デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

8章 其他ノ公共事業
2節 祝賀会・歓迎会・送別会
7款 伊藤博文欧米漫遊帰朝歓迎会
■綱文

第28巻 p.735-737(DK280121k) ページ画像

明治35年3月13日(1902年)

是ヨリ先、伊藤博文欧米漫遊ヨリ帰国ス。栄一、東京府知事千家尊福・東京市長松田秀雄ト共ニ発起人トナリ、是日ソノ歓迎会ヲ帝国ホテルニ開催シ、発起人総代トシテ歓迎ノ辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK280121k-0001)
第28巻 p.735 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年      (渋沢子爵家所蔵)
三月七日
○上略 午後三時伊藤侯爵ヲ訪ヒ、帰国後初テ面会談話ス、且明夕ノ祝賀会ニ参席ヲ請ヒ、又来ル十三日歓迎会開設ノ事ヲ約ス ○下略
三月八日 晴
○上略 十一時東京市ニ於テ浦田氏ト面会シ、伊藤侯歓迎会ノ事 ○中略 ニ関スル要務ヲ協議ス ○下略
   ○中略
三月十一日 晴
○上略 午餐後三時東京商業会議所ニ抵リ役員会ヲ開ク、且伊藤侯歓迎会ノ手続ヲ指揮ス ○下略
   ○中略
三月十三日 朝晴午後雨
○上略 帝国ホテルニ抵リ伊藤侯歓迎会ヲ開ク、会スル者三百人許リ、午後二時過ギ開会、一場ノ歓迎演説ヲ為ス、午後四時散会 ○下略


竜門雑誌 第一六六号・第一―三頁 明治三五年三月 ○伊藤侯爵歓迎会に於ける青淵先生の演説(DK280121k-0002)
第28巻 p.735-737 ページ画像

竜門雑誌  第一六六号・第一―三頁 明治三五年三月
    ○伊藤侯爵歓迎会に於ける青淵先生の演説
 本編は、東京府知事・同市長及東京商業会議所会頭(青淵先生)の発起に係り、去三月十三日午後一時より帝国ホテルに於て開かれたる伊藤侯爵歓迎会席上に於て、発起人総代として青淵先生の述へられたる挨拶の辞の速記なり
侯爵閣下及都筑・古谷御随行諸君、臨場閣下諸君、今日は伊藤侯爵閣下が欧米万里の御旅行を果せられて、御機嫌よく御帰朝遊ばされたを祝する為に、我々市民打寄りまして、此所に歓迎の宴を開きましたのに、幸ひに御繰合せ下さりまして臨場を賜りましたのは、発起人の最光栄とするところ、諸君と共に甚だ之を喜びます次第でございます、発起人の総代と致しまして、こゝに一言の歓迎の辞を申上けるやうに致したうございます、侯爵の如き大政治家、老偉人に対して、殊に此欧米の文明国を壮んなる御旅行を遊はしたに対する歓迎の辞は、甚だ充分なる達弁若くは文章に富んだる者でも、尚之を申上げるに憚るであらうと思ふのです、或は名所勝地に対して所謂絶景に句なし、古人も筆を捨てるといふ程の有様である、況や不文訥弁の私の如きが此席
 - 第28巻 p.736 -ページ画像 
に於て侯爵を称賛するといふことは、甚だ為し能はぬことでございます、左りながら私はこゝに侯爵に対して最喜ふべき三つのことを申上げて、諸君と共に歓迎の意を表したいと考えるのでございます
其第一は侯爵閣下御旅行は先つ重もなる主眼となさる所は健康の御恢復にあつたといふことでこさいます、昨年来多少の御健康に障はる所があつて、医者の勧に従つて海外御旅行を御企があつた、斯かる国家の大任を負うて御座る貴重なる御身体が、若しも病の為に侵されることのあるは、独り侯爵の自ら御憂え遊ばすのみならず、我々は国民と共に挙つて之を憂ふべきことゝ思ふのでございまする、然るに此御旅行は最其宜きを得て御帰り匆々拝謁いたしました所でも、其御体霆€と云ひ御顔色と云ひ、誠に活溌に誠に勇壮に、少しも老の到つたことは窺ひ知れぬやうにこさいまする、是以て誠に喜ばしいことの一つ、今日の歓迎すべき要点であらうと思ふのでございます
第二には此侯爵の御旅行は、勿論政治関係・経済関係を特に御持ち遊ばした訳では無いのですが、身従来国家の重きを荷うて御座る御身体故に、到る処に於て或は国君若くは国民之を歓迎する至らざるなく、殆と之を喩えて言はうならば、日本の国を背負つて欧米に紹介をなすつて下すつた、此紹介は到るところに款待を受けて充分なる名誉を御荷ひなすつて、又其名誉を山の如く背負つて御帰りなすつたと言つて宜からうと思ふのである、是は最侯爵御自身に於て名誉として我々が喜はねばならぬことであるが、独り侯爵御一身の名誉では無い、即ち日本の国の名誉である、我々も其一部分は与つて光栄を荷ふやうに考へますると、是も第二の最喜ふべき点と、私は考えまするのでございます
第三に申上げたいのは、侯爵の海外の旅行は私の記憶に存する所では明治以前にあつて一度、夫から明治の三年に亜米利加へ御旅行になりました、其四年に又大使として欧米へ御旅行になりました、其以来十六年若くは三十年、都合欧米を兼ねて合せましたら六回であるかと思ひます、但し一つ間違つて居るかも知れませぬ、而して此御旅行は或は修学といふこともあり、或は国際上の聘問応答と云ふこともあり、或は所謂研究調査といふこともある、或は漫遊といふこともある、其旅行の目的には種々なる差があるが、その最始と最終り、即ち今回の御旅行と其以前伊藤俊助君が帆前船て御出での時の有様とは、如何なる変化でありましたらうか、世界は決して不動のものにあらず、日一日に変はつて行くものである、我日本も即ち其四十年以前の日本とは大に面目を改めたと我々共諸君と倶に自ら誇つて居るが、欧米の国々に於ても亦種々なる変化が御座いませうが、此国の変化は侯爵御一身の変化とは、まだしも大に程度が下であらう、果してさう考えるならは侯爵御自身が斯る広い御胸・雅量を持つて御座つてもが、此今昔の感は如何でありつらうかと考えますると、推測つて我々は之を大に喜び、大に感じたいことと存じまするのでこさいます、斯る最喜ばしい最愉快なる御旅行を御都合好く成し遂げられたのは、侯爵其方の徳望に依ることと存じまするけれ共、又続いて都筑君其他御随従の諸君が諸方御遊歴の間に輔佐翼賛したことも少からぬと考えますれば、又都
 - 第28巻 p.737 -ページ画像 
筑君其他の諸君にも併せて其御勤労を謝し、御無事の御帰朝を御祝ひ申したいと私共考へるのであります
終に望んで尚一言添えたいのは、私は不学ではございまするが、平生四書を楽んで読んで居ります、孟子に天下有達尊、爵一、歯一、徳一とあります、侯爵の如きは即ち其三つを併せ得た御方と申して宜からうと考えるのでございます、併し此三つの中の爵・徳、此二つは侯爵は既に充分なる最上の点に達したと、我々は御喜び申すが、未だ歯といふ点に至つては、聊か不足といふことを感せねばならぬのであるのです、而して此御旅行が今申す第三の歯に大に関係する、即ち是から先き延齢長寿の旅行であつたとするならは、遂に此三徳を全からしむることが出来るであらう、甚だ不束な蕪言を呈して、以て歓迎の辞に代えまする(拍手)



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一一巻・第三八五頁 昭和一一年三月刊(DK280121k-0003)
第28巻 p.737 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第一一巻・第三八五頁 昭和一一年三月刊
    欧米漫遊中の伊藤侯帰朝す
〔二・二八 ○明治三五年東京日日〕 伊藤侯の客年九月十八日纜を横浜に解き海外歴遊の途に上りてより以還、月を閲すること六、日を経ること百六十、足跡幾ど泰西文明国に遍く、一路平安去二十五日を以て長崎に着するや、同地に於いては盛なる歓迎会あり。即夜抜錨神戸に到るや亦同じく盛なる歓迎会あり。其他侯通過の地、孰も皆歓迎の意を表せざるなく、今朝を以て直に大磯に帰らんとするや、大阪・名古屋亦相尋で歓迎の準備あり。侯乃ち其の請を容れ各々之に臨み、将に明日を以て滄浪閣に入らんとす。 ○下略