デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

1章 家庭生活
4節 趣味
4款 囲碁・将棋
■綱文

第29巻 p.244-245(DK290073k) ページ画像

明治20年(1887年)

栄一、若年ヨリ将棋・囲碁ヲ弄ス。囲碁ハ明治十七年頃、村瀬秀甫門人、林千治ニ学ビタルコトアリ、是年アタリヨリ二者共ニ止ム。


■資料

雨夜譚会談話筆記 下・第六九六―七〇七頁 昭和二年一一―昭和五年七月(DK290073k-0001)
第29巻 p.244-245 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第六九六―七〇七頁 昭和二年一一―昭和五年七月
                    (渋沢子爵家所蔵)
  第二十五回 昭和四年十月十五日 於丸之内事務所
    三、先生の御趣味に就て
先生「趣味は余りたんとはない。字を書く事も趣味の一つだ。本を読む事は趣味と言へまいが、その外にヘボ乍ら詩を作るヨ」
敬 「義太夫もおやりになりますネ」
先生「義太夫は駄目だヨ(哄笑)それでも将棋は上手だヨ、今は駄目かも知れないが、大橋新太郎氏などには二チヨー位おろしていゝ相手だつた。福沢諭吉氏は強かつた、一度大隈さんの処で私とやつて私が勝つたら『渋沢君は変な人だ、将棋なんか強いとは思はなかつた、何処かで稽古でもしたのか、自分は強い積りで居たのだが…』など言つたヨ」
○中略
佐治「碁は如何でございましたか」
先生「碁はやりました。兜町にゐる頃、明治十七年頃と思ふが、後の中川亀三郎で当時林千治と云つた、これは村瀬秀甫の門人で、村瀬と一緒に時々兜町に来た。当時林千治は、二段位だつたと思ふ。尾高幸五郎が大変好きで、よく教はつたが、何時迄経つても下手で、私より二目位下だつた。月に二・三回位来たが、来ると私は一面打つてやめた。その後碁も将棋も止めて仕舞つた。多分明治二十年前後と思ふ、碁も将棋も好きではあつたが、どうも暇をつぶしていけないから、心を制して全く手にしない事にした。将棋に就ては面白い話がある。
 将棋は喜作が大変好きで、又可成り自信もあつたやうだ。或る時、喜作が江戸へ出ての帰りに、途々将棋指しと一緒になつて、大宮で二人が宿に泊ると、将棋の先生盤を持つて来て、一盤やらうと云ふので、まだ日の暮れない中に指し始めた。するとネ、先生、飛車・角行・香車と三チヨー降ろして来た。喜作も自信があるので、そんなに降さなくてもいゝ。此方も万更素人でもないからと云つた。すると先生が『段は』と聞く、喜作が段はないと答へると、それでは構はんと、きかないので、喜作は一盤まかしてやらうと思つて、やつて見ると負けた。又やつて又負かされた。後で聞いて見ると、此人は加藤何とか云ふ三段だつたそうであるが、此先生が其時喜作に『貴君は本当に稽古したのではない、降し将棋に、貴君のやうに来
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るのは定石外れだ。あの時は斯すればよかつたのだ、それでも素人では強い方だ…』などゝ散々冷かされたそうだ。それから喜作が自分の田舎には、自分の外に同じ位の指し手が居るから、是非来るやうにと云つて別れたさうだが、暫くして此先生が村へやつて来たので、私もやつて見たが、飛車・角行二チヨー降しで私も勝てなかつた。其後土居某と云ふ五段が村へ来たので、日を定めて私と喜作が教はつた。後東京へ出ても、大橋宗桂に指して貰つた事がある。大橋は幕府時代に、抱へ扶持を貰つてゐた人である。要するに碁・将棋は私の趣味だつたのを、時間潰しをしていけないと思つたから、止めて仕舞つたのである」
○下略
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢敬三・渡辺得男・白石喜太郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。