デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

1章 家庭生活
3節 家庭教育
1款 克己学寮
■綱文

第29巻 p.179-181(DK290053k) ページ画像

明治41年7月12日(1908年)

是日栄一、克己学寮ノ監督者・温習教師・寮生及ビ親戚其他ヲ招キ、立川ニ至リ、多摩川ニ於テ鮎漁ヲ催シ、終ツテソノ夜帝国ホテルニ於テ晩餐会ヲ開ク。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK290053k-0001)
第29巻 p.179 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
七月十二日 晴夕雷雨 暑
午前七時起床、入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス、後来人ニ接ス、午前九時家ヲ発シ、飲田町停車場ニ抵リ、汽車既ニ発セシニヨリ電車ニテ中野ニ抵ル、兼子・愛子・武之助及飯塚 ○アリス女史等同伴ス、中野ヨリ汽車ニ搭シ、十二時過立川駅ニ抵リ、汽車ヲ下リテ立川亭ニ抵リ、蓋シ此日ハ克己学寮生徒及親戚共ニ多摩川ニ於テ鮎漁ヲ催シタルニヨリ、立川亭ヨリ徒歩シテ水辺ニ抵リ、終日舟中ニ於テ遊戯シ、午後五時立川ヲ発シ、七時飯田町ニ抵リ、夫ヨリ人車ニテ帝国ホテルニ抵リ夜飧ス、食卓上一場ノ訓示演説ヲ為シ、夜十一時散会、王子ニ帰宿ス


(八十島親徳) 日録 明治四一年(DK290053k-0002)
第29巻 p.179 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四一年   (八十島親義氏所蔵)
七月十二日 日曜 晴夕大雷雨
此日ハ男爵ガ子息及青山ニ於ケル克己塾生(即主トシテ武之助・正雄秀雄三氏学習ノ為ニ設ケタル寄宿所ニ於ケル学友ナリ)及温習教師ノ為ニ、慰労ノ趣意ニテ多摩川ニ鮎猟会ヲ催サレ、穂積・阪谷・綱町等ノ子息令嬢等ヲ招カレ、予等兜町ノ連中モ招伴タリ ○中略 カクテ立川到着、駅ヨリ約二十町、川ニ出テ小舟三艘ニ分乗ス、総人数四・五十人水濁リテ実際ノ鵜飼ノ猟ヲ見ル事能ハサリシモ、鮎ノ御馳走ハ豊富ナリシ ○中略 帰路汽車中大雷雨ニ遭フ、夜分帝国ホテルニテ特ニ晩餐会ヲ催サレ、男爵ノ謝詞ニ引続キ、渡辺得男・穂積重遠、其他塾生某及若主人氏ノ卓上演説アリ、何レモ大喝采ナリキ



〔参考〕(渋沢秀雄) 書翰 阪谷俊作宛 (昭和三三年)六月二七日(DK290053k-0003)
第29巻 p.179-180 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕青淵 第六七号・第三二頁 昭和二九年一一月 青淵先生のことども(蘆田均)(DK290053k-0004)
第29巻 p.180-181 ページ画像

青淵 第六七号・第三二頁 昭和二九年一一月
    青淵先生のことども (蘆田均)
 青淵先生に始めてお目にかゝつたのは、明治四十一年の春であつたと思う。私が第一高等学校を卒えて、東京の法科大学に入つてから、間もなくのことであつた。
 その頃青淵先生の次男武之助君・三男正雄君が、それぞれ高等学校に入学され、又近く入学されようとする年頃になられたので、学習のために寮を設け、その学友となり補導役を勤める大学生を同宿させようとの計画を立てられた。
 寮の監督は横山先生が全責任をとつてこれに当られたが、学友として選ばれた者は、遠藤柳作君と篠原三千郎君と私とであつた。武之助君は一高のフランス法科に在学中であつたから、同じフランス系を出
 - 第29巻 p.181 -ページ画像 
た私が専ら後見役を承つた。そして此仕事に私を推挙されたのは、恩師牧野英一先生であつた。
牧野先生から、この仕事を引受けるかどうか内意を問はれた時に、私は喜んでやつて見ましようと答へた。 ○中略
 克己寮(これは論語の愛読者であつた青淵先生御自身の命名であつた)は当初小石川の白山御殿町に開かれ、間もなく青山六丁目に移転された。われわれ六人の青年は家政婦一名の世話で何不足なくそれぞれの学校に通い、放課後は寮に帰つて寝食を共にした。三ケ年余りの寮生活は、誠に愉しい思出として残つている。
○下略
   ○右資料ハ刊行ノ際ニ追補セルモノナリ。