デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 9. 清水家
■綱文

第29巻 p.375-382(DK290110k) ページ画像

 --


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK290110k-0001)
第29巻 p.375 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十二日 晴
○上略 午後六時新橋湖月楼ニテ清水組年始ノ招宴ヲ受ク ○下略
   ○中略。
六月廿七日 曇
○上略 午後六時浜町常盤屋ニ於テ、清水満之助催ス処ノ穂積陳重・男篤二欧米行送別会ニ出席ス ○下略
   ○中略。
七月十七日 曇
○上略 夕方向島八百松楼ニテ清水満之助招宴ニ列ス ○下略
   ○中略。
七月廿六日 曇
○上略 午後四時王子別荘ニ於テ抹茶ノ客ヲ招ク、佐々木勇之助・市原盛宏・佐々木清麿・西園寺亀次郎・清水泰吉・足立太郎六氏来会ス、各歓ヲ尽シ夜九時過散会ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK290110k-0002)
第29巻 p.375-376 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
三月二日 曇
○上略 畢テ浜町常盤屋ニ抵ル、清水釘吉・原林之助・岡本銺太郎諸氏及辰野工学博士ト会話ス、夜十時兜町ニ帰宿ス
   ○中略。
五月三十日 雨
○上略 午後一時第一銀行ニ出勤シ清水泰吉ニ婚儀ニ関スル事ヲ話ス ○中略 午後五時田町浅野氏ヲ訪ヘ清水氏ト結婚ニ付結納ノ儀ヲ収ム、主人夫妻及縁女幸子ト会話シテ夜八時過深川宅ニ帰宿ス
   ○中略。
七月八日 雨
○上略 午後二時永田町清水泰吉宅ニ抵リ、結婚ノ媒妁ヲ為ス、蓋シ浅野総一郎三女幸子ト婚儀ヲ行フナリ、浅野・清水両家ノ親戚相会シ、儀畢テ夜十時兜町ヘ帰宿ス
   ○「浅野総一郎」ノ項参照。
   ○中略。
七月十二日 雨
○上略 五時向後八百松楼《(島)》ニ抵リ、清水満之助ノ招宴ニ出席ス、夜十時深川ニ帰宿ス ○下略
   ○中略。
十月廿五日 曇
○上略 午後五時清水満之助招宴ニ列ス、種々ノ余興アリ ○下略
 - 第29巻 p.376 -ページ画像 
   ○中略。
十二月廿二日 晴
○上略 三時帝国ホテルニ抵リ ○中略 五時清水泰吉氏結婚披露会ニ出席ス、食卓上一場ノ披露演説ヲ為ス、此夜梅若実ノ謡曲アリ ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK290110k-0003)
第29巻 p.376 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三三年   (八十島親義氏所蔵)
十二月廿二日 晴
○上略 午後五時ヨリ清水泰吉氏結婚披露ノ宴ニ被招、帝国ホテルニ至ル来客七十名、妻君連モ多シ、余興ハ梅若ノ能(高砂)(望月)及狂言(素袍落)也、食堂ハ大食堂ヲ用ヒ、媒妁人タル青淵先生ノ食卓演説来賓惣代トシテ岸清一氏、又主人トシテ清水ノ挨拶等アリ、来客ハ大学教授・第一銀行員及法学士連等ナリシ、十時帰ル


竜門雑誌 第一四六号・第五六頁 明治三三年七月 ○清水泰吉氏の結婚(DK290110k-0004)
第29巻 p.376 ページ画像

竜門雑誌  第一四六号・第五六頁 明治三三年七月
○清水泰吉氏の結婚 第一銀行文書課長たる清水泰吉氏には、浅野総一郎氏の第三女幸子嬢と結婚の約を結ばれ、本月八日青淵先生の媒妁にて永田町二丁目の新邸に於て目出度華燭の典を挙げられたり


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK290110k-0005)
第29巻 p.376 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月廿七日 晴
○上略 午後五時浜町常盤屋ニ抵リ、清水家ニテ開キタル長谷川一彦氏ノ送別会ニ出席ス、種々ノ余興アリ ○下略
   ○中略。
二月廿三日 晴
○上略 午後五時兜町ニ帰宿、此夜清水梅子来ル、清水家政ノ件ヲ内話ス
○下略
   ○中略。
二月廿八日 晴
午前清水釘吉・同一雄二氏来リ、家政ノ事ニ付テ談話ス ○下略
   ○中略。
五月廿八日 晴
○上略 午後五時五十分発ノ汽車ニテ浜町常盤屋ニ抵ル、清水満之助ノ招宴ニ応スル為メナリ、辰野博士・清水釘吉・同一雄・原林之助・岡本銺太郎来会ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK290110k-0006)
第29巻 p.376 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 晴
○上略 浜田岡田楼《(町)》ニ抵リ清水組ノ宴会ニ出席ス、来会者六十名余、種々ノ余興アリ ○下略
   ○中略。
四月十二日 晴
○上略 午後五時再ヒ帝国ホテルニ抵ル、清水家ヨリ余ノ海外行送別ノ宴ヲ開クニ会ス、同族一同及同行者悉ク来会ス、種々ノ余興アリ ○下略

 - 第29巻 p.377 -ページ画像 

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK290110k-0007)
第29巻 p.377 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
八月廿四日 晴
○上略 七時朝飧後書類ヲ整理シ、十時兜町事務所ニ抵ル、原林之助来リテ清水組家政ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
八月三十日 晴
○上略 午前九時清水釘吉来ル、清水組営業上ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月十六日 曇
○上略 九時兜町事務所ニ抵リ、清水釘吉・原林之助・田中・高橋ノ諸氏ニ面会シテ、清水組営業上ノ事ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
十月廿二日 雨
○上略 午後六時常盤屋ニ抵リ清水・原二氏ノ招宴ニ出席ス、佐々木勇之助氏来会、清水家営業ニ関スル従来ノ経歴ヲ談話ス ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三六年(DK290110k-0008)
第29巻 p.377 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三六年   (八十島親義氏所蔵)
七月十六日 晴
○上略 本日午後五時ヨリ清水方夏季宴会ヲ帝国ホテルニ於テ催フスニ付招カレテ至ル、之ハ従来一月・七月ノ両度ニ、決算後平生恩顧ノ人々ヲ招待スルノ宴会ニシテ、是迄ハ常ニ八百松・岡田・亀清・湖月等日本料理ニ限レル様ナリシカ、今年ヨリ模様カエニテ西洋式ヲ採リシモノ也、同シ余興ヲ聞クニモ、打混シテ交話スルニモ、又食堂ニテモ何レモ究窟《(窮屈)》ナラズシテ好評ナリキ、殊ニ食事終ラントスルニ臨ミ、釘吉氏ノ挨拶、渋沢男ノ謝辞等モアリテ、形ノ上ヨリ見ルモ中々上首尾ニ見受ケタリ ○下略


渋沢栄一 日記 明治三八年(DK290110k-0009)
第29巻 p.377 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十四日 晴 軽暖
○上略 午後三時半柳橋亀清楼ニ抵リテ、清水組ノ宴会ニ出席ス、店員一同ヘ訓示ノ辞ヲ述ヘ、夫ヨリ宴席ニ列ス、余興数番アリ、夜九時半頃人車ニテ王子別荘ニ帰宿ス


(八十島親徳) 日録 明治三八年(DK290110k-0010)
第29巻 p.377 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三八年   (八十島親義氏所蔵)
一月廿四日 晴
○上略 午後四時ヨリ清水方佳例ノ宴会ニ亀清ニ臨ム、男爵永ク引籠リノ為メ一昨年七月以来ノ開宴也、不相変四・五十名ノ来客ニシテ、小清昇之助等ノ義太夫、円遊ノ落語等ノ催アリ、午後九時帰宅ス
○下略


渋沢栄一 日記 明治三八年(DK290110k-0011)
第29巻 p.377 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
七月二十八日 晴 暑強シ
○上略 六時亀清ニ抵リ清水組ノ饗宴ニ出席ス、種々ノ余興アリ、夜十一時王子ニ帰宿ス
 - 第29巻 p.378 -ページ画像 


中外商業新報 第七〇八二号 明治三八年七月三〇日 ○清水組の饗宴(DK290110k-0012)
第29巻 p.378 ページ画像

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渋沢栄一 日記 明治三九年(DK290110k-0013)
第29巻 p.378 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十二日 晴 寒甚シ          起床七時三十分 就蓐十二時
○上略 四時半亀清楼ニ抵リ清水組ノ宴会ニ出席ス、小女美団一坐ノ演劇ヲ余興トシテ頗ル盛会ナリ、数番ノ演芸ヲ観畢リテ、夜十二時王子別荘ニ帰宿ス


(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK290110k-0014)
第29巻 p.378 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年   (八十島親義氏所蔵)
一月廿二日 快晴 真ニ風寒シ
○上略 今日午後五時ヨリ清水方ノ新年宴会ニ招カレ亀清ニ至ル、如例渋沢主人公・大倉・浅野・大橋・村井等以下数十人ノ賓客ニシテ、余興ニハ小三ノ落話、其他少女俳優粂三一座ノ演劇ハ、風変リ目新ラシクシテ喝采ヲ博シタリキ ○下略


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK290110k-0015)
第29巻 p.378 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
七月十一日 雨 涼             起床七時三十分 就蓐十二時三十分
○上略 六時亀清楼ニ抵リテ清水組ノ宴会ニ出席ス、余興数番アリ ○下略
   ○中略。
十月十九日 晴 冷             起床七時三十分 就蓐十二時
○上略 午後四時半浜町常盤屋ニ抵リ、清水氏ノ招宴ニ出席ス、同族皆会合ス、種々ノ余興アリ○下略


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK290110k-0016)
第29巻 p.378 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四〇年   (八十島親義氏所蔵)
十月十九日 晴
○上略 夕清水方ヨリ招カレテ常盤家ニ至ル、阪谷氏叙爵ニ付、渋沢家一門(同族四夫婦)・佐々木勇之助・尾高・八十島等ヲ招待セシモノニシテ、丁寧極マル待遇ナリキ、キユーノアヤツリ人形、李彩ノ手品、円喬ノ人情話、最後ニ若主人ノ義太夫モアリ ○下略
 - 第29巻 p.379 -ページ画像 


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK290110k-0017)
第29巻 p.379 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十二日 曇 寒
○上略 午後五時日本橋倶楽部ニ抵リ、清水組ノ招宴ニ出席ス、種々ノ余興アリ、食卓上一場ノ演説ヲ為シ、夜十一時散会、王子ニ帰宿ス
   ○中略。
四月五日 雨 寒
○上略 十一時半兼子・愛子ト共ニ歌舞伎座ニ抵リ、演劇ヲ観ル清水組ヨリ阪谷男爵洋行送別ノ為メ催ス処ナリ、午後一時ヨリ開演、仙台萩《(先代)》・醍醐花見及鈴ケ森等ノ演題ニテ、市川団蔵・中村芝翫・尾上梅幸・市川高麗蔵・市村羽左衛門等ノ技芸観ルヘキモノアリキ、此日ハ穂積・阪谷・篤二・佐々木・尾高等ノ諸氏来会シ、頗ル盛宴ナリ ○下略


(八十島親徳) 日録 明治四一年(DK290110k-0018)
第29巻 p.379 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四一年   (八十島親義氏所蔵)
四月五日 雨 日曜
今日余等夫婦ハ清水方ニ招カレ歌舞伎座ヲ見物ス、右ハ阪谷男送別ノ為ニシテ、渋沢家同族・大《(マヽ)》ナル令嬢共、佐々木・尾高氏等ヲ陪客トス猿屋楼上ニテ昼飯ノ饗応アリ、観劇ハ椅子場全部及正面桟敷ニシテ、舞台ニハ遠キモ、全面ノ景色目ニ入リ、且椅子場ニ広々ト見物シ、幕間ニハ休憩室ニテ茶菓ヲ饗サルヽ等、珍ラシク愉快ナル見物ヲ為セリ
○下略


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK290110k-0019)
第29巻 p.379 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
七月九日 晴 冷
○上略 六時亀清楼ニ抵リ清水組ノ招宴ニ出席ス、種々ノ余興アリ、夜十一時王子ニ帰宿ス
   ○中略。
九月二十一日 晴 涼
○上略 午後五時浜町常盤屋ニ抵ル清水組ノ招宴ニ応スル為メナリ、佐々木・市原・西脇・野口・篤二及辰野博士・葛西工学士等来会ス、余興アリ、夜十時宴散シ王子ニ帰宿ス
   ○中略。
十二月三十日 半晴 寒
午前八時起床入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、清水釘吉・同一雄・原林之助氏等来リ、清水組本季営業決算ヲ報告セラル ○下略


青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第八七三―八七四頁 明治三三年二月刊(DK290110k-0020)
第29巻 p.379-380 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第八七三―八七四頁 明治三三年二月刊
 ○第五十九章 雑事
    第十九節 家政顧問
○上略
一大工清水喜助ハ、先生深川福住町ノ邸ヲ建築セル者ナリ、其養子満之助家業ヲ継キ頗ル名アリ、広ク土木建築請負ノ業ヲ営ム、満之助欧米ヲ遊歴視察シ、土木建築ノ改良ヲ計ラント欲シ、之ヲ先生ニ計ル、先生曰ク、汝洋行スルモ恐クハ益少ナカラン、若カス、子弟ノ
 - 第29巻 p.380 -ページ画像 
才アルモノヲ選ヒ之ヲ教育シ、又ハ壮年学士ノ志アルモノヲ選ヒ、資ヲ給シテ遊学セシメンニハト、満之助先生ノ諫ニ従ハスシテ洋行ス、得ル所果シテ少ナシ、帰朝後頗ル之ヲ悔ユ、一日先生ヲ訪ヒ甚タ憂色アリ、先生励マシテ曰ク、汝何ソ小胆ナル、若シ一歩ヲ誤レハ愚夫愚婦ノ縊死スルモノト何ソ選ハン、男子一度ヒ志ヲ立ツ、宜シク奮励スル所ナカルヘカラスト、既ニシテ満之助病テ篤シ、家事一切先生ノ指揮ヲ受クヘキ旨ヲ細ニ遺書シテ死ス、時ニ明治二十年四月二十二日ナリ、家人来テ遺書ヲ出シ後事ヲ依頼ス、先生深ク満之助ノ志ヲ憐ム、遺子尚幼ナリ、先生家政ノ顧問ニ備ハル、爾来清水方ノ家名毫モ衰ヘス、業務益々盛大ヲ致シ、今日海内一ノ土木建築請負師ト称スルニ至ルモノ、先生顧問ノ労与ツテ多シト云フヘシ
○下略


清水建設百五十年 同史編纂委員会編 第四六―四七頁 昭和二八年一一月刊(DK290110k-0021)
第29巻 p.380 ページ画像

清水建設百五十年 同史編纂委員会編  第四六―四七頁 昭和二八年一一月刊
 ○第二篇 明治時代 二代清水喜助
    渋沢邸の新築―鹿獅子彫刻の不評
 三井組の三野村利左衛門を通じて渋沢栄一翁に識られることが出来た二代喜助は、築地ホテル館・第一国立銀行・為換バンク三井組を建てた技倆を高く買われて、明治十年(一八七七)十月、深川福住町の渋沢邸の建築に当つた。
 野に下つた渋沢翁は、第一国立銀行の頭取として、実業界には飛びはなれた大きな存在であつた。この人に知られたということは、後の清水屋の発展に非常な影響を持つに至つた。
○中略
 渋沢翁は、二代喜助を非常に信頼されており、清水を今日の清水にしたのは、此の二代喜助の築いた礎があるからだと、常に人に話されたという。
   ○右資料ハ刊行ノ際ニ追補セルモノナリ。


清水建設百五十年 同史編纂委員会編 第六三―六四頁 昭和二八年一一月刊(DK290110k-0022)
第29巻 p.380-381 ページ画像

清水建設百五十年 同史編纂委員会編  第六三―六四頁 昭和二八年一一月刊
 ○第二篇 明治時代 三代清水満之助
    工学士坂本復経の入店―三代満之助の洋行
○上略
 さて坂本復経が入店すると、三代満之助は坂本を従えて海外視察に行くことを決心して渋沢翁を訪ねて相談した。
 渋沢翁は満之助の洋行に反対で、今の家業上店主の留守は不可であり、また行くのならばもつと若い技術家の方が適当と思われるし、清水店が現在大金を使うのは無駄であることを説いた。一度帰宅した満之助は、やはり諦め切れず、重ねて翁を訪ねて懇願した。翁も遂に同意を与えたのである。
○中略
 帰朝したところが、事業は思うようには運んでいなかつた。早速渋沢翁に視察の模様を報告し、やはり翁の忠言通り日本に止つていた方が有利であつたことを悔いた。翁は余りに満之助が意気銷沈している
 - 第29巻 p.381 -ページ画像 
のを見て哀れに思い「そんな意気地の無いことでどうする。お前達夫婦は、こんなことでは死ぬより外はないではないか」と云つて激励したという。
 満之助は、四月八日に帰朝して、僅か半月の四月二十二日に忽然として逝つた。 ○下略
   ○右資料ハ刊行ノ際ニ追補セルモノナリ。


清水建設百五十年 同史編纂委員会編 第六五―七一頁 昭和二八年一一月刊(DK290110k-0023)
第29巻 p.381-382 ページ画像

清水建設百五十年 同史編纂委員会編  第六五―七一頁 昭和二八年一一月刊
 ○第二篇 明治時代 四代清水満之助
    三代満之助の遺言と渋沢相談役―小野釘吉
 三代満之助死去により、未亡人となつた清水ムメは、数え年十三になる長女タケを頭に、漸く十才になつた許りの長男喜三郎(四代満之助)と幼い娘二人をかかえ、一時は途方に暮れていたのである。
 ムメは、実父二代喜助の性格を受けついで、思慮もあり、判断力もある落ちついた人で、男勝りの女丈夫で、歳は満之助より一つ下の三十五才の分別盛りであつた。
 三代満之助は死に際して手帳に、後事は先代から特に庇護して下さつた渋沢栄一翁に御願いして家政一切の相談に乗つて貰うようにという意味のことを、書いておいた。そこで未亡人は早速渋沢翁を訪ねて夫の遺志を伝え、表面に立つ事は出来なくとも、他に頼りになるものもないので、どうか将来補導監督をして下さるようにと懇願したのである。渋沢翁は、それまでは単に一通りの交際をしていたというに過ぎなかつたが、亡夫の遺志により是非共助力を願いたいとの頼みであつたから、深く感ずる処があつて家業の相談にのることになつた。
○中略
    渋沢栄一翁と原林之助
○中略
 未亡人は渋沢翁に、原はまだ未熟ではあるが、みどころがあるのでやらせて見たいと思うから、是非会つてみてくれと頼んだ。渋沢翁はそれまでに林之助と両三度は会つているが、改めて面会して人物を鑑定してやろうということになつた。林之助と面接した渋沢翁は、その時のことを次のように述べている。
―歳は若いが仕事に熱心で、且つ熟練している。建築の学問を修めたという程の事もないが、我流を押し通すという風でもなく、道理正しく学理をも応用して行く人と見受けられた。所謂、孺子教ゆべしと思つたから、私が原氏に云うには「君は終生を此事業に捧げてやり通すつもりか。今日の清水の事業は満足な主人があつて指導するのではないから、事業成績がよろしくないと其責任は君一身に帰するし、若し又好成績を得ると、いつまでも使用人でいるのがつまらぬ、馬鹿らしいというような考えにならぬとも限らぬ、君は年が若く才気もある。時とすると考えが変りはせぬか。その辺を確めぬと、内外共に引受けて注意を与えるという訳には行かぬ。若し君が他日主人側の者と不和を生じて不平の結果別れるようだと、私が今日引受けて世話しても、却つて害があつて利がないから、御断りする方が宜しいと思う」とい
 - 第29巻 p.382 -ページ画像 
うと、原氏は確乎として「屹度やりぬきます。御迷惑をかけるようなことは致しません」と明言した。そこで、更に満之助の未亡人にも会つて「こういうことはよく双方に誤解の起るものである。充分に任して能く断ずれば専横であるとか、万事遠慮すれば物事が遅滞するとかいうようなことがあつて相互の間に隔意を生じてはいかんから、そういう場合には一切私に相談すること」と定めて、従来からの清水店の古参の人にも立会わせて、それらの約束をきめて、私が相談相手となつた。但し、これは私の衷心から清水の家を立派な建築家にしたいと思う好意の世話であつて、損益関係をもつとか、謝礼を受けるとかいうようなことは一切御免を蒙るという約束をして、それからいよいよ取りかかつたのである。―
    渋沢翁の方針―原支配人に与へた教訓
 渋沢翁は原を支配人に決めると、早速営業方針を定めて実行させたのである。ここにも渋沢翁の談話を記して見よう。
―私は建築に就ては何も知らないから、些細な事までは干渉しないが如何なる方針で今後経営して行くか、請負業務は土木もあれば建築もある、そのいづれを主義とするか、二つとも一緒にやることは現在の資力が許さないから、建築の方をやつたならばよかろう、同じ建築の方でも、普通の家屋又は諸機械工場が宜しいと思う、というような大方針はきめねばならない。相当の度合までは第一銀行で信用取引も出来得るが、さればとて一時に余り手をのばし過ぎてはいかん。総じて引受けたる工事を親切に為し、我家を作る以上に注意して、正直に勉強すれば段々と顧客も増え、事業は繁栄して行くものである。併し官庁の普請などには、時に其の仕方が道理に悖る場合がないとも限らない。これが所謂御用商人の謗を受ける原因である。そういうことに走るならば、一切私は口を利かない、しかし、官庁の仕事を絶対にしてはならぬというのではない。唯、道理を欠いたことをせぬよう、御用商人風に流れぬよう注意せよというのである。たとえ自分が利害関係がないとはいえ、一旦精神をこめて相談にあずかる以上は、自分は投機とか御用商人といつたようなことは誠に嫌であるから、そういう方面に進まぬように気をつけて貰いたいと、まず大体の話をして、原氏の行動についても始終注意することにした。―
○中略
    渋沢翁と清水家々法制定―組織経営
○中略
 明治二十五年(一八九二)七月、清水家は家法を制定することとなつた。清水家の人となつた釘吉は、或る日、三代未亡人の意を体し渋沢翁を訪ねて清水家の家憲を作りたいと話した。渋沢翁は家憲よりも家法を作つたらよかろうということで、渋沢翁の女婿にあたる穂積陳重博士に立案を委嘱してくれた。
 これは同族と同族会・後見相続・財産会計等から成り、九章七十二条から出来ていた。同族会は毎月一回召集し、宗家戸主が議長となり渋沢翁及び支配人が参列員として出席することとした。○下略
   ○右資料ハ刊行ノ際ニ追補セルモノナリ。