公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
第29巻 p.225-227(DK290070k) ページ画像
明治38年5月―同40年10月(1905-1907年)
是間栄一、徳川慶喜ヲ招待シ、足立少尉ノ戦死ヲ
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悼ミ、又ハ郷里血洗島ノ諏訪神社遷座式ニ列シテ和歌ヲ詠ズ。
渋沢栄一 日記 明治三八年(DK290070k-0001)
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渋沢栄一 日記 明治三八年 (渋沢子爵家所蔵)
五月八日 曇 風ナシ
○上略
徳川公爵を迎ひまつりて庭園の牡丹を見たるとき雨降りけれは
降りかゝる雨はなミたか深見草花もむかしをしのふなるらむ
○右ハ「竜門雑誌」第二〇四号(明治三八年五月)ニ掲載。
○中略。
七月十三日 曇 冷
○上略
足立少尉の戦死を悼ミて
つゝの音のほかの響もきこゆなり君かのこしゝいさをしのかつ
○中略。
十月一日
○上略
中村秋香氏ヘ書状ヲ送リテ、足立少尉追悼ノ歌ヲ遣ハス
○下略
渋沢栄一書翰 中村秋香宛 (明治三九年)二月一〇日(DK290070k-0002)
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渋沢栄一書翰 中村秋香宛 (明治三九年)二月一〇日 (中村小波氏所蔵)
爾来益御清適御坐可被成奉賀候、過日ハ兜町宅まて御抂駕被下候由之処、不在中不得拝晤欠敬之至ニ候、偖一事御教示相願候義者、此度深川区民等申合せ、区内より出身せし軍人之凱旋ニ対し祝賀之紀念として、扇面と盃とを分配可致都合ニて、其扇子之裏面ニハ川端玉章ニ依頼し、松か枝ニ白鷹之画出来いたし、小生ニ其表面ニ一首之歌相認候様との事ニ相成、頗る困却仕候、乍去折角区民一同之企望ニも有之候ニ付、拒絶候も不本意と存し、近頃頗る韵事ニ疎く相成候得共、色々と愚考之上別紙之歌出詠仕候間、御叱正被下候而歌ニ相成候哉、不取敢呈貴覧候、将又幸ニ御添削被下候而、扇面ニ記載候ニハ如何なる体裁ニてよろしく候哉、別ニ端書抔ハ必要無之と存候得共、其辺も御指示被下度候、又名前相認方ハ何れ之処ニて宜敷候哉、同しく御垂教相願度候、右者色々と細事まて相伺御鬱陶敷義と奉察候得共、何卒一書御教示之程奉願候、右申上度 匆々敬具
二月十日 渋沢栄一
中村秋香大人
玉案下
○別紙ヲ欠ク。
渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK290070k-0003)
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渋沢栄一 日記 明治四〇年 (渋沢子爵家所蔵)
一月三十一日 曇 寒 起床八時 就蓐十二時
○上略
あさひさす御はたのひかりとつ国にてりわたるまてみかけあきひと
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商人のうりてひろめて四つの海のはてもとなりと思ふけふかな
○下略
○中略。
五月十三日 晴 軽暖 起床七時 就蓐十二時
起床後直ニ入浴シ、畢テ朝飧ヲ為ス、食後庭園ヲ一週シ、穂積歌子ニ電話ヲ通シテ、中村秋香氏歌集ノ序ニ関スル事ヲ談ス ○下略
○中略。
五月十九日 晴 軽暑 起床八時 就蓐十二時
起床後庭園ヲ散歩シ、本日ノ来客ニ対スル設備ノ事ヲ家人ニ指揮ス、中村秋香氏ノ歌集ニ題スル歌一首ヲ書シテ穂積歌子ニ送ル
○下略
渋沢栄一詠草 明治四〇年(DK290070k-0004)
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渋沢栄一詠草 明治四〇年 (渋沢子爵家所蔵)
小涌谷に入浴しける時、風雨連日打続きて川々汎濫し帰京の途次を失ひたれは
月花につくりし罪やおほからめ函根の里にさすらひの身は
山すミの身はさすらひに似たるかなみやひの罪と人やいふらむ
○栄一、是年八月二十日ヨリ三十一日マデ箱根小涌谷ニ滞在。
竜門雑誌 第二三三号・第二八頁 明治四〇年一〇月 ○故郷なる諏訪神社の遷座式に列りて(DK290070k-0005)
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竜門雑誌 第二三三号・第二八頁 明治四〇年一〇月
○故郷なる諏訪神社の遷座式に列りて
青淵先生
あたらしき宮造りせし広前に
ふるきむかしを忍ふけふかな
身にまとふ錦なりけりそめいつる
わか故郷の庭のもみち葉
○下略
○遷座式ハ是年九月二十七日執行サル。本資料第二十六巻所収「諏訪神社」明治四十年九月二十七日ノ条参照。