デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.14

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

3章 賀寿
1節 還暦
■綱文

第29巻 p.285-299(DK290097k) ページ画像

明治34年11月23日(1901年)

是日栄一、王子飛鳥山別邸ニ於テ還暦内祝ノ園遊会ヲ催ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK290097k-0001)
第29巻 p.285 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月廿三日 快晴
此日曖依村荘ニ於テ還暦ノ祝宴ヲ開ク、午後一時ヨリ庭園ノ入口ニ在テ客ヲ迎フ、来会スル者約千有余人、庭中旧時ノ両国八景ニ擬スル余興ヲ設ク、稲荷神社ノ脇ニハ神楽ノ棚ヲ架シ、其他種々ノ設備アリテ来賓ヲ饗ス、午後四時洋館前ノ広庭ニ於テ一場ノ演説ヲ為シ、畢テ立食ヲ饗ス、夕六時頃散会ス


(八十島親徳) 日録 明治三四年(DK290097k-0002)
第29巻 p.285 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三四年   (八十島親義氏所蔵)
十一月廿三日 新嘗祭 快晴
愈々本日ハ青淵翁還暦園遊会ノ当日ナレハ、八時過ヨリ王子ニ至ル、第一ニ好都合ナルハ、天気ノ快晴ニシテ而カモ余リ寒カラサル事也、凡テノ設備モ充分ニ整ヒ、接待委員等ハ午前ヨリ集リ、諸事支度ヲ整ヘ、午後一時ニ至レハ来客ハ馬車・人車ヲ駆リテ参集ス、予・石井健吾・野口半之助等ハ他ニ多クノ属員ヲ率ヒテ受付ヲナシ、又西洋庭入口内面ニテ主人同族来客ヘ挨拶ヲナス、二時過迄ニ参々伍々来集スルモノ凡ソ九百人、園内ニハ煮込・燗酒・ビール・鮓・瓦斯焼唐まん・煎茶・薄茶等ノ露店アリ、又余興ニハ三遊亭一座ノ両国八景、其他梅吉等ノ清元、如燕ノ講釈、海軍ノ楽隊、又稲荷神社側ニテ廿五坐神楽等アリ、男子客婦人客共、快晴ニ乗シテ園内ヲ散策シ、三時半頃西洋庭ニ来集、青淵翁ノ礼辞、徳川公ノ謝辞、ダヌタン白耳義公使ノ同上等アリ、夫ヨリ食堂ニ移ル、立食場ハ百廿五坪ノテント内モ所セマキ有様、婦人ノ部ハ別ニ三・四十坪ノテントヲ用意シ、玆ニ吾人ハ皿ニ盛リテ配ル等大ニ尽力セリ、食堂ニハ瓦斯ヲ引キ中々ノ趣アリ、五時頃ニハ来客徐々ニ帰路ニ就ク、夫ヨリ内輪ノ接待員等集食ス、予等大ニ疲労、八時半頃帰宅ス、徳子モ参リ婦人客ノ接待方ニ頗ル力メタリ


竜門雑誌 第一六二号・第五―八頁 明治三四年一一月 青淵先生還暦祝賀会紀事(DK290097k-0003)
第29巻 p.285-288 ページ画像

竜門雑誌  第一六二号・第五―八頁 明治三四年一一月
  青淵先生還暦祝賀会紀事
    ○王子曖依村荘園遊会の光景
青淵先生には本年満六十一歳の寿を重ねられ、我国古来の例に依れば所謂還暦に相当するを以て、去る十一月廿三日即ち新嘗祭の吉辰を撰び、祝賀の園遊会を府下滝野川村なる先生の自邸曖依村荘に於て開かれたり、村荘は飛鳥山公園と相隣したる丘上にあり、門を入り松楓点綴の間を経て玄関前より右折小門に通すれば、其広轄なること優に二
 - 第29巻 p.286 -ページ画像 
三千人を入るゝに足る広庭あり、是れより右すれば美麗なる華壇及盆栽を陳列せるあり、左すれば即ち後苑に入るべし、後苑は天涯限りなき関東の田甫に望みて、其轄然たる遠景殆んと写すに辞なし、日本鉄道の列車は眼下を走りて、王子の諸工場亦一望の間にあり、又広庭の後方には飛鳥神社の祠ありて、一段の風致を添ふ、更に其左方崖地に臨みて茶室あり、周らすに幽邃の林叢を以てす、総べて園の結構を見るに清洒閑雅にして、徒に人為を以て天然の美を損するか如きことなく、自然の風景と人工の美は相俟て益々雅致を加へり、数日来の好天気に加ふるに、当日は更に一層の好天気にして、途上一塵を起すの風なく、瞬時太陽を蔽ふの雲なく、恰も陽春三月の気候なりしかば、招きに応じ来り会する者内外朝野の貴紳淑女無慮一千名に近しとぞ註せられたり、其来会せる人々中には在朝の顕官あり、在野の政治家あり各種専門の学者あり、知名の実業家あり、各会社各団体に属する重なる人々ありて、其人数の多かりしよりも、寧ろ在らゆる階級を網羅せしに驚かさるを得ず、思ふに此の如く各種各方面の人々が一宴会の席上に集合せしことは、恐くは未だ曾て見さる所ならん、先生が啻に実業家としてのみならず、社会の各方面に於て如何に重要なる関係を有し如何に広く各種の人々と交誼を温められたるかを想察するに足らん来会者の重なる面々は曾禰大蔵・清浦司法・菊池文部の三大臣、徳川公爵、木戸・蜂須賀両侯、徳川(達孝)・土方両伯、青木・谷両子、岩崎弥之助・岩崎久弥・佐野・石黒・前田・松平・千家・川口・末松等の各男爵、寺内参謀次長、柴田翰長、阪谷・大森・安広・岡田等各省総務長官、松本鉄道作業局長官、両穂積、梅・岡野・原(竜太)・松波緒方・片山・佐藤・青山・河本・佐々木・高田・寺尾・天野・菊池・三好・箕作等の博士、肝付水路部長、目賀田・松尾両局長、手島工業学校長・駒井高等商業学校長・春木控訴院長・加藤全権公使・芳野世経・長森藤吉郎・内田嘉吉・久保田譲・三井三郎助・三井守之助・三井養之助・益田孝・安田善次郎・大倉喜八郎・浅野総一郎・園田孝吉近藤廉平・荘田平五郎・原六郎・今村清之助・豊川良平・高橋是清・相馬永胤・林有造・江原素六・大石正巳・矢野文雄・田健次郎・薄井佳久・山口宗義・有尾敬重・西村勝三・須藤時一郎・白耳義公使・米国公使・韓国代理公使等諸氏を始め八百余名にして、当日は玄関前受付に於て、紀念品として先生自作の漢詩と和歌を写せる美麗なる扇子を、園遊会案内図と共に来会の貴紳淑女に交付し、先生には令夫人・令息篤二氏・同令夫人・其他令息・令嬢を始め、親戚なる穂積陳重氏同令夫人・阪谷芳郎氏・同令夫人以下各家の令孫等と共に、園の入口に於て一々来賓を迎接せられたり
次に当日の余興の一斑を記さんに、広庭の畔りの一亭には特に海軍軍楽隊の奏楽場を設け、後苑の入口なる石橋より西方大山下の辺迄には両国八景に擬したる江戸時代の光景を写すの趣向にて、三遊亭円遊一座及桃川如燕等の連中にて戯曲を演じ、其前後左右には居合抜あり、売卜者あり、生人形あり、辻講釈あり、髪結床あり、伝授屋あり、池鯉付の守売等ありて、宛然旧幕時代の両国広小路の光景を忍はしめ、其他庭前には梅吉・菊太夫・延寿太夫等の催しに係る清元あり、更に
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又前に記るせる飛鳥神社の鳥居前には仮神楽堂を設けて廿五座の神楽あり、社前の両側には十数の田楽灯籠に面白き地口を掲げ、又露店としては瓦斯火力を応用せる瓦斯焼菓子店・煮込燗酒店・甘酒店を始めとして、寿司店・麦酒店等を庭内処々の吾妻屋に設けて、賓客の選む所に任せ、更に其閑雅を望むものには抺茶あり、煎茶ありて、清風掬すべく、来賓の歓待至らぬ隈もなし、斯くて午後三時三十分嚠喨たる奏楽の声と共に、来賓一同を広庭に導き、席定るや青淵先生には洋館の階前に進み、一揖の後本号社説欄に掲載せるが如き一場の挨拶を為されたり
右終るや徳川家達公は場の中央に進み、来賓一同に代つて左の如き祝辞を演述せられたり
 本日は渋沢男爵の還暦の御祝に際しまして、御招きを受け又只今御鄭重なる御挨拶を拝聴する事を得ましたのは、誠に光栄の至りに存ます、本日は種々御鄭重なる御饗応を蒙りまして感謝の至りに堪えませぬ、私は来会諸君の御同意を得まして、渋沢男爵並に御一家の繁栄を切に祈りまする
次て白耳義公使ダヌタン男は、外国人一同に代り英語を以て左の如き祝辞を演述し、田中銀之助氏之を邦語に通訳せり
 私は本日此盛大なる宴会に御招待を受けて甚だ満足の至に存じます私は本日来会の外国人の同情を得て、渋沢男爵閣下に感謝の意を表します、私は実に渋沢男爵閣下の如き人が、其主人公としての本日の如き宴会は、欧羅巴に於ても之に勝ることは出来まいと考へます日本では還暦の宴と云ふものは、即ち小児に還ると云ふことに申伝へられて居りますが、乍併渋沢男爵閣下は左様ではなく、益々盛んに再び今迄の歴史を繰返されんことを日本国の為めに希望致ます、私は米国公使閣下等の諸君に代つて、渋沢男爵閣下に感謝の意を表し、併せて此後渋沢男爵閣下の御名前を承つて、又渋沢男爵閣下の国家に尽さるゝ事を承つて、実に六十一歳の還暦の御祝は斯うであつたと云ふ事を記臆する事を信じ、且之を望むのであります、玆に私は外国人一同に代り、男爵閣下並に其御家族の健康を祝し、併せて厚く本日の御礼を申上まする
右終るや来賓一同は青淵先生の万歳を呼唱し、広庭の南方に予て備付ありたる食堂に入り、鄭重なる立食の饗応ありたり、立食場は大なる天幕張を以て二個を作りて、紳士と淑女との席を区別し、特に瓦斯を引きて灯火を点する等、用意極めて周到にして、来賓一同十二分の歓を尽し、午後五時頃より随意退散せり
因に記す、青淵先生の還暦に付ては、我国の習慣に従ひ諸方より祝品の寄贈等も夥しかりし由なるが、中にも第一銀行役員諸氏一同は斯道の名家長沼守敬氏に托して、先生の銅像(等身)を作りて祝賀の紀念に備へ、又既刊の本誌に記したる清水満之助氏・東京瓦斯会社・東京貯蓄銀行・長岡六十九銀行の役員諸氏の外、尚今回日本煉瓦製造会社及西村勝三氏より、還暦祝賀の紀念として各少からざる金員を本社の基本金として寄附せらる、其他尚ほ先生の還暦を祝して詩歌・文章等を寄せられたるもの夥しき由なれば、総べて此等の詳細は次号に掲載
 - 第29巻 p.288 -ページ画像 
すべし


竜門雑誌 第一六二号・第一―五頁 明治三四年一一月 ○還暦祝賀園遊会に於ける青淵先生の演説(DK290097k-0004)
第29巻 p.288-291 ページ画像

竜門雑誌  第一六二号・第一―五頁 明治三四年一一月
    ○還暦祝賀園遊会に於ける青淵先生の演説
 本編は去十一月廿三日王子曖依村荘に於て催されたる、青淵先生還暦祝の席上に於て、先生が来賓一同に向て述へられたる謝辞の速記なり
本日御尊臨を得ました貴紳淑女諸君に、一言謝辞を申述べとうございます、諸君の御存知の通り私は段々年を加へまして、今年は最早還暦の宴を開きまする仕合を得ました次第でございます、而して本日は従来私が御懇命を蒙りました貴紳淑女諸君の御来臨を請ひました所、夫夫御多用の所臨場を得ましたのは、私は申すに及ばず家族一同光栄の至りに存じますので、厚く感謝の意を申上げまする
実に光陰は流るゝ如く、歳月人を俟たずと古人の申しました如く、六十年の歳月は誠に短い間に経過したのでございます
併し短いと申すものゝ、是丈の星霜を経過しまする上に就ては、或時機の到来を待つとか又或事柄の成効を期すると云ふ点から見ますると甚だ長いやうにも感ぜられます、即ち長くも短くも感じますのが浮世かと考へられまするが、本日斯る好機会を得ましたのを幸ひ、私が此の世の中を経過しましたことに就て一言清聴を汚したいと考へまするので、之を御聞き下さいますのは諸君に於かれては甚だ御迷惑のことでございましやうが、私に取りましては非常な光栄と存じますのでございます、元来私は東京のものではございませぬ、少し法律語を以て手形記載法に依て之を申しまするならば、大日本帝国埼玉県下武蔵国旧称榛沢郡血洗島、今は改めて大里郡八基村と申す所で生れたものでございます
幼少の時に少々漢籍に依て教育を受けたので村学級の教へる極く僅かの教育を受けたのでございます、故に既に十四・五歳にて教育の時代を経過して十七・八歳からは即ち家業に服して農桑若しくは販鬻の事業に附きました、夫から二十二・三歳の頃からふと漢学教育から革命の思想を惹起し、或は又尊王攘夷と云ふ其頃の流行に感化せられて郷里を去ることになりまして丁度二十四歳の冬に京都に参りました、京都に於て窮途に彷徨しました末、只今巣鴨に居らるゝ一橋家へ召抱へらるゝことになりまして、即ち一橋家の極く低い身分の家来になりました、夫から両三年を経て一橋家の君公が宗家を御相続になつて将軍の職を御継ぎになりました場合に、私も一橋家から召連れられて幕臣に列しました、勿論其時も卑官で、国家の経営に従事すると云ふやうなものではございませぬでした、其年の冬徳川民部大輔即ち一橋家の御弟に当られます御方が、仏蘭西に派遣されます事に付て、此御方に扈随して海外に参りました、御国を出立したのは丁度慶応三年の正月でありました、夫から海外に居りましたのが、旅行と滞在と併せてざつと二年間で、明治元年の十一月に始めて日本に帰朝致しました、帰朝して見ますと世の中も全く変つて居りましたに付て、世の変遷に従つて慶喜公に従て静岡に永住するの覚悟を以て参りました所が、図ら
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ず明治二年に朝廷から召出されまして、大蔵省の官に就きましたのでございます、夫から三年余大蔵省に奉職して居りましたが、偖自ら考へまするに、学問も浅く智識も乏しく人に勝れた所もなく、加之世の中の有様を見れば官途のみが国家に必要でもなからう、素より十分なる研究は致しませぬでも僅に経過した欧羅巴の有様を見るに、第一に国家の真正なる繁栄は商工業の発達にある、然るに我国に於ては此商工業は、世間から疎んぜられ卑められて居るのである、此の状態で国家将来の富強を期するは、殆と低きに居つて湿を嫌ふ如きものであるから、どうぞ此の商工業を十分に拡張する事に勤めたいと云ふことを期念致しまして、終に明治六年の五月に官を辞し、爾来玆に廿七・八年商工業一途に私の一身を捧げて従事したのでございます、偖此間に於ける世の中の状態に付て見まするに、其進歩は政治社会も勿論左様でございましやうが、特に商工業に於て大に見るべきものありと申して宜いと信じまする、元来私は才も少なく力も微なるものでありましたから、私の為したる事は甚だ微々たることでございますけれども、最初期念したる所の全体の商工業の発達と云ふものに付ては、私自身も多少与つて力ありと申てもよからうかと思ひます、又其以来有力なる方々が続々輩出致した為めに、今日あるに至つたのは実に歓喜に堪へざる次第で、国家の為め大に祝すべきことゝ信ずるのであります、私が当年六十一歳になりまして、既往六十一年の歳月を数へて見ますると、殆ど十五年ばかりは郷里に居つて粗末ながらも教育を受けたる時代で、十六・七歳から二十一・二歳迄が農桑に付て親の手伝をした時代であつた、二十三・四歳の両年は前に申しました革命の思想を起したる時で、所謂尊王攘夷・民権拡張・政体変更と云ふやうな希望を以て世の中を推し歩いた時であつた、夫から窮途に彷徨した末、官に就て一橋家に仕へ、更に幕府の吏員となつて、引続き欧羅巴に往つて旅行並に留学のために二年間余を費し、帰朝して朝廷に仕へましたのが四年間ばかりで、差引き商工業に従事致しましたのが玆に二十七・八年間でありますが、段々考へて見ますると、其昔例へば農桑に従事し、或は尊王攘夷と云ふやうなことを考へたのが、是であるか非であるか、自分ながらも汗顔赤面に堪へませぬ、又其後の経過に付ても、此長い歳月の間に唯才もなく学もなく、大胆にも百事を企図計画して世の中を推し歩いたと云ふことは、誠に愧ぢざることを得ぬ次第である、己れは農民の家に生れたものでありながら、遂に革命の思想を起して上を軽んじ攘夷鎖港の説を主張して、時の政府を斃さんとまで思ひ詰めましたなどといふは、実に自ら愧ざるを得ん次第であります、斯の如く考へ来りますると、昔のことは総て非であつたと云はざるを得んやうであるが、唯々其の内に一つ少壮の時から今日迄私の心を欺かぬと思ふことがある、何んぞや即ち国家が大事である、国家は最も大切なものである、国家の為めには一家も一身も惜むに足らぬものである、是故に郷里を去る時も国家に対して努力する上からは、自己一身は何かあらんと考へた、此念慮丈は私を欺かぬのである、又如何に事物に失敗しても国家を愛し、国家のために赤誠を尽すと云ふ一念に至ては、革命の思想を起した四十年の昔より、始終同一の観念を持つ
 - 第29巻 p.290 -ページ画像 
て居つたのでございます、斯く考へまする時は非とのみとも言はれませず、今は是とのみとも申されませぬ、故に是非と云ふ事は何れを是とし何れを非とするか今日吾々が是なりと考へる所も、歳月を経過した後には新案を生じて大に非といふ議論を生ずるかも知れませぬ、是は何か哲学者の説のやうに聞えまするか、私が少壮の時より今日に推移し来た歳月の間に於て、世間の是非に大差を生じた事が多々あります、併し前にも申上ました如く、国を愛し君に忠なると云ふ一点に至つては、縦令是非の見解は異なることがあつても、亦時勢は如何に遷しても、決して動かぬと云ふ事は申し得られませうと思ひます、夫故に甚だ嗚呼がましい次第でございますが、此六十一歳を機会として、臨場諸君に進呈致しました粗末なる扇面の詩作も、只今申上げました所の国家と云ふものを重ずると云ふ一念を吐露するの微意を存したものだと御解釈を願ひましたなら、私の大に満足する所でございます
終りに臨んで一言申上げまするのは、此弊荘を曖依村荘と唱へて居る事でございます、蓋し私は一向文字もなく、又文雅も好みませぬので己れの居宅庭園に雅名を付すると云ふやうなことは致しませぬのでございますが、丁度明治十四・五年頃に或外国の客が沢山参られた時に多くの文人墨客が集つて此庭園は何と云ふ名であるかと尋ねられたか何も別に名はありませぬと申した事がある、其時に多くの文人墨客が此庭園の有様は、陶淵明の帰田園居といふ五言古詩中に、曖々遠人村依々墟里煙と云ふ句があるが、其趣に似て居るといふので遂に曖依村荘と云ふ名を付する事になりました、然るに其頃は如何にも人家も稀踈にして曖依村荘と云ふ趣もありましたが、其後鉄道は出来る、工場は出来る、煙突は建つと云ふ有様で、私が之を戯に形容しますれば殆んど轢轆階前車暗澹煙突煙とでも云ふやうな殺風景になつたのであるどうも兎角文明と風致とは多く衝突し易い者であります、今日尊臨を得ました諸君をも煙のために煩はし、何の風致もございませぬが、曖依村荘の名は今日も尚ほ存して居るのでございます、曖依村荘の名に依つて特に私が陶淵明を気取つて申す訳ではございませぬが、私は甚だ陶淵明を無邪気の人で、極く嫌味のない君子と感じて居るのであります、私が官途に就くことが嫌ひで、陶淵明が膝を屈せぬ所がとうだとか、其やうな賢人めかす訳では決してない、況んや昔窮途に彷徨したときは、私も一橋家に仕官して四石一人半扶持の役人になつたこともあるのであるから、さう云ふ意を以て申すのではございませぬが、彼の帰去来の辞と云ひ、帰田園居の詩作といひ、常に世の中を閑雅に送つたと云ふ行為に於ては、私の甚だ景慕に堪ぬのであります、斯く申す私は、決して歳寒見後凋の高節も傲霜晩節香といふ清操もなく、況や又楽夫天命亦奚疑矣といふが如き大悟徹底の域に至れるものではないが、乍併終身名利の間に汲々して、常に心を以て形の役と為すの境界は離脱することを得たいと思ひます、どうぞ飽迄も初めより心に期して来ました国を愛し、君に尽すと云ふ此の一つの天真だけは、十分保存し拡張したいと考へて居るのであります、斯る席に於て感謝の意を申上げる代りに、私の自ら期する所を述べまするは、或は失礼に当りますかなれども、平生の所感を尊聴に達しまするは、聊か自今自
 - 第29巻 p.291 -ページ画像 
ら持重する所があるのであります、どうか其意を以て御聴き下さる事を希望するのであります、終に臨んで、昨年以来還暦其他の事柄に付て、諸君から種々御祝下されました事を、此序を以て併せて謝意を申上ます


竜門雑誌 第一六九号・第三二―三六頁 明治三五年六月 ○青淵大人還暦賀筵(中村秋香)(DK290097k-0005)
第29巻 p.291-293 ページ画像

竜門雑誌  第一六九号・第三二―三六頁 明治三五年六月
    ○青淵大人還暦賀筵 (中村秋香)
王子の里滝野川村なる曖依村荘は青淵大人の別墅《なりどころ》なり、大人今年還暦の齢に満ち給ふに依り、十一月廿三日をもて常に交る人々をこゝに招き迎へて賀筵の園遊会を開かる、我が国実業の師とも親とも仰ぎ尊む大人の賀といひ、又此村荘は飛鳥山の公園に続きて周囲広く、庭園のさまおもしろく、眺望極めて勝れたるよしかねて世に聞え、殊に今日は新嘗の祭日なるに、小春の空のいとよく晴れて風もなくうらゝかなれば、かたかた我おくれじと来り集ふ人々ひきもきらず、案内せられし午後の一時にもいたらぬ程に、うまくるま既く門の内外に満ちあふれぬ、玄関の前には卓子を設け、受付挂の人々つどひ居て、賓客《まろうど》の名刺に引換へていとみやびたる扇子と、園遊会案内図とを渡さる、此扇子は大人が自ら書き給へる詩歌を毫《つゆ》もたがへず巧にすりものとしたるにて、男子には詩、女子には歌かけるなりけり、こゝの右なる中門を入れば、大人と令夫人とは、令息篤二君、及び令夫人、婿君なる穂積阪谷の両博士、並にその令夫人たち、又その外なる令息令嬢、家々の令孫たちとゝもに、賓客を迎へて懇に会釈あり、こゝはいと広らかなる芝生にて二・三千の人をもゆるやかに容るべく見渡さる、折れて右に行けばみやびたる花壇ありて、さまゞゝの花卉を植並め、いろいろの盆栽をすゑ渡したれば、此道嗜まん人は終日みるとも尽すまじとぞ思はるゝ、こゝを出でゝたどれば飛鳥神社の祠あり、常磐木の木立ものふりていとかうがうし、鳥居前なる仮の神楽堂には二十五坐の神楽ありて、笛つゞみのはやしおもしろく、絶えず舞ひかなで、又このわたりのこゝかしこ、おどけたる絵に地口かきたる田楽灯籠をかゝげ列ねたるさま、さながら初午稲荷のけしき覚えていとをかし、これらは今日の余興のうちなりとぞ、生茂りたる竹の下道を過ぎて、秋のかたみとちりつもる紅葉をふみわけ行く程、松の柱、竹のあみ戸、いとことそぎたるしをり戸あり、とざしこそせね、松菊猶存帰去来辞 門雖設而常関また三逕就荒松菊猶存ともいふべき逕のかなたに、佗びてみやびかに、窶して面白き茶亭たてり、はひりのけはひはかきこもりところせげなるさましたるを、打囲みたるおどろ垣をめぐりて背門に出づれば、千町田のたのもはたゞ一眸のうちに聚るともいふべきゆくりかにおもひかけずうち晴れたる眺望ありて、目まどひ胸さへとゞろくべし、こゝにては来る人ごとに抺茶すゝめて点心のもてなしあり、この亭の左につゞきてみやびかに作りなしたる納涼台あり、暑き頃又は中秋のゆふべ、こゝにて月のひかりまちとりたらんよ、いかばかりの心地せんとぞおもはるゝや、台を下りてさゝやかなる土橋を渡れば後園に出づ、こゝには江戸将軍の頃なる両国の八景に擬へし余興ありて、落語・辻講釈・居合抜生人形・売卜者・髪結床・伝授屋・地鯉鮒の守売など、こゝかしこに
 - 第29巻 p.292 -ページ画像 
座を占め席を設けて賓客の興を釣り、又延寿太夫・梅吉・菊太夫などいへるが清元を弾きつれてこなたかなたそゞろきありくさま、げにその頃の両国広小路はかくこそとおもひいでらるゝに、広庭のかなたなる奏楽場には海軍々楽隊の奏楽絶ゆるまもなく、梁の塵を飛し、空行く雲を停むるなど、おもしろくもをかしくも、はた賑はしくいさましくして興味いはんかたなし、園中のこのもかのもには瓦斯焼の菓子店あり、煮込燗酒店あり、甘酒店あり、寿司店あり、麦酒店・煎茶店ありて往かふ人を呼び、入来る人を迎へてねもごろにもてなすさま、まことに至り尽せり、そもそもこゝは公園に続きたるところなれど、その東に隣れるけにや、けしきことに広く、筑波嶺のたゝずまひ、豊島川の流のさまもおのづからおもむきを異にし、風をおひてゆく舟の帆はうらうらと照渡れる日影に匂ひ、うち渡す千町田はげに沃野千里ともいふべきさまにてはるかにみそらの末につゞき、遠かたはなにとなくうちかすみたる風景、画にも文にもつくすべからず、庭園の作りざま、寝殿の前は広らかなる芝生にて高きひきゝさまざまの木植渡し、大き小きいろいろの石置据ゑたる、すべてありふれたるさまならで、一ふしをかしくしつらひたるは、前にいひしらぬ眺望あるによるなるべし、松桜楓などの木のまのま、ところごろの四阿《あづまや》には、ことごとく倚子卓子を備へ、又こゝかしこに腰挂ありて心のまゝに休らふべく、崖には幾筋となき小径ありてこゝよりかしこに、かしこよりはかなたに、互にかよふべく作りなし、つゞらをりなる、すぐよかなる、蛇のごとくうねりたる、帯のごとくうちはへたる、又崖地は芝生のなだらかなる、岩間谷陰のこゝしき、木蔭のをぐらき、笹原のうちはれたる千引の岩のはざまよりしたゝり落つる清水あれば、千歳の松の影をうかべて常磐に澄める泉あり、すべてそのところどころにてけはひ趣を異にして目を新にし、心を慰むるさま、紅葉山はかけまくもかしこし後楽園の趣にさも似たり、これはた前にひろらなる眺望あるよりの心しらひなるべしかし、かくて三時半ばかり、一際花やかなる奏楽ありてすべての賓客を広庭の芝生に導き、大人これを洋館なる階《きざはし》のもとに迎へ、先づ今日来会のかたじけなきよしをのべ、さらに大人が幼かりし時より今日にいたるまでの履歴のあらましを物がたり給ひ、これにつぎて徳川公爵は、すべての賓客に代り、又白耳公使檀努坦男は外国人すべてに代りて、おのおの祝辞をのべらる、これら演説のくはしきことは筆記に譲りて今はしるさず、事はてゝ賓客こぞりて万歳と呼ぶ声のひゞきは、まことに遠く筑波嶺を動かし、遥に豊島川の波をもあぐべくぞ聞えたる、かくて広庭の南にかねてしつらひおかれし男女二かまへの幄舎《あけはり》の中にて盛なる立食の饗宴あり、こゝには瓦斯を引きて灯火となしたれば、光ひるよりもあざやかにて、暮れやすき日影をもうちわすれ、人々あくまで興に入り、五時過ぐる頃よりやうやうあかれさりぬ、此日の賓客には大臣はじめの貴顕、公爵はじめの華族、諸博士・諸学者・詩歌連俳書画道々につきて世に知られたる人々、政治家・実業家の名高き、会社団体の頭立ちたる人々、公使はじめの外国人など、凡そ千余人と聞え、しかもこの千余人の夥しき人々は、ことごとく今の世その道々につきての名流のみおのづからえりすぐられた
 - 第29巻 p.293 -ページ画像 
るをおもへば、大人の常に交り給ふところいかばかり高く、いかばかり世にすぐれ、且いかばかり広く盛なるかをうかゞひ知るべくこそ、あはれ賀の筵にしてかく道々のすぐれ人たちのあまねくつどひあつまりたるは、いにしへより類まれなるべく、又賀の筵にしてかく経歴の事を語らふはいとふさはしきわざなるを、いかで今までさるならはしはなかりけん、今より後の賀には必ずこれを例とせまほしくこそ、さるは大人の如く履歴に富めらんこそは難かるべけれど、賀をなす程の齢を得たらん人は、さはいへ多少のものがたりなからじやは、秋香をちなけれど幸に今日の筵の末につらなり、親しく庭園のさまを見、又大人の演説を聞くを得て、深く心に感ずるところあり、そは此庭園のおのづから東皐帰去来辞 登東皐以舒嘯、臨清流而賦詩にうそふき、清流にうたふともいふべき趣ありて、又大人の夙に楽夫天命亦奚疑矣といへるいみじきさかひに逍遥せらるゝなど、ともに曖依の名のまことに能くふさへりとおもへばなり、大人はかの天命を楽しむといふがごとき大悟徹底の域には至らずと述べられしかど、そは謙遜の語にて、はやく名利のきづなをたち、心をもて形の役となすの境を遠く離れられしは、かの勅任の顕官を辞すること敝履を棄つるがごとくなりしたぐひの事ども、六十年史を繙くものは明かにこれをしるべく、殊にかの歳寒見後凋といひ傲霜晩節香といへるが如きは、やがて大人をうたふものとしてもみるべきものあるをや、かくおもひつゞくるにつけても今日のさまのめでたき、後のよの語らひ草ともなさまほしく、そゞろに筆のしりくはへてかくなん
 この日東京印刷株式会社社長星野錫氏は、今日の筵の盛なるありさまを千歳のゝちに伝へてまのあたり見るがごとくならしめんがために、写真にとゞめて大人の家におくりまゐらせばやとて、みづから撮影し、さまざまなる技術によりてかくは製版印刷せられしなり、さるは、此会社はとしごろ大人のあつきうしろみにより技術も大にすゝみて、今日の如き盛大をも見るに至れゝば、せめてそをよろこぶこゝろざしのちゞかひとつもみえまつらんとのわざなりとぞ、氏たまたま余が此文を見てよろこばれ、いかで之をはしがきにかへてのせましかば、文によりてかたのこゝろをしり、又かたによりてふみのかたちをも見てましものをと、ねもごろにそゝのかさるゝまにまに、さらばとてやがてそのはしにかきつゞりぬ、
                    (明治三十四年十一月)



〔参考〕渋沢栄一書翰 明治三四年一一月一三日(DK290097k-0006)
第29巻 p.293 ページ画像

渋沢栄一書翰  明治三四年一一月一三日   (渋沢子爵家所蔵)
拝啓《(刷物)》、陳者栄一還暦心祝ノ為メ来ル二十三日飛鳥山弊荘ニ於テ園遊会相催シ候間、同日午後一時御賁臨被成下候ハヽ光栄之至ニ奉存候、此段御案内申上候 敬具
  明治卅四年十一月十三日       男爵 渋沢栄一
                       同兼子
      殿

 - 第29巻 p.294 -ページ画像 


〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一一巻・第三三八頁 昭和一一年三月刊(DK290097k-0007)
第29巻 p.294 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第一一巻・第三三八頁 昭和一一年三月刊
    渋沢栄一男が還暦の園遊会
〔一一・二五 ○明治三四年報知〕 一昨廿三日渋沢男の私邸なる王子の曖依村荘に於て、還暦祝の園遊会ありしが、来会者は朝野の紳士・学者・実業家・新聞記者等無慮千余名にて、外人及び貴婦人も多く見受けたり園中には神楽台・両国八景・講談師・大道演芸・生人形・居合抜等の催しあり。処々に麦酒店・茶菓子店・茶室等をも設けて、思ひ思ひに飲食せしむるなど、用意頗る行届けり、午後四時頃主人青淵翁は来賓一同に挨拶を為し、埼玉の農家に生れて十五才迄村夫子に教育を受け廿三・四年迄農桑の業に従事し、其れより故郷を出で尊王攘夷を唱へて浪人生活を為したること、一橋家に仕へ、尋で幕臣と為りて洋行したること、後ち維新の際明治政府の役人と為りたることを述べ、思ふ所ありて政府を退き、爾来二十七年間全く商工業界に尽したる経歴を語りて、斯く一身の変遷はありたれども、始終国家を思ふの念は曾て忘れたることなしとの趣意を演説したり。次に公爵徳川家達氏来賓に代て答辞を述べ、白耳義公使は外人を代表して、日本に還暦と云へば小児に還へるとの意味ありと聞けども、渋沢男に望む所は、成る可く小児に還へらずして、益々熟練の手腕を国家の為めに尽さんことに在りとの趣旨を英語にて述べたり、軈て設けの食卓に就き、散会したるは午後五時過なりき。



〔参考〕中外商業新報 第五九五二号 明治三四年一一月二六日 渋沢男爵邸の園遊会(DK290097k-0008)
第29巻 p.294-295 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕東京経済雑誌 第四四巻第一一〇九号・第一一〇四頁 明治三四年一一月三〇日 ○渋沢男爵の還暦祝(DK290097k-0009)
第29巻 p.295-296 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕実業之日本 第四巻第二三号・第六二―六四頁 明治三四年一二月一日 一口ばなし 嬌溢生(DK290097k-0010)
第29巻 p.296-298 ページ画像

実業之日本  第四巻第二三号・第六二―六四頁 明治三四年一二月一日
    一口ばなし             嬌溢生
      (渋沢男の還暦園遊会)
◎実業界の泰斗渋沢栄一男が今年六十一歳に達せられたので、還暦の祝ひとして園遊会を王子滝の川の別荘曖依村荘で催された、僕も招かれて往つたから其模様から心附た面白い事共話さふ。
◎一体還暦と云ツて昔から祝ひをするが、其理由は十干十二支を合せると、六十一で数が元へ戻るから、本卦還りと云ツたり、又は子供に還ると云ツて大に祝ふのだ。
◎当日庭園の人口には渋沢男並に令息篤二氏が洋服で左側に、両令夫人及び同男の息女穂積陳重・阪谷芳郎両令夫人は何れも白襟紋付裾模様のお揃ひで左側《(マヽ)》に立て、一々客を迎へられた、小春日和とて園遊会には持て来いの上天気ではあるし、其れに庭園は飛鳥山続きの高台ぢやから、庭先へ出れば一望千里、田園の秋色を眼下に眺むるので実に曖依村荘(陶淵明の曖々遠人村、依々墟里煙)の名に背かない、シテ又庭内は中々広い者で、松や楓は点綴して芝原と池とは程能く配剤せられて居るし、築山の工合なんども先づ申分ない。
◎園内には所々に煑込燗酒・麦酒・甘酒・煎茶・薄茶などの露店を設けてある。其れに瓦斯焜炉で即座に菓子を拵へて、暖かい所を下戸に進めるなんぞは好い思附だ、何れ優り劣りはなく繁昌したが、併し上戸向の露店は景気が好かつた。
◎余興には海軍々楽隊と神楽の外に、両国八景とて講談師・生人形・売卜・居合抜等江戸時代の大道演芸に擬した芸人の技芸があつたが、如何にも面白可笑しく、昔忍ばるゝと評する老人もあれば、滑稽至極と腹を抱へる紳士もあつた、其中でも殊に喝采を博したのは生人形であツたが、人形にしては余り身振ひが上出来過ると思つて、能く能く見ると真の人間であツたのでイヤハヤ大笑サ。
◎其れから売卜先生に担がるゝのは甚だ面白かツた、何んでも悪いことは一ツも云はない、甘いことばかり併《(マヽ)》べ立てる、其処で或紳士が真面目腐て、僕は今婚姻を勧められて居るが、ドウだらう卜て貰ひたいと言ふと、手の筋を見て、是は貴下の方では左程でもない様ですが、先方では大層御熱心で若し此縁談が纏らないと危害が来ますと判断した、スルト紳士は手を拍て笑て曰ふのに、実は先月結婚して仕舞ツたのぢやと、売卜先生抜からず其れは御芽出とう……。
◎さて此日の来賓は一千余名で、朝野内外の貴紳・学者・実業家等、社会方面の萃を集めたものぢや、貴婦人の賓客も少くない、男子は皆フロツクコートにシルクハツト、稀れには和服に普通帽の向も見受け
 - 第29巻 p.297 -ページ画像 
た、婦人は白襟紋付裾模様であツたが、中にタツタ一人背の高い色白な美人が洋服の粉装には人目を惹ひた、後で聴たら宮内次官川口武定男の令夫人ぢやそうな、園遊会などには背の高いスラリとした婦人は目立て徳ぢや。
◎淑女は少なかツたが、令夫人は沢山見受けた、岩崎弥之助・岩崎久弥・豊川良平・近藤廉平・加藤正義・浅野総一郎・益田孝・荘田平五郎・原六郎・末延道成・西村勝三・原亮三郎諸氏の令夫人を始め、本年初刊の第一号附録にあツた夫人の多くは見受けた様だ、中にも原夫人は小紋縮緬の紋附を尻ハシヨツて、大々的身体を軽く動かして斡旋して居られたのは一入目に着いた。
◎広い庭園の彼処此処に大勢の紳士が集ツて話す賑はしさ、其れにおでん燗酒、ビヤホールに微酔を帯びて来るから、笑ひ興ずる音、何処から見ても和気靄々として我と我を忘るゝ許りと言ツても宜しい位ひ殊に久振りで珍らしい人に逢ふから、色々なことが分ツて此上もない好都合サ、軈がて三時半と覚ぼしき頃、嚠喨たる奏楽に誰れ言ふとなく自然に一同の足が食堂近く西洋館の階前へ向ツた、集れと云ふのか来れと云ふのか知らないが、彼の音楽許りは不思儀《(マヽ)》に人の方向を一致させる、陶淵明の帰去来でも聴く様な心地がするテ。
◎渋沢男爵は階前に立て一場の演説をされたが、先づ還暦の喜びから自分は埼玉県武蔵国大里郡血洗島村の農家に生れて尊王攘夷を唱へ、後徳川慶喜公へ仕へて、公の令弟なる民部公子に随ひ仏国に遊び、維新後政府に出仕し、次で官を罷めて玆に二十有七年商工業に従事したる次第を述べて、其間出所進退の変化一ならざるも、忠君愛国の熱情を以て国家の為めに尽すの精神は終始一貫せりと語られた、其言語の明晣なる其態度の快活なる、殊に満面喜色を帯びて居られたのには誰一人感心しない者はなかツた。
◎是れが六十一才の人かと思ふと、其健康には実に羨ましい、今の世で還暦の祝ひに彼の位ひ元気のある人は恐らくはあるまい、其れに僕は渋沢男の演説中に『国家の繁栄は商工業を発達せしむるより外に途が無いと信じて、当時最も軽蔑せられて居ツた商工業に身を投じた』との一言を聴いた時に、嬉れしくて飛び立つ許りであツた、恐らくは多数の紳士は皆手に汗を握り腋下風生の感あツたろふと思ふ。
◎徳川公爵は来賓一同に代つて、謝辞と祝意とを述べられ、又白耳義公使は外賓を代表して、頻りに渋沢男爵の幸福と健康とを祈られた、其れから歓呼湧くが如き万歳裡に、来賓一同は特に設けられたる食堂へ案内せられて叮重なる立食の饗応を受けた
◎ビール・葡萄酒・シヤンパンに酔ふて、顔を紅葉よりも紅にして気焔を吐く先生は多かツた、豊川良平氏なんぞは松尾臣善・波多野承五郎・市原盛宏諸氏を相手に不得要領の気焔を吐いて帰るを忘れ、妻君に促がされて漸く帰途に就いた、又浅野総一郎氏は酒のお蔭で追々本性を現はし、夜会結びの某芸妓の側を動けぬかツたなんぞは罪が無かツた
◎庭内に小さな飛鳥神社がある、其両側の灯籠の文字が甚だ面白い、曰く六十の茶ならひ。(六十の手習の洒落)、曰く新宅あれば饗応あり
 - 第29巻 p.298 -ページ画像 
(陰徳あれば陽報あり)、曰く人望の子沢山(貧乏の子沢山)曰く『以可托六才之子以可呼百里之姪』と、其れから又狂言見立は短冊に種々の意匠を凝らしたのは感服の外ない。
◎渋沢男が作られた今年元旦の詩を扇子に印刷して、来賓一同へ配布された、其詩に曰く『頓驚節序又加新、塵界何辺養我真、今是昨非都若夢、徒迎六十一年春』青淵先生又這般文学的の趣味あるには敬服敬服。
◎園遊会は無感想で殺風景だと言ふ者があるが、決して左様では無い其れに沢山のお客を招待する時は今の日本では遊園会より外に場所も遣方もない、殊に当日の園遊会は最初入口で案内図を渡されたから、何処に何があるかスツカリ分るので大層宜かツた、其れに便所のある所を図に示してあツたのは婦人に取りて最も宜かツた、婦人は便所に往きたいと思ふても、場所が分らないと委員らしき人を探して『失礼ですが便所は』と聞くのは随分恥しいそふぢや、此日の用意周到なのは此一事でも分る。
◎人の懐を勘定しては済まないが、此園遊会は莫大な費用であツたろふ、お客をしない者は物入りを知らないが人を招くと云ふことは意外な費用が入るものだ、此日案内状は一千五百通出たそふだから、少なくとも一千名以上の来賓ぢや、皆馬車や車だから、車夫許りでも千名以上だ、況して綱引が多いから、其れで車夫一人に三十銭祝儀を出されたそふだから、是れのみでも三百円、否どうしても四百円以上だろふ、以て莫大な費用が懸かツた大御馳走と云ふことは分る、人も此位ひの大御馳走する程に成功すりや甘いものぢや。



〔参考〕穂積歌子 蘆谷蘆村著 第二六三―二六四頁 昭和九年一月刊(DK290097k-0011)
第29巻 p.298-299 ページ画像

穂積歌子 蘆谷蘆村著  第二六三―二六四頁 昭和九年一月刊
    第九章 其の才学
○上略
 夫人 ○穂積歌子のなさつた仕事の中で、特筆大書すべきものは、琴歌の改良であります。夫人が山田流の琴を山登万和検校に就いて学ばれたことは前に述べました。 ○中略 その歌詞の中には、淫靡にして耳を掩はしめるやうなるものもあり、親子姉妹揃つては演奏出来ぬ始末であつたのは、心ある人の遺憾としたところでありました。歌子夫人はこのことをいたく慨かれ、つひに、中村秋香大人と山登検校とを語らうて時代に適応した琴歌の改良と新作とを企てられました。さうして、特に歌詞の淫靡な「赫夜姫」「江の島」「蓬莱」の三つの曲を改作し ○中略 多数の新作を得て、「山登新作箏曲集」として公にされました。其の新作とは
  地久節  (中村秋香作)
  ○中略
  四季の栄 (穂積歌子作)
  ○中略
 今日山田流の琴曲を学ぶものは、皆改作された歌詞によつてゐるので、昔のやうに教育上眉をひそめるやうなことのなくなつたのは、主として夫人のおかげによるのであります。
 - 第29巻 p.299 -ページ画像 
 上に掲げた「四季の栄」は、渋沢子爵の還暦を祝ふために作られたもので、非常にすぐれた歌であります。
 たらねちの、親のかふこの、まゆごもり、こもりもあへず、世のために、二たび三たび、身をかへて、かへるや春の、花暦、梅と桜の中垣に、咲ける色香の、三千とせの、桃こそ君が、かざしなれ、合ふくや軒ばの、あやめ草、長きためしと、引はへて、限りもはてもなつびきの、手引の糸を、くりかへす、そのをだまきの、つがね緒や、合染めし千しほの、もみぢ葉は、いく露霜の秋の色、くもりなき代の、朝日子に、匂ふゆるしの、からにしき、着つつ帰れる、故郷の、もとあらの小はぎ、おきあまる、露の玉もひ、くむからに、老もわかゆと、きくの□《(花カ)》、八重さく枝を、九重の、たはりの袖に、折りはへて、安くこえませ、千代の坂、合冬枯しらぬ、此園の、ときはの松に、八千代ふる、雪の毛衣、かさねつゝ、鶴はのどかに、舞ひ遊び、いやすみまさる、池水の、青き淵には、万代も、よはひつきせぬ、亀ぞすむなる。
○下略