デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
1款 同族
■綱文

第29巻 p.74-76(DK290017k) ページ画像

明治32年7月7日(1899年)

是日篤二並ニ穂積陳重欧米視察ノ途ニ就ク。栄一横浜ニ見送ル。翌三十三年五月十五日帰朝ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK290017k-0001)
第29巻 p.74 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
六月十八日 晴
○上略 午後二時上野精養軒ニ於テ開ク処ノ穂積陳重及篤二洋行ノ送別会ニ列ス、一場ノ演説ヲ為ス、夜七時半帰宿ス
   ○コノ日ノ栄一ノ演説要旨ハ本資料第二十六巻所収「竜門社」同日ノ条参照
   ○中略。
七月二日 曇
○上略 午後四時穂積・阪谷・篤二夫妻悉ク来ル、欧米行ニ関スル注意ノ件々ヲ書面ニテ篤二ニ示ス
   ○中略。
七月七日 曇夕雨
午前七時過程ケ谷ニ抵リ、汽車ヲ乗替ヘ八時横浜ニ抵ル、長谷川一彦清水釘吉・松平隼太郎等ノ諸氏来リ迎フ、清水満之助宅ニ於テ朝餐ス午前十時穂積陳重及篤二海外行ヲ送別スル一行数十人来リ会ス、暫時休憩ノ後、日本郵船会社支店ニ於テ小蒸気船ニ搭シテ本船ニ達ス、本船ハエンプレスオフインヂヤト号スル巨舶ニテ、カナダ汽船会社ノ所有ニ係リ、有名ナル汽船ナリ、総噸数六千噸余ニシテ、船室モ美麗ニ且壮大ナリ、午前十一時過船中ニテ両人ニ告別シ、上陸ノ後横浜千歳楼ニテ一同ノ送別者ト共ニ午餐シ、午後三時帰京ス ○下略


竜門雑誌 第一三四号・第四七頁 明治三二年八月 ○渋沢社長及穂積博士の発途(DK290017k-0002)
第29巻 p.74 ページ画像

竜門雑誌  第一三四号・第四七頁 明治三二年八月
○渋沢社長及穂積博士の発途 両君には予報の如く、愈々去る七月七日横浜解纜の「ヱムプレッス・オヴ・チャイナ」号にて欧米漫遊の途に上ぼられたり、同日は午前九時十分の汽車にて新橋を発せられたれば、同刻迄に停車場に到りて両君の発途を祝したるもの、本社員を始め両君の親戚知己等無慮数百人に上り、為めに同停車場は雑踏を極め一時は殆立錐の地だになき有様なりし、斯くて両君を送りて横浜に到りしもの亦百を以て数ふ、而して列車の着するや、特別社員清水満之助氏は両君及一行を氏の支店に誘いて歓待優遇到らざるなし、両君は暫く休憩の後、十一時を以て郵船会社の波止場より同社の小汽船に依りて本船へ搭乗せられ、稍ありて送客一同両君前途の健康を祝して辞し去るや、時恰も正午を報し、本船は一声の汽笛を残して船脚勇ましく進航を始めたり


同方会報告 第一二号・第五〇頁 明治三二年一〇月 【会員渋沢篤二氏 は、商業…】(DK290017k-0003)
第29巻 p.74-75 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第一四〇号・第三七頁 明治三三年一月 【社長及穂積博士 には、去…】(DK290017k-0004)
第29巻 p.75 ページ画像

竜門雑誌  第一四〇号・第三七頁 明治三三年一月
○社長及穂積博士 には、去る十一月中旬「ローマ」を発し、伊国各地を経て、同下旬墺太利国維那府へ安着せられし旨通信ありたり、其後各地を経、独国伯林府に到り、同地にて目出度越年せられたる予定なり


竜門雑誌 第一四一号・第三三頁 明治三三年二月 【渋沢社長及穂積博士 には…】(DK290017k-0005)
第29巻 p.75 ページ画像

竜門雑誌  第一四一号・第三三頁 明治三三年二月
○渋沢社長及穂積博士 には、伯林に於て無事越年せられ、尚同地滞在中「ハンブルグ」・「ブレーメン」等を視察せられたる上、一月十九日伯林を発し、白耳義国「ブラツセル」に赴き、一両日滞在、「ウヲートルロー」の古戦場其他見物の上、同二十三日巴里に赴き、当分同地に滞在せらるべき旨近信に見えたり、帰朝は多分来る五月末頃なるべしといふ


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK290017k-0006)
第29巻 p.75 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十三日 晴
○上略 此日ハ篤二・穂積陳重両人帰国ノ筈ナリトテ、家人ハ多ク横浜ニ赴ク、蓋シ其安着ヲ歓迎スル為ナリ
五月十四日 晴
○上略 十一時ノ汽車ニテ横浜ニ抵ル、穂積・篤二等ヲ迎フル為昨日来出張セル家族等ニ面ス ○中略 午後四時ニ至ルモ両人ノ乗船日本丸到着セサル由ナレハ、四時ノ汽車ニテ帰京ス ○下略
五月十五日 曇
○上略 兜町ニ帰宅シ篤二・穂積二人ノ帰朝ヲ迎フ ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK290017k-0007)
第29巻 p.75-76 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三三年   (八十島親義氏所蔵)
五月十三日 日曜 雨
○上略
渋沢若主人及穂積陳重博士、愈本日夕又ハ明朝、日本丸ニテ帰朝ノ予定ニ付、両家一門其他懇意向横浜迄出迎フ、予モ一時十分ノ汽車ニテ横浜ニ至ル、本町高野屋ノ旅館ヲ待合所トス、来会者ハ凡ヘテ五十人許夕方迄終ニ入港セズ、抑相州剣ケ崎沖通過ノ節灯台ヨリ打電サルヽ筈ニテ、其時ヨリ二・三時間ニハ入港且撿疫ヲ終ヘ上陸ノ運ニ可相成トノ事ナリシモ、終ニ音沙汰ナシ、兜町元方ノ方モ、尾高・八十島・松平・桂、皆横浜ニ来リ、カラ明ナリ、但明朝コソハ入港スヘシトノ事ニ付、折角罷越シタル事ナレハ今夜予等高野屋ニ一泊ス
五月十四日 晴
終日横浜滞在、終ニ入港ナシ、穂積夫人・令息・令嬢方、深川夫人・穂積八束・同夫人・諸井恒平・時三郎・斎藤峰・芝崎・関直之・郷隆三郎・田中・西園寺亀、其他青木孝・橋本悌二郎、以下数十人只出タリ入タリ、或ハ囲碁・将棋・雑談ヲナスアリ、散歩ヲナスアリ、玉突ニ行クモノアリ、皆一刻千金ノ体ヲ、空シクブラリブラリト横浜ニ消光
 - 第29巻 p.76 -ページ画像 
ス、青淵先生ニモ午後一寸来浜、夕刻空シク帰京セラル
予等東京元方ノ方用事輻輳ニ付夜八時尾高、青木・関等ト帰京ス ○下略
五月十五日 晴
午前五時未寝床ニアル中、兜町ヨリ電話ニテ、日本丸今暁横浜入港ノ由ニ付、直ニ起出支度、六時五十分ノ汽車ニテ横浜ニ至ル、一応高野屋ニ至リシニ、泊リ込ノ連中ハ已ニ本船ニ迎ヒニ行キタル跡ナリシ、予等ト同列車ニテ到リシ阪谷・野崎・関・和田等ト、更ニ税関ノ小蒸気ニテ日本丸ニ至リ、若主人及穂積博士ニ面会ス、出迎人四・五十人、皆船中ニ充満セリ、一日后レタルハ海上波アリシタメナリシト云フ、両氏共至極壮健ニテ、無事帰着サレタルハ実ニ慶事ナリ、軈テ小蒸気ニテ税関波止場ニ上リ、夫ヨリ高野屋ニテ一同小憩、十時五十分ノ汽車ニテ横浜発、新橋着ノ頃出迎人百余人、盛大ノ事也、馬車ニテ両氏共先ツ兜町ニ至リ、青淵先生ニ謁シ、二時頃被引取 ○下略


竜門雑誌 第一四四号・第四四頁 明治三三年五月 渋沢社長及ひ穂積博士の帰朝(DK290017k-0008)
第29巻 p.76 ページ画像

竜門雑誌  第一四四号・第四四頁 明治三三年五月
○渋沢社長及ひ穂積博士の帰朝 両君には去月廿五日桑港発の日本丸に搭して帰朝の途に就かれしが、爾来海上平穏にして、去る十五日払暁横浜入港、両君の家族・親戚諸氏・我社員等の外、数十の出迎人と共に、同日正午無事着京せられたり