デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

7章 軍事関係事業
3節 日露戦役
3款 国民後援会
■綱文

第28巻 p.477-485(DK280069k) ページ画像

明治38年3月15日(1905年)

是日午後六時ヨリ歌舞伎座ニ於テ、当会主催大演説会開カル。栄一出席シ「戦争ト経済」ト題シ一場ノ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三八年(DK280069k-0001)
第28巻 p.478 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
三月十五日 曇 風ナシ
○上略
午後九時歌舞伎座ニ抵リ、国民後援会ノ演説会ニ出席シ一場ノ演説ヲ為ス、夜十一時王子ニ帰宿ス


東京日々新聞 第一〇一二七号 明治三八年三月一七日 国民後援会大演説会(DK280069k-0002)
第28巻 p.478 ページ画像

東京日々新聞  第一〇一二七号 明治三八年三月一七日
○国民後援会大演説会 既報の如く一昨日午後六時より歌舞伎座に於て開けり
 第一席 大岡育造氏は、開会の辞に続て邦人の経済的才能を論じて其の奮励を促し△黒岩周六氏は、今回の戦争は国民の戦なり財力の戦なりと論じ△宮川鉄次郎氏は、第四回の国庫債券募集は我国力の綽々余裕あるを示し、敵を屈伏せしむる好時機なりと述べ△渋沢栄一男は、戦争は必ずしも経済を妨害するものに非ず、戦後渤発せる国多く、堂々王者の師を起したる後には必ず国運発達す、今の資本家大に軍費を供給し其戦勝の効果に依りて更に富を収めんことを期し、此際大に国債に応募して開戦の目的を達するに努むべく、且実業家の発達比較的遅々たる所以のものは、軍人は至誠以て貫くの精神に富めるに在り、故に我実業家も亦此の精神を養成すること肝要なりと論じ△添田寿一氏は、露都紛乱の情況を説き、露国は人道の敵文明の敵なり、我国民は彼に止めを刺すの決心を要するが故に、今回の国債応募高を十数倍せしむるは彼を屈せしむるの捷径なりと論じ△島田三郎氏は、戦局の前途より国民の覚悟を述べ、後援の必要一層必要なることを論ぜり
当夜の聴衆は無慮三千余名に達し、定刻前既に場内立錐の地を余さず遂に入場を謝絶するの止なきに至り、近来の盛会なりき


竜門雑誌 第二〇二号・第三四頁 明治三八年三月 ○国民後援会に於ける青淵先生の演説(DK280069k-0003)
第28巻 p.478 ページ画像

竜門雑誌  第二〇二号・第三四頁 明治三八年三月
○国民後援会に於ける青淵先生の演説 国民後援会に於ては、去る十五日木挽町歌舞伎座に於て大演説会を開きたるが、青淵先生にも出席せられ、戦争と経済と題し、左の意味の演説を為されたり
○下略


竜門雑誌 第二〇四号・第一―九頁 明治三八年五月 ○戦争と経済(DK280069k-0004)
第28巻 p.478-485 ページ画像

竜門雑誌  第二〇四号・第一―九頁 明治三八年五月
    ○戦争と経済
 本編は青淵先生が三月十五日国民後援会席上に於て演述せられたるものに係り、其概要は既に前号に掲けたるも、今改めて全文を掲載せり
 演説は誠に素人でございまして、飛入に此処へ這入りましたのでございます、今晩の演説会に拠ろなく駆出されたやうな次第で、斯る檜舞台で一度も演説など致したことはございませぬから、或は言論が諸君の御耳に通るまでに出来得ないかと虞れますけれども、責を尽すの一端と心得て、敢て参場致した次第でございます、川柳に「河東節、親類ゆゑに二段聴き」と云ふことがあります、此御席には親類はたん
 - 第28巻 p.479 -ページ画像 
と無いかも知れませぬが、二段は決してやりませぬ、一段で止めますからどうぞ御辛抱の程を願ひます
私が此席で申上げたいと考へたのは「戦争と経済」といふ演題であります、大層漠然たる問題でございまして、或は学者でも演じさうなことです、斯る問題を掲出して何を申上げて宜いやら、自分自からもまだ方向に迷つて居るやうな次第であります、甚だ御迷惑に御感じだらうと頗る恐縮致します(ノーノー)、諺に金持と疝気持と地面持とはあたり近所に事なかれと願つて居るといふが、私は其経験は持ちませぬ(ノーノー)、個人としては金を持ちませぬけれども、職業が銀行屋の老爺でございますから、先つ金持と御看做を願はなければならぬ、左様に金持が、あたり近所に事なかれ、丁度取りも直さず戦争と経済が頗る相敵して居るものゝ如く思ふは、如何なものであらうかと玆に一つの疑問を起したのでございます(謹聴)、如何にも能く考へて見ますると、戦争と云ふものは国家の富力を増すには大に妨害を為すのである、なぜならば先つ第一に人を殺す、又其人を殺す道具はどう云ふものを用ゆるかと云ふと、昔は刀・槍・薙刀・弓矢、近頃は鉄砲・大砲或は爆烈弾抔と、いろいろなもので人を殺す、此殺す道具を造るのも総て生産的のものではなく、悉く不生産的のものである、其結果国に於ては公債も募り租税も増し、ありとあらゆる軍費を徴収して、さうして人を殺す道具を頻りに造り、且つ送ることをするから、成程此戦争と云ふものは経済とは大変に敵薬であると解釈するも無理ならぬやうに思ひます、私は学問が古風であるから欧羅巴の事抔は甚だ疎い人間である、欧羅巴の事に疎いから東洋の事は詳かであるかと云ふと矢張同じであります(大笑)、けれども極く荒増なる歴史を見ましても、兵を嗜み武を黷すと云ふことは、総て国家をして衰頽に陥らしめたと云ふ実例は、海の東西に拘らず、国の古今に限らずして甚だ多い、故に此の戦争は経済に対して大敵薬だと、或る金持が解釈して、終に其諺が始終伝つて居ると云ふことは、甚だ尤と言はねばならぬのです、独り日本の昔の金持がさういふ解釈をしたばかりではない、極く近頃現在我国の対手国なる露西亜にブルツポと云ふ学者がありまして、果して立派な学者であるか、若くはさまではないか知りませぬが、過般民友社で刊行になりました現時の戦争と経済と云ふ書物を読んで見ましたが、此ブルツポの論するところで見ると、現時の戦争は果して経済が維持出来ぬところの戦争であると云ふことを述べてある
而して此ブルツポといふ人は大戦術家と見えまして、陸海の戦争に付て余程詳密に取調べた議論が掲げてありました、して見ると日本の古風な金持ばかりが戦争が嫌ひでなくて、余り極く文明とは称せられぬか知らぬが、相当なる学力のある露西亜の学者と称する人も、尚戦争と経済とは頗る敵薬と論断してございます、而し私が更に考一考しますると、前の日本の金持の判断も、後の露国のブルツポの考も、其一を知つて其二を知らぬ説である、戦争と云ふものは経済と左様に敵薬ではない、否な敵薬でないのみならず、国の進歩は戦争に依つて大に勃興するものであると云ふことを言はねばならぬ(喝采)、是も古い歴史を長く述べ立てますと甚だ冗長になりませうから先づずつと略しま
 - 第28巻 p.480 -ページ画像 
して、否な略すではない、私の詳しくは知らないのかも知らぬが(大笑)、試に西洋の事から述べますれば、今も前席で円城寺君が御述べになりました如く、凡そ百年前に英吉利の那勃烈翁に対する戦争が二十年以上続いたと云ふことは、如何にも英吉利の国を困難に陥れさせたやうに聞えるが、併し英吉利の発達は其戦争が原因を為したと云ふことは、同君も必ず証明するに相違ないと思ふ、独り円城寺君が証明するばかりでない、歴史が屹度証明するところであらうと思ふ(喝采)、又近い千八百七十年の普仏の戦争に付て普魯西の富が一時に進んだために、或は適度以上の拡張を為したと、種々なる学者の非難はありましたけれども、独逸の商工業の大に発達したと云ふことは、即ち千八百七十年の戦争に依りて大に進み大に開けたと云ふことが、十分に申上られるだらうと思ふ、又仏蘭西は此戦に負けた、縦令負けても、其後の仏蘭西国民の力は矢張戦争を利用して其富を進めたと申上げ得られるやうに考へらる、国を隔てゝ亜米利加の例を挙げて見ませう、亜米利加の建国の戦はどうでありますか、亜米利加の国に強大なる力を与へたのは、即ち建国の時の戦争が其根源を為したと申すに憚からぬのでございませう、又南北戦争は如何であつたか、千八百六十年の戦争よりして、終に亜米利加をして今日の如き雄大なる国柄たらしめたと申しても宜しいやうに思はれる、果して然らば、欧羅巴・亜米利加共に、皆戦争に依りて国の経済が大に勃興したと云ふことは、歴々として歴史が証拠立つて居ようではございませぬか、東洋は如何であるか、私が学問がないばかりでなく、東洋に於ては総て歴史上に経済の事が現はれて居らぬために、例へば支那あたりの戦争に付ても、為めに其経済は如何であつたと云ふことは玆に評論するを甚だ苦みますれども、併しずつと昔の唐虞三代の頃よりして、国を変へ世を更へて戦争のある度毎に其国民の富が大に進み、種々なる富力が其処に現はれたと云ふことは、歴史に於て明かに見えるやうに考へる、春秋の後七国が滅びて、終に秦に一致された後に、秦の富と云ふものは甚だ盛んであつたと云ふことは、阿房宮の賦を見ても分るやうなものである、又前漢・後漢・唐・宋、続いて元・明、若くは当代の清に至るまでも必ず戦争の後に大に国家が進んで往つたと云ふことは、如何に経済上の注意の薄い歴史であつても、尚且評し得られるやうに思ひます、我国は如何であるか、其昔外国との戦争に付いて、其時に随うて経済上の力を増したと云ふことは、詳細に取調べましたならば、十分なる証拠が得られるのであらうと考へる、悲しいかな、さう云ふことの調査を私は得ませぬけれども、近代の事に付いて考へて見ますと応仁・文明頃より元亀・天正に至るまで、我国は永く戦争が続いた、其戦争の続いた困難の間に国民は如何したのかと追想して見ても、実に我国ながら気の毒の様に思ふが、併し其間に相当なる富は進んだと思ふのは豊臣秀吉が大阪に於て金人を十二造つたとか、其他種々なる驕奢の事をしたとか、斯る宏大な挙をしたとか云ふことは、皆な戦争が国民の経済を進めると云ふことに助けを与へたと看做して差支ないと思ふ、又家康が天下を一統した場合の有様抔に於ても、最も此戦後が国家を繁昌にせしめたと云ふことは証拠立てられませう、更に一つ極く近い
 - 第28巻 p.481 -ページ画像 
例を挙て証拠立てますと、即ち此維新の三十七年の間は如何なる有様であつたか、私は玆に実例を挙げて諸君の御判断を乞ひたいと思ふのでございます、先つ初めに王政復古の戦は、さまでの戦争と申す様でもございませぬが、併し此革命の舞台から国家の経済上に大に心を用ゐ大に力を尽して来た、即ち経済上の大基礎が成立致したと申して宜しいのである、其後に国内の戦ではあつたが明治十年の役、此十年の役の後の商売の有様は如何でありました、銀行の成立は明治五六年頃でありましたけれども、此銀行業の大に進んで参つたのは寧ろ十年からして、十一年・十二年頃であつたと云ふことは、諸君も御承知でございませう、而して海外貿易などの大に拡張したのは十二三年頃である、但し其頃は貨幣の制度がまだ確実に成立して居らぬ、兌換紙幣はなくして、所謂不換紙幣であつた為めに、商売の拡張と共に銀貨と紙幣の比価に非常の差を起して、経済界は大に混乱を来したけれども、詰り戦争の結果は経済界の繁昌を為したと云ふことは、事実に於て現はれて居ります、続いて明治二十七年の戦争である、此戦争は実に我日本の経済界に対しては偉大なる力を与へたと云ふことは、玆に立派に証拠立て得られるのでございます、而して此戦争に清国より大なる償金を取りて、政治に対しても軍事に対しても、大に用ゆるところがありました、随つて経済界にも俄然として様々なる事業が勃興したと云ふことは宜なる訳ではあるが、併し当時の識者は、此仕方に付いては種々非難があつた、縦令非難はあるにも拘らず、此二十七年以降三十七年まで、凡ての経済事務が如何に進歩して居るかと云ふことは、其数字を確実に示し得るのでございます、例へば船舶の噸数で申しますと、二十七年の末は僅に三十二万噸であつたのが、三十七年の末の調べでは百十六万八千噸である、殆んど三倍六割の増加と申して宜しい、而して此船舶も、二十七年には巨大の船と云ふのが僅に三千噸に止つたと申して宜からうと思ふ、今日の船はどうであるか、六千噸以上の船が数十艘となつた、若し此数十艘の巨大なる商船がなかつせば昨年以来の運搬に付いて、我兵力に大に限るところがあると申しても蓋し過言ではないと思ふのであります(喝采)、又鉄道はどうであるか廿七年の末には二千一百哩であつたが、昨年の末の計算は四千四百哩である、外国の貿易はどうであつたか、廿七年には二億三千万円であつたのが、卅七年には六億九千万円、即ち三倍の増加を来たした、各銀行は如何なる有様であつたか、二十七年には其資本額が一億二千九百万円であつたのが、三十六年の末には五億二千万円、即ち四倍以上の増加を致して居る、其株式の呼高でない、既に払込になつて居るのは如何であつたか、二十七年の調べは一億万円、三十七年は三億七千万円に進んで居る、銀行以外の商工業、其他の会社は如何であるか、二十七年には二億九千万円であつたのが、三十六年の末には七億千四百万円となつて居る、是も二倍以上の増加になつて居る、其払込は二十七年には一億二千万円であつたのが、三十七年には四億千二百万円と相成つて三倍の増加である、銀行に対する一般の預金の有様は如何であるか、二十七年末に一億四千五百八十三万円と云ふのが、三十六年の末には七億七千四百三十一万円、即ち五倍三割の増加を来した、
 - 第28巻 p.482 -ページ画像 
殊に著しく増加致したのは商業手形でございます、手形の取引です、其取引が多いから交換も随つて多い、二十七年の末には東京其他五箇所、東京を合せて六箇所、其五箇所は大阪・京都・名古屋・神戸・横浜で、二十七年の調べに交換高が二億三千四百十四万円であつたのが三十七年には四十一億五千六百八十二万円即ち十六倍の増加を示して居ります、二十七年の戦争が総ての経済機関に此の如く進歩を与へたとは申せますまいけれども、仮に此戦争が無く経過したと見たならば或は恐る進歩は今一段低くかつたではなからうかと思ふのである、果して然らば、戦争は経済に対して大なる有効なるところの助力者であると申して宜しい、斯く論じ来ると、前に申す日本の古風な金持と地面持はあたり近所に事なかれ、又露西亜の学者が戦争は到底経済とは両立せぬものであると断言したのは、全くの間違で、どうしても吾々は敬服することの出来ぬ論と断案するの外なからうと思ふのであります(喝采)、而して此判定が如何なる訳から斯く相成るかと云ふと、私は玆に一言に断案することが出来る、即ち此戦争が所謂王者の戦、国の一致したところの道理正しい義戦であつたなら、其戦の後必ず国運は発達するものであると思ふのであります(喝采)、是に反して不道理なる戦、武を涜し兵を嗜むところの戦であつたならば、必ず其戦争は国の経済を妨害するものである、斯く判断しましたならば、即ち現在我対手国と我国と此開戦に付て何れが悪いかと云ふことは、諸君に問ふまでもなく諸君は直ぐ御分りでございませう、丁度ブルツポが所謂夫子自言の戦争は、国の経済に大害であると言ふたは、成程彼にしては其通りでありませうと思ひます(大喝采)、ブルツポの論断と同様に吾々も又戦争と云ふものは国に取つて甚だ利益あるものだと云ふことを、諸君と共に玆に一言致したいと思ふのでございます、斯様な有様でございますから、此戦争に対して軍費を続けると云ふことに於ける国庫債券の募集の如きは、少しも御遠慮は要らない、深く御心配には及ばない、ドシドシ応募すれば益富が増して来るに相違ない、此処に御出席の方々は、多くは組合会社に御従事の方と自分は思ふ、故にどうぞ御遠慮なく其募集に応ぜられて、前に言ふ昔の金持流義に誤られぬやうになさることを希望致します(喝采)
本問題とは少し話が違ひますけれども、斯る機会を以て私は一言玆に申述べて見たい事がございます、それは此維新の時に総てのものが根本から組立を変へられたと云ふことは事実である、併し其中に最も甚しく打撃を受けて最も強く根本から組立が変つたと云ふのは、戦争に必要なるところの軍人、又経済に必要なるところの吾々実業家である斯う申したまゝではまだ能く分らないかも知れぬが、昔の戦争に従事するのは恰も請負仕事の様なるもので、武門武士である、それもずつと昔ではない、七百年ばかり以前からして、戦争は此武門武士の商売だ、ヨシ来た己れが請負つて遣ると云ふやうな有様で、申さば中受人が出来て居つた、其中受人の武士と云ふものに大層良い気風があつて今でも武士道と云ふものはそれ等から起きた気風であります、其武士をすつかり組変へたのが今日の徴兵法である、将校とか士官とか云ふ御方は少し種類が違ひますか知りませぬが、先づ総体の軍事に力を入
 - 第28巻 p.483 -ページ画像 
れる兵士は、魚屋の息子もございませう、八百屋の小僧もございませう、百姓もあり、職人もあり、総ての者が一列一体に出て、さうして右左と首を振つて稽古した連中が国家の干城となりますのであります私は元来百姓でありますが、此根本から組立てられた現今の兵士は規律に於ては昔に優る処もあろふが、併し昔の武士よりは須破と云ふ場合には或は弱くないかと云ふ如き疑ひを持つて居た、余り大きな声で申したら悪いか知らぬが、それと反対に吾々実業家――吾々実業家と云ふと大層な自負らしいのでありますが先つ実業家の尻に附くものである、此実業家と云ふものは昔は誠に卑劣なものであつた、と云ふと此処にござる諸君が、其卑劣視された人の子息さんかは知りませぬけれども、正直に申せば維新前の日本の商売と云ふものは実に鄙劣なものであつた、総て租税は品物で取り、其品物の大売捌きと云ふやうな肝腎なことは皆な政府の力でやるのであるから、其頃の実業家と云ふものは殆ど糶呉服か小売商人と云ふやうな有様であつた、然るに維新となりてより第一に此範囲を拡めねばならぬ、各国と交通をし、各国と商売をすると云ふことからして、此商売にも大変な金箔が附いて来た、のみならず国の進むと共に、種々なる人種が実業家として追々混入して来た、詰り申すと兵士と云ふ方は下級から混入して来て、商売人は上流から混入して来たと言ふて宜いのである、果して然らば商売人の方は維新以後には大に発達して参つて其品格も宜くなり、軍人の方は劣等になるべき訳である、然るに着々として軍事に付いては唯だ敬服するより外はないと云ふやうな実例を示されたのは、実に喜ばしいことでございますが、其喜ばしいと同時に、吾々実業家は軍人に対して後に瞠着たるやうな嫌ひがございます、何に依つて然るかと云ふことは、私は頻りに自問自答して見ましたが、之を一言に判断するときは、どうも此軍人は所謂至誠以て貫くと云ふ精神が甚だ強い、幸に 上御一人に対して唯一死是に報ゆると云ふ精神は、所謂武士道の継続である、今は独り武士道と云ふのみならず、下兵卒一般に其観念を強めて居る、此観念が即ち事に当つて甚だ強いと云ふ力を持つのである、是に引替へて吾々実業家は、或は複雑な事業或は多少智恵の要る働きをなすことからして、左様な至誠以て貫くと云ふ境遇に至ることが出来ない、是が同じく組立を変へられました間柄でありながら、彼に優勝の位地を占められると云ふ訳ではなからうかと、自から感慨に堪へないのでございます、今日御列席の諸君は吾々のやうな実業家であらうと思ひます、果して然らば私の申すことを真に然りと思召すならば、どうぞ未来は至誠以て貫くといふことに心掛けられて軍人同様組立を変へられたる実業家であるが、敬服なものであると云ふことを一般の人から賞誉せらるゝやうにしたいと思ふ(喝采)
今一つ本問題と関係の薄いことで一言申上げて見たいことがございます、蓋し此事は私の唯だ一身の懺悔談であつて、決して諸君を裨益するどころではない、寧ろお恥かしい御話でごいますが、斯る機会に一言を述べまするも、又自から慰めるためにも相成らうと考へるのでございます(謹聴)、私は前々にも申す通り百姓でありまして、此東京より二十里ばかり田舎の埼玉県の農民でございます、百姓と申して何だ
 - 第28巻 p.484 -ページ画像 
か、大層卑下して申上げるやうであるがさうでない、真に百姓だから百姓だと云ふのであります、不図したことで故郷に居ることが出来ぬで、それから浪人になつた、其浪人になつたと云ふのは如何なる理由でなつたかと云ふと、即ち攘夷家と云ふものであつた、攘夷家と云ふのは即ち外国人を逐払ふと云ふので、其時分に大層な流行でありました、年を老つた方は幾分か御覚えがありませう、今日は甚だ流行遅れの御話である、攘夷家と云ふもので到頭国に居られぬで京都の方に彷つて、それから続いて明治になる前年に欧羅巴へ旅行したのであります、欧羅巴へ旅行をする頃、初めて攘夷と云ふことは出来ぬものであると云ふことを発明致しました、けれども十四五歳から二十六七歳迄十二三年の間は決して攘夷が出来ぬものではなからうと信じた、真に外国人をば見掛け次第に、斬りたいやうな観念が致したのでございます、実に懺悔談でありますが、今顧みますると云ふと只々赤面至極であります、抑も外国との交通は幕府時代になりても昔から幾回もありまして、終に幕府の末路に至りて開港をせねばならぬと云ふ場合に立至つて、国家に大騒動を惹起したのであつた、けれども弘化の始めに和蘭よりの通知があつて、英仏の両国より軍艦を以て交通を勧めに来ると言ふて来た、それから数年経つて嘉永四年《(六年)》ペルリが浦賀に参つたのでございます、それが丁度私の十四の時である、斯様に申すと、余程の老人でありまするが、併しまださうは老耄れぬつもりであります(大笑)、其翌年に又再び参られた、終に仮条約が出来ると云ふことになりました、其頃に政治を執つて外交談判を致した幕府の閣老は、阿部伊勢守・堀田備中守、或は間部下総守、若くは安藤対馬守、終に井伊掃部頭と云ふ人が大老になつて、追々に外交が進んで参つたのであります、其頃です、私共幕府が外国に対する政略は唯だ己れが怯懦なるために服従するのである、所謂城下の盟であると、其頃流行した水戸風の学問から支那宋末の歴史を読みて、秦檜は金と和した、或は王倫・孫近と云ふ者は皆な姦臣で、是等は皆な国を誤る者であると云ふて胡澹庵の斬奸の表だとか、或は李綱の上書だとか、さう云ふやうな書物を見て、所謂慷慨悲歌の士で世の中を押廻はしたのであります、其頃には攘夷は必ず出来るものだと考へた、斯様申すと私ばかり甚だ智恵のない人の如くに御聞きなさるか知らぬが、其頃の輿論と云ふものは殆ど左様であつた、否な輿論のみではない、畏れながら 孝明天皇が、闔国焦土となるとも攘夷はせねばならぬと云ふ叡慮は屡々あらせられたことである、然るに前に申す通り明治の初め欧羅巴に参るに付いて、段々世の中の有様を察して、是は攘夷と云ふことにのみ考へ居つたのは大に心得違だと覚悟して、爾来三十七年間誠に心得違な智恵のない人間だと今も尚恥ぢて居りましたが、再び考へて見ると矢張昔の幕府の官吏が政を誤つたと云ふことも決してなかつたのでない、又其時分に外国にも差別があつたと云ふことを、吾々解釈せなんだのである、若し誠に今日の露西亜であつたならば、矢張攘夷と覚悟したのが誠に尤であつたかも知らぬ、丁度文久元年である、露西亜は対州を占領しやうと掛つたが、英吉利が力を尽したために漸く対州を引払つたことが、歴史に明瞭に書いてあります、果して然らば其時に吾々
 - 第28巻 p.485 -ページ画像 
の夷狄と言ふた亜米利加は、夷狄でなかつた、英吉利も夷狄ではなかつたが、併し露西亜は夷狄であつたのである、斯く判断しますと、三四十年前の攘夷家は聊か今日に於て面目を保つことが出来ると申して宜しいのである(喝采)、若し此中に其当時の攘夷家が在るならば定めて蟄息してござろふが、今私の懺悔する如くに、吾も其時分の攘夷家だと自から思はるゝのでありませう(拍手大喝采)



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一二巻・第三二九頁 昭和一一年四月刊(DK280069k-0005)
第28巻 p.485 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第一二巻・第三二九頁 昭和一一年四月刊
    国民後援会大会
      日比谷原頭に国民の熱誠湧く
〔一一・四 ○明治三七年東朝〕 国民後援会の大会は、予期の如く昨三日午後二時より日比谷公園に於て開催せり。当日は折柄の佳節と云ひ、殊に近頃稀なる好晴なりしかば、会員は招待に依り会する者無慮五万余人の多数に及び、尚ほ式場に列せし来賓の重なる人人は伊藤・井上・松方・大隈の諸元老を始め、山県参謀総長・長岡同次長・伊東軍令部長伊集院同次長・佐久間・岡沢・西の三陸軍大将。樺山・井上の両海軍大将、桂首相以下各大臣、東久世枢密院副議長。徳川・黒田の貴族院正副議長。松田・箕浦の衆議院正副議長。此他柴田内閣書記官長・都筑枢密院書記官長・足立警視総監始め各省次官、各局長以下文武官数百名にて、最初一発の号砲を相図に式を始め、陸軍楽隊の奏楽に次で丸山名政氏の紹介に依り会長千家男爵は起つて別項の式辞を朗読し、次に島田三郎氏は陸軍に対する感謝状を朗読し、之に対し寺内陸軍大臣は最も熱誠の態度を以て会長に挨拶し、次に田口卯吉氏は海軍に対する決議案を朗読し、之に対しては山本海軍大臣壮重なる風采を以て一同に挨拶し、最後に添田寿一氏は将来に対する国民の決議案を朗読し、右了つて桂首相は同じく一般会衆に対して感謝の意を表し、夫れより楽隊は君が代を三奏し、此時伊藤侯爵は箕浦勝人氏の紹介にて壇上に立ち、左記の演説をなしたる後、侯爵の発声により一同天皇皇后両陛下の万歳を三唱、次に大隈伯は大岡育造氏の紹介にて同じく陸海軍の万歳を三唱し、一同之に和し、了つて奏楽声裡に千家会長は閉会を告げたるが、以上諸氏の登壇毎に数万の会衆は万雷の如き拍手を以て之を迎へ、熱誠の情溢るゝが如く、凡そ当日程広く朝野各階級の人士を網羅したる事なく、最も能く挙国一致の実を現はしたるものにして、実に近来稀なる盛会なりき。