公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第29巻 p.72-74(DK290016k) ページ画像
明治32年6月25日(1899年)
是日栄一、尾高新五郎ト共ニ黒山村ニ至リ、養子
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平九郎戦死ノ跡ヲ弔フ。
渋沢栄一 日記 明治三二年(DK290016k-0001)
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渋沢栄一 日記 明治三二年 (渋沢子爵家所蔵)
六月廿四日 曇
此日ハ曾テ尾高惇忠ト約シテ入間郡黒山村ニ於テ亡平九郎戦没ノ跡ヲ訪フ筈ナリシヲ以テ、朝来病モ稍愈タレハ、旅装ヲ理シ、午前八時飯田町ニ抵リ、甲武鉄道線ニ搭シテ九時国分寺ニ抵リテ休憩ス、十一時三十分同所ヨリ川越鉄道線ニ搭シ、十二時入間川駅ニ抵リテ午餐シ、夫ヨリ腕車ヲ僦フテ一里、黒須ニテ繁田武兵衛ノ宅ヲ訪フ、更ニ車ヲ馳テ二里、飯能町ニ抵リ能仁寺ニ詣ス、寺ハ維新ノ年五月振武軍ノ屯在スル所ナリ、当時ノ兵火ニ罹リテ堂宇・加藍焼滅《(伽)》シ、僅ニ仮設ヲ(ノ)本堂アルノミ、午後三時過飯能町ニ抵リ、茶店ニ休憩シ再ヒ腕車ヲ雇フテ四里越生町ニ達ス、島野伊右衛門及浅見・新井其他ノ諸氏来リ迎フ午後七時過越生町島野伊右衛門ノ家ニ投宿ス、夜越生銀行員等来リテ商工業ノ事ヲ談シ、揮毫ヲ乞ハル、依テ数紙ヲ試ム、午前一時過寝ニ就ク
六月廿五日 曇
午前七時越生ヲ発シ、腕車ヲ僦テ黒山ニ抵ル、雨後ノ道路、殊ニ山間陜隘ニシテ頗ル険悪ナリ、午前九時黒山村平九郎戦没ノ地ニ達ス、寺院ニ於テ仏事ヲ営ム、村人来リ会スル者三・四十人許リナリ、且平九郎戦没当時ノ状況ヲ知ル者来リテ其詳細ヲ話説ス、頗ル明亮ニシテ且確実ト認ムルモノ多シ、僧侶ノ読経畢テ一同霊壇ニ向テ香ヲ炷ス、仏事畢テ、再ヒ腕車ニテ越生ニ抵リテ午飧シ、直ニ車ヲ馳テ午後三時前川越ニ抵リ、川越鉄道線ノ列車ニ搭シ、国分寺ニ抵リテ更ニ甲武鉄道線ニ移リ、午後六時過兜町ニ帰宅ス
○下略
竜門雑誌 第一三四号・第二〇頁 明治三二年八月 【ことし六月のはつかあまり…】(DK290016k-0002)
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竜門雑誌 第一三四号・第二〇頁 明治三二年八月
ことし六月のはつかあまり、渋沢平九郎が戦没せし梅園村の黒山てふ地を尋て
渋沢栄一
なき魂をとふ黒やまのはかの上に
夕はえあかく咲くあふひかな
咲もあへす夜半のあらしに花散て
かをとゝめたる梅そのゝさと
(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK290016k-0003)
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(八十島親徳) 日録 明治三三年 (八十島親義氏所蔵)
五月廿三日 晴 八十三度
○上略
本日ハ渋沢平九郎氏三十三回忌当日ノ由ニテ晩飧ノ饗応アリ ○下略
(八十島親徳) 日録 明治三七年(DK290016k-0004)
第29巻 p.73-74 ページ画像
(八十島親徳) 日録 明治三七年 (八十島親義氏所蔵)
七月六日 快晴
○上略
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今日ハ故渋沢平九郎氏命日ニ付、深川ニテ招客アリ ○下略