デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

6章 政治・自治行政
2節 自治行政
4款 東京市参事会
■綱文

第28巻 p.366-374(DK280039k) ページ画像

明治25年12月11日(1892年)

是ヨリ先、東京市上水道鉄管購入ニ関シ、内国製ト外国製トノ利害便否ニ付キ市参事会・市会ノ論議スルトコロトナリ、栄一外国製鉄管購入ヲ主張シ来リシガ、是日暴徒ニ襲ハル。


■資料

東京経済雑誌 第二六巻第六五四号・第八九六―八九七頁 明治二五年一二月一七日 ○渋沢栄一氏難を免かる(DK280039k-0001)
第28巻 p.366-367 ページ画像

東京経済雑誌  第二六巻第六五四号・第八九六―八九七頁 明治二五年一二月一七日
 - 第28巻 p.367 -ページ画像 
    ○渋沢栄一氏難を免かる
第一銀行頭取渋沢栄一氏は、去る十一日午後一時二十分頃、今戸なる伊達宗城侯を訪はんとて、兜町の自邸を出て、馬車に乗りて兜橋を渡り、東京郵便電信局の方へ進む際、忽然兇漢の為めに襲撃せられたれども、幸にして難を免かれ、馬が前足を稍深く斬られたるのみ、兇漢は三・四名の由なれども、捕縛せられたるは青年義団の壮士福井県士族板倉達一、盈進社の壮士石川県士族千木喜十郎の二人なり、原因は未だ明かならざれども、当市水道用鉄管の購入に関し、渋沢氏は市参事会員として外国品を主張したるにより、内地製鉄業者の使嗾を受けて、此乱暴に及びしなるべしと云ふ、言語に絶へたることと謂ふべし


渋沢栄一書翰 松田道之宛 (明治未詳年)六月一五日(DK280039k-0002)
第28巻 p.367 ページ画像

渋沢栄一書翰  松田道之宛 (明治未詳年)六月一五日   (木山竹治氏所蔵)
拝稟、然者木管之義ニ付此程柳谷謙太郎より来書進呈之末、尚又江木高遠より別紙到来、外国人之此管ニ付見込往応書封入有之候間、早速反訳為致候ニ、左之訳書之通ニ候、此模様ニ而ハ柳谷之報告とハ少々相違いたし、木管ハ或ハ其用方ニ於て利益有之様ニも相見ヘ候、到底彼地ニても諸説多岐、或ハ之を可とし又ハ之を非とするもの有之事と被存候
来状中反訳書ハ別ニ写取、さし上候ニ付、御差置ニてよろしく候、柳谷之来状ハ(先日さし上候分)十八日ニ返書差出度候ニ付、御教示可被下候、何れ近日参庁尚可申上候 匆々頓首
  六月十五日               渋沢栄一
    松田府知事 閣下
(別筆)
御尋之ワイコツプ管之儀ハ、瓦斯用ニハ不適当ノ由ニテ、種々苦情申立者有之候、併シ水道用ニハ二「インチ」以上之管ナレハ至極適当ト被存候、現ニ私共二十年前ニ埋布候モノ今尚ホ最初之有様ト同様ニ御坐候、尤モ不断管中満水ナラサレハ腐折可致候、私共モ管中ニ水ヲ欠キ其ガ為メニ木管腐折シテ不得已取換候事有之候
右管ハ最上質ニテ可成丈ケ節ナシノ白松ヲ以テ造リ、且「コールタール」ニ浸シタル最上ノ鉄輪ヲ以テ外部ヲ巻付ケ、然ル後管体トモニ融シタル「コールタール」ノ上ニ回転セシムヘシ、右之如ク致セハ外部ヨリ空気之入ル事無之、而シテ内部ハ満水シタレハ、管中ノ孔穴ハ一切空気ニ触ルヽ事無之候、凡テ材木ハ不断水中ニアレハ縦ヒ幾年ヲ経ルトモ依然トシテ、最初之有様ニ変ラサルモノニ御坐候、私共曾テ一「インチ」ヨリ一「インチ」半之管ヲ用ヒ候処、功能誠ニ些少ニ御坐候
右之件ニ付今後尚聞及候事有之候ハヽ、時々御通知可仕候、右御答迄
                          匆々
  四月三十日
                      ダイブン拝
    コーチン様


渋沢栄一書翰 松田道之宛 (明治未詳年)七月二六日(DK280039k-0003)
第28巻 p.367-368 ページ画像

渋沢栄一書翰  松田道之宛 (明治未詳年)七月二六日   (木山竹治氏所蔵)
 - 第28巻 p.368 -ページ画像 
□稟、水道木管之義ニ付、桑港柳谷領事より尚又別紙写之通来書有之候間、呈電覧候
書中シユスクル氏聘使云々ハ素より当方より毫も申遣せし事無之、実ニ無用之関係と存候間次便丁寧ニ相断可申奉存候、御聞置可被下候
此度之報告ハ何も効能無之、到底隔靴掻痒之来報のミニて、困却仕候もしも此事業真ニ起創と存し候様之節ハ、委員派出之方とも奉存候、為念申上置候
デツケンソン頃日来訪、来月一日帰国之由申居候、木管一条ニ付種々申聞有之候得共、詰リ是迄之談話と大同小異、只出立後ニても幸ニ水道起創ニ決し候ハヽ、木管之方賛成有之度抔婆心之申置有之候迄ニ御坐候、夫故別ニ煩尊聴候程之事も無之間、殊ニハ不申上義ニ候
○中略
  七月廿六日
                      渋沢栄一
    松田府知事閣下
○下略


東京経済雑誌 第二六巻第六三九号・第二〇七―二〇八頁 明治二五年八月六日 ○東京鋳鉄商の水道鉄管購買に関する運動(DK280039k-0004)
第28巻 p.368-369 ページ画像

東京経済雑誌  第二六巻第六三九号・第二〇七―二〇八頁 明治二五年八月六日
    ○東京鋳鉄商の水道鉄管購買に関する運動
東京石川島造船所長進経夫・三田機械株式会社取締役薬師彦五郎・田中機械製造場長田中久重・三田鋳造所長奥山春・東京機械会社工場長田岡忠次郎・平野富二・市原求・原重之・富岡米造・近岡半兵衛・大橋富太郎、梯重行・中島成道・国友武勇・山田重太郎・三吉電気工場長三吉正一・松井兵次郎・井手雄平・須崎兼作・加藤小三郎・小幡長五郎・前島兵太郎・田中儀介・永瀬正吉等二十五名の諸氏は、東京市水道布設の儀愈々決定し、市参事会に於て鉄管購買上に関し目下詮議中の趣きを伝聞し、一同協議の上一致聯結し、右鉄管に関する事項を具し、東京府知事に向て此程一篇の請願書を差出せり、今其請願の要旨を聞くに左の如し
 (第一) 水道改良用鉄管を外国より輸入すると否とは、我国の経済と工業の消長とに大関係を及ぼすこと勿論にして、鉄管鋳造の為め殊更に工場を創設するは経済の要を得たるものにあらず、抑も鋳鉄の事たる左迄至難の業にあらざれば、府下在来の各工場に於て其大小に応じ各自分担製造するを得べきなり、然るときは一方には貨幣の輸出を防ぎ、国内金融の運転を活溌ならしむるの途を開くべし
 (第二) 在来の工場にて鉄管を鋳造するは至難なるが如く見ゆれども、其実却て容易の業たり、既に軍艦の如き至難の工作すら数年已前より之れを製造し、完全の結果を得たるのみならず、是迄内地に於て鉄管を鋳造したるの実例も乏しからず、今水道鉄管の総量を六万噸と仮定し、之を五ケ年間に製造するものとせば、一ケ年一万二千噸にして一ケ月平均一千噸とす、而して各製鉄業団体中工場を有する者を二十名と仮定し、此一千噸の製造に従事するときは一人一ケ月の製造高僅に五十噸に過ぎず、其鉄管の大小の如きは各工場の広狭に応じ便宜分担鉄造することとせば案外容易の事たるを信ず
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 (第三) 近来各工業の進歩発達せざるは最も著しき現象たり、若し今日の儘に経過せんか、我国工業の発達到底望むべからず、然るに之れに反して今此鉄管を内地にて製造することゝならば、啻に工業の進歩を奨励するに止らず、永く摸範を将来に伝へ、且之れが為め窮民の職を得るものも亦尠からざるべし、而して外国為替相場は昂低浮沈一定せざれば、其標準を定むるに難く、一朝劇変に際せば意外の損失を被るの虞なしとせず
 (第四) 水道鉄管は大坂市に於てすら内地の製造品を使用するに決せり、中央首府たる東京市は百事其摸範を全国に表示するの枢地たれば、尚更卒先して内地の製造品を取ること固より当然の事たるべし、鉄管を内地に於て製造するは、恰も銑鉄の採掘を内国に促がすと一般、其結果は一時に多量の産出を見るに至るべく、而して我国工場は勿論、経済上に軍備上に総て莫大の便益を与るや論を待ざるなり
 (第五) 鉄管の材料即ち銑鉄は、即今各鉱山とも相応の産出高に達せり、今後愈々之を内国にて製造することゝならば、益々多量の産額となるべし、果して然らば鉄管を鋳造するが為め輸入を外国に仰ぐの必要も無かるべく、縦し其品質に依り多少輸入品を使用するの場合ありとするも、右輸入品は各地外国商館及び内地商人の手に在るもの大約平均一万噸以上にして、尚其輸入は引続き多量に赴くを以て、聊か差支を生ずる憂ひ無かるべし
諸氏にして飽までその鋳造に係る鉄管を売込まんと欲せは、外国鋳造の鉄管よりも廉価にて供給せさるへからず、然かるときは市参事会の承諾を得ること何そ難からんや


東京経済雑誌 第二六巻第六五三号・第八五五頁 明治二五年一二月一〇日 ○東京市水道用鉄管開札の結果(DK280039k-0005)
第28巻 p.369 ページ画像

東京経済雑誌  第二六巻第六五三号・第八五五頁 明治二五年一二月一〇日
    ○東京市水道用鉄管開札の結果
東京市参事会は去る五日を以て、東京水道改良用鉄管製造入札に対する開札を執行せり、当日出頭したる商会は、英国グラスゴーの「マクフハーレン」会社代理内外用達会社・英国「スチワルド」会社代理三井物産会社・英国「マクフハーレン」会社代理英一番同代理英商会・英国「レードロー」会社代理「シーリンス」商会を始め、白耳義・独逸諸国の各製鉄会社の代理たる「フハーブル・ラスペ」其他の商会、及び遠武秀行・石川島造船所等の十余名なり、而して開札の結果は左の如し
 六ポンド十ペンス              内外用達会社
   但製鉄一噸に対する入札代価、東京佃島渡し
 六ポンド六シルリング             横浜英一番
   同
 六ポンド十八シルリング三ペンス       三井物産会社
   同
 七ポンド                   伊理須商会
   同
其他は皆之より高札に付き省く
 - 第28巻 p.370 -ページ画像 


新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第八巻・第三三一―三三二頁 昭和一〇年一二月刊(DK280039k-0006)
第28巻 p.370 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第八巻・第三三一―三三二頁 昭和一〇年一二月刊
    渋沢は外国品鉄管購買説を持す
      兜橋事件の胚胎
〔一二・一四 ○明治二五年東京日日〕 渋沢氏と遠武氏 ○世人或は両氏の間柄は、水道鉄管問題に関して其の意見を正反対にし、互に相容れざるものゝ如く評するものあれども、始めより決して左る事情あるにあらず、遠武氏の内地製作説を主張せる事は明白なる事実なるも、渋沢氏は未だ始めより之に反対の説を唱へず、只だ未だ内地製作説に賛成せざりしより、同氏は外国品購買説を持するものなりとの臆説を唱ふる者ありしより、自然遠武氏には快からざる所ありしならんが、梅浦精一・横山孫一郎等の諸氏は両氏の間に入りて斡旋する所あり、両氏意のある所を相互に通じたれば、彼の兜橋事件の起りたる二・三日前には、已に両氏の意志判然して、其間柄は釈然和解し居りたりと云ふ。
   ○明治二十五年十二月二十四日、銀行集会所同盟銀行主催ニヨル遭難無事祝宴帝国ホテルニ開カル。本資料第六巻所収「東京銀行集会所」同日ノ条参照。


日本鋳鉄会社沿革史 遠武秀行編 第七―一六頁 明治三四年一一月刊(DK280039k-0007)
第28巻 p.370-374 ページ画像

日本鋳鉄会社沿革史 遠武秀行編  第七―一六頁 明治三四年一一月刊
    ○日本鋳鉄会社発起の由来
日本鋳鉄会社は余か全力を注き発起主唱したる結果設立せられたるものなり、故に同会社の沿革を述へんとするには、先つ余か横須賀造船所長としての経歴より略叙せさる可らす、余は七年間同所長の職に在りしか同所に使用する鉄の材料は悉く之を外国に仰かさるなく、而して其材料価格か同所購買品中の最多額を占めたれは、之か為め海外へ渡航して親しく製鉄事業を視察し大に感する所あり、偶々海軍省雇造船技師「ベルタン」氏は海軍大臣に建議して曰く、海軍の独立を保つには鉄の材料を自国に取らざる可らす、然るに不幸にして日本は鉄礦に乏しと雖とも、船舶其他機械の破損より生する古地金を蒐集儲蓄して鉄材を製せば以て此需用を充たすに足るへしと、此議政府の注目する処となりしも、鉄材を製するには「ロール」に掛けさるへからす、而して其「ロール」なるものは常に水に冷やさゝるへからざるものなるに横須賀は元来水に乏しきを以て右の建議は容るゝ処とならす依て「ベルタン」氏は更に鋼鉄を製造すへき「シーメンス」式溶解炉を建造すへしとの建議を提出したり、然るに此溶解炉の耐火煉瓦たる、一旦急激の熱度を与ふる上は之を冷却する時は再ひ使用に耐へさるを以て、命数のあらん限り熱度を与へて製造を持続せさる可らす、斯くする時は一ケ月の製鋼高壱百弐拾噸に上り、而して其当時実際一ケ月の使用高は僅か十五噸に過きす、其超過多額なれは余は調査の結果大に其不経済なるを知り、単に横須賀造船所用のみならす、広く官民一般の需用に応するの規模を以て鋼鉄製造業を経営せんとし、政府より相当の保護を与へて民業を奨励すへき旨を、時の海軍次官樺山資紀氏(当時西郷海軍大臣洋行中なりしを以て)に向て建議したり、「ベルタン」氏は郷国仏蘭西に於て民業保護の不結果に終りたる事例を挙け之に反対
 - 第28巻 p.371 -ページ画像 
し、寧ろ其保護すへき金を以て横須賀に於て試製の事を主張せしかは遂に此議に決して其試製に着手し傍ら種々の内国産鉄を配合して試験したる結果、其性質夐かに外国鉄よりも良好なる事を示したり、是れ余か本邦製鉄業の有望なる事を信したるの第一着なりき、之より先き同所旋盤工場火災に罹りたるを以て、余は此際之を改築するに煉瓦と鉄柱の不燃質物を以てせんとし、種々調査の結果先つ其鉄柱を内国にて試製せしめんとて、石川島造船所及ひ川口町増田工場(此二ケ所は当時最も大工場なりし)に注文したるに、其価格外国品に比し大に低廉にして且つ実用に適したれは、余は玆に内国製鉄業の第二歩を固めたり、其後明治二十二年官制の改正あり、技師を以て造船所長と為す事となり、大佐たる余は其職を転せさる可からさるの已むなきに至れり、其際西郷大臣を始め薩州の先輩諸氏は余に勧むるに地方官或は元老院議官に転任の事を以てせしも、余は在職中製鉄事業の深く脳漿に浸潤するものあり、時恰も東京市水道事業問題漸く喧囂たらんとする折柄なりしかは、大に決心する処あり、此水道鉄管を鋳造して好成績を挙けなは、我邦の製鉄事業は之を端緒として忽ち興起し錬鉄・鋼鉄の製造業も漸次勃興すへしと信し、断然転任の推挙を謝絶し、夫より川口町増田工場に於て函館水道用六吋鉄管を鋳造したりと聞き、往て之を見しに実用上差支へなしとは云へ、其丈け短く甚た不満足なりしを以て、横須賀造船所鋳物場長たる勝目純之氏の技倆を深く信したる所より、同氏に謀り右増田工場に於て十二吋鉄管二本・十吋管二本・六吋管四本を試鋳せしめ、之れか為め余は相応に私財を投したり、其中十吋管一本を鋳損したるのみにて他は何れも好結果を示したれは、更に東京市所有の水圧試験器を借り受け、古市博士其他土木技師・冶金技師等数名の臨場を乞ひ、水圧試験を執行したるに何れも合格したり(其試験器は百封度か極度なりし)後に此内の十二吋管一本をは第三回内国勧業博覧会に出品して、有功三等賞を受領したり、余は此試験の結果に力を得て愈々東京市水道鉄管引請の同志を募集する為め創立事務所を設置したり、然るに水道公債の利率に関し東京市と大蔵省との協議調はす、為めに水道事業も一年間はかり殆と中止の姿なりしも、余は依然運動を持続したり
又勝目純之氏は横須賀造船所より終身執務の契約を以て英国に渡航し実地を研究して帰朝せし人なれは、海軍にては之に代る候補者なく、実に有用の技術者たりしと雖とも、余は水道鉄管は勝目氏に頼らさる可らさるを知り、先つ勝目氏と内約し鎮守府長官仁礼中将に懇請して勝目氏辞職の許可を得たれは、勝目氏は先つ民間に下りて第一着に王子に鋼鉄製造所を設けたり(鉄管鋳造始まる時は之に従事するの内約なりし)然るに余か深く信頼し居たる古市公威氏は、勝目氏の実地に堪能なるを許すも、学術も亦大に必要なるを以て野呂氏を採用せされは東京市へ対して技術の保証を為すを得すと勧告せられ、野呂博士を紹介せられしを以て、余は玆に始めて冶金学特に製鉄学専攻の博士野呂景義氏あるを知り、爾来野呂・勝目両氏に就て常に謀る処ありたり然るに市参事会・市会の形勢は僅に楠本議長と二・三の人士か内国製を深く賛成するに止まり、他は悉く外国製鉄管の主張者にして、復た
 - 第28巻 p.372 -ページ画像 
奈何ともする能はさりき、余は外国に鉄管を注文せんか、参・四百万円の代金は啻に外国商工業者を肥すのみならす、内国の製鉄事業は永く振起の機なかるへく、之に反し内国製を取らんか幾百千の内国商工業者職工は其職に就くを得るのみならす、内国に鉄管工場の設ある以上は東京市に於て多数の予備鉄管儲蓄の必要もなく、大に経費を節減し得へしとて、有力者間に日夜遊説苦勧最も勉めたりき
此際古市博士より鉄管の試鋳を帝国大学雇技師「バルトン」氏の実見に供せよとの勧告あり、即王子工場に於て六吋管五・六本鋳造せしめたるに好成績を告けたり、又市参事会員中の最有力者渋沢栄一氏に数次懇請したる結果、同氏より東京瓦斯会社に於て鉄管四百五・六十本入用なれば之を鋳造すへし、其成績如何に依りては大に水道鉄管需用者の参考にもなるへしとの書信を得たり、爰に於て余は瓦斯会社支配人に交渉したるに其条件たるや、三十日間に鉄管廿本を試鋳し、直ちに水圧試験に付すへし、其結果一本にても不合格を出す時は契約を破棄し保証金(請負金高の一割)を没収すへしと云ふにあり、未た鋳型枠乾燥室等の設備もなきに右の如き条件は頗る難題なるを以て、時日の猶予を交渉したるに、然らは外国に注文せんとて瓦斯会社は容易に之に応せす、漸く十五日間の延期を得て日夜其準備に勉め、遂に契約期限内に鋳造するを得たり、瓦斯会社の中川技師は之を実験したる結果第一鉄管の外国品より長き事、第二鋳肌の滑かなる事、第三円形の其中心を誤まらすして肉に厚薄なき事、第四釜石銑鉄を配合したる為め鉄質の良好なる事、以上四点に於て本鉄管は外国鉄管に優れりと大に賞賛せられたり、玆に於て外国鉄管派の渋沢氏も此結果に徴して必す内国鉄管説を執るに至らんと信し、余は心中大に喜ひ居たり、然るに又々一疑問は起れり、則ち小鉄管は種々の試験に依り好成績を得たるも若し大鉄管に至ては其成績如何と云ふにあり、外国鉄管派も此一点を以て頻りに内国鉄管排斥の資料に供したるを以て、余は再ひ野呂勝目の両氏に謀り、王子の工場に於て内径廿四吋の大管二本を試鋳し富田府知事を始め楠本市会議長・渋沢市参事会員・古市工学博士、其他水道鉄管に関係ある有力者数十名を招待して、其面前に於て一本を鋳込み、以て実験に供したるに、是れ又成績頗る良好なるを得たり、余は是等種々の試験費及運動費に多額の私財を消尽し、其邸宅をも売却するに至れりと雖も、更に屈することなく、営利的よりは寧ろ国家的なりとの観念を以て益々奮起し、其運動を持続したれは、楠本市会議長は大に余の説に賛成し内国説を執りたる為め、市会議員中には少数なから賛成者を得たれとも、市参事会員は悉く外国鉄管派にして、渋沢氏も亦た熱心内国説を主張するの意志なかりき、而して時期は愈よ切迫し、運動は益々活溌となり諸新聞紙の賛否亦囂々たりしか、東京日日新聞の如きは国家的事業なりとて内国鉄管説を表白したれは、余は有力なる一援助を得たるを喜ひ居たるに、一日同新聞に「日本の製鉄事業」と題する一記事あり、其大要は釜石の失敗、中小阪の失敗印刷局に於ける鋳鉄管等の失敗に徴すれは、今回の鉄管事業たる野呂博士・勝目技師の腕揃なるにも拘らす、砂の加減、鉄の配合等は外国に於ても頗る難技術に属するを以て其成績や頗る疑はし、第一同会社
 - 第28巻 p.373 -ページ画像 
は未た資本なし工場なし、東京市と約束したる上にて後始めて会社設立、工場・器械の設備に着手すると云ふか如きは、先つ客を見て宿屋か飯を炊くと一般、東京市の公共事業は斯る信用薄弱のものに向て請負を命すること能はすと云ふにあり、余は大に此新聞の変説を意外なりとし、同社員に詰る処ありしに、是は当新聞社の大株主たる渋沢氏の内意に依りて掲載したるものにて、已むを得さるに出たるなりとの返書を得たり、又資金の供給者に就ては曩に三井の故老西村虎四郎氏に交渉し其内諾を得たりしに、是れ亦た云ふ可らさる事情ありて謝絶せらるゝに至りたり、当時大倉氏の用達会社か外国鉄管を引受けんと市参事会に向て大々的運動を試み、渋沢氏亦た大倉氏との関係上之に加担せさる可らさるの事情あり、為めに内国鉄管派に賛成せさるものなりとの内容を探り得て、余は一時落胆したりと雖とも、尚屈撓することなく渋沢氏を説き伏せんとし、其門を叩く事幾回と云ふを知らす常に不在とて面会を得す、一日漸く面会を得て懇請する処ありしも、渋沢氏は単に市参事会員か迚も内国説に賛成せすとのみ答へて、毫も耳を傾むくることなく、又自説をも吐露せられさりき、余は更に他日渋沢氏を訪問の上、他の市参事会員の説は拙者の聞くを好まさる処なり、専ら貴説の如何に依りて市の向背も決するものなるを以て唯貴説の如何を承知したしと其決答を促かしたれとも、渋沢氏は尚ほ自説を吐かす、唯「外かやかましいから困る」とのみにて要領を得さりしかは、余は艴然色を作し日々新聞社員よりの書状を渋沢氏の面前に突付け「此記事はお前か出したのたろう、他人の考に托してこまかすけれとも、お前か反対者の発当人てある、否お前は国家事業を害する人てある、お前は実は売国奴ちや」と絶叫し、憤然席を蹴て去り、更に富田知事を訪ふて右の事実を述へ、是迄種々配慮を煩はしたれとも、本日渋沢と激論の末鉄管事業を断念せり、併し予も一箇の男子なり、此儘にては黙止し居らさる覚悟なるを以て、貴殿にも一応断り置くへしと述へて帰宅し、夫より木挽町厚生館に於て大演説会を開き、此事を公衆に訴へんとて警視庁へ右出願の手続を為しつゝありし処へ、梅浦精一・園田実徳の両氏余を訪ひ、渋沢氏をして内国鉄管説に賛成せしむる様尽力すへしとて慰諭すること切なり、余は貴殿等両君に於て之を保証せらるゝや否と云ひしに、両氏は今一回渋沢氏の意を確め、其上にて確答すへしとて辞し去り、更に再訪して保証に立つ旨を確答せられたり、玆に於て余は渋沢氏を訪ひ前の失言を謝する事となり、渋沢氏も始めて内国鉄管に賛成の意を明言せられたり、然るに其後間もなく兇漢か渋沢氏の馬車の馬足を傷けたる事あり、是れ余の教唆に出てたりとて一時世評囂々たりしも、渋沢氏のみは一旦釈然として双方の意志融和したる後なりしかは、更に余を疑はさりき、余も亦た渋沢氏を慰問し以前に変はりて交情親密を加へたり
此時に当り、別項記載の如く機械業者の一団体及銅鉄商の一団体より建議書出て、内国鉄管の賛成者漸く勢力を加へ来りて、東京市参事会に於ても日本鉄管業者を入札中に加ふ(但指名はせす)る事となり、甲乙二種の名称に依り内外鉄管を区別し入札せしめたり、而して契約書の案文及仕方書は頗る厳酷に失したるものなりしも、一旦市会の決
 - 第28巻 p.374 -ページ画像 
議を経たるものなるを以て変更することを得す、之か変更を求むれは外国に注文せらるゝのみならす、時日も切迫したるを以て其運動の余日なく、愈々入札の当日には他人に任するを不安に思ひ、余自ら出頭して入札をなしたり、各入札者立会の上開札し始め二・三の外国鉄管の分を読み上けたるに、何れも余の分よりも遥かに高価なりしを以て余は私かに喜ひ居たりしに、内外用達会社の分を読上くるに至りて、余の分より安価なりしを以て、余は之を不審なりとし能く能く調査したるに、直管・異型管と二様に各自積書を差出したるものにて、用達会社の分は直管のみの価格を示したるに止まり、異型管の価格を読み上けすして次の開札を読み上けたるものなりしを以て、余は之を難したり、立会人渡部温氏(時の市参事会員)亦余の難に同意して入札者に詰問したるに、入札者は異型管は積書を持参し居れとも、今日提出するものや否を知らさるに依り提出せさりしと弁明し、始めて其入札書を差出したり、開封の結果其異型管は大に高価なりしを以て、合計総価格の点に於ては余の方低廉なりしかは終に余に落札するに至りたり、是則ち日本鋳鉄会社発起設立の由来にして、同会社は辛苦経営の結果余か目的通り実用に適すへき良鉄管を製造し得たりと雖とも、奈何せん世界に比類なき試験方法を用ひられたる為め、遂に意外の失敗を招きたり、其顛末は余か社員と共に調査したる以下日本鋳鉄会社沿革史中に於て、順次陳述する所あらん
                      遠武秀行