デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

8章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
5款 平野富二記念碑
■綱文

第28巻 p.537-538(DK280092k) ページ画像

明治37年11月27日(1904年)

是日、谷中共同墓地ニ於テ平野富二記念碑建立式挙行セラル。栄一、之ガ建碑ニ賛助ス。


■資料

中外商業新報 第六五五二号 明治三六年一一月一五日 ○故平野富二氏の建碑計画(DK280092k-0001)
第28巻 p.537 ページ画像

中外商業新報  第六五五二号 明治三六年一一月一五日
○故平野富二氏の建碑計画 夙に船舶・機械・活字の三大事業を民業として経始し、遂に成効し今日の基礎を建てたる故平野富二氏の為め今回名村泰蔵・平沢道次の諸氏発企者と為り、渋沢男・西園寺公成・梅浦精一諸氏の賛成を得、千一百円の予算を以て紀念碑を谷中共同墓地に建設の計画ある由

中外商業新報 第六八七二号 明治三七年一一月二七日 ○平野富二氏紀念碑建立式(DK280092k-0002)
第28巻 p.537-538 ページ画像

中外商業新報  第六八七二号 明治三七年一一月二七日
    ○平野富二氏紀念碑建立式
予ねて計画中なりし故平野富二氏紀念碑は、這般愈々刻成し、今廿七日午前十時谷中共同墓地に於て建立式を挙行することとなれり、碑の前面左の如し
 平野富二君碑
     海軍中将正二位勲一等 子爵 榎本武揚篆額
            衆議院議員 福地源一郎撰書
 君は弘化三年を以て長崎市に生れ、三歳にして父を失ひ、流離艱難の間に苦学し、年甫て十六、長崎製鉄所機関手候補に挙られ、汽船機関手に進みて、長崎・江戸の間を往反し、或は砲撃に遭ひ、或は風濤に犯されて、屡々死地に出入せり、慶応二年幕府その汽船を江戸海軍局に集中せるに由り、回天艦を以て江戸に廻航し建策する所あるも用ひられす、辞して長崎に□臥し《(不明)》、時局の動静を観たりしに果して戊辰の変ありき、明治元年二月再ひ長崎製鉄所の機関手に徴され、翌年所長に成りて船渠修艦の事務を管理し、経画其緒に就けるに当り、同四年工部省の新置ありて製鉄所及船渠を其管轄に移さる、君の強て其職を辞し、復出て仕へず、蓋し其官業は君か素論に非さるを以てなめり、是より先に君の旧師本木昌造は活字の鋳造に著手し、事業頗る困難に陥りしかは、其経理を君に委託す、君曰く是文明に必要の事業たり、豈廃絶せしめて可ならむやと、慨然起て長崎活版所を主宰し、其翌五年を以て東京に移転し、刻苦経営十余年遂に之を成功して斯道先進者たるの名実を収めたり、今の東京築地活版製造所は即ち其継業者にして、君に負ふ所そ多かりける、君はまた此間に於て造船及機械に関して其曾て学ひ得たる所を抛棄せす、明治九年躬ら印刷機械類の製作に著手し、当時海軍省か石川島の造船を廃せるに際し、其趾を租借して先つ製作部を此に移し、尋て更に造船の事業を経始し、従来の実験と非常の勉強とを以て卒先これに当り助手・職工を指揮し、業務大に挙りて盛名信用倶に求め
 - 第28巻 p.538 -ページ画像 
すして集まれり、今の石川島造船所は実に之を継続するものにそある、惜哉天この偉人に仮すに寿を以てせす、十九年五月脳溢血を発してより健康復旧の如くならさりしかとも、壮志は更に止ます、病に間あれは腕を撫して曰く、富二か日本の一男児たるに背かさるは我病癒るの日に在りと、斯る抱負も空しく違ひて終に二十五年十二月三日といふに歿し、識者をして鉄柱半折高塔中崩の嘆を為さしめたり、石川島の職員・職工有志者は敬慕の余に紀念の設立を発企し朋友故旧亦集りて之を賛助し、乃この碑を建つ、於戯建業創務の士は天下に多し、而して躬践実行この好果を収めて社会に貢献するの多き君の如きは果して幾人かある、其齢未知命に達せすして逝けるも、栄名以て永伝するに足る、素より其所なり、君は洵に明治の一偉人なる哉
  明治三十七年八月
   ○本資料第十一巻所収「石川島造船所」参照。