デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

7章 軍事関係事業
1節 日清戦争
1款 防海費献納
■綱文

第28巻 p.435-439(DK280058k) ページ画像

明治21年5月31日(1888年)

是ヨリ先、栄一防海費金二万円ヲ献納ス。依テ明治二十年五月二十三日勅定ニカカル金製黄綬褒章ヲ、是日賜ハル。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第六七三頁 明治三三年二月刊(DK280058k-0001)
第28巻 p.435 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第六七三頁 明治三三年二月刊
 ○第五十八章 公益及公共事業
    第二十節 献金
○上略
明治二十年三月十四日防海費ニ付詔勅アリ、曰ク、朕惟フニ立国ノ務ニ於テ防海ノ備一日モ緩クス可ラス、而シテ国庫歳入未タ遽カニ其鉅費ヲ弁シ易カラス、朕之カ為ニ軫念シ、玆ニ宮禁ノ儲余三拾万円ヲ出シ聊其費ヲ助ク、閣臣旨ヲ体セヨト、此ニ於テ国民争フテ献金ス、青淵先生弐万円ヲ献納ス
抑モ防海費ノ詔勅出タルハ、当時陸軍大阪砲兵工廠ニ於テ海岸砲鋳造ノ技術頗ル進ミタルモ、財源ノ欠乏ニヨリ鋳造ヲ中止セントスルノ止ムヲ得サルニ迫リ、技術上甚タ惜ムヘク、殊ニ国防上少ナカラサル関係アルヲ以テ、其資ヲ給セントスルノ聖旨ニ出タルナリ、献金ノ総額ハ御手許金ト合シテ弐百四拾弐万六千八百七十五円ニ達シ、大砲数十門ヲ鋳造セリ


官報 第一四七五号 明治二一年六月一日 褒賞(DK280058k-0002)
第28巻 p.435 ページ画像

官報  第一四七五号 明治二一年六月一日
    褒賞
○黄綬褒章授与 昨三十一日賞勲局ニ於テ黄綬褒章ヲ授与セシ者左ノ如シ
                  従四位 渋沢栄一
 愛国ノ衷情ヲ表陳シ、防海ノ事業ヲ賛成シ、金弐万円献納ス、依テ明治二十年五月二十三日勅定ノ金製黄綬褒章ヲ賜ヒ玆ニ之ヲ表彰ス
○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK280058k-0003)
第28巻 p.435 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳           (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
同 ○明治廿一年五月卅一日 愛国ノ衷情ヲ表陳シ防海ノ事業ヲ賛成シ金弐万円献納ス、依テ明治廿年五月廿三日勅定ノ金製黄綬章ヲ賜ヒ之ヲ表彰ス 同 ○内閣
 - 第28巻 p.436 -ページ画像 


時事新報 第一五八六号 明治二〇年五月一二日 海防費献納(DK280058k-0004)
第28巻 p.436 ページ画像

時事新報  第一五八六号 明治二〇年五月一二日
    海防費献納
東京府平民正五位渋沢栄一氏より金二万円、同府平民前川太郎兵衛氏より同二千円、大坂府同益田太三郎・徳島県同森六郎両氏より各千五百円宛、静岡県知事関口隆吉・東京府平民前川太兵衛・大坂府同進藤嘉一郎・徳島県同久保平次郎・同県士族加島政範諸氏より各千円宛海防費へ献納願ひ出しに、一昨十日聞食届けられたるよし



〔参考〕時事新報 第一五四六号 明治二〇年三月二六日 海防費恩賜(DK280058k-0005)
第28巻 p.436 ページ画像

時事新報  第一五四六号 明治二〇年三月二六日
    海防費恩賜
天皇陛下には、我国海防の一日も忽にすべからざるも、目下の財政にては遽かに其費用の弁じ易からざる事を深く憂慮あらせられ、忝くも御手許より三十万円を恩賜ありたる事は、昨日の紙上に記載したる所なるが、読者は本日の官報欄内に於て聖詔を拝読するの栄を得べし、右に付内閣諸大臣を始め顕要の地にある諸臣僚は何れも深く聖旨の在る所を体し、目下在京の各地方官一同へも聖勅の趣きに付懇諭する所ありたる由、又府下の有力者中にはこの聖勅を拝読し、感激の余り国民の分として涓埃の微効を致さんとて、窃かに計画する者もあるよしに聞けり



〔参考〕時事新報 第一五四七号 明治二〇年三月二八日 献金者に位階を賜ふの説(DK280058k-0006)
第28巻 p.436 ページ画像

時事新報  第一五四七号 明治二〇年三月二八日
    献金者に位階を賜ふの説
今度海防費として御手許より金三十万円を下賜になりたるに就ては、在朝の人人は勿論、民間の有志者も聖意の在る所ろを体して続々献金をなさんとするものもあることならんが、聞くところによれば其筋にてはかゝる献金ある場合には民間のものにはその賞として在来の如く金銀盃を下賜することを止め、更に位階を賜はるべきやの評議もあるよしなるが、其の説に拠れば、我国にては欧米諸国の如く社会の交際に金銭の勢力甚だ微弱にして、千百万円の財産家も判任官の下席に就かざるを得ずと申すが如き次第にて、官吏と云へば等外吏にても貴く人民と云へば如何なる財産家にても世に賤めらるゝ一種の習慣ありて社会の交際上に不都合なるのみならず、自から金銭を卑視するの悪弊あれば、此悪習を除く為めには財産家に叙位の事ありては如何との議は兼てよりありたる事なるが、さるにても従来の習慣とし、別に国家に功労もなきものに位階を賜はるも不都合なれば、幸ひ今度の如き時を機会として、財産家へは今後其献金の額に応じて位階を賜はる事となし、例へば幾千円以上のものには従六位を賜はり、奏任官の取扱になし、幾万円以上のものには正五位を賜はりて、勅任官の取扱になすなどの都合なりと云へるが、果して真なるや



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第六巻・第四六九頁 昭和一〇年一〇月刊(DK280058k-0007)
第28巻 p.436-437 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第六巻・第四六九頁 昭和一〇年一〇月刊
 - 第28巻 p.437 -ページ画像 
    黄綬褒章=臨時制定
〔五・二四 ○明治二〇年官報〕 勅令第十六号〔明治二十年五月二十三日〕
第一条 私財ヲ献納シ、防海ノ事業ヲ賛成スルモノニ授与スル為メ黄綬褒章ヲ制定シ、分テ金章・銀章ノ二種トス
第二条 黄綬褒章ヲ佩用シ、又ハ没収スルノ事項ハ、明治十四年(十二月)第六十三号褒章条例ニ拠ル。
第三条 黄綬褒章ノ図式左ノ如シ
 章 金及銀、円形表面ニ菊ノ徽章ノ二字、大砲ノ図、裏面ニ賛成防海事業ノ六字ヲ鋳出ス
 綬 橙黄色。                   〔下略〕


〔参考〕伯爵大隈重信撰 開国五十年史 副島八十六編 上巻・第三〇二―三〇六頁 明治四〇年一二月刊 【海軍史 伯爵 山本権兵衛】(DK280058k-0008)
第28巻 p.437-438 ページ画像

伯爵大隈重信撰
開国五十年史 副島八十六編  上巻・第三〇二―三〇六頁 明治四〇年一二月刊
    海軍史            伯爵 山本権兵衛
○上略
 明治六年(一千八百七十三年)一月天皇陛下親臨あらせられ、海軍始の式を挙行す。八年十月沿海を東西二部の海軍区に分ちて艦船を配属し東京湾・長崎港を以て各部の常泊所と定む。九年(一千八百七十六年)八月鎮守府の制度を定め、九月東海鎮守府を横浜に設置せり。
 是より先き明治元年には函館の役あり、七年には佐賀の乱あり、尋いで台湾征討の役あり、八年には朝鮮江華島の事あり、九年には萩の乱あり、十年に至り西南の役あり、我海軍は此等の事変に由り、一大教訓を得て、益々製艦の忽諸に附すべからざるを覚れり。製艦の事は幕府夙に計画する所あり、石川島に造船所を設け、慶応二年既に軍艦千代田形(一三八噸)を建造せり、是を内国にて蒸汽軍艦を製造したる祖となす。維新の後政府は該造船所の事業を継続し、旧幕府にて其基礎を置きたりし横須賀造船所も漸次に作業を発達し、明治六年には御召艦迅鯨(一四五〇噸)及び軍艦清輝(八九七噸)の工を起し、前者は九年、後者は八年を以て進水したり。製艦技術は漸次に進歩を示し、明治九年四月に至りては艦船の大修理及び其製造等一切の事業は主として本邦人の手に依り、之を能くすることを得るに至れり。此の如くにして内地製造所の拡張を図ると与に、外国に於て新艦を建造するの案を立て、明治八年甲鉄艦一隻・鉄骨木皮艦二隻の製造を英国造船会社に命じ、十一年(一千八百七十八年)に至り、何れも竣成来著せり、扶桑(三七一七噸)、金剛・比叡(各二二四八噸)の三艦即ち是れなり。同年一月軍艦清輝を欧洲に回航せしむ、是れ内国建造の軍艦を以て遠洋航海を為しゝ最初の経験なり。此外砲術・水雷術の研究、火薬の製造、水路事業の経営等は、尽く此期間に於て施設せられたり。
 明治十五年(一千八百八十二年)大艦六隻、中小艦各十二隻・水雷砲艦十二隻を製造するの議あり十六・十七・十八年度(一千八百八十三年―五年)に於て、逐次大艦三隻・中艦五隻・小艦三隻及び航洋水雷艇一隻を建造せり。明治十九年(一千八百八十六年)海軍公債を起し、一・二等海防艦六隻、一等甲鉄艦一隻、海岸用甲鉄艦一隻、一・二・三等巡洋艦四隻、一・二等報知艦六隻、一・二等砲艦八隻、一・二等水雷艇二十八隻、合計五十四隻を新造するの計画を立て、十六年
 - 第28巻 p.438 -ページ画像 
度(一千八百八十三年)より二十一年度(一千八百八十八年)に至る間に於て竣成し、若くは着手したる軍艦二十隻に上り、二十二年には巡洋艦・砲艦各一隻、水雷艇三隻を加へ、更に軍艦三隻を増加せり。二十五年(一千八百九十二年)新に造艦計画を立てたり。時に製艦奨励の勅諭煥発せられ、宮廷の費を節し、向ふ六個年毎年内帑三十万円を賜はり、製艦費を補ふとの優詔を賜ふ、国民感激亦競うて資を献じ海防を張らむことを期せり。
○中略
 此間明治十五年及び十七年に於て両回朝鮮の変あり、二十七・八年(一千八百九十四・五年)の日清戦役あり、朝鮮の変に際しては、我海軍は僅に数隻の艦船を派遣したるに過ぎざりしと雖、日清戦役に於ては我全海軍を動かして交戦の事に従ひ、此戦役は帝国海軍の試金石たりしの観あり。当時に於ける帝国海軍は二十八隻(装帆艦を除く)排水噸数五万七千六百余噸、水雷艇二十四隻なりき。
○下略



〔参考〕日本軍事発達史 伊豆公夫松下芳男著 第二四六―二四八頁 昭和一三年五月刊(DK280058k-0009)
第28巻 p.438-439 ページ画像

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