒ一尺五寸ノ細砂トナリ貝殻ヲ交ユ、以下十一尺五寸ハ泥土及砂ノ錯合ヨリ成リ其下二尺ノ灰泥土ヲ過クレハ此回錐下セシ深サ迄二十尺間ハ灰質砂土タリ、左ニ其断面図ヲ示ス

図表を画像で表示第拾弐号錐鑿断面図

       第拾弐号錐鑿断面図   深サ     厚サ    水 底 面  寸  尺   寸  尺    同  細砂  五   五  五   五  〇   九  五   三   同  泥土雑リ砂  五  一〇  五   一   同  細砂  〇  二二  五  一一   同  泥土及砂錯合  〇  二四  〇   二   同  灰泥土  〇  四四  〇  二〇   同  灰質砂土 



以上列記セル十余箇所ノ錐鑿ト前回ノ錐鑿トヲ対照スルニ、隅田・六郷両河口間ニ連亘スル品海水底ノ地層ハ、地質学上之ヲ左ノ三種ニ区別スルコトヲ得ヘシ
(一)最旧ナルモノハ第三紀層ト称シ、第三紀ノ最新期《プリオシーン》ニ堆積セシモノニシテ、火山灰分ヲ混スルモノ即チ凝灰質粘土及ヒ砂土ヨリ成リ、概ネ粗造質軟弱ニシテ往々甲介ノ遺骸ニ富ム、前記セシ第三号錐鑿所ノ全層ヲ構成シ第二号・四号・五号等ノ下部ニ現ハレ、及ヒ前回ノ調査ニ係ル第三号・四号・五号・六号等ノ大部ヲナスモノニシテ、品川停車場ノ南鉄道線路切通シノ下部ニ露出セル本層ノ海底ニ延亘スルモノナリ
(二)第三紀層ニ亜キ其生成ノ古キモノハ所謂洪積層ニシテ、東京市中ノ高台ト称スルモノヲ構成スルモノ是ナリ、此層ハ陸上ニ於テハ最モ普通ノ地層ナレトモ、今回施行セシ錐鑿所ニハ現出セシモノナク、唯前回調査ノ第一号・二号・五号・六号ノ錐鑿点ニ発見セシノミニシテ砂利・粘土及砂等ヨリ成レリ
(三)最新層ハ沖積層ニシテ、泥土及砂等皆河流ノ齎来セル沈積物ヨリ成リ、現今隅田・六郷等ノ河口ニハ絶ヘス此ノ如キ土層ノ増累シツツアルモノナリ、彼石川島・鈴木新田等ノ三角洲ハ実ニ此作用ニ因リ成形セラレシモノトス
今此等三種ノ地層ハ東京築港ニ如何ナル関係ヲ有スルヤヲ考究スルニ沖積層ヲ構成スルモノハ主トシテ、泥土及砂土ノ累層ニシテ其分子未タ固結セス最モ柔軟ノ地層ナリ、此ノ如キ地層ヨリ組ミ立ラルヽ地盤ハ之ヲ浚渫スルニ容易ナルモ、波堤等ノ建築ニ適セサルヤ明カナリ、第三紀層ハ凝灰質粘土若ク砂土ヨリ成リテ概スルニ粗造軟質ノ地盤タルヲ免カレサルモ、時ニ著シク砂質ヲ加ヘ稀ニ小砂利ヲ夾雑シ、屡々貝殻ニ富ム等ヲ以テ之ヲ沖積層ニ比スレハ、其分子ノ凝着力ニ富ム者少カラサレハ之ヲ浚渫センニハ比較的遥ニ困難ナルヘキカ、然ルニ洪積層ハ硬粘土・硬砂ノ如キ凝力強キモノ、若クハ砂利層等ヨリ成ルモ
 - 第28巻 p.343 -ページ画像 
ノナレハ本層ヲ以テ構成セル地盤ハ堅牢ナラサルヘカラス、之ヲ要スルニ隅田・六郷両河口間ニ於テ最モ柔軟ナルハ大森・羽田沖間ノ海底ナリ、即チ第六号以下十二号迄ノ錐鑿断面図ニ依リ之ヲ証明スヘキカ如ク、悉ク柔軟ノ沖積層ヨリ成リ、其層種排列順序共ニ大同小異トス第四号及五号ハ軟質ナルモ其下部ハ第三紀層ヨリ成リ又前回ノ錐鑿ニ係ル七号ハ上表ヨリ三十八尺間ハ小砂利ニ富ム等ノ事実アリテ其種類ヲ異ニセリ最モ堅牢ナルハ鮫洲大井沖ニシテ、水底面下六尺乃至七尺間ハ洪積紀ニ属スル砂利ヨリ組立ラルヽハ前回調査ノ第五号及六号ノ錐鑿断面ヲ見ハ明カナリ
品川・石川島間ハ柔軟ナル沖積層ヨリ成ルモノアリ前回錐鑿ノ八・九・十・十一号及ヒ今回ノ一・二等ヲ云フ鞏固ナル洪積層ヨリ成ルモノアリ前回錐鑿ノ一二号ヲ云フ或ハ下方ニ於テ稍々鞏固質ノ第三紀層ヨリ成ルモノアリ前回錐鑿ノ三号四号ヲ云フ此ノ如ク其堅軟一ナラスト雖トモ之ヲ概言スレハ、沿岸ニ鞏固ニシテ沖ニ向ヒ柔軟ナリト謂フヘシ
玆ニ調査ノ報告ヲ終ルニ際シ、当局者ノ需メニ応シ以上諸錐鑿点間ノ水底地質断面図ヲ製シテ冊尾ニ附セリ、蓋シ此断面図タル唯二錐鑿点ヲ連接セルモノニシテ、両点間ノ地質ハ最モ接近セル錐鑿点ヲ参酌シ地質学上之ヲ按出シタルニ過キサレハ其実際ニ至テハ素ヨリ差異ナキ能ハサルモ、是レ今日ニ於テハ亦已ムヲ得サルニ出ツルモノニシテ、唯当局者参考ノ一助ニ供セント欲スルノミ

市区改正ニ係ル取調ハ僅ニ着手致候位ニ有之候ヘ共、左ノ景況概略御報申上候
 一東京湾築港ノ件ハ主トシテ海軍省海港監督「ルノー」氏ニ相談仕候、同氏ハ海港ニ関シ学識経験共ニ有之由技術官連中ノ評ヲ聞及候、叉手同氏ノ考案ハ未タ結了不致候得共、大体ニ於テ大ヒニ従前見ル所ノ計画ト異リ意表ニ出テ閉口致候、勿論地勢及運輸ノ景況等ヲ詳ニセサレハ確タル計画ハ難相成候得共、十分後来ノ参考ト可相成材料ハ授呉候事ト確信候
  当地ニ於テ小生面会致候技術官ハ尽ク東京築港ノ有益ナルヲ断信候様見受候、巴里技術部長土木一等技監アルフアン氏ノ如キハ東京ノ図ヲ見ヤル否直チニ港ハ何所ニ有ヤト問候ニ付、沖懸リナル由相答候処、余程驚キタル模様相見候、「ルノー」氏モ「ムルドル」氏及小生ノ説ノ如クマンチユスター運河ノ例ヲ挙ケ、東京ヲ放擲スルハ了解シ難キ由申候、東京ヨリ横浜迄八里許ノ鉄道ヲ桟橋ト見ルハ余リ長過ルト申候、其他ノ技術官数名就中「ブーケ、ド、ラ、グリー」氏巴里築港主唱者ノ如キ無論同説ニ御座候(以下略ス)
   二月十八日 ○明治二二年カ          古市公威
    芳川次官宛