デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

7章 軍事関係事業
1節 日清戦争
2款 報国会
■綱文

第28巻 p.440-449(DK280059k) ページ画像

明治27年8月1日(1894年)

是年七月二十五日、清国ト戦端開カル。栄一、三井八郎右衛門・岩崎久弥・福沢諭吉・東久世通禧ト共ニ軍費ヲ献ゼンコトヲ謀リ、是日報国会ヲ創立ス。後内閣総理大臣伯爵伊藤博文ノ議ニヨリ、同年九月之ヲ解散ス。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第六八一―六八五頁 明治三三年六月再刊版(DK280059k-0001)
第28巻 p.440-441 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第六八一―六八五頁 明治三三年六月再刊版
 ○第五十八章 公益及公共事業
    第十八節 報国会
報国会ハ、明治二十七年清国ニ対シ宣戦ノ詔勅公布後青淵先生等有志者ノ発起セルモノニシテ、其目的ハ全国ノ人心ヲ鼓舞シ、大ニ寄付金ヲ募集シ軍資ノ内ニ加ヘントスルニアリ、其趣旨並規約ハ左ノ如シ
 宣戦ノ詔勅此ニ発シ日清ノ間兵刃既ニ接ル、帝国臣民タルモノ豈其勇武以テ軍務ニ当リ、勤倹以テ軍資ヲ継キ、我大日本帝国ノ権利ヲ保全セサル可ケンヤ、今ヤ軍人ハ外ニ在リテ櫛風浴雨ノ労ニ服シ頻ニ其武ヲ揚ク、内ニ在ルノ臣民亦業ヲ励ミ、用ヲ節シ、以テ軍資ヲ豊ニシ兵気ヲシテ強盛ナラシメサル可ラス、政府ハ此ノ忠君愛国ノ至誠ニ訴ヘ軍事公債ノ募集アリ、苟クモ資産アルモノハ奮テ其募ニ応スヘキハ論ヲ俟スト雖モ、又各自用度ヲ節省シ応分ノ資財ヲ義捐シ、以テ軍資ニ供給スルハ国民ノ衷情時ニ処シテ止ム能ハサルノ挙ナリト信ス、因テ報国会ナル者ヲ設立シ、広ク軍資ニ供給スル義金ヲ募リ、他ノ美挙ト相俟テ臣民殉国ノ精神ヲ貫徹センコトヲ欲ス、願クハ四千万ノ同胞奮テ此ノ挙ヲ賛成セラレンコトヲ謹テ告ク
      報国会規程
 一本会ハ報国会ト称シ、仮ニ其事務所ヲ東京日本橋区坂本町銀行集会所内ニ置ク
 一本会ハ日清ノ交戦ニ際シ帝国ノ軍資ニ供スル義捐金ヲ募集スルヲ以テ目的トス
 一本会ノ設立ヲ賛成スル者ヲ会員トシ、会費ハ時々ノ須要ニ応シテ会員ヨリ別ニ醵出シテ之ヲ支弁ス
 一義捐金ノ募集ニ応セントスルモノハ、下ニ列載スル処ノ各銀行ノ内ヘ便宜入金セラルヘシ
 一義捐金ヲナシタル者ノ姓名及金額ハ、時々新聞紙ヘ公告シ、終結ノ上ハ新聞紙其他ノ方法ヲ以テ其顛末ヲ報告スヘシ
 一会員中ヨリ委員三十名ヲ選挙シ、本会一切ノ事務ヲ委任シ、委員中ヨリ更ニ専務委員七名ヲ互選シ、本会ノ事務ヲ処弁ス
 一専務委員ハ書記其他ノ委員ヲ任用シテ本会ノ常務ヲ処弁シ、重要ノ事務ハ委員会ノ決議ヲ経テ之ヲ執行ス
 - 第28巻 p.441 -ページ画像 
   但シ時宜ニヨリ会員ノ総会ヲ開クコトアルヘシ
 一委員ニ欠員アルトキハ、委員会ニ於テ会員中ヨリ之ヲ選挙シ、専務委員ニ欠員アルトキハ、委員会ニ於テ委員中ヨリ之ヲ選挙ス
 一本会委員ノ任期及在続ノ期限ハ予メ之ヲ定メス、会員ノ総会ニ計リ委員ヲ改選シ、又ハ本会ヲ解散スルモノトス
 一本会義捐金終結ノ上ハ、其人名金額ヲ簿冊ニ特書シ遊就館ニ納付シ、以テ永遠ノ紀念ニ供スヘシ
  明治二十七年八月
                 報国会専務委員
                      東久世通禧
                      福沢諭吉
                      渋沢栄一
                      渡辺洪基
                      岩崎久弥
                      三井八郎右衛門
                      園田孝吉
当時政府ハ此ノ義挙ヲ喜ヒタルモ、一方ニ於テ軍事公債ヲ発行ノ挙アリ、自然献金論ノ為メ公債応募者ヲ減少スルノ虞ナキニアラス、寧ロ献金ハ人民ノ任意トシ、勧誘ヲ試ムルヲ止メ、力ヲ公債ノ応募ニ集注スルニ若カストノ説アリ、伯爵松方正義ハ当時内閣ニ在ラサルモ、最モ熱心ニ此ノ説ヲ主張セリ、先生等其説ヲ理アリトシ、報国会ハ終ニ解散ニ決シ、同会発起ノ有志者ハ互ニ公債ノ募集ニ尽力スヘキコトヲ約シテ散シタリ
報国会ハ解散シタルモ、先生ハ当初ノ素志ニヨリ一族ヲ誘勧シテ三千余円ヲ恤兵ノ為メ献金セリ


青淵先生公私履歴台帳(DK280059k-0002)
第28巻 p.441 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴(明治二十五年以後)
明治二十七年
一報国会ヲ設立シ、尋テ軍事公債ノ募集ニ尽力セリ
  本年清国ニ対シ宣戦ノ詔勅公布アリタルニ際シ、全国ノ人心ヲ皷舞シ、大ニ寄付金ヲ募集シ軍資ノ内ニ加ヘンコトヲ図リ、有力者ト協リ本会ヲ設立セシモ、恰モ政府ニ於テ軍事公債発行ノ挙アリ事ノ重複スルカ為ニ、双方ニ好結果ヲ見サルトキハ得策ニ非ルヲ以テ、本会ヲ解散シテ、公債募集ニ尽力セリ


青淵先生公私履歴台帳(DK280059k-0003)
第28巻 p.441 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳           (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
明治三十年六月一日 明治二十七・八年戦役ノ際、報国ノ旨意ヲ以テ軍資ノ内ヘ金千円ヲ献納シ、及従軍者家族扶助トシテ金百九十四円寄附候段、奇特ニ候条、為其賞銀盃一個下賜候事       賞勲局
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福沢諭吉伝 石河幹明著 第三巻・第七一八―七二九頁 昭和七年四月刊(DK280059k-0004)
第28巻 p.442-445 ページ画像

福沢諭吉伝 石河幹明著  第三巻・第七一八―七二九頁 昭和七年四月刊
 ○第三十八編 日清戦争
    第六 日清開戦と先生の活躍
            軍費醵集の発起
○上略
 元来先生 ○福沢諭吉は世間に行はるゝ寄附醵金等の如きものには一切取合はれず、現に先年の海防費献金の如き、自からこれに反対したるのみか、友人等にも勧めて反対せしめたほどであつた。然るに今回は右の軍費醵出論を発表せらるゝと同時に、率先発起して世間の有志者を勧誘し、大に資金を醵出せしむる運動に着手せられ、三井八郎右衛門岩崎久弥・渋沢栄一・東久世通禧の四人と共に発起人に名を連ねて、都下の華族富豪を始め各有志者に左の案内状を発せられた。
 拝啓仕候。今回の朝鮮事件も危機日に相迫り、既に牙山近海に於て日清両国海軍の間に開戦の報知さへ有之候。就ては此時機に際し、我々国民の義務として軍資醵集の手配り肝要の事と存奉候に付き、其辺の事共篤と御相談仕度、炎暑の折柄御苦労千万に奉存候得共、何卒御繰合の上、来る八月一日午後正四時、日本橋区坂本町銀行集会所に御来臨被成下候様仕度候。右御案内申上度如此に御座候。
                            頓首
  明治二十七年七月三十日
             三井八郎右衛門  岩崎久弥
             渋沢栄一     福沢諭吉
             東久世通禧
かくて案内に応じて銀行集会所に来会した京浜間の有力者百余名に対し、先生は発起人総代として左の趣旨を演説せられた。
○中略
   ○演説ハ後掲時事新報ニアリ。
次に渋沢栄一は醵集の方法等を述べ、来会者の賛否を質したるに、満場大賛成の意を表し、総ての事柄は一切発起人に委任することになつた。而していよいよ軍費醵集に着手する上は、一般に適切なる名称を附せねばなるまいとて、東久世通禧の発議にて報国会と名づけ、尚ほ委員若干名は発起人より指名することゝなり、差当り左の人々が指名せられた。
 三浦安    渡辺洪基   大江卓     米倉一平
 荘田平五郎  阿部泰蔵   安田善次郎   中上川彦次郎
 奥三郎兵衛  雨宮敬次郎  堀越角次郎   柿沼谷蔵
 大倉喜八郎  園田孝吉   森村市左衛門  西村捨三
 杉村甚兵衛  前島密    菊池長四郎   渡辺治右衛門
 左右田金作  原六郎    原善三郎    渡辺福三郎
 茂木惣兵衛
此日は恰も宣戦の詔勅発布の当日であつて、此軍費醵出の趣旨は、有志者の醵金を以て戦費を一時に償却するため、国民の愛国心に訴へて数千万円の資金を集めんとするの計画であつたが、一方政府に於て軍
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事公債を募集するの議に決したので、報国会は左の如き趣意書を発表することゝなつた。
    趣意書 ○略ス
然るに政府が軍事公債の募集を発表するや、報国会に加入した人々も公債募集の事がある上は私金を醵出する必要はなからうとて、同会解散の説を唱ふるに至つた。其時先生は、今回の大戦争に莫大の費用を要するは勿論にして、政府が公債募集の挙に出でたのは目下の急に応ずる臨機の処置として敢て異論なきも、報国会は始めから官辺に縁なく、たゞ国民の愛国心に訴へ大に義金を醵出して軍費に供せんとする目的を以てしたものである、政府の都合により或は臨時借入金をするなり又は公債を募集するなり、其辺の事は報国会の性質に於て与り知るべき限りでない、故に其会員中の富豪家が公債募集の相談に与るのは自から商売上のことにして、利子の割合、募集の方法等に就てそれこれと内談するは当然なれども、義金の醵集最中に公債談の発したゝめ、醵集のことを立消にするとは解することが出来ない、恰も宮寺に寄進の相談正に熟し、信者は身分相応大に奮発して勧化帳に記名せんとする折柄、其宮寺の執事が有利無尽講の議案を持出したので、勧化帳をば棚に上げ無尽講の方に取掛るやうなものである、最初報国会に加入した富豪・大家は、軍事公債の一挙のために私金醵集の初一念を断絶すべきではなからうと論ぜられたが、会員中には義金の醵出を公債の応募に振替へようとする者が多いので、報国会の委員は同九月を以て、左の如く同会の解散を議決するに至つた。
 我報国会創立の趣旨は、全国一般に謀り大に軍資を醵集せんとするにありしを、爾後政府に於て軍事公債を募集するの事あり、苟も資力ある者は挙つて之に応ずべき時に際し、強て本会の趣旨を貫徹せんと欲せば、勢ひ其力を分つの嫌なき能はず、況や政府は軍資金をも直に其筋へ収受せらるゝとの訓示ありたる趣なるに付ては、此際本会を解散せんとす。
かゝる次第で軍費醵集の計画は中止となつたけれども、開戦匆々国民の愛国心に訴へて大に私金を醵出し一時に軍費を償却すべしと率先その事を発起せられた一事は、先生が此戦争に対して愛国の熱情自から抑へ難く、言論文章以外に大に活躍せられた精神を見るべきである。此事に付、報国会発起の一人なる渋沢栄一は次の如く語つた。
 回顧すれば明治二十七年日清戦争が起つた時、福沢先生が出征軍隊の後援に就て心配せられたことは一ト通りではなかつた。当時政府に於ては軍費支弁の為に軍事公債を募集することになつたが、其少し前の事であつた、福沢先生は戦争は此日本の国運の由つて以て分るゝところ所謂危急存亡の秋であるから、国民挙つて出征軍隊の後援をしなければならぬと考へられ、私一人だけであつたか、其外に参加した人があつたか、今は確に覚えませぬが、是非会見したいと云ふ御申聞で、御宅へ罷出でました。其時先生の申さるゝには、此度の戦争は国家の存亡、国運の消長の分るゝ所である、国民として是非此戦には勝たせにやアならぬ、勝たせるには挙国一致の力を以て飽迄後援をしなければならぬ、局に当る政治家は政治家として既
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に国会も開けて居ることであるから相当の力を致さるゝであらうけれども、従来日本国民は因襲的習慣として殊に対外の事に就ては理解も乏しく、喙を容れることも亦兎角遠慮勝ちである、或点には夫れも善いかも知れぬが、今日の如き危急存亡の場合に於ては、ソンナ事では此大戦争に勝たせる訳には行かぬ、何としても此戦に勝たせるには、日本の国民は老幼男女を挙げ全力を尽して其後援を為すものであると云ふ誠意を知らしむる必要がある、之を知らしむる手段としては国民銘々の覚悟が第一であるけれども、これを外に現はして何人にも其覚悟の程を感知せしむるやうにするには軍資金を募集するに若くはない、即ち大に義金を醵出して我々国民は此戦争は完全に凱歌を奏せしめねばならぬ、故に斯の如く後援するものであると云ふ趣意を以て大に義金を醵集し、政府軍人に対する後援をするのはドウであらうかと云ふ御相談であつた。至極御尤もな御考であるので私共は大賛成を表し、夫れ夫れ斡旋して、銀行家・実業家等の重立つた人々百人ばかりを銀行集会所に寄つて貰ひ、其席上で福沢先生が発起の趣意を演説せられ、私も其意味を敷衍して相談したのであつた。其後数回集会して、三井銀行の二階でも相談をしたやうに覚えて居る。
 福沢先生の御考は右の通りで、私も其趣意に賛成して、出来るだけ巨額の金を寄せようと云ふ目論見であつた。夫れには三井・三菱が率先して相当の金を出して貰はぬと、後の金を寄せるに関係があるといふ事であつたが、其頃は今とは違つて千円の金を出すにも中々困難な時代で、一万円に至つては大金であつた。其時福沢先生は私は金持でないが、国家非常の場合に際しては非常の決心をしなければならぬ、着物一枚薄く着ても自分は一万円出すといはれた事を覚えて居る。私も先生と同論で、矢張り着物一枚薄く着ても身分相応の義金を出す覚悟であつた。そしてだんだん相談をしたけれども、富豪の連中に兎角尻込みするものが多いので、私共は大変弱つた。これ丈けの人々が揃つてゐて金が容易に集まらないとは余りに意気地がないと云つて、先生に叱られた。ドウかして纏めたいと思つて彼此れ心配して居る中に、其事を総理大臣の伊藤さんが聞込まれて私に来て呉れといふので行きましたところ、斯う斯う云ふことを聞いたが、一体ドンナ形勢であるかとのお尋である。実は福沢先生から斯う云ふ話があり、私も至極尤もと思つたから、相談の上出来るだけ巨額の金を集めようと云つて、銀行者其他に向つて頻に勧誘中であるけれども、未だ思ふやうに集らぬ、併し今度の戦争は帝国の運命に関する戦争であるから、国民として充分の後援をせねばならぬ、夫れには口先許りではいかぬ、相応の義金を集めて一般国民の誠意を表せねばならぬと云ふ意味で、福沢先生と共に折角尽力中であると云つて、其顛末を詳しくお話した。所が伊藤さんの言はるゝには其話は予て承知して居る、此場合国家に尽さるゝ御精神は誠に感激に堪へないけれども、併し其金が思ふやうに寄らぬと云ふと却て気勢を損する虞れがある、福沢先生や君が如何に率先努力しても思ふ通りの金が寄らない場合もあるかも知れぬから、政府に於ては
 - 第28巻 p.445 -ページ画像 
此際寧ろ五千万円の軍事公債を募るが宜からうと云ふことに略ぼ決したが、夫れはドウ云ふものかと云ふ相談であつた。私はこれに対し、寄附金は幾ら集まるか分らないが、利付の公債ならば五千万円位は出来るだらうと答へた。すると伊藤さんは、其れならば一つ福沢先生にもさう言つて、寄附金の醵出を公債の方に振替へて呉れぬか、公債募集が速に出来れば夫れが立派な後援になる、有志の人々が報国の為めに寄附金を集めるのは感謝に堪へないが、後援の目的を達するのは同一であるから、どうかその方法を公債の方に振替へて貰ひたいといはれたので、夫れなら御意見通り尽力しませうと云つて、福沢先生に此御話を申上げ、夫れから銀行者仲間にも相談をした結果、五千万円の公債募集となつた次第であります。
 それで福沢先生の御趣意の義金醵出のことは成効せられなんだけれども、それが公債募集の先駆を為したもので、極めて適切な御考であつたといつて、私共は福沢先生に御礼を申して共に喜んだ次第でありました。寄附の方はドウ云ふ結末になつたか能く覚えて居らぬが、先生は率先して一万円の金を出されて、寄附金も募集せられたように覚えて居ります。それから余談に渉るが、初めて福沢先生にお目に掛つたのは明治三年、私が大蔵省の役人をしてゐた頃、従来の度量衡の制度が甚だ不完全なのでこれを改正することになつたが欧米に於ける度量衡制度の沿革を知らないので、洋学者の大家たる福沢先生に聞かうといふことになり、新銭座の御宅に訪問したところが、先生は役人が私の所へそんな事を聞に来るとは詰らぬ話ではないかといはれたが、段々私の説明を聞かれて尤もだと首肯かれ、一つ調べて見ようといつて間もなく制度の沿革その他の事を委しく書いた意見書を戴いたことがある。其後に一・二度お目に掛つたが明治十二年初めて府県会の開けたとき、私は時の東京府知事楠本から府会議員になれと頻りに勧められたが、元来商工業者として民間で仕事をする考で、明治六年に官を辞して第一銀行を創立してから一生政治の事には携はるまいと決心してゐたから、これを断つた。当時福沢先生も楠本に勧められて府会に出られた。固より御自身に御存知がなかつたでしようが、議長の選挙に福地源一郎と競争の形となつた。其時には私は福地と別懇の間柄であつたので、福地の方に肩を入れた一人であつたやうな次第で、先生とは余り御懇意でなかつた。然るに日清戦争の際膝を交えて親しく御説を伺つて見ると福沢先生といふ方は、国家観念の熾烈なる人格者である、決して学究的の御人ではないと深く敬服して、其人となりを徹底的に理解した。先生も亦、渋沢は唯銭儲けをして金持になることだけを目的としてゐるものでない、兎に角に公共的商売人の一人であると、理解して下さつたと感じた。或時現にそういふ御話を承つたこともあつた。要するに境遇の異なつたために昵懇ではなかつたが、日清戦争当時の会見に於て互に其心事を理解するやうになつたのである。


竜門雑誌 第三五三号・第七二―七三頁 大正六年一〇月二五日 ◎福沢先生及び独立自尊論(青淵先生)(DK280059k-0005)
第28巻 p.445-446 ページ画像

竜門雑誌  第三五三号・第七二―七三頁 大正六年一〇月二五日
    ◎福沢先生及び独立自尊論 (青淵先生)
 - 第28巻 p.446 -ページ画像 
○上略
    △福沢翁と余の協力一致
 斯くの如く幾多の宇余曲折はあつても、結局先生は余に取つて畏敬すべき人物であつたに違ひない。併し乍ら、何を申すも、先生と余とは根本の素養が違ひ、また立場が異ふので、余は何時も先生に敬意を払ふのみで過した。即ち、先生は純粋の西洋学派であるし、余は然らず、先生は学者であるが、余は実業家であると云ふ風に、先生と余とは始終懸け離れた生活をして来たのである。
 然るに、その後明治二十七年の日清戦争の時に方つて、余は大に先生と親しくする機会を生じた。即ち、彼の大変事に際会したので、余等国民は挙つて国の為めに奮励努力する所なかるべからずと云ふのが原で、こゝに福沢先生と余とは率先国民の精神を鼓舞し、出征者を後援する計劃を申合せたのである、その結果、渋沢は主として実業家の間を遊説し、これを口にて説得すべしと云ふことにし、福沢先生は時事新報に拠つて大に筆の力を揮つて国民の精神を振起せようと云ふ約条を致したのである。斯くして両人は相合して出来る丈けの金を作つて、一つには戦費の補助を為し、一つには戦病死傷者を慰問、若しくは弔問する計劃を立てたのである。斯くて口の人としての余と、筆の人としての福沢先生と相俟つて、先づ百万円の寄附金を募ることに着手した。
 所が、この計劃は、未だ実行に移らざる中に時の総理大臣伊藤公の知る所となり、公から改めて一事を依頼された。それは百万円の寄附金は要らぬ、その代り公債を募集して貰ひ度い、この方は寄附でなく政府の負債になるのだから、無論応募者には相当の利子を附して返済する故、五千万円の公債を募つて呉れと云ふことであつた。即ち、伊藤公は百万円位の寄附金では到底間に合はぬから、公債として五千万円を募り度い、それには是非銀行家と新聞社との協力賛助を仰ぎ度いのであるとの意味を懇々諭された。これに依つて、先生と余とは俄かに慰問的の寄附金募集は止めて、五千万円の公債募集に力めたのである。ところが、幸ひに諸方の賛助を得、東京市丈で五千万円の半額以上は契約が出来、尚ほ全国各地にも遊説して効を奏した。この時は、余も及ばず乍ら大に努力し、先生の筆の力と相俟つて聊か功を成した積りである。
 此の公債募集は、翌二十八年にもう一回行はれた事である。併しこの第二回の時には、余は病気(二十七年冬から二十八年春迄)で起たれなかつた為め、自ら運動し奔走するわけにも行かず、自分としても僅かに第一銀行をして之に応ぜしめたに止まつた。この時には、福沢先生は殆んど独力を以て東奔西走され、亦筆を縦横に揮つて、第二回公債の成功を計られたので、余は従前の行き懸り上特に之を感佩した次第である。
○下略


雨夜譚会談話筆記 上・第一六八―一七二頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK280059k-0006)
第28巻 p.446-448 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  上・第一六八―一七二頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
                     (渋沢子爵家所蔵)
 - 第28巻 p.447 -ページ画像 
  第八回 昭和弐年六月十五日午後四時 於飛鳥山邸
白石「報国会に就てのお話を御願ひ致したいと存じます」(予備調べを読む)
先生「其の文章は少しく事実と違つて居るやうである。それは主として福沢諭吉氏の主唱したもので、私達も共々心配し相談したのである。何分日清戦争は大国支那を相手として戦争をするのであるから我が国民は挙げて負けてはならぬと云ふ強い観念を持ち、熱狂して居たのであるが、太田正孝氏の所謂「町人諭吉」は、我が軍人を援けると云ふ意味で、軍費よりも、出征して居る兵士の家族に対し慰労的後援をし、気勢を添へたいと熱心に主張し、其の費用として寄附を求め約百万円の金をつくりたいと云ふて居た。今日の百万円は大した金高ではないが、価値が相異して居るので、当時としては相当な金額であつたのである。そして何でも三井に三十万円出せと云つたと思ふが、当時の三井・三菱は多少、懸隔があつたので、二軒が同額ではなかつたやうに記憶する。又当時の十五銀行は華族の株主を持ち中々有力で、かなり巨額を寄附する筈であつた。又福沢も之を主唱したのみでなく「私は金持ではないが一万円出す」とて、私に「貴方にも同額位は出して欲しい」と勧誘された。それで主な人々は坂本町にあつた銀行集会所へ三・四度も寄つて色々相談協議した。それに力を入れた人々は、福沢諭吉・山本直成、此人は十五銀行の重な役員であつた。其他の重な人々には、池田茂政・浅野長勲・柏村信・北川亥之作の諸氏があつた。又今はどうして居るか知らぬが、伊藤欽亮氏が力を入れて事務所のやうにして居た、銀行集会所へ来て頻りに世話をして居たのをよく憶ヘて居る。どう云ふ都合であつたか此事を伊藤(博文)さんが聞いて、私と今一人誰であつたか確でないが、福沢ではなかつた様に思ふが、其人とを官舎に呼んで「有力な諸君の報国会の企ては、政治家も軍人も嬉しいと思つて居るが、寄附で百万円集るか甚だ心もとない、思ふやうに行かぬと困るだらう、又政府も資金を只で貰つたのでは、その金をどうするか仕末に困る訳である。それよりも恰度政府で公債を募ることにしてあるからそれに応ずることにしてくれないか、さうすれば金を只で寄附したと云ふのではなく、少くはあるが利子も取れる、利子の割合は第二として、大いに尽力してやつて欲しいものである。公債募集に差支へても面白くないから」と切に云はれた。私も尤もと思つたので「公債はいくら募集しますか」と聞くと「五千万円募集したい」とのことであつたので引受けた。兎に角斯うして報国会の企ては、公債応募となり、此五千万円の内二千五百万円か三千万円確か三千万円となつたと思ふが、東京でと云ふよりは東京の銀行仲間で主として引受けた。中にも十五銀行の如き一手で八百万円を引受けた。第一銀行は三百万円位であつたと思ふ、其他十万・十五万と応募して三千万円に達し、大阪で一千万円、其他で一千万円、都合五千万円に達したのである。之れが報国会の成立ちから結局までのお話であるが、最初は福沢さんが主唱して私に賛同を求めたので後々まで報国会と云ふ名称を継続したと云ふ訳ではなかつた」
 - 第28巻 p.448 -ページ画像 
○下略
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢敬三・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫。



〔参考〕時事新報 第四〇三八号 明治二七年八月三日 ○軍資醵集会(DK280059k-0007)
第28巻 p.448-449 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。